国鉄片町線
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>>818
大阪民ならそういう気風なのを解るだろうが
「どーせ移転するんだしせっかくだから変えようぜ」的なノリもあったかと。
あと、民鉄駅が先に存在する地への新規開業駅は
絶対に同じ駅名にしないという強い意志を感じたね。
→その後は既知(実利)優先へと方針転換して「JR○○」方式の命名に変わるけど。 だから、その後の方針だったら
おそらく間違いなく「JR南森町」になってたと思うよ。
こっちのほうが判りやすくていいのにね。 >>821
今だとJRは近鉄の半分くらいの乗降客数のようだ。
昔は5:1位だったんではないか? JR奈良線が復権したのは民営化したからだけではないよ そういえば上田辺改めJR三山木って、通過列車は無いのに、なんで高架化したときに一線スルー構造にしたんだろ? >>829
多分だが行き違いがない場合直線ホームに停車させて車掌などが確認しやすくするためかな? >>829
わざわざ改名したのが不思議に思える駅だった。 >>831
近鉄の利用者へ判りやすい「JRもおまっせ、使ってちょ」アピールですな。
頑なに既存の社線駅名を命名しようとしなかった初期のJR酉からすれば
「JR○○」命名方式は全く真逆の施策へ方針転換したんだな。 でも、片町線は近鉄京都線と並行しているとはいえ競合関係になってないのがなんとも…
件の三山木から、京都や奈良への利便性は近鉄の圧勝、大阪へも総合的には互角か近鉄優勢な感じ… >>833
うん、だからこそ、だよ
「離れているのに近い感覚を演出する」ため。
屁のツッパリにはならなくても、少しくらいは増えたでしょう。
「JR難波駅」と改称したのも同様の狙いがあってのことだろうし。 確かに、湊町だと地方の人だとどこだかわからないけど、JRがつくとはいえ難波にあることが分かる。 >>834
実際バスの発着が三山木からになったり
駅近辺が随分栄えてきたから、効果は出てる気はする >>837
栄えてきたのは改名効果というよりも高架化して周辺整備したからのような? 理由を単一化して抜粋することはできないと思う
「どっちも」つまり相乗効果かもしれんし これがもし国鉄時代だったら国鉄三山木だったわけだ。 近鉄の大阪難波とJR難波よりも、阿部野橋とJRの天王寺の方が距離が近い。
湊町は難波の一部との認識があるからだろうか?
喜連瓜破のように大阪流地名合成式駅名で、天王寺阿倍野あるいは阿倍野天王寺とするわけにはいかないんだろうなあ。 >>841
国鉄時代は上田辺というオリジナルの駅名があった >>842
うんだから湊町の改称は>>834の効果を狙ってのことだから\離れていて当然だよ
そこを何とかJRの存在を知らしめて利用してもらうための改称だからね。
天王寺と阿部野橋の件は、べつべつでもそれで世の中が回ってる歴史が長いし
今さら変えたら逆にアフォだよ >>843
近畿民なのに「うえだ-べ」と空読みしてしまった >>844
関東にも規模は小さいけど似たようなのがある。
東武の牛田と京成の京成関屋 JR東西線が長大トンネル扱いだったら103のまま存置されていたとも思った事があるが… >>844
阪堺の天王寺駅前→天王寺・阿部野橋駅前に改称 >>847
京阪神緩行線や福知山線との直通が考えられていたのだから、いずれ103は淘汰される、だったらその前に新形式の電車導入して、地下もより走りやすい形に整備して開業しよう、ってことだったんだろうね それで207系が導入されたんだね。
同じ207を名乗っているけど、東の900番代とは別物だね。
いかにも国鉄からJRへの過渡期の車両だって感じる。 >>850
207系が民営化して暫くして登場したならば、先に231系を名乗っていたのではないかと思料する。 そうなると、現在の321系→323系、323系→325系となる。 結局、西日本では201の方が先に消滅する事になってしまった
2011年の白紙大改正で103もかなり廃車が出たのに
ただその後の2012年より205/207の更新(最初は205だったが元々数が少なかったので、すぐ207の更新に移行)を行ってるので、この時に201も処遇を検討したものの最終的に唯一のチョッパ車という事で先に全廃される事になった?
(恐らくは白紙大改正後に車両方針の再検討が行われたものと思われる) 201は誘導障害の問題があるから奈良線で使えないのが痛すぎた
あと、最低でも4両編成で運用しなきゃならんから、桜井線、和歌山線、紀勢本線、播但線、加古川線などへも転用できないし 和田岬の103系、3月18日で終わり。
原形を保つ103がついに過去帳入りする。 103系、今後残るのは加古川・播但・筑肥線のみだ。
末長く残って欲しい。
残念なのは、原形顔でないことだ。 >>858
加古川の103は塗装だけみると常磐快速のエメグリを彷彿とするけどね。 スラブ軌道を走る103系はやかましくて不快だった。
特に住道〜鴻池新田の高架区間を快速で走った時。
ガラクタと呼ぶに相応しかった。 昔の鴻池新田の改札口のラッチ、石造りのような重厚さがあった。 むしろヲタならスラブ軌道を狙うんよ
五月蠅いとか言ってる内はまだまだ >>862
それって地平駅時代の話だよね?
ジントギ製のラッチかな? >>862
うん、かなり昔の話。
通常利用する駅でよそはわからんけど、なぜかあの重厚さが記憶に残っている。
キセルなどできない雰囲気だったw 北新地駅は大阪駅と同じ扱いになってるけど、かなり離れている。
大阪駅に行くとき、皆さん地下通路を歩くのか、京橋で環状線に乗り換えていくのかどちらなんだろうか?? >>869
「大阪駅」近辺のどこに行くか次第じゃない?
とはいえ、北新地駅が便利な場所ってかなり限られるけど
駅前第一第二ビルとか、四つ橋線西梅田、堂島地下センター、あとはそれこそ「北新地」のあたりとか行くのでなければ、京橋乗り換えで大阪まで行った方が圧倒的に便利だろう 大阪で在来線に乗り換えるならば、断然京橋乗り換えを選ぶ 大阪-北新地乗り換えは、東京駅の京葉線-在来線と良い勝負だ。 最終日を思い出す
シャッター閉まるときギャラリーが拍手で送った
若い人が案外居た記憶
キモヲタ風の人が居た記憶はないな。
1つの駅の廃止だけで
最後の瞬間に立ち会うためだけに
わざわざ泊まる人なんて稀だと思うし。
自分は遠かったけど自転車で往復した 長尾複線化&103系高運編成が新製配置された1979年頃はこの103系が新車、101系がボロ車、101系の冷房車がボロの冷房という区別してたな
翌年に大阪環状線から転属のクハ103-5と126が先頭で中間車が新車の編成が入ったんだが先頭が101系ぽいのかボロ車扱いされてた まだ片町駅が起点のころ
長尾駅に降り立ったら寂れていて驚きました
長尾行が多かったので勝手に栄えているイメージしてました
長尾行が多かった理由を知ったのはその後でした >>877
コヒに言ってくれ
あっちの命名のほうが後発だ >>875
西日本103系あるあるの先頭車だけ古い編成
(実際中間車はそこまで古くないので平均車齢は周辺大手私鉄よりは低かったが) 103系は2011年辺りまでは順当に低運転台車から廃車していたが、2017年辺りからはこの法則が崩れ、気づいたら高運転台車が先に全廃になってしまっていた
JR西日本では発足後に先頭車化改造された103系があるが、その先頭車化改造車は低運転台だった事を見るに西日本では高運転台車は不評だったかもしれない(?) 103系の廃車順に関しては、当初は車齢が若いという事で高運転台車は躊躇していたが、それが後に考え方が変わり扱いにくい方から消していく事になって結果的に高運転台が先に全廃になったというだけと思うが 福知山線4連化による余剰モハユニットの内4ユニットが淀川に来たとも >>885
残りはなんと北マトに転出した。
迎えに来た仲間から常磐快速の酷使ぶりを聞かされビビったのではないか? >>886
えええ関西から関東に転出した103系もあったの?!
それで当時の中の人は怒らなかったんだろうか?
(何か関西の方が労組が強そうだが) 常磐快速の編成増強時には関東だけでなく大ヨドや天ヒネからも続々と103系がやって来て、百鬼夜行の様相を呈していた。 >>888
ほんと国鉄時代は何でもありだったのね
(その点では、分割民営化しない方が良かったって思ってる人もいるかもしれない) 高校が太成(鴻池新田)で
京橋から乗ってたが103系晩年で
中間に連結されてる運転台の
圧力計の針の動きを眺めるのが
毎朝の日課だったな ワシは歳取ってから血圧計の数値を眺めるのが日課になってしまった 今から40年くらい前に産大に行ってた頃、四條畷に住んでてよく乗ってた。でも京阪の萱島が準急も停まるし家から近いのに気が付いてからはほとんど乗らなくなったわ。 >>889
千葉にはオレンジのモハ72やブルーライナー色の113系もやってきた。
関東にはない色だったので珍しがられた。 常磐線の481系当時のひたちの話。
全先頭車両をボンネットでそろえることになった際、大ムコや門ミフ・鹿カコからも大挙してやってきた。
古いのも多く姥捨て山の様相を呈していた。 >>896
千葉はもちろん関東。常磐線は関東と東北にまたがってる。 片町駅の寂れっぷりは異常だった
それも京橋止まりの列車は片町駅構内のホームのない留置線に引き上げるとか非常に勿体ない使い方をしてた
ホームを増設すれば客扱い出来たがJR東西線開通で廃止になるのを見越して設置しなかったとか? >>898
まあそもそも、歴史的にみても
最盛期があったとはいえない駅だからね。
明治期という早くにすら
貨物駅化されてた一時期もあったらしいし 片町線の片町駅なのにそんなに寂れていたら、初めて降りた人は腰を抜かしただろうな。 東西線の開通前の仮称も「片町」だったと思うけど、何故か「大阪城北詰」になってしまったね >>904
大阪天満宮駅も仮称は南森町だったが、何故か変更
今なら大阪天満宮や海老江はそれぞれJR南森町、JR野田阪神を名乗っていると思われる その後に方針変更されるまでは
民鉄の既存駅名を氏んでも絶対名乗りたくなかったみたいだからね
その後にJR難波やら奈良線やら、貴方のいう通り いまカンテレで兵頭が京橋付近の旧線路を街歩きロケしてるわ >>895
もしかしたらクハ181の改造車もあったのかな >>898
駅周辺も、繁華街というには、少々貧相だったもんね
主要駅の隣駅って割と存在感が薄い駅が多い
阪急の中津とか、南海の今宮戎
前者は淀川花火大会、後者はえべっさんの日だけは大賑わいだけど >>909
確かに。
何故京橋から一駅だけ伸びているのか不思議に思ったことがある。 >>911
なるほど、貨物のための駅だったんだ
ついでに旅客列車も走らせたんだが、貨物は廃止になってしまったんだ
積年の疑問が解決しました >>912
湊町も同じだったのかな
今ではJR難波となり、それなりに乗降客もいるけど、
湊町時代は寂れていた。 大阪環状線の内側がほぼ地下鉄の独壇場で国鉄が寂れてた >>913
JR難波では一時期関空快速も乗り入れていた事もあったが、現在はJR難波発着の関空快速は廃止されている 片町駅も大阪市電や京阪片町駅(当時は地上線だった)があった頃は、
そこそこ乗り換えの客もいたが、市電がなくなり京阪も高架になって
京阪片町駅が廃止されてからは乗り換えの客も消えて完全に寂れた。 >>914
そう言えば旧大阪市営地下鉄って基本南側ばかりに路線が集中してるんだよね
淀川を越えて北側に乗り入れるのは実質御堂筋線のみ
堺筋線は阪急線内になるため除外 >>913
うんそう
昔は入掘がある
梅田もあったな JR難波は難波の中心から離れてるよな
なんばHatchに行くときは便利だが 駅名が湊町駅だったものを
利用促進(近いと誤認させて使わせる意図が半分)のために改称
あと駅位置も移転した
結果的にナンバの一帯から少し近くなった
今は地下どうしだから今のほうが利用よい >>919
南海とJRの難波だと大阪駅と北新地駅より遠い気がする 南海のほうは実距離だけでなくアップダウンもあるからな 京橋と西船橋は線路が垂直に立体交差してるから
出口や駅前が複雑 京橋駅環状外回りホームから、学研都市線鴫野方面行ホームまで、階段なら1分なのに、
車椅子移動だと、エレベーターを5回も乗り継ぐ必要があったから、裁判を起こされていたそうな。(現在は改善)
階段移動だと問題なくても、バリアフリーの観点からは、利用しずらい駅ではあるね。 ようつーばー動画で、京橋に放置されてる分岐器の軌条を
片町までの線路の名残だと言ってる奴がいて
世代間ギャップを感じた
何度か既出だがあのポイント部分は
なんらかの都合(権利維持?)で
旧線路敷の軌条の完全撤去後に再設置されたもの
オリジナル配線ともちがってる 103は大阪環状線と色が同じだった模様
つまり京橋で間違えた人が多かっただろうな でも、207系もJR東西線開業前は片町線、福知山線、東海道山陽緩行線に分散配置されていたものの、全て同じ帯だったから… >>929
東海道のは6両+2両だったので違う使い方をしてい いくらなんでもひどすぎる>>928
んなこたあない
世代的無知にも限度はあるで 片町線の分割編成化が国鉄時代に行われていたら確実に阪和線の様な展開になっていたと思われる。 阪和線では国鉄末期に中間モハユニットの一部を首都圏のクモハと差し替えていた模様 >>875
確かに103系初期車は101系に似ている
側面窓の処理も初期車は101系譲りだし 片町線には沿線に近畿車両があり、東海道山陽線には沿線に川崎重工がある この様に関西には2つも車両製造メーカーがあるから、関西私鉄車両の甲種輸送があまり無いんだろう >>934
片町線に101系が残存してた頃
よく森ノ宮区の通過を見てたけど
やっぱ、判るんだよな
うまく表現できんが、側窓が
103系より全体的に腰高な配置バランスになってる 片町線が207/321に統一されたのはJR東西線が地下鉄規格で前面に非常扉のある車両が必須とされたためと思われる 仮にJR東西線が長大トンネルだったら違ったのかな? 207の快速4両だったかな。
星田付近120km/hで爆走してた。 >>941
やはり福知山線の事故前はスピード重視だったのか >>942
駅間速度も速いし、停車時間も短いし、せかせかしてた。
新幹線以外は全盛期よりもかなりスピードダウンしてる。 京田辺での分割併合が面倒だから全線7両化したものと思われる 103時代は変則的な編成だったらしいが、この場合増結3両はどう折り返ししていたか気になる >>943
あと207系は103系にはあった座席端の袖仕切り上部から網棚部に続いているスタンションポールがなく、阪急や近鉄の車両の様な処理になっているのもまずかった
阪急を意識したとされているが、結果的には失敗 京橋側は京阪の近くを走っているが、木津側は近鉄京都線の近くを走っている 国鉄時代から自動改札を導入していたらしい片町線
関西の私鉄はJR西日本がまだ国鉄だった頃に相当する時期で既に自動改札になっていたそうだが、その当時の国鉄の関西地区は片町線以外は自動改札じゃなかった模様 座りたいからって京橋から片町まで乗って来た奴が捕まってるのを見たことがある 松井山手と甲南山手
共にJR西日本化後に設置された駅というのも共通 >>950
きっぷはキレート式、
改札機は初期オムロンだったね JR西日本に自動改札が本格的に導入されたのは、なんと1996年末の模様
要は2000年頃に自動改札が導入されたJR北海道やJR九州とほぼ同じなんだろうけど、関西の鉄道としては私鉄とJR西日本で両極端なんだな 関西地区は、全国に先駆けて自動改札機が定着したから、
国鉄も実験を兼ねて、片町線に導入したんだろうけど、広がらなかった
他の路線は、相変わらず裏が白い切符だし、現場では、改札機に入れて詰まらせるトラブルも頻発したんじゃないの >>945
103系の床は堅かったけど、101系の床は少しふにゃふにゃしていた。 >>957
だから王寺水害で9本がそのまま廃車になったのかね? >>957
101系のほうが防音材入りで103よりも高級
>>958
床は水を吸って膨れ上がった、多分電気品もパアになったのだろうけど >>959
103系の床は鉄板に床材を張っただけだと聞いたことがある サハ102は方転されたまま他線区で使用されていた様な クモハ103-5000はわざわざ低運転台仕様にした >>966
というより播但線用の種車がクモハ103-5000 新機軸が多かったために当時他線との乗り入れが無かった片町線に投入したと思われる 経緯があり同形式扱いされてるけど
束と酉の207系は実質別物です 同じ207系を名乗ったの不思議だった。
もう少しあとに登場していたら、231系を先に名乗ったかも知れない。 >>970
異端ゆえ夭逝してしまった気の毒な車両だった 千代田線のは205-1900とかでも良かったけどね >>974
スレチだが、千代田線207系と似た様な東武10080系もこの前廃車になった
やはりVVVF試験車は後々厄介になるんだろう 西日本の207系は後に登場する東日本の209系的な立ち位置であり、鉄道ファンでは"207VS209"という特集が取り上げられた事がある >>974
まぁ、東は209系やE231系ですら廃車を出してしまう有様だから…
(E231系はかろうじて編成単位の廃車は出ていないが) >>972
東が1993年後半以降に登場の系列から系列名の頭に"E"を付ける様になったのも、この207系での形式重複が要因だと想像
東の209系が量産前は"901系"を名乗っていたのもこの時点では量産車の形式名が未定だったからと想像する 西日本207系は同時期の関西私鉄車両を意識して座席端の処理は阪急っぽくしたのだがそれが仇になったな
福知山線の事故で被害が大きくなったのはこの座席端の処理(掴まる所が無い)も影響しているのだと思われる 手すりにつかまってれば車体に
押し潰される事もなかったの(*´∀`*) >>981
単なる980の憶測でしょ
説として語るのは自由だと思うけど
あの速度で突っ込んだら
どのみち人的被害は免れない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。