全日本F2・全日本F3000を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
グループA、グループCなどはありますがフォーミュラ回顧スレは無かったので立てました。 ハセガワの1/24スケールF3000プラモシリーズが順次再販中。
リリース済みとかアナウンス済みがキャビン(ローラ・レイナード両方)・伊太利屋・ワタナベ・
PLUS・スピードスターといった辺り。
煙草ルールをクリア出来そうにないキャメル・EJR(キャビンは終売になったからセーフの模様)
と、需要的に微妙なポールスチュワートの国際F3000の2チーム分に加えて
ワコール童夢(ローラ・レイナード)といった辺りが見送りで他は大半出る感じか。 JT、セゾン、トステム、サントリー、PLUS、ワコール、いい時代だった。
1990年
鈴鹿ラウンド CBC(TBS系) 4戦
富士ラウンド テレ朝、テレビ大坂(テレ東)2戦、TBS
西日本 山口放送(日テレ系)
菅生 東日本放送(テレ朝系)
今じゃ考えられない…。 >>859
なんでバラバラのままだったんだろうね。Fポン直前にようやくフジに統一されたけど。
なにより駄目なのはTBS系は全国ネットとは言えなかったからな。TBSこそ頑張って
全国ネットすべきだったのに。 西日本の日テレ系がよく解らないけど
鈴鹿は SMSC
富士、菅生は ViCIC が主催者だよね。
あと時代的に 地方は 民法2局で
テレ朝が無かった可能性があるね。 放送内容は鈴鹿地元のCBCが一番堅実で見応えあったけどな。
フジとかF1ブームに乗っかったミーハーイメージしかないwww 言われてみりゃCXはフォーミュラニッポンになるのが決まったところで
シーズン丸ごとの放映権買ったけど、
それまで全日本F3000放送したことがまるで無いどころか
F1以前にモータースポーツイベント自体を放送したこと自体がかなり稀有なような。
日テレは富士スーパースプリント(2輪)を放映して、若き本間利彦に早くから注目したりと
意外にもモータースポーツとの関わりは長いし、
TBSは76年の富士で開催したF1グランプリだって放映してたり
系列局のTBCが2輪のシーズン最後のお祭りレースの冠スポンサー&TV制作・放映したりと
モータースポーツ慣れしてる。インディ500も長いことやってたし。 90年代のTV中継だと、
テレ東?12ch?も結構やっていなかったっけ? そういえば昔は、鈴鹿の場内放送って
CBCのアナウンサーじゃなかったっけ? >>862
だからこそTBSはちゃんと全国ネットやるべきだったんだよね。
そういやウチの所にまだテレ朝系が出来てない時なので直接は見てないが、
テレ朝の初F3000中継の時、フォーメーションラップで各車ウェービングやってる時
実況アナが「4輪ドリフトですね!」とほざいたそうだなwww さースリップストリームからーサイドバイーサイドー!
シュワンツ前に出るか!おっとレイニー押さえた!これは凄い凄い!
2台がもつれ合う/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\最後の130Rへ!激しいブレーキング競争
さースリップスト| うるさい黙れ |バイーサイドー!これは福田さん
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____ _/ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∨ (゚Д゚ )
<⌒/ヽ-、__ノヽノ |
/<_/____/ < < モーターランド
モーターウイークリー
ハヤシ サウンドストリート 90年の鈴鹿F3000開幕戦2&4のCBC、高田純次のバラエティと化して最悪だった。 でも89年までは関東は1週もしくは2周遅れの録画だったんだよね。
90年に当日深夜になり(5月はインディがあったから翌日)、91年から当日昼間録画。
92年は小河さんの事故を半ライブで見ることに…。 90年のモタスポメディア事情
F1 当日深夜録画
WSPC BSでナマもしくは1周遅れ録画。地上波で周遅れダイジェスト。
WRC BSでダイジェスト
インディ 500はTBSでナマ。他のシリーズはBSで録画。
IMSA 日テレで深夜にダイジェスト。
JSPC 富士と鈴鹿はテレ東で周遅れ録画。菅生は宮城テレビ(日テレ系)で当日深夜録画
JTC レースドニッポン周遅れ録画(テレ東)、インターTEC当日昼録画。
インターF3 フジで当日深夜録画 昔 CBCラジオで日曜日の午後9時半くらいから
モータースポーツ番組やっていたとおもうんだけど
番組名何だったっけ >>861
山口にはTBS系と日テレ系の局しかなかったんじゃなかったっけ
西日本がMINEに改名されてからテレ朝系の局ができたけど
おかげでFポンになっても地元の放送局がないもんだから
・イベントの問い合わせ先 広島のテレビ新広島
・中継スタッフ フジからの派遣
・実況アナ フジからの派遣or九州かどこかから派遣
とかごちゃ混ぜな感じになってた モータースポーツダイジェストという名番組を忘れてはいけない… プレイドライブとレーシングサービスワタナベがスポンサーだったな。モタスポがメジャーになってきた1986年頃終わった。 ワタナベと言われて自動車教習所の方かと思った。
っていうかあの松本恵二さんのスポンサーしてた教習所って
未だにどこにあってどんだけ儲かってたのかも知らない。
今思えば幾らバブルの頃ったってF3000とGCの1年分かよと。 ヨコハマタイヤのCMに
昔のF2の映像が使われてるね。 しかし国内トップフォーミュラーが大盛況だったのは、バブルの一時期だけだったのでは?
客、スポンサー、エントラントが。
おれ80年代前半は知らないのだが、F2はけっこう盛り上がってたの?国際性はあったから。
確かスポットで欧州勢来日してたんだよな? ジャコメリっていわれてライフで予備予選落ちまくってた人と思ったり
アルヌーって言われて妖怪通せんぼじじいと思ったりするのがモグリってレベルだわw
しかし型番からいえば当然あるはずだとは思ってたけど
リザルトから見るにコジマKE008ってのは、76〜77年時点で作られたと思われるものが
78年時点でまだ優勝するレベルで走ってるってことは結構成功したF2マシンなんですね。 優勝は番狂わせだったと思う
星野脱落、中島トラブルか
あの当時はシャシー設計寿命は長かった。
国内だと傑作マーチ742が長年走った後で、基本設計が同じNOVAシリーズも長寿。シャシーがヘタったら国内でマーチレプリカを作っちゃったらしいし。
革新的だったマーチ782も国内ではすぐには結果が出ず。
だから、確か77年から参戦したKE008でも設計は問題なかったかと。
79年からウイングカー本格参戦で前年設計は毎年陳腐化するようになった。 ジャコメリ : タイヤトラブル
パトレーセ : オーバーヒート、失敗作シャーシ
ピローニ : 操作性に問題、(フットボックスが狭かった?)
アルヌー : エンジントラブル
ワォーイック : 中嶋に追突
星野 : トップ走行中、ドライブシャフト折損
中嶋 : 体力不足(中盤まで2位で後方を抑えるも、最後はあっけなく陥落) ほぼ全員F1トップクラスで活躍した豪華メンバー
アルヌーににしたってルノーではプロストより格上だったような
F2上位は全員F1進級が普通だった時代
F3からF1に行ったプロストが珍しかった
ルマン商会が保有マシンに積極的に外人を乗せてたよき時代 記憶よりも日本人少ないのな
外人がいないと寂しいレベル と言われても
中嶋 VS 招待外国人(アルヌー除く)を軸にレース進行して
最後に 国さんが持って行った。
って印象しかないもん。 国さんはこの頃は、ポール取ったりトップを走ったり優勝したりはほとんどなかった。このときも走り勝った印象ではなかったよね。 このレースで国さんは低迷から抜け出したんだと思う。
KE008のホイルベースの問題とか色々有ったからね1978年は。
あのレース今宮さんも西山さんもとても高評価をしているよね。
国さんの写真集の後ろに記載の解説を読むと生で見ていないのが本当に残念。
翌1979年はまた調子が悪くなってしまうけど(exジャコメリ車を手放したあたりから)
GCのインター200でスピードスターGC1(KE008+13B)でまた復活。これはテレビ観戦していたんで
長谷見MCSとのバトルは見応え有った。 ニューヒーロー! ナカジマ!
老戦士! 高橋国光! 70年代後半〜80年代前半はモタスポ暗黒期。まあ今も変わらんが。
まだ当時俺はヲタじゃなかったが、それでも80年代前半の鈴鹿F2はカルト人気はあって、
世間の話題にはならん割には客は入ってたんだろ?当時はF2もまだ国際カテで招待外人いて。
同じ頃富士GCはガラガラで、そのくせ入り口には珍走団が集まって来ていたと。 そういえば86-87年のポストシーズンテストでは
ホンダとBSが持ち込んだ、86年シーズンの中嶋/サックウェル車(乗り替わりでシェアしてるので1台)だったとされる
ラルトRT21/無限RT386(エンジンテスト用に途中から387だった可能性も)
は日本に送り返されて走ってるんですが、
マーチ傘下の「新生ラルト」になってレイトンハウスとか中企とか比較的多くのチームに使われた
91年のRT23以降を別として、それまでのラルトのF2/F3000マシンってのは日本で実戦に使われた例はあるんですか?
F3だとあまりに時代遅れになり過ぎてダラーラに取って代わられるまで定番車種だったのに
トップフォーミュラでの戦績は意外と聞かないので。 >>891
盛り上がりは小さかったけど暗黒期という印象ではないな
バブル崩壊で一気に沈んだショックみたいのがないから RT-1は77年だったかに持ち込まれ、いつから参戦してかは忘れたけどその年のJAFGPにカプリコン1カラーのD.サリバンが乗ってた。
戦績は高原さんや桑島さんが乗ってもさっぱり。
干されていたとこを和田さんが78年のG20に借りだして速さを引き出した事が有った。それが和田さんの転機に。
RH-6は81年の2&4に中嶋さんが一度だけ参戦。次戦からマーチ812になってお役ごめん。走行シーンはつべのキヤノンAE-1プログラムのCMで見られる。
82年のG20、GPにヨーロッパからファクトリーが参戦するまで国内F2では走って無いはず。
記憶が曖昧ですまんが83年は記憶なし。84年のJAFGPには最後のユーロピアンF2チャンピオン凱旋で参戦してた。
84年は生沢さんのとこがD.スコット/T.ニーデルがラルト走らせていたけど
パッとしなかった。 F2 以外では
FP で RT-1、RT-4、F3 で RT-1、RT-3
GCに RT-4 シャーシが使われたことがあったと思う。
i&i が使用した RH-6 80 は
後に 81 風のカラーリングにして展示していた。 https://youtu.be/9H7abbMpGks?t=565
FPのラルトRT-1
83年のGCで長谷見ラルトRT-4って小さいんでつるしのMCSカウルじゃなくって少し小型のワンオフだったなあ >>891
70年代中盤がオイルショックによる暗黒期で
70年代後半は立ち直り始めて
池沢さとしの漫画”サーキットの狼”がヒット>スーパーカーブームが
モータースポーツの飛び火した感じだったと思う。 つまりはライバル陣営もアルミツインチューブモノコックで当たり前って時代には
F2でも少数が使われたこと自体はあって、基本的にはあまり成功しなかったので
少数派のまま終わっちゃったって感じですか。
その後はF1とトレンドを同じくして三角断面アルミハニカムモノコックになり
F2最後期→F3000初期ともなるとカーボン/アルミ混成やフルカーボンまで移行するので
旧来の形のままだったラルトをあえて使おうというチームが出てこなかったというくらいに。
GCなら使えるってのは空力的な問題はカウルで対策できるってところなのかも。
F3では全く使い物になってなかったRT36/37系の極太カーボンモノコックも
ウィングカー規定で使われる北米フォーミュラアトランティックでは各々RT40/41として
傑作に列せられるというし。
F3000の話に戻ると、91年に事実上チームルマン運用のマシンが
レイナード91Dはチーヴァーの1台しか無いのに、ラルトRT23は2台あった
(ハーバート車と、第4戦鈴鹿まで伊太利屋のジェフ・リース車、第5戦でサントリーのシューマッハ車になり
本来ならシーズン最後までシューマッハが乗るはずだったもの)というのも不思議な話。
そういえばシューマッハ兄弟は「自分が今まで乗ったマシンはコレクションする主義」ってことからいうと
菅生で乗ったラルトも後にお買い上げになったのかどうかと。
ラルフの方は日本で乗ったレイナード持ってるそうなので。 80年代前半 世間的盛り上がりは皆無でも、星野vs中嶋、来日外国勢でヲタの間では盛り上がる
80年代後半 F1ブーム、バブル景気で国内トップフォーミュラも空前の盛り上がり
バブル崩壊以降現在まで 超絶不人気が30年続く。存続してるだけ偉いが。 いや90年代前半というか半ばくらいには
イケメンガイジンレーサーブーム的な感じで意外と女性ファンに盛り上がってた部分がw
当時雑誌にイラストや漫画投稿してた人の何人かが実は一流の同人作家の人だったと後に知って驚いた。
F1は年に一回の鈴鹿以外は観に行かなきゃいけないけど
国内選手権なら観に行けちゃう上に、彼らがファンサービスに結構熱心だったせいもあるかもしれない。 >>902
イケメンって誰ですか
興味なかったので全く知らなかった 一般的なレベルでカッコいい方に入るかどうかは別として
チーヴァーは孤高の雰囲気込みで人気があって、
ハーバートやアーヴァインは普通にカッコいい枠扱いだった記憶。
ジェフ・クロスノフも人が良いんで人気、ミカ・サロはブロンドが綺麗で人気とか
クルム伊達マイケルさんだって若い頃はカッコいい枠に含まれてたんだぜw
そんなくらいだからジャック・ヴィルヌーヴに至ってはもう大人気よ。 >>904
ありがとうございます
よくわかりました
まあ、白人はドライバーじゃなくても六本木でモテモテですしね
それも報酬の一部と考えて滞日してくれれば盛り上がるしいいことですね あるイベントにて
司会者:最近ドライバーの間で釣りが流行っているですってね。
どこに行くんですが?
黒琢:六本木
司会者:釣るものが違いませんか?
M伊達・DXロサ(動揺)
司会者:なんかあったの?
M伊達・DXロサ:女の子に人気がある店としてJ・MENS を教えられて行ってきた。
(日本語に翻訳される前に 場内大爆笑)
司会者:私と黒琢、何やり取りしていたかわかってる?
M伊達・DXロサ は日本語を勉強することにしたとさ むしろ黒澤さんが若手らしからぬ無骨な雰囲気だと思ってたのに
当時から案外お茶目なお兄さんだったとはw Fポン始まってしばらくは結構盛り上がってたね。
美祢でも毎年客多かったよ。Fポンだからスレ違いになっちゃう?
しかし虎ちゃんは景気良かったらF1でもう少しマシな車に乗れただろうに・・ そりゃまあF3000で結構な数の予選落ちが出るっていうより
予選2組もやるような状態(ある意味だったらF1みたく予備予選やれって数)ってのは
そりゃ流石に尋常じゃないって話には。
うまくコストをコントロールすればフルグリッド埋まるか埋まらないか、
時々は107%ルール以外の原因で予選落ちが出ることもあるとかいう程度で安定してるのが
程良い状態だとは思うんで、
「バブルの揺り返し」みたいなところで少し減り過ぎた時期というのもあるかもしれない。
モータースポーツの広告効果というのを過大評価し過ぎたところが一気に引き上げたみたいな感じで。
逆に最近は「即効薬じゃないけど長くやってると安定して効く」を再評価する向きで戻してきたり
経営陣が根っから大好きなんで道楽半分でっていう、ある意味で大昔にあったような形態が
復活してきたりというところで戻してきてるけど。
ドラゴソさんとかプラネックスの久保田さんみたいなのは、
ある意味伊太利屋の林さんやTAISANのリッキー千葉さんみたいなもんとも言えるし。 菅生の翌戦の富士の公式プログラムはシューマッハがエントリーリストに載っている
インタビューも掲載されてるし、当初は続けて乗る気満々だったんだろうな
F1デビューのチャンスがあったから流れちゃったけど 本間氏の著書では、
残りの全日本の契約をする矢先に F1 が決まった。
みたいな印象だったけど、実際には
F1優先の特約かなんかで契約破棄されたのかな? ミカ・サロのアドレーシングとの契約は
最初っから「F1が決まったらそれを優先する」という内容にしてあったとは
デビューレースの91年オートポリスをレポートしたオートスポーツの記事で吉田監督が語ってた。
まだキャメルカラーのレーシングスーツ着てたんだから当時はなかなかユルい時代。
今だったら本来のスーツが間に合わなくて古いやつ使うっていったらロゴ全部外すか隠すのレベルだろうに。
ハーバートがF3000の日程の方を優先してたのは、チームルマンとの契約が外せない内容になってたのか
ロータス側の懐事情からいって、重なるレースだけでも持ち込みのあるドライバーを乗せた方が良いんで
「本来の交代回数を超えるやむを得ない理由」のアリバイ作り的に「日本のチームとの契約があるんで」って話にしつつ
なおかつハーバートの方にも安くないギャラが入るから誰も損しないという裏技だったのかとか。
シューマッハも日程が重複しないレースに関しては全日本F3000走ってギャラ稼ぐ手はあったと思うけど。
>>911
むしろアービンって読み方初めて見た。 国際F3000時代はASがアービン表記だったような >>915
ハーバートは彼の希望でそうなったんだよ
証拠はないんで長文以外は汲んでレスしないでくれ ってと逆にチームルマン的には重複するレースはF1の方を優先してくれてもよかったと。
理由がどこにあったかはともかくロータス的にはそれでバーテルス乗せられたことで
資金的にはだいぶ潤ったんで八方丸く収まったんですね。
逆にハーバートがF1の方に乗ってたら、別のルーキーがチームルマンのラルトに乗って
幻のF3000デビューを果たせていたのかもしれなくて、それが誰になったかも興味のあるところ。
チームルマンか、サントリーWESTレーシングのマネジメントしてたテイクワンか
どちらかに人脈のある若手が乗る流れだろうけど。 成る程ミハエル・バーテルズが「バートレス」って書いてあったり
フィリップ・ガシェが「ガショー」って書いてあったりオートスポーツの呼称に癖があった頃。
でも90年のルマンの頃の号では既にアーバインって書いてあったようにも。
この頃NASCARにはアーニー・アーバン(E・アーバン)って人が居て、
さらにはその後NASCARにはクリス・アーウィンって人が出てきて誰が誰だかということに。 何の気なしに買った投げ売り品のミニカー
Mercedes-Benz 190E 2.3-16 (DTM車両)
フォルカー バイドラー車であった。 内容的に一番盛り上がった(ただしヲタの間の内輪)のは80年代前半F2。
一般的に一番盛り上がったのはF1ごっこやってたバブル時代の3000。
実はそれ以外で盛り上がった時期は無い。 >>922
「バブル期」って括るけど、実際にはラルシューとか高木虎之介とか本山とかが走ってた
マルチメイク最終期くらいのフォーミュラニッポンまでは結構盛り上がってたんで
景気実態としての部分とは案外ズレてる。
ローラクライシスで事実上ワンメイク状態→レイナード倒産で今度は規則からローラワンメイクってのは
それ自体が理由で盛り上がらなくなったわけでもないだろうけど、
この頃にはやっぱりモータースポーツ業界に入ってくる資金という意味合いでの景気がよろしくなかった
(だからこそローラが開発技術でも品質管理でも酷い物作るとか、レイナードが倒産するとかいう状況だったし)
ってのが日本にも波及してたのが理由かしらん。
スポンサーがつかなきゃ台数が走れないとか、何とか出てきたところだって
安全に関わる部分は当然きちんとやるけど、昔みたいにじゃぶじゃぶ金掛けて
走行毎に何もかも新品みたいな勢いで、部品寿命なんか気にしないでガンガン走れとは言えないし。 バブル崩壊の1993年はガラガラでエントリーも減った。
1996年Fポンと名前変えて一時的に客増えたがすぐに減った。 むしろ92年の方が、旧型車使えた開幕戦とか新車に切り替わった直後のシーズン序盤は
まだ予選落ちが出るくらいには余力が残ってたのに
シーズンが進むにつれてスポンサー企業が倒産するとか、契約通りの金額が焦げ付くくらいには
経営が左前になって撤退するとかいう展開で台数が減っていったというふうに
急激に駄目になっていったという点では印象的。
それでも2000年くらいまでは「フルグリッドにほんの少し割れ」くらいでは続いてたし、
99年の第二次ローラクライシスの時に、空力周りを大改造して使うと決心したムンクラと
「馬鹿げてるって言われても、ローラで走り続ける意味を見出す」って公言して走り続けた
柴原眞介の2台を除いては全部レイナードに乗り換えるくらいの規模だったんだから
今思うとありゃー結構凄かったなと。
実は一番厳しかったのは、本来3年更新のはずを5年に引き伸ばさなきゃいけなかった
スイフト使ってたあの時期だったんじゃ。
それでも、「アメリカ製の大雑把感」があれこれ言われはしたものの、モノ自体は頑丈だったおかげで
5年もたせることに成功した(海外での中古車販売情報を見たら、ホシノレーシングは合計4台持ってたようなので
途中で1回新車に買い直してたことが分かったけど、懐事情の厳しいチームはホントに同じ車5年使ったかもしれないし
とりわけ基本設計レベルでの安全性が5年経って旧態化してなかったのは大きい)ってところではあの車に救われた。 ホントだ、調べたらデルフラーがいつ替えたって記録がはっきりしないw
(Wikipediaだと「99年のフォーミュラニッポン」では通年ローラのような記述、
ダンディライアン自体の記事だと替えたように書いてあるけど時期がわからない)
後年にはタイトルも獲得するしトップチームの一角に成長するダンディライアンも
この当時はまだ新興チームだったからそうなるか。
JTCCの時はFETのお下がりらしいAE100カローラ使ったあと
トムスだったかTRDの軒先にあった開発用のモノコック譲ってもらってエクシヴ作ったとかいうし
「メインスポンサーがドコモ」って華やかさの割に案外ギリギリでやってた感が。
INGINGもこの頃は大差ないレベルのローカルチームだったんだから、
この辺りがトップ争いするところまで来るなんて想像も出来なかった。
あと、ダンデの社長さんってのが元フナキレーシングの人ってことになると、
独立した時期は多少前にはなるけど、フナキが本格的な活動自体を停止した時期との繋がりでいえば
何らか引き継いでる部分はあるという考えでよろしいんで? 1990年ころのN1の方が今のSFより客入ってたな。 90年だとまだN1耐久ラウンドシリーズにもなってない頃で
そうなると筑波ナイターと富士のレース(当時は6耐?)くらいしかメジャーレース無いし、
そこは流石にちょっと怪しいような。 富士6時間とかけっこう客来てたジャン。あと筑波ナイターも。
GC末期と今のSFがどっこいか? 1990年富士
4月 6万
8月 6万
9月 5万
10月 7万
※主催者発表 サントリーの参入は1989年から。
WESTって缶コーヒー出て、そのカラーリングだったがこれすぐに没になり絶版。
F3000もSUNTORYのロゴだけになり地味に(シューマッハもこれ)。
92年BOSSになりマルティニがチャンプ獲得。
BOSSはその後永ちゃんほかでロングセラーになったが、モタスポはこの年限り、Jリーグへ。 >>934
サントリーの参入は1990年
1991年は確かにSUNTORYロゴがメインだったがWESTロゴも入ってる(エンジンカウルなど)
1992年は当初は熱血飲料だったけど途中からBOSS、そしてマルティニがチャンプ獲ったのはアコムローラ
BOSSは1993年まで継続、最終戦でダニエルソンが初優勝
何一つ合ってないぞw ってかそもそもサントリーカラーって基本テイクワンじゃなかったかしら。
91年がちょっと変則的で、マネジメントだけテイクワンがやってて
レースオペレーションとドライバーはチームルマンっていうような参戦形態。 >>937
変則的なのはそこじゃないでしょ、それを言うなら90年だってレースオペレーションはノバだし
91年エントラント名にテイクワンが入らなかったのが変則的(それぞれルマンとムーンクラフト) 自社ガレージを持たないチームが外部にメンテ委託するのは当然で、別に変則的でもないだろうw
この頃だと星野さんでもメンテはセルモ委託だし。 90年 テイクワン+ノバ WEST中谷 PLUSヴァイドラー
91年 テイクワン+ルマン SUNTORYハーバート テイクワン+ムンクラPLUS服部
92年 テイクワン自社 熱血ダニエルソン PLUS田中実
93年 テイクワン自社 BOSSダニエルソン その同じ91年にF3ではヴィクター・ロッソ車はトムス委託(車そのものは031F)だったはずで。
委託するのはよくあるけど3チーム跨いじゃうって珍しいなと。
92年のキグナストーネンはレースオペレーション自体はステラが一括して
ラッツェンバーガー車(最初からローラ)がステラ自社メンテ、
ギルバート・スコット車(第4戦で全損するまでレイナード)はメンテのみR&Dに外注ってなってたけど。
93年のカプコンは色だけ一緒でチームごと違った
(和田久車がハギワラレーシングで石川朗車がチームルマン)。 93年以降、スポンサーはみんなJリーグに流れたな。 おかげで後進国の国内リーグとは思えんほどスポンサーがついたが、結局はwww >>942
トステムとかイエローハットは鹿島アントラーズに行ったな
由良さんだったか
「あの時モタスポ界全体でもっとスポンサーを大切にしていればよかった」
みたいなことを後に言ってた >>943
今スーパーフォーミュラーがJリーグと比べてもらえる立場だと思ってる? 92年5月の鈴鹿F3000、小河が入賞している。二輪は違うのかと思ったよ。 あれはむしろ成立周回数をクリアするために
1コーナーでクラッシュした2台(小河車とAGS車)を除く全車が整列したまま
コントロールラインを跨ぐという手順を踏んだのに、
その「手続き」に参加してない2台を含めてフルポイントで結果成立というところを不思議に思った。
クラッシュで赤旗が出た前周の順位で確定にしてハーフポイントにするか、
赤旗中断後にグリッドに戻ってきた車両のコントロールライン通過順でフルポイントで確定
(これだとAGSと小河は各々-1LAPの最上位扱いになる)かというところだと思ったのに。 あれ、ハーフポイントじゃなかったっけ?
まぁ、亡くなった方に敬意を表しポイントを与えたいっていうことで、反対する人もいなかったとかじゃなかった? いや、フルポイントだよ
フルポイントは全周回の75%(鈴鹿は35周だから26.25周)
27周目完了直前の26周目に赤旗提示、全車ホームストレートのコントロールライン前に停車
その後、全車がコントロールラインを跨いで27周を完了、Uターンしてピットを逆走してパルクフェルメへ
27周マイナス1周だから26周目の順位採用 つまりリザルトがフルポイントの周回数をクリアしてなくても、中断時点での周回数がクリアされてれば良いって事 バブル時代のスポンサー(自動車関連除く。バブリー企業じゃなくプロ野球、Jリーグチーム持ってもおかしくない企業)
JT
トステム
サントリー
プラス
カワイスチール
ワコール
オムロン
日本信販
こんなもん? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。