【市電トロバス】大阪市営交通黄金時代【地下鉄】
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万国博を機会に市電・トロリーバスを廃止し地下鉄網を完成させて躍進した大阪市交通局。あの時代の大阪文化や世相も交えて語り合おうでは有りませんか。 >252
燃料事情考えても昭和30年代の延伸は無意味。 >>254
昭和30年代でも全国的にトロリーバスは増加傾向(都市交通としてのトロリーバス車輛が最後に作られたのは昭和40年)にあったし、
最後に開業した10kmは世界的にトロバスの利点とされた路面電車の代替。
電気設備もそのまま使えたから特にムダではない。
さらに言えばトロリーバスの旅客のピークは昭和38年で、昭和35年からの僅か3年で倍増以上の18万人が利用していた。
市電はこの時期路線も旅客数も右肩下がり。
当時の市電の営業キロと車輛数と比べても、トロバスは一車輛辺りの輸送力が市電より小さいことを考えると妥当な水準。
道路の急激な混雑やディーゼルバスの進化と低コスト化を読めなかったのは仕方ない。
道路事情の悪化で大阪市が地下鉄の路線計画を練り直したのは同じ昭和38年なんだから。
地下鉄四つ橋線の大国町以北の建設計画すらこの時点で出来た。
歴史という結果を見て批判するのは誰でも出来る。
>>253
気持ちは判るけど、
交通局としては線路のメンテナンスや老朽車輛の整備コストを勘案して導入したんだから、
当時の常識としてはそれなりに合理性があり仕方ない。 市電とトロバスのコスト比較(昭和32年)
市電森之宮東之町〜緑橋1.2km
工費1億円(変電所車輛費なし)
トロバス
2号線・3号線 7.8km
工費1億3千万(変電所車輛費別)
車輛1億2千万 17両
変電所6700万 2箇所
これを市電で建設したら工費だけでも単純計算で6億5千万
車輛費変電所費は市電も同じだけかかるとして、
トロバス開業区間は今の今里筋の人口希薄地域だから、
その後のメンテナンス費用を勘案しても市電よりトロバスの方が遥かに経済的。
>>257
だから歴史の結果を見て物を言うなっつーの。
トロリーバスはあくまでも市電網の一環なんだから、そのコスト比較は市電と比べることに意味があるんだよ。
大阪市のトロリーバス計画の発祥は昭和25年。
まだ燃料事情も悪く、石油系燃料に頼らない交通機関が大前提で、上記のように市電より敷設コストが大幅に安いという利点もあった。
当初計画では市電運賃と同じにする(これは市電と同じ軌道だから当然の発想)予定が、バス会社の横槍で特許取得も遅れたし運賃設定もゆがめられた。
普通にバスでよいだろなんて言い草は歴史を知らない無責任な暴論だな。 >>258
歴史の後付け厨房相手に熱くならないの
横○浩彦みたいに思いついたことつぶやいてるだけで
まともに考えて論じようなんて気持ちはさらさらないから 地下鉄が初期計画通り郊外路線作って急行運転していたらどうなったんだろう? 私の母(64歳)の話によると、
神崎橋行きの市営トロリーバスは、神崎橋を渡って尼崎市側まで行って折り返していた…
と言ってましたが、この話は本当でしょうか? 大阪ってかなりきっちりと市域全域に市バス走らせているけど市電はそういう計画ってあったのかね?
天王寺以南なんかトロリーバスすらないのが気になる。 >>264
旧市域は市電
新市域はバスが基本方針
市域全域にバスが走っているのは大阪バスの名残
新市域の市電計画はほとんど実現出来なかった
トロリーバスはその代替手段という面もある
天王寺以南のトロリーバスは難波〜大浜で計画はあったが実現しなかった。
むしろ守口市や堺市まで路線があったね。
堺市は新阪堺の買収だったけど トロバスは今里筋で片町線と交差してたけど、電圧が異なる架線をどう接続してたんだろうか?
東京みたいに補助エンジンを使って乗り越えてたんだろうか? >>267
普通のデッドセクションじゃね?惰性で乗り越えるという… >>267
吉川文夫著 トロリーバスに詳述されている。
最近の本で絶版になってないからまず調べよう。 市電延長がうまくいけば長居公園通り走る市電とか十三〜歌島橋の市電とか見られたのか。 >>270
>長居公園通
昭和30年ごろまでそこから南は大阪市じゃなかったから市電の敷設はあり得ない。
>>271
>大阪市じゃなかったから市電の敷設はあり得ない
新阪堺はともかく守口行きの電車があったんだけど? >272
市バス守口車庫も含めて、市域越えて守口まで足を伸ばした理由ってなんだろね? >>272
懐かしの話をするなら少しは交通局の出した書物を読めよ。
守口に市電が伸びたのは沿線地主が土地の寄付を条件に市電の延長を要望したから。
大阪市の自主的な計画じゃない。
>>274
守口は南河内だから戦前に併合予定併合は無い。
戦前に市域拡張した地域は総て旧摂津。
旧河内の郡部が市域に併合されたのは戦後で火葬場と墓地を作るため。 謎なのは戦後中之島の東西路線を復活させなかったこと。 >>276
要するに需要が希薄で他路線や他交通で代替できるということ。
そんな場所に地下線を掘った京阪ってw 90年代の話だけど。
新20系が四つ橋線に走り始めた時に更新された西梅田駅の2番線の発車ブザーがガキの頃、凄まじくこわかった。
大きな音だからこわいんじゃなくて、まるで幽霊屋敷のBGMのようなか細い、不気味な響きだった。
当時は西梅田から乗る時には1番線が先発であれば安堵していたが、2番線が先発なら((((;゜Д゜)))
不評だったのかそのブザーは程なく改良され、それから間も無く今と同じ発車メロディになったように覚えているが・・・
あのブザー、またどこかで聴けないかな。 >>280
遠い帰らぬ昔の四つ橋線の放送の記憶をまとめてみた↓
物心ついた80年代半ば頃の西梅田駅は1、2番線とも女声アナウンスで、4点チャイムが入らない。
発車ブザーは発メロ導入直前まで千日前線なんば駅で使用されていたものと同じ、古いオルガンのような音色。
御堂筋線に接近メロが使われるようになって「自分の使う四つ橋線もそろそろオッシャレーな放送に更新されるだろう」
とワクワクしていた矢先、案の定声の主が変わったのに接近メロは入らず、その代わり西梅田駅2番線の恐怖の
発車ブザーに怯えるようになる。
西梅田2番線のブザーは間も無く、発メロ導入以前の御堂筋線1番線タイプに変更された。西梅田の1番線は変わらなかった。
その後は四つ橋線をあまり利用しなくなったため細かなところは覚えていないが、気がつくと大国町駅や本町駅以外でも接近メロが鳴るようになり、
やがて全駅に発メロの使用が開始された。
飽くまでもガキの頃こわいと感じただけだから多分今聞いてもどうってこと無いだろうと思うけど、やっぱり自分の中では気になる。 再来年は地下鉄80周年だからなんかしらイベントやって欲しい
鉄コレもキボンヌ 50周年の時、まだ開局間もないテレビ大阪で
記念特番を毎週土曜の昼にやってましたね。
テーマ曲がキダタロー作曲で、週代わりのゲストが
10系を模したセットの扉から登場して司会者(名前忘れた)と
地下鉄の思い出をトークするという趣向。
部活行く前に家でよく見てました。 >>19
すごく遅いレスで申し訳ないのですが、特101って昭和54年に廃止されたのですか。
高校が清水谷だったのですが、旭区・都島区から通学の生徒がいっぱい乗ってきていました。
この高校の本来の学区ではなかったのですが、旭・都島・城東・鶴見・東の各区が
調整区域だったので、本来の学区からよりもたくさん来てました。
なつかしい路線名です。 >>284
特110のこと?
厳密に言うと、昭和53年に上本町6丁目に短縮されて、
上本町6丁目-守口車庫前の臨特110が特110に改番されたようだ
昭和54年のゾーンバス導入時に、上六行きも廃止 最晩年の600形の安全畳垣を見た記憶が微かに・・・ 御堂筋線旧型車(100〜600)の現役最末期の姿のカラー写真ってどっかで見れませんかね? いつも途中で降りたが、玉船橋とか東深江とかどんなところか
想像していたな、子供ながらに。 >>289
昔の「パァーン!」こそ保存して欲しかった
今の「もへぇ」は個人的にはどうも どうせ保存するなら原型の10系先頭車両を保存して欲しいな 森之宮にある50系の保存車1両もクリーム&オレンジに塗り替えた方がいい。
50系の塗装はやっぱりツートンの旧塗装の方がいいと思うし。
30系の保存車もラインカラーテープは剥がして、車番も登場時の番号に戻すべき。
>>291-292
期待通りになるか別にして
どちらもお楽しみに 原型に戻すとか旧カラーに戻すとかはともかく、今ある保存車は絶対潰さないでくれ。
>294
わざわざ復元した保存車を解体した前科あるから、油断ならんし。 大阪市交通局は車両保存に熱心だから高く評価できるね。
原型に復元すべきという意見も理解出来るけど、あえて引退当時のまま保存するのも良いかも。
緑木の3062(だったかな?)も、車内の中吊り広告までそのままだから、見ると懐かしいし、時代の流れを感じられる。
あと、森之宮の保存車も、毎年公開して欲しいよね。
何年か前に一度だけ一般公開しただけで、最近は“お蔵入り”だからね。
久しぶりにトロバスとか50系、60系を見てみたいな。 博物館造って有料で良いから常時公開するのが一番理想的だよな 市バスはボンネットバス残せなかったのは残念だった。 >>297
市電保存館の市電に残されている広告はかなり価値があるよね。
最近駄菓子屋ですら売っていない粉末ジュースの広告、それから市電引退記念に
高島屋か大丸かで開催された展覧会(写真展?)の広告が確か残ってた。
数年前に保存館に行った時には車内で当時の記録映画を上映していたけれど、
あれをDVD化出来ないかな・・・と思う。 市電・地下鉄問わず、保存車の方向幕が現在品の現在書体なのが萎える・・
複製するなら書体までちゃんとしてほしい・・・ >>300
昔交通科学館で谷町線の工事フィルムを学習映画として編集したのを上映していたよ。
都島開業あたりの映像だったが、それから5,6年たっているのに鮮明な画質でちょっとびっくりした。 個人的にだが、過渡期の1000B型や6000型残らなかったのは遺憾。 大阪歴史博物館
第73回 特集展示 懐かしい市電とバスのある風景
平成23年5月25日(水)〜7月4日(月) 毎週火曜日休館 >>303
京阪なら1000型を足回りだけ50系仕様にして残していただろう。 うん・・・博物館保管殿堂という主旨の残すで・・・。
旧型車の転落防止柵は、これ等クルマが現役時代他社波及どころが、旧型車現役時代に後継車に継承されることもなかったが、
ようやく日の目をみるようになった。(コレは凄い先見性だし装備車が、メンテナンス簡略等 阪和みたいに後年途中放棄しなかったのは偉い。)
やはり まだ先頭車両が連結で中間に入ることが多かった時代 デザイン面で厳つく古臭くなりがちなモノなので残念ながら新車では廃止されたのだろうか。 森之宮の50系と30系って、復元されてたんですね。
知りませんでした。
森之宮、また入場自由の一般公開して欲しいな。
今年の公開は小学生限定だし… むしろ森之宮に集約して博物館作るだろ。立地条件も最高だし。 大阪の地下鉄なんで発車する時、汽笛を鳴らすのですか 教えてください
私が初めて大阪に旅行した昭和64年1月 大阪の地下鉄千日前線を利用した
難波駅のホームで上がり電車を待っていると50系電車が到着して俺の目の前で国鉄の
ローカレル線のような大きいタイフォンを鳴らして走って行った。一瞬びっくりして耳
鳴りが数時間もした。大阪の地下鉄や近鉄名古屋線ではあの時代珍しく汽笛を鳴らして発車
していたのを初めて知った。それは多分関西と関東の文化の違いだと思いました。
電車が発車時 汽笛は都市の電車では普通は鳴らさないのが一般で、それは昭和30年代?国鉄で
発車時汽笛を鳴らして、利用客の人が鼓膜が破れたので都市の電車は汽笛を発車の時
鳴らさなくなった。あの時は鼓膜が破れたと思うくらいの音でした。
今でもあの音が残っています >>311
近鉄スレで近鉄の通過のサイン音について質問してた人?
大阪市交通局は入線・発車の際には必ずタイフォンを鳴らすことになっているんだが、
昔その音がデカすぎて利用者からクレームがあったので、今の改良型の独特な電子音に
変更された経緯があるのね。
昔ながらのデカい空笛を聞きたいなら、堺筋線のホームで待っていれば入線の際に
必ず鳴らしてくれる。 >>312
ガオガオ以外の従前の空笛は1号線には残っていないの? >>313
埼玉にある鉄博は無理としても東京(葛西駅?)にある地下鉄博物館くらいのは造って欲しい 公営だからテーマパークみたいなノリで作られるより、文化施設らしい固めの展示方法の方が良い。
せっかくの貴重な保存物をクソガキ親子つ壊されたくないし。 >>316
でもクソガキ親子を批判できないようなヲタも多いけどな
俺は学芸員の資格持ってるけど
鉄道系の博物館はどこも確りしてると思うよ クソガキもそうだが、キハ81みたいに盗り鉄の餌食になるのはもっとイヤだなw 盗り鉄は見せしめに新幹線の後ろに綱でつないで引き回しの刑に処すべき。 横浜の地下鉄は開業当初から、駅進入時には電気笛鳴らしてるよ >>319
新幹線の後ろやなくって
旧客の便所の下に顔面張り付けの刑のほうがおもろい 約40年前、古市北通3丁目から大阪駅前まで61番に乗っていましたが、
どこ発のバスか教えて下さい。幼稚園の頃の思い出です。 >>322
新森発だよ
昭和31年6月1日新設
一時期は桜橋経由になっていたようだけど、
昭和45年に梅田新道経由に変更
昭和54年7月22日廃止 >>323
ありがとうございます。意外に近くだったのですね。守口辺りかと思っていました。
オレンジ色の木でできたバス停を思い出します。
経由が変わったのは、地下鉄工事の関係とか?ですか?関係無い・・・?
あと、33番の天六経由というのもあったと思うのですが、
これはどこ発でしょうか?何かの拍子に、これに乗ることがありました。
クレクレですみません。 小出しって最悪の質問の仕方だな
最初に一度に訊けよ
教えてくれなくなるぞ >>325
いえ、いえ、そういうつもりでは。
後になって思い出したものですから。これは失礼。 >>324
>経由が変わったのは、地下鉄工事の関係とか?ですか?関係無い・・・?
このあたりの詳細は知らない。
大阪駅前のバス停整備とか、操車の関係じゃないかね?
33は伝統ある系統やね
復活は昭和27年3月1日北清水町(現在の清水2丁目あたり?)−大阪駅前
昭和30年には守口市の境界線あたりまで延長
昭和44年に内環状線開通によって、旭東中学校前経由に変更された
その後守口車庫発着に延長されたけど、守口市内を通過するので
京阪バスとの調整に時間がかかり、一時期太子橋発着だったこともあったみたい
しかし、昭和54年7月22日に幹33となって新森公園に短縮。以後は省略ね
>>325
別にいいよ。休みの日はヒマだしw >>327どうもありがとうございます。
約40年前のことが色々と判明して嬉しいです。
昭和54年7月22日が大転換なのですね。もう、その頃には引越していて全然知りません。
ところで、こういうデータは百年史などにでているのでしょうか。
参考の為にご教示ください。 >>306
転落防止幌ではなく正確には「安全畳垣」だぞ。 >>328
その後2002年1月にも大転換があった訳だが。 >>329
あれの起源って、アメリカですよね?
いまもあっちの一部の都市で見られるとか? 大阪の地下鉄の電車には戦前は、連結器が大きく首を振りすぎると
制動管の空気が抜けて、非常制動がかかる機構が備わっていたらしい。
脱線を検知して、列車を止める仕組みだったのだが、
営業列車では発動したことはなかったとか。あれもアメリカ製かと。 地下鉄博物館の東京地下鉄道1000見てきたけど安全畳垣が大阪に比べて貧相なんだよね。
こりゃ使い物にならんと撤去した気持ちも分かる気がした。 戦前の大阪の地下鉄は電気制動常用だったんだね。
左手マスコン逆回転、停止寸前に空気ブレーキ
(しかも三動弁はU弁)… まあ昭和40年代頃までは、それが当たり前だったな。 そのほうが運転しやすそうなんだけど・・・
電制が切れないと空制入れられないの? >>337
効きすぎてしまうこともあろうけど、できないわけではないから、
電制切れる前から軽くかけ始めてれば神かと。
>>336
だから、堺筋線の阪急車両が高速からいきなり空制をかけてた方が
なんか違和感があったな。 >>340
機械的に動作させるという点では似てますなぁ。 30系の、お尻にフィットのプラ椅子!
おのぼりさんの俺が初めて見た時には、滑り止めのような
ザラザラのビニールレザーのようなものが一部分に貼ってあった。 今でも、大阪へ帰って地下鉄の駅の冷たいアルミにビニールレザーの
クッションを貼ったベンチに座ると、30系や60系のプラ椅子を思い出す。 その後の20系1〜5編成の椅子もどれだけ硬かったことか。
その後改善されたけどな。 あの男が市長になったが保存車両とかは解体したりしないよな? >>346 橋下さんは、そういうヤボな事はしないだろ。
そういう経費支出も考えてこそ民営化だよ。
民営なったら 在阪大手私鉄とJR西で株式争奪か?
モンロー主義の反動で凄いことなるのだろうか?それとも各社衰退期なのでマタ村上みたいな輩が湧いてくるのか?
20系→10系って何故あんなに、量産化まで時間かかったの?(一度諦めたとか)
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
>348
その今更なネタを自慢げにここに書くお前は、もっと今更なヤツだな。 大国町の使ってない部分のホームのヒゲ文字駅名板が
外されて保管されたのが残念。
現場に現状のままにしておいてほしかった >350
じゃあ市電ネタを1つ。
今年ギコパブから出た大阪市電、買った人いる?
以前でた分とあまり変化ない感じなので、買わなかったんだけど。 >>350
非売品の本に面白い話が多かった。
3001形を偲ぶ本(タイトル失念)とか、
故吉谷和典氏のすかたん列車とか。
後者は氏が亡くなられた時に刷られた追悼版が
オッサンの原文そのままで面白く読める。
朝の電車で1万円札出された車掌が腹いせに
銀行の前で電車を止めて全部10円玉で釣りを渡したというエピソードは
何処で読んだのやら。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています