国鉄片町線
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>757
データイム6両、2編成連結してラッシュ時12両なんて思料した。 207-1000の事なら、当初はラッシュ時は2+6の8両、昼間は6両単独だった 東207-900と西207が同じ「207」だったのかが未だに疑問 >>762
ちょうど、国鉄からJRに移行する時期に完成した車両だからこのようなレアなことが起きたのだと思う。 そのまま国鉄だったら207-900タイプが各線に投入されたんだろうな。 >>757
東西線開業前後に想像していたこと
・快速は4+4で8両編成、松井山手で分割併合
・普通はラッシュ時は6+2の8両編成や3+3の6両、4+3の7両など雑多な編成、データイムは1000番台6コテや3+3の6両で最遠は松井山手まで
こんな運行を想像してた >>762
763が書いてるが登場時期が民営化前後というイレギュラーだからな。
207系だけ特例みたいなもんだよ 福知山線の快速で207系の4両単独運転があって
117系との格差を感じた >>754
今では立派な駅舎も出来て隔世の感があるね >>766
国鉄の民営化がもう少し早かったら、207系は一足早く321系を名乗っていたのではないか?
また、東の207系はE207系となっていたと思う。 207系は袖仕切りが阪急等と同じ仕切りのみのタイプになっちゃったのがね
いくら国鉄車の車内が関西人に合わないとは言え 関東民に合わないだけで叩いていいわけですか。勝手なもんだな。
場所によって変わっていいじゃん >>743
事前に想定してオムツしなかったんだろうか? 震災が無ければ東西線開業後に大阪環状線を皮切りに南アーバンにも投入されていて、その過程で207自体の整理も行われていて0番台3連や1000番台初期車の扱いも違っていた可能性がある >>774
紙オムツは昭和52年にアメリカから輸入したのを嚆矢とするらしい。
今では布オムツは絶滅危惧種かと思う。 介護の仕事をしている。今は100%紙オムツで、脱着も楽なリハパンも多く使っている。これが布オムツだったらと思うと負担が多すぎる。 紙オムツ自体はもっと昔からあったらしいけど、高吸収ポリマーが発明された功績は大きい。 そろそろ本題に戻そう。
101系は何故桜島線と片町線との共通運用だったんだろうか?
103系は何故環状線や桜島線と共通運用にならなかったんだろうか? >>778
片町線は大ヨド、桜島線は大モリで、分離されてる。
103系、環状線は8両編成、桜島線は6両編成だったからだと思う。 >>780
確か1985年3月改正までは桜島線は淀川電車区持ちで101・103系非冷房車が片町線との共通運用となってたと記憶してる
101・103系冷房車は片町線専用となってた まさか東寝屋川が改称されるとは思わなかった。
いくら地名に無いからといって
他例をみていたら、理由としてはかなり弱いよね
施設名か付いててそれが撤退したとかならまだしも。 >>781
まるで青梅/武蔵野線みたいだね(一時期は共通運用だった模様) >>784
武蔵野が6連だった頃の一時期、五日市線も含めてそんな運用があった。
103,101−1000,201が共通に使われていた。
モハ72改造の103−3000も編成中混じっていることもあり、東京地下駅で見かけたときは感激した。 >>783
国鉄時代に事務的に付けられた駅名だから地元民から改称の要望があったんではないかい。 最近のJRは東西南北を使わなくなってきてるね。
どうにもならなくてつけたのは武蔵野線の吉川美南。
昔だったら間違いなく南吉川だったと思う。 >>787
高輪ゲートウェイも西だったらJR高輪だったろうな >>789
他にズバリの「高輪」駅がないから
(都営浅草線に高輪台駅はあるけど)、
多分、そうはならなかったんじゃない?
案外、札の辻とかになったりして >>786
それは理解してる
そのうえで、地元?も変な部分にこだわるなあと思う
A駅の東にあれば「東A」駅、なんて命名は
東Aという地名が無くても、全国ザラにあるよ? 純粋なA駅とか、西A駅がなくて東A駅、みたいなのだけある例としては、
東田子の浦 くらいしか思いつかん…
「東寝屋川」も、京阪の「寝屋川市」に対比する形での命名だろうし 東武には東あずま、東向島があった。もっとも近鉄には向島があるけど。 富良野線には西が着くのがごっそりある。
西御料、西瑞穂、西神楽、西聖和 >>764
となれば地上線用は205と同じ前面だったろうな >>763
東の901も207での形式重複を受けてでの試行錯誤だと思う
最終的には形式の前にEを付ける事になったが >>803
東寝屋川の改称強行の件がフツー、みたいな反論があったからだろ?
これほど投下されたということはフツーじゃねえじゃん 「片町線」の由来になった片町駅は無くなってしまったが、線名としてはしっかり残っている、このような例って他にあるかな?(未成線は除く)
部分廃止で日高振興局に届かなくなった日高本線が該当するか
あとは札沼線か 信越本線は会社はバラバラになったが路線としては信濃と越後を結んで残ってるからなぁ 信越本線(しんえつほんせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅まで、長野県長野市の篠ノ井駅から同市長野駅まで、および新潟県上越市の直江津駅から新潟県新潟市中央区の新潟駅までの区間を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間、上沼垂信号場 - 東新潟港駅間の貨物支線を持つ。 >>807
論点がずれるが、
片町駅は実質的には改称相当だからなあ。
終点でなく中間駅化し少し移転したのと同時に改称 >>811
大阪城北詰駅は片町駅のまんまでよかったと思うが、JR西としては消したかったのかなぁ 東寝屋川→寝屋川公園みたいに、大阪城北詰→片町に改称する署名活動でもしようか。 東西線が建設中に、地下鉄西梅田駅の案内板が新調されて、まだ開業前の案内部分は黒シールで隠されていたのだが、そこに透けて見えていたのは、「←片福線(桜橋駅)」という案内文字だった 仮称から本決まりになるまでには紆余曲折がある訳だね 駅名が変わるのはわかるとしても、あの位置でここは大阪城の北詰でんねんといわれても全くピンとこない 「大阪天満宮」も、「南森町」のままでよかったのになぁ
片町線に話を戻すと、「京田辺」も「田辺」のままではダメだったのかな? 田辺のままでも問題ないけど、田辺町が市制時に和歌山の田辺市と重複するのを避けるため、京を付けたのに倣ったと思う。
昔はオンボロ駅舎で、利用者は京阪利用がはるかに多かった。 >>818
大阪民ならそういう気風なのを解るだろうが
「どーせ移転するんだしせっかくだから変えようぜ」的なノリもあったかと。
あと、民鉄駅が先に存在する地への新規開業駅は
絶対に同じ駅名にしないという強い意志を感じたね。
→その後は既知(実利)優先へと方針転換して「JR○○」方式の命名に変わるけど。 だから、その後の方針だったら
おそらく間違いなく「JR南森町」になってたと思うよ。
こっちのほうが判りやすくていいのにね。 >>821
今だとJRは近鉄の半分くらいの乗降客数のようだ。
昔は5:1位だったんではないか? JR奈良線が復権したのは民営化したからだけではないよ そういえば上田辺改めJR三山木って、通過列車は無いのに、なんで高架化したときに一線スルー構造にしたんだろ? >>829
多分だが行き違いがない場合直線ホームに停車させて車掌などが確認しやすくするためかな? >>829
わざわざ改名したのが不思議に思える駅だった。 >>831
近鉄の利用者へ判りやすい「JRもおまっせ、使ってちょ」アピールですな。
頑なに既存の社線駅名を命名しようとしなかった初期のJR酉からすれば
「JR○○」命名方式は全く真逆の施策へ方針転換したんだな。 でも、片町線は近鉄京都線と並行しているとはいえ競合関係になってないのがなんとも…
件の三山木から、京都や奈良への利便性は近鉄の圧勝、大阪へも総合的には互角か近鉄優勢な感じ… >>833
うん、だからこそ、だよ
「離れているのに近い感覚を演出する」ため。
屁のツッパリにはならなくても、少しくらいは増えたでしょう。
「JR難波駅」と改称したのも同様の狙いがあってのことだろうし。 確かに、湊町だと地方の人だとどこだかわからないけど、JRがつくとはいえ難波にあることが分かる。 >>834
実際バスの発着が三山木からになったり
駅近辺が随分栄えてきたから、効果は出てる気はする >>837
栄えてきたのは改名効果というよりも高架化して周辺整備したからのような? 理由を単一化して抜粋することはできないと思う
「どっちも」つまり相乗効果かもしれんし これがもし国鉄時代だったら国鉄三山木だったわけだ。 近鉄の大阪難波とJR難波よりも、阿部野橋とJRの天王寺の方が距離が近い。
湊町は難波の一部との認識があるからだろうか?
喜連瓜破のように大阪流地名合成式駅名で、天王寺阿倍野あるいは阿倍野天王寺とするわけにはいかないんだろうなあ。 >>841
国鉄時代は上田辺というオリジナルの駅名があった >>842
うんだから湊町の改称は>>834の効果を狙ってのことだから\離れていて当然だよ
そこを何とかJRの存在を知らしめて利用してもらうための改称だからね。
天王寺と阿部野橋の件は、べつべつでもそれで世の中が回ってる歴史が長いし
今さら変えたら逆にアフォだよ >>843
近畿民なのに「うえだ-べ」と空読みしてしまった >>844
関東にも規模は小さいけど似たようなのがある。
東武の牛田と京成の京成関屋 JR東西線が長大トンネル扱いだったら103のまま存置されていたとも思った事があるが… >>844
阪堺の天王寺駅前→天王寺・阿部野橋駅前に改称 >>847
京阪神緩行線や福知山線との直通が考えられていたのだから、いずれ103は淘汰される、だったらその前に新形式の電車導入して、地下もより走りやすい形に整備して開業しよう、ってことだったんだろうね それで207系が導入されたんだね。
同じ207を名乗っているけど、東の900番代とは別物だね。
いかにも国鉄からJRへの過渡期の車両だって感じる。 >>850
207系が民営化して暫くして登場したならば、先に231系を名乗っていたのではないかと思料する。 そうなると、現在の321系→323系、323系→325系となる。 結局、西日本では201の方が先に消滅する事になってしまった
2011年の白紙大改正で103もかなり廃車が出たのに
ただその後の2012年より205/207の更新(最初は205だったが元々数が少なかったので、すぐ207の更新に移行)を行ってるので、この時に201も処遇を検討したものの最終的に唯一のチョッパ車という事で先に全廃される事になった?
(恐らくは白紙大改正後に車両方針の再検討が行われたものと思われる) 201は誘導障害の問題があるから奈良線で使えないのが痛すぎた
あと、最低でも4両編成で運用しなきゃならんから、桜井線、和歌山線、紀勢本線、播但線、加古川線などへも転用できないし 和田岬の103系、3月18日で終わり。
原形を保つ103がついに過去帳入りする。 103系、今後残るのは加古川・播但・筑肥線のみだ。
末長く残って欲しい。
残念なのは、原形顔でないことだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています