山鹿温泉鉄道・熊延鉄道・熊電廃止区間
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>>204
激しく同意。
撤去するなら最初から造るなよ、とまでは言わないが… 記念碑、平成7年頃?にリニューアルしたのになあ・・・
SLもおきなおして路線図も書き直したのに・・・
だったら潰すなよ 記念碑はどこかに部材が保存されていればいいんだけど。
>>203
売地の看板は出たままだったよ。 >207
あら〜そうですか・・・・・残念ですねえ
しかし教習所の事務室には鹿鉄時代の総会の議事録とか貴重な
書類があったはずですがどうしたでしょう。
博物館が引き取っていればいいのですが・・・・ 7月くらいか 最後に見たかったな
ttp://blogs.yahoo.co.jp/yamagaarea/28980349.html
東肥鉄道ですか、熊本県方面への延伸も画策していた
ということなので、良いのではないですか?
何かネタ振りおながいします。 熊本県方面も何も熊本県内の南関まで伸びていたわけで。
未開通のまま終わった南関〜三加和にあった海間坂トンネルが
数年前に埋められてから多少興味が薄れたかな。 結局菊池(隈府)民が鉄道を受入なかったから、菊池は過疎ったってことでおk? 301号が里帰りするということで熊電を訪れたが、
すでにその姿は無かった。
菊池の駅員氏に聞いても、「さぁ?」という感じだったが、
運転士氏が知っていて「あぁ、小田原急行ね。
この前国鉄の貨物で送られたよ」ということだった。
その頃、小田急の足柄駅には、クリーム色と茶色の小さな電車が
到着して、話題になっていた。
車体側面の広告を見て、菊池温泉というのが神奈川県あたりに湧いたのか?
といいだす向きも出る始末w 10年前に山鹿博物館であった鹿鉄資料展で買った鹿鉄50年史と図録を持ってる。
先日、まだ在庫があるか尋ねたら博物館の人もコピーしか持ってないらしい。
ずっと大事にするよ。 >215 その301、小田急ではモハ1に復元したらマジで車籍とって
イベント時に本線復活運転を行い、目玉として末永く活用するつもりだったとか、
ところが、車検のたびの検査項目がやたら多く、いくら採算度外視としても
とても割の合うものでないと泣く泣く動態保存をあきらめて単なる機械(車庫の備品)扱いにしたそうな
許認可の運輸省(当時)がそんなお目こぼしするわけもない。
まあ、安全面考えたら当然でしょうが。同時期、大井川のSSEも動態保存をあきらめて家山の側線で朽ち果てさせました。
一部スレチお許しを >>217
通電すれば動ける状態に復元、と聞いたような気もしますが
動かしはしなかったのでしょうかね。
作り直したパーツも多かったことと思いますが、
まだ時代がよかったんでしょうね、今から始めたらまず無理だ。
新百合ヶ丘かどっかの駅で展示したのを見に行きましたが、
フィルム無くした…手動の側面ドアのノブが真鍮製なのと、
運転台のパンタ上昇用のむき出しの電磁弁、ポンプ?の記憶があります。
こちらこそスレチ失礼… >>218
お披露目は、多摩ニュータウン駅だったと思う。
復元車の大きなパンタは、上田交通から譲り受けたと聞いた。
301号は、熊電で最初の蛍光灯つき電車だったんだね。 サイクリングロードを走りながら鹿鉄の過去を振り返るUSTやってたね。
時代背景的に仕方なかったとはいえ、国鉄植木起点というのがネックだったよな。
菊池電車みたいに最初は軌道扱いとして熊本市〜植木中心部〜山鹿という形で建設して、
のちに電化・鉄道線化しとけば今でも一部分だけでも残っていたかもしれない。
実際、後に長浦駅〜熊本市内まで電化軌道線を作ろうとしていたようだし。 山鹿駅跡は宅地造成されて分譲住宅地+αになるみたいだな。
自動車学校敷地全体がシートに覆われて、分譲地売り出しの看板がいくつか出ていたよ。 川尻線も宇土か松橋くらいまで伸びてたらインターアーバンとして
市電に買収されることなく今まで生き残っていたかもな。 百貫線が改軌され、市内線と接続していたらどうなっていただろう? 植木町駅跡の敷地が宅地分譲されてた。
何となくそろそろ肥後豊田とかも取り壊し・整地されそうじゃないか? TKUぴゅあピュアで百貫港があって、昔ここに電車が走っていた
と少しだけ紹介されました 要江桟橋からは日本初のホバークラフトも就航してました。 大雨で高江〜泗水にあった旧鉄道橋脚再利用の歩行者橋が流されてしまったみたいだな。 鹿本鉄道関連の資料少ないね。
植木図書館行ったけど、市販されてるものしか無かった。 >>239
>鹿本鉄道関連の資料少ないね。
地元じゃないとみられない本
「鹿本鉄道−山鹿に汽車が走っていた− 西村亮一先生講演録 (新山鹿双書 )」
鹿鉄50年史
植木の民話と伝説 第2集 熊延鉄道と比べてもどうも印象が薄いのは否めないわな。
後進バス会社がないというのもあるだろうが。
山鹿駅跡地の住宅地、売れ行きはいいみたいで看板に売却済みマークが結構ついてる。 テレ朝系『ナニコレ珍百景』で、熊延鉄道の八角形落石よけと
橋梁跡がありましたね >>248
出ていましたね。観ていてこのスレ思い出しました。あんな高い橋脚が廃止後50年近くを経て残っているとは! 見た見た。
全然ローカルっぽくなく随分コストのかかった造りだと思った。
それにしても、あのトンネルもどきは何でしょうか? 熊電のかつての終電ちかくでは、なんか電車がやっとこさ坂を登ってたような記憶が >>226
植木から熊本市内まで電車が走っていたら・・・ってなんか萌えるな。 熊延が残っててJR乗り入れしていたら・・・・
光の森(ゆめタウン)⇔南熊本⇔鯰(イオンモール)っと行ったりしてね。 >>256
確かに高速(厳密には自動車専用道)で熊延線が実現にこぎつけようとするが・・・・
馬見原前後が難関と思う! 微妙だけども熊本の鉄道で・・・・・
三池の「西原駅」跡のホームがまだ現存されていた。
いずれはWikiページを作ろうかなっと。 江若でもそんなに活躍してたわけでもないらしい
総括制御できないのが致命的に使い辛かったとか 総括運転が必要なくらいに乗客があったんですかねえ? 「熊延」
地元の人と鉄オタ以外はなかなか読めないだろうな 熊本バスに乗って熊延鉄道の写真展に行って来た
健軍の引き込み線が複線でびっくり 通りすがりだが
皆さん熊延鉄道や山鹿温泉軌道でよくこれだけ語れますね!
ちょっとリスペクトw 菊池や山鹿は古くからの温泉街だが、熊延鉄道の砥用などの沿線、目立った観光地があるのか?
熊電沿線に比べれば人口集中度低いようだし、観光客需要も少ないから、60年代半ばで廃止されるのも仕方なかったような。
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当時の田迎・嘉島周辺は低湿地帯みたいなもので、しょっちゅう水害にもあっていたから
宅地化や商業地化が健軍方面や清水方面と比べても大きく出遅れていたのが痛かったな。
今でこそ浜線バイパス沿いとか嘉島とか大発展してるけどその頃は南熊本をでて御船までめぼしい集落もなかったし。
ちなみに山鹿は温泉街としての歴史は古いが、菊池は戦後にできた比較的新しい温泉場だよ。 熊延は水前寺まで乗り入れしてた。
引き込み線も熊延に委託されていた。
鹿鉄も熊本まで乗り入れしていた。 もし、あの時の水害かれ再起できてもコレだけゲリラ豪雨や台風、地震等 天災多発じゃとてもじゃないが生き残りは無理。 熊延鉄道沿線は確かに発展めざましいが、時期が遅すぎた感はあるよ、多分どのみち存続はしてなかった
熊電は元々沿線に人口持ってるけど、春竹から郊外って地形もだだっ広いうえに田圃だらけ 熊延沿線は地盤が悪いところばかりだからなー
今後家建てる人も減るでしょ 山鹿の事を書いたつもりなのだが・・・
廃業後に鹿鉄自動車教習所(公認?非公認?どっち)とかやったみただけど、
とっくに廃業したところ視るとこの辺(山鹿沿線)もう過疎なの? >>276
むしろ廃止する時期が早すぎた、ともいえないでもない。
砥用とか先のほうは切っても、御船くらいまででも粘っておけばね。
川尻線なんかも廃止するのが早すぎた。
>>278
田舎とはいえ、過疎というほど過疎ってはないけど、起点の植木がとてつもない田舎なのと、
植木〜肥後豊田あたり谷間の人口希薄地帯ばかり通り抜けていて沿線の需要を拾えてなかったのがね。
やはり植木・北部の中心部を通ってなかったことには。 鹿鉄が廃止に追い込まれたのは水害と産交。
沿線に温泉地があるとは言え肝心な植木町内が人口希薄地帯だったのは痛いね。
国鉄乗り入れも行っていたというのに。
>>278
鹿鉄バスは遅くまで貸切バスを細々とやってた。先代セレガが最後だったかな。
川尻線は豊肥線のガードがネックで大型車が入れなかったのが。
残っていたとしても今回の地震で液状化の影響を受けていたでしょうね。
いつ来るかわからないバスよりははるかに信頼性はあったでしょう。 市電の子飼線があった時に電鉄と乗り入れしたら良かったのに
今更どうにもならない >>282 軌間が云う事利かん。
マア メトロ01入れたときパンタ集電にした上で改軌とかなんとか出来なくもなさそうだったが・・・ 市電4号線は元々は熊電だったのを市が買収。その名残で3線軌条が残っていた。
http://drfc-ob.com/wp/archives/72178
よく見ると左側(4号線)の片側が3線軌条。 川尻まで市電が走ってたが、残ってたら鹿児島の谷山みたいな感じになってただろうなぁと 今回の地震での被害は大きかったでしょうね(液状化地盤沈下) 川尻線はほぼ専用軌道だったんで定時制も保たれたしちゃんと整備さえすれば使えた代物だったのにね。
白川の河川改修に思いっきり引っかかったのが痛かった。
川尻も歴史的な建造物とかあったりして隠れた観光地なんだけど、市電が残っていたらもっと注目されていただろうな。 >>289
地元の図書館に配置されている「山鹿に汽車か走ってた」
を読むと開業以来ずっと自然災害との闘いに明け暮れていたそうだ
都市部に線路を敷いてボロ儲けするのも経営学的にありだが
地元貢献に徹して災害に痛め付けられながらも存続を模索し続けた人々に感銘を受けた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています