>>50
都営6号線時代、三田駅は明らかに中間駅構造で設計していたのだろうが、
手前の駅から単線並列で運転していたのは如何にも「暫定」の臭い。
ただ当時の都の赤字財政で、三田から泉岳寺方向に伸びるとは、
子供心にも信じられなかった。
今、思えば「長い暫定」だったんだろうね。
暫定構造としては東の横綱クラスかな。

阪神の西九条も、永らく「暫定構造、西の横綱」だったが、
南海高野線の「岸ノ里」も、30年前は良い味出していた。
当時は岸ノ里から汐見橋方向が直線で、
運転系統こそ早朝深夜の堺東発着があっただけだが、
殆どの列車は如何にも「後から取り付け」たような南海本線天下茶屋方向への
複線平面渡りをゆっくり通過して、本線の東線に合流していた。
今は駅統合や線路の整理で自然に高野線が合流しているし、
汐見橋方向も南海本線の分岐線のような構造だが、
当時は大昔の運転系統が本則だったと主張しているようだったな。