弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。

過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。

また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。

煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。

ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。