国鉄片町線
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今でしょう。
JRWで国鉄車が無い路線
好き嫌いは別として 今考えると鴻池新田・徳庵・鴫野の利用客に
とっては昼間時間帯利便性(運転本数)速達性の
どちらの恩恵も蒙らず明らかにサービスダウン
だな…
>>133
かといって、以前のようにこれらの駅に配慮するために10分ヘッドに戻せば今度は快速が4本/hから3本/hに減ってしまう。
四条畷発の区間電車がアボンになったのは10分ヘッド時代でも昼間だからガラガラだったとかの理由もあったのかも。
四条畷以遠の速達性を高めて京阪との競合対策を考えたらどうしてもこれら3駅が割りを食うのは仕方無いのかもね。 裏が白い切符は、自動改札機を通れません。
係員のいる改札口を、ご利用ください〜 電車が到着すると裏が白い切符の客ばかりで
有人改札がよく数珠つなぎになっていたな…
あと、昼間長尾に着いたら気動車2時間待ちで
駅前の喫茶店で時間潰した思い出がある。
国鉄が試験的に自動改札を導入していた。
その自動改札機は弁天町の交通博物館にある。 >137
国鉄時代に関西圏で本格運用したのは、
その後に京都駅地下改札くらいじゃなかったか? 水色の自動改札機ナツカシス
>>136
>駅前の喫茶店
玉入屋の2階か?
あそこも競争厳しい業界にしては長いこと営業してるよなー
全通100周年のときって記念列車って走ったの?
鉄から離れた時期で知らないから教えてください。 >>140
少なくとも207系投入以後イベント列車は走ってないはず。
103系時代に221系使用のイベント列車は走ったらしいが… 日本初のLCカーも片町線にいましたね、クハ79全金車で妙に座席の切れ目が多いなと思ってたら雑誌に載りました、クロス営業はあったのでしょうか。 >142
クロスで営業に使われる事なくあぼーん、が定説。 >>140
放出発着のミステリー列車として“サロンカーなにわ”使用で走ったな>100周年イベント列車
放出〜(城東貨物線)〜吹田〜京都〜(湖西線)〜敦賀〜(北陸・東海道線)〜京都
京都〜(奈良線)〜奈良〜(片町線)〜放出のルートだったな
221系レジャー、223系ホリデーみたいなのなかったっけ? >>145
走っていない。
特に東西線開業以後は207系以外入れない状況が続いてたから。
木津発着の快速を奈良発着にした万葉レジャー号や四条畷〜西明石間に神戸シーサイドレジャー号があったが全て207系。 当初、長尾→松井山手の右手に大谷トンネルの頭だけ見えてましたが、
今は籔になっててわかりにくいですね。
S60頃、木津−長尾間によく乗りました。
大都市近郊区で唯一の未電化区間だった。
レンガ積みのホーム、明治23年開業当時のままの駅舎、
トンネルポータルもレンガ造りで真ん中上部に蒸機のススの後。
駅ではのんびりとタブレット交換。
周辺から30年は遅れている感じでしたね。
京橋の長尾方面のホームにあった
立ち食いうどん屋がなくなったのは、かなりショックだった。 和歌山区から急行きのくにの廃止で転がり込んできた
キハ58系が非電化区間で使用されてたなあ。
キハ58 737が懐かしい。
あと、祝園駅の駅名標で隣が「にしきず」になってたのも懐かしい。 片町線に自動改札機が入った頃、阪和線の三国ヶ丘や紀勢線の和歌山市も南海に委託してる関係で自動改札がありました。
三国ヶ丘や和歌山市から乗った裏の茶色い切符で片町線の自動改札は通れるのか疑問だったんですが実際はどうだったんでしょう?
片町線の103系は昭和55年5月から営業開始ということになってますが、もしかして昭和54年から営業してなかったでしょうか?
103系高運転台車が投入された頃に撮った写真の撮影日がわからないのですが、前後に撮ってる写真から推測すると昭和54年のような気がするんです。
真相わかる方いませんか? >>150
同系列のうどん屋は大阪駅の環状線ホームに今もあるな。あそこでかしわそば食べるのが楽しみだったなw
>>152
>片町線の103系は昭和55年5月から営業開始ということになってますが、もしかして昭和54年から営業してなかったでしょうか?
新潮社から出ている鉄道旅行地図帳での記述ですな。正確にはあなたの指摘どおり
前年の昭和54年7月ごろ(正確な日付はちょっと不明だが、当時の鉄道ファン誌
昭和54年10月号に“関西初登場の103系高運転台車”ということで今は亡き住道
行きの方向幕で掲載されてたな)の運転開始のはずだがな。
余談で自分のカキコだが、>>56でも書いたように昭和54年10月の長尾〜四条畷間
の複線化完成時のシンボルマークが103系高運転台車のイラストだったしな。 >>153さん
ありがとうございます。
やはり昭和54年から営業してましたか。
鉄道旅行地図帳の記述も80.5〜となってますね。
Wikipediaもそうですが、いろいろ検索しても、なぜか昭和55年からとの記述ばかりなんです。
そう言えば、長尾〜四条畷間複線化のパンフレットには103系高運転台車が載ってましたね。 >154
Wikiとか信用せずに、当時のリアルタイムの鉄道雑誌を
当たってみる事をお勧めする。 ここの情報網はすごいね。
てか、みんな昔の雑誌・文献を結構持ってるんやなあ…
>>154
他には例えばWikiの記述では101系は京浜東北線からの転用となってるけど実際には大阪環状線からの転用だし。
しかし103系高運が投入されたのは時利用者に強いインパクト与えただろうな。一目で環状線からの中古ではない新車と分かるし。
でも長尾複線化当日(1979.10.1)四条畷駅での出発式に使われたのは101系でしかも5号車のM'100はPS13付き車だったというw
普通はこういう祝賀式には新車使うだろうが!とツッコミ入れた記憶がある。まして103系は長尾複線化対応の新車なんだから。 ttp://sensmixt.cool.ne.jp/sens_019.htm
ここで、地上時代の住道〜鴻池新田を疾走する
101系の走行音と、側扉の迫力満点の開閉音が聴ける。
子供の頃は101系と103系の走行音の違いは
あまり意識していなかったけど、
高架後の住道〜鴻池新田を爆走する
103系快速の走行音は、さすがに閉口もんだった。 >>152前半
無理だったはずです。
三国ヶ丘や和歌山市のは、あくまでも「南海の」自動改札で
国鉄については「入場のみ」の対応。
当時の自動改札の性能なんて、そんなもんです。
(だから首都圏の改札自動化は、関西より10年近く遅れた)
>>161
木津電化当時居た103系のうちクハの非ユニット窓車は殆ど廃車になり、サハに至っては学研103系サハは非ユニット窓世代が大半だったこともあり全滅してるのよね。
学研103系が本線時代一緒に組んでいたサハは学研転用時関東に持って行かれてしまったから学研7連化の時ボロサハしかなかった。 >>159
意外に知られてないけど…
長尺券が通れたのは、旧型自動改札(片町・武蔵野・京葉)だけ。
京葉線新木場で、一度だけ東京ミニを通したな。 >>157
>101系は京浜東北線からの転用となってるけど実際には大阪環状線からの転用だし。
これは当時の103系投入の方法を変に解釈して編集者が混乱したからでないか?
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
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昔の101系の方向幕に「四条畷−長尾」という幕があったけど、そんな運用あったのかな? 103系の幕に星田、住道、徳庵があったのは覚えています。
そんな行き先の列車は、その時なかったのですが。
長尾ー木津電化の頃には、松井なんて表記もありました。
松井山手の仮称だったんでしょうか。
新製103系や、関西本線王寺駅水害時の車両の貸し借りなどは語られてますが、片町線を関西線普通のウグイス色が走ったことについては?
前面に黄色の警戒色の帯が入ったあれ、一時走りましたよね? >>167
>103系の幕に星田、住道、徳庵があったのは覚えています。
>そんな行き先の列車は、その時なかったのですが。
住道行きは(おそらく星田行きも)長尾複線化の頃までありましたね。あと、直接の関係はないですが、非電化区間には
木津〜祝園間の列車もあったようですので、当時電化されていたら祝園幕もあった可能性は高いですね。
徳庵行きは記憶にないので、もっと早い段階で消えてました。
>長尾ー木津電化の頃には、松井なんて表記もありました。
>松井山手の仮称だったんでしょうか。
そのとおりでしょう。住宅広告などでは松井ヶ丘と書かれていたようですが。
JR東西線開業直前の103系引退イベントでやってましたが。
>片町線を関西線普通のウグイス色が走ったことについては?
>前面に黄色の警戒色の帯が入ったあれ、一時走りましたよね?
101系冷房改造時(昭和53年初夏)に走ってましたよ。
雑誌にも載ってましたし、私も実際見かけました。 >>167-168
103系冷房車の幕の順序表には、1988年快速登場以前は「長尾」と「草津」の間の3コマ分は空欄になっていた。
仮に国鉄時代に全線電化していたらそこに「田辺」「祝園」「木津」を入れる積もりだったのかも。
あるいは田辺か祝園の代わりに「奈良」を入れたかもね。 確かに非電化時代、朝ラッシュに木津⇒祝園⇒木津の運用がありましたね!
非電化時代の長尾駅、今の京橋方面のホームが木津行きだった頃
「高田」の方向幕を出した気動車が止まってた記憶がありますが…
余談ですが当時長尾はホームには線路を横断してましたよね。 ♪電車の吊り革 ホームのベル 改札越しに見える時計…
単線時代の長尾駅は駅舎から構内踏切でホームへと渡ってましたね。
木津行気動車乗り場の方が遠かった。
長尾まで複線化されてからは、気動車ホームが手前にきました。
でもあの短いホーム、いつのまにかなくなってる。 それにしても、1年で存在意義を失ったサハ102って今思うと無駄な改造だったな。 新車を投入してくれ、ってアピールだったんじゃないの 結果論だけどな。
いきなり分割対応の207投入したら一番ベストなんだろうが、投入時期と微妙にずれたからな。
所で妄想になるが、もし昭和40年代に全線電化されてたら、木津〜長尾間は最初は2両編成位でロクサン辺りが入ってたのかな? >174
おそらくその辺。
客が増えてきて103の4連とかになったんだろう。 >>174
キハ10・20系→ロクサンって何と最悪な・・・
かえってサービスダウンかと。 >>176
とはいっても、40年代だと旧国か101系しか2両編成組める車両なかったからな。
3ドアセミクロスのモハ54グループを本線緩行から持ってきたらまだちょっとましだったかも?
そんでもって101系置き換えが現実(昭和51〜52年)より早まったりして >>177
でも片町〜木津・奈良間を直通させるとなると話が変わってくるかも知れないな。
仮に関西線電化以降になるなら113系赤帯が共通運用で快速として走っていたかも。
当時の国鉄の考え方なら快速=近郊型を使うという感じだし。
そうなると今頃は221/223系に置き換えになってたかもな。 かりに網島ルート(鴫野〜網島〜桜ノ宮)が残ったままだったら、桜ノ宮〜大阪を複々線化して大阪発着になっていたりしたのだろうか。
>>179
複々線にはなりそうだか、片町でのどん詰まり状態が大阪に移るだけだろうな。そうなると桜島線方面へ伸ばすか、東海道線に乗り入れるかするだろうね。無論快速はなしで。 桜ノ宮周辺は京阪が梅田乗り入れ計画の面影がある。
京橋手前で分岐させて桜ノ宮経由で現HEP FIVEが京阪梅田。
でも京橋駅を高架にした時点でオワタ。
>180
それでも直接大阪駅に入るので利便性は上がるな。
東海道線乗り入れなら当初の東西線計画のように別線を大阪〜尼崎に作って福知山線乗り入れかな? 片福線は福知山線から第2大阪駅、片町線経由東海道線山科
山科駅にはそのスペースがある。
>>183
もともと山科のスペースは湖西線や北陸方面から来る特急や貨物を片町線へ振り向けるために
計画されたらしいね。
もし実現していたらサンダーバードなども片町線経由に?線内の停車駅は京田辺、長尾、四条畷、
京橋くらいか。 >>183-184
それって出ているの冷蔵庫の妄想だけやん。信憑性ゼロのネタ持ってきても仕方ないがな。 片福連絡線(現JR東西線)は、片奈連絡線や山科ー奈良線間の新線ともセットの計画だったよう。
東海道線が逼迫すると見て、客貨分離を図ろうとした。
長尾に操車場が設けられ、吹田へ貨物専用の新線がつながり、山科ー尼崎間の複々線を旅客専用にすると。
もし完成していたら京阪神のダイヤは、今とは違ってたろうね。 片町線は貨物の需要がかなりあって
幹線の東海道線と接続させたかったはず。
ダイエーの場所に近畿車輛があり、
現OBPにはアジア最大の兵器工場があった。
京橋を出て大阪城公園あたりまで、環状線が
地面に線路を敷いてる・・・
交野市の市役所の分室には、
星田駅で撮影した、長尾方面から進入してくる
8620型と思しき蒸気機関車牽引の貨物列車の
写真が飾られているな。
C11じゃなくて?
片町線で8620の運用あったんだろうか? 下狛と祝園の間から分岐していた、貨物引き込み線の小さな鉄橋なくなってるね。
線路に近い土道は何となくそれっぽい雰囲気残ってるけど。 >>191
C11だと思って写真をみたら、そうじゃなかったんで
もう一度見直してみても8620だった。
奈良運転所には、木津駅入れ替え用に8620の配置があったらしいので、
それが足を伸ばしていた可能性もありそうだ。 >>194
その写真、一般人でも見れるかな?
片町線に8620入った記憶全くないし、ググってもそういう資料出てこないから
すっごく貴重かもしれない。 片町線の8620。探してたら、某掲示板の記述を見つけました。
>ですがいろいろと調べていくうち、
>どうも8620が片町線に入ったことがあるような旨の記述に出くわしました
>
>これは予想外でした
>城東貨物線と繋がっている放出〜鴫野間ならまだしも、
>その記述には木津〜長尾間を往復したとの事でした
>
>で、いろいろと調べてみたんですがそれ以上の資料は得られず
>結構書籍とかも読み漁ったんですけどね・・・
>
>そこで先日あることに気づいた
>
>「父親に聞けばいいんだ」
>
>早速父親に聞いてみたわけですが
>
>「ああ、確かに入ってたね。それの写真撮った覚えあるから」
>
>私の苦労は何だったんだ(ぇ
>初めから父親に聞けばよかったんじゃないかwww
>
>父親曰く、本来C11の運用に入っていたとの事なので
>おそらくC11の調子が狂ったか、検査の関係で入ったのでは、との事
>
>機番は88638だったそうで、予想とピッタリw
>これで模型が作れます(マテ
>
>父親も「これは良い記念になる」と思ったらしく、
>大きい印画紙にプリントして部屋に飾っていたとの事(昔は自家現像してたそうで)
>
>数年前に我が家は建て替えてあるんですが、建て替えの折に倉庫へしまいこんだそうです
>機会があったら探し出してやろう、との事でした
(一部編集してます)
何かの理由で奈良運転所の88638が走ったんですね、見たかったなぁ。 >>196
ソース乙、そしてお疲れ様です。
2ちゃんで大概この手のネタになると「ソース出せ!」「つブルドッグ(つオタフク)」とかのやり取りになる中、いい意味でマ
ジで探し出すとは(路車板とか総合板なら荒れたでしょうが)
明治期のごく数年間とはいえ、名阪間の幹線だったからハチロクだと走れなくは無いとは思ってたけど、本当に走ってい
たのですね(城東貨物線絡みの放出〜鴫野ならとにかく)。 >>157
>こういう祝賀式には新車使うだろうが!
亀だけど、当時は新車は始めはガンガン使わずラッシュ時のみとかデータイムのみという
使い方をして、使い慣れた頃にフルに使うということをしてたんじゃないか? そう思う。
旧型国電と単行キハをかろうじて覚えてる私からしたら、?段階特進だよ。 しかも今やほとんど誰も「片町線」とは呼ばないわけで 日本一は大仰かもしれないけど、五指に入るくらいの出世線区だろうな。
単行キハつったら、国鉄時代に何回か乗った、木津を午前9時過ぎに出る かすが崩れの名古屋行快速に接続する長尾発8時半の列車が単行だったな。 キタまで乗り換え無しで行けるなんて想像できなかった・・・・
ましてや兵庫県へも。 >>199-203
それまでの長い長い暗黒期があるから他の路線の常識で当てはめたら
常識的な内容になっても大出世路線に見えると思われ。
本当の意味の黄金期ははるか明治期のほんの一時期名阪間メインルートとしての役割が
あった僅かな期間だと思われ。
今の状態も、華やかさという観点で見たら当時よりは下かと。 >>204
>本当の意味の黄金期ははるか明治期のほんの一時期名阪間メインルートとしての役割が
>あった僅かな期間だと思われ。
コレとて現関西線ルートの大阪鉄道買収までのつなぎみたいなもんだから端から期待されてなかったんじゃないのか?
(田沢湖線の広軌化運休に伴う秋田リレー号運行した北上線みたいなもんだな) >>204
山科まで新線を敷いていたら
かなり雰囲気が変わっていたはず。 >>207
この新線が出来ていたら、北陸からの特急を片町線に移すことも考えてたらしいね。
というか、長尾複線化で整備されたインフラって高架部がスラブ軌道になってたりしてるなど
結構高級なインフラになってるから山科までの新線も考えてたのかも知れない。 アジア最大の兵器工場から片町線経由で
主要幹線東海道への貨物輸送。
その乗り入れ地点が山科駅。
山科駅にも乗り入れ予定であったと
思われる雰囲気がある。
大阪城公園駅周辺は環状線で唯一地面を
走っていて、理由は高架にすると工場が
丸見えになるかららしい。
>>209
わざわざ片町線経由にしなくても、環状線京橋→城東貨物線→吹田操車場で東海道に入れんか?
前も言ったと思うが、山科分岐は川嶋の妄想でしか見たことがないのだかな。 山科分岐から片町線につなぎ吹田へ抜ける貨物のバイパス線にしようとの構想があったらしい。
今の東海道の列車線なんか山科ー茨木間、逼迫しているから、あれば助かったかな。 いや〜〜〜・・・懐かしい 片町線。
昭和33年大阪に出てきて・・・
環状線で通学していた。
数年後片町線のとある駅にある工場にアルバイトに行った。
京橋の階段降りて片町線に乗る。
電車が入ってきた。その日は小雨が降っていた。
ドアが開いて、乗車した。
座席は満席で、吊革に手を差し伸べ、片方はこうもり傘を持っていた。
床をみると、床板に節目があった。
ついこうもり傘の先端でつっいた。すると穴があいた。
その穴から敷石や枕木が・・・・。確か徳庵の駅近くだったと記憶している。
そう、昔の電車は床が学校の教室と同じ板を敷き詰めていた。S.34年の思いで。 >>210
確かに、山科から長尾に抜ける新線の話って、どれも川島本からの引用
なんだよね。
そもそも雷鳥の片町線経由は、所要時間が延びるだろうし明らかに
ありえないだろうと思うが・・・。
要するに、片奈連絡線構想から川島氏が想像を膨らましただけの様な
気がする。
>>208、212
川島氏の本以外で根拠になるものがあれば、教えてほしい。
>>195
やや亀レスになったけど、
別に市役所の職員でなくても普通に見られるので、ご心配なく。
印鑑証明とか課税証明書を申請するフロアに、
市民が見られるように飾ってあるし。
因みに飾ってあるのは私部の別館ではなくて、
星田の出張所のほうやし。 >>215
ありがとう、平日休み取れたら一度行ってみるかな。
星田の出張所ねφ(..)メモメモ・・・ >>216
中之島図書館などは鉄道関係とか郷土資料が
あるのでそちらの方で閲覧するのもいいよ。
>>213
トイレ便器から敷き石や枕木が見えたって記憶は明確にありますが
車内の床下って…
危険すぎる… 木製の床に痰を吐く穴が設置されていた……というのは、国鉄ではあったのかしら? >>219
戦前の客車は標準装備だったらしいが、電車だとどうだろう? >>158
103系の走行音の凄さは阪和線にはかなわんと思うよ。実際に夏場の阪和線103系非冷房車に乗車したが、とてつもなかったな。ちなみに非冷房の快速電車。 地上駅時代の徳庵駅が懐かしい。
国鉄の駅、って感じで。
両サイドの有人踏切の独特の音もよかったなぁ。
祝
長尾ー四条畷間複線化
藤阪駅、東寝屋川駅開業
ちと遅れた、スマソ。 幼少時に接した地上時代の星田駅は、ぼんやり記憶が残っている。
現在の駅になって、地上時代にあったポイントや中線が
無くなってしまったのが幼心にがっかりだった。 >>225
いつごろの話だろうか?
長尾複線化(79年10月)から京阪本線1500V昇圧(83年12月)の間ならそう言えそうだな
(あの当時は交野線は1300系とか600系のたまり場だったからな)
自分の高校受験が83年の2月で、交野線沿線の某ラグビー強豪高校へ併願で受けたのだが、往復とも1300系だったな。
(それ以前に何回か交野線には乗ってたが、1300系乗ったときなんか101系化前の片町線思い出したしw)
受験の翌月には先行運用の6000系が入って再度逆転されたが。 >>230
225は、小学生の頃に初めて6000系に乗ったときの感想そのまま。
それまでの交野線というと、1700系の印象が強烈(木の内装と
臙脂色のシートの組み合わせが下品にしか思えんかった。)だったんで、
個人的には、片町線>交野線だったわけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています