四国急行黄金時代を語らないか
>>45
多度津は止まってただろう
土佐山田も全列車通過ではなかったような記憶がある >>46
南風の開業当時の停車駅は
高松〜阿波池田〜高知〜須崎〜中村
全列車も何も開業当時は一往復 初めて四国に行った時、高松駅に44系客車が止まっていたのには驚いた。 >>39-43
昭和46年の時刻表だと、高徳ノンストップ急行は
下りがむろと@ 阿波E
上りはむろと@ むろとBですね。 実際には運転停車あり。
「しおかぜ」は一部多度津を通過した。 肱川の風の博物館で「四国の急行展」を見た。
内容は期待した程ではなかったけど、他の博物館でもやってくれないかな。
当たり前だけど昔の特急・急行は「それらしい」ですね。
今とは停車駅数や車両、サービス…全てが違う感じがします。時代の流れ故に仕方ないのでしょうが。 肝心の急行がないのに
特別急行ってのもなんだかなぁ
漏れにとっての「四国の急行」は
キハ65と52−5200。
あと、怪しいキニと円形ヘッドマーク。 渥美清が最後に助役だか駅長になる喜劇シリーズあったな
ラストシーンで生まれた子供の顔が渥美清の顔を合成して笑ったな
フランキー堺のシリーズもラストシーンは子供がフランキー堺の顔を合成w 土讃線から予土線直通の列車ってなかったかな?
朝、高知出発の急行に併結されてたような覚えがあるんだが。
窪川から快速か普通になるやつ。
土佐に併結のよしの川もあったよね。 >>63
もとは高松が始発。
晩年に高知発になった。 松山から鈍行高松行きで高松まで行って(乗ったのはキハ40 2145だった)、
50系客車になる前の土讃線の夜行快速、731Dに乗ったら、
隣のボックスで、池田高校の蔦監督がぐうぐう寝てはったなぁ…。
夜半過ぎの高松では、急行「うわじま1号」にタラコ一色のキニ56 1がくっついてて
(いま出回っているオレンジカードとたぶん同じ図だ)、
夜の夜中に高揚しまくってた厨房の夏。
懐かしいねぇ。
今、キハ5865で必死になっているのはお子様達なんだよな。
国鉄時代は全国各地で走っていたから、よくぞここまで残っていたという感じだ。
でも、いまさら撮影なんてしたいとは思わないよな。 手元に1967年10月号の時刻表があるのだが・・・
土讃線の列車は、おもしろい併結列車があったみたいだね。
215D 足摺2号なんだけど、多度津で松山発の「予土」を
阿波池田で徳島からの「よしの川」繋いだり・・・3階建てとは。
何両で走っていたのだろう?
予讃の方も、松山3:24発急行いよ1号とかあるんだけど
発車時間がすごいな。お客さんは多かったのかね〜? >>68
連絡船継走はとんでもない時刻に出たりしますよね。
大阪から夜行の「鷲羽」で高松に着くと、3時代にどやどやとラッシュがおきてました。
徳島行きは、ホームにいて乗れましたが一時間後の出発。でも4時代。 宇高航路が生きてた時代は南海航路使ってたからなあ…高松の最盛期は知らん。
よしの川崩れは小松島港まで使ったことがある。 >>70
徳島駅では「こまつしま・みなと」と言って切符買う人が多かったです。
小松島から誘導係が乗ってきて、入れ換え扱いで港駅ホームに入ってました。
無人の踏み切りひとつ渡れば港駅。機回し線がある片面ホーム。
切符回収の駅員さんのわきに、ちくわのおばちゃん。すぐ左手が南海フェリー待合室でしたね。
>>68
予讃本線内
<ハ58+<ハ58+ロ28+ハ58>+ハ58>
1〜4「いよ3号」、5号車「予土」
土讃本線内
<ハ58+<ハ58+ロ28+ハ58>+ハ58>+<ハ28+ハ55>
1〜4号車:足摺、5号車:予土、6,7号車:よしの川
「予土」は1両なので(営業運転としては)単独では動かせなかったよう。
上りも「南風」−「よしの川」−「うわじま」にくっついてまるでコバン
ザメのようだ。
このユニークな列車もS43,10には廃止されている。 68です。
74さん詳しい解説ありがとう。古い時刻表が
あるのはいいのだが、四国内の編成表は掲載
されてなくて謎だったのです。
ホント、ユニークな列車ですねぇ。
69さんも懐かしい思い出話をありがとう。
深夜〜早朝にかけて、ホームでエンジンを
カラカラ言わせてるDC達・・・
最高ですねぇ。 >>68>>74
「予土」はキハ52だったと思いますよ。
RP41-11の四国特集に詳しく運用や編成が出てました。
夜に家に帰ったら見てみます。他の人のフォローもよろしくです。 キハ52急行予土の写真は確か、鉄ピクの遜色急行特集でも出てたような。 76です。
43.10直前はキハ58使用ですね。失礼しました。
キハ52使用の優等列車は、もう少し古い時代ですね。 74です。補遺させて下さい。
「予土」はS40,6に新設。
資料上では特急、急行、準急気動車列車編成順序表ではS40,10,S42,10ではキハ58。
受け持ちは高松です。
ヒゲの急行のミュージックホーンの、音源とまでは言わないが
音階が知りたいと思うのは俺だけ? >>80
ノシ
名列車伝(だったかな?)とか言う本に"ドミソミドソミソド"
と書いとったような
電子ホーン(ちがうんだろうな)だったら、回路図を見てみたい。 >>81
ありがとう。さっそく鍵盤で再現を試みてみます。 「やくし」「たいのはま」「あけぼの」「にしうみ」
臨時急行HM付サイコー。 列車名忘れたけれど高知から高松までドエライDC急行に乗車した覚えがある:
キハ55+キロ28+キハ55の3連
>>25
CV240は日東航空が持っていたかな?あれ与圧装置がついていたが
「大雪号」なんて北日本航空から来た機もあった。その後NORD262に変ったが、
小型で窮屈だったけれどエンジンの音が「カラカラカラ」--で面白いターボ
プロップだった。 70年代前半上りいよ5号は4両編成という短編成で運転していた。
しかも唯一堀江に停まっていた急行だ。 「いよ」 は臨時で松山以西も運転されていた時期があったな。 >>4
ありましたね。高知市内の高知県交通の要所堺町発で。カラーテレビ搭載
が売りだったような。子供のころ高松行きの列車が結構な本数あるのに
乗る人いるのかなと不思議に思った記憶がある。 昭和57年に急行いよに乗った。キハ65は走行中、気障りな振動をたてた。 車販なくなったのですね。10年ほど前には予讃線に残っていて
新居浜で折り返してたような。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
>>90 痛違いだけどまた試験的に乗せてるらしいじゃないですか >車販 準急「黒潮」なんてのが土讃本線を走ってたようだね(昭和39年現在)。
この列車、もしかしてキハ55系? 高知方面行き急行あしずり・土佐で阿波池田出て、右手の山の中腹に民家や畑が見えてきたら、だんだん高知に近づくなぁ、って思ったなぁ あのあたりは本当高い所まで人家や田畑があるねぇ。
車が入れる道路が付いたのはずいぶん後だったときく。
今はお年寄りだけかな。 >>98
宇野線、時間一本に幹線運用でグリーン車が要るからって、宮原のG付き7+4の11連で岡山運用にしてたね。
入れ替え用に大阪〜岡山の113系運用があった。
モノクラス化で、岡山の115系、8、12連に化けたけど。 >>63
>土讃線から予土線直通の列車ってなかったかな?
ありましたよ!
朝8時04分、高知始発で中村・宇和島行き。
後ろ2両が窪川で切り離されて、中村行きよりやや後れて予土線に入り快速として宇和島まで乗り入れてた。
>>80
>ヒゲの急行のミュージックホーン
これの音階、小田急ロマンスカー「はこね」と同一。
>>100
ヒゲの急行のMHにビクーリ。
懐かしくないけど匹の8000系の車内チャイムが
ヲタ急の20000と同じというのも奇縁っす。 30年前は松山ー八幡浜を特急でも2・3時間かかったのに、今では内子線経由で50分で行けるのだが、瀬戸内海見ながら弁当食べる事ができた昔の方が良かったなあ…
一日一本でいいから長浜経由に急行をとおして欲しい 最後のだけ見れた。うわぁ〜なつかしす。
小学生の時、一度だけ急行いよを乗ったことがある。この時便所のランプがずっと点いていてションベンが出来なかったなぁ。多分キセルしてたんだろう 銘柄入り急行券がなかった急行列車は「よしの川」のみ。
「むろと」「阿波」もなぜか数本ハザがあった。 ガキの時は徳島だったので予讃線・土讃線の各急行と比べると、
「阿波」「むろと」「よしの川」どうしても格下に思えた。
最大でも3両だし、グリーン車も半室で全列車付いてなかったしね。
高松の「阿波」が出る0番線と、「いよ」とかが出るホームも違いすぎ(笑)
向こうはホームに手押し車?ワゴン?の売店とかも出てたからね〜
ただ「よしの川」は南海四国ラインの一部だったからか、編成以外は意外に?華やかだった。
徳島以遠、高知とか行く乗客も多くて活気と言うか、ビジネスライクな「阿波」とは雰囲気違ってた。
小松島港〜徳島間は快速運転。県内の駅の運賃表に「なんば」も普通にあったし。
大阪から徳島に行くときは小松島経由が主流だったろうが、大阪〜高知だと高松経由とどっちが主流だったんだろう? 下手に遅い鉄道や一般道使うくらいなら、
車利用するしないに関係なく一晩寝てるだけで着くフェリーの方が安いし楽。
本当に急ぐ奴だけ航空利用。 >>116
新幹線岡山開業までは小松島経由のほうが分があった。 大阪高知特急フェリーの船酔いには泣かされた。YSの席は全日空から埋まり、東亜によく回されたなぁ >>120
今だったら修行僧で満杯だっただろうなw >>122
懐かしいなぁ、東亜のYS
自分が三・四歳頃に乗った事あるけど着陸時に凄い衝撃と急減速でシートベルトのところが痛かったのが印象に残ってる。
スレチスマソ 高松に着いた夜行急行は6時発のホーバー急行便に連絡、宇野から快速電車、岡山でひかりに乗り継ぐと、新大阪に8時30分に着き
御堂筋線に乗り換えれば梅田や本町9時の用事に間に合うのでビジネスマンや単身赴任族にも人気があった。
飛行機だと朝一の便でも伊丹空港からの道路が少し混んでいれば、大阪都心に9時に着くことができなかった。
瀬戸内夜行フェリーは今より船足が遅く、大阪弁天埠頭入港は9時、10時の便が多かった。
ただし神戸青木には良い時間についたので、ここから阪神電車という手もあった(フェリー発着時間帯は阪神急行が青木に停まった) >>112
ハザはキロハ25のハだろう。
一度夏に高松−徳島間に乗車したが満員だった。 「吉野川」(キハ55)から小松島港で神戸-大阪行阿摂航路乗り換えが呑気で
良かった時代が懐かしい。「ちくわ」を買って齧りながら昼飯は定番親子丼
か船に依っては和定食、のんびり昼寝出来た。
徳島−小松島港のチョン行キハ11が改造で内壁デコラ張り(マーブル調)で
扇風機取り付けだった。 >>126
ゆとり世代には絶対に無理そうですね、その乗継からの直での仕事は。 昔は寝台じゃない夜行列車で乗り込んでそのまま仕事は普通
長距離列車の始発終着駅のホームには洗面所が(便所とは別に)設置されていた時代 ホームの洗面所は殆ど見られなくなったが、あの丸い形が独特だったし、アルマイト
の嗽コップがよく盗まれて鎖だけのが多かった。
時刻表に丸の中に洗のマークがあった。徳島など後年探しても無いので不思議だった
けれど、公安官詰所だかの横にチョコンと一つあったのを見つた。 どこかで読んだことがあるのだが...
予讃(本)線の下り急行(「いよ」か?)に連結されたキユニ(15?)だかが、
上りは単独(当然片運)で帰っていくということがあったそうだが、どうなっていたんだろう。
最後方に反対向きにぶら下がっていたんだろうか。そうしなければ、転写台で方向転換
必要だし。
>上りは単独(当然片運)で帰っていく
そんなモンねぇよ。 多度津〜高松の検査明け試運転じゃないか?
キハ181単行でもやってたし、
今でもJR車両は1両でしょっちゅう走っているぜ。 >>136
俺も見たことがある。どこに書いてあったのだろう。
古いピクの巻末の「四国だより」かなあ?
尻切れトンボとか表現してあった様な気がする。 >>138
漏れもなんか鉄道雑誌で見た記憶有るなぁ。 RM Library No.20 「国鉄郵便・荷物気動車の歩み(上)」キニ15の項(P39)に
「時に方運車でありながら単行運転も行われた」とある。
残念ながら写真はないが。どこかで見た覚えがあるんだけれど。どこだったろう。 高徳線の下り始発と上り終車は、「阿波」の送り込みを兼ねてキロハ28 1込みの編成だった。
高松で「うわじま」や中村夜行と接続していたからよく利用したもんだ。
このキロハ28 1の普通席は、一般的なクロスシートだったが、
窓割に合わせたので、やたらシートピッチが広く、向かいの席に足を伸ばすのがしんどかったな。
たった1両の珍車にそれでも乗りたくて、あえてこの車両に乗っていたのを思い出した。 >>141
大阪発「鷲羽」の深夜連絡で5時前まで待たされた徳島行き始発だわ。
何度か世話になったけど、ロハの分離壁側ボックスが特に広くてね。
足が届かん。 >>135
ガキは黙ってろ。知らねえくせに口出すな。 鉄ピク93年4月号臨時増刊「四国の鉄道」P107に
端岡駅を通過する尻切れトンボのキニ152の写真がある 今月のRMに、尻切れトンボで試運転をするキハ47 2の写真がある >>145
ヨンサントオの編成表にも下りで継走するユニがあって、上りは見当たらなかったんです。
やっぱ単独帰還でしたね。
去年、祖母が亡くなってJRで高知駅まで乗った。新しい高知駅を見て怒りより大笑いしてしまった ディーゼル王国
それは四国でもありそして・・・千葉でもあったりした。 昭和45年8月時刻表
23:25着 急行「うわじま52号」宇和島発
23:43発 急行「うわじま52号」宇和島行
23:48着 急行「あしずり51号」須崎行
23:56着 急行「うわじま8号」宇和島発
24:00着 急行「あしずり7号」窪川発(窪川〜高知間普通列車)
00:22発 快速 土佐佐賀行
00:49着 急行「あしずり51号」土佐佐賀発
00:50発 急行「うわじま1号」宇和島行(一部車両、先発の土佐佐賀行に多度津から併結高知行)
02:22発 急行「いよ51号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
02:32発 急行「土佐51号」土佐佐賀行(高知〜土佐佐賀間臨時普通列車)
03:20着 急行「うわじま53号」八幡浜発
03:25着 急行「うわじま9号」八幡浜発
03:41発 快速 土佐佐賀発
03:46発 急行「いよ52号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
03:50発 急行「土佐52号」高知行
04:39発 急行「うわじま51号」宇和島行
04:55発 急行「あしずり1号」土佐佐賀行
05:00発 急行「うわじま1号」宇和島行
05:05発 急行「土佐53号」窪川行(高知〜窪川間定期普通列車)
昭和45年なら讃岐財田発の快速客レが興味深い。
讃岐財田着は無いのに。 四国の急行はおおむね「ゴトンゴトン」という音を立てながら走行するというのに、
本州側の、それも電化の複々線区間を走行する”汽車急行(おおむねキハ58系)”なんかはディーゼル音こそするものの
「ヒューンガラガラガラガラ…」という連続音ですれ違って走り去っていったのが、
本州旅行中の四国在住の者にとってはむしろ新鮮なイメージがあったりする。
連絡船で高松まで戻ったら、行き先表示版がカラフルに思えたりして、
二重にカルチャーショックを受けたりするw
色別で区分けされていた行き先表示版(国鉄四国総局時代・高松駅)
青 … 松山・宇和島方面
赤 … 高知・中村方面
緑 … 徳島・牟岐方面
矢山康夫さんって、ちょっとしたアイデアマンだったんだね? どの線も同じような姿かたちの車両が走ってたわけで、
誤乗を防ぐためにはそうするよりなかったのでしょうね。 >154
青…いよ・うわじま・よしの川
赤…土佐・あしずり
緑…阿波・むろと
さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?徳島〜小松島間は快速だったかな? >>157
>よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?
※高知始発の「よしの川」が、昭和55年10月改正のときまで2往復存在していました。
(阿波池田始発は4往復で、55年10月からは6往復の体制)
>徳島〜小松島間は快速だったかな?
そうですね。 正式には小松島港(臨)まで。
>さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
黄色地に黒の文字盤表示にする案があったとやら無かったとやら…
もしくは黒地に白のくり抜き表示の案。 …坂出-高松間、もしくは三本松-高松間の、割に長距離ノンストップの時間を利用して
終点の高松に到着するまでの間に、検札がてら急行券(もしくは特急券)を回収しにくる”オレンジ作戦”も、
おおむね四国総局特有のやり方ではなかったか?
まあ、さすがに宇高連絡船の場合は青函連絡船の場合とは違って乗船名簿を乗客に配って回ることはしなかったが。
上りの急行(特急も含む)で高松駅のプラットホームに降り立って
マラソン大会よろしく駆け足で連絡船に乗船する光景は否応なしに旅情を掻き立たせたもんだったw
しかも高松駅は全プラットホームが行き止まり方式の「櫛形ホーム」でもあったのだから。
この独特な旅情は上野駅でも東京駅でも、もしくは門司港駅でも味わうことはなかった。
(函館駅が唯一の例外?) >徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
青やんけ。 四国で急行に乗車するときに、ホームでも車内でも「この列車は急行ですので、乗車券のほかに急行券が必要です」というアナウンスを耳にすることがあまり無かったのは、
それだけ四国では急行列車が地域に溶け込んでいて密着していたせいだろうか?
…昔、165系急行時代の「東海」に品川から終点の静岡まで乗車したときなんか
停車駅ごとに「この列車は急行ですので急行券が必要です。 急行券をお持ちでない方はご乗車出来ませんのでご注意してください」だなんて
相当のダミ声で車内アナウンスが行なわれていたがために鬱陶しさがあったもんなのに…
ただ急行「東海」の場合、清水を発車して終点が近づいてからも急行券を回収しに来なかったのには
四国で急行列車に乗り慣れている者にとっては、やはり違和感があった。
高知から坂出の父の実家に帰省するとき、いつもは車で国道32号線を通って帰っていたものだったが、父が仕事の都合で一緒に帰れなくなったので、オイラと母と妹が一足お先に急行あしずりに乗って帰省した。昭和61年8月、オイラが小学三年生の頃だった。
いつもは車で帰省していたので、列車に乗れるのが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
翌年からは坂出の父の実家で暮らすこととなり、帰省の体験すらなくなった。
オイラにとっては国鉄急行最初で最後の乗車だった。 方面別色分けに、登場当初のキハ32の帯色は一致されてた? していない。
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色 キハ32が新製で四国に来た時は全て同じ色だったと記憶するがこれはどうかな? キハ32の帯は
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色
クリーム色は同じ色だったけど太い帯の色が違うから、
同じ色ってどうなのかな? >>168
どうアカンの?
とはいえもう15年行ってないや…高架化以後は知らん。 高架化されて他都市の駅と大して変わらんようになってしまた 駅の裏に住んでいる人にとっては、便利になりましたか? 貝吹村バス炎上事故60年 33人の冥福祈るttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/news20111103733.html
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/photo/pic18731496.jpg
1951年に東宇和郡貝吹村(現在の西予市野村町)で起きた国鉄バス炎上事故から3日で60年。事故現場近くの
慰霊塔には同日、地元住民や関係者らが訪れ、犠牲になった33人の冥福を祈り、安全への誓いを新たにした。
バス炎上事故は、51年11月3日午前8時15分ごろ、野村町発大洲町行きのボンネットバスが大西停留所を出た
直後、運転席後部の補助バッテリーの上に積んでいたセルロイドの映画フィルム18巻に引火した。貝吹村の栗木
などで秋祭りがあり、バスは乗客乗員61人の超満員で、うち33人が死亡。13人が重軽傷を負った。事故後、危険物
の持ち込み禁止やバス後方への非常口設置が義務づけられた。 久しぶりに高知に行ったが寂れた街になったな。活気が全くなかった >>167
わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
四国に到着して持ち区で検修後、多工で塗り変えたんじゃないか? 新製時に色を変えるのが工場で塗り直すのよりも「わざわざ」だという発想が根本的におかしい 当時の鉄道雑誌でも何でも漁れ
なんで自分から言い出して教えてもらう立場でそんなに偉そうにできんの?
どんな教育受けてきたのか、親の顔が見たいわ
2chで一般的な「いいから情報とソースもってこいボケ」って態度は、
対立して論争中の相手に立証責任のある場面で使うものだ
他人にものを聞くときの物言いじゃないねえよ、ガキ 自分が四国に来たとき、せと とか 道後 なんて名前の急行があった記憶。
すでに高松〜松山は三時間かからんかったな。
まだキハ65もなかったのに… >>177
んで、実際、塗装の件はどうなのよ?
おやじさん。 >わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
そのとおり。富士重の新製で鉄道ファンに新車ガイドで写真が
出ていた時に、赤い帯が入っていた。 以外に知らないんだよな。
線区別の色分けが先行しすぎて・・・。 >>178
急勾配がなくて、停車駅が少なければ、5828編成でもかなり速く走れるもんだ。
宇和島直通や土讃線となると流石に65のパワーが欲しくもなるが。 夏休みに毎年親戚のウチに遊びに行ってたが、往きは松山から第1せとって決まってた。
松山08:10→11:08高松。
宇高連絡船→宇野からうずしお→新大阪からは新幹線。
帰りは新幹線→うずしお→宇高連絡船→第3せと。
だいたい東京〜松山が11時間でした。
のちに うわじま に改称したけど。 もう30年以上、須崎駅に行ってないが今は寂れた駅になってしまったのかな? 急行ってんじゃないが 最終期のキハ65や58は、各停だったがダイヤが寝てるせいかかつての力行は観られんかった(T_T)
救われたんは中山近辺か。
直線は80前後出してた。
四半世紀前は 高松〜松山にまだ七両の急行があった。 急行がバンバン走ってた頃が懐かしいな。そのころは特急は高嶺の花で乗れず、いつも急行だったわ。新大阪→中村を全てグリーンに座るのが夢だった… 宇和島、中村向いて通常は3両めがグリーン車。
先頭58 次が65 G28 58 65 58 (+58) が予讃本線の定番編成だったなぁ。 >>190
52年4月改正より
高松← <キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
107D 102D 101D 高松63+53+33
603D 610D 高松62+32+52
606D 高松64+43+24(宇和島で組成、高松所入庫後分解)
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
108D 高松81+63+53+33
高松← <キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
702D 103D 高松72+36
203D 210D 高松75+26
105D 高松74+25(高松への戻りはローカル)
608D 高松73+24
高松← <キハ58|<キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
611D 高松64+73+24(下記編成が高松所でそのまま折返し)
602D 高松64+72+23 追記
高松21〜38
高松← <キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松41〜53
高松← <キハ65|
高松61〜64
高松← <キハ58|
高松71〜75
高松← <キハ28|キハ58>
なお、運用番号数≠使用本数(出区から帰区までが一つの運用番号)
(徳島13は出区してから4日目になってやっと徳島に戻る) 近いうちに岡山→宿毛→(バス)→宇和島→岡山を計画している。
残念ながら中村→宿毛は鈍行になりそう 確か高松駅での誤乗防止の為に急行にヘッドマークが取り付けられたと、何かの雑誌か資料で読ん
だ記憶があるが、そのヘッドマーク付き四国の急行は格好良く誇らしげだったし、また他地区の
ヘッドマーク無しの急行と比べ同じ急行でも四国の方が何か格上な気がした餓鬼の頃。 末期の四国急行の指定席は旧グリーン車で乗り得でした。 昭和五十一年、高校二年生の夏休みにワイド周遊券を使い四国一周の旅。すでに特急も
走っていたが、まだまだ急行が主役。主な駅では、必ずと言っていいほど普通列車と連絡
していたのでスケジュール作りも楽。普通列車の行き違い待ちの長時間停車もあって、
たくさんの駅に途中下車できました。 >>198
激しく同意。
>他地区のヘッドマーク無しの急行
四国育ちの者から見れば、むしろこちらのほうに違和感があったぐらいで… >>162
>土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
いかんせん、土佐山田〜讃岐財田間だけでもトンネルが96本もあったんだから(昭和50年時点で)。
ちなみに阿波池田(もしくは箸蔵)から讃岐財田の間となれば意外にトンネルの数は少なく、たったの9本。
香川県側だけならば県境の猪鼻トンネルを合わせても、わずか2本。 >>173
電車通りの街路樹のほとんどを切り倒してしまったら余計に田舎くさい市街地に成り下がった… 北海道より四国の方が気動車急行先に無くなるとは思わなかった 種別が特急なだけで実態は…
キハ185なんて諸にキハ58系の後継車だったし。 やはり時代が変わったと痛感したのが、昭和61年11月のダイヤ改正。
予讃線では大半の急行が格上げされたり、運転区間短縮されたりして、
L特急「しおかぜ」13往復体制になった。
瀬戸大橋線開業の1年半前の出来事。 子供の時(70年代)、親の田舎伊予長浜。
記憶にあるのは伊予長浜駅のホームがなくて
列車ドアからみんな飛び降りた記憶ありますが。
その時の列車は急行だっとと思います。 >>209
乗る時はどうしたの?
駅員がタラップを持ってきたとか? 長浜駅は6両分しかホームがないので
おそらく8両か9両のうわじま号じゃないかな。 夜行が予讃は急行なのに土讃は快速で差を見せつけられた思い出。 >>215
この店が昔ラーメン屋だった頃は国鉄急行色だったような希ガス。 >>217
それって予土線内は普通列車じゃなっかたかね?
昔の時刻表をお持ちの方、情報提供よろしく。 >>217-218
昭和52年頃
4701D〜1841D 高松5:03〜宇和島11:35
1846D〜4706D 宇和島9:34〜高松16:14
編成
宇和島・中村← <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> →高松
宇和島編成は高松寄り2両
高松−中村編成は高松所属、宇和島編成は徳島所属
宇和島到着後、ローカルで松山往復、翌日宇和島江川崎往復後、あしずりで高松に戻る >>219
ありがとう
当時の時刻表持ってんだ
編成が長い急行だったと思うが
宇和島発が2両なら8両編成だったのかな? 亡くなられた原田さんの痴漢冤罪事件の悲劇を知ろう
事件の真相を知り、みんなで支援しましょう。
フジテレビが報じた事件の特集番組
http://www.youtube.com/watch?v=_No0gcB7g2g&list=PLCEEAA254456EC5A3
次回、第十一回口頭弁論は
5月20日(月)11時より、東京地方裁判所第803号法廷にて開廷されます。 昭和56年ごろ四国の急行で生録したが、なかなかチャイムが聞けなかった >>218-219-220
『Wikipedia』に以下の記述が。
一時高松 - 窪川 - 宇和島間運転の急行「あしずり」が設定されていた
ことがあり、予土線内は快速となっていた。直通がなくなってからも
しばらくは窪川 - 宇和島間運転の快速が1往復残っていた時期があり、
初期の宇和島駅からの「清流しまんと号」が連結されていた。
(予土線 - Wikipedia)
なお、予土線直通快速の運転期間は昭和49年3月〜昭和60年3月まで。 四国内の最長編成は何両なのかな
俺が知る限りはマリンライナーの11両編成か
快速川之江・高知行きのDFと郵便車込みの11両編成
急行だと8両編成の宇和島かあしずりかな 運用的な黄金時代は昭和40年代。
利用者目線での黄金時代はグリーン格下げの普通車指定席登場のあと。 マリンは、12両編成があった。瀬戸が14両編成だったね。2000系は10両編成。回送が付いた、土佐の9両編成は見た。 >>226
でも、「瀬戸」は高松駅と坂出駅のホームからはみ出ていた。
「後ろの車両のドアは開きません」という
車内放送をやってたような記憶がある。 JR化後は無視して、
「よしの川」「土佐」併結で10両編成は撮影した。 52年3月改正の時点での最長編成は、所定では「よしの川」併結の「あしずり」「土佐」の8両で、高知−阿波池田
4206D <キハ58|キハ28>|キハ58><キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65> →高松・小松島、所属は全て高松
後3両 よしの川 前5両 土佐
4709D 高知・中村←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松
前5両 あしずり 後3両 よしの川(高知まで連結)
他に712Dの「あしずり」(高松着が0時過ぎになる列車)の阿波池田−高松が8両
712D <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65>|キハ58><キハ58|キハ28> →高松・小松島、所属は前2両が徳島、後6両が高松
前3両は阿波池田から連結(前3両というのがミソ) 続き
「うわじま」の最長は7両、
602D・611D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松 602D高松寄3両は松山から
604D・615D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> 所属は全て高松 高松寄2両は松山−高松 うわじまは繁忙期に増結して8両編成になってなかったか? >>231
当時頂いた使用順序表から運用図表を起こしたものが元になっているので、
所定の運用がわかるのみ、増結までは不明、すまん。
蛇足、DE10は夏運用と冬運用があった。 うわじまは繁忙期に増結した時指定席が2両に増えたりもしてた
編成替えは大変だっただろうな 四国の気動車急行の運用を見ていると(S52.3改正)、1〜2両単位での増解結が多いにもかかわらず、
高松運転所ではあまり組み替えていないのに驚いた。
キハ58や65を1両外したり足したりとか、松山や高知で主に組み替えている。 急行に限って言えば土佐やあしずりも混んでた
比較的空いていたのがよしのがわとむろと
四国内に限れば民営化時は赤字ではなかったのでは? 更に後年の話になるけど、南風なんて2000になった直後も8両が当たり前だったもんな。高速がつながる前までの土讃線の需要は根強かった。 都市間輸送に撤すれば四国内は黒字化出来たかも知れない
坪尻や黒川なんて要らないだろう >>237
急行は3両か5両でなかったですか?
2000は6両でなかったですか? 高知から新居浜まで、よく予土に乗った。阿波池田の引き上げ線で併結される列車を
待ったものだ。 突然すみません、四国の郵便・荷物車にハマってしまった者です。
キユ25とキユニ17が併結した列車ってありましたでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示お願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。 50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キユニ17>|キユ25> →高知
所定ではこの編成、ただ高松発が20時過ぎだったから、記録は少ないと思う。
なお、|キユニ17>|キユ25>は翌日238Dで高松に戻り、基本編成は高松寄りに<キハ65|を付け202Dで高松に戻り、
すぐ折り返して中村(窪川−中村間臨時列車)まで往復する。 >>242
詳しく教えてくださり、まことに有難うございます!
急行で存在していたのですね…あっても普通運用だと思っていたので、意外です。
どうも有難うございました。 四国のキユニ17は結構早く廃車になりましたね。
キユニ17の急行実績は53・10迄ですね。 度々の書き込み、申し訳ありません。
教えていただいたキユ25とキユニ17の連結列車ですが、
238Dはキユ25とキニ17ではないでしょうか?
ネットで検索してみたところ偶然238Dの写真を見つけたのですが、
キユニ17ではなくキニ17に見えてしまいまして…。
間違っていたらすみません。
よろしくお願い申し上げます。 >>245
その撮影日はいつになっていましたか?
>>242氏の発言が正しいとしても、
次位にキユニが100パーセントつながれるかどうかは分かりません。
キニになる時もあったでしょう。 >>246
確かにそうですね、失礼しました。
ちなみにその写真の撮影日は、S55年3月とありました。 >>243-247
皆の衆すまん、資料(某所で頂いた四国全島の気動車使用順序図表)からの写し間違いだった。
キユニ17ではなく、キニ15(キニなら何でも可、他に17・19)。一寸気になって調べたら、間違いが発覚。
資料から全島急行運用図表を作って35年目で間違いが解った、お詫び申し上げると共に感謝。
なお、このキニ、運用番号は高松95で、キユ(運用番号高松113)とともに211Dで高知まで行き、
238Dで高松へ戻る運用で循環使用される。
この件、 あくまで所定運用しか解らん、実際にどのように運用されていたかは不明。 修正しておきます、皆の衆すまん。
50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キニ15>|キユ25> →高知
当時の四国内の急行で、他に荷物車併結列車は、予讃本線の601D (夜行うわじま)と108D
601D
<キニ56|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> →宇和島
高松81+41+21
108D
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松81+63+53+33 >>248-249
調べ直してくださり、有難うございます。
キユニではなくキニだったのですね。
残念ですが、あくまで所定とのことなので、
ひょんな巡り合わせでキユ25とキユニ17が手を繋いだ日もあったんじゃないかと思いを馳せることにします 笑
当時の四国全島の気動車使用順序図表…すごいものをお持ちですね、
おそらく大変貴重な代物なのではないでしょうか。
私は四国の気動車全盛期を知らない20代の若造ですが、
四国総局の郵便・荷物車は珍車揃いで本当に奥が深いですね。 >>248
一番お目にかかった202Dをお忘れですぞ。
キニ19のHM付は最高ですね。
その他、国鉄晩年でキニ56先頭201Dや、
キユ25の「いよ」もあった。 よしの川、土佐、阿波、いよ、うわじまですな。
キハ格下げのキロや、キハ58にリクライニングつけた四国色もあった。
400番台だっけ 四国のキハ58とかって島原みたいなヒゲ付けているのなかった?
・・・用途や装備に違いがあったの?
・・・中央(本社)から特急と紛らわしいから標準塗装にしろ!とか圧力無かったの? ミュージックホーンを装備してる車両
2008年のラストランのちょっと前からキハ58-293にヒゲの塗装がされてたけど
国鉄時代はこの車には搭載してなかった筈 >>254
四国色に統一をかなり早く進めたからね
ほかにもキハ20やキハ30も四国色になったし ま、2ちゃんが見られるのなら検索すればすぐに判ること。 >>254
JR化すぐは結構急行も多かったんだよな >>256
引退前にヒゲ付きになったキハ58 293
キハ65 34共々来春開業の四国鉄道文化館南館で保存されるとか
あのミュージックアラームをもう一度聞いてみたい
音階はピクの58特集号に載ってたっけ 特急形の四国色化は、瀬戸大橋開業前に完了していたが、急行形・一般形はその後に始まったので
時期は微妙。 >>263
試験塗装もあったね
確か2両だったかと JR化後すぐの頃の急行の本数は、
予讃線 うわじま 高松−宇和島 下り1本
新居浜−宇和島 下り1本
今治−宇和島 上り1本
松山−宇和島 下り2本 上り3本
いよ 高松−松山 1往復
土讃線 あしずり 高松−中村 3往復
土佐山田−中村 下り1本
土佐 高松−須崎 1往復
高松−高知 下り1本 上り2本
高徳線・牟岐線
むろと 高松−牟岐 2往復
阿波 高松−阿南 上り1本
高松−徳島 10往復
徳島線 よしの川 徳島−阿波池田 2往復 瀬戸大橋線開業後の急行の本数は、
予讃線 うわじま 新居浜−宇和島 下り1本
松山−宇和島 下り3本 上り4本
いよ 高松−松山 2往復
土讃線 あしずり 高松−中村 下り1本 上り3本
土佐山田−中村 下り1本
高知−中村 下り2本
土佐 高松−窪川 下り1本
高松−須崎 下り1本
高松−高知 2往復
高徳線・牟岐線
阿波 高松−海部 上り1本
高松−牟岐 下り2本 上り1本
徳島線 よしの川 徳島−阿波池田 2往復 >>266
61-11改正と瀬戸大橋開業で気動車急行は一気に衰退したね
急行全盛期、秋になると定期急行に修学旅行の貸切車が連結された
ウチの中学の修学旅行では定期4連+貸切3両だった >>266
61-11改正と瀬戸大橋開業で気動車急行は一気に衰退したね
急行全盛期、秋になると定期急行に修学旅行の貸切車が連結された
ウチの中学の修学旅行では定期4連+貸切3両だった 黄金時代とちゃうし。
まぁ、ヒゲは取ってくれてよかった。 ヒゲ復刻、なんで293だったんだろ?
85年に山形から転属してきた
いわば異端児
四国固有装備といえば
58 194や301など平窓スカート付もあった
(後に九州にも出たけど) 単に個人がヒゲ付けてイベント列車を走らせたいという安直やからね。
ヒゲの知らん世代やのに。
あとあと、JRに不満タラタラ。
ようやくヒゲはがしてくれてよかった。 ヒゲ付は消防の頃に見た記憶ある
実家近くに事故多発踏切があったのでよくMH鳴らしてた
当時は冷改=MH(ヒゲ)撤去だった筈なので
冷房付の58にヒゲってのは矛盾してますわなぁ 国鉄色復活が293だったからしゃーないよね。
痰壺列車終わった時に、
企画者本人がすぐに剥がせば良かったのに。 |┃三
|┃ ガラッ
|┃ ≡_∧_∧
|ミ\ ( ・ω・) おじゃましま〜す
|┃=二ニ \
|┃ ≡ | /\\
|┃
|┃
|┃ ∧_∧
|ミ\ ( ゚д゚ ) ハッ
|┃ヽ二ニ \
|┃ | /\\
(⌒⌒)
ii!i!i ドカーソ
/~~~\
⊂⊃ / ^ω^ \ ⊂⊃
.................,,,,傘傘傘:::::::::傘傘傘...............
【過疎山】
∧_∧
( ) マジ…
/ \
//| |\ \ ヌルい鉄だった俺は、よしの川が185系に変わってから
58系急行の乗り撮り納めが出来なかった事に愕然としてたな。 58系は当時あまり希少価値を感じずに結構スルーしてたのだが
今から思えばなんと勿体ない事をしたのかと後悔すること頻りだ。 国鉄末期以降、四国・中国・関西と色々な線区で58系に乗る機会があったが
どこを走ってるのも手入れがあまりできていなくて汚い車だったなあという印象しか残ってない
小学生のころ、58系よしの川号に乗った時に親のカメラで何枚か撮影したが、どれも正面幕板の汚れがひどくて
現像後ガッカリしたのをすごく覚えている。 最近JTBの昔の時刻表が復刊したんだけど85年3月と86年11月の間が売ってない
内山線開業時のうわじまのダイヤが知りたいんだが残念だ
86年3月四国版のミニ時刻表持ってたのにどうして捨てた俺
レインボー車に乗ってみたかった子供時代。急行運用だったか記憶が定かじゃないけど 79年の時刻表を見てるんだが特急急行の本数のバランスはこれぐらいが一番いいな。
特急がいかにも特急らしい その特急が出来る前の急行ダイヤもかなり圧巻だけどな
すれ違いの駅に上下線とも間に合うように飛ばしまくり 行き違い停車が長いと苦情言う客が多かったね
単線だから致し方ないのに
急行料金取ってるのだから客扱い以外の停車は許されんというわけかな
せわしないわ 43.10(1968年)改正の際、運転停車を出来るだけ減らそうと、予讃本線高松−松山間のみだが、
出来るだけ停車駅で行き違い出来るようにした。
当時の急行は原則1時間20分ヘッド、40分ごとにすれ違う。
高松・松山3時間のほぼ中間、1時間半のところが新居浜、その前後40分のところが観音寺と今治で、
これを利用して、運転停車をかなり減らす事が出来た。
これを実現するため、多度津通過の列車も出来た。
RP93年4月増刊・四国の鉄道特集より そのくせ、今では信じられん小駅にも急行が停車してたな。 急行の停車駅は割とフリーダムだった記憶
それこそ途中から普通列車になったり
特急化してからは運転停車のついでに乗降扱いとか種別変更とかなくなったな 1983年ごろの快速夜行731D(高松0:47→7:51中村)と
同じく快速夜行764D(窪川20:54→高松3:22)の3号車は
開放グリーン車だったので最高の夜汽車旅を四国ワイド
周遊券で楽しめた時代が懐かしい
夜行急行「うわじま」や夜行急行「いよ」も走ってて、
正に四国急行黄金時代だったと思う。 ワシが一番好きやったんは高知〜中村だ。高知を出て、須崎を過ぎたら地の果てに連れていかれるような気がしたな 昭和50年ころ 松山から長浜経由で新谷の帝京第五高校に急行で通ってた人間っていたのかな? >>282
レインボー車や旅立ち車は急行でもちょくちょく走っていたね。
出来たのが瀬戸大橋線開業直前で、急行運用の最末期
が平成2年頃なので実働は3年くらいだったのかな?
最末期は車両が足らなくなったのかレインボー車や旅立ち車
でも自由席車や指定席車で使っていた。 四国の気動車急行の冷房化は特急の登場が遅れたこともあって最も早かった。
1966年夏には一等車が全部冷房付きに、1968年からは二等車にも冷房車が現れ、
1970年夏には早くも全車冷房車編成の急行も登場し、1973年には100%冷房を達成した。 >>298
繁忙期は、キハ26やキハ55の増結があったからね。
100%冷房を達成したって言えるのかな?
ついでに昭和59年頃だったかな、キハ55の置き換えに
冷房付きと冷房のないキハ58が来たりしたから、
急行型でも一時期100%冷房ではなかった。
さらにこのキハ58とセットになる車両に電源がなかったので、
どのみち冷房が使えなかった。 >>299
冷房がない車両ってどんな暑さだろうか。想像できないよ >>300
昔は今ほど暑くなかったし、急行型は窓が開くから
涼しくはないけど耐えられないほどの暑さではなかったよ 山間部だと、湿度が低めなので暑いことは暑いが
窓を開けて外界から風を取り込めばなんとか我慢できる
都会の満員電車の暑さは忍耐の限界を超えてる
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 国鉄時代に乗って撮った唯一のDC急行が「いよ」だよ、運命だよなぁ 瀬戸大橋なんか最近の事。宇高連絡で着き、各方面夜行急行には、周遊券でとんでもなくお世話になった。 全検上がりのキハ181-104を先頭に併結して走ってきた急行列車。この後、キハ181を切り離して引き上げていった。 高松 88年3月
http://pbs.twimg.com/media/DTrIY90UQAIiClW.jpg >>295
実際のところ、地の果てですよw
影野から下り方面が地の果て。別天地。 急行でも黄金を撒き散らしてたの?いかにも死国らしい話だね >>324
本州側の急行「さぬき」が「第二瀬戸」となってのちにあと3つの旧国名の優等が登場したみたいだから・・・ >>325
そうそう、通学の高校生がいてさぁ、自分はてっきり「あぁ、奴ら車掌から急行代とられるぞぉ」って見てたのよ・・・。
そしたらフツーに車掌に急行券差し出してさぁ、「スゲー!四国の高校生って急行で通学するんだ!東京あたりと全然違うゎ!」ってちょっと驚いた!
今から遡ること35年前、キハ57の「あしずり」での出来事でした (^o^) 黄金どころか末期ですが、
瀬戸大橋線が開通してマリンライナーが走り始めた時は、まだ急行うわじま等はギリギリ残ってましたか? >>330
うわじま、いよ、あしずり、土佐、阿波、よしの川はかろうじて残ってたよ >>293
同じです
解放G車ではなく解放指定席なのですが、G車並み
行けば必ずお世話になりました 坂出丸亀間の電化された近代的な高架線を国鉄型気動車急行が走るというのは、今から考えても珍しい光景だったかも >>330
高徳線とか50系の客レもまだ走っとったで 客車では、スハフ43とオハ41ですね
DF50とともに、最優先対象でした >>337
四国急行の時代だと、スマホどころかインターネットもない時代になっちゃうぜ! >>338
昭和世代をリアルで生きてる奴は戻れる
現代目線の不自由が不自由でなかった生活を知ってるからね
でも物心ついて既にネットや携帯があった世代以降はムリだろうね こんなスレあったんや
昭和末期に四国ワイド周遊券買うてDF50のストーキングやっとった 土讃線731D/762Dが常宿
編成はNゲージのKATOが出してる"キハ58系急行土佐セット"だが
キハ28が足らないのと57or58だ 特急南風
高松〜中村の途中停車駅
阿波池田 高知 須崎 50年近く前の夏休み
親父と高知駅から土佐、宇高連絡船、宇野線快速、ひかりを乗り継いで東京の実家へ行ったな。
帰りは飛行機、羽田の実家から歩いて羽田空港の旧ターミナルまで歩いてチケットを買いに
伊丹経由の全日空で羽田伊丹はB727、伊丹からはお約束のYS、ちょうど虹のエアポートって桜木健一のドラマをやってた頃で夏休み明けの学校であの727に乗ったって云うとクラスのヒーローだった記憶。 >>348
この頃は大阪行くにも鉄道が大幅に安かった時代
数年後に逆転するけど・・・
雑然とした羽田に較べて
近代的な伊丹が印象的だったな。
虹のエアポート
いつかはトライスターな主人公だけに、ロッキード事件の余波で予定外に慌ただしく終了したのが残念
主人公の操縦する広島行きが高知へダイバートした放送回の翌日は皆が大騒ぎだった。 母親と夏休みに坂出の叔母宅へ
中村から乗ったあしずりが先月起きた土砂崩れ復旧工事真っ最中の繁藤駅を最徐行で通過中に車掌の車内放送が入った。
災害の概要を伝えてから
「多くの犠牲者の中には乗車中のお客様、私たちの同僚もおりました」と嗚咽を漏らしてたのが今でも記憶に鮮明に残ってる。 昔の急行よしの川 阿波池田-貞光-穴吹-鴨島-徳島
昔の急行阿波 高松-屋島-三本松-板野-池谷-徳島 (一部はノンストップ)
急行(さらに昔の準急)のころよりも今の特別急行の方が停車駅多い