国鉄片町線
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1980/03時刻表から、長尾発下り、◆は休日運休、〇は奈良行
◆626/705/〇733/◆〇802/833/945/〇1123/1324/1455/1616/1709/1754/〇1821/1912/2035/〇2151
平日朝は、3運用
昼は1運用
夕方は2運用
夜間は1運用
のようです 改めて見て今とは隔世の感があるね。
因みに長尾発の気動車だったら、上り列車になるのでは? >>698
奈良行きが案外多いな
しかも昼間に1本存在してる 確かに。
宝塚あたりで奈良行きを見ると隔世の感がある。
ワシにとっての福知山線はDL牽引の旧型客車だからな。 まあ、ロートルにとって片町線は何を思い浮かべるか聞けば、みなオレンジのモハ72と答えるだろうな。 >>704
だからそこまで遡ってしまったら
もはや片町線関係あれへんくなるやんw
船で寝屋川を上り、水路用の舟に乗り換えて詣る 確かに野崎詣りは屋形舟だから片町線開業のはるか前のことだね。
今だったら、学研都市線で詣ろorマイカーで詣ろだね。 三代目さんは上方の粋(スイ)が感じられて好きな落語家だったな。 呼んでみようか土手の人。
土手の人との関係性がよくわからない。 日傘に蝶が止まったという珍しい現象を共有したかったため、近くの土手の人を呼ぼうかと思ったのかも知れない。 日傘に蝶が止まるという珍しい現象を共有したかったため近くの土手にいる人を呼ぼうかと思ったのかも知れない。 >>712
船を利用する参詣客と土手の歩きの参詣客とで
(お遊びで、わざと)罵り合う風習があった。
もちろん有料である船のほうが優位
だから「そろそろ一丁、(徒歩の連中へ)けし掛けてみようか」
という意味。 >>715
ありがとうございます。
そんな風習があったんですね。
舟で行く人たちは金持ちだったのかな? >>719
ワシも。
60代だけど。
でも先日、75歳のばあさまに、東海林太郎の唄聴くって聞いたら、そんな古い唄聴かないと言われてしまった。
よくよく考えると、ビートルズが来日したとき、彼女は19歳だったんだよな。 映像が残ることはありがたいことじゃ。
虎は亡きあとも皮を残すが、今の人間は名ではなく動画を残して鬼籍に入るようだ。 今年75だと戦後生まれだしな
ひばりや裕次郎にハマった世代の次の世代だろう 今更だが西の高運103は元々28両(内1両は事故廃車、急遽西に譲渡された元東車は除く)しか無かったみたいだな >>723
西日本に配置された非ATC高運クハ103の新製配置路線別リスト
片町線
797・799・802・804
829・831・836・838
(797は非ATC高運の第1号車)
大阪環状線
800・806
(反対側クハは造られず)
阪和線
823・825・827
830・832・834
(非ATCブルーは首都圏には存在しない)
福知山線
833・835・837・839・841・843
840・842・844・846・848・850
(850は103系地上形クハのラスト) JR西日本化後に改造されたクモハ103-5000は高運より後かつJR西日本化後にも関わらず、低運を採用した点からも西は高運をあまり好んでいなかったと想像 >>725
その前年に登場したクハ103-2500/2550も低運2個ヘッドランプの顔になったのは投入先の大和路線には当時高運が居ないのでそれに合わせたのかなと思ったけど学研都市線用クモハ103-5000は反対側先頭車のクハに高運クハがあるのにやはり低運になったのも高運不評説の信憑性が増す 1974年〜1978年は関西地区の103系新造は中間車のみで、先頭車は首都圏の新造投入で余剰となった1964年〜1969年製のものを関西地区に転用させていた模様
それで低運ばかりになってしまったと思う 片町線の分割編成化は史実ではわざわざ先頭車化改造したが、仮に国鉄時代だったら、阪和線の4連化みたいに首都圏が絡んだ大規模な転配になっていたと思う 片町線103系投入が新製配置で行われたのは1979年長尾複線化のタイミングになったのはこの時に6両編成化されてクモハが不要になったこと、そして首都圏ATC化による車両投入とそれに伴う他線への転用が一段落したという側面もあったのだろうね 101系はJR西日本では片町線に2編成が継承されただけだった
なので早々に消滅したんだろう
(103系編入車は除く) >>720
月日が過ぎるのは早いですなあ。
あっという間にワシもじいさんになってしまった。 生きている限り加齢は避けて通れません。
過去を振り返ったり過去の自分と比較するから苦が生じる
それをしなければ楽しく生きられるよ 今の自分を見て、結果オーライと考えるのがが、良いと思う。 バカボンの「これでいいのだ」って存外スゴい考え方なんだぜ
失敗(済んだこと)や、過去との比較に縛られなくて済むからね 小生が小4の頃、大回り乗車を小学校の先輩に教えてもらった
京都【東海道本線】大阪【大阪環状線】天王寺【関西本線】奈良【奈良線】東福寺
今、思うとなんで片町線に乗らなかったのか残念
ディーゼルカーに乗りたくなかったのかな
ちなみに奈良線で105系が走り始めた頃の話 そういえば桜井線和歌山線が電化されてからは大回りでディーゼルカーに乗れる唯一の路線だった
昭和60年頃はキハ58,53,47,35あたりが良く運用に付いていた
レンガホームの祝園駅でのタブレット交換が懐かしい >>720
美とルズが初来日した当時の動画を見た。
若者達がかなりフィーバーしていた。
彼らも現在ご存命なら、皆さん古希を過ぎを過ぎているはずだ。
「今の若いもんは・・・」なんて云ってるじいさま・ばあさまにこんな動画を見せてやりたい。 若い女性が失神してオシッコとかあったらしいね。
全世界的にそんな時代だったみたい そんな人たちもすでにばあさまだと思うとしみじみとしたものを感じる。
片町線のオレンジのモハ72や非電化区間の気動車が過去著入りしたように。 >>744
その頃地下新線が出来、福知山線と直通になるなんて、想像すら出来なかった。 東西線の開通前の大阪城北詰の仮称は片町だったのに何故変えてしまったのだろうか? >>746
仮称のままだった駅名のばかりのような
片町→大阪城北詰
南森町→大阪天満宮
桜橋→北新地
??→新福島
野田阪神→海老江
歌島橋→御幣島
??→加島 >>740
今は大阪近郊区間が広がったから、加茂〜柘植でディーゼルカーに乗れるようになったな >>746
あと数十年もすると、片町線だった由来を知らぬ人がほとんどになるのではないか? 同志社前駅のサロ581はいつ頃から存在していましたっけ? >>743
それはグループサウンズでもにしきのでもフォーリーブスでも
ザラに起こります >>750
駅開業時からだから、昭和61年からかな。
当初は喫茶室もあったけど、いつの間にかなくなってしまった。 >>751
今はそんな事案は聞かないね。
当時の女の子(今のばあさま達)の方がフィーバーしてたのかな?
グループサウンズ自体も死語かと思料する。 >>752
最初は2両分しかないホームだった。
喫茶室でコーヒーを飲みながら列車を待てるのは良かった。 207系量産先行車の投入路線に東海道山陽緩行線という選択肢もあったかもしれないが、初のVVVF車という事で初期故障対策を考慮し当時運行系統が独立していた片町線への投入になったんだと思う >>755
でも量産先行のF1編成は当時の片町線で行われてた分併対応でなく7両固定編成だったのが謎
本当は本線緩行投入で計画していたのを東西線計画対応が割り込んで来て初期故障対策などの点で他線との関わり等の理由など再度検討した結果片町線投入になったと想像 東海道・山陽線の方は最初6両固定だった
どういう運行を想定していたのか >>757
和田岬線でのテスト運用・・・?なわけないか >>757
データイム6両、2編成連結してラッシュ時12両なんて思料した。 207-1000の事なら、当初はラッシュ時は2+6の8両、昼間は6両単独だった 東207-900と西207が同じ「207」だったのかが未だに疑問 >>762
ちょうど、国鉄からJRに移行する時期に完成した車両だからこのようなレアなことが起きたのだと思う。 そのまま国鉄だったら207-900タイプが各線に投入されたんだろうな。 >>757
東西線開業前後に想像していたこと
・快速は4+4で8両編成、松井山手で分割併合
・普通はラッシュ時は6+2の8両編成や3+3の6両、4+3の7両など雑多な編成、データイムは1000番台6コテや3+3の6両で最遠は松井山手まで
こんな運行を想像してた >>762
763が書いてるが登場時期が民営化前後というイレギュラーだからな。
207系だけ特例みたいなもんだよ 福知山線の快速で207系の4両単独運転があって
117系との格差を感じた >>754
今では立派な駅舎も出来て隔世の感があるね >>766
国鉄の民営化がもう少し早かったら、207系は一足早く321系を名乗っていたのではないか?
また、東の207系はE207系となっていたと思う。 207系は袖仕切りが阪急等と同じ仕切りのみのタイプになっちゃったのがね
いくら国鉄車の車内が関西人に合わないとは言え 関東民に合わないだけで叩いていいわけですか。勝手なもんだな。
場所によって変わっていいじゃん >>743
事前に想定してオムツしなかったんだろうか? 震災が無ければ東西線開業後に大阪環状線を皮切りに南アーバンにも投入されていて、その過程で207自体の整理も行われていて0番台3連や1000番台初期車の扱いも違っていた可能性がある >>774
紙オムツは昭和52年にアメリカから輸入したのを嚆矢とするらしい。
今では布オムツは絶滅危惧種かと思う。 介護の仕事をしている。今は100%紙オムツで、脱着も楽なリハパンも多く使っている。これが布オムツだったらと思うと負担が多すぎる。 紙オムツ自体はもっと昔からあったらしいけど、高吸収ポリマーが発明された功績は大きい。 そろそろ本題に戻そう。
101系は何故桜島線と片町線との共通運用だったんだろうか?
103系は何故環状線や桜島線と共通運用にならなかったんだろうか? >>778
片町線は大ヨド、桜島線は大モリで、分離されてる。
103系、環状線は8両編成、桜島線は6両編成だったからだと思う。 >>780
確か1985年3月改正までは桜島線は淀川電車区持ちで101・103系非冷房車が片町線との共通運用となってたと記憶してる
101・103系冷房車は片町線専用となってた まさか東寝屋川が改称されるとは思わなかった。
いくら地名に無いからといって
他例をみていたら、理由としてはかなり弱いよね
施設名か付いててそれが撤退したとかならまだしも。 >>781
まるで青梅/武蔵野線みたいだね(一時期は共通運用だった模様) >>784
武蔵野が6連だった頃の一時期、五日市線も含めてそんな運用があった。
103,101−1000,201が共通に使われていた。
モハ72改造の103−3000も編成中混じっていることもあり、東京地下駅で見かけたときは感激した。 >>783
国鉄時代に事務的に付けられた駅名だから地元民から改称の要望があったんではないかい。 最近のJRは東西南北を使わなくなってきてるね。
どうにもならなくてつけたのは武蔵野線の吉川美南。
昔だったら間違いなく南吉川だったと思う。 >>787
高輪ゲートウェイも西だったらJR高輪だったろうな >>789
他にズバリの「高輪」駅がないから
(都営浅草線に高輪台駅はあるけど)、
多分、そうはならなかったんじゃない?
案外、札の辻とかになったりして >>786
それは理解してる
そのうえで、地元?も変な部分にこだわるなあと思う
A駅の東にあれば「東A」駅、なんて命名は
東Aという地名が無くても、全国ザラにあるよ? 純粋なA駅とか、西A駅がなくて東A駅、みたいなのだけある例としては、
東田子の浦 くらいしか思いつかん…
「東寝屋川」も、京阪の「寝屋川市」に対比する形での命名だろうし 東武には東あずま、東向島があった。もっとも近鉄には向島があるけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています