山鹿温泉鉄道・熊延鉄道・熊電廃止区間
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
客車と電車の混成が走ったり、ボンネットバスから改造した車両があったり・・・ 熊電の廃止区間は起伏に富んでたような。
終点には軟券入場券があった(既出)。 山鹿廃業時 キハ1・2を、津軽が引き取るも、酷使による老朽化で
新潟鉄工に下取りで引き取られたらしいけど、車そのものは、何も役
に立たなかったの?・・・そもそも青森から鹿児島に購入下見?って
輸送等考えても、状態良好な車でも割高なきがするのだが・・・
新潟鉄工の斡旋? そもそも新潟鉄工自体あまり財務状態の良い鉄道
会社を取引先に、していなかったような・・・弱小鉄道に頼られていた
というか?大手寡占の中 受注の為弱小鉄道でも取引先として販路を、
選べなかったのかな? >>4
>そもそも新潟鉄工自体あまり財務状態の良い鉄道
>会社を取引先に、していなかったような・・・
国鉄キハ52は新潟が全車受注していますが何か? 熊延鉄道が残っていれば交通体系もだいぶ違っていたんだろうがな。
田迎・嘉島方面なんていまやかなり発展しているし。(イオンモールクレアの目の前に廃線跡が走っていたり)
当時、よく水害が起こって浸水していたから宅地化が進んでいなかったのが痛かった。
>>3
大雑把に断面すると
黒石原(林・畑作・酪農)〜合志川(田んぼ)〜花房台地(畑作・酪農)〜菊池平野(田んぼ)てな感じ。
細かくいえば塩浸川沿いの田園地帯とかもあってアップダウンが激しい。 >>4 お宅って喧嘩越しで、嫌な感じだね。
断わっておくが、俺は別に新潟鉄工の事を小馬鹿にしたりしている気はないんだよ。
山鹿のキハ1・2の購入代金支払いにあたり長期ローンに応じたり、
津軽鉄道がディーゼル機関車(DD351)を導入する際、企業業績や支払い方法で
他3社が断わったところ応じたり、
茨城交通や津軽鉄道が、昭和30年代以降新造の際には、20年以上発注ブランクが
あるにも関わらず、必ず同社より車両を購入したり そういう信頼関係とか
は、同社の恩情ある取引対応とかが、関係があるのかとか?
山鹿のキハ1・2の引き取りも 山鹿の要望で購入希望先を、斡旋したりとか?
その辺の経緯・内情がどうだったのかな?とか思い 書込んだだけだけだよ。 >>8
御代志あたりまで宅地化が進んでいたのでなんとか維持できそうというのと、
バス乗り継ぎスペースがあったこと、あとは旧西合志町役場の最寄駅だったというのもあるかな。 いずれも昭和50年頃の空撮見ると廃止後だけど線路敷たどれるね
荒尾市営なんかもハッキリたどれる
荒尾市営と山鹿温泉鉄道はサイクリングロードになったことで今でも線路敷き辿れるけどなw
山鹿温泉鉄道は後年に増設された簡素駅以外は案外駅跡もはっきりしているし。
肥後豊田のホームが現存しているなんて奇跡的。(某キャンブックスによると駅舎も残っているとか?)
熊延や市電川尻線あたりは熊本都市圏内だけあって、区画整理や河川改修、宅地化の関係で
一見では判断できない部分が増えたけどな。線路跡に家が建ったり。
それでも細道や部分部分で辿れるところもけっこうあるわな。 百貫電車
ttp://oppio.net/kumamoto/hdensya.html 熊延鉄道はもうちょっと粘っていたら何とかなったかもしれないのにな
せめて御船か甲佐まででも残していればね。
昭和39年廃止はちと早すぎた。
市電川尻線や熊延の御船あたりまでは残しておくべきだったねぇ。 市電川尻線ももったいなかったよな。
白川河川改修工事にひっかかって廃止になったようなもんだろうが。 熊延鉄道はどういう経路で免許を申請していたんでしょうねえ
地形を見るとやはり高千穂を経て日之影〜延岡かな
国鉄も宇土〜山都〜高千穂〜延岡で宇延線とやらを計画していたようだから
まったく同じような経路
どっちみち凄い山越えか長大トンネルが必要だね >>20
RMライブラリーvol.42「熊延鉄道」を参照のこと。
とりあえず馬見原までを計画目標としていて出願。
当初計画では甲佐から森林鉄道跡に沿って山地へ回り込み、その後は現在のr152〜R445に沿う形で
三段式スイッチバックを経て水越、金内を経由して矢部浜町へ。
後の修正計画では砥用からほぼ今のR218に沿うルートに変わったが
それでもスイッチバックを2度繰り返しながら浜町へ向かう山越えルートだった。
なお、熊延鉄道の前身・御船鉄道とは別に「肥後鉄道」という会社も同様に松橋から
砥用・浜町・高千穂経由延岡までの路線を出願したが、会社設立自体に失敗して失効したが、
これはその後国鉄の計画線(宇延線ではなく延宇線ね)として再び日の目を見るが、
結局延宇線は鉄道計画が頓挫したあと、国鉄バス路線(宇土・松橋〜佐俣駅〜砥用駅)となった。
1960年代後半の時刻表にはまだ国鉄バス路線として掲載されていた。
その代替路線が現在も産交の松橋〜砥用線として残っているね。
周辺部が熊本バスエリアなのにこの路線だけ産交というのはそういう歴史があるからなのかも。 ところで、何で熊延鉄道と菊池電軌のバスは九州産交に統合されなかったの?
鹿本鉄道のバスは統合されたのに。 熊延鉄道が(ゆうえんてつどう)なんて読むのを知らなかった
難しいなあ >>22
菊池は知らないけど熊延はバス路線全線休止で統合を逃れたとか。 >>22そうだよ。九州の産交 と 北海道の北海道中央 零細私鉄を困窮に追いやった趣味的には、嫌な会社だ。
意外な事に、根室拓殖は鉄道廃止後のバスは勝ち組になった。 戦時中の交通企業体統合は、熊本県に関してはバスのみの統合を推し進め、
鉄道はそのまま各社(鹿本・菊池・熊延)を残す方向性だったようだね(RMライブラリー・山鹿温泉鉄道より)
ただ、実際にバス路線を産交に譲ったのは鹿本鉄道だけたった。
>>24
バス事業は戦時中も続けたみたいだよ。もちろん木炭バスでね。
産交に譲渡したのは貨物営業(→九州産交運輸)で、旅客だけは守り通したんだって。 ノンステリムジン、行きは阿蘇くまもと空港、帰りは空港リムジンって表示
に変わったね。 熊電の坪井線そのまま残して、本線を改軌する時標準軌にして、坪井線と直通して
いれば今問題になってるLRT化なんてあっと言う間に完成してたと思う。
市電の坪井線は水道町経由で体育館前まで運行したいたのだから。
どうせ高速運転出来るわけでは無いし、デイタイムは単車で十分。
ラッシュ時は市電5000形クラスを続行運転するか、土電みたいに連結運転すれば
良かった。
貨物優先でサブロクを選んだのだろうが、今となっては大失敗だったな。 クマ本市電8200登場時の「電気車の科学」の巻頭言にクマ本市長が登場
してたが、あの時点でも市長個人としては市内交通のモノレール化に
色気があったことが窺える。 モノレールや地下鉄は一種の憧れだったからね。
川尻線の鉄橋や軌道跡を通るたびに残ってればなぁと思う今日この頃。 >>26
ありゃ、そうでしたか、何とカン違いしたんだろ。 >>31
サッサと休止届出して買収を逃れたのは菊池電軌
電車が隈府〜藤崎宮〜上熊本、バスが隈府〜熊本駅でルートがほぼ並行していた
そこで『不要不急路線』としてバスのほうを休止
熊本県・産交側はてっきり菊電がバスを『廃止』したものと思い込んだらしい 熊電、昼間も15〜20分間隔なら使えるんだけどなぁ。 大晦日のRKK特番で熊延の映像が流れるようですよ。 >>34
見たよ
鉄道・交通ネタも多数あった。ひのくに号(一般道経由時台)運転開始とか旧熊本空港とかも。
鉄道ネタは熊延鉄道廃止・山鹿温泉鉄道廃止、市電川尻線廃止、みずほ運転開始・
鹿児島線熊本電化(ボンネット481系)、急行阿蘇廃止、博多〜熊本ノンストップ有明、
市電冷房車、JR移行、九州新幹線開通など。 熊本電鉄は藤崎宮前発終電が22時30分ごろに繰り下げになるようですな。 毛筆で「堀川」と書いた紙を運転室に貼った熊電の写真がでてきた。 >>30
川尻線の軌道跡ってほとんど宅地化&河川敷
難易度の高い廃線跡だよな >>38
はっきり判るのは川尻鉄橋〜終点くらいだね。 俺よく山鹿鉄道跡のサイクリングロードをサイクリングするけどいよいよ残った駅舎は山鹿駅跡(自動車学校跡)となり今後の処遇が気になる。あと、肥後豊田の駅跡の側にある木造の建物は肥後豊田駅でしょうか?これも気になる。
だれか教えて。
>>39
市道川尻線・南高江バス停あたりの一本東側の通り(軌道敷跡)もなんとなく廃線っぽい感じをかもし出してる。
他は宅地化されているけどこのあたりだけ道路に並行した細長い空き地になってる。
あとは有名な豊肥線のガードかな。
>>40
肥後豊田、JTBキャンブックスの私鉄廃線本では道の傍らの崩れそうな建物が
駅舎だと書いてあるが、あれどうみても駅舎っぽくないよな。 肥後豊田駅は今の国道沿いにあったと思われ。数年前までらしき建物があった。 >>42
現存しているホームの位置から察するに国道3号線沿いでは遠すぎる。
菊池へ向かう県道沿いにあったのは間違いないと思う。 42です。間違えました。廃屋(駅跡?)があったのは国道沿いではなく県道沿いでした。
新世安橋の下のんとこの堤防が市電が走っていたとこなんじゃない?
後、日吉校の前で川尻旧道にクロスするような形で出てくる道アレもじゃない?
植木町駅跡はまだ残ってるんですかね?
荒尾市電の廃線跡もはっきり残ってる区間がありますね。 >>46
残念ながら数年前に解体更地化済み
今は緑地帯になってる 結局山鹿温泉鉄道の最大の遺構は元山鹿DSの事務所が駅舎ということで。
転売され壊されるのは惜しい。なんとかならないものだろうか。
最後はサイクリングロードにある小さな橋梁、サイクリングロードの休憩地位しか残らないのだろう。 とはいえ、山鹿自動車学校は閉鎖されてだいぶ経っているけど相変わらずそのまんまなんだよな。
というか、廃止後30年以上来民駅舎や植木町駅舎がそのまま残置されていたほうが驚きだよ。
今でも山鹿駅舎と肥後豊田駅のホームはそのまんまだし、山本橋駅のホームも一部残っているようだし。
旧来からの駅跡(のちのレールバス用簡易停留所以外)には駅名票を模した
サイクリングロード中継地看板が長いこと存在したから駅跡も判明しやすかった。 しかし山鹿温泉鉄道の始発駅であるJR植木駅はずいぶんへんぴなところにあるね。国道は車が多いのに駅はローカルそのもの。
でも、この駅にC59、c60が停車していたなんてなぜかもえる。植木駅の給水塔はどのへんにあったのだろうか?なぜか気になる。 >>49
今はサイクリングロードでも、遠い将来LRTとして復活したら楽しいね。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
スレ違いですが、大牟田の三井専用線は朝のJR受渡し以外は動いてませんでした。
ヤードのゲートは閉ざされていて、ヤード内も閑散としてました。
不景気で操業縮小してるんでしょうかね? 山鹿の車両(津軽鉄道が新潟鉄工に下取りで引き取らせたキハ以外)って廃業後も
暫く残っていたみたいだけど、何時ごろまで残っていたのですか?(特にレールバス) 昭和30年頃、小6の時加瀬川の鉄橋を渡っていたら、気動車がやって来て、
あわてて河川敷に飛び降りたことを覚えている。 えらいご年配(戦中生まれ)の方が書き込んでいるなぁw >>26
鹿本鉄道は、「交通統合をするならばバスだけでなく鉄道も持っていってほしい。それが無理なら統合は受け入れられない」
という見解を出していたそうです。
熊本県側はそれでもバスのみの統合を強要し、鹿本鉄道側も反対し続けていたのだけど、
反対社員に対しては熊本県側が説得係のようなものを派遣し、執拗に説得を行い続けて、全社員を泣く泣く統合に応じさせたというような旨を本で読んだことがあります。
鹿本鉄道側の承諾が無い限り統合はできないという建前でしたが、実際はとても強引に話を進めたそうですよ。
鹿本鉄道に関しては、まだバスが鉄道の赤字もしっかりと埋めていたころには、
当時の熊本電鉄が豊田まで線路をつないで鹿本鉄道に接続するという経営統合案を鹿本鉄道側に出したそうですが、
鹿本鉄道側は拒否。
後々、鹿本鉄道の経営状態が悪くなってから、今度は鹿鉄側から電鉄に統合を打診したけど、
すでにさまざまな状況も変わっていたので、電鉄側が今度は拒否したそうです。 熊本に限らず九州全体の交通各社の問題ってバス統一に固執したことだと思う。
熊本は幸いにもバスと鉄道が半ば分離されていたから良かったが。 鹿本のかわいそうなのはバス事業を取られた上に
戦後バス路線を復活させようとすると既に産交のエリアになっていて
許可がおりなかったことだろ。
どう考えても鉄道事業だけで生き残れというほうが無理な話 上島の用水路に残ってた熊延鉄道の橋梁(橋脚と橋桁)ってまだありますか?
去年の今頃見に行ったらクレアの駐車場作るためにあの辺造成されてたんで、気になってんですが >>61
去年の時点ではまだそのまま残っていたよ。
クレア寄りの路盤は駐車場になってごっそり消えていたけど。 熊延はやめておいてよかったな
ガラ空きバス3本の現状見ると 熊延は御船・甲佐まで残した上で南熊本から市電に乗り入れる形でLRT化しておけば相当使い物になってた。
むろん改軌や電化など手を加えないといけなかったけど。 >>64
LRT化まで残せたとしたら、それこそ奇跡
一旦廃止で路盤keep出来れば… 全線廃止ではなく御船まででも残していればな。
まさか田迎や嘉島があんなに発展するとは45年前では想像もつかなかったか。 今から45年後はどうかね?
豊肥は複線電化か廃止か? >>68 中間は無いのですか?現状維持に一票。
でも45年も経てば日本の人口も1億割ってるでしょうね…
新八代以北の鹿児島本線はJRで存続なのですよね?
人間の営みなのに数年先のことすら読めない… >>71
古い字体の「菊池行」「藤崎宮前行」行先票が非常に懐かしかったね 熊本市内から出ていた百貫電車のこと知っている方いますか?義母が百貫町付近を車で走行中、「此処まで電車が来とった」と
言っていましたが、ネットで調べても情報が少ないです。どうも市電タイプの電車のようですが遺構などあれば教えて下さい。また車体色も教えて下さい。模型化したいです。 >>77
百貫線(電車区間)は、田崎踏切(旧道)〜百貫バス停付近まで一緒と考えてください。
>>77
>77
『熊本電気軌道時代の百貫線』で検索したかな >>77
百貫電車の沿線地区に住んでいたオカンに聞いたところ
「昭和30年代にはレールも何もなくなっていた」と言っていました 百貫終点のあたりがいまいち判明しないんだよな。
あのあたり、どう見ても道路の付け替えや河川(港湾)改修やってそうだし。
百貫とは何の関係もないが、大津町のサイト見てたらこんなページがあった。
はっきりした場所が書いてないから、どこに立っているのか正式にはわからないのだが。
ttp://www.town.ozu.kumamoto.jp/product_kanko_siseki_chubu_muro_kebin 百貫電車のことを詳しく聞いたところ、祖父が言うには昭和20年には線路跡になっていたとのこと
直接は関係ありませんが、百貫には港から石炭運びの手押しトロッコが電車廃止後も
あったそうです
県庁ホームページ「百貫港」に電車のことが載っています
ttp://www.pref.kumamoto.jp/site/kouwan/kouwan-topics-detail-pid3-id9.html そして、百貫港から長崎まで飛行艇の定期便があったんだよなあ。 産交バス瀬高〜南関9月30日で廃止。
ソースはみやま市報 瀬高〜南関の区間は21条か80条になって運行したりして? 考えたら元東肥鉄道〜九州肥筑鉄道の廃止代替路線でもあるわけだよな。 とりあえずココは見ておこう。
ttp://tram.2-d.jp/kt/history/h2/100kan2.htm 日本初のホバークラフトを使った航路も百貫港だった。
ttp://www.weblio.jp/content/%E3%83%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88 連投すみません。
昭和43年の交通タイムズ社の時刻表に熊本〜島原・熊本〜本渡の
ホバークラフトが運休中の表記で載ってます。
熊本側は要江桟橋とあるのですが、これが百貫港のことですかね?
要江桟橋というバス停は現存のようですが。 >>93
それを言うと・・・
国鉄宮原線や荒尾市営電車も有りになるよ ほんとくレアができそれ以前からめちゃくちゃ発展したよね。
鉄道って言うのは一度なくしたら元に戻らないんだよね
是非復活して欲しいクレアまでと言わず御船まで。
バスより線路の方が周辺土地の値段も上がるしいいと思うけど。
健軍周辺のマンションの値段がなかなか中古でもいい値段するのは
そうゆうことだよ。
南熊本から下通りまでLRTは即座にできそうだ。
なぜならそんな混んでないとおもう。浜線に比べればね。
また浜線と57号線の立体化はいつするのかね?
将来北バイパスまで当然高架にしないといけないと思いますが。
まったく熊本の未来を考えているのかな政治家は能無しだ!
国からきちんとお金もってこいよ!
鹿児島福岡の政治家を見習え! それこそ浜線〜嘉島方面はBRTなんか向いてそうな感じなんだけど。
城南も熊本市に合併されることだし、嘉島・城南方面へ基幹交通を構築するのもアリかな 熊延は南熊本から水前寺まで乗り入れてた時期があったんだよね。
鹿鉄も熊本まで乗り入れてたし・・・ クマ電の上熊本線を廃止にさせないために、
福井鉄道の600あたりを買ってくるってのは?
鼬guy失礼… なくなった。
派手に計画ばかり広げて実現したためしがないな、熊本は >>107
しかし進んでる事業もある!
新水前寺駅+電停 火の山かぁ・・・
三角線ってキハユニ繋いでたよね。 平島温泉駅のホームも一部分だけどしっかり残ってるね。 熊延鉄道や山鹿温泉鉄道が復活することはないでしょうか?
そのままの鉄道としてだけではなく、モノレールとか近代的なものも
構想に入れたとして。
やっぱりありえないですよね。
熊延鉄道に
実際に乗ったことや見たことがある方はいらっしゃいますか? 市内に飛行機工場かなんかの専用線があったよな
あれどこ? >>118
熊延はライトレールとかBRTにすればよさげなんだけどな
辛島町〜南熊本〜ゆめタウンはません(中央病院)〜クレアとか。
>>121
水前寺駅北側〜帯山〜京塚〜自衛隊通り(東町)
地図見れば豊肥線からカーブを描いて分岐して、そこから東町まで一直線だから一目瞭然 >>121
タクシーに乗って引き込み線と言えばわかってくれるよ。 従業員乗せた通勤列車があったって、隣のおっちゃんが言ってた >>126
西鉄は法律上の問題で
県を跨いで電車を走ることが出来ないんだよ! このまえ、博多のキャバクラでつい
熊本から国鉄で来た
って言ったらドン引きされた >128
後学のため、どういう法律か教えてくれ。
知ってるからそう書いてるんだろ? 菊池行きの電車って熊本市内から運賃いくらくらいですか? 1979年10月の時刻表によると
上熊本〜菊池 360円
北熊本〜菊池 310円
昭和60年頃(廃止直前)で藤崎宮前〜菊池490円
今のバスは同じ区間で700円だから
ここ25年大して物価が上がってないことを踏まえるとけっこう値上がりしているよな。 >>135-137
ありがとうございます。
知っている方がいて故郷が懐かしく思いました。
線路も撤去しないでそのまま残っているのかな
菊農のS字の県道を下りて菊池市内までの直線には、まだ残っていた気がします 往復1000円で菊池温泉行けるのか…、今思えばもったいない… 熊延鉄道の廃線跡を見てきました。
佐俣の橋脚や六角トンネルなど歴史を感じさせる遺構が結構残ってますね。 新鉄道廃線跡を歩くシリーズ、前よりもかなり詳しくなってるな。
熊延だと浅井・佐俣の駅舎や釈迦院のホームが現存しているとか。 熊延鉄道釈迦院駅の駅名票が発見されたとかで
今、駅跡の家の庭先に取り付けられているんだな
ttp://www2.odn.ne.jp/~ccp10350/you-en/you-en/20100327-3.html 昭和のバス名車両という本人鹿鉄レールバスの記事あり。 以前ピクの九州特集で鹿鉄の廃線跡紹介で、当時のレールが植木〜植木町間
に残ってるという記事があったけど、もう残ってないですよね?
残ってるようなら探索に行ってみたいのですが >>150 それ何時のピクの話? 今もあるなら凄いな。
根室拓殖は深い雑草の中に今もレールが残っているらしいが・・・。 1992年頃のピクトリアルじゃね?
確か植木のトンネルの片方の口も開いたままの写真が載ってたような。
ちなみに今このあたりはバイパス工事で橋脚立ちまくるわトラック行きかうわの状態。
トンネルの口なんてとっくに埋められてるし。 書店で立ち読み(すまん)した本で、熊本電鉄の菊池まで走ってた時代の写真があったんだが、
俺の見たことがない車両があって驚いた。
でかい丸目が二つ付いた車両って俺の記憶に無い。 調べたところ、500系という車両みたい。元静岡鉄道。
劣化が早かったらしくて10年くらい前に完全引退。
記憶に薄かったわけだ。 >155
静鉄の100形ね、熊電初のノーシルノーヘッダー張り上げ屋根の近代的外観の車でしたね
彼らが入線したためにラッシュ時の名物だったぶら下がり客車のハフ50形が引退したっけ
熊電にもずいぶん近代的な車が入ったものだと思ったっけ。
もっとも、足回りはつりかけモーター、イコライザー台車といたって古いものでしたが 顔はなんか「しまらない」ユルさがあるよね>熊電500系
今の主力になってる6000系は無機質すぎて微妙。 >>158
元鶴見臨港の車体載せ換えだもん。
完全新製の350は福井に行ったじゃない。カルダンだし。 >>160
福井鉄道に行ったカルダン駆動のヤツは、300形
日立電鉄に行った鶴見臨港の機器流用車は350形
ttp://www.netinsz.ne.jp/~si0003/stkpr2/frame.html 矢部線、小国線の延伸分岐計画で、隈府ヲヘテ熊本までってやつがあったと思うけど、実現したとしたら、菊池から平行線になったのかな? 昔の可部線みたいに電鉄部分を買収国有化して
菊池から先を非電化線として延伸していたのでは? >>163
戦前ならね。
戦後だったら、江若鉄道と湖西線のように必要な部分だけ敷地を買収だったろう。 >>164
可部線も可部以北は戦後の延伸だけど。
湖西線みたいな高規格幹線ならともかく
明らかにローカル線な菊池〜肥後小国の延伸でそこまでやったかね? >>165
でも、広浜鉄道の買収は戦前。
戦後は戦前のような施設まるごと一括買取はしていない。
>ローカル線な菊池〜肥後小国の延伸でそこまでやったかね
戦後の国鉄新線。
とりわけ鉄道建設公団発足以降の路線を見れば、それは一目瞭然かと。
宮福線など、並行する北丹鉄道なんてまるっきり利用しなかった。
宮崎交通はかなりの部分を再利用されたが、それでも線形の悪い南側は放棄した。
まぁまぁ。
おまいら年配なんだから、そんな熱くなるなよ。 国鉄建設が実現してたら、菊池から上熊本まで高架橋がぽつんぽつんと立ちながら、再建法で凍結され、肥後の万里の長城と呼ばれていただろう。 それにしても熊鉄にステンレス製の20m4扉車が入ると聞いた時は
驚いたものだが、何事もなく走ってる。馴れとは恐ろしいものだわ。 >>174 東京の地下を走っていた姿よりインドネシアを走る仲間の姿に近い気がするのは俺だけ? 熊本って鉄道先進国だったって思う。
こんな田舎で先人達はいろんな計画を立てたもんだよ。
九州内では福北のぞけば1番だろ。 鶴屋の鉄道展行った?
昔の写真とかたくさんあったよ。 >>168
しかしバブル期に第三セクターで運営会社が作られ、今でもそこそこの内容で経営できていたりするかもしれない >>179
代わりに菊地電車が廃止って言う可能性の方が 豊肥=豊後肥後
肥薩=肥後薩摩
熊煙じゃなく
肥日=肥後日向
でいいじゃんな
こえひ線 熊本と延岡結ぶから熊延じゃねえか。
一番わかりやすい。
熊の字を「ゆう」と読めない学の無さをひけらかすなよ。 年がばれるけど、小学生時代、図書室に黄ばんだ地理の参考書が
数社分あって、それがすべて熊本の地図や説明に熊延(くまのぶ)鉄道
と振り仮名が振ってあったのを思い出しました。マジでど、 熊本電鉄と言えば変わった貨車でしょうな。
ヤ・ム・ナでボギー車と言う変わりっぷりでした。 >>187
昔、国鉄バス(JRバス)に日肥線というのがあってな。
>>188
熊本に住んでるから熊飽(ゆうほう)地区とかラーメンの北熊(ほくゆう)とか読めるけど
馴染みがないところに住んでるとなかなか熊を「ゆう」とは読めないんじゃないかな? >>192
稚内、札幌、勘察加などのような発音に無理矢理会わせた当て字じゃ無くって、
漢字の本来の日本語読みなんだからそれはあまり理由にならない。 ID:avnk9fH6=ID:dSOK1XNKは、日本人なら「熊」を「ゆう」と
読めるのが当たり前だと思っている事が判った。
と、言うよりもな、「くま」としか読めないでいいじゃん。って発想が嫌いなだけ。 口挟むけどさ。誰もそんな発想してねえだろ^^;
「熊延鉄道」は「ゆうえん」って読むんだよ。へぇ〜?「熊」って「くま」以外にも「ゆう」って言うんだ〜
「隈府」は「わいふ」って読むんだよ。へぇ〜?「隈」って「くま」以外にも「わい」って言うんだ〜
この程度だろ。誰も「熊はクマとしか読めないだろjk」とは言ってない。
せっかく熊本の廃線鉄道に興味を持ってくれたのに、読み方程度で追い払うな。みっともない。
県外民だが、藤崎宮前を「ふじさきみやまえ」だと思っていた、
熊電初乗車から31年経つ。 >>197
福岡県民なら良くあること
香椎宮前(かしいみやまえ)
箱崎宮前(はこざきみやまえ)
山鹿に行ったが・・・
見事綺麗さっぱり山鹿駅跡地が整地されて駅舎も記念碑も完全消滅していたorz
またひとつ山鹿温泉鉄道の名残が消えた。 >201
本当ですか?大ショックです。まあ、跡地の売れ先が見つかった
と思えば救われますが、そうではないのかな? >>204
激しく同意。
撤去するなら最初から造るなよ、とまでは言わないが… 記念碑、平成7年頃?にリニューアルしたのになあ・・・
SLもおきなおして路線図も書き直したのに・・・
だったら潰すなよ 記念碑はどこかに部材が保存されていればいいんだけど。
>>203
売地の看板は出たままだったよ。 >207
あら〜そうですか・・・・・残念ですねえ
しかし教習所の事務室には鹿鉄時代の総会の議事録とか貴重な
書類があったはずですがどうしたでしょう。
博物館が引き取っていればいいのですが・・・・ 7月くらいか 最後に見たかったな
ttp://blogs.yahoo.co.jp/yamagaarea/28980349.html
東肥鉄道ですか、熊本県方面への延伸も画策していた
ということなので、良いのではないですか?
何かネタ振りおながいします。 熊本県方面も何も熊本県内の南関まで伸びていたわけで。
未開通のまま終わった南関〜三加和にあった海間坂トンネルが
数年前に埋められてから多少興味が薄れたかな。 結局菊池(隈府)民が鉄道を受入なかったから、菊池は過疎ったってことでおk? 301号が里帰りするということで熊電を訪れたが、
すでにその姿は無かった。
菊池の駅員氏に聞いても、「さぁ?」という感じだったが、
運転士氏が知っていて「あぁ、小田原急行ね。
この前国鉄の貨物で送られたよ」ということだった。
その頃、小田急の足柄駅には、クリーム色と茶色の小さな電車が
到着して、話題になっていた。
車体側面の広告を見て、菊池温泉というのが神奈川県あたりに湧いたのか?
といいだす向きも出る始末w 10年前に山鹿博物館であった鹿鉄資料展で買った鹿鉄50年史と図録を持ってる。
先日、まだ在庫があるか尋ねたら博物館の人もコピーしか持ってないらしい。
ずっと大事にするよ。 >215 その301、小田急ではモハ1に復元したらマジで車籍とって
イベント時に本線復活運転を行い、目玉として末永く活用するつもりだったとか、
ところが、車検のたびの検査項目がやたら多く、いくら採算度外視としても
とても割の合うものでないと泣く泣く動態保存をあきらめて単なる機械(車庫の備品)扱いにしたそうな
許認可の運輸省(当時)がそんなお目こぼしするわけもない。
まあ、安全面考えたら当然でしょうが。同時期、大井川のSSEも動態保存をあきらめて家山の側線で朽ち果てさせました。
一部スレチお許しを >>217
通電すれば動ける状態に復元、と聞いたような気もしますが
動かしはしなかったのでしょうかね。
作り直したパーツも多かったことと思いますが、
まだ時代がよかったんでしょうね、今から始めたらまず無理だ。
新百合ヶ丘かどっかの駅で展示したのを見に行きましたが、
フィルム無くした…手動の側面ドアのノブが真鍮製なのと、
運転台のパンタ上昇用のむき出しの電磁弁、ポンプ?の記憶があります。
こちらこそスレチ失礼… >>218
お披露目は、多摩ニュータウン駅だったと思う。
復元車の大きなパンタは、上田交通から譲り受けたと聞いた。
301号は、熊電で最初の蛍光灯つき電車だったんだね。 サイクリングロードを走りながら鹿鉄の過去を振り返るUSTやってたね。
時代背景的に仕方なかったとはいえ、国鉄植木起点というのがネックだったよな。
菊池電車みたいに最初は軌道扱いとして熊本市〜植木中心部〜山鹿という形で建設して、
のちに電化・鉄道線化しとけば今でも一部分だけでも残っていたかもしれない。
実際、後に長浦駅〜熊本市内まで電化軌道線を作ろうとしていたようだし。 山鹿駅跡は宅地造成されて分譲住宅地+αになるみたいだな。
自動車学校敷地全体がシートに覆われて、分譲地売り出しの看板がいくつか出ていたよ。 川尻線も宇土か松橋くらいまで伸びてたらインターアーバンとして
市電に買収されることなく今まで生き残っていたかもな。 百貫線が改軌され、市内線と接続していたらどうなっていただろう? 植木町駅跡の敷地が宅地分譲されてた。
何となくそろそろ肥後豊田とかも取り壊し・整地されそうじゃないか? TKUぴゅあピュアで百貫港があって、昔ここに電車が走っていた
と少しだけ紹介されました 要江桟橋からは日本初のホバークラフトも就航してました。 大雨で高江〜泗水にあった旧鉄道橋脚再利用の歩行者橋が流されてしまったみたいだな。 鹿本鉄道関連の資料少ないね。
植木図書館行ったけど、市販されてるものしか無かった。 >>239
>鹿本鉄道関連の資料少ないね。
地元じゃないとみられない本
「鹿本鉄道−山鹿に汽車が走っていた− 西村亮一先生講演録 (新山鹿双書 )」
鹿鉄50年史
植木の民話と伝説 第2集 熊延鉄道と比べてもどうも印象が薄いのは否めないわな。
後進バス会社がないというのもあるだろうが。
山鹿駅跡地の住宅地、売れ行きはいいみたいで看板に売却済みマークが結構ついてる。 テレ朝系『ナニコレ珍百景』で、熊延鉄道の八角形落石よけと
橋梁跡がありましたね >>248
出ていましたね。観ていてこのスレ思い出しました。あんな高い橋脚が廃止後50年近くを経て残っているとは! 見た見た。
全然ローカルっぽくなく随分コストのかかった造りだと思った。
それにしても、あのトンネルもどきは何でしょうか? 熊電のかつての終電ちかくでは、なんか電車がやっとこさ坂を登ってたような記憶が >>226
植木から熊本市内まで電車が走っていたら・・・ってなんか萌えるな。 熊延が残っててJR乗り入れしていたら・・・・
光の森(ゆめタウン)⇔南熊本⇔鯰(イオンモール)っと行ったりしてね。 >>256
確かに高速(厳密には自動車専用道)で熊延線が実現にこぎつけようとするが・・・・
馬見原前後が難関と思う! 微妙だけども熊本の鉄道で・・・・・
三池の「西原駅」跡のホームがまだ現存されていた。
いずれはWikiページを作ろうかなっと。 江若でもそんなに活躍してたわけでもないらしい
総括制御できないのが致命的に使い辛かったとか 総括運転が必要なくらいに乗客があったんですかねえ? 「熊延」
地元の人と鉄オタ以外はなかなか読めないだろうな 熊本バスに乗って熊延鉄道の写真展に行って来た
健軍の引き込み線が複線でびっくり 通りすがりだが
皆さん熊延鉄道や山鹿温泉軌道でよくこれだけ語れますね!
ちょっとリスペクトw 菊池や山鹿は古くからの温泉街だが、熊延鉄道の砥用などの沿線、目立った観光地があるのか?
熊電沿線に比べれば人口集中度低いようだし、観光客需要も少ないから、60年代半ばで廃止されるのも仕方なかったような。
まあ、旅客数が多ければ電化してたのだろうし 平成28年 千人灯籠踊り市外参加者募集
山鹿灯籠まつりのハイライト「千人灯籠踊り」参加者を募集します。
山鹿市外にお住まいの方が対象です。
当市の郷土芸能である山鹿灯籠踊りを体験して、素敵な夏の思い出にしませんか。
募集期間 2016年6月1日〜2016年7月1日
※定員が200名になり次第締め切らせていただきます。
http://www.yamaga-kankoh.hinokuni-net.jp/events/detail/362 >>269
当時の田迎・嘉島周辺は低湿地帯みたいなもので、しょっちゅう水害にもあっていたから
宅地化や商業地化が健軍方面や清水方面と比べても大きく出遅れていたのが痛かったな。
今でこそ浜線バイパス沿いとか嘉島とか大発展してるけどその頃は南熊本をでて御船までめぼしい集落もなかったし。
ちなみに山鹿は温泉街としての歴史は古いが、菊池は戦後にできた比較的新しい温泉場だよ。 熊延は水前寺まで乗り入れしてた。
引き込み線も熊延に委託されていた。
鹿鉄も熊本まで乗り入れしていた。 もし、あの時の水害かれ再起できてもコレだけゲリラ豪雨や台風、地震等 天災多発じゃとてもじゃないが生き残りは無理。 熊延鉄道沿線は確かに発展めざましいが、時期が遅すぎた感はあるよ、多分どのみち存続はしてなかった
熊電は元々沿線に人口持ってるけど、春竹から郊外って地形もだだっ広いうえに田圃だらけ 熊延沿線は地盤が悪いところばかりだからなー
今後家建てる人も減るでしょ 山鹿の事を書いたつもりなのだが・・・
廃業後に鹿鉄自動車教習所(公認?非公認?どっち)とかやったみただけど、
とっくに廃業したところ視るとこの辺(山鹿沿線)もう過疎なの? >>276
むしろ廃止する時期が早すぎた、ともいえないでもない。
砥用とか先のほうは切っても、御船くらいまででも粘っておけばね。
川尻線なんかも廃止するのが早すぎた。
>>278
田舎とはいえ、過疎というほど過疎ってはないけど、起点の植木がとてつもない田舎なのと、
植木〜肥後豊田あたり谷間の人口希薄地帯ばかり通り抜けていて沿線の需要を拾えてなかったのがね。
やはり植木・北部の中心部を通ってなかったことには。 鹿鉄が廃止に追い込まれたのは水害と産交。
沿線に温泉地があるとは言え肝心な植木町内が人口希薄地帯だったのは痛いね。
国鉄乗り入れも行っていたというのに。
>>278
鹿鉄バスは遅くまで貸切バスを細々とやってた。先代セレガが最後だったかな。
川尻線は豊肥線のガードがネックで大型車が入れなかったのが。
残っていたとしても今回の地震で液状化の影響を受けていたでしょうね。
いつ来るかわからないバスよりははるかに信頼性はあったでしょう。 市電の子飼線があった時に電鉄と乗り入れしたら良かったのに
今更どうにもならない >>282 軌間が云う事利かん。
マア メトロ01入れたときパンタ集電にした上で改軌とかなんとか出来なくもなさそうだったが・・・ 市電4号線は元々は熊電だったのを市が買収。その名残で3線軌条が残っていた。
http://drfc-ob.com/wp/archives/72178
よく見ると左側(4号線)の片側が3線軌条。 川尻まで市電が走ってたが、残ってたら鹿児島の谷山みたいな感じになってただろうなぁと 今回の地震での被害は大きかったでしょうね(液状化地盤沈下) 川尻線はほぼ専用軌道だったんで定時制も保たれたしちゃんと整備さえすれば使えた代物だったのにね。
白川の河川改修に思いっきり引っかかったのが痛かった。
川尻も歴史的な建造物とかあったりして隠れた観光地なんだけど、市電が残っていたらもっと注目されていただろうな。 >>289
地元の図書館に配置されている「山鹿に汽車か走ってた」
を読むと開業以来ずっと自然災害との闘いに明け暮れていたそうだ
都市部に線路を敷いてボロ儲けするのも経営学的にありだが
地元貢献に徹して災害に痛め付けられながらも存続を模索し続けた人々に感銘を受けた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています