国鉄の急行列車・準急列車を語る
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今は準急全滅
急行も指で数えられるほどにまで減ってしまった
そんな急行・準急について語るスレを試しに立ててみる 金沢⇔青森走ってた『しらゆき』
全線電化されてたけどキハ58で走ってたな
今なら叩かれるだろうなw >>57
キハ58の正向き単行の試運転が本線を走る動画を見せてもらって
びっくりしたことがある。
そういえば、妻板に尾灯あるよね。
スレチにつきsage >52
というか、美祢線の優等列車自体(もっというと美祢線が)宇部興産用なところがあったな。
重役さんも今は専用道で宇部市まで移動しているのだろうか。 おい、おまいら!!
今NHKで凄い映像が流れてるぞ!! みているみている
小松島機関区の転車台
78680
>>60
すれ違いだけど、宇部興産の専用道、
普通自動車だと猛烈に乗り心地が悪いとか専用スレで聞いたことが。
余談だけどあそこって取り締まりとかめちゃくちゃ厳しいんだって
個人的には常磐線の急行列車が気になるね
首都圏に最後まで乗り入れていたキハ58とか。 >>63
> 個人的には常磐線の急行列車が気になるね
> 首都圏に最後まで乗り入れていたキハ58とか。
常磐線のキニって、急行に連結されていたのですか?
それとも荷物列車として単独運行?
交直流の荷物電車って作られませんでしたものね。
荷物輸送末期に改造されたキニとかスユニとかには
数年しか使われずに棄てられたものも多かったはず。 今NHKでやってる映像凄いな………飯山線や川越線をSL走ってたなんて知らなかった。 >>64
常磐線のキニは末期は専用列車として運用されてた筈。
昭和61年11月改正であぼーん、だったかな。 >>65
当時に実際に乗車した経験は、結構辛い事が多かった。
今のグリーン車とか寝台車は庶民のものでなかった。 (補足)
グリーン車は、1・2・3等があった時代の2等に相当する。 >>61>>62>>65
俺もそろそろ寝ようかと思ってたら例の番組が!!
思わずテレビにかじりついて見た。録画もバッチリと
なかでも一番の見どころはC62ニセコだったな。
長編成に帯つきグリーン車つきとはまさに最後のSL幹線急行にふさわしい姿だった。
森駅でのいかめしの立ち売りに、乗客がみんなお札を差し出して待っていて
それを立ち売りのおじさんが要領よく、おつりのある人には弁当とおつりを一緒に渡していた。
ああ、あの頃の鉄道全盛期が懐かしい…
>>47 撮りたい時、カメラなし
カメラがある時、撮るものなし >>66 ありがとう。
他スレで、昼行急行ニセコが最後まで客車で残った理由が
書かれていたので、こちらもそれかと思ったものだから。
「例の番組」、俺も木曽森のところから見た。
プロの撮影・編集についひきこまれた。 >>63
>>宇部興産の専用道
列車並みのダイヤで管理されてるらしいね >>73
黒猫とかの長距離便もかなり厳密に運行管理されているよ。
専用道なら渋滞等の外的要因がないから、鉄道並みの運行管理がされていても
不思議ではない。
俺にとっての急行列車は「丹後」だな。
キハ28(キロ28が1両)の6〜7両編成だったと思う。
昭和40年代の話。 >>75
山陰東部の優等列車といえば、昭和40年代といわず、
1980年代まで、それがスタンダードw
京都口が「丹後」「白兎」、大阪口が「丹波」「だいせん」、
必ずキロが入っていて、65が入らない、きれいな編成だったな。 >>76
「白兎」をいれるなら「いでゆ」も・・・ネ
>>77
いでゆは昭和53年改正でだいせんに統合されたからな。
それを言うと但馬だけでなく、みささ・みまさか・石見・美保なども出てきてしまう。 新大阪発赤穂線周り岡山行きの「あこう」はいつもガラガラだった
あと名前は忘れたけど、月田行きなんてどこに行くかわからないDC急行もあったな
「みささ」だったっけ? >>80
大阪→姫路→津山→中国勝山・月田・新見方面は「みまさか」(美作国より命名)
大阪→姫路→津山→鳥取方面は「みささ」(三朝温泉『みささおんせん』より命名)
両者は併結していたな。
ついでに津山→新見→備後落合→三次→広島「やまのゆ」なんてあった
「美保」もそうだけど、漢字2文字だけの愛称であまり馴染みのない地名とか名所が出自のものってなんとなく
しっくりいかなかったよね。
「野沢」「天都」など 地元にとっては違和感はなかったのだろうけど。
2文字じゃないけど「はんだ」も。どこを走っているのかわからない急行。 準急伊吹
急行編成でお得感があった座席はまあ
比叡とかと変わらないが
ビュフェの営業があった >>82
急行名称に限らず固有名詞は独特の読み方あるからなー。
でも,ガキのころから鉄ヲタやっていたおかげで旧国名,主要都市名は勝手に頭に入ったので
社会は強かったぞ。
先生「さーみなさん長崎・佐世保を地図帳で調べてみましょう」
オレ(アーヒマだなー,ン?そろそろ昼か「さくら」が長崎に到着するな)
国鉄の準急が無くなったのは何年だったのですか?
短距離のが多かったようですが。 >>86
S42年位か?
新幹線出来るまでは東海なんて長かった >>82
「はんだ」とは終点の湯布院近くに飯田高原(はんだこうげん)てのがあってそこから命名された
確か宮脇先生にも「はんだとは素っ気ない愛称だが」と書かれていた記憶が 走行距離が100kmか200kmのどっちかで
それ以下が準急って区切ってなかったっけ? >>85
俺も社会、特に地理は抜群だったよ。
読めない地名がなかった。 「はぼろ」は分かるけど「みぼろ」が分からなかった
御母衣のほうが地元に近いのに orz >>88
今から20数年前に由布院から福岡県の直方まで「はんだ」に乗ったけど、
快速で、窓口で乗車券のみ買った気がする。急行だったり、準急だったりした時期があるのかな?
詳しい方お教えを。
小学生の頃小遣い握りしめてよく急行に乗りに出かけた。
キハの長編成だったゆのくに・越後
午後の日差しの中、客のいない寝台車をつないでた屋久島
阪和線をかっとばす気動車きのくに
京都駅1番線始発の平安
休業中のサハシをつないでた立山
尼崎からいきなりローカル気分のいなば
小児半額は安かった。 >>85
>>92
俺も時刻表を愛読したおかげで地理は得意で都道府県に対する県庁所在地、その場所は
すぐにわかった。
高校に入ると授業中、ノートに急行の編成表をよく書いていたな。
隣のヤツは麻雀の役満をノートに書いていたっけ。
さて本題に戻して編成の話となるが特に客車急行の編成は特急と違いバラエテイに
富んでいるので暗記している編成を授業中に書いていただけでも飽きなかったものだ。
最近だが会議中にマロネ、マシ、スロなどとか書いていて隣の人が「何の暗号だ?」
とか聞かれた。 >>94
おれの知っている「はんだ」は急行だった時期がある。
そのころ日田彦山線は急行が下り4種上り5種あった。
「日田」「はんだ」「あさぎり」「あきよし」と上りのみ「ひこさん」
「はんだ」は小倉からそのまま日田彦山線にはいらず折尾直方伊田線経由
「あきよし」は山陰の浜田だか江津だかが始発で美祢線・日田彦山線経由だった記憶
>>80
「あこう」は小学生の時に小豆島に行った時に日生まで乗ったことがある
日生から小豆島に向かう船の中で見えてくる島を指差して「あれはなんていう島」「鹿久居島」とか教えてくれたのに
なぜか意識的に名前教えてくれない島があって気になっていたけど
あとで長島というハンセン氏病の人が療養している島だと知った (´‐`)ノttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4593800 「はんだ」「日田」はキハ66/67使用の唯一の急行だったね 定期急行では聞いた事が無い。80系電車を使用した休日快速に「あこう」と言う
愛称が付いていた様な記憶はあるけど。 ついでにレスするけど「エメラルド」とか「あじがうら」とか海水浴客向けの急行とか昔は多かったよな 7月15日からの房総方面夏ダイヤってのもなくなっちゃたね
>>94
はんだは日田、あさぎり、大隈、錦江、佐多とともに
55・10改正で急行から快速に格下げ 丁度10年前長野五輪の時に長野に行った。
大阪への帰りに臨時の昼行ちくまに乗るため長野駅の窓口で
「大阪まで急行1枚」と言ったが「特急しか走ってない」と言われ
ひと悶着した。 JRになってから不勉強な職員が増えたような
都区内からサンライズ→下関→鹿児島線というコースに乗るため、片道乗車券を頼んだことがあるが
「……倉敷……伯備線……米子は……あれ?」
「伯備と山陰線の接続は、伯耆大山です」
「ああ、すいません……次は下関……無い……」
「――山陰線と山陽線の接続は、幡生です」
「あ、ああ、すいません……下関……下関は……」
「次です。九州に渡って門司まで山陽線、ここで鹿児島線接続です」
駅員氏はどことなく自信を失ったような表情で俺にマルス券を渡した。 >>108
国鉄時代は面倒な経路の乗車券は自分の頭脳とスキルのみで乗車券発券したから
不勉強じゃ勤まらないよな。
たまに算盤が苦手なのか,筆算式書いて計算している人もいた。
分割化後、他社の駅名を勉強する必要性が少なくなったからでは? 自分でいろんな線区に実際乗っている職員はどんな小さな駅でも知っているな 先日、東日本の窓口で、智頭急行経由で鳥取までの乗車券を買ったのだが、智頭急行
が何処を走っているか自体を良く理解していなかったのには、ちょっとびっくりした。
前に「影が薄い」という名称が列車名らしくない急行・準急で「野沢」「天都」「はんだ」などがあがっていたけど
「うおの」というのも走行区間も響きもややはっきりしないものだね。
最も「魚野川」からとったといえば走ってる地域も何となくわかるけれど「うおの」とひらがなだけだと
なんとなくはっきりしないね。
(現車は主に気動車2両で十日町〜新潟を走っていた。ただし飯山線内は普通で、急行区間も他列車と併結という
ものだった) その線区に急行1本でしかもそれがロザ・ハザ付というとなると
急行「天北」の天北線の他どこがあるかな?
確か小頓別という小駅に停車したが,そんな小駅からロザに乗る人って
さぞかしその地方では名士で,改札係も最敬礼したんじゃないかな?
・・・などと想像してみる。
俺にとっての急行といえば、架線下DC急行「赤倉」しかないな。
母の田舎へ行くときはいつも利用した。
キロ2両を含む堂々10両編成(12両の時もあったな)は圧巻だった。
しかし電車化後は一度も乗ることが無かった・・・。 >>116
確かに。
今みたいに若造が気軽に乗るような雰囲気じゃなさそうだなw むかし、「アルプス」や「信州」の一部列車には「ビュッフェ」があったよなぁ〜
時刻表にコーヒーカップの印のついた列車がなつかしい〜 >>119ビュフェと言えば東海道の急行のビュフェ
で一度寿司が食べたかったな
二、三歳の頃に準急伊吹に乗ったのが唯一の
寿司ビュフェ
年齢的に記憶はない
その後急行になった比叡に乗った時
ビュフェがあったが寿司コーナーはやってなかった
気がする >>120
「アルプス」はビュフェ営業休止後も長いことサハシを連結していましたなぁ。
そういえば営業している食堂車の経験といえば「北斗星」しかないな・・・orz 新潟と仙台を結んでいた急行あさひ。
大体4〜5両編成でハザが一両付いてた。
ハザはキハ58系列が多いんだがキロ25格下げのキハ26-400が入ることがあった。
確かにシートは転換クロスでいいんだが、車体幅が狭くて子供心に古い車としか映らない。
編成美もキハ26が乱しているみたいに見えて嫌いな車両だった。
今なら間違いなくソイツに乗るだろうけどねw 昔、東京とか上野に向かうとき品川を出て客車区の脇を通る時
167系が止まってるのを見るのが好きだった。 お客様にお知らせ申し上げます。
この列車にはビュッフェが連結されております。
当日本食堂では、サンドイッチなどの軽いお食事物や
お飲み物をご用意して皆様のお越しをお待ちしております。 >>124
思わず「とうじつ ほんしょくどうでは…」と読んでしまった。
旅のレストラン・日本食堂は遠くになかりけり。
名古屋出発後の急行「大社」
この列車は4両の短い編成でございます
なお食堂車・ビュッフェ車は連結いたしておりません
そんなことわざわざ言わんでも判るがなって当時思った 長丁場の列車だと付いてるのが当たり前という見方もあったからな おれはどっちかというと駅弁派だったなー。
食堂車って移動が面倒な上に込んでいたからな。
竹箱の弁当箱をあけると駅弁ならではの
なんともいえない香ばしさが食欲を誘った。
営業休止からずいぶん経って荒れ果てたサハシ165しか乗ったことがない…orz
>>128
駅弁も好きだけど食堂車がついている列車があるときは必ず利用したな
でも急行の営業ビュッフェには乗ったことが無い
「アルプス」と「かいもん」で非営業車両に乗ったのみ 急行 八甲田と、急行 ニセコに、乗ったことあり。
すごく、12系客車とか、懐かしく感じられる。 12系だと十和田とかいもん
14系だと銀河51号、八甲田、津軽くらいかな?
乗ったの?
JRになってからははまなすもあるけど…
鈍行ならはやたまの12系
夜汽車に揺られるのも今のうちなのかな… 快速「海峡」の14系12系
そして一ノ関〜盛岡間の普通列車に使われていた12系に乗ったよ。
あのJR初期の頃はよかったなー。
利用した切符はEEきっぷ+中小国以北の普通乗車券
>>132
14系津軽は、上りだと山形県内では座れないイメージがあった。
秋田からの乗客が座席を回してボックスにして寝てしまってるんで、どこに座っていいのか分からなくなるから。
おまけに通路歩いてて足が触れたら、寝てる客が蹴り入れてきたりして
「ガラの悪い」列車だなぁ、ってイメージがあったよ。 印象深い急行
大阪駅のコンコースで4時間並んできたぐに乗車。
青森までは長かった。
夜10時前仙台留置中の20系新星で爆睡、
目が覚めたら上野停車中で疑似列車ホテル体験だった。 583彗星に1両だけつないでた指定席で
大阪から広島まで行き、夜行ちどりに乗り換えて
松江に行こうとした、がハザがとれず新幹線乗車。
念のため横川から乗車すると、通勤列車以上に
超満員のちどりは広島で積み残しまで出て
最悪の夜行列車となった。
って2年前に同じことを下りきたぐにの京都駅でも経験した。 「ぬまさい」って語呂の悪い急行もあったよね。
「せなた」とか「ばほろ」も懐かしい。 >>137
>「ぬまさい」って語呂の悪い急行もあったよね
それ「ぬさまい」(幣舞橋より命名)だから ネタだったのか…、後の「せなた」「ばほろ」はちゃんと書いてあると思ったらこれもネタだった
マジレスしちまった orz 「はぼろ」だがS52,53の3月頃に札幌ー小平間を何度か乗車したが編成が
(1)ハ(指定)+(2)ハ(自由)+(3)ハ(自由)で(3)が留萌切り離し。
そのため(2)の自由席が多くの立ち客が出るほどの混雑だった。
ちなみに俺は当時小平にあるYHで長期間滞在した事あるのでそこを
中心として札幌、旭川に出かけていた。まるで地元民もどきであった
がいずれにせよ「はぼろ」は便利な列車で小平駅でも地元利用者でも
20名近い乗降はあった記憶。
今は廃線となった羽幌線だが当時はそんな事が想像出来ぬほど盛況だ
った。 上野発盛岡行きの夜行急行「いわて51号」は手加減知らずの冷房で、
上着を持ってる乗客はみんな羽織ってて、持ってないやつは肌を泡立たせて眠ってたな。
関西に遊びに行って九州へ帰るとき熊本行きの夜行急行に乗ったはずなのに
朝目が覚めてうとうとしていると「次は中津」などという放送が流れていて驚いたことがあります
放送を聞いているとこの列車は大分行きだと
何がなんだかわからないままに中津で降りて上り列車で博多に帰った憶えがあります
私が乗っていたのは「くにさき」という列車で熊本行きの「阿蘇」と前後ろでつながっていたのだとあとで知りました >>52
「西九州」は別府温泉と基地を往復する米海軍ご用達の側面があったんですね
久大線の上り一番列車でしたから大分から日田に行くときはたいていこれでした
急行の思い出といえば従兄弟が大学受験で佐賀に行ったときに「出島」に乗るのを博多駅で見送りました
あと私が赤ん坊の頃、熊本県南部の小さな町から筑豊へ帰省するのに
「フェニックス」という列車によく乗っているようです
母はそれこそ「実家に帰らせてもらいます」という感じで何度か私を連れてこの列車に乗ったそうです 高校1年の夏。大阪行きの銀河51号乗ったが、牽引機が何とゴハチの61号機!
臨時ならではのサプライズだった。今では銀河そのものが過去のものに・・・
『くにさき』懐かしいね。
大学が大分だったので、何回か乗った。
14系の座席車だった。
大学を受けた時も帰りは『くにさき』だった。
試験の翌日、不動産屋に行って、
アパートの手付金をうとうとしたら、
合格発表があってからでいいですからと
受け取って貰えなかった。
頭悪そうに見えたのかな。 >>126四両以前に気動車急行で
食堂車、ビュフェがあり得ん まぁ、鉄男の間隔じゃ常識でも、
一般乗客には説明しないと通用しなかったんだろうねw >>126
事実を伝えてるだけだから何の問題もないと思うが。
車内放送は鉄のためにあるんじゃなくて、お客さん全員のためにあるんですよ。
急行じゃないけど
地味な存在だった
特急「あおば」特急「あすか」特急「おおよど」
「あおば」の停車駅
仙台・塩釜・小牛田・一ノ関・北上・陸中川尻(現ほっとゆだ)・横手・大曲・秋田
「あすか」の停車駅
名古屋・四日市・亀山・伊賀上野・柘植・奈良・堺市・東和歌山(現和歌山)
「おおよど」の停車駅
博多・鳥栖・久留米・羽犬塚・大牟田・熊本・八代・人吉・吉松・京町(現京町温泉)・小林・都城・宮崎
小学生の頃博多駅で写真を撮っていたら感じの良い老夫妻に
「すみませぬが、人吉行きはどこですか?」と聞かれたことがあります
ちょうど583系の有明3号を撮った後でした
いっしょに「おおよど」の出るホームに行った憶えがあります
おじいさんが杖をついてゆっくり階段を上がってこられるのを見て
エスカレーターがあるといいのにと思いましたね
写真を撮ってほしいと頼まれ、ホームにいた「おおよど」の前で老夫妻を撮り
後日写真を送ると非常に達筆な文字での礼状と湯前温泉のキーホルダーが届きました
古賀の方でしたね 人吉〜吉松間を特急が走った・・・
懐かしネタはやっぱ萌える・・・ あさひ
新潟から仙台まで乗り通した。
上野ー長岡(夜行鈍行)、長岡ー新潟(鈍行)、新潟ー仙台(あさひ)
仙台ー相馬(鈍行)、相馬ー上野(ときわ)
仙台、山形(?)ミニ周遊券利用だったけど、仙台で乗り継ぎ時間が
ほとんどなかったので、山形で停車中に改札まで走り、往路の券を渡し
周遊・復路の券に入鋏してもらった。
長岡ー新潟間では一番前に座り運転士とおしゃべりした。
今では考えられない。あの運転士さんもそろそろ引退かな。
米坂線より仙山線の景色の方が印象に残ってる。
特に山寺と仙山トンネル付近が。
>>153
仙山線で思い出したが、奥新川の変電所跡地が
こないだの秋のお彼岸のときに見たら解体の真っ最中だった。
1)私が乗った頃には14系になっていた、「雲仙」「西海」。
座席に座ってると、2列ほど前のカップルが車内でいちゃいちゃし始める。
この車両には私とそのカップルの他客は居なかった。
普通にいちゃいちゃする分には別に構わなかったんだけど・・・
濃厚なキスとか女性の声が聞こえてきたりして、トイレ行くのにも困って
固まってた。
2)初めて乗った開放A寝台
当時の東北方面の夜行急行って、線によって列車番号が分かれてて
東北本線の八甲田は101レ,常磐線の十和田は201レとかだった。
401レと一ランク落ちる形だったが津軽1号で初めてA寝台乗りました。
A寝台ってこんな形なんだ〜って思いました。 子どもの頃(S55年くらい)に読んだ子ども向け鉄道図鑑みたいな奴に、
「A寝台は線路と平行、B寝台は線路と垂直にベッドが〜」って書いてあったもんだから、
「どうしてベッドの向きで優劣が生じるんだろう?」って疑問だった。
ベッド幅も一緒だったんだよね、その頃は。
スレ違いっぽい独り言でスマソ >>108-110
窓口も今や臨職の時代だからねえ… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています