国鉄四国総局
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鉄模やってるけど
型式で検索して
四国以外の全国各地で使用されのフレーズを何度見た事か・・・orz
そんなかつての気動車王国、四国を大いに語りましょう。
高知駅にも1両小型DL(入換動車)が居ました
写真もアップされていますよ >>259
>この地図から具体的にどこからご覧になりましたか?
機関庫の放射線状に線路の広がっている場所の、向かってすぐ左側となりましょうか?
とにかくポッポヤさんのいた栄田町踏切(高知駅プラットホームを出ると下りの最初の踏切)北詰からほぼ線路沿いに上りの方角に向かい、
機関庫と用水路にぶつかって
すぐ左折した場所から目撃したのです。
>昭和53年1月に見たと断定できる理由はなんでしょうか?
この自分が昭和52年暮れに「鉄道マニア初心者」となったわけですからw
そして実質のところ昭和53年をして「鉄道マニア元年」とする記念すべき年だったのですからww
まあ、中学時代の(ry ttp://blogs.c.yimg.jp/res/blog-50-92/hideki_kobayakawa/folder/1711640/80/67865080/img_2?1419531367
ttp://livedoor.blogimg.jp/nainen60/imgs/0/b/0be91005.jpg 伊野
DD13を貨物移動機と見間違えた可能性が大半
以後、昭和50年代に高知にてDD13が居たというレスをする場合、証拠写真URLを記載する事 >>261
>機関庫と用水路にぶつかって
>すぐ左折した場所から目撃したのです。
西側の機関区への入り口付近ですね。
だとすれば、完全にDE10と見間違えていますね。
小型移動DLは機関庫内には入らないと思いますので。
そもそも、高知駅の西側に小型移動DLは来ないと思います。
よほど何か事情がない限り・・・。
>昭和52年暮れに「鉄道マニア初心者」となった
やはり、記憶が完全に脳内変化してると思われます。 「昭和53年に高知でDD13を見た。」
と言う事がどれだけおかしな事かを例えると、
「昭和50年に高知でC58を見た。」
「昭和63年に高知でDF50を見た。」
と言っているようなものですよ。
四国総局の歴史を理解していれば常識的な事ですが、
総長殿が見られたと仰るのであれば、
この話はこのスレだけにしておくのが賢明でしょう。 四国は気動車の墓場と言う、特に徳島は。
高松や松山に比べて汚い車両が多い。
四国は本州から隔離された感じだった。
蒸気機関車は、8620、C58、C11、C12しかいなかった。
高知の一部に石灰石輸送貨物列車があった。
貨車は、ホキ5200である。何とも、古臭かった。
ホキ2500、8500、9500に比べて。
何にしても、四国は本州に比べて、近代化が遅れていた。 昭和36年に気動車による近代化がいち早く行われた
昭和45年にはSL全廃を完了
ただし、ここからバカによる停滞始まり、さらに瀬戸大橋関係でほぼ完全停止
結局国鉄分割民営化直前までほとんどよい車両は回されなくなった
特急は急行の停車駅と余裕時間を削っただけで実質値上げと言われたくらい
なお、ホキ5200(2代目)は土佐石灰工業の私有貨車なので、国鉄とは関係ありません 四国の近代化の停滞か?
それは言える。
国鉄分割民営化間際に、キハ32とか、安っぽい、気動車を導入した。
石灰石輸送貨物列車のホキ5200は
国鉄と関係ない、それは言える。
本州、九州のホキ2500、8500、9500が石灰石輸送貨物列車らしいからそうなった。 徳島は気動車の墓場。
汚い車両が多い。
徳島は近代化が遅れていた。
松山や高松は少しは、きれいな気動車があるが
九州に比べて汚い車両が多い。 「動力近代化」の原義が曖昧になってるように思う。
戦後すぐのこと、国鉄は蒸気機関車主力で、その石炭が大いに不足、質も悪くてパワーが出せず、
国としてのエネルギー不足対策として、熱効率の良い、ディーゼル化、電車化で解決を試みたのが「動力近代化」。
だからディーゼル化は、動力近代化の先端で、一種試験線として房総・総武が選ばれて
1954年(s.29)に千葉気動車区が開設された。
熱効率SL5%対ディーゼル20%〜電車30%では断然勝負あった!
1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で千億の非電化線のディーゼル化の一環。
後日は輸送量が一定あれば電化の方が安上がりになり、単線のママ次々電化されてディーゼルは追い出されていった。
千葉気動車区は1975年に廃止されて、現在は跡地が西千葉公園になってる。
よく鉄ヲタライターが「房総は近代化が遅れ」なんて書いてるが、国鉄の言う動力近代化の先陣を切った試験線が房総・総武というのが真相。 >>272
×>1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で千億の・・・・・・・・
○>1961年(s.36)に気動車化されたのは、千葉の試験線区の一応の成功で全国の非電化線のディーゼル化の一環。 >>272
動力近代化とは書いていないのだが
確かに動力近代化の始祖は千葉だよ
でも、需要が多すぎて、
千葉気動車区新製仮配置とか言って、
本当の配置区へ行かせる前に夏季だけ千葉気動車区に配置して旺盛な重要を賄うことも行われた
しかし、東京(両国)から電車のまま房総へ行かせたほうがいいし、
急行用気動車も昭和44年にまとめた「今後の旅客営業」で特急化のため製造終了となったため、
電化がすすめられ、1972年に完全電化された(ただし、銚子周辺はちょっと遅かった)
でも、そこまで書くなら、天然ガス動車キハ42200形も書かなければ片手落ちだろうに >>274
> でも、そこまで書くなら、天然ガス動車キハ42200形も書かなければ片手落ちだろうに
エネルギー不足解消の「国策」として行われたのが「動力近代化」。個々の動力方式の開発とは異なる。
> でも、需要が多すぎて、 千葉気動車区新製仮配置とか言って、 本当の配置区へ行かせる前に夏季だけ千葉気動車区に配置して旺盛な重要を賄うことも行われた
房総の凄まじい海水浴客需要のことだね。たしかに当時は凄い混みようだった!電化後は72系101系まで動員していたトンデモ区間。
極端な列車は153系電車で千葉まで来て、その先、電源車としてクハ16を繋ぎ、DD13牽引で房総西線を走った臨時列車が在る。
同時期に80系電車を蒸気機関車で牽いた高崎線経由の臨時列車もあった。
ま、直流特急151系を、交流区間の博多まで電気機関車牽引で走らせた苦肉の策もあって、旅客需要次第のことではあるが。 動力近代化の初期は動力だけで踏切等まで手が回らなかったようだね
それから自動車の爆発的普及に伴い、踏切事故が多発しすぎて、
途中から踏切改良にも手を付けるようになった 四国は、キユニ17と言うゲテモノ、ポンコツ気動車があった。 馬鹿は九州から出てくるな
11両もあって顔面もキハ17系と同じヤツだろうが馬鹿
新製配置が、高松4、七尾2、美濃太田3、米子・小郡各1なのにどこが四国だけなんだ
大歩危から滝つぼの中にダイブして頭をきれいにして来い >気動車の墓場。
余命宣告者を復活再生させるのが四国総局だった。
その改善能力は海外からも視察が来るほど。
組合ありきの他の管理局とは一味違っていた。 いや、四国の気動車は手入れが良かった印象があるよ、昭和50年代前半。
高松車はきれいだったし、古いキハ58・28が多かった徳島でも何とかしようとしていた感じだった。
キハ65は全国で一番手入れが良かったんじゃないかなあ。 徳島はなんで昔からは遅れていたんかな?未だに電車ないし >>282
鳴門のすろっぴーは広義の電車(モノレール)ではないのか? 四国の鉄道の歴史を伝える写真展06/11 10:27nhk
四国の各地で、この30年間に撮影された鉄道の車両や古い駅舎などの写真展が、鳴門市で開かれています。
この写真展は、四国の鉄道の愛好家で作るグループが開いたもので、会場の「鳴門市ドイツ館」には、この30年間に撮影された四国各地の鉄道の写真など40点が展示されています。
このうち徳島県内では、平成26年ごろ試験的に運行された、大型のバッテリーで走行することができる電車の写真が展示されています。
また、20年以上前のJR高松駅を向かいの山から撮影した写真では、現在の駅と比べて線路の数が少なく、周辺の開発も進んでいなかった様子がうかがえます。
このほかにも、人気アニメのキャラクターがデザインされた車両や、新しい駅舎での出発式の様子などを記録した写真も展示されています。
写真展を開いた「鉄道友の会四国支部」の井上武支部長は「今では見ることができない貴重な鉄道の写真が数多くあるので、若い世代の人たちに是非、見てもらいたい」と話していました。
写真展は来月2日まで開かれています。 キハ45、キハ30、キハ35、キハ20
キハ58系、キハ65
キハ181系
マヤ34、12系、50系
(JR後)111系、14系
こんなもんか
現存
キハ40系(今の)、キハ32、キハ54、キハ185系
121系
トロッコトラ
DE10、(DF50) 新しい非冷房の50系客車より古いけど冷房付のキハ58系を残したほうが良かった 四鉄史の320ページにド珍車が写っているのは既出? 四国の珍車
1.キニ15形
2.C59 111号機(高松機関区でのボイラー代用)
3.キユ25形 南海とかジャンボフェリーとか東九には「りつりん」「しうん」て愛称の列車、船はあるけど
国鉄JRには過去も現在もないよな 「しうん」→紫雲丸 1947→1950沈没・同年再就役→1955沈没。以後「瀬戸丸」に改名
「りつりん」 コトデンが1958年から鉄道で使用。誤乗防止のため国鉄では使われず >>291
キニ19ではなく
なぜキニ15なのか? :::::::::::::::::::::``ヽ
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ヽ、 `ヾ'''゙ ,´
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ヽ、 ノ
`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 https://pbs.twimg.com/media/EY95fqxU8AA-eyP?format=jpg
奥から
キユニ26
たぶんキハ20
キニ26 2(運転室後ろにも乗降手すり付は1と2だけ。バス窓ではないから2)
キユ25 1
手前 >>309
ありがとうございます。
そこまでは認識できています。 これは失礼
珍しくもなんともない編成を「この時代の四国で荷物専用列車なんて考えられないのだが」と書かれていましたので、
ぶしつけを承知で書かせていただきました
できましたら、すでにお調べになられた日時と列車番号と運用、個別の車両番号もお書きになってはいかがでしょうか? >>311
いやいやこの編成は珍しいでしょう。見た事はありません。
通常荷物車は一般気動車と併結運用ですので荷物車だけの運転は知りません。 >>312
四国昔物語@kini19_1さんに直接言えばいいだろうに >>313
それはご勘弁。ツイッターもやらないんで。だからここで一応聞いています。 >>314
聞いていますって
有り得ないって否定してるだけじゃんか >>318
思い込みはよくないね。自分の意見ありきで聞く耳を持たなくなるし。 >>320
それでは君が思い込めないよう明確な答えを出してくれ。 ツイッターなんぞ思い込み発言のオンパレード
まともに信用してる方がどうかしてるぜ
ttps://twitter.com/eedenbo/status/1273901089042034688/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) DE10+オハフ61+オハ47+オハフ33 いよ52号 昭和60年
5等車+4等車+3等車 全検ねぇ その他むちゃくちゃ
twitter.com/Caferest_bar_Fe/status/1245693490895319044
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 末期の四国に必要だったもの
キハ80系
1980年から余剰発生
キハ181系が嫌われ者
181×14、ハ180×22、ロ180×6 しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復)
まず同数置換から
南風用6両3本を置換
82×8 鹿児島4、名古屋4
ハ80×12 名古屋10、鹿児島2
ロ80×4 鹿児島
1982年に急行格上げも含めて大幅置換
82×17(25) 向日町14、名古屋3
ハ80×27(39-2) 向日町25、名古屋2、(ロハ化2)
ロ80×5(9+2)→ロハ化 向日町5
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+ハ(82の場合あり)+82 ×6(5) しおかぜ1.5×4と1×1 7往復
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+82 ×5(5) 南風1.5×4と1×1 7往復
史実では しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復) うわじま6往復、いよ4往復+下り2本、あしずり4.5往復(下り4)、土佐3往復+下り2本
こちらでは、しおかぜ7往復(うち松山2往復)、南風7往復(うち高知2往復) うわじま4往復、いよ3往復+下り2本、あしずり上り1.5本(下り1)、土佐2往復+下り2本
1984年にはもう2編成追加して土讃線高知以遠完全特急化(急行が減便されたこともある)
82×5 名古屋5
ハ80×7 名古屋3、向日町4
ロ80×2→ロハ化 向日町2
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+ハ(82の場合あり)+82 ×6(5) しおかぜ1.5×4と1×1 7往復
82+ハ+ロハ+ハ+ハ+82 ×7(7) 南風1.5×6と1×1 10往復
史実では しおかぜ4往復(うち松山1往復)、南風3往復(うち高知1往復) うわじま6往復、いよ5往復+下り2本、あしずり4往復、土佐3往復+下り2本
こちらでは、しおかぜ7往復(うち松山2往復)、南風10往復(うち高知4往復) うわじま4往復、いよ4往復+下り2本、土佐1往復+下り2本 >>325
80系だと、58系・65形の急行より速度が出ないので
所要時間が181系より余分にかかる。
もっと両数が必要なのでは? 続行運転しない単線に限り1両以上緩急客車を連結している場合は尾灯(後部標識)1つでもよかった
そのため、その条件に合えばオハが尾灯1つを付けて最後尾でも問題ない 土讃(本)線、吉野川橋りょうや新改や坪尻で撮られた
現役時代の蒸機画像って、ネットでどっか載ってます?
高徳線の蒸機画像を載せてる人も書いてるが、
四国の蒸機写真って、ただでさえ撮ってた絶対数が少ないから
ネットにもなかなか上がってない。
ネット上にあればご教示ください。 キハ47系松山車が撤退してから久しぶりに
夜行フェリーで八幡浜の始発に乗り換えたが、
駅に近づくにつれて聴こえてきて期待を高めてくれた
原型エンジンのゲコゲコ音も無ければ
松山方面の始発も内子経由に変わっていて
時代を感じた。 1970年度末で無煙化されてるからね
8620形とかC58形追っかけて四国まで遠征する価値がなかったってのもあるんだろう 土讃線の高知以北は真っ先にDL化されたから、ほとんど蒸気機関車の写真はない
茶DF50の前にトラ繋いで鉄道近代化の映画を撮ったほどに
同志社大学鉄道同好会OB会
これが65年前、昭和30年の多度津・琴平 くらいか 機関車の種類が当時的につまらなくても、
吉野川鉄橋やスイッチバック駅って
曲がりなりにも映える撮影地なんだから、
どっかに展示してるパネルなんかに写真あったりしないものかね?
今の時代だって、ありきたりの普通列車とかだって
場所的に映えるだけで撮ってる人がいるわけだし。 >>346
今よりも現地に行くのに時間がかかる
休みとるのだって今より大変だ
そもそもの休み自体も少ない
それにカメラが高価
カメラ持ってたってフィルムなんだから無駄に撮れない 紫雲丸沈没事故(1955年)から数年間は四国行が嫌忌されたのも影響している レイルNo6のメイン記事「戦中土佐日記」が戦時中の土讃線などを扱ってる。
おそらく開業時点の難所をゆく8620の写真もある。当時のネガ故ピンボケ気味だが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています