【流電】飯田線の旧国時代【EF10】
末期、47104の相手が、43015、53000、53001のどれでもなかった
のが惜しかった。電動車は最後まで3両もあったのに残念。
53008の相手が、470009だったから2扉同士を避けていたわけでも
なさそうだし。 >>44
ワシ、流電の編成なら何でもw でも狭窓編成は魅力的だった。 >>40
中央急行を乗り慣れると、やっぱり当たり前だったけどな
クハクハ >>45
>53008の相手が、470009だった
53008がノーシルノーヘッダだったのに対し、47009は車体中にリベットだらけで
対照的な車両同士のペアだったね。
それとクモハ53といえば、同じ形式なのに、000・001と007・008では似ても似つかぬ
顔かたちをしていたのがおもしろかった。 >>40
中央東線では、附属はたしかに見慣れてしまっていましたから、まあそういうものと勝手に思い込んでしまいましたね。
ご存知の方も多いでしょうけど
McM’Tc'Tc’:中央東線急行附属で、かわぐち3両との共通化で附属の附属Tc'あり
McM’TcTc':身延線普通115系の基本で、無人駅対応で中間に車掌室が必要だったためらしいです
TcMcM’Tc':御殿場線で一時期発生、短編成化でTcを越後線等に出すためであるが転出前に一時的に使用
TcMcMc'Tc':越後線の予備編成で、2両と4両(TcMM'Tc')どちらでも使用可能なように運転台付きを4両そろえた
まだあると思いますが、違和感がある編成の例です >>39
末期の80系の頃は、やはり優先は戦前車
でも80系は、あまりまとめて撮れる機会が自分には少なかったため、それなりにとってはいました
165系と比べて、みかけあまり劣るようには見えなかったです(冷房だけは別) 飯田線には西ミツの71系が転属してくる話は無かったのですか?
お隣の身延線ではその話があったみたいですが・・・。 80系置き換えの際に新前橋、幕張等からトヨに165系が転属し、一時期急行「伊那」
用と混在したことがあったが、車両の整備状態はカキ車の方がはるかに上だったと
思う。さらに「こまがね」のモト車よりも良かったように思うけど、皆さんどう
思われましたか?
名カキの165系は伊那だけでなく、身延線の急行「富士川」や、
153系と共に急行「東海」にも運用されていたため、特に整備状況が
良かったのでは? 飯田線、車輌のコンディションもさることながら、駅&ウテシのタブレットの扱い方がとても
丁寧だったのが印象的。 >>57
そ。後進の153系や451系よりはるかに内装が綺麗だったのでびっくりした。
デッキ付車体という遮音性の高さからくるものなのか、モーター音もノイジー
な印象でなく、上品な吊り掛けサウンドだった。 飯田線にはクハ85300番台の入線の実績(もちろん客扱いで)はありますか?
一度乗ってみたかった私は、中央本線も含めて乗車経験無しありません。
(100番代ならもちろんあるけど・・・)
また、3枚窓のクハ86一次車の「伊那」ってあったかな?臨時(快速?)なら
一度だけ見た記憶があります。 >>9
最末期は先頭に出ていたみたいですね。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~rajomon/sub1005.html
ところでこのホームページで43015がモーター換装されていると記されていますが、こんな例は飯田線では特殊なケースなの? やはりこのサイトもあげておかないといけないね
こまめによく記録してあるので感心します
ttp://mc53.kokuden.com/sub.htm/sub2.htm/sub2.html >>60
43015のモーター換装は全く知りませんでした。
同車の廃車が延期になったのは、同じくMT15を装備した64000の転入に合わせた措置
だと聞いたことがあるが・・・すると同時期まで残っていた51200や51029、それに
64000もやはり換装されていたのだろうか?
ただし、52003〜005がMT15なのに対し、52001・002はMT30に換装されていたのは知っ
ている。 53007ですが、末期の南部では基本的に豊橋寄りからクハユニ+クモハ+クモハ+クハのような4両編成を組んでおり、
豊橋寄り先頭車の同車の顔はなかなか拝めませんでした。
ただ、早朝の1本(豊橋6:54?の天竜峡行き?)と、確か土曜日運転の13:27分発の本長篠行きがクモハ+クハのような
2連で、同車が充当されるときを狙って撮影したものです。53007の車内は淡緑色で、53008の車内はニス塗りでしたね。
それから当時は行先がバラエティに富んでいましたね。三河川合や伊那大島、水窪行きなど、今は見られない行先が
沢山ありました。(伊那大島行きはまだあるようですが、豊橋では見られません。)
他にも長山や三河大野行きがあったような気がします。 >>64
三河川合行・・・ありましたねぇ。三河川合で停泊の後、翌日には始発の上片桐行となって、中部天竜
までは始発列車を務めていましたが、思えば三河川合にも乗務員宿泊施設があったわけですね
また、ごく数ヶ月間ではありますが、この列車が東栄行きとして運転されていた記憶もあります。
三河大野行きは完全な三河大野止まりではなく、6連のうち後より2両が湯谷以北の駅ではホームから
外れるため、以降は回送車両となっていた時のものではないでしょうか?たしか豊橋を18:22の
伊那大島行きが6両だった頃、後よりの2両には「三河大野行」のサボが入っていたように覚えています。
なお、流電編成や80系では車内の通り抜けが可能だったため、5〜6両目のドアが締め切り扱いになっ
ていたものの、引き続き乗車は可能でした。
他には佐久間行き(佐久間始発)もありました。 行先であったもの
茅野、上諏訪、辰野、伊那松島、沢渡、駒ヶ根、伊那福岡、上片桐、伊那大島、飯田、天竜峡
平岡、水窪、中部天竜、三河川合、本長篠、新城、豊川、豊橋
始発追加
佐久間、牛久保
それ以外
三河大野
時期によって、もちろんまだ他にもあったと思います
列車の有効長さは飯田豊橋で7両らしい、ただしホームが三河大野−豊橋は6両可、それ以北は限られていました
クハユニ+クモハ+クモハの上り3両に中部天竜で2両増結の列車があり、これも最後部は三河大野までドア締め切り
(客扱いはしていました)
朝夕の流電含む4+2両が、ホームからはみ出す2両分だけ豊橋−三河大野のサボをつけていました
ただし附属の2両ではなかった記憶があります(1両目と6両め)、しかしこれはさすがに記憶の間違いの可能性大
あと夜中にクモニ+クモニ+2+2両の6両の上りがあり、これはどうなっていたのでしょう? >>67
そう言われてみると、6両編成の上り列車の扱いを当時は全く気にしていませんでした。
これは記憶としてかなり怪しいですが、先頭車と最後尾がホームから外れて停車していた
ようにも思いますが、タブレット交換をしていたことを考えると、果たして疑問です。
しかし上りの場合、流電でも80系でも付属2両が丸々三河大野までホームに掛からないわ
けですが、客扱い無しの回送車だったという記憶もありません。
最終のクモニ+クモニ+2+2両の列車もよく使った割にはあまり覚えていません。
ただこの列車、2両の荷電は天竜峡から連結されましたが、その時点で後寄り2両が回送
車となり、三河大野以南で再び客扱いしていたような気がします。ちなみにこの列車の
編成は、クモニ83+13(トヨ)+2(チウ)+2(ママ)の時がありました。
余談ですが、クモニ13も滅多に先頭に出ることが無く、顔を拝むことが出来ない形式の
一つでした。しかし末期の末期にはよく先頭に立つようになり、83と順序が入れ替わっ
たり13+13の重連になってみたり、単独(非重連)の運用に入ってみたり、一方で83+83の
重連があったりと、様々な荷電併結編成を見せてくれました。
>>68
飯田−三河大野間の5両や6両の扱いは、一部を除いて記憶があいまいなところもあり、今ひとつハッキリしません。
1222Mの飯田から例えば53007-68042を増結した時には、68042は三河大野まで一部の駅以外はドア締め切りだったような気もします。
あと飯田−辰野間ですが沢がホームが短かった?
クモニは83が実2運用で3両配置、クモニ13が1運用で2両配置。
83:辰野→豊橋→辰野で、クハユニ(クモハユニ)とともに上り側に連結。
83+13:豊橋→辰野→天竜峡→豊橋で、クモニ83+クモニ13のセット(運用は別別になっていました)。
豊橋→辰野は下りに2両連結で4両運転(中部天竜まではハ+ハは回送)。
辰野→天竜峡は、2両で純粋荷電。
天竜峡→辰野は、67さんの説明にありますが、後ろ2両は回送走らなかったです。
クモニ13は営業運転では先頭には出ず、辰野→天竜峡で最後部になるだけ。
末期では13と83が乱れていましたが、83+83等は見ましたが、ついに13の先頭にはお目にかかれませんでした。
個人的に、この豊橋→辰野間のクモニ83+クモニ13+クハ(クモハ)+クモハ(クハ)の4両編成がとても好きで、最重要撮影列車としていつもマークしていたため、乗車の機会はゼロ。
横浜線のクモニ13+4両とともに、とても印象深かったです。 >>68
気動車が走っているローカル線で6両しか入らないホームで8両編成の時などでも
はみ出した車両もかまわず扉は開いていたけど電車はどうなのかしらん? >>70
飯田線南端の街、豊橋市を走る豊橋鉄道渥美線は、
3両分しかホーム長の無い駅に4両編成がとまると、
ホームにかかっていない車輌もかまわず開扉してたっけなぁ。
懐かしい。 >>23
篠ノ井線電化は1973年で、確か1975年3月に山陽方面からカキに転属になるまでは
「天竜」でキハ58が走っていた。が、全く嫌われ者だったのか、写真がない。
「天竜」には「こまがね」併結とか、その後も3層立ての12連とか、
飯田線外だが80系→115系1000の奴なんかがあった。
ちなみに、県内列車なのに松本所属になったのは1982年だった。 豊川稲荷の帰り
小坂井で焼き肉食った
美味かったなー
りんご狩りで乗ったことも
懐かしい >>67
ガキの頃どこかの鉄道部品即売会で買った飯田線のサボが我が家にあるけど、
「辰野⇔天竜峡」の裏側が「辰野⇔温田」になってる。
温田行きなんて列車があったのかね? 長野県南端の中井侍は始発に乗っても長野駅への日帰り往復が不可能な駅として有名だったな。 >>77
白紙ダイヤ改正をした1968年10月の時刻表をみると、
天竜峡5:22発→229M→辰野8:26着 9:21発→236M→温田12:46着
温田14:00発→255M→辰野17:17着 17:23発→244M→天竜峡20:22着
という運用があったようですね。
豊橋駅でヤマサのちくわと缶ビールとお弁当買って辰野行きに乗ったなあ
長い距離だけど元2等車の車両でほとんどすごしたので快適だった モーター音でモハで頑張るか、旧サロでマッタリするか悩んだあげく、途中でサハ75へ
快適杉て後悔した…
やっぱり初めから乗っておけば良かった…
両毛や上越新潟より距離も時間も掛かる旅
やせ我慢は損だった…
クモハ52ゆえに乗りたかったってのもあるけど…
厨房の夏… 朝の通勤通学時間が終わると流電が2本牛久保で昼寝をしていたね。 そうですね
31/32/33/34運用は、豊橋近傍の通勤通学輸送主体のようで、日中は全部休み。
そのうち2本が牛久保で休みですから、たしかに並んでいました。
シーズンは1往復昼間に豊橋→中部天竜→豊橋の、臨時快速(奥三河)が走りましたがこれも貴重。
一応1225Mで辰野まで行く運用もありましたが、北部は夜間で駅以外は撮影は困難。
自分は無理でしたが、末期臨時で昼間北部を走ったらしく、それを見た方はラッキー。 牛久保駅といえば
そのまま北に歩いて
ドン突きが日本車輌
SL撮ったっけ
引込み線もあったな
高校時代夏休みに昔の347M?で豊橋から旧国を撮りに通った。
当時はガイドなんかなくて……ピクとかファン誌のカットから5万分の1の地形図で当たりを付けるって云う原始的方法
飯田線のガイドらしき物で記憶に在るのは78年4月のRailGuy誌の飯田線特集。
表紙は南正時氏、読者投稿には花井健朗氏の名前も
80系化直前のダイヤ改正だったと思います。
残留組がママへ、廃車予定車はトヨに集結すると言った車両の入れ換えが行われ、
それまで見られなかった編成や車両運用が多数発生しました。トヨ区の運用は80
系置き換えを前提とした4連の運用となり、北部地区にも日中クモハ52が顔を出
したり、思いがけずサハ75に当たったりもしたものです。
またユニ入り3連の中間車専用として全く先頭に立つことがなかったクモハ50
も編成を解かれ、顔も拝むことが出来ましたね。トヨ区完全80系化までのほん
の過渡的な運用でしたが、この当時はどんな車両が現れるのか全く予想もつかず、
最期にして最も楽しい時期ではありました。
地味なところでは、個人的に625M?(豊橋6:54天竜峡行き)にはいつも
注目していました。浜松工場の出場車がママやチウへ向けて帰区の際に連結され、
検査明けでピカピカながら通常は客扱いもされていました。
また、クハユニ56を単独で回送する際に伴車としてクモニ13が当てられ、ハ
+ハ+クモニ13+クハユニ56のような珍編成が走ったのを覚えています。し
かし滅多に動くことの無い救援車のクモヤ21009が出場した際に、同列車に
連結されて走った姿はまさにサプライズでした。 80系全金属車は吊り掛けというだけで不遇かつ短命でしたね。70系と80系は旧型と言えモーター音は軽やかで車内も快適だったんですけどね。ブレーキ音はいかにも旧国でしたが。 80系は飯田線では不遇且つ不人気でしたね
特に北部ではデッキに固まり遅延の種
遅くなってすみません。>>79さん回答ありがとうございます。 旧国末期に身延線(だったと思う)からクモハユニ64が転属してきた。
スカ色オンリーの飯田線の中にぶどう色でかなり目立っていた記憶が……
曖昧スマソ 確かに岡山だったけど、一旦は静岡に転属していると思う。
静シスで何に使われていたかは知らないけど・・・
そう言えば、飯田線入りして最初の全検でスカ色にならず、ブドー色のまま
出場したけど、工場のミスだったらしいね。 子供の頃の記憶ですので間違っているかも知れませんが、
ご存じの方いらっしゃいましたら教えて下さい。
初めての旅行が飯田線でしたが、その時乗ったのは不幸にも?流電ではなく
臨時の快速電車「奥三河」の中部天竜行きでした。
車両は80系だったかと思われます。塗り色はあの緑とオレンジの色に間違い有りません。
で、確かグリーン車の様な車両があった記憶があるのです(時刻表上は無いはずでした)
この様な編成の車両が飯田線を走っていたのでしょうか?
それとも私の記憶違いなのか・・・・ご存じの方いらっしゃいましたら教えて下さい。
>>97
クハ85のことでは?
元がサロ85で、格下げ後も内装はほぼ2等車時代のままだったので、
グリーン車に見えても不思議はないかと。 >>98
即レスありがとうございます。
何せ子供の頃で、形式までは覚えていないのですが、当時東海道本線沿いに住んでいた私には
東海道本線を走っていた80系と車両の形が同じに見えました。
長年の疑問だったので、解決して嬉しいです。
その臨時快速に乗ってて、子供ながらに単線に感動したり、沿線の景色に見入ったりしてました。
すれ違う電車がみんなスカ色だったのを不思議に思ったのを思い出しました。
今思えばそちらが飯田線の標準色だったんですが・・・・。
>>97
流電が現役の頃だったかどうかで状況は変わりますが・・・
その快速「奥三河」がすでに80系化後のことであれば、全金属車の300番台による
編成だと思います。もちろんグリーン車などありませんので、見間違いだったかと
思われます。
次に考えられるケースとして、サハ87001の転入当時はまだ湘南色をしていました。
快速「奥三河」は基本的に流電編成だったので、同車が組み込まれていた可能性は
あると共に、隣にサハ75(これがグリーン車の様な車両)が連結されていた可能性
も否定できません。そして先頭車があいにくクモハ52ではなく、42や54だったのか
もしれません。しかしこの編成の場合、サハ87以外は全てスカ色だったはずです。
そして最後の可能性は、シスまたはカキ所属車による臨時列車です。
私も80系初期車を含む臨時中部天竜行きを何度か見たことはありますが、問題は編
成中にクハ85(除く100番台)があったかどうかです。東海道の列車では85を見た
ような記憶はありますが、これは定かでなく、ましてや飯田線に入線したかどうか
も自信はありません。
>>100
なるほど、同じ快速であっても色んなバリエーションの可能性があった訳ですね。
時期ですが、私が小学校高学年の頃ですから、およそ1972年頃、時期は5月ぐらいだったと思います。
この快速を目当てで行ったのではなく、佐久間ダムを目当てに中部天竜まで行こう、と
言うのが目的でした。
大垣方面からの直通だったかとかは自信がありません。 >>101
飯田線へのサハ87001の転入は1971年とのことなので、一両だけまだ湘南色で
活躍していた可能性はありますね。しかし一方で80系の臨時快速もこの頃運転
されたと思うので、どちらの可能性も否定できません。もしこの当時、大垣か
静岡にクハ85の0番台か300番台の配置があれば(神領や松本車の可能性はたぶ
ん無いでしょうから・・・)>>98さんの言われるとおりだと思います。
ただ私には、飯田線へのサロ格下げクハ85入線の記憶は(記録も)ありません。 飯田線快速色としての湘南色があった時代の話だったりして。
子供の頃と言うのがいつ頃か教えて欲しいよね。 クモハ53007が先頭の列車を中央線乗り入れの上諏訪駅で見た記憶があります。 >>103
>>101に時期は書いてあると思いますよ? クモハ61みたいなオールロングが永く君臨したのは両運転台だったからという理由だけかな。飯田線には非常に場違いに思えた。 >>6
それはサハ45に実際に乗ったうえで言ってけれ EF10も国電同様1両1両特徴が有って面白かったです。 鉄道ジャーナル11月号(最新号)に、飯田線のクハユニ56と身延線のクモハユニ44
の写真が掲載されてますよ。 >>86
80系投入前では、たしかにクモハ50が先頭になった姿は全く記憶に無いです。
身延線の51850/852や大糸線の43804と同じで中間専用で、営業運転では記憶ゼロ。
静ママ転属後には50008はようやく先頭になりましたけど、幌もはずしていました。
>>106
飯田線のロングシートですと、末期では
61003/004/005、64000
少し前では、47153/155,67901/903/905など該当しますが、あまり多くは無かったです
ご指摘の通り、少々場違いに思えました
61は両運を活かして、いわゆる予備車的な意味合いで使われたり(上り下りどちらも代用可能)、浜松工場入場する車両に付き添う漢字で使われたりとクモヤ的な使用もありました
64と67は(ユ)二の機能を持つ合造車が必要だったからで、80系投入後運用変更でユニが7両配置6運用では64を上記クモヤ代用での使用はやや苦しかったのではないかと思います
64000の狭いロングシートの客室車内は、一種独特の雰囲気がありました 飯田線のデッカーは夏場暑いので前面ドア全開でゴトゴト走ってましたね。 そう夏休みに飯田線に行ってカモレを正面がちで狙うと残念な結果に…… 飯田線を最後にED17は国鉄大宮工場の片隅で他のSL達と解体を待っていた。
そこまでは見に行きました。大田切川の鉄橋を短い貨物編成でゴトゴト走る
旧型電機は模型のようでした。まだ辰野駅ではC12が入換え作業してたな。 中部天竜を昼頃通る266レはEF10の重連だった。しかし貨車の両数は本当に
少なく、車掌車だけの時も多かったなぁ。ED62が投入されると10+62の重
連も見られたけど、なぜかいつも先頭はEF10の方だった。
>>109>>110
丸味を帯びた20〜24号機やヒサシ付きの14号機、角ばった39、41号機、
同じ形でも正面窓上にヒサシのついた31号機ってとこかな?塗装はされていたけ
ど、24号機は元関門トンネル用のステンレス車体だったね。
まだあったとは思うけど、記憶にあるのはこのくらいかな・・・ >>113
中学の頃「鉄道ファン」誌を読んでいたら、指摘のような写真が何枚も掲載されていて
当時はびっくりしたものでスた。 >>109です。
国電も同じ形式なのに、
貫通・非貫通・全面塗り分け・切妻・前照等・尾灯・ドア・窓・車内・屋根・ベンチレーターなど、
言えば数えきれない位違いが多かった。
原因の一つには改造前の形式違いも有る。
飯田線に限らないが国鉄・私鉄・地下鉄とも何が来るか楽しみが有ったね。 当時の飯田線の車両なんかは、顔かたちを見ただけで形式の違いばかりでなく、
車号まで判ったよね。パンタがPS11だったり13だったり、正面窓がHゴム化され
ていたりいなかったり、塗り分けが微妙に異なったり、偶数向き奇数向き等・・・
窓配置やライトの位置などにまで目をやれば、意外なほど変形車や異端車が見つ
かった。クモハ54やクハ68等は割りと両数が多く見分けはつき難かったけども、
それでもペアを組む車両の特徴などから判別できたりもした。 人間だと十人十色と言うが百両百種と言う感じだったね。 >>106 >>112
クモハ61は結構クハニ67と編成を組んでいたと思う。
67の荷物輸送は北部限定運用(90台)だったらしいけど、たまに70〜80台の運用にも
充当され、47153+53000+67905+61005、或いは67+61+61+68と編成を組んだのを見たこ
とがあるよ。いずれも3両がロングシート車で、さすがに4両オールロングは見たこと
は無いですが・・・。
また、同じ両運車でもクモハ42の方は先に廃車されてしまいましたが、これはMT15装
備車だったことが要因でしょうか。(小野田線では見事に生き延びたけど) 飯田線旧国が全盛の頃、辰野駅は輝いていた。
今は氏んでる。
>>122
中央東線の岡谷〜塩尻間の短絡線(通称みどり湖線)が開通してから
余計に寂しくなったな。 鼎駅だったかな?今は棒駅になってしまったけど、列車交換設備がある頃は、
行き違いの際に限りスイッチバック??を行っていたね。 >>129
昭和56年10月1日発行のJRR・旧型国電ガイドに当時の
飯田線全線の線形が載っているが、鼎駅はスイッチ・バックが
出来る線形ではなく、通常の行き違い設備のみですね。 >>130
ゴメンナサイ。誤解を招いてしまうような書き方だったかな。
行き違い設備の有効長が短いため、客扱い後いったん安全側線に数メートル程度
引き上げ、反対列車をやり過ごしたあとで所定の位置までバックし、再び本線
に向けて出発していたと思います。
たしか4両編成の上り列車で経験しましたが、3両以下なら支障しなかったと思
います。
そもそも“スイッチバック”という言葉を使ったこと自体が誤りでした。
もう30回は観てるけどw、旧国の車内はやっぱりいいなぁ 「旧国」は「旧型国電」の略だと思う。
80系は湘南電車だから、「旧性能電車」ではあるが、「国電」には
含まれないと解釈している。
>>134
じゃ、横須賀線だった32(14)系や70系も「国電」じゃないのかな? 80系は旧国といえば旧国なんだけど、それ以前の旧国とは全然違うもんなぁ >>134
そもそも>>132の動画の中に80系は出て来てないと思うけど、
何処と関連付けたレスなのか? 飯田線旧国最期に国鉄自ら、ゲタ電と呼んだのには非常に違和感を感じた。
自分のなかでは、ゲタ電って、4扉の旧国ってイメージだったから。
因みに「80系が旧国」には違和感は、感じないな。 >>141
100レスくらい上に80系が旧国かという議論があったからそれを蒸し返してたんじゃない?
私としては旧国は先頭が貫通か切妻3枚窓が基本。湘南顔の70系80系は旧国に入れたく
ない。(あくまでも個人的な好みの話。)
ところで横須賀線は国電区間。(70系のいた時代もそうだったかは未確認だが)
111とか113もオレンジと緑に塗られていれば
世間は湘南電車と呼びますしね。
あの色の115ですら、すでに飯田線では見れないなんて
にわかには信じられない。