山鹿温泉鉄道・熊延鉄道・熊電廃止区間
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客車と電車の混成が走ったり、ボンネットバスから改造した車両があったり・・・ 熊電の廃止区間は起伏に富んでたような。
終点には軟券入場券があった(既出)。 山鹿廃業時 キハ1・2を、津軽が引き取るも、酷使による老朽化で
新潟鉄工に下取りで引き取られたらしいけど、車そのものは、何も役
に立たなかったの?・・・そもそも青森から鹿児島に購入下見?って
輸送等考えても、状態良好な車でも割高なきがするのだが・・・
新潟鉄工の斡旋? そもそも新潟鉄工自体あまり財務状態の良い鉄道
会社を取引先に、していなかったような・・・弱小鉄道に頼られていた
というか?大手寡占の中 受注の為弱小鉄道でも取引先として販路を、
選べなかったのかな? >>4
>そもそも新潟鉄工自体あまり財務状態の良い鉄道
>会社を取引先に、していなかったような・・・
国鉄キハ52は新潟が全車受注していますが何か? 熊延鉄道が残っていれば交通体系もだいぶ違っていたんだろうがな。
田迎・嘉島方面なんていまやかなり発展しているし。(イオンモールクレアの目の前に廃線跡が走っていたり)
当時、よく水害が起こって浸水していたから宅地化が進んでいなかったのが痛かった。
>>3
大雑把に断面すると
黒石原(林・畑作・酪農)〜合志川(田んぼ)〜花房台地(畑作・酪農)〜菊池平野(田んぼ)てな感じ。
細かくいえば塩浸川沿いの田園地帯とかもあってアップダウンが激しい。 >>4 お宅って喧嘩越しで、嫌な感じだね。
断わっておくが、俺は別に新潟鉄工の事を小馬鹿にしたりしている気はないんだよ。
山鹿のキハ1・2の購入代金支払いにあたり長期ローンに応じたり、
津軽鉄道がディーゼル機関車(DD351)を導入する際、企業業績や支払い方法で
他3社が断わったところ応じたり、
茨城交通や津軽鉄道が、昭和30年代以降新造の際には、20年以上発注ブランクが
あるにも関わらず、必ず同社より車両を購入したり そういう信頼関係とか
は、同社の恩情ある取引対応とかが、関係があるのかとか?
山鹿のキハ1・2の引き取りも 山鹿の要望で購入希望先を、斡旋したりとか?
その辺の経緯・内情がどうだったのかな?とか思い 書込んだだけだけだよ。 >>8
御代志あたりまで宅地化が進んでいたのでなんとか維持できそうというのと、
バス乗り継ぎスペースがあったこと、あとは旧西合志町役場の最寄駅だったというのもあるかな。 いずれも昭和50年頃の空撮見ると廃止後だけど線路敷たどれるね
荒尾市営なんかもハッキリたどれる
荒尾市営と山鹿温泉鉄道はサイクリングロードになったことで今でも線路敷き辿れるけどなw
山鹿温泉鉄道は後年に増設された簡素駅以外は案外駅跡もはっきりしているし。
肥後豊田のホームが現存しているなんて奇跡的。(某キャンブックスによると駅舎も残っているとか?)
熊延や市電川尻線あたりは熊本都市圏内だけあって、区画整理や河川改修、宅地化の関係で
一見では判断できない部分が増えたけどな。線路跡に家が建ったり。
それでも細道や部分部分で辿れるところもけっこうあるわな。 百貫電車
ttp://oppio.net/kumamoto/hdensya.html 熊延鉄道はもうちょっと粘っていたら何とかなったかもしれないのにな
せめて御船か甲佐まででも残していればね。
昭和39年廃止はちと早すぎた。
市電川尻線や熊延の御船あたりまでは残しておくべきだったねぇ。 市電川尻線ももったいなかったよな。
白川河川改修工事にひっかかって廃止になったようなもんだろうが。 熊延鉄道はどういう経路で免許を申請していたんでしょうねえ
地形を見るとやはり高千穂を経て日之影〜延岡かな
国鉄も宇土〜山都〜高千穂〜延岡で宇延線とやらを計画していたようだから
まったく同じような経路
どっちみち凄い山越えか長大トンネルが必要だね >>20
RMライブラリーvol.42「熊延鉄道」を参照のこと。
とりあえず馬見原までを計画目標としていて出願。
当初計画では甲佐から森林鉄道跡に沿って山地へ回り込み、その後は現在のr152〜R445に沿う形で
三段式スイッチバックを経て水越、金内を経由して矢部浜町へ。
後の修正計画では砥用からほぼ今のR218に沿うルートに変わったが
それでもスイッチバックを2度繰り返しながら浜町へ向かう山越えルートだった。
なお、熊延鉄道の前身・御船鉄道とは別に「肥後鉄道」という会社も同様に松橋から
砥用・浜町・高千穂経由延岡までの路線を出願したが、会社設立自体に失敗して失効したが、
これはその後国鉄の計画線(宇延線ではなく延宇線ね)として再び日の目を見るが、
結局延宇線は鉄道計画が頓挫したあと、国鉄バス路線(宇土・松橋〜佐俣駅〜砥用駅)となった。
1960年代後半の時刻表にはまだ国鉄バス路線として掲載されていた。
その代替路線が現在も産交の松橋〜砥用線として残っているね。
周辺部が熊本バスエリアなのにこの路線だけ産交というのはそういう歴史があるからなのかも。 ところで、何で熊延鉄道と菊池電軌のバスは九州産交に統合されなかったの?
鹿本鉄道のバスは統合されたのに。 熊延鉄道が(ゆうえんてつどう)なんて読むのを知らなかった
難しいなあ >>22
菊池は知らないけど熊延はバス路線全線休止で統合を逃れたとか。 >>22そうだよ。九州の産交 と 北海道の北海道中央 零細私鉄を困窮に追いやった趣味的には、嫌な会社だ。
意外な事に、根室拓殖は鉄道廃止後のバスは勝ち組になった。 戦時中の交通企業体統合は、熊本県に関してはバスのみの統合を推し進め、
鉄道はそのまま各社(鹿本・菊池・熊延)を残す方向性だったようだね(RMライブラリー・山鹿温泉鉄道より)
ただ、実際にバス路線を産交に譲ったのは鹿本鉄道だけたった。
>>24
バス事業は戦時中も続けたみたいだよ。もちろん木炭バスでね。
産交に譲渡したのは貨物営業(→九州産交運輸)で、旅客だけは守り通したんだって。 ノンステリムジン、行きは阿蘇くまもと空港、帰りは空港リムジンって表示
に変わったね。 熊電の坪井線そのまま残して、本線を改軌する時標準軌にして、坪井線と直通して
いれば今問題になってるLRT化なんてあっと言う間に完成してたと思う。
市電の坪井線は水道町経由で体育館前まで運行したいたのだから。
どうせ高速運転出来るわけでは無いし、デイタイムは単車で十分。
ラッシュ時は市電5000形クラスを続行運転するか、土電みたいに連結運転すれば
良かった。
貨物優先でサブロクを選んだのだろうが、今となっては大失敗だったな。 クマ本市電8200登場時の「電気車の科学」の巻頭言にクマ本市長が登場
してたが、あの時点でも市長個人としては市内交通のモノレール化に
色気があったことが窺える。 モノレールや地下鉄は一種の憧れだったからね。
川尻線の鉄橋や軌道跡を通るたびに残ってればなぁと思う今日この頃。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています