【F1】1987〜1993年のF1を語ろう 68laps
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!extend:checked:vvvvvv:1000:512 !extend:checked:vvvvvv:1000:512 あの頃のF1って良かったよね ∧_∧ ・セナvsプロストvsピケvsマンセル (´・ω・) ・ターボから自然吸気へ (__) ・日本人ドライバーフルタイム参戦 あの頃の思い出に浸ろう。 議論は熱くならない程度で程々に ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最近目立ちますので、もう一度コレを見直してください。 ※このスレは1987〜1993年までを主に語るスレです。 他年について少々語るのは構いませんがあくまで程々に。 スレ趣旨から脱線気味に語りたい場合は別スレにどうぞ F1から離れた思い出話は節度をわきまえてください。 前スレ 【F1】1987〜1993年のF1を語ろう 67laps https://mao.5ch.net/test/read.cgi/f1/1559350399/ ※次スレッドを立てる時、本文(テンプレート)の最初に以下の1行を追加してください。 !extend:checked:vvvvvv:1000:512 VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:: EXT was configured 当時43歳。予選はいいとこ行くだろうが、決勝走りきる体力がね >>160 代わりに乗ったモレノが2位で優勝したピケと抱き合う感動シーンと亜久里が日本人初3位表彰台という セナプロが1コーナーで消えた衝撃からの最も笑顔に包まれた表彰台だった90年日本グランプリ 星野のベストレースは、スポット参戦した富士での76年日本GP 数段劣るティレルのマシンで雨の中3位を走ってた タイヤが底をつきリタイアしたが、 タイヤがまともに供給できるチームだったら表彰台まであった この時が29歳だから、そこそこのチームでフル参戦できったら、 中嶋はもちろん琢磨や可夢偉より実績残せただろう 90年ベネトンにスポットで乗ったとしても、たいした成績残せなかっただろう 93年ラルースに乗った鈴木利男並みの完走したがインパクトなし 星野って昔からその位の人だよな 大した成績は残せてないが、日本中の人達が持ち上げてあげてた じゃないと若い連中が勝っちゃうのが見え見えだったからな ただ、偶然なのか必然なのか、その交渉したベネトン二人のドライバーは 翌年で居なくなる所とかある種の一時代の終焉を思い浮かべる結果になる ピケのどこにも行かれずに交渉すら出来ないでの引退発表 あの寂しい会見場は今でも目に残ってる 白い壁の、ただ折りたたみ椅子とテーブルが有ったか?だけの質素な会見 もう少し、ピケの引退を綺麗にして上げられなかったのか?と感じたよ 1976富士は、星野だけがスーパーヘビーレインを持ってた、ということだしなあ。 路面の悪い前半は星野有利だったけど、路面が良くなるにつれてペースを失い、タイヤも急速に傷んでいった。 仮にBSのレインとホイールがふんだんにあったとして、あのタイヤ交換で何位に復帰できたのか? 交換したセットで最後まで走れたのか?(更にタイヤ交換が必要だったのか?) と考えると、ね。 星野さんは本当に走って走って積み上げた速さだから、あまりテストも出来ないスポット参戦で、しかもGYタイヤでは大した結果は出せなかったのではと思う。ドニントンF2もBSタイヤだしな。 >>150 抵抗を減らすために最小限のサイズにしようとした場合に 気流が横に逃げやすいポイントが、あの高くなってる部分だとかいうやつなんじゃ。 >>166 それな。 テストもろくすっぽなく転戦するシリーズだとあまり期待できないんだよな。 F1とかインディカーとか。 その不安点は菅生やAPとか(=富士鈴鹿以外)でも垣間見えてたし。 ピケが92年乗ってたらシューにフルボッコだったろうな。 後藤治だったかの述懐によると、フル参戦した中嶋の替わりにホンダは国内テストを星野に委ねたのだが 星野の方が中嶋よりタイヤがきれいで、体力もあった 思ってたよりも頭を使って計算しながら走れる器用なドライバーだったと ラップタイムそのものは中嶋と遜色なかったらしい 「思ってたより」っていわれると後藤さんの思ってた星野さんがどんなんだったか気になる。 ある意味では総じてマンセルだと思ったらいいって話か。 ファイタータイプだと思ってたら思いのほか考えながら走ってるって。 >>163 シャドウ辺りで走れてたらな ロッキー青木がスポンサードしてたし日本との繋がりはあったのだが >>170 1つのコースを走って走って走りまくったら、他の人にはできない速さで周回できるんだから、鈴鹿しか走らないホンダのテストは星野向きなんじゃね。 以前との比較という意味でも、いいものね。 ただ、星野のそういう長所は、違うコースを転々としつつ、ぶっつけ本番一発の予選タイヤ&予選ブーストみたいなレースでは生かしにくそうだな、と思うわ。 >>169 92年のピケが92年のブランドルと比較してどれだけのパフォーマンスかだな 同じ位走れるのならシューと五分に持ってけるだろ なんだかんだで92年はピケがいたらポイントは最終的に勝ってた気がする。 予選は10対6くらいで負け越してただろうけど。 二人が組んだら100%モメてたと思う ブリアトーレはそれを見越してピケを切った エリック・ベルナールって、この時代のレーサーなのにこのスレであまり語られていない気がするのは気のせいか? チャベスとかベルモンドみたいな泡沫レーサーは仕方ないにせよ、中堅どころのベルナールの話題ってあんまり見ないよな…。 ピケが顎のエンジンの方が速いって分解させてみたけど違いなし 後日ECUが違ってたと判明 なんて記事を読んだ記憶がうっすらあるけどホンマかいな ベルナールは見た目はいいけどモレノやチェザリスやタルキーニみたくネタ的な意味で盛り上がるわけでもなく目立つところがないからでは? それ言い出したらコマスとかもあんまり話題に出ない。 しかし何度も入賞してるのに結局表彰台立てなかった中嶋、フィッティパルディ、マルティニ。 彼らより通算入賞回数少ないのに一度のチャンスをものにしたモルビデリ、レート、グージェルミン、亜久里、ベルナール。 特にベルナールは神様が最後にプレゼントをくれたみたい。 本人やチームにとってはそうかもしれないけど、リアルタイムで見てる方から言えば、ファステスト出した中嶋はやっぱり良かった ええ そうです マンセルも大好きです 亜久里もレース中盤以降ファステスト連発で表彰台取ったのを忘れてはいかんなw 最終的にはソフトに換えたパトレーゼが上回ったが、それで順位が入れ替わったんだから意味はあったし。 >>166 >>173 星野の 俺は天才ではない 不器用だ 人一倍努力した ってのは ああいう説教臭い性格から来る芸風なだけで 間違いなく天才だし とんでもなく器用だから・・・w 昔の日産のCカーなんて 半分壊れてたような状態でパートナーが こんなのまともに走らない 危ないっていってるのに とんでもないタイム出してたのが星野だから >>174 でも、プケの時代と比べてコーナーリング速度が上がってしまったという側面もあって 限界での忍耐とか反射速度は落ちるからなぁ 目も悪くなるし歯も悪くなってきて、カルシウムも尿に出始めてるだろうから老人にはなってきたと 感じてるとは思う 多分だが、予選は3回ぐらいは前かもしれないが後は4位を走行している姿しか思い浮かばないな フェラーリに行ってたら面白かったかもね F92Aでのドライブはとても興味深い組み合わせだ それでも、途中で消えそうなんだよね >>181 あー、あったな94年のドイツ。 でも2位にはルーキーのパニスが入った為かベルナールの印象が幾分薄い。 そのメンツでは個人的にはアグリ、レートが印象強いな >>181 あ、あとはラリーニもその中のメンツに入るのか マイケル・アンドレッティはどう扱ったらいいんだろ?一応93年イタリアで3位が 唯一の表彰台だったかな? >>177 チャベスってイギリスF3000とかいう訳のわからないカテゴリーでチャンピオンになってるけど 国際F3000で走った経験あったのかな? 無かったとしたらなぜライセンスが発給されたのか疑問が残る >>181 マルティニは91年のイモラで3位をJJに攫われたのを見て一生大物にはなれないだろうなと思った。 予選9番手でスタートで4位浮上してたんだからあそこで表彰台に立たないとダメなのにね。 >>189 イギリスF3000は原則1年落ち以上のマシンでやる国内選手権だけど 死後戴冠したポール・ワーウィック(ディレックの弟)も生きてればF1に上がれたはずだと言われてたし、 「同一国で開催されるF3選手権」よりは上のシングルシーターカテゴリという扱いなら チャンピオン獲れれば問題無くスーパーライセンス発給基準を満たす系統じゃないの。 >>165-166 もし89年にピレリじゃなくてブリヂストンがF1に参入してたら どうなってたんだろうか とふと考えてしまった 史実では97年に参入して中下位チームばっかりだったのにいきなり結果出して 翌年マクラーレンと組んでチャンピオンになったけど 89年参入ならここまですんなりいっただろうか… >>189 チャベスの国際F3000での成績 89年 コブラ・モータースポーツからフル参戦 レイナード88D・コスワース 最高位11位 予選落ち4回 90年 マジウィック・インターナショナルから後半4レーススポット参戦 レイナード90D・コスワース 最高位4位 予選落ち1回 3ポイント獲得 91年 ※コローニからF1参戦のためF3000出場なし 92年 2チームからフル参戦 1〜6戦 GJモータースポーツ ローラT92/50・無限) 最高位7位 7〜10戦 イル・バローネ・ランパンテ レイナード92D・コスワース 最高位10位 >At the end of that year Chaves had an agreement with Leyton House (which would be renamed to March F1) to compete in 1992, >however the sponsorship money came too late, and Karl Wendlinger took the place チャベスがマーチに乗る話があったのか ヴェンドリンガーとチャベスなら月とスッポンぐらい差がある気がする…w >>190 91年イモラは、中嶋も表彰台の可能性があったし(実際にトラブルでリタイアするまで4位走行してた)。結果的にここが一番表彰台に立てる確率が高かっただろうね。 そう考えると、91年イモラは複数のドライバーに生涯唯一の表彰台のチャンスがあって、レートがモノにしたと言えるのかな。 イギリスF3000というカテゴリーがあったのか。 全日本F3000もヨーロッパから見ると、知名度・実力とも、その程度の認識なのかな? イギリスF3000選手権チャンピオン 1989 ゲイリー・ブラバム 1990 ペドロ・チャベス 1991 ポール・ワーウィック ※シリーズ中に事故死したが最終的にチャンピオン獲得 1992 イヴァン・ミューラー 1993 フィリップ・アダムス 1994 ホセ・ルイス・ディ・パルマ 1995 開催されず 1996 ガレス・リース 1997 第1戦だけ行って廃止 当時、F1中継が終わるとこんな番組(CMなど)が放送されていたような・・・ F1インフォメーション 美ヶ原高原美術館 中央競馬ダイジェスト 歌う天気予報 なんかバレーのでかいブスがリポーターになって見るのやめた 知識も興味も無く喋りも下手なやつをねじ込む意味が分からんかった 世良正則とかがナレーションしたり荒井由美がモナコの観戦とかレポートとか あの辺もだが、石橋孝明とかも失敗の原因 モータースポーツに組み込む必要が無い事をするから変になった あと、ジャンプとかに特集記事とかもやるべきではなかった つまらないカートブームが到来して一気に盛り上がって一気に消沈した 今ではカートコースは数名しか走ってない状態 シューマッハがベネトン来なかったらピケ92年走ってたんかな? モレノとの子弟コンビってぬるま湯で相当居心地良かったと思う。 本人がどう考えていたか解らないけど、首脳陣にはギャラに見合った成績じゃないって判断されてたから微妙なところ とにかく91ベネトンはピレリにしたのが大失敗だったからなー。 グッドイヤーでピケモレノがどこまでいけたか興味あるところ。 >>193 91年のコローニはチャベスが持ち込んでなきゃ鈴鹿に来る前に潰れてるに違いないんで その点では資金力だけでも期待はできるよ。 しかしベルモンドとチャベスで持ち込みが多い方ってならともかく 前年の終盤2戦でそこそこいけるのは分かってるヴェンドリンガーとチャベスで迷うってのは カツカツぶりにも程があるなマーチ。 逆にいうとチャベスもモーダかブラバム辺りに売り込みに行けばよかったのに。 >>203 それらがなかったら深夜のF1の中継なんて誰も見ないから即打ち切りだっただろうね とかくフジは叩かれがちだけど、F1を社会現象にまでした功績は素直に認めるべきだと思う。 ブームが去った90年代後半からの迷走は如何ともし難いが。 チャベスってポルトガル人だったけど、F1では日本人やアメリカ人より珍しい国籍だったな。 この年代で他に珍しい国籍のレーサーって意味でも。だからこそ地元系の持ち込みスポンサーが そこそこあったんだろうけど でもポルトガルってあんまり大企業無いから、金額的にはそんなに 集まらなかっただろうね。 ポルトガル人ドライバーって チャベス以外だとラミーとモンテイロだけ? >>190 モデナ、中嶋にもあっさり抜かれちゃったしね。 >>213 だけど、ワインのマテウスが付いてなかったか? 彫刻の森美術館て名前だけは有名だけど 行ったことある人に出会ったことはない >>214 だな。サーキットもエストリルがあって開催(スペインとセットでイベリアシリーズとも言われてた) してたのに、いつの間にか開催しなくなってた。 この時代で少数派な国籍のレーサーだと他にヨハンソン(当時唯一のスウェーデン国籍)もいたな。 >>177 亜久里のチームメイトだったって以外に大した結果も残したわけでもなければ、泡沫お笑い要員って程には 下位カテでの実績が無いわけでもないさ話題にしにくいだろ ビデオでセナの走り見てたら多角形コーナリング?みたいな すごく特徴的なドライビングしてるね >>185 でもピケはフェラーリ大嫌いだったような? >>223 それ言い出したらチェザリスも亜久里から「アイツ嫌い。変だもん。」とか言われるし表彰台でめちゃくちゃはしゃいでるしキャメル主催のサッカー大会でボール競り合うマンセルとパトレーゼの横にマルボロ系なのになぜかいたり。 セナのベストレースは93年ドニントンをはじめ色々挙がるけど、 プロストのベストレースってどのGPだろう? 90年メキシコあたりか? あまりテレビにも映らないしポイントも取れなかったけど、やっぱプロストスゲーって思ったのは87年の鈴鹿。 >>228 デビュー戦でワザとコース外に押し出すような嫌がらせされたら、そりゃ嫌いになるだろうwww 87年西ドイツも 撤退前に辛酸を舐めさせまくられたホンダに一矢を与えるために、ポルシェが気合い入れまくってチューンしたTAGポルシェエンジンが、暑い超高速ホッケンハイムでプロスト爆走した しかしオルタネータトラブルでリタイア・・・ >>230 あと、89年ブラジルとか、 何年のとか問わず、地元フランスとか…。 >>235 トサコーナーでスピンアウトじゃねーかw フォーメーションラップで。 後にも先にもこの一回しか俺は見たことないぜ? >>235 あれはプロストらしからぬ、一番間抜けなレースだなw 91フランスは結局優勝できなかったけど久々に期待が持てて楽しかったな 643もかっこよかったし >>238 ワールドチャンピオンだ,新人じゃあない >>237 トサじゃなくてリバッツァ手前の右コーナーだろ。 プロストも人間なんだと強く思わせてくれたレースだった 後の93年には人間味全開だったけどなw >>231 テレビで見てて ベルガーが優勝チェッカーを受けたときにすぐ後ろにマルボロの@番が見えたので プロストが2位まで追い上げたと勘違いしたのも俺にとってはいい思い出だった。 >>237 トサじゃなくて、リバッツァの入口だよ。 >>226 F1界の加勢大周って古舘に言われてたね。加勢大周も今どこで何してんだろ。 >>ワーウィックが二谷英明か。 そしてフィッティパルディがトム・クルーズ。 セナってシューマッハの才能認めてたんかな? 当時の雑誌でもシューに対する思いって読んだ記憶が無い。 91年の時点で「彼は間違いなく速い、だがチャンピオンになるかはこれから次第」みたいなことを言ってた >>247 マルティニがマイケルJフォックスで、デビッドブラバムが長嶋一茂だった。 そして、チャベスが志垣太郎。 88ポルトガル セナに幅寄せくらった後1コーナーに向けてセナをアウトギリギリまで押し返してるのがかっこいい お前ふざけんなよ、と 1988年、プロストは台頭する若手のセナに自分が脅かされると驚異を感じただろうな。 この年はそのままセナが王座獲得。 翌1989年、プロストは2年続けてチームメイトに王座を奪われると、完全に失墜するからね。 見返したらギリギリって程押し返していなかった それでもあの幅寄せにひるむことなくアクセル踏み抜いてでぶち抜いてるんだからかっこいいね! >>232 デビュー戦っていわれて金曜の朝っぱらからダラーラVSザクスピードで 死闘を繰り広げていたのかと思った 1990年メキシコ、フランス、 1993年モナコかなあ >>255 つまりラルースに乗ってんのにリアルにオラオラされちまったんですかw >>252 と言うかプロストは結果的に全部リベンジしてるんだよ >>259 そのリベンジのやり方が問題だったよね。89年はシケインで(ワザと)セナを潰して自爆を試みた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる