【Gr.C】グループCを語るスレ其の26
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古き良き時代、懐かしのグループCについて語るスレです。
現代車との比較は構いませんが、あくまで話題はグループCについてにしましょう。
グループCに対する批判、煽りなどは極力控えてください。荒らしはスルーしましょう。
※前スレ
【Gr.C】グループCを語るスレ其の25
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/f1/1497963603/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured MV10はジャッドから来たままじゃ使いものにならなくてマツダで相当の部品を設計/新造して入れ替えてる筈 >>543
ルマン24H とか 前哨戦のシルバーストン戦、日本大会は別として
他のレースは、89年以降ならまだしも
雑誌屋さんもあまり過去記事・資料持っていないんじゃないかな。 >>541
一応はこの当時ジャガーはフォードグループだったはずなんで
言われてみればやって出来ない話でもなく…。
むしろ何でユーノスでシトロエン売ってたんだってそっちの方が謎なようなw
まーネーミングの妙といえばオートラマフォード767Bですが、
ありゃーオートラマの方から宣伝予算かなんかでちゃんとお金出てたんですかね。 >>544
いっぽうジャッドGVをそのまんま使っていたユーロレーシングの方は
ローラへの支払いが一部滞っていたようで、93年シーズン前にカーグラがローラに取材に行ったら
ファクトリーの片隅に賃貸住宅カラーの方の車が置いてあって売りに出てた由。
しかも「スポーツカープロジェクトは前に日産とやったようなメーカーと組む形でなければ二度とやりたくない」
と言うくらいローラの担当の人激おこ。
F3000失敗して欧州での売上が酷い事になったのは自業自得にしても
ラルースとユーロレーシングと両方が焦げ付いたってのはそりゃ痛いわw >>544
新設計したのはカムとバルブスプリング、ピストンくらい
あとオイル潤滑ライン変える為にブロックも小変更してる
なんせ92年の参戦方針決まるのが遅くて開発スタートしたのが91年12月で
設計期間2ヶ月しか取れなくて出来る事が限られてたという話だからな。
93年はニューマチックスプリングにしてコンロッドやクランクシャフトも新設計、
ポート形状にインジェクターも変えて殆ど別物になる予定だったそうだけど見てみたかったな マツダMX‐R10(シャシー)
=
ジャガーXJR14(シャシー)
て、たしか、雑誌でデビュー戦のレースレポートで書かれてた内容だろ
似てるけど、コピーじゃなくそのものかよwwwと思ったな >>546
ジャガージャパンが既にあったから没ったはず。
オートラマでランチアだっけ。
シトロもランチアもディーラーのメカ教育のための日本語資料作る時に設計思想が皆目違ってて担当が頭抱えてる、という話は流れてきてたw
>>548
中味丸々作りかえてるみたいな話だったから、日の目を見なかった方の話が流れてきたんだね。
話の出所はどちらもデザイン部。 >>546
ドライバーの白鳥氏はマツダディーラの社長 Facebookにはクリハチ・カーズ代表、(元?)勤務先:静岡マツダ株式会社と書いてある。 >>551
白鳥さんなあw
当時は静岡マツダの営業マンだよ。
まあ…いろいろあったからな。 >>549
SWCで91年に使った車両そのものは92年にはTWR-USAに送られてIMSAで走ってるので
マツダ向け(5台といわれる)は車両そのものは新造だそうですがね。
そこでフォードHB→ジャッドマツダのフィッティング関連の設計変更も盛り込まれていると。
ただしストラウドはクルマが実際に出来上がって動き出すまでは設計自体には関わってないというのも
当時から既にネタにされてた話w
イチから作ってる時間が無い中でどれを選ぶかとか相手と商談するのがストラウドの仕事で
その結果選んだのがあの組み合わせだったというのが後年レーシングオンで本人から語られた内容ですが、
むしろSWCやるんならアレで大正解だったかと。ルマンで乗るエース格はF1経験者なんだし。 >>550
ランチアとかアウトビアンキとか扱ってたのはオートザムの方ですね。
しかしセグメント的には街の車屋さんで軽とか小型車がメインというところをフランチャイズで募って、
マツダ製車種の最上級はクレフとAZ-3
(まあマツダの場合ディーラーの縦割りが緩いんで、お客さんに頼まれればRX-7でもセンティアでも出ますが)
ってところにランチア・テーマ832なんて一体どうしろとw
逆にこっちを当て込んで外車の販売協力店とかやってた所がオートザム取った例とかあるのかしらん。
オークラロータリーはオートザムだった事があるようで、昔雑誌に載ってた店舗写真では看板残ってたw R.on 498号 JSPC-1990-92
P76 右下の写真の記事、多分間違っている。
R90CP が2周遅れから、1周遅れになったシーンだと思う。 R.onの特集も元トラスト社長のインタビューがよかったな
92年の初戦の予選で最速ラップをマークしたら騒動になって
次からどんなに頑張っても1番になれなかったというのが面白い 社長って大川さんだっけ?
彼の視点で見たモータースポーツって、どういうもんだったんだろか
会社は、色々浮き沈みがあったみたいだけど せっかくトヨタのマシン手に入れたのにスポンサー取られちゃって…。
実は日産を手に入れる寸前だったと言うのが新事実。 あとサードをプライベート扱いと言うのは。
90〜91年はワークス待遇だろ。 トラストって95年ル・マン遠征前のテストでクラッシュした後レースから消えたけど、会社傾いたの? あ、ヰセキトラストポルシェのことしか考えてなかったわ
RLRの・ニッセキ・ポルシェを走らせてたんだっけか >>565
俺も知りたい、モータースポーツ参戦がスープラのクラッシュで中断し
再開が2001年のD1からその間に何があったのだろうか? >>564
エントリー名がトヨタチームサ−ドだからワークスだよな アフターマーケットが縮小した為に販売不振、倒産したんじゃなかったかな?
クルマが売れなきゃ、そりゃパーツも売れないわなぁ >>571
日石がルマンに取られちゃったじゃん。第2戦までトラストカラー。共石のステッカー貼ってあったな。
ほんとはトヨタが日石、ポルシェがトラストで考えてたそうだ。 >>565
確かGTスープラそのものはエクシヴみたいな感じでTRDから売ってもらえるものだったけど
それ自体が決して安いもんじゃなかったはずで。
チームルマンがR91VP潰した後で、幸い手元に残ってたR90Vを引っ張り出して活動を続けることは出来たけど
新しいVPを手配するとか、90Vを「R90CP化(これは物理的に可能)」するとかは出来なかったようなものじゃない?
あのスープラ全損にしちゃった時点で、リスタートするための予算までは残ってなかったとか
ルマンまでに代わりの車を用意して現地に持ち込むのが時間的に無理だ、で95年シーズンは終了。
その後はスポンサーの確保とかの都合で参戦を見合わせてたとかいう辺りで。 日産が、トラストに 貸与?予定だった車両が、
何だったのか 興味深い。 チームルマンとノバEngは元々日産との協力関係が長いんで
92年以降も資金の都合がつけば参戦を継続する可能性があったと理解すると、
カスタマー向けに回った車両といえばテイクワンの91CP辺りでは。
用意出来る資金次第では「2台目の91VP」と言っていいような
カスタマー仕様簡略型の新造車がもう1台用意されてきた線とか。
プラネックスの久保田氏が今度お買い上げのあの「ノーマルフォルムでフロムAカラー」のCKが
ノバのTカーだった説が本当なら、
トラストがルマン参戦とかをスケジュールに入れてれば余剰の90CKの方も選択肢に入るし。
ポルシェ時代にはノバとトラストも関係あったから共同戦線再びってのもあるいはね。 >>573
はずで。
じゃない?
とかいう辺りで。 事実はどうだったのか?という話をしているのに
頭のおかしいやつが延々と自分だけの世界の妄想を書き連ねる・・・
なんとからならないのだろうか・・・ >>578
お前もどうせリアルタイムで追いかけて無いんだろ レーシングオンの懐古記事でえらく初歩的な間違いが多いのは
ホントに当時を知ってるスタッフはもう社内に数えるほどしか残ってないせいもあるかと。
25年とか前の話だから、当時第一線級の編集だったなんて人は当時の新人でも管理職レベルだったり
腕利きならフリーランスになってる。ベテランは生きてるかどうか怪しくなってくるってくらいに。
だって例えばカーグラならGr.C全盛期のモタスポ担当ってクマさん→サカさんだよ?
あと、「ルマンの事前テストという時点で車潰す→改めて新車を仕立て直す」となったら、
たまたまスペアモノコック丸ごとを含めた必要部品一式が全部メーカーにあるなんて
奇跡的な幸運と、それが可能な費用が用意出来た場合にようやく可能になる話で、
そうじゃなければ「船積じゃなくて空輸なら間に合うかどうか」とかいうなおさら無理な話になる。
しかも確かクラッシュの原因がステアリングだかブレーキだか操縦系の重要箇所のトラブルに起因したものだったんで
(不幸中の幸いで軽傷で済んだドライバーからその旨の報告が上がってる)、
ただ作り直すだけじゃなくて何らかの対策が必要ってことで、
そりゃもう時間と資金とダブルで無理ですよ。
この当時は全日本F3のトップチームがマカオグランプリ直前のラウンドでは
旧型とか他から借りてきた車使うのが当たり前だったでしょ。
船積だと完全に間に合わなくて、空輸は費用的に割に合わないから。
例外的にコロネルが乗ってた頃のトムスが、全部コロネルが段取りする条件で
空輸対応でやった(他にモナコやマルボロマスターズにも参戦)ってのはあったけど。 長文バカのバカなところは妄想願望の類のデタラメを書き込んで間違いを指摘されても
ダンマリを決め込んで性懲りもなくデタラメを書き込むことを止めないところ
「MXーR01のバルクヘッドはナイジェルストラウドが再設計して云々」と妄想を書き込んで
MX−R01の設計製作にナイジェルストラウドとマツダスピードは関わっていないと否定されて
それについては何時も通り完全無視してダンマリを決め込んでいたのに>>556の書き込み
本物の名無しならそれでも良いんだろうけどほぼコテハンみたいなもんだからすぐバレるのに
マジでキチガイじゃね >>572
日石か!
レスありがとうございます。
日総産業よりもトラストの方が好きだったし、ル・マンから帰ってきたらライトが大型化していたのが残念だった… 日石トラストポルシェがルマンに行った時は
「スタッフみんな日本人でそろえました」って自慢してたけど
「ドライバーは全員外国人じゃねえか」と思った >>582
「ストラウドが再設計した」って私が前に書いたことがあるということなら
是非その時の魚拓があれば見せて頂きたいんですが。
私は当時モータースポーツメディアで、実際にMX-R01が動き出した後で不具合が発生してから
ストラウドが「やっと出番が回ってきた」って言ったという方の記事で把握してるので、
マツダジャッドが載るためのフィッティング作業とかルマン用の大容量ヘッドライト付きカウルとか
そういう一式仕上げた状態でTWRから納品されたもんと理解してます。 今は偉くなったであろう編集さんも、当時の編集後記では「世の中は景気が良い
みたいだけど、自分はいつものシャケ弁で昼飯だ」みたいなこと書いてたな
投機で値上がりしてただけで日本の資産が実質増えたわけじゃなかったから当然だわな
ま、91年の不動産融資規制が無くとも緩々と下がっていったんだとは思うが トヨタの人からデンソーカラーとはスポンサー付かなかった時の穴埋め塗装と聞いたことある。新聞や深夜テレビのコーワや自社広告みたいなもん、 >>593 デンソーカラーとはスポンサー付かなかった時の穴埋め塗装etc
加藤眞「酷い事を言うなあ」 デンソーCカー
87ル・マン87C
89ル・マン88C
89JSPC89C-V(第3戦〜)
90WSPC
90JSPC&ル・マン(サード)
91JSPCサード
91JSPC開幕戦トムス
91SWCオートポリス
92SWC&ル・マン
92JSPC第5、6戦
93ル・マン
94ル・マン(サード) YHPって会社は、今はHPなんだっけか
ミノルタは合併しちゃったしな >>596
星野一義の最後のフォーミュラカーの年のカルソニックはそうだよね
まるっきりの穴埋めではないかもしれないが んじゃホンダの場合はケーヒンカラー辺りがそうか。
>>596
YHPはカーグラの林先生コラムでは、89年の開幕から付いて
当時まだR88Cだった時点から快走したので凄く喜んでもらえた由。
デンソーみたいな系列メーカー枠ってことでいうとユニシア/ジェクスとかゼクセルとか
そっちの方でしょう。
>>598
AMADAからいきなり乗り換えたと思ったらあっという間に消し飛んだ杉山建設とは何だったのか…。 ニッサン・スギヤマとなるはずだったそのスギヤマは後にイトマン・トータルハウジングという
名称に変わったが、その後どうなったかは「イトマン事件」を参照のこと 杉山商事、だったような気もするがもう覚えてないや
途中で飛んだ建設会社だとF3000の松本恵二のスポンサーだった「朋友建設」かな
あと、同じくF3000の金石のスポンサーだったライベックスも途中で飛んだ Cカーより後ではあるが、トムスがMTCIとかダイナシティとかオープンインタフェースとか
後でアレな事になったスポンサーが多いような。 確かに確認しましたら社名は「杉山商事」の方で正しいようでした。
要はその後イトマントータルハウジングになるところまで付き合っちゃってたら
もっと大変な事になってたと。
それにしても87年のWECinJAPANから突然差し替わったと記憶してますが
元からAMADAとの契約がそこまでしか無かったのか、
何らかの形で打ち切ってでもまだ割に合うくらいの好条件でスギヤマが乗ってきたのかと。
今となってはアレさえなければ88年も32番はAMADAで継続だったんですかね。 >>586 大型化した残骸を、思い出したょ
戻せないよな w マツダ787Bの今は「JSPCスペック」と呼ばれてる仕様
(美祢試験場で動態保存されてる#003と、アンフィニカラーでシーズン終盤を走った時の#001)は
現役当時はライトケース部分そのものをざっくり切り飛ばしてボディ同色の蓋
(元々の透明樹脂製のものにカッティングシートを貼ったものかカーボンで作り直したのかは不明)を
取り付けていたと記憶してますが、
現存の003がカウル外してメンテナンスしてる時には普通にライトケースの跡地が残ったままなんですよね。
どっちにしてもそれと一緒で、普段は不必要な2灯分を取り外すとか小径・軽量なものに交換して
空いた部分を共色で塞いでしまえば軽量化と見栄えを両立できるのに。 アマダは86年だけ。
87年はハセミ号はノースポンサーで始まりル・マンだけカルソニック。5,6戦がスギヤマ。 ニチラがブルー、スギヤマがグリーンになるはずだったんだよな
ま、営業停止の行政処分を喰らってしまってはスポンサーも続けられるわけないんで 日産Cカーのスポンサー
1983
ホシノニチラ ハセミトミカ セントラルコカ・コーラ
1984
ホシノハセミ同じ セントラルコカ・コーラ→コカ・コーラライト/キヤノン ルマンパナスポーツ→サウンデバイス
1985
ホシノハセミ同じ セントラルキヤノン ルマンサウンデバイス→パーソンズ >>609
あれ87年は赤ルーフでAMADA継続で行ってたと思ってたら違いましたっけか。
あれで日産ロゴだったんですね。
>>608
これが実車見るとホントに貼ってある。
例の15周年記念でACOから再招待を受けてフルレストアした後の状態は知らないけど
グッドウッド直前の試走でリーチ常務がコースアウトして左リアサイド近辺を小破して以降は
91年からずっと貼ったままの元々の部分と、剥がして貼り直したセンターセクション左側面部で
色の段差があった。 1986
ホシノニチラ ハセミアマダ セントラルタカQ ルマンパーソンズ
1987
ホシノニチラ ハセミ無し→スギヤマ ルマンパーソンズ
1988
ニスモ23カルソニック ニスモ32無し→ビデオサット
ルマン85パーソンズ ルマン86…伊太利屋 >>597
91C-VとTS010が好きだった。
DENSO→NIPPONDENSOと変わったのを覚えている。 1989
ニスモカルソニックYHP92まで ルマンキャビン90まで
1991
ルマン伊太利屋 ノバフロムA93まで
1992
テイクワンコクヨ
1993
ルマン伊太利屋 テイクワンて柳田春人絡みのチームだよね?
何でセントラル20って言わなくなったんだろ
中央高速と国道20号の交差する場所にあるから、そういう名称だったのにさ あっ、その山田も日本信販も、もう居ない(無い)んだよなぁ
兵どもが夢の跡。。。 今は三菱UFJニコスか。
山田氏本人もレースに出てたよね。さすがにCカーには乗ってないけど
ジェントルマンドライバーとしてはPCJやN1、JGTCでいいとこ走ってた。 テイクワンといえば、土屋圭市が最初のタケオネと呼んでいた事を思い出すw お店自体はまだ柳田さんが切り盛りしてて当地に存在するでしょ、セントラル20。
テイクワンは山田さんがオーナーで柳田さんが実働部隊を指揮してる自前チームの他に
マネージメント屋的な部分もあって、91年の全日本F3000での服部・ハーバート・シューマッハは
所属はテイクワンで各チームに貸し出しみたいな感じになってたり
トムスのF3でヴィクター・ロッソの方だったかコクヨカラーの方はテイクワンが噛んでたとかあった。
しかし実働部隊が柳田さんだとなれば、テイクワンコクヨR91CPは
事実上の久々のセントラル20復活という事になるのか。
ネタ的にはNPT-90を回してもらってIMSAクラスでマツダ(静マツしか居ないがw)ぶっ叩いても良いのだけど。 JSPCでミノルタトヨタが2台レースに登場したのがいつだったか覚えだせず、今回のレーゴンで90年の富士1000キロレース2回目のやつってのがようやく判った。
あの頃は何故タカキューにしなかったのだろうか不思議に思っていたがなんでなのかな?。 >>615
NIPPON DENSO→DENSO じゃない? >>623
それこそトムス持ち出しのタダ塗装だったかも。
1台じゃ対ニスモは厳しいと鈴鹿1000キロから急遽2台目と。タカQもミノルタもお金出してなかったかも。 >>624
91年まで[ND] DENSOで
92年からNIPPON DENSOの表記になって、社名変更でDENSOになった。 今更だけど例の海外にあったトムスカラーの90C-V、お台場に来てたのね。
ttps://web.motormagazine.co.jp/_ct/17195352 >>627
シャシナン6な。お台場にも見に行ったし先々週TGRFにも置いてた。
あと最近はミノルタ90C-Vがもてぎのコレクションホールに展示してあった。 これ89C-V改じゃないの?
フロントカウルとそれ以降の幅が合ってないし、リアカウル側面にも89C-V改にしか存在しない2連アウトレットあるし トムスカラーの現存機はトヨタ英国法人が今までずっと持ち続けてた
89C-V改でしょ。ある意味疎開していたからこそ生き残ってたアレ。 シャシープレートは「90C-V」の「6」なのよ。90年にわざわざ張り替えたのかねえ? >>630
そういえばコイツ、左サイドラジエターの上に英語の展示物説明の紙がそのまま残ってる。
たまたま撮った写真に写ってた。
連投失礼。 >>623
リース もしくは ダンフリーズが乗らなかったからじゃね シャシーNo.6の90C-Vだけど、エンジンはR32Vだったな 82 音速の名無しさん sage 2018/12/08(土) 01:28:12.68 ID:gQkWhBJt0
何の小細工もしてないのにIP検索してツクバで当たるんだったら
ウチのプロバイダーさんのセキュリティ対策に心底感謝するわ。
ホントにそういう当局とかが開示要求すれば正確に出るのが当然で、それは覚悟してるけど
手順を踏まない連中が調べようとしたって的外れな目標にしか当たらんってのは実に興味深い。
ほぼまるっきり関係無いのに茨城県民さんを敵に回すのは止めといた方が良いんじゃね?としか
申し上げるべきことは無いねw
真珠湾につっかけたら全米まるっと敵に回すようなもんだから出方には気を付けろってことよ。 >>634
展示車両で こまいこと気にしない。
サード使用車にトムスのカラーリングした車もあるんだから。 正確にヒストリーを追っかける場合、その細かいことが大事なんやで。 トヨタ英国法人から借りたのか日本側に所有権が移ったのかどっちなんだろうね? シャーシナンバー6の90C-Vは元々89C-VだったのをTOM'SGBが90年終盤に改造してコーションプレート貼り直した。
実践投入したがリースやダンフリーズには不評だった。
こんな流れなのかな? >>638
1990年6月付で日本語のトヨタの固定資産管理のシールが貼られてるよ。
他の車見るとこのシールは退役したあと貼られることが多いんだけど…
ずっとトヨタ本体の持ち物なんじゃないかな 90C-V#6は元々耐久走行試験用だった#1のモノコックを修理した後にシャシーナンバーを#1→#6へ変更して、
90年JSPC後半戦の#37として使用された。海外レースでは走った事ないはずだが・・・
あと89C-V改はシャシーナンバー89C-V#10。
どう見てもこの展示車、フロントカウルに対して車体幅狭いから89C-Vベースなのよね。謎 90年はA・スズキ先生がルマン前哨戦のスパでも90C-Vを1台スクラップにしてたりするんで
てんやわんやで急遽代替車両を手配したりという展開になってるうちに
この仕様の車が日英2台用意されちゃった流れだったり。
英国分はオレカのマツダ787(現北米マツダ所在の002)みたいな感じで
消化試合用に向こうに置きっ放しで、こっちは787-001みたく持って帰ってきたから日本にある的な。
逆に「英国トヨタで預かってたそのものには違いないけど、所有権をはっきりさせるために固定資産管理シールが貼ってある」か、
可能性は両方ありそー。 その他88C-Vのタカキュー車(というより、今ミノルタ仕様で残ってる方じゃないやつ)が
89C-Vの試作1号車に改修された説とか、「そもそもミノルタとタカキューは途中で入れ替わってる」
とか、トヨタCカーのヒストリーはミステリーに事欠かない。
実戦に現れなかった1号車も事故で潰れた説だ何だとあるし。
マツダの場合だと89年のデイトナ24時間に出て、それ以降も767Bと併用される車両が
「3台目の767で後期型(787B-003的なもの)」なのか、767Bのプロトタイプなのかとかいう謎話が。
エントリー名義とかノーズの車名マーキングは89年シーズンにおいてはシレッと767Bと書かれてるけど。 89C-V改はトムスGBが製作した#10の1台しか存在しない筈
WSPCスパでクラッシュした90C-V#2はスクラップにはなってない。
スパでスクラップになったのは89C-V#7
90C-V#2は修理した後ル・マンに出てブランカテリにカマ掘られて全損になった。
その90C-V#2の代替車として89C-V#10を改造して89C-V改が誕生したんだよ
そもそも89C-Vなのに90C-Vのシャシーナンバー付けてるのが論点なのに、
「日英2台用意されちゃった流れ」とか的外れすぎだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています