なつかしの国鉄日豊線・豊肥線・久大線
列車の種類が百花繚乱で、下り終着駅の都市の名前を使ってお茶を濁した典型例ですね。
「別府温泉からだ!」と言い張ればそれまでですが
30年代初めは別府を舞台に有力ヤクザの縄張り抗争事件があるなど、「仁義なき戦い」とも通じる暴力団抗争が盛んな時代でした。
北九州では夜桜銀次殺しなどが原因で抗争勃発。
「高千穂」に愛人と乗っていたヤクザが対立組織の手の者に車内でタマ殺られる「高千穂号事件」というのも起きましたね。 新大阪ー南宮崎を東国原のヘッドマーク付けて走ったらw >>103
オマエは路車板に篭ってろ!懐かし板にくんな! 客車の寝台急行「夕月」を覚えてる人って、いないね。
ほんの短期間だったからなあ。 別府駅の渋い声の構内放送が今でも忘れられない。
べっぷ〜べっぷ〜べっぷ〜お疲れ様でした、別府です
こんな感じで。 >>106
両親の実家の熊本で楽しい夏休み、冬休みを過ごして、
宇和島に戻る時の寂しさが倍加される構内放送だった。
逆に休みの始まりに熊本へ向かう朝、
火の山1号を待つホームで他の列車が到着したときの
「べっぷ〜、べっぷ〜、べっぷ〜、べっぷです」ほど高揚感を与えてくれる声もなかった。 やまなみハィウェイの観光バスか急行「火の山」かで悩んで
バスに決定したのはウチの家族旅行だったりする。
阿蘇には遠足も含めて何度か行ったけど
マウントカーには乗れずしまい
熊本〜別府・大分はともかく
阿蘇観光に豊肥本線は昭和40年台から絶対的に観光バスに負けていたよなあ >>108
九州横断国際観光バスって仰々しい名前だったよね。
「観光」という面ではバスの方が勝ってたな。 1972(昭和47)年の夏休み、僕は小学4年だった。
大分県臼杵市にある父の実家に過ごしていた。
鶴崎の従兄の家へ遊びに祖母と一緒に臼杵駅のプラットホームで上り普通列車を待っていた。
その列車を何とC58が牽引していた!!
DF50だと思っていただけにその感激は大きかった。
列車がトンネルに入った。
白熱灯のやさしい光線が僕らを包んだ。
僕は面白半分に窓を開けようとしたところ、
「これ、だめよ。煤煙が入ってくるよ。」と祖母は注意する。
お互い微笑みあったあの時。
あれから36年。
すでに祖母もC58もオハ35系も極楽浄土へ旅立った。
>>98
そうですか、やはりキハ55ですね。配置表のサイトを見るとにバス窓が三両ほど
大分にいたようですね。キハユニ16はちょっと覚えていません。他の10系気動車
はいなかったようですね。
>>99
キハ45は昔の写真でよく出てきますね。
>>111
ウチは母親の実家が上臼杵駅の近くでした。夏休みになると大分発正午くらいの
西鹿児島行き普通列車を毎回利用してました。
私が乗った頃はED76と35系の客車だったと思います。77〜80年くらいの頃。
一度友達と大分から宗太郎駅まで客車列車で往復してきたこともありました。
その時帰路大分駅で出迎えた親に、列車が完全停止する前にデッキからホームに
飛び降りたことを激しく叱られたのを覚えていますw
しかしC58、DF50が見れたのは羨ましい・・・。
豊肥線でC57のイベント列車に乗ったことはありますが。
・・・77年の時刻表見てますけど、現在に比べるとやはり便が少ないですねえ。
ここはなかなか盛り上がりますな。
そう言われてみれば大分運転所には10系気動車はあまりいませんでした。他にはキハ17の47番がいましたね。
南宮崎電化の直前、訓練運転でED76+DF50牽引の列車がたくさん走りました。
貨物列車はまだほとんど蒸気でしたから、それを見て急に近代的になった気がしたものです。
>>112
あの当時臼杵を通過するSLはD51の貨物も走っていました。
猛煙を吐いて通過する姿を見ました。
深夜も汽笛が聞こえていました。
1974(昭和49)年4月までD51が活躍していました。
臼杵付近のトンネルや鉄橋、踏み切りを見ると今にもD51の貨物列車が通過しそうです。
1975(昭和50)年3月宮崎でC57のさようなら列車が日豊本線最後のSLです。
>>113
ED76の客車列車も懐かしいですね。
すでに僕は中学生になりスリルを味わいたいために走行中デッキのステップに乗っていたのを覚えています。
今から見れば大変危険な行為ですが当時はさほど珍しくはなかったようです。
貨物列車の大幅削減。客車列車の全廃。
日豊本線に限らず1970年代と比べると今の列車ダイヤは本当に寂しい限りです。
「富士」も来年で見納めとなるようです。 >>114
僕もED76の試運転列車を見ました。
地元の人たちは近代的な赤い電機機関車を珍しそうに見ていました。
小学5年の時で1973(昭和48)年〜1974(昭和49)年の頃と記憶しています。
蒸気が廃止されるうわさもこの頃から聞き始めました。 小3だったと思うが、由布院に行って小倉へ帰るとき
直通の「はんだ」に乗るか「由布〜フェニックス」にするかで迷った。
結局、55系の「はんだ」はクーラーが無く暑いので
涼しい58系の「由布〜フェニックス」ルートにした。
大分で乗り換えの時にDF50の「富士」を見て興奮した。
大分で小学生をしていた頃の同級生の父親が機関士で
遊びに行くとたまに色々な話をしてくれたものです
見習い(?)機関士だったころ人を線路上にいた人を跳ねてしまった話をなさるときは
涙を目に浮かべておられました
ED76は最高の機関車だ、というようなこともおっしゃっていましたね
引っ張るものの多くは貨物列車だということでしたが
「富士」や「彗星」を引っ張るときはやはり気をつかう、腕の見せ所だということでした
この方も数年前、鬼籍に入られました DF50と20系客車は本当によく似合ってました。
上りの「富士」だと大分で機関車の交換、付属編成の増結、と大がかりなドラマがありますから、興奮ものでした。
仕事を終えてナハネフ23から切り離されたDF50が独特のエンジン音を響かせて去ってゆくと、今度はED76に推されてナロネ21を先頭にした付属編成がやってくる…。たくさんの荷物を持って旅立つ乗客でホームはいっぱいでした。
いい時代でした。 ここ
相当古い時代の大分近辺の国鉄写真があるよ
ttp://6.fan-site.net/~haasan55/JNRnippou.htm もう三十数年くらい前だけど、大分から特急日向に乗って宮崎に行ったとき、宿泊したホテルが大淀川沿いの鉄橋の近くにあって、
ホテルから蒸気機関車が汽笛を鳴らして鉄橋を渡っていったのをみました。
その数年後に宮崎に行ったときは、宮崎駅でDF50が走っていましたね。昭和49年当時「蒸気機関車」という
月刊誌があって、それに大分以南の蒸気機関車の廃止の特集があったように思います。
数年前まで大分駅の2番・3番線ホームの宮崎方面の先端に、貯水塔と石炭置場があったと記憶していますが、
もう無いんでしょうか?
>>37
それ見ましたよ
水色の綺麗なヘッドマークをつけていましたね
上り列車は機関車が後ろ向きのままで走ってきたような憶えがあります 久大線にはその昔、博多発筑後大石行きがタケ車で早朝にあったな。
到着後、数分で鳥栖に折り返すが当時はまだ新しい17系ばかりだったな。
>>77
キユニ16末期は朱色一色になり頑張ってましたね。
キユニ26もバンパー付きが懐かしい。
>>59
日豊本線と聞くと私も真っ先に思い浮かぶのは日南3号。
それ以外にも、優等列車から蒸気が引退後も臨時列車に蒸気列車がありましたね。S46年、都之城発の高千穂51号は宮崎までC57117の牽引でした。 あの朱一色ってのは、中央線なんかのとは違って、いかにも品がなくて嫌だった。 70年代後半の時刻表を見るとやはり長距離PC鈍行が各地に存在してますね
日豊線でも西鹿児島527→2120門司港とか、宮崎1310→006門司港とか。
来年廃止の富士が当時は西鹿児島発が午前中の941なのは驚きですw
他にもDC急行のしいば、EC/PCの日南、くにさきなどの長距離急行がたくさん。
当時小学生だった私ももう一度この頃にタイムスリップしてみたいです。
まあ、最近は去年20年ぶりにやり始めたNゲージで再現してますがw 国鉄時代の久大線といえば、久留米寄りは竹下区の気動車も使用していたこともあり
博多発着の列車ありましたね。
国鉄末期は快速あさぎりの天ヶ瀬への58系3連の送り込みや、上りの始発博多行きは
鳥栖まで58系の2連、鳥栖で当時新車のキハ31×2連を増結して鹿児島線の通勤列車に
なっていましたね。この列車、昔は水城通過だったような?
だが今でも、特急ながらゆふ森などの架線下DC健在ですね…
国鉄時代の久大線といえば、久留米寄りは竹下区の気動車も使用していたこともあり
博多発着の列車ありましたね。
国鉄末期は快速あさぎりの天ヶ瀬への58系3連の送り込みや、上りの始発博多行きは
鳥栖まで58系の2連、鳥栖で当時新車のキハ31×2連を増結して鹿児島線の通勤列車に
なっていましたね。この列車、昔は水城通過だったような?
だが今でも、特急ながらゆふ森などの架線下DC健在ですね…
>>128
>快速あさぎりの天ヶ瀬送り込み。
急行「あさぎり」のころは
博多→(普通)→天ヶ瀬→(急行あさぎりで往復)→由布院(?)→(急行ひこさん)→博多
だった記憶がある。
日田〜由布院間は下り急行由布に併結?>ひこさん
あれは(はんだ)だったかな。66,67系
>>129
片道だけ存在した日田彦、小倉経由「ひこさん」のからくりというか、運用だね
>>130
はんだが正解で、併結は片道だけ。
時刻表引っ張り出して確認した(1979) まだ90年代半ばまでは、西鹿児島から宮崎で列車番号変えて大分より北まで直通、なんてのもぽつぽつあったね
サロ改のクハ455がロマンスシート残していて、リクライニングは無理でもフットレストは生きてたからくつろげた そういやオイのは回転機構とフットレスト生きてたから快適だったねぇ。 フルリク装備の分オイキハ58の5000代配置直後、由布用にはキハ28の5200代があった為、久大の普通運用に
よく入っていましたね。連結相手はキハ45や53で冷房入らず…
国鉄時代はクーラー付のキハ58、普通列車の運用に入ると電源がないため冷房入りませんでしたね。
その為、扇風機回ってました。
JR化後も久大の客車列車末期にはフルリク装備のスハフ12が走りましたね。
>>134
元は夜行日南用だったヤツね。
ガキの頃に乗った夜行日南の座席はボックスのままだった・・・。 国鉄末期は無駄に編成長かったので昼間ならボックス一人占めできましたね。
それどころか、一両貸切りのときも・・・。
久大線の久留米口DC8連なんて、今では想像つかないですね。
鳥栖← キハ35・30・58・55・53・55・45・キユニ26 →大分
←門タケー→←ーーー分オイーーー→
S58年頃かな >>59 >>124
3号だったかどうか判らないが、親に連れられて帰省で乗った夜行の「日南」
生まれて初めて乗った寝台車両が懐かしひ。
朝、日向住吉を通過した際に目に入った日向「住吉」という駅名を見、
その瞬間「神戸に帰りたい(泣」と、日南市の本家に着く前からホームシックに
罹ったあの頃のポク…(遠い目)。 >>132 ロマンスシート
志布志にいたキハ26-400のやつですか?
久大本線を通しで走る貨物列車って、いつまで走っていたのかな?
蒸気時代、日田に停車中の貨物の最後尾に連結されたワムフ100が懐かしい。
>>139
昭和57〜58年頃までじゃなかったかと思うけど・・・違っていたらゴメン。
昭和62年が貨物廃止だけど
通しってところが判んないな
晩年は通しの貨物なんてないしね >>140
大のDE10牽引で鳥栖操〜日田間1往復の貨物列車は確か59.2改正で消えましたね。
同改正でCTC化、郵便荷物取扱い廃止、急行由布のグリーン車も消えました。
キハ55系列も同時に大分から居なくなった様な? こちらのサイト様に素晴らしい久大、宮原線の写真が
http://www.k4.dion.ne.jp/~kidousha/31-kyuudai/31.kyuudai.html 久大線の恵良を出ると大分方面右手車窓に、
宮原線跡の築堤がかなり長い間見えるな。ちょっと感動する。 >>143
バス窓キハ20一般色ですか
一度乗ってみたかった
タラコは高千穂線で乗ったけど 1980年に宮原線乗った。
下りの最終だったので、帰りは引治までタクシー。
引治で蛍が飛んでた。 今、麻生釣など宮原線沿線の温泉があらためて注目されているからなあ。
湯布院、黒川が韓国人に占領されていることもあるけど。
宮原線が残っていれば、博多から観光特急が走っていたかもしれない。
国鉄、大分地区の思い出。S56年前後かな、貨物列車削減と思うが、高城駅構内に大量のED76が休車状態で留置されていたのが印象に残っていた >>149
76の若番(一ケタ)は国鉄末期まで走っていましたが…
私は76より小さいED74のブルトレ牽引が好きでした。
>>149
高城駅にはED74も長いこと留置されてたね 九州オリカラのキハ58系もはるか昔の話だね。
あまり好きじゃなかったけど。 鹿児島市電があの急行気動車色を引き継いだ?時期があったような 大分の配置されている415系ってあまり話題にはならないけど、
常磐線の初期型無き現在、415系唯一のセミクロスシート車なんだよね。
大分付近よりも北九州で働いてる事が多いみたいだけど、小型テーブルも何も付いていない
オリジナルのままの近郊型のボックスシートがいい。
ED74は好きでした。
そういえば、ブルトレ(彗星?)の間合い運用時だと思うのだが
ヘッドマークは付けたままで、緑色っぽいカバーを被せて走っていた。 ヘッドマークといえば
蒸気時代、カマのデフ裏によくヘッドマーク収納してましたね。
門司や大分のDE10にはヘッドマークステーが付いてたのがあったね。
昔、あかつき牽いていた証拠か…。 >>156
DE10のそれは「タウントレイン」のでは? >>157
「タウンシャトル」ですね。
あれは大分区の台形型のステーでした。当時は気動車も付けてました。
DE10の手すりに付いているものではなく連結器上部の床から棒状にはえていたやつです。
元お召機1209号にも国鉄時代は付いてましたね。 日豊線と言うとC55・C57牽引の貨物。
国分・隼人で組成した「たばこ列車」を牽いて鹿児島を通過。
西鹿児島から指宿線に入り、指宿線と鹿児島線が別れる所にある専売公社の
乾燥場まで直通していた。
現地に行った事ある人なら解ると思うけど、鹿児島運転所に入出場する列車を
観察するベストポイントにこの専用線があって、ちょうど専用線の門が開いたので
へろへろの線路だし貨車入換機か、よくてタンク機だろうと舐めてたらいきなり
C55が這うような速度でやってきてビビったのも懐かしい。 日豊本線が全線電化される頃の話ですが
西鹿児島発、門司港行は宮崎で停車時間が90分位有ったような・・・
後に同一列車ながら列番が宮崎で変わって、ダイヤ上では
西鹿児島発、宮崎行と宮崎発、門司港行の別列車になったと思います。
>>160
一時期、一番長く停車する列車としてあったな。
今の紀勢線の紀伊長島並み 「同一」列車か「別」列車かは一応時刻表で同一列車を示す記号の有無で
判断されていたね。
今でも鹿児島中央発延岡行の6960M〜760Mは宮崎で50分近く停車するな。 >>163
別列車なのをいいことに、車掌は人件費削減のために一度降りてしまう
のですかね?末期の中央(東)線の普通夜行の下り甲府がそうだった… >>164
車掌もなにもそもそもワソマソだろw
運転士はたぶん交代だろうけど。
豊後森で1時間以上停まってた客レのレチさんはタバコ吸ったりコーヒー飲んだりする
以外は乗ってたなぁ。 なんだかんだ言いつつ久大線を全線走破しちゃってたあの50系鈍行か。乗り通したよ。
豊後森の待ち時間が激しく長くて、駅の回りをふらついた覚えがある。
駅近くのスーパーで「チャンポンの麺」(ローカルな製麺所のチープな個包装)があってちょっとカルチャーショックw >>166
スマン、俺が乗ってた時代は12系だった。
大学生の頃、実家と下宿先との行き来で久大線客レはしょっちゅう乗ってた。
駅前のスーパーしょぼすぎるよねw
何か食べ物買おうと思って行ったらラインナップの貧弱さがちょっとショックだった。
駅前通りも何にもなくて時間つぶしに苦労する駅だった。
のちに気動車化されたけど客レのスジに入ってたのはSSL色のキハ58やらキハ47やら
がごちゃごちゃに組成された編成で面白かった。 鳥栖10時くらいに出てた50系客レはよく乗ったな。乗り通した事は1回だけど。
博多から近いから特別早起きしなくても、手軽に乗れる客車列車だった。
昼間なのに4Bもあったからほぼ貸切みたいな状態がほとんどだったし
豊後森では、駅のまわりを歩いて一周しても時間が余って困ったな その列車、昔は大分方にオハニ36を連結してた。
海、山編成が全盛の頃は良くDEの回送をこの列車でやってて重連になることが
多かった。
客車4Bなのは日田近辺の高校生が試験などで半ドンになった時のこと考えてみろ。
国鉄当時はこの客車の後のDC列車はキハ20先頭のタケ車の凸凹5両編成だった。
10年ほど前大分発昼過ぎの久大線に乗った。いい車両の客レだったな。
そのあと原田から筑豊線乗ってそのときはまだ非冷房DCだった。
若松から戸畑まで船のったら,切符すらなくて10円玉を3枚ほど
箱に入れただけだった。 日豊本線というと、蒸機時代の末期、田野や青井岳に通いつめた日々があった。
門石や楠ヶ丘の信号所、今はどうなっているだろうか。あれ以来すっかりごぶ
さたしていますが。
あのころは、信号所にとまる列車ならば、車掌にいうと運転室のドアをあけて
おろしてくれた。
はじめは山之口から楠ヶ丘まで歩いた。重い写真機材を背負って、これはきつ
かった。 >>172
信号が自動化された以外は今でもあの辺りは変わってないよ。
>>172・173
そう、変わってないね〜
DF末期に行って以来、20年ぶり位で行ったら
昔と同じ風景の中に電車を見て感慨深かった。 >>172
俺も歩いたな。中学生の頃。
ただ、青井岳の鉄橋で写真撮るつもりが、
そこで知り合った大学生のお兄さんからなぜか「田野まで歩くぞ」と言われて拉致されて。
トンネルで「彗星」と遭遇して、待避所に隠れたりして、あの頃からすれば
マジで命懸けの冒険だった(そのことを後日作文に書いたら、生まれてはじめて賞状をもらった)。
楠ヶ丘と田野の間の俯瞰ポイントで「日南3号」を撮るために山に登って、
野生の猪に追いかけられそうになったりして、まあ、いい思い出なんだけど、
なんでそこまでやったかなあ、と今でも思う。
青井岳からでもそうなのに、なんと山之口から楠ヶ丘まで歩いた強者がいたとは!
>>176
172です。
駅、信号所の順序は、次の通りとなっています。
宮崎方−田野−門石−青井岳−楠ヶ丘−山之口−都城方
そして、田野と門石の間および楠ヶ丘と山之口の間にはトンネルはありません。
青井岳をはさむ両側には、それぞれかなり長いトンネルがあります。
このとき、貴兄はおそらく青井岳と門石の間をあるいたのではないかと。
ここには、貴兄がおっしゃるような下り列車をのぞむ絶好の俯瞰お立ち台
があったかと思い出されます。なお、この場所には宮崎からすぐ近くまで
行けるバスがありました。あとでわかったことだったのですが。
また、山之口からは楠ヶ丘へ行くのも、途中まで入るバスがあったのでした。
田野〜青井岳間を走る「富士」が掲載されている写真集あるよ。
その名も「特急列車」
撮影者は廣田尚敬氏
竜ヶ水〜鹿児島間を走る「はやぶさ」の写真を見てみたい。
大畑付近を走る「はやぶさ」の写真は見たことあるが、日豊線上のは見たこと無いので。
写真では矢岳越え仕様のD51重連だったが、山を降りた後の牽引機が気になって
仕方が無い。
吉松あたりの旅客機に付け変えたか、それともこんな所を「はやぶさ」が通ってる時点で
どうせダイヤはgdgdだから、と開き直ってそのままD51の本務機を使ったか。 久大線というと、天ヶ瀬温泉に汽車が見える露天風呂がありましたね。のんびり
とつかりながら、豊後森の86などがひく貨物列車などをみていると、そのあとの
撮影はまたということになったりして。
ということは、列車からも露天風呂がみえたわけ。 >>178
そうですね、門石と楠ヶ丘を取り違えていました。
青井岳から田野まで歩いたその年だったのか、あるいは別の年だったのか、
青井岳荘に泊まったら、夕方、原の東海大相模対定岡の鹿児島実の試合を
ロビーでテレビ中継していて、客は撮り鉄ばかりなのに、
なぜかみんなで興奮して観ていたことを思い出します。
今度子供連れて青井岳を再訪してみようかな…。 >>182
178です。
青井岳の国民宿舎、私も利用したこたがあります。なつかしいですね。
その時も、利用者のほとんどが撮り鉄でした。
このあとここが電化されたらこの宿舎は成り立つのだろうか。そんな
ことも考えたものでした。
>>181
いっしょにドライブしていた女友達と明け方の天ヶ瀬の露天風呂でいっしょにふざけていたら
いきなりおじいさま方の団体が入ってきてちょっと恥ずかしい思いをしたことがあります
夏とはいえ何もこんなに早く来なくても良いだろうにと思ったものです
4時半くらいだったと思いますよ
>>179
あの頃、「富士」は「日南3号」のすぐ前を走っていました。たいていの場合
DF50の「富士」は、そのあとに来るC57の「日南3号」のリハーサル列車でした。
小学校の窓から大分電車区と日豊線の線路が良く見えまして、
一時間目の授業中は「高千穂」三時間目はディーゼル特急「にちりん」
給食の時間は「富士」が通過 こんなんばっか気にしてたんで、小学校の成績はボロボロ
約35年前の光景でありました。 >>186
まさかもともとの「鹿児島本線」の八代〜鹿児島間が
現肥薩線日豊線経由だったの知らないのか?
>>188
昭和2年から肥薩線だから
はやぶさの設定時はすでに肥薩線だった訳だが…
実情は知らんが迂回運転のことじゃないのか? >>188,189
調べてみたら昭和40年(?)水害で鹿児島線が不通になり
肥薩線を迂回運転したようです。
写真は見つからなかったけど。
188はもう少し頑張りましょう。
>>187
津留小からは線路なんて見えないよね?
下郡小はその時代なかったはずだし…。どこ? >>178
門石〜青井岳の俯瞰ポジション。
10年位前に通った時、
築堤はそのままでしたが、手前の木が成長して、
おそらく築堤が見えない状態でしたね。
南国の木の成長は早いものだと思いました。 当時 津留小の3階から今はなき裏川はさんで障害物なしで
日豊線を鑑賞でけたんですよ そうなんだ。
時々、野球の試合とかで子供を津留小に送っていくけど、
当時の様子は想像もつかないな。
という俺は大道小。
銭湯に行く途中に大道の踏切手がいる踏切を通っていたけど、
富士を牽引してきたDF50が引き込み線に入るのに踏切を塞いで、
親たちはぶーぶーだったけど、俺はそこに行き当たるとめちゃくちゃうれしかった
覚えがある。 幸崎〜南宮崎の電化は49年だと記憶していますが、あの区間のポールに
くっついている架線以外の電線を支える支柱って、「への字型」で独特な感じがする。
南宮崎以南や、幸崎以北ではあの形の支柱は使われていないし長崎本線や鹿児島本線でも
見たことが無い。
ただ、全然違う場所の、羽越線の交流電化部分にも同じ支柱が使われているのが面白い。
電化された時期がほぼ同じくらいなので、あの時期にのみ採用された支柱なのかなあ?? 九州旅行の折、別府温泉から日田へ移動するのに急行「西九州」に乗りましたが
近くに座ったおばあさんからおにぎりを勧められ、いただいた憶えがあります
湯平で降りていかれました 昭和50年代半ばの大分市内中学校の修学旅行は長崎だった、12系客車6両の貸切で行きは大分駅から日豊本線で小倉経由で博多で、帰りが諌早から鳥栖そして久留米から久大本線で大分駅までの列車利用だった。 連書きすいません、牽引機関車は大分から小倉がED76(大)小倉から博多までがED73の1000番台(門)諌早から鳥栖がEF70(門)鳥栖から大分がDE10( 大)だった、旅行前の注意で、列車トイレは垂れ流しだから、停車は絶対使用禁止と厳しく言われた。 修学旅行中に駅の立ち食いそば食おうとして、先生に怒られるやつ、
必ずいたな。 >>199
高校の修学旅行で寝台特急富士利用で門司&下関の機関車交換見学&ジュースや駅弁買い出しでホームに出て下関発車後教師に叱られた思い出有りです。