国鉄片町線
>>52
新性能化完了は阪和のほうが先でないか?
それに101系もなかなかゲテモノが多かったような・・・・?
片町線のほうが二月早かった。クハ79のゲテモノ揃いは101系の異端者の比ではない。
クモハ31や32も居たし。阪和は車両数は多かったが比較的正当な経歴の車両が殆んどだった。 >>37
板張り油引きの電車懐かしい
扇風機のスイッチがあった。 >>50
長尾複線化改正のシンボルマークにも使われてたな>高運転台103 >>54
型番の種類はあまり詳しくないけど、両開き扉導入前の片町線は
車両がぐちゃぐちゃだったのは覚えてる。 >>54
今から思うと贅沢な話なんだけど、
色がオレンジなのが気に入らないとか言ってた。
また、普通の?73系が来たら「なんだ」って感じ見送り。 >54
2扉→4扉改造のクハ79は、ほとんどが大ヨト区で片町線だったからねぇ。
改造車のバラエティは全部揃っていた。
クモハ31に至っては全数大ヨトだし。 すごい話ですね。
30代後半の俺もついていく事ができない…
かすかに記憶あるのが長尾駅が線路渡らなきゃ
ホームに行けなかった事かな…(^_^;) >>58
47や58崩れが79を名乗っているのを見て、お前79ちゃうやんって心の中で突っ込み入れてた。
情報がが少ない当時、旧性能電車ガイドブックで片町線のゲテモノ振りが理解できた。ドアも等間隔違うしドア巾もまちまちやし。 >>54
その2ヶ月のまさにその時に行きました。
片町線は32001だけ残りで、淀川電車区に許可をもらって見ただけ。
オレンジの旧型国電は私にとってはきわめて新鮮。
リベット・シールヘッダーの上にシルバーシート印まであり、強烈な印象でした。
阪和線は、本線に2本6両の70系+72の混色があり、支線に3両の中間に60001、戦前車で運用に入っていたのはこれだけでした(あと60004もあったらしい)。
ギリギリ間に合い、最後の動いたオレンジの旧型に乗れました。
旧32/42系の79や31/32は東京の私にはなかなか見られず、残念でしょうがなかったです。
半流の79055とか本当に見たかった。
後年御殿場線で45/46の4ドア改造車の78を見ながら、片町線を思い出しました。
旧国のオレンジって、変色か褪色でピンクぽかった記憶があり。
それにMc73とかTc79920台の前面の方向幕が常に白幕だったけど、幕の内容に
片町線の駅名入ってなかったのかな? >>63
小学校の時に片町線の絵をオレンジとピンクを使って描いた憶えがある。
子供の時って意外と観察眼があるんだなと、今になって思ったよ。
たしか旧国だけでなく101系の時もピンクになる色褪せはあったように記憶している。 今も昔も我が家の横を走っていまつ。
C11の貨物もDD51のあすかも221系快速試運転も見てました。
Mc73の白幕には東神奈川が入ってました。 印象に残っている数では、近畿車輛が圧倒的だな。
数々の近鉄車両はもちろん、いろんな新車が見れたもんなぁ。
営団地下鉄とか、開業前の東北新幹線200系なんて
どういう経路で運ぶんだろうかとか不思議に思ってた。
中でもガスタービン試験車、391系だったかな?3車体の連接車。
近畿車輛で作られたわけじゃないはずだけれど、待避線に居たところを
見たときは、むっちゃくっちゃうれしかったなぁ。 >>63
そうそう。101や103のオレンジとは明らかに違いがあった。だからトミックス73系が出た時激しく違和感があった。
ちなみに方向幕は一切使ってなかったから東京時代のものだよ。たぶん。 子ども図鑑でみた73系は茶色。けど、現物でみてるのは微妙なオレンジ。
なぜ?と思った。 東海道山陽緩行線(あまり普及してない言い方)には茶色いのが走ってたが、いわゆる全金化とかいう更新車だったかな。
片町線はC11の貨物の記憶がかすかにある。中環のオーバークロスでドライブに連れていってもらった時に何回か見た。 >>70
ぶどう色の旧国は陰気臭い。明るいオレンジ色が似合ってた気がする。 >>68
国鉄時代のオレンジと今の環状線103/201系のオレンジって色調が違う気がする。
昔のオレンジってなんか「みかん色」という感じで、今は何か化学物質な感じがする。
褪色したあとも、昔がピンクになるなら今はそれこそ茶色に近くなるような。 なつかしいですね。
僕は1956年生まれです。小学生のころは、片町駅から、よく冗談で京橋駅まで、学校帰り
に乗車してました。夕方の最後尾車両は、積み込まれる新聞(夕刊)が山となって、座席がなくなる
ほどでした。運賃は子供5円でしたが、これも、友達に、京橋車掌区の食堂をおとうさんが経営している
という子がいたおかげで、抜け道を教わったので、無賃乗車でした。
貨物はC11がバックで夕方出発していきましたし。
まだ片町線の京橋ホームの北側にはダイエーもないころです。
京橋から森之宮にかけては戦災のあとも生々しかったですね。
片町駅にいつもたむろっていたのはOKタクシーでした。きれいな塗色の
タクシーでしたね。 こんなスレができているなんて。クハ55形が走り回っている時からいつも片町線を利用しています。いやー懐かしい。ところで103系の編成にオレンジとイエローが混じっていた時代がありましたね。 >>75
84年の春先だよな>イエロー組込103。
スカイブルーは単独で走ってたり2両だけてのが50年代後半にはまれにあったが、流石に3色混成はなかったな。 >>75-76
あのイエロー103系は、大鉄局と国鉄本社が仲が悪い副産物ですね。
福知山線4連化で余剰になったユニットは本来全部首都圏に行く予定だったのをせっかく入った新しい車両を取られてたまるかということで片町線の在来ユニットを捻出して関東に送りましたね。 地上時代の星田は、ポイントや中線があって面白かったのに、
高架になるとそれらが無くなって線路が2本だけになったのが
幼心にがっかりだった。 旧片町駅は、洗車場・月極駐車場になっていて、月極料金は、立地条件のことを考えると破格の価格です >>74
> 京橋から森之宮にかけては戦災のあとも生々しかったですね。
わたしは旧陸軍大阪砲兵工廠跡の空き地ぐらいしか分からないですね。
レンガ造りの半ば崩れかけた建物が一棟残ってました。
その建物を保存するかで揉めて結局見学会が開かれたという記事を読みました。
(穴だらけだったし何の変哲もなく歴史的価値ないよなと思ってましたけどw)
余談ですが、中之島の大阪市庁舎建替は子供心にももったいないと思いました。
今の蒲鉾型の建物はずいぶんと馴染みましたがセンスが無いと思います。 ふと片町線、茶色で検索したらここにたどりつきました。
なつかしいです。
ボクも茶色の電車はアタリと思ってました。
そして必ず近畿車両が見える側に乗りました。
C11は幼稚園が線路沿いだったというだけで、煙しか覚えてません。
砲兵工廠と言えば、おじいちゃんが空襲で電車が止まり、京橋から歩いて帰ってきたと言ってたなぁ。
確か環状線の下で安心だと人が集まって何百人もホームで亡くなったんですよね。
今は沿線に住んでないんすが、JRになってものすごく出世した感じがします。
でも神戸や大阪の真ん中を通ってきた電車が、田辺あたりに行くとボタン押さないとドア開かなくなるのが片町線しててよい。 >>81
> ボクも茶色の電車はアタリと思ってました。
ああ、そういうのありましたね。
小学生の時みんなでそんなことを言ってたのを思い出しました。
> C11は幼稚園が線路沿いだったというだけで、煙しか覚えてません。
C11だったんですね。
わたしが覚えているのは放出駅に止まっていたのと踏切で見たデカい動輪です。
> JRになってものすごく出世した感じがします。
久しぶりに大阪に戻って、シルバーの新型車両が走っているのを見た時は感動しましたw
> ボタン押さないとドア開かなくなるのが片町線しててよい。
福知山線の篠山口駅から奥が前からそうだったので採用されてるのでしょう。
(篠山より奥は降りる人も少ないし冬場マジ凍えるように寒いので) 旧国時代はもう何が入っていてもおかしくない位の百花繚乱ぶりだったが、
流石にドア数の違う車が入ってたのにはビビったなw。地上時代の忍ヶ丘付
近で1両だけ挟まってた3ドアの電車見たときゃ、『もしかして、車内はセ
ミクロスかしらん』なんて思ったのも懐かしい思い出だな。
(当時は初心者オタだったが既に113系や115系の存在は知っていて、3ドア=
セミクロスて認識だったw) 片町線=雨樋が直線のクハ79、のイメージ。
>>85
そして今は、223も走っている。 >>86
あの223系は狭義の片町線の列車とは言えないな。 62 名前:名無しさん@線路いっぱい 投稿日:2007/05/06(日) 00:15:47 ID:PaMpbfTt
>>61
終盤の7連固定のほうが尚更汚らしい編成だったような・・・?
クハ103-2なんてのも転入してきたし。
綺麗な編成はむしろ国鉄時代のほうが多かった。
クハ103-219-モハ103-784-モハ102-2041-サハ103-390-モハ103-427-モハ102-583-クハ103-220
クハ103-183-モハ103-769-モハ102-2026-サハ103-416-モハ103-770-モハ102-2027-クハ103-182
クハ103-797-モハ103-726-モハ102-882-サハ103-320-モハ103-727-モハ102-883-クハ103-802
クハ103-799-モハ103-728-モハ102-884-サハ103-323-モハ103-729-モハ102-885-クハ103-804
クハ103-829-モハ103-771-モハ102-2028-サハ103-383-モハ103-772-モハ102-2029-クハ103-836
クハ103-831-モハ103-773-モハ102-2030-サハ103-385-モハ103-774-モハ102-2031-クハ103-838
全車ユニット窓で構成された編成はこれだけかと。あとは先頭がボロクハ、或いはサハのみボロサハ
という編成が多かった。
鉄道模型スレより。 片町線といえば、長尾からのキハ30でしょ。
小学生の時に一度乗ったのを覚えてるが、あれはカルチャーショックだったw
寝屋川の護岸が変な色だったのが印象的だった >>89
84年初め頃の単行、キハ402113だったかな?
結構新しい車両に乗れて嬉しかったw 今は7連の車両が走ってる路線にたかだか20年程前は単行、多くて2連が走ってたことは今考えたら驚く。 子供のとき、長尾・木津間の気動車によく乗った
なぁ〜
田辺と祝園は無人駅だけど運転取り扱いだけ行う
職員がいて行き違いでタブレットを交換していた
ころが懐かしい。
当時は田辺・祝園両駅の構内はスプリング
ポイントだったな。
たまに、キハ58+キハ28の冷房車がきた
ときは当たりを引いた気分だった。
田辺駅はこないだまで木造駅舎だったよね。
真っ暗な街にポツンと駅の灯り。
列車が来るまで改札外の待合室で待つんだよね。
あれはあれで、近場でローカル線が味わえたのがよかった… >>93
あの駅舎と207のミスマッチ組み合わせもなかなか楽しいものだったな。 >94
その時代の面影が今でも残るのは下狛くらいですかのぉ。
道端のあのホームと207系の組み合わせは壮観です。 >>95
その下狛も、近いうちに8連対応になり(出来るのか?7連も苦しそうだが)7連の321系が入ってくることに・・・。 子供の頃の片町線に乗ったときの楽しみといえば、
徳庵の近畿車輛で見知らぬ車両に遭遇することと、
放出のヤードで貨物の群れを眺めることだったなぁ。 あそこで売ってる新車を買えるくらい金持ちだったらなぁ。
もちろん、車庫や走らせる場所の確保に建設、
運転はもちろん保守整備も長年続けられるくらいの金。 >>100
少し前までなら、
三山木信号場跡から分岐の鉄道用地が確保できたのにな、惜しいw アンカーを誤爆した・・・orz
>>98
売りません。 淀川電車区が放出移転して以降207系投入まで、文字通り「放出中古車センター」だったな。
101/103系で片町線生え抜きの新車は79〜80年に投入された103系16両(6R×4本+モハ2ユニット)のみだね。
淀電新製配置車は101系にもあったが環状線用だし。
近車でオレンジの101/103系が造られていて「あの新車が片町線に入らないか…」と思っていた。
今なら223系が学研都市線に入らないかと思うところ。
淀電101系は環状線と共通運用だったよね。
昔、近車で関西線色の101系とオレンジに黄色の警戒色の101系がイパーイ置いてあった。
>>106
旧国オンリーな時代でも、時たま101系も入ってたらしいね。
>淀電101系は環状線と共通運用だったよね
これは正確に言えば101・103系の非冷房車が共通運用(実際は桜島線の
入出庫運用)で、冷房車は片町線専用だったような。
片町線のラインカラーがオレンジだったのは、車庫が環状線と共用だったことが
理由なんだろうけど、首都圏では同じく車庫を共用している京浜東北線と横浜線は
別個の色だったのを考えたら別の色にする発想は無かったんだろうか? >107
接続する京橋が、それぞれのホームが並列な位置関係じゃないから
色が同じでも乗り間違える事はあり得ない、とでも考えたんだろう。 >>107
淀電が放出に移転してからそれが解消されたと思う。
そういえば関西本線も電化からしばらくは日根野だったから
たまに阪和快速に春日塗りの113系が使用されていたり
緑色の101系(冠水救済車が来た頃は黄色やオレンジも)も
阪和線の運用に入っていたりしてた。
けどそれは間合い運用だったんかな? 地上時代の忍ヶ丘って、某病院の向かいあたりにあったの?
>>110
いや、駅入口はパチンコ屋の向かい、というか、今のかたおか電気やら本屋の
入ってるビルの右手になるな>地上時代の忍ヶ丘
余談だが、薩摩っ子ラーメン屋の向かいあたりに地上時代の名残?らしき
踏切の標識(車両はSL!)が未だに残ってるがな。 をいをい。忍ヶ丘っていつからもぐったんだよ。
おいらが高校通ってた時分にはむしろ高架だったような記憶があるのだが・・・orz >>109
101系の阪和線運用は無い。緑色は103系。
王寺冠水時は東京の101系が応援に来るまでは関西線は間引き運転するくらいだった。
阪和を営業運転する余裕も必要も無い。
ちなみに阪和線で111系の運用実績はある。 >>113
103系はつかの間に緑と黄色の警戒色で走ってたね。
阪和線での111系の運用実績って東京から下関に転属途中に持ってくる時日根野で使ったって事? そうそう。結構長いこと走ってたよ。3ヶ月か半年くらい。昭和50年の話だけど 片町線に101系が投入されるよりかなり以前の旧国全盛期、時たま101系が入ってたみたいだけど写真が見つからない。 環状線・山手線で、ハロウィーンパーティにかこつけた単なる公共交通の妨害行為をやってる外人留学生が居るが、正直あれは迷惑だね。
度を越している。
地方自治や警察などが、面倒だからだとか、恨まれたくないから甘やかしてるんだよ。日本はさぞ居心地いい事だろう。
あとね、免許取消の処分者講習に行った時も欧米人留学生が半分近くいたよ。
日本語が解んないから知り合いの日本人帰国子女を通訳代わりに連れて来てた。
なんで、そんな奴等に免許を交付するのかねぇ?
深夜にも構わず騒ぐ。大音量で音楽を聞く。騒ぐガキにやらせ放題。
ハロウィンのアメリカ人やカナダ人の住んでいるアパートには、住まないほうがいいよ。
奨学金もらえなくて学校いけない日本人たくさんいるのに
政府や自治体、大企業はなんで腐った欧米人留学生に巨額の金額を与えるのか?
まず日本国内の問題から解決しろよ・・・
俺、政府と大企業(ソニー、松下、清水建設、エネオス)の奨学金で留学してきたドイツ人知ってるけど、
ベンツSクラスを乗り回してグッチを着ける物凄い贅沢三昧なわけ。
月に400万もあげる必要ないだろ?
欧米白人留学生は徹底的に調査すべきである。
何故、車に乗れるのか、スキー場にいるのか。
実家の向かいにイギリス人留学生が家を建てた…
日本に長年住んでいた訳じゃないのに、
よく物価の高い日本で家を建てたなぁ。
近所の人は“立派だ、偉い”と“怪しいなぁ…”の二つの意見に分かれてる。
外交は接待。行政はばら撒き。こんなくだらんことしかできんなら税金を軽くして行政のほとんどを停止してほしい 。 >>91
関東ものだけど、長尾−木津間がキハ11(10?)の単行には驚いた
どこのローカル線という感じ
>>54
73系と戦前型の混結は、関東ではほとんどなかったから、非常に珍しかった。
しかも、改造車ばかりだからな。
いつか模型で再現したいな
>>118
でもモハ63型由来の72系とキハ10系・20系では後者のほうがアコモ的には上。 俺は逆に、全線電化で四条畷より先も複線の片町線が信じられない。 >>120
なるほど、今で言うと札沼線みたいな感覚なのかな 片町線がJR化以後の車両に統一されている事が信じられない。
かつては阪和と車両のボロさでは目糞鼻糞の争いだったのに・・・ >>118
キハ10もキハ11もいましたよ。
キハ25とか首都圏色バス窓のキハ20 6とかもね。
腕木信号機はあるわタブレットはあるわ。
非電化末期はキハ58のパラダイス。
>>119
10系の窮屈さと薄暗さと座席のヘボさを考えたら72系の方がマシかもしれん。 >>124
20系との比較になると完全に電車の負けだな。 お父さんが歌ってたけど、片町線は牛が引っ張ってたのはいつまでですか? >>127
末期はDE10が引っ張ってたとか?真偽のほどは定かでない。 放出以東の貨物列車は、103系が投入された1979年にはもうなくなっていたような・・・?
101系が入った1976年でも怪しい。 片町線の100年以上の歴史の中で一番の全盛期っていつだろ?
やっぱり国有化前の名阪間のメインルートだった頃かな?
逆に衰退期は国有化から木津電化までだから片町線は歴史のほとんどが衰退期だなw 今でしょう。
JRWで国鉄車が無い路線
好き嫌いは別として 今考えると鴻池新田・徳庵・鴫野の利用客に
とっては昼間時間帯利便性(運転本数)速達性の
どちらの恩恵も蒙らず明らかにサービスダウン
だな…
>>133
かといって、以前のようにこれらの駅に配慮するために10分ヘッドに戻せば今度は快速が4本/hから3本/hに減ってしまう。
四条畷発の区間電車がアボンになったのは10分ヘッド時代でも昼間だからガラガラだったとかの理由もあったのかも。
四条畷以遠の速達性を高めて京阪との競合対策を考えたらどうしてもこれら3駅が割りを食うのは仕方無いのかもね。 裏が白い切符は、自動改札機を通れません。
係員のいる改札口を、ご利用ください〜 電車が到着すると裏が白い切符の客ばかりで
有人改札がよく数珠つなぎになっていたな…
あと、昼間長尾に着いたら気動車2時間待ちで
駅前の喫茶店で時間潰した思い出がある。
国鉄が試験的に自動改札を導入していた。
その自動改札機は弁天町の交通博物館にある。 >137
国鉄時代に関西圏で本格運用したのは、
その後に京都駅地下改札くらいじゃなかったか? 水色の自動改札機ナツカシス
>>136
>駅前の喫茶店
玉入屋の2階か?
あそこも競争厳しい業界にしては長いこと営業してるよなー
全通100周年のときって記念列車って走ったの?
鉄から離れた時期で知らないから教えてください。 >>140
少なくとも207系投入以後イベント列車は走ってないはず。
103系時代に221系使用のイベント列車は走ったらしいが… 日本初のLCカーも片町線にいましたね、クハ79全金車で妙に座席の切れ目が多いなと思ってたら雑誌に載りました、クロス営業はあったのでしょうか。 >142
クロスで営業に使われる事なくあぼーん、が定説。 >>140
放出発着のミステリー列車として“サロンカーなにわ”使用で走ったな>100周年イベント列車
放出〜(城東貨物線)〜吹田〜京都〜(湖西線)〜敦賀〜(北陸・東海道線)〜京都
京都〜(奈良線)〜奈良〜(片町線)〜放出のルートだったな
221系レジャー、223系ホリデーみたいなのなかったっけ? >>145
走っていない。
特に東西線開業以後は207系以外入れない状況が続いてたから。
木津発着の快速を奈良発着にした万葉レジャー号や四条畷〜西明石間に神戸シーサイドレジャー号があったが全て207系。 当初、長尾→松井山手の右手に大谷トンネルの頭だけ見えてましたが、
今は籔になっててわかりにくいですね。
S60頃、木津−長尾間によく乗りました。
大都市近郊区で唯一の未電化区間だった。
レンガ積みのホーム、明治23年開業当時のままの駅舎、
トンネルポータルもレンガ造りで真ん中上部に蒸機のススの後。
駅ではのんびりとタブレット交換。
周辺から30年は遅れている感じでしたね。
京橋の長尾方面のホームにあった
立ち食いうどん屋がなくなったのは、かなりショックだった。 和歌山区から急行きのくにの廃止で転がり込んできた
キハ58系が非電化区間で使用されてたなあ。
キハ58 737が懐かしい。
あと、祝園駅の駅名標で隣が「にしきず」になってたのも懐かしい。 片町線に自動改札機が入った頃、阪和線の三国ヶ丘や紀勢線の和歌山市も南海に委託してる関係で自動改札がありました。
三国ヶ丘や和歌山市から乗った裏の茶色い切符で片町線の自動改札は通れるのか疑問だったんですが実際はどうだったんでしょう?
片町線の103系は昭和55年5月から営業開始ということになってますが、もしかして昭和54年から営業してなかったでしょうか?
103系高運転台車が投入された頃に撮った写真の撮影日がわからないのですが、前後に撮ってる写真から推測すると昭和54年のような気がするんです。
真相わかる方いませんか?