山鹿温泉鉄道・熊延鉄道・熊電廃止区間
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
それにしても熊鉄にステンレス製の20m4扉車が入ると聞いた時は
驚いたものだが、何事もなく走ってる。馴れとは恐ろしいものだわ。 >>174 東京の地下を走っていた姿よりインドネシアを走る仲間の姿に近い気がするのは俺だけ? 熊本って鉄道先進国だったって思う。
こんな田舎で先人達はいろんな計画を立てたもんだよ。
九州内では福北のぞけば1番だろ。 鶴屋の鉄道展行った?
昔の写真とかたくさんあったよ。 >>168
しかしバブル期に第三セクターで運営会社が作られ、今でもそこそこの内容で経営できていたりするかもしれない >>179
代わりに菊地電車が廃止って言う可能性の方が 豊肥=豊後肥後
肥薩=肥後薩摩
熊煙じゃなく
肥日=肥後日向
でいいじゃんな
こえひ線 熊本と延岡結ぶから熊延じゃねえか。
一番わかりやすい。
熊の字を「ゆう」と読めない学の無さをひけらかすなよ。 年がばれるけど、小学生時代、図書室に黄ばんだ地理の参考書が
数社分あって、それがすべて熊本の地図や説明に熊延(くまのぶ)鉄道
と振り仮名が振ってあったのを思い出しました。マジでど、 熊本電鉄と言えば変わった貨車でしょうな。
ヤ・ム・ナでボギー車と言う変わりっぷりでした。 >>187
昔、国鉄バス(JRバス)に日肥線というのがあってな。
>>188
熊本に住んでるから熊飽(ゆうほう)地区とかラーメンの北熊(ほくゆう)とか読めるけど
馴染みがないところに住んでるとなかなか熊を「ゆう」とは読めないんじゃないかな? >>192
稚内、札幌、勘察加などのような発音に無理矢理会わせた当て字じゃ無くって、
漢字の本来の日本語読みなんだからそれはあまり理由にならない。 ID:avnk9fH6=ID:dSOK1XNKは、日本人なら「熊」を「ゆう」と
読めるのが当たり前だと思っている事が判った。
と、言うよりもな、「くま」としか読めないでいいじゃん。って発想が嫌いなだけ。 口挟むけどさ。誰もそんな発想してねえだろ^^;
「熊延鉄道」は「ゆうえん」って読むんだよ。へぇ〜?「熊」って「くま」以外にも「ゆう」って言うんだ〜
「隈府」は「わいふ」って読むんだよ。へぇ〜?「隈」って「くま」以外にも「わい」って言うんだ〜
この程度だろ。誰も「熊はクマとしか読めないだろjk」とは言ってない。
せっかく熊本の廃線鉄道に興味を持ってくれたのに、読み方程度で追い払うな。みっともない。
県外民だが、藤崎宮前を「ふじさきみやまえ」だと思っていた、
熊電初乗車から31年経つ。 >>197
福岡県民なら良くあること
香椎宮前(かしいみやまえ)
箱崎宮前(はこざきみやまえ)
山鹿に行ったが・・・
見事綺麗さっぱり山鹿駅跡地が整地されて駅舎も記念碑も完全消滅していたorz
またひとつ山鹿温泉鉄道の名残が消えた。 >201
本当ですか?大ショックです。まあ、跡地の売れ先が見つかった
と思えば救われますが、そうではないのかな? >>204
激しく同意。
撤去するなら最初から造るなよ、とまでは言わないが… 記念碑、平成7年頃?にリニューアルしたのになあ・・・
SLもおきなおして路線図も書き直したのに・・・
だったら潰すなよ 記念碑はどこかに部材が保存されていればいいんだけど。
>>203
売地の看板は出たままだったよ。 >207
あら〜そうですか・・・・・残念ですねえ
しかし教習所の事務室には鹿鉄時代の総会の議事録とか貴重な
書類があったはずですがどうしたでしょう。
博物館が引き取っていればいいのですが・・・・ 7月くらいか 最後に見たかったな
ttp://blogs.yahoo.co.jp/yamagaarea/28980349.html
東肥鉄道ですか、熊本県方面への延伸も画策していた
ということなので、良いのではないですか?
何かネタ振りおながいします。 熊本県方面も何も熊本県内の南関まで伸びていたわけで。
未開通のまま終わった南関〜三加和にあった海間坂トンネルが
数年前に埋められてから多少興味が薄れたかな。 結局菊池(隈府)民が鉄道を受入なかったから、菊池は過疎ったってことでおk? 301号が里帰りするということで熊電を訪れたが、
すでにその姿は無かった。
菊池の駅員氏に聞いても、「さぁ?」という感じだったが、
運転士氏が知っていて「あぁ、小田原急行ね。
この前国鉄の貨物で送られたよ」ということだった。
その頃、小田急の足柄駅には、クリーム色と茶色の小さな電車が
到着して、話題になっていた。
車体側面の広告を見て、菊池温泉というのが神奈川県あたりに湧いたのか?
といいだす向きも出る始末w 10年前に山鹿博物館であった鹿鉄資料展で買った鹿鉄50年史と図録を持ってる。
先日、まだ在庫があるか尋ねたら博物館の人もコピーしか持ってないらしい。
ずっと大事にするよ。 >215 その301、小田急ではモハ1に復元したらマジで車籍とって
イベント時に本線復活運転を行い、目玉として末永く活用するつもりだったとか、
ところが、車検のたびの検査項目がやたら多く、いくら採算度外視としても
とても割の合うものでないと泣く泣く動態保存をあきらめて単なる機械(車庫の備品)扱いにしたそうな
許認可の運輸省(当時)がそんなお目こぼしするわけもない。
まあ、安全面考えたら当然でしょうが。同時期、大井川のSSEも動態保存をあきらめて家山の側線で朽ち果てさせました。
一部スレチお許しを >>217
通電すれば動ける状態に復元、と聞いたような気もしますが
動かしはしなかったのでしょうかね。
作り直したパーツも多かったことと思いますが、
まだ時代がよかったんでしょうね、今から始めたらまず無理だ。
新百合ヶ丘かどっかの駅で展示したのを見に行きましたが、
フィルム無くした…手動の側面ドアのノブが真鍮製なのと、
運転台のパンタ上昇用のむき出しの電磁弁、ポンプ?の記憶があります。
こちらこそスレチ失礼… >>218
お披露目は、多摩ニュータウン駅だったと思う。
復元車の大きなパンタは、上田交通から譲り受けたと聞いた。
301号は、熊電で最初の蛍光灯つき電車だったんだね。 サイクリングロードを走りながら鹿鉄の過去を振り返るUSTやってたね。
時代背景的に仕方なかったとはいえ、国鉄植木起点というのがネックだったよな。
菊池電車みたいに最初は軌道扱いとして熊本市〜植木中心部〜山鹿という形で建設して、
のちに電化・鉄道線化しとけば今でも一部分だけでも残っていたかもしれない。
実際、後に長浦駅〜熊本市内まで電化軌道線を作ろうとしていたようだし。 山鹿駅跡は宅地造成されて分譲住宅地+αになるみたいだな。
自動車学校敷地全体がシートに覆われて、分譲地売り出しの看板がいくつか出ていたよ。 川尻線も宇土か松橋くらいまで伸びてたらインターアーバンとして
市電に買収されることなく今まで生き残っていたかもな。 百貫線が改軌され、市内線と接続していたらどうなっていただろう? 植木町駅跡の敷地が宅地分譲されてた。
何となくそろそろ肥後豊田とかも取り壊し・整地されそうじゃないか? TKUぴゅあピュアで百貫港があって、昔ここに電車が走っていた
と少しだけ紹介されました 要江桟橋からは日本初のホバークラフトも就航してました。 大雨で高江〜泗水にあった旧鉄道橋脚再利用の歩行者橋が流されてしまったみたいだな。 鹿本鉄道関連の資料少ないね。
植木図書館行ったけど、市販されてるものしか無かった。 >>239
>鹿本鉄道関連の資料少ないね。
地元じゃないとみられない本
「鹿本鉄道−山鹿に汽車が走っていた− 西村亮一先生講演録 (新山鹿双書 )」
鹿鉄50年史
植木の民話と伝説 第2集 熊延鉄道と比べてもどうも印象が薄いのは否めないわな。
後進バス会社がないというのもあるだろうが。
山鹿駅跡地の住宅地、売れ行きはいいみたいで看板に売却済みマークが結構ついてる。 テレ朝系『ナニコレ珍百景』で、熊延鉄道の八角形落石よけと
橋梁跡がありましたね >>248
出ていましたね。観ていてこのスレ思い出しました。あんな高い橋脚が廃止後50年近くを経て残っているとは! 見た見た。
全然ローカルっぽくなく随分コストのかかった造りだと思った。
それにしても、あのトンネルもどきは何でしょうか? 熊電のかつての終電ちかくでは、なんか電車がやっとこさ坂を登ってたような記憶が >>226
植木から熊本市内まで電車が走っていたら・・・ってなんか萌えるな。 熊延が残っててJR乗り入れしていたら・・・・
光の森(ゆめタウン)⇔南熊本⇔鯰(イオンモール)っと行ったりしてね。 >>256
確かに高速(厳密には自動車専用道)で熊延線が実現にこぎつけようとするが・・・・
馬見原前後が難関と思う! 微妙だけども熊本の鉄道で・・・・・
三池の「西原駅」跡のホームがまだ現存されていた。
いずれはWikiページを作ろうかなっと。 江若でもそんなに活躍してたわけでもないらしい
総括制御できないのが致命的に使い辛かったとか 総括運転が必要なくらいに乗客があったんですかねえ? 「熊延」
地元の人と鉄オタ以外はなかなか読めないだろうな 熊本バスに乗って熊延鉄道の写真展に行って来た
健軍の引き込み線が複線でびっくり 通りすがりだが
皆さん熊延鉄道や山鹿温泉軌道でよくこれだけ語れますね!
ちょっとリスペクトw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています