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究極の精神統一法を目指す【最強のMindfulness】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 02:57:48.89ID:Ey9Ayjm/
弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。

過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。

また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。

煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。

ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 03:06:49.61ID:Ey9Ayjm/
ここではMindfulnessという言葉を日本語で書くのは忌避します。
なぜなら、あらゆる板にMindfulness関連のスレが立ち、「自分が一番知っている」という人達が
誤った理屈や、自己中心的な主張を繰り返して、まがい物的なスレが形成されてしまっているので、
そのような人たちの参入を避けるために、あえてストレートな言い方はせず、Mindfulness、
または、マイフルと略するような言い方にします。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 12:12:05.85ID:Ey9Ayjm/
理趣経

ここに、世尊なる金剛手、
一切諸仏の現証たる
マンダラ中に住み給う
持金剛手の最勝なり。

この世の悪を調伏げ、
余す方なく一切の義
なべて成し給う。

この金剛手大菩薩
「世の欲すべて清らなり」、
この教えをば示さんと、
お顔やわらげ微笑みて、
「金剛印」の印結び、
右手に五鈷杵動かして、
進む勢い示したり。

大なる楽は金剛の
不壊なる上に空ならず、
この境地をば示さんと、
聖音「フーン」と唱えたり。
0004名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 12:32:50.76ID:Ey9Ayjm/
理趣経  (関連文章)

業の平等さとるべし。
大なる菩提は捉われず、分別動作はそのままに、
仏の所に至るなり。


かくて世尊は、この世なる調い難きものどもを、なべてなびかす釈迦牟尼の、
姿となりて、ものすべて、その本質は平等きを、示す教えを説き給う。
かかる教えに従えば、善悪超えてわれらみな、最勝し境地に赴かん。
これぞ仏智の理趣ならん。
その説法は左の如し。

くさぐさ欲は表われど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。
欲が一つであるごとく、瞋りもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
善悪超えたるものなれば、おろかしきもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。

貪り、瞋りまたくらさ、いずれもそのもと一つにて、区別・表れなしとせば、
すべてのものは一つなり。

すべてのものは一つにて、区別・表れなしとせば、知恵の理趣また、これ一つ。

「悪にその性なし」という、かかる教えを説きてのち、世尊は呼びぬ、「金剛手。」

「もしそなたがこの理趣を、聴きたるのちに身を受持ち、日々夜々にとなえなば、
たとえこの世の生類を、余すなく殺すとも、悪の報いは受くるなし。
ただ受けざるに止まらず、悪を調けし報いにて、さとり得ること遠からず。」

かくて金剛手大菩薩、重ねてこの理趣示さんと、手に降三世の印結び、
蓮の御顔微笑みて、しかも怒りのさまを出し、眉をひそめて歯を出す。
そも御姿は「降伏」にて、この理趣示す聖なる音、「フーン」を唱えまつるなり。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/14(水) 20:33:28.81ID:Ey9Ayjm/
Mindfulnessの話をするには、まず、仏教とスピリチュアルの話に触れないといけない。
Mindfulnessとはスピリチュアル的境地を目指すものであり、その境地こそ、
仏教の悟りと同義語であるからだ。

マイフルを語る仏教指導者でも、スピリチュアルを信じてない人が多い。
いわく、あの世は無い、霊は無い、
もしもマイフルや悟りがこの世だけのものなら、そんなものやらない方がいいだろ。
出来るだけ楽しんで、楽して、もしも苦しみが極まるなら、自殺してしまった方がいいということになる。
あの世が無いのに、何も無や空の境地を目指さなくてもいいわけだ。

ところがマイフルこそ、スピリチュアル抜きでは語れないものであり、
それは仏教の悟りも同じだ。
マイフルを語りながら霊的世界を否定するものは、どんなに立派なことを語ろうが、
どんなに難しい経典を語ろうが、まったくマイフルについて
何も分かっていないということになる。


また逆に、マイフルをオカルトチックに考え、超越的な境地をオカルト的な興味から求める人もいる。
こういう人は、不思議な感覚などが出てくると、それに拘り、あたかも自分が神秘的なものを得たと錯覚し
魔境に落ちていってしまう。

究極のマイフルとは幸せの境地を目指すものであり、それはこの世でも実現されるものである。
その過程において、神秘力も出てくるかもしれないが、それをオカルトチックな欲求の
対象としてはならない。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/15(木) 01:22:38.10ID:HZpGEkbS
Mindfulnessとは何かというと、マインドを満たす
何に?
それは「今に」、ということ。
大抵の人間は、「今」に心を満たしていない。

たとえば、夜自分の部屋からトイレに行くとして、
立ち上がり、
一歩一歩歩き、
トイレのドアのぶを握り
ドアを開け、ドアを閉め、・・・・

ということを、意識していない
大抵は無意識にやっている
その間に考え事をしていたり、ボーっとしているわけだ

つまり、人間の「想い」というものは、1日24時間の大部分を、「今」から
外れていると言ってもいい。

これの何が問題なのかというと、これこそ、「苦」の原因になっている、
ということである。

我々の真実の世界とは、どういうものだろうか・・?
過去・現在・未来があるものだろうか?

よくよく考えてみれば、真実の世界とは、「今」しか存在していない。
逆に、我々が日常で認識している世界とは、
時間の幅を持った世界だ。
つまり、偽の世界だ。

映画のマトリックスのように、我々は「想い」によって構築された、
偽の世界に住んでいる

仏教ではこれを幻(マーヤー)と言っているし、聖徳太子は、「世間虚仮、唯仏是真」
と言っている。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/16(金) 02:41:35.41ID:IO8DViMw
「諸法無我」と「諸行無常」という言葉を押さえておこう。

「諸法無我」というのは、この世界に生起するものは無い、ということ。
個別に見ている、あれ、それ、これ、私、あなた、 善、悪、 苦、楽 といった相対的な両極、
これら生起しているように見えるものは、実は存在しないということ。

後の大乗仏教ではこれを、「無自性空」という。
世界に生起しているものは無く、空であると・・・。


「諸行無常」というのは、何ものも存在するものが、
0.1秒も継続することは出来ないということ。

われわれは、あなたも私も、それもこれも、継続的に見ている。
つまり、過去の記憶を元に、未来への予測も含めて、個別の存在が
時間的に継続すると考えている。

我々は、私もあなたも含めて、継続するような実体を持っていない。
10歳の自分は10歳で完結している。
20歳の時は20歳だ。
それをあたかも、10歳の自分が20歳の自分になったと、継続的に見ている。
もし10歳の自分が20歳になったというのなら、20歳の中に10歳の自分が隠れていることになる。
10歳の自分と20歳の自分、二つの自分が重なっていることになる。
実際は、5秒前の自分と今の自分は、継続もしないし、同じものとも言えない。
それを継続的に見てしまっている。
これを「執着」という。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 02:06:28.23ID:rsX96luB
よく、「無我になる」、ということが言われるが、この中の「我」というのは、
「エゴ」のこと。
「エゴ」とは、「欲」だったり、人間の「想い」のことだったりする
我慾、我想念というのがエゴのことで、人間の思考そのものが
エゴとも言っていい。
このエゴを克服することこそが、「悟り」ということになる。

上で述べたように、自分が一瞬も継続しないとなれば、じゃあ、自分が全く何も無くなっちゃうじゃないか、
と思うかもしれないが、
人間というのは、二種類の流れがあると考えなくてはいけない。

一つは、カルマの流れ。 
エゴ自体がカルマの形成物ととらえてもいいかもしれない。

たとえば、人間の行動、思考というものは、自分で考え、行動しているように思えるが、
実は、すべてはカルマで記録されたものが出て来てるだけ。
過去世で作られた因縁が、だんだん熟成して、今ここに出て来ている。
過去世のものも、そのまた過去に因縁が作られたもの。
それがグルグル回ってる。

このグルグル回ってるものから抜け出さない限り、人間としての苦から
脱することは出来ない。
また、幻想の世界ではなくて、真実の世界も垣間見ることは出来ない。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 02:14:52.70ID:rsX96luB
もう一つの流れは、本源(ソース)から来るもの。
この本源から来る流れは、例え話にしないと説明しづらい。

たとえば、大きな海があるとする。
この海に、たくさんの蛇口が繋がっているとする。

この蛇口から水が出てくるわけだけど、そのまま出てくれば、大きな海(ソース)から
直接、水が流れ込んでくるわけだ。
ところが、蛇口がエゴで汚れてると、水が出てくる時には、色が変色し、汚くなって
ドロドロになっている。

通常人間は、この汚れの方を「自分」だと思っている。
ところがこれは、実際は幻想で、ソースから流れて来る方が、真実のものと言っていい。

真実の自分はただ蛇口(個)としての「自分」とは言えなくなる。
なぜなら、そこから出てくるものは大海そのものだからだ。
だからもし、「真実の自分」という言い方をするならば、それは大海を意味する
大きな自分ということになる。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 15:49:50.11ID:rsX96luB
「諸法無我」、「無自性空」を上の例え話で説明すると、われわれの世界は蛇口の汚れから出た泥で構築されていて、
大海は全く見えない、高次元の状態。

個人で言えば、蛇口から出た泥が薄い人もいれば、濃い人もいる。
濃いい人は、高次元の光が流れてこないので、愛とは逆行した人間になる
たとえば、犯罪者になったりとか。

泥の薄い人は、大海からの水が通じてくるので、愛に満ちた、
我の少ない人になる。

「諸法無我」、「無自性空」というのは、この泥というものは、本来無いんだよ、
そして、世界にはいろんな泥があるが、それらはすべて無く、泥の世界と見えたものは空っぽなんだよ、
ということ。

空っぽになると何が出てくるかというと、すべてが大海に繋がった姿だよね。
これをスピリチュアル的に、ワンネスという。
世界は一つということ。

色即是空 空即是色 という言葉があるが、この最初の「色」は泥のことで、
最後の「色」は、大海のこと。
泥は空であると。
その根本的な空の世界は、大海なんだと。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 21:49:41.57ID:rsX96luB
さて、ここで、あの世について、スピリチュアル的に語らないといけない。

まず、一番上に「神界」というのがあって、ここが一番根源的な世界と言える。
ここから光が下降して写ってくるわけだが、その次が「霊界」ということになる。
神界や霊界は、大海の水の世界と言ってもいい。
汚れのない世界。
神界が大海の世界そのものだとすると、霊界というのは、大海の水が個別に注ぎ込む
世界と言っていいかもしれない。

そしてその下の「幽界」というところから、泥・・ つまり、エゴに汚染されることになる。
順々に写ってくるから、汚れがなければそのまま神界の光が下まで届くのだけど、
幽界の汚れがそのまま現界(この世)に写ってくるので、汚い世界が現れてくる。

一般的に、エゴがあるから輪廻するのであって、エゴを脱すれば、それは霊界以上なので、
輪廻する必要がなくなる。
多くの仏教者で「あの世が無い」と言ってる人たちは、あの世もこの世も空の世界でそんなもんは無いんだ、
そういう風にお釈迦様も言っている、という人もいるが、
この世まで無くなってしまうという、誤った論理になる。

幻想にしろなんにしろ、この世が確認されるのは確かで、
仏教が本質的に言っているのは、エゴの世界が無い、幻想、ということで、
この世と幽界はエゴの世界で、そういうものは幻で空であると。
その空が分からないから、幻想の世界で輪廻するということ。
現界と幽界(あの世)はあるように見える・・・ しかし、それは幻想で空であると。

自分が在ると執着してるから、 大抵の人はそれを脱しきれないから、また自分の我が続いちゃう。
死んでも幽界で、・・  そしてまた現界に写ってくる。
それを繰り返してる。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 21:53:30.53ID:rsX96luB
よく幽霊という言い方をするが、あれはスピリチュアル学的に間違った言い方。
正確には幽魂という。

よく、「霊」と「幽魂」を同じように扱ってしまっているが、実際は、霊とは純粋な大海からわかれた水の流れで、
「幽魂」というのはエゴに汚染されたものだと考えていい。
0013名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/18(日) 00:10:43.46ID:EMpxRxpo
お釈迦様の話で、12縁起というのがあるが、これは、人間がどのようにしてエゴに捉われ、苦に捉われていったか
ということを表している

一番最初に「無明」が生じるわけだが、それが泥の世界の始まりだ。
泥の世界は別の言い方をすれば、物質世界という風にも言える。
霊的世界に対する、物質世界ということ。

一番最初は、泥(物質)は全くなかった。
個別に識別されるものは何も無く、全ての世界は空っぽだった。
この空っぽというのは、あくまで泥に対して言われること。
各々、幾多、あらゆる泥が無く、空っぽの状態。

泥が一切なく、空っぽということはどういうことかというと、そこには無限の1の世界があるということ。
1しかなくて、2が無い。
すべてが一体で、ワンネス。

たとえば、パズル絵でピースがバラバラに分かれてるように見えるが、
実際は一枚の絵だったと・・。
分かれてるように見えた「バラ(個別)」は無く、何にも個がないから、
空っぽだったということ。
空っぽになると、一枚の無限の絵が現れてくる。

最初は1しかなかったが、無明が生まれ、急速に世界を分離的に見始めた。
最初に人間という動物が生まれ、そのあとに心が生まれ始めた・・ ということではなくて、
最初に心が生まれ、そこから世界が創造され、人間という存在が生じた。

この宇宙は時間と空間によって成り立っているが、その時間と空間は、一番最初に無明が
生み出したといってもいい。
つまり、われわれがビッグバンと呼んでいるものは、無明から幻想世界が
生じ始めた瞬間と言ってもいい。

本来、時間と空間は幻想だ。
世界は「今」しかない。
その「今」には、時間的な幅は無い

究極的に、「今」とは0秒だ。
真実の世界が0秒ということは、この0秒の中では何物も存在出来ない。
なぜ存在しているように見えるかというと、それは時間的な幅で、
思考分別によって見ているからだ。
つまり、時間的幅で幻想を作り出している。
0014名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/20(火) 01:19:06.39ID:cFg0WXhq
中道の話をしよう。

仏教の教えで非常に重要なのが、中道の概念だ。
中道=悟り と言ってもいい。

中道と似たような言葉で、中庸という言葉がある。
さて、これは何が違うのか?

中庸というのは、「ほどよい」とか、極端な物事を避け、中和した中間のような
イメージで語られることが多い。

一方、中道というのは、両極のどちらにも捉われない・・・、 両極のどちらにも、
微塵も捉われない・・・ ということで、そういう意味で、
どちらにも捉われないという意味での、「真ん中」ということを示している。

中庸は、物理的な中間が存在するイメージ。
一方、中道は、微塵もどちらにも捉われない、心の状態を表している。

中庸は、ほどよい、というのも、中間も、両極を前提にしなければ成り立たない。
両極を意識しなければ、その中間というのは見いだせない。
両極を気にしている状態なわけだ。

しかし、中道というのは、両極に全く捉われないため、両極に差が無くなる。
たとえば、雨にも捉われなければ、晴れにも捉われない、
こういう状況において、そういう人は、雨でも晴れでもどちらでもいい、
ということになる。
つまり、両極が平等になるわけだ。

平等ということはどういうことかというと、両極の差が無くなる・・ ゼロになる、
ということで、「両極」という相対的な概念が、消えてしまう。
相対というのは差があって初めて区別をつけられるが、
差が無ければゼロで全く同じだ。

なので、 中道 = 平等 = ゼロ(空) ということになる。

晴れと雨の区別がつかなくなるほど捉われなくなれば、その両極の差を示す言葉は空虚になってしまう。
つまり、空になってしまう。
相対的な両極が空になって一つになって差が無くなれば、それは一つになったことと同じだ。
空っぽというのは一つになったということだ。

人は常に「良し悪し」で物事を分別しているが、今に統一して分別が無くなれば、
この「良し悪し」は平等になる。
たとえば、病気でも健康でもどちらでもいい。
全く捉われなくなる。

そうして、今に統一したなかから、何もにも依存しない、
本当の幸せがあふれ出してくる。

人は大抵、何かに依存して、幸せを成り立たせている。
お金に依存した幸せ、 恋人に依存した幸せ、 能力に依存した幸せ、
容姿に依存した幸せ、 欲が楽しむことに依存した幸せ、
みな「良し悪し」の相対分別の「良し」の方に依存してしまっている。
良し悪しは切り離せて、どちらか一方を求められると思っているが、真実は、
この二つは一つだ。
「良し」は「悪し」に相対して成り立っている。
だから、「良し」を求める力が強いほど、また「悪し」も大きくなって現れてくる。
真実に幸せなのは、この両極を越えることだ。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/20(火) 01:29:08.60ID:cFg0WXhq
何かに依存した幸せというのは、それを失えば不幸になってしまう。
大抵の人はこの両方を繰り返しながら、両方の壁に頭をぶつけながら
歩いているようなものだ。


昔あるニュース番組の特集で、交通事故で身体障碍者になった青年の取材を
特集でやっていた。

彼は脳にダメージを受けたことによって、四肢の動きが不自由になり、しゃべり方も、
障碍者特有のしゃべり方になっていた。
昔の写真を見ると、イケメンで活動的な好青年という印象・・。

しかしなぜかその青年の顔は、輝くような笑顔であふれていた。
そこにはボランティアで大学生たちが支援に来ていたが、大学生たちが支援に来ているのか、
そうではなくて、大学生たちが感化されて、青年に会いたくて来ているのか、
わからないほどだった。

ここでインタビュアーが絶妙な質問をする。
その青年があまりにも幸せそうに見えたのだろう。
インタビュアーはこう質問した。

「事故に合う前の、健康な自分に戻れるとしたら、
戻りたいですか?」


青年は輝くような笑顔でこう言った。


「いいえ、戻りたくありません。  今が一番いいです。」
0016名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/22(木) 23:52:20.47ID:ilSs9ICx
ゾーンについて話をしよう。

よく、スポーツなどで、究極的なファインプレーなどをするときに、
「ゾーンに入った。」 という言い方をするときがある。
これは言うなれば、「本源につながった。」 ということと同じだ。

ゾーンに入る時は完全に、思考・分別はソース(本源)に交代している。
だから、ファインプレーが記憶に残らないことが多い。
つまり、思考分別で行動するのではなくて、完全に、ソース(本源)に任せて、
ソースが身体を使っているわけだ。
だから、その動きは完璧なわけだ。
それは超越的なファインプレーにつながる。

これは親鸞の「自然法爾」、老子の「無為自然」と同じことだ。
我(思考分別)を越えれば、大宇宙と完全に一体となった状態で、
宇宙の本源に身体を動かされることになる。

版画家の棟方志功も、「自分が手を動かしてるんじゃなく、仏に動かされているんだ。」 
というようなことを言っている。

これをスピリチュアルでは、「神の入れ物になる」というような言い方をする。
自分の中に「我」が詰まっている状態ではなく、自分の中を空っぽにして、
本源ソースから光が流れ込んでくるようにする・・・
そうすると、その人は本源の光そのものに動かされ、神そのものの行動になっていく。

これはごく初期の段階では、たとえばパッと良い方向に動けたり、危険を避けたり、
自然自然にそういう方向に行くので、運がよくなったり、人に好かれて寄ってきたり、
いつも幸福感を感じたりと、そういうことが起こってくる。
嫌なことはサッと過ぎていき、心がそれに捉われない。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/22(木) 23:57:37.08ID:ilSs9ICx
【一刀斎は剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈ったことがある。
三七二十一日の間、至誠をかたむけて参籠精進したが、ついに期待したような奇蹟は現われなかった。
満願の日になっても、依然として神示はなかった。
失望したかれは、自分の誠心の足らぬためかと、悄然として拝殿を降りて帰りかけた。

そのとき、物蔭に黒い影がチラリと動く気配が感じられた。
途端に、あたかも睡中にかゆいところをなでるように、無意識の間に手が動き、
刀が鞘走ってその影を斬りすてていた。
いや影を見た−−というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに
間髪を容れない心・手一如の速さだった。

 かれは振り向きもせずその場を立ち去ったが、後年その出来事を回顧して
「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、
その時の体験を組織して夢想剣と名づけたと伝えられている。】


そして『一刀斎先生剣法書』にはこう書かれている。

「月、無心にして水に移り、水、無念にして月を写す、
内に邪を生ぜざれば、事よく外に正し」

つまり、月はソースであり、大海の水のことだ。
内に我(エゴ)を生じさせなければ、その本源の姿がそのまま表れてくるということだ。
0018名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/27(火) 11:01:37.46ID:CHHivjmX
ソーンの話をもう少ししよう。

ゾーンというのは何もスポーツだけではない、座禅中にゾーンに入ることもあるわけだ。
言ってみれば、ゾーンとは三昧のことだ。
ただ、スポーツで言われるゾーンというのは、三昧によるファインプレーになった時の状態を示している。

深い三昧に入ると、その時の行動が記憶に残らない。
これは、道元禅師が 「覚知に交わるは証則にあらず」 と言ってるのと同じ。
思考で認知されるものに本物は無い。

ゾーンに入ると完全に思考が本源(ソース)に交代するので、思考の領域である記憶に残らない。
また、深い三昧に入ると、目が半眼になる。
これは思考で判断することが無くなり、視覚の情報量が必要なくなり、
かえって邪魔になるからだ。
仏像ではほとんど半眼の状態になってるものが多い。
これは深い三昧の状態を表している。

ゾーンに入って本源と交代すると、通常で考えられなかったファインプレーをしたり、
長い時間の記憶が残らなかったりする。
たとえば、座禅中に、夕方に座禅をし始めて、5分くらい経ったと思ったら、
朝になっていた・・・ とか、
厳しい修行中に、5分くらい経ったと思ったら、すでに3時間が経過していたとか、
もちろん、その間はソースに交代しているので、行動としては普通の状態の時より完璧なわけだ。
単なる意識を失うのとはわけが違う。
こういうのは、神道的に言えば、神掛かりとか、神の入れ物になっている状態、
ということになる。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/27(火) 11:18:13.22ID:CHHivjmX
昔、NHKで、中国の弓の達人の話が人形劇でやっていたことがある。
この話は非常によくできていて、その内容は悟りの話と言ってもいいものだった。

とあるところに、弓が上手くなりたい若者がいて、その人が夢の名人に弟子入りした。
最初は小屋の中で、ノミを糸で吊るしたものをズッと見つめろと言われ、
何日もノミを見つめていると、段々馬のように大きく見えてきて、それで弓を射ったら、
ノミの心臓を射ち抜くことが出来た。

それからだんだん自信が付いてきて、最後は調子に乗って、師匠が出がけから帰るところを待っていて、
遠くに見えてきた師匠めがけて弓を射始めた。
師匠も負けじと応戦し、矢が空中で衝突する。
それを何度か繰り返すと、とうとう師匠の矢が先に尽きてしまった。
最後の矢を師匠は口でガツッと咥えて受けた。

師匠はそんなに弓が上手くなりたいのかと、あきれ果てて、それならばと、
山の上に住む仙人のような弓の名人を紹介する。

弓の名人は最初に若者に、山頂の崖の端にある不安定な石の台の上に立って、
飛んでいる鳥を射落とすように命じる。
これは簡単と、若者は岩の台の上に立って、鳥を射ようとしたが、岩が今にも落ちそうな崖の端で、
不安定に揺れ始めた。
若者は脂汗を流し、鳥に狙いを定めようとするが、なかなか照準を合わせることが出来ない。
そしてとうとう、鳥を射落とすが出来なかった。

つまりこの話は、思考や、価値判断の相対分別、想いに捉われていては、
人間は何も出来ないということを物語っている。


そして若者が名人になって、年老いて、ある時知人の家を訪ねたとき、
玄関に弓が掛かっているのを見てこう言った。

「はて、これは一体何ですか?」

知人が、
「それは弓ですよ、お忘れになったのですか?」 と。

弓と完全に一体となって、その間に思考や想いの入る隙間が無い状態・・・
完全に一体となっているから、区別が無く、対象として捉えることがない。
区別し、対象として捉えるのは、思考の働きだ。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/31(土) 00:58:22.39ID:iHQMBO7Z
アラーの話をしよう。

イスラム教でいうアラーとは、簡単に言うと「無限の一」ということ。
つまり、全てを包含するこの無限の宇宙ということ。

この「宇宙」というのは、単に物質的な宇宙ということだけでなくて、あらゆる次元を含む
総合的な意味での宇宙ということ。

我々の世界は思考分別によって分離的なものが浮き上がってきてる。
前でも喩えたように、本来一枚の絵であるはずなのに、パズルのピースのように、
各々、個々のものが独立して浮き上がってきて、あたかも単独で存在しているように感じている・・
しかし、仏教ではこれを、どんなものでも相依して存在している・・ 単独で存在できるものはない・・・
という言い方をして、これを「縁起」という。

たとえば、相対的なもので、短は長に、長は短に、という風に、お互いに相依して存在している。
相対的な概念は単独では存在出来ない。

縁起というのは言うなれば、パズルのピースで独立していると見えていたものが、実は完全に一体で、
一枚の絵として存在している・・・ ということを言っている。

イスラム教では「タウヒード」という重要な言葉がある。
これは、分離の無い一体性を表す言葉。
このタウヒードこそがアラーだ。

反対に、分離というのは「シルク」という。
このシルクが我々の世界であるわけだ。

よくイスラム教徒はアラーは唯一の神だ、というが、これは根本を間違って解釈している。
イスラム教徒はこれを、神々の中で本物の神はアラーだけだ、という風に解釈する。
この解釈の何が間違っているかというと、まず、神と人間という風に、人間が対象とする神が存在していて、
そして神々の中でも、偽物の神々と本物の神が存在していて、アラーが単なる、多くある存在対象の一つになってしまっている。
その存在対象がどんなに崇高なものでも、それは数ある中での一つということで、
世界は分離したままだ。
たとえるなら、崇高なパズルの一ピースなわけだ。

こういう勘違いをしているから、他宗教を攻撃したり、独善的になったりしている。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/10/31(土) 01:10:35.30ID:iHQMBO7Z
アラーというのは仏教の「縁起」と同義だ。
タウヒード = 縁起 = ワンネス ということになる。

イスラム教は最初はメッカの方角ではなく、エルサレムの方角に祈っていた。
それを後にメッカの方角に変更している。

この時、なぜイスラム教徒は祈る方角を変えたのだ? という批判に答えて神は、
東も西もどこを向いても神の御前にある・・・ 東も西も全てアラーだ・・
みたいな言い方をしている。

これはそうだろう。
全宇宙一体の姿こそがアラーの姿だ。
どこを向いても、何をとっても、それはアラーだ。
だから、本来はどこを向いても、アラーに祈っていることになる。

また祈りの方角についてこういう風にも言っている。
そなたが神を求めて顔を西へ東へ巡らせるので、祈りの方角を定めてあげたのだと。
つまりは、方角は便宜的なものに他ならない。

そして、イスラム教徒では偶像崇拝を禁止している。
アラーを絵や像で表わしてはいけないわけだ。
これはなぜかというと、像を作ってしまうと、対象として、人間と神 という風に分離してしまうため、
対象物を作ってはいけないということだ。
だから、メッカの中心には中身を隠したブラックボックスが置かれている。

あのブラックボックスの中身は、無限の一なる宇宙に繋がっていると考えればいいわけだ。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 00:36:31.11ID:nArIbXcG
念仏というと、あまり「行」というイメージがないが、これは24時間、
行住坐臥の「行」と言ってもいい。
念仏というのは、仏に助けを求めるものでもないし、一定時間だけ唱えればいいものじゃない。
禅にしろ、念仏にしろ、それは24時間間断のない行と言ってもいい。

道元禅では、24時間座りっぱなしというわけにはいかないので、作務や、経を唱える、
日常の作法を細かく決めることによって、間断のないマイフルを実現している。
それに対して念仏は、ただ念仏を唱え続ければいいわけだから、
非常に易しい行ということも言える。

ただ、のどやその他の、身体の機能上の問題のある人は、
非常に苦痛になるだろう。

また、これらの「行」の趣旨が分からなければ、行をすることで
却って苦しむことになる。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/09(月) 00:53:05.63ID:nArIbXcG
念仏の行自体は、完全なマイフルなわけだけど、ならば「行」こそ大切ということになるわけだけど、
親鸞はある時、「行」の座につくか、「信」の座につくか、問いかけたことがあった。
そこで多数は「行」の座についたわけだが、親鸞は「信」の座についた。
師匠の法然さんも、親鸞と同じ「信」の座についた。

「信」の座につくというのは、マイフルの行の本質を掴んでないとなかなか出来ない。
いっけん、マイフルにとって大切なのは、24時間間断のない「今」への気づき、
の「行」のように感じられるからだ。

ところが、マイフルにとって真に大切なのは、「ありのままにズレが無いこと」、なのだ。
これをもっと簡単な言葉でいうと、「完全なるお任せ」。
完全にすべてを阿弥陀様なり何なりにお任せした状態というのは、
すべてをありのままにした状態・・・
完全なありのままを受け入れた状態ということになる。

完全なありのままとは、完全に今と一致している、ということ。

ありのまま = 今
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/09(月) 01:09:23.20ID:nArIbXcG
たとえば、風にゆらめく旗があったとする。
旗がマイフルをしようとしたとする。

風が吹いて左にゆらめいたら、旗が抵抗して、右にゆらめき返そうとしたら、
(つまり、思考分別で何かを為そうとしたら、) これはマイフルにはならない。
なぜなら、思考分別を越えるために今に意識を置くのであって、旗にとっての「今」とは、
左にゆらめいてる姿だ。
これを拒絶するということは、それは「今」の拒絶だ。

マイフルにおいて一番大切なのは、ありのまま(今)と一致させる、ということ。
ありのままでない・・・ ということは、思考分別が働いている・・ ということになる。
そしてそれは、「今」と一致していない、ということになる。

完全なる「信」は、完全なるお任せ。
そしてそれは、完全にありのままを受け入れている、ということになり、
それは、完全に「今」と一致しているということになる。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/09(月) 23:38:42.55ID:nArIbXcG
親鸞のいう極楽浄土とは、通常、ふつうの人が考えているような天国じゃない。
ふつうの人の考えている天国とは、スピリチュアル的に言えば、
幽界の上層だ。
また地獄も、幽界の下層ということになる。

幽界というのは個我のある世界で、迷いの世界だ。
ただ、個我を脱して悟りまで行ってないが、悪い想念を持っていない
善性の人がいる。
こういう人は、幽界の善い世界・・・  いわゆる一般的な天国のようなところに行くことになる。
反対に、想念の悪い、自己中心的な人は、いわゆる地獄というところに赴くことになる。
すべては個我の想念が決めることで、想念の良し悪しによって、自分たちのあの世での
住む世界が決まってくる。

極楽浄土というのは、こういう幽界の個我の世界・・・ 分離の世界、相対分別の世界を越えたところで、
苦楽を越えた真の天国ということになる。
スピリチュアル的に言えば神界ということになる。
ここに至れば個我の想念というものはなく、分離はなく、全てのものが
一体となった美しさがある。
ここの意識は、人間の思考分別で説明できるものではなく、こうだと
当てはめることは出来ない。

パズルのピースの説明で言えば、各ピース一つ一つの素晴らしさではなく、
ピースが消えた、全体の一枚の絵の素晴らしさ・・・ ということになるだろう。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/09(月) 23:54:06.42ID:nArIbXcG
悟りの入り口では、どういう心境になるかというと、「あ〜、全てはこのままで良かったんだ、
何も変えなくていいんだ、何一つ変えなくていいんだ。」 という、
ありのままを全肯定した心境になる。
相対的な差というものが無くなってくる。
健康であるから幸せだ、病気であるから不幸だ、という差別が無くなってくる。
何物にも依存しない、絶対的な幸福感が溢れてくる。

通常、人間の幸せというのは、相対的なもののポジティブの方に依存している。
貧乏に対しての金持ち、 病気に対しての健康、 ブサイクに対する容姿端麗、
その場その場で言えば、心地悪い に対する 心地よい
食べ物に対して、不味いに対する美味しい
人はネガティブに対するポジティブに依存する形で
幸福感を感じている。
しかし、ポジティブを追求するということは、ネガティブもまた、
セットで付いてくることになる。
だから、こうした相対的な思考分別では、いつまで経っても
真の幸福感を得ることは出来ない。

人間の想い、思考分別というものは、常にこのような相対的な価値判断のもとに成り立っている。
だから、この思考分別を越えることは重要だ。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/10(火) 00:29:42.23ID:IOk9CTxi
たとえば、100万円を得たときの幸福感というものがあったとする。
結局、人の幸福感というのは、この100万円自体にあるのではない。
たとえば、100万円でも幸福感を感じない人もいるし、それは1000万円でもおなじだ。
しかし、たいがいの人は、そのお金によって、相対的なもののポジティブの方を多く得られることによって、
100万円得たことに幸福感を感じることが出来る。

たとえば、10億円の宝くじが当たった時の幸福感というのは、通常のものより
はるかに大きいものになるだろう。
ところが、たとえば同時に末期のガンが発覚したとすれば、
それらの幸福感は露と消えることになる。
このように、相対的な幸福感というものは、依存的な幸福感というものであって、
依存しているものが倒されるような出来事があれば、すぐに不幸になってしまう。

それに対して、相対的なものを越えた真の幸福感というものは、何ものにも依存しない・・・
そしてそれは、10億円の宝くじが当たるような、相対的な幸福感よりはるかに大きな幸福感になる。
どのようなネガティブな状況でも、相対的な依存ではないため、
崩されることはない。

たとえば、億万長者が感じる最高の幸福感があったとしよう。
お金が山ほどあることへの相対的な幸福感を感じているとする。
一方で、それよりもはるかに大きな幸福感を、ホームレスの
無一文の人が感じていたとする。

幸福感というのは、それが得られる手段に価値があるのではなくて、最終的にどれだけ大きな幸福感があるか
ということが価値があるので、お金の多い少ないより、幸福感の大きさが問題になってくる。
たとえば、10億円を得て、幸福感を感じる人のレベルを、レベル100とすると、
レベル100以上の幸福感を感じる人は、10億円以上の価値のある
幸福感を持っていると言える。
もちろん、10億円の価値に匹敵する幸福感というのは、一般的な感覚すれば、
かなりの高レベルということになる。
これを凌駕する幸福感というのは、並大抵では手に入らないかもしれない。
しかし、もし仮にあったとすれば、その人にとってはもはや10億円を
手に入れる必要がないということになる。
仮にホームレスがその幸福感を持っているとするならば、彼にはもはや
お金はいらないということになる。

これがたとえば、身体障碍者が健常者以上に、現在の状況において、健常者以上の絶対的な幸福感を得ているとすれば、
もはやその人は、健常者の状態を求める必要ないということになる。

このように、相対的なものを越えた絶対的な幸福感というのは、いくらお金を積んでも代えがたい、
全ての人が目指すべき境地である、ということが言える。

ホームレスが100億円の幸せを感じているのならば、それは実際に10億円を持っている人より幸せだ。
身体障碍者が健常者以上に幸せを感じているのならば、それは幸せを得るために、
健常を求める必要がない・・ ということを意味する。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/12(木) 00:34:24.14ID:v4mvgef0
我々が個我の判断でああだこうだしよう、思考分別が働いて、これをどうにかしよう、あれをどうにかしよう、
という想いが無くなって、自分の我というものが空っぽになったら、そこにソースのパワー(本源の光)が
流れ込んでくる。

というか、もともと縁起で一体のもの、もともと本源と一体で、ソースに繋がっているものが、
自然に現れてくる。

宇宙と一体となって動くわけだから、あらゆるものが都合のいいように物事が運んでいく。
たとえば、マイフルが進んでいくと、運の良いことが起こってきたり、
シンクロニシティのような偶然の働きがあって、良い方向に物事が運んだり、
自然自然に良い方に導かれていったりすることがある。

これはソースの繋がり・・ 宇宙との一体性が出て来てるわけだから、
当たり前と言えば当たり前だ。

芸術家がソースに繋がれば、宇宙全体の力がその表現力になる。
スポーツ選手は完全に全てをコントロールしているような、超越的なファインプレーを
することになるだろう。
宇宙と一体になるということは、宇宙の全てが自分に味方するということになる。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/12(木) 00:56:11.58ID:v4mvgef0
昔の話で、第二次世界大戦中にグアム島に残された横井庄一さんの話がやっていた。
終戦に気づかず、ずーっと島で生活していたわけだけど、仲間が次々と倒れていき
最後は一人になってしまった。

食料も手に入らなくなり、万策が尽き、もはや死を覚悟し、
生きるのを完全にあきらめた。

穴を掘って生活していたが、上から雨が降って、雨に濡れながら、
あとは死ぬのを待つばかりだった。

すると、翌朝に妙なことが起こった。
朝、穴から出てみると、そこいら中にカタツムリが這い出してきていた。
これまでほとんど見ることのなかったカタツムリが、山ほど這い出してきていた。
横井さんはそれを料理して食べ、窮地を脱することが出来た。

それ以来、不思議なことが起こり始めた。
今日はフラっと山の方に行くと、果物やキノコ類などがたくさん取れたり、
次の日に川の方にフラっと行くと、魚がたくさん取れたりと、
それ以来、食べ物に全く困らなくなった。

自分でああだこうだしようとするんじゃなくて、何も考えずに、
ただサッと行くといいことがある。
これも自分のエゴ(思考分別)が全面降伏して、自分でああしよう、こうしよう、という想いが諦めて、
全てをお任せした状態になったところで、本源のままに動く・・・
これもゾーンに入ったのと同じだ。

映画や本を書く人、番組を作るプロディーサーなど、ヒット作を生み出している人は、
多かれ少なかれ、ゾーンに繋がっていると言えるだろう。
何かを一生懸命やったり、没頭することで、必ずゾーンにアクセスしているはずだ。
そうでなければ、人間の思考分別くらいでは、人間の頭の中で考えるくらいのことでは、
大きな成果を上げることは出来ない。

政治家など、社会の重要な地位にこそ、こういうようなゾーンにアクセスしている人が多くいれば、
この世界は非常に良くなるということになる。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/12(木) 01:38:06.76ID:v4mvgef0
ここで「行」に対して二つの方向性を洞察しないといけない。

本源と一つになる・・ 宇宙と一体となるためには、「我、エゴ」というものが
追い込まれないといけない。
もはやエゴの自分ではどうにもならない、自分の想いでどうこうしようとしたってどうにもならない、
「我」を喜ばせよう、有利にしよう、温存しよう、
「我」を生き延びさせることが、不可能になってしまった状態。
エゴを温存させる道が、すべて絶たれてしまった状態。

このようになった時に人はエゴを放棄し、ありのままをそのまま受容することになる。

よく、大病をしたときに悟ったという話があったり、自分の全てが奪われるようなことがあって
悟りを開いたという話があるのは、外的な条件でエゴが降伏(消滅)させられた・・ ということだ。


しかし、一方で、いつ起こるか分からない、或いは、来ないかもしれない外的条件を、
しかも、それらのことはエゴを持つ通常の人間には、耐えられないような苦痛になるわけだから、
出来ればそういう道は避けたい。

エゴが外的な条件で消滅させられるようなこと以外に、エゴを消滅させる方法はあるだろうか?

禅の公案などは、人間の思考分別を追い詰めて、エゴを全面降伏させるということを
目的としている。
実際、白隠禅師は、弟子に対して、この公案が解けなければ海に飛び込んで死んでしまえと言って、
実際にその弟子が海に飛び込んで、そうしたらその時その弟子は悟りを開き、
公案が解けたという話がある。

エゴを全面降伏させる・・ というのと、今に統一する・・ というのは、実は同じだ。
座禅や念仏は今に統一することを目的としていると言えるが、同時に、
ある型を始終、行住坐臥、24時間、間断なく行うことによって、
エゴを全面降伏させる・・・ エゴを働かなくさせる・・・ ということも言える

反対に、公案はエゴ、思考分別の全面降伏させることを目的としているが、
公案を四六時中考えることによって、今に統一するマイフルになっている・・
ということも言える。

大病して苦しむのも、極限の今への統一・・・ マイフルとも言えるし、
今しか無ければ、時間の幅の特性を持つエゴは働くことが出来ず、消滅するしかない
ということになる。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/13(金) 01:27:35.66ID:zp9dBuet
よく、他力、自力、という言葉があるが、本来、悟りの行としては
他力の行が正しい。

他力というのは「お任せ」のことで、別の言い方では「ありのまま」
ということになる。

たとえば、座禅は「他力」か「自力」かというと、もし、一生懸命集中して、
何かを得ようとしているのならば、それは「自力の行」ということになる。
しかし、本当の座禅というのは、自力で集中しようとするのではなく、
ただ座ってありのままにうち任せるだけだ。
雑念が湧こうが、足が痛かろうが、そういうのはただありのままで、本人はただ座るだけだ。
集中しようとか、心が乱れないようにしようとか、そういうものではない。
心が乱れたならば、そのまま。
それは関係ない。
ただ座っていればいい。
そうすると、自然に意識が「座(今)」に集約してくる。
この部分が他力ということだ。
座を組む・・・ 型を作ることが自力ということではなくて、そのあとの心のやりくりが
有るか無いかだ。

念仏も、唱えることが「自力」なのではなくて、唱えることに集中しようとか、
唱えることによって何かを得ようとする心・・・
それが自力の計らいということになる。

唱えるのは型だ。
型をただ守ろうとすることには、何の願望もないし、良い状況を得ようという希望もない。
しかし、通常、個人でやろうとする行においては、このような希望はどうしても働いてしまう。
ただ型を守るというのは、指導されて嫌だからやらされてる・・ くらいの気持ちの方が、
行としては良い。
個人でやる場合には、どうしても希望が前提で行が成り立つから、
ただ型を守るということがやりにくい。

個人でやってるほとんどの人が、こういう自力で何かを獲得しよう、集中しよう、統一しよう、
心を乱さないようにしよう、という行をやっている。
これは悟りとは逆行することになる。
なぜなら、良い状況を求めるという、相対的な価値判断、分別思考に陥ってるからだ。
これがまさに、泥で泥を洗うという状態だ。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/13(金) 01:51:51.07ID:zp9dBuet
ある時親鸞が、疫病か災害かで苦しんでいる村を通りかかった時、
この村の苦しむ人々を救いたいと思う気持ちから、お経を何千部か読み上げようと
願を立てるようなことをした。
お経を読み上げることによって、苦しんでる人たちが仏の加護によって、
救われることを願ったわけだ。

ところが親鸞は、お経を読み始めてからすぐに、何を思ったのかお経を読むのを止め、
その場を立ち去ってしまった。

これはどういうことだろうか?

さて、阿弥陀様に全てをお任せしたはずの自分が、何をことさら、現状をああだこうだ
変えようとしようとするのか。
これは阿弥陀様を完全に信じられていないということではないか。
すべてをうち任せることが出来ないということではないか。

そこで親鸞は、自力の分別思考で現状をなんとかしようとする想いから、
再び阿弥陀様にすべてをお任せする、ありのまま(今)を受容する態度に戻ったわけだ。

ここでまた自力他力の用語の区別が出来るが、通常、一般の人が思う「他力」とは、
神仏に頼る・・  自分で為すべきことを、神仏に代わって実現してもらう・・・
というイメージだろう。
なので、通常は親鸞がお経の力を使って人々を救おうとするならば、これは「自力」ではなくて
「他力」ということになる。
自分の力ではなくて、仏の力に頼って、これを使おうとしていたのだから。

ところが、仏教でいう「他力」「自力」の考え方では、自分の思考分別が働いて、
ああだこうだ現状を変えようとする・・・  ありのままの今を都合のいいように変化させようとする・・・
この心の計らいが「自力」ということになる。

だから、親鸞が仏や経の力に頼って、現状を変えるためにお経を読み始めたのも、
良い結果を望むという、思考分別の働きを表しているものであり、
完全にうち任せる、ありのままを受容する姿勢・・・ つまり、「他力」とは真逆のものになる。
思考分別、我、エゴ、想いで何とかしようとすることが「自力」で、それらを一切打ち捨ててお任せした状態が
「他力」ということになる。
つまり、スポーツ選手がゾーンに入ったという時も、他力の状態であるわけだ。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/13(金) 02:21:18.82ID:zp9dBuet
親鸞はおそらく、比叡山で理趣経を読んだんじゃないだろうか。
当時の比叡山に理趣経があったのではないかと推測するが・・・
実際はどうなんだろ。

後の親鸞の行動を見ていると、どうも理趣経を読んだとしか思えない。
当時の僧侶としては、肉食妻帯というのはよっぽどのことが無い限り出来ない。
親鸞は理趣経を読み、その内容を深く洞察して、本当の教えを見抜いたような気がする。

一方で、一休宗純は破戒僧と言われ、あえて慾にまみれた極端な生活をした。
これはもしかしたら、一休も理趣経を読んだか、あるいは噂を聞いたか、
その内容を曲解して、我慾のままに生きるという、誤った解釈を
してしまったのではないかと推測する。
我慾のままに生きるということが、なぜ悟りにおけるありのままの受容と違うのか・・・
いっけん、この二つは同じように見える。
しかし、これは全然ちがう。
この説明は後にしよう。

一休が理趣経の本意を正しく理解しているか大いに疑問だが、今一休が比叡山と関連があるかどうかウィキで調べていたら、
こういう話が出てきた。

一休は本願寺で行われた親鸞の二百回遠忌に、他宗派としてはただ一人参拝して、
山門の扉にある言葉を書いた紙を張り付けていった。
そこに書かれていたのは・・・

「えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり」

これには全く同感だ。
果たして一休は悟りの真理を分かっていたのか・・・

それで、今までは、親鸞の教えが一番優れていると言えるかもしれない。
その教えが悟りの行としてどれだけ優れているかというのは、どれだけありのままの受容に近づけているか、
ということに表れている。
だからこそ、凡夫が比較的簡単に、最上位の悟りを得られるということになるわけだ。
妙好人とはそういう人たちだ。

しかし、これから出る教えは、もっと現代に即したものであり、もっとありのままを受容したものであり、
最後のとどめの教えだ。
その教えは弥勒のために、とっておきにとっておかれたものだ。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/14(土) 23:29:47.42ID:/rllHIYy
我欲のままに生きると、ありのままの違いなんだけど、この二つは
表面的にはほぼ同じと言っていい。
だけど、大切な部分で相違がある。

前でも言った通り、我々には二つの流れがある。
一つは、ソース(本源)と一体であるところの自分。
もう一つは、思考分別(カルマ)によって作られた、幻想としての自分。
こちらの自分は、あの世とこの世を輪廻しつづける。

本源の自分とは、幻想の自分が「空」になった時に、
一体の世界となって現れる。

つまり、思考分別によって作られた、この幻想としての世界も、自分も、
本来は無く、消えてゆくものだということ。
怒りも実体は無く、かなしみにも実体はない。
ひと時が過ぎれば消えていく。
もちろん、不幸にもだ。
たとえ今生で不幸だとしても、それもやがては消えていく。

そのような消えていく輪廻の姿・・ 幻想の世界というものは偽物で、
真実の世界・・  自分というものは、ソースと一体の姿だ。

さて、怒りや我欲が出たとき、それらは実体はなく、目の前を通り過ぎていく幻想なわけだから、
ソースの自分には一切関係ない。
しかし、悟りの行において、これらの怒りや我欲をどう扱うか・・ 
という問題が出てくる。

大抵の修行者は、この怒りや我欲を何とかしようとするだろう。
いわく、怒りをありのままに観察する・・・
感情を客観視する・・・

結局、ありのままとはどういうことだろうか・・・?

それは、「手を付けないこと(そのまま)」 ということ。

客観視するとか、ありのままに見ようとする・・・  これらは皆、
何とかしようと手を付けている。
自分と対象が分離してしまう。
対象が生じるということは、分離を表し、それは「今(ありのまま)」では
ないということになる。
対象が生じる・・・  分離が現れる・・・ ということは、思考分別(時間の幅)が働いている
ということになる。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/16(月) 01:38:21.39ID:2/RyCJuP
通常、ここまで来ると、修行に対する考え方は、
大方二つになる。

ありのままにやりたい放題やるか・・・
ありのままになろうとするか。

一休さんは、欲望のままにふるまうことによって、ありのままに一体となると思った。
一方、常識的な修行者は、ありのままを観察したり、感じたりすることで、
一体になろうとする。

このどちらも間違いなのは、なぜだろうか・・・?

一休さんのように、欲望のままに振る舞うことが、なぜありのままと
一致することにならないのか?

ここが奥義なのだけど、前にも言った通り、われわれの流れには二つの流れがある。
一つは、ソース(本源)からの流れ。
一つは、カルマ(幻想)からの流れ。

通常、われわれの不幸や欲望というものは、カルマ(幻想)からの流れだ。
この幻想に一致してもダメなのだよ、一休さん。

では、ありのままとはどいうことだろうか?
不幸や欲望というものは、流れて消えていくものだ。
そして、ありのままとは、流れて消えていくものに捉われないということだ。

ここが難しいところだ。
不幸や欲望に捉われないと言うと、捉われまい、としようとする力が働いてしまう。

基本はなんだろうか?
ありのままとは、そのまま、手を付けないということだ。
これは具体的にはどういうことを言うのか?
0037名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/17(火) 21:59:58.84ID:ywodOWng
この本源からの流れと、カルマ思考分別からの流れは、インドでは仏教以前から、
ハスの花に譬えられていた。
ちなみに、今回、副大統領になったカマラ・ハリスは、名前の「カマラ」が
「ハスの花」という意味がある。
これは最高神ヴィシュヌの妻である、ラクシュミーの別名になってる。
ヴィシュヌはアラーと同等だろう。

ハスの花は泥中に咲いても、いささかも泥に汚されることがない。
泥というのは人間の思考分別の世界、カルマの世界、時間の幅の世界、
幻想の世界と言ってもいい。
そこでいろいろなカルマが現れてくるわけだけど、大抵の人は、そのカルマを相手に
取っ組み合いをする。
なんとかこれをよくしよう、とか、なんとか無くしてしまおう、とか・・。
つまり、泥を泥で洗ってるわけだ。
しかし、本来はそんな泥とは関係なく、ハスの花は綺麗に咲いている・・

もしも泥がハスの花を汚さないというのならば、泥がいくらあったっていいし、
いくらでも出てきても構わない、ということになる。
問題は、泥のありのままに一致するのではなくて、ハスの花にシフトさせる、
ということだ。
一休さんにはハスの花へのシフトが無く、ただ泥に合わせるようなことだけやっている。
泥はそのままでいいというのは、ハスの花がそれによっていささかも汚れることがないからだ。
汚れが関係ないポイントがあるからだ。
泥だけに焦点を当ててしまったら、いつまで経っても汚れが関係ない世界に行くことは出来ない。
汚れが関係ない世界とは、良し悪しもすべてが平等になる世界。
それは中道の世界ということ。
そして、すべてのものが平等になるということは、すべての「個」「枠に当てはまれられたもの」が
空になる世界だ。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/17(火) 22:02:57.87ID:ywodOWng
ハスの花というのは、= 悟り  であり、 = 中道  であり、
= 空なる世界、 = 縁起(ワンネス)の世界 
そして、= 「今」 を表す。

人が真に「今」に統一したとき、あらゆるものが平等になり、空になり、、
分離のない、一体の世界が現れる。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/11/18(水) 00:07:56.67ID:KnHOcZ4A
「いかに聴きしや金剛手、いまわが説ける知慧の理趣、
わが身に受持ち、読み誦え、よく心中に思いなば、たとえ五欲いまみる事も、
わが身汚るることはなし。

五色に咲ける蓮華葉が、泥より出でてその泥に、些かも汚れざるがごと、
人の性なる清浄も、たとえば塵にまみるるも、その奥底に帰るとき、
無上のさとり出ずるなり。」

かくて観自在なる大菩薩に、
姿を変えしびるしゃなは、
顔を怡らげ微笑みて、
弓手に持ちし蓮華をば、
右手で聞きて示し給う。

こは「開ける蓮華」の印にて、「泥の蓮華」を示すなり。
欲が本性染すことはなく、ものも染さざることはなし。

この教えをば示すため、聖音「キリーク(フリーヒ)」と唱えたり。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:05:12.76ID:NblHMODk
我々は常に、嫌いな自分、好ましからざる状況から
距離を置こうとする。
「良し悪し」の二元相対から、「良し」を求め、「悪し」を排除しようとする。

たとえば、イライラして勉強に集中できない、すると、イライラを何とか消して、集中できる自分になろうとする。
「集中出来ない自分」を何とか改善(排除)して、「集中出来る自分」になろうとする。

座禅や瞑想中に雑念が湧いてくると、この雑念を排除して、クリアな心にしようとする。
発表するときに緊張すると、なんとかこの緊張を排除して、緊張しない自分になろうとする。

こういう二元相対の葛藤を繰り返しているのだが、この「良い状態」というのは実際に存在しない。
なので、永久にたどり着けない。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:12:16.58ID:NblHMODk
実際にあるのは、「今の自分」だけだ。
それがたとえどんな状況でも。

この「状況」というのはプラスもマイナスもない。
「この状況」に価値判断が加えられるとき、すなわち、人間の思考分別(想い)が働くとき、
はじめてプラス、マイナス、が生じる。
そこで「葛藤」が起きる。

プラスになれない自分と、プラスになろうとする自分。
プラスになっても、すぐにマイナスに戻ってしまう。
マイナスを排除しようとしても、なかなか排除できない。

このような葛藤が、実際は不幸の原因、苦の原因となる。

だから、真の目的はマイナスを排除することではなくて、この「葛藤」を無くすこと…、ということになる。
仏教はここを目指している。
そして、この「葛藤を無くす」道のことを、「中道」という。
両極の葛藤に捉われない道…、その真ん中の道ということで、「中道」だ。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:14:05.89ID:NblHMODk
(中道というのは中庸と違う。
中道は一切、両極に捉われないが、中庸は、両極の中間地点のポイントという意味で、
両極があって初めて成り立つ。
つまり、両極を意識した言葉だ。)
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/01/19(火) 13:23:56.39ID:NblHMODk
たとえば、何か嫌なことをするとき・・・

たとえば、普段、やり慣れてない人がトイレを掃除をするときに、苦痛を感じるとか、
寒い時に、風呂から上がるときに苦痛を感じるとか、
朝寒い時に、あったかい布団の中から出なくてはいけないとか、
そういう「苦痛」を感じるとき、普通の人は反射的に二択の選択をしている。
それは、
(反射的に)苦痛を取り払って(苦痛を排除して)、行動するか・・・、
(たとえば、気合を入れて、寒さを打ち消して風呂から出る、布団から出る。) か・・・、

もしくは、苦痛を回避するために、そのまま風呂の中に居続ける。 布団の中に居続ける。
掃除をやめる。
の、どっちかだ。

このような反射的な反応が、人間の「想い」の特徴だと言っていい。
つまり、全ての物事に、価値判断(分別)が働いている。

さて、では、このような状態のときに、「中道」とはどういうことを言うのだろうか?
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