暴力団 集団レイプ 母親 小学校
小学校は女性教師が多く職員室は騒然としていた
小学校の女性教師は母親の性被害に関して人格を否定する発言を繰り返した 小学校の女性教師は母親の性被害を侮辱し嘲笑した
黒板に「輪姦学校 林間学校」と書いて嗤った 都会過ぎず田舎過ぎず 暴力団の島に最適
埼玉県 住吉会系暴力団 集団レイプ 母親
暴力団組長宅と消防署は隣接してある 小学校の音楽教師は人格を否定する発言を繰り返した
文部科学大臣 法務省 さいたま法務局 小学校の音楽教師は人格を否定する発言を繰り返した
「汚い八百屋の子供はピアノに触るな」
「汚い八百屋の子供は女の子と口を聞いてはいけない」
と言った
文部科学大臣 法務省 さいたま法務局 暴力団組長は私の母親を集団レイプした様子を写した写真を子供に小学校へ持って行かせた
小学校の女性教師は母親の性被害に関して人格を否定する発言を繰り返した 埼玉県 住吉会系暴力団 集団レイプ 母親
都会過ぎず田舎過ぎず 暴力団の島に最適 暴力団は私の母親に覚せい剤成分の入ったエスエスブロン液を
一瓶一気飲みさせた上で集団レイプし、その様子を写した写真を
子供に学校へ持って行かせた 【社会】日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」
daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1482754278/
1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦(ごうかん)したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵がその日本兵を殺害する出来事があった。
当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。
45年6月、球部隊に所属していた飯田さんは摩文仁の壕に潜んでいた。一緒に逃げて仲良くなった日本海軍兵や周辺住民から「自分が隠れている壕で住民にひどいことをしている軍曹がいる」と聞いた。
その内容は、住民や子どもを殺害したり女性を強姦したり食料を強奪したりするほか、その一帯で水が飲めた唯一の井戸を独り占めにしているというものだった。
ある日、飯田さんも「佐々木」という名の軍曹による「悪行を目撃」した。「見るに堪えない。もう限界だ。同じ日本の兵隊として許せねえ」と殺意が湧いた。
海軍兵に「このまま見て見ぬふりできねえ。島民が殺されているんだぜ。やつさえいなければ皆なんとかしのげる。水も飲める」と殺意を明かした。
飯田さんは米軍との戦闘前、那覇市の住民宅で寝泊まりし、沖縄の人々から温かくしてもらったことへの「恩義」もあって「住民を殺す日本兵が許せなかった」と言う。ある晩、井戸で住民に嫌がらせをしている佐々木を見つけた。
人影がなくなったのを見計らい、軍服を引き裂いた布で拳銃を隠し持って近づき、水を飲んでいる佐々木の後頭部に銃を近づけ引き金を引いたという。
飯田さんは「全ては島民のためと思ってやったが、私自らの手で日本人をあやめてしまった。70年余たっても忘れられない」と話し、今でもつらい思いが残っていることを吐露した。
本島南部の激戦時、食料が尽きて飢えた日本兵が夜、米軍の陣地に忍び込んで食料を盗み、その帰りを待ち伏せた日本兵がそれを奪い、殺し合う事態も「よくあった」という。
「戦場では人間が人間ではなくなってしまう」と振り返る。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-417850.html 松山刑務所事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%88%91%E5%8B%99%E6%89%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
松山刑務所事件(まつやまけいむしょじけん)は、松山刑務所で
1964年から1966年にかけて発生した汚職・強姦事件である。
概要
第1次松山抗争で大量に逮捕され松山刑務所に拘置された暴力団関
係者が、看守を買収した事件である。1人の看守が入所前から顔見
知りであった被告人に頼まれ、不正に手紙を投函し礼金を受け取った
ことがきっかけで起こった。この行動により施設の職員を軽くあし
らえると判断した被告らが脅迫、暴行する事態となった。
組員らは入手した所内の鍵を使用し拘置所内を自由に歩き回り、
飲酒、喫煙、花札賭博、領置金の脅し取り、女性囚人の強姦を行い、
さらに看守までも組員の仲介で女性囚人と関係を持つなど、拘置所
及び刑務所は無法地帯と化した。この事件では、出所後の1982年に
松山ホステス殺害事件を起こすことになる福田和子も強盗罪で服役中
に看守による強姦被害者となっている。
この問題は第52回国会法務委員会にも取り上げられたが、1966年6月
と7月、副看守長2人が自殺。強姦事件被害者からの告訴もなかったた
め、事件の真相が解明されることはなかった。後になって福田の著書
などから、法務省が被害者に対し告訴を取り下げる署名を強要してい
たことが判明するが、公訴時効成立により事件の存在自体がなかった
ことにされた。 刑務所内強姦
https://www.wikiwand.com/ja/%E5%88%91%E5%8B%99%E6%89%80%E5%86%85%E5%BC%B7%E5%A7%A6
女性の被収容者が看守から強姦されることであるが、男性の
被収容者が同性の看守や被収容者から性的虐待をうけることもある。
日本では、豊橋刑務支所において複数の強姦事件が発生しており、
2003年、加害者の一人である刑務官の男が拘置されていた女性
被告人を強姦の末に妊娠させるに至って初めてそれらの事実が明ら
かとなっている。松山刑務所事件(1964年-1966年、松山ホステス
殺害事件の犯人の福田和子は、当時、別の事件で服役していて被害
にあった)は、当時、国会に取り上げられる大スキャンダルとなり、
暴行ができるように関与した看守は自殺している。また、被害者で
ある福田和子の著書では、法務省から告訴を取り下げるよう強要され、
公訴時効成立によって事件の存在自体が無かった事にされた経緯が
明かされており、そうした点も刑務所内犯罪の問題点の一つとされ
ている。 福田和子も被害に!
無法地帯となった
松山刑務所
「松山ホステス殺害事件」(1982年)の犯人・福田和子
(2005年に和歌山刑務所で病死)は、1965(昭和40)年9月、
同棲していた男性と高松国税局長の家に強盗に入り、翌年2人
は逮捕されました。 【福田和子のレイプ被害】
https://ameblo.jp/rinaogawa1994/entry-12824273867.html
当時まだ18歳の少女だった福田和子は、松山刑務所内の拘置監
(刑の確定していない拘禁者を入れる施設)に収容されましたが、
そこで前代未聞の「松山刑務所事件」に遭遇し、女子雑居房内
で性暴力被害を受けたのです。
この時、2つある女子雑居房には合わせて5人が収容されていま
したが、福田和子の手記『涙の谷』によると、和子と同じ房は
「覚醒剤で捕まった目と眉の離れた童顔の30位の太めの女と、
放火未遂の27、8の女」の計3人だったそうです。
1966(昭和41)年3月22日に起きた出来事を、和子は「手記」で
次のように書いています(〔 〕は小川の補足)。
拘置所に入って間もない昼下がり、ガチャと重そうな音を立てて、
扉が開いた。 私はこの時の光景を、30年経った現在でも、はっきりと思い浮か
べることができる。扉を開けた刑務官の藍色の制服が、房の窓から
差し込む陽にあたって一瞬、青が勝った。扉の前には先日の
〔房の前に来て「お前が18か」と「にたりと笑っ」て煙草をくれた〕
眼鏡の男と子分が立っている。「なに?」と尋ねるように刑務官
を見ると、土間の隅で黒子のように俯(うつむ)いていた。事態を
察し、男達に視線を戻すと、2匹の巨大な爬虫類に見える。硬直して
いく私の躰、声も奪われた。
「ぎゃー」
放火未遂の女が絶叫して、房の外に転がり出ると、男達がぬるりと
入ってきた。眼鏡の男が私の肩を押すと、ころんと私は転がった。
見上げた天井がうねうねとうねり、くっくっくっ女の忍び笑いに顔
をひねると、男女の律動。これは夢?
ぐぁーん、ぐぁんぐぁんぐぁんぐぁん、頭の中にドラが鳴り、真上
の眼鏡の男の顔が、横に広がったり、縦に縮んだり……。これも夢?
ばさっと毛布がかけられ、はっと身を竦(すく)めると、悠然と男
はズボンをあげ、太めの女はだらっとした顔で男を見送り、あわてて
掻き上げた下着には体液が流れた。
太めの女は固く口止めをした。刑務官とヤクザがグルだなんてぇ……
下手に騒ぐとどんな危険が降りかかるかもしれない。恐いとこや。
〔和子が一緒に強盗をした〕男が刑務所には行きたくないと泣いた訳
が分かったようで、私は貝になった。 ウィキペディアでは、和子は「看守による強姦被害者」とされています。
しかし、彼女を襲ったのは看守に手引きされた暴力団員です。
「手記」はレイプした暴力団員を仮名で「須藤組長」と書いてい
ますが、朝日新聞(1966.6.23)が「兵藤卓也」と実名で報じ、
また1966年7月15日の衆議院法務委員会で坂本泰良(たいら)議員
も兵藤の名前をあげて質問し、それが議事録に残されています。
兵藤卓也は、岡本組とともに郷田会の傘下にあった兵藤組
(「第一次松山抗争」を機に郷田会は解散し、兵藤組は独立して
兵藤会となる)の組長でした。
彼が「子分」と共に来て、子分の組員は「太めの女」と合意で関係
をもち、その横で兵藤組長が和子をレイプしたのです。
なお、「ぎゃー」と絶叫して房外に転がり出たと「手記」に書かれ
ている放火未遂の女性がそれからどうなったのか……とても気になります。 【松山刑務所事件】
和子が強盗事件を起こす前年の1964(昭和39)年6月6日、利権を
めぐって緊張関係にあった松山の暴力団「矢嶋組」と「郷田会」が、
組員同士の暴行傷害の応酬に端を発し、双方が猟銃・ライフル銃・
拳銃を撃ち合う抗争事件(「第一次松山抗争」)を起こします。
警察に連行される組員
(「サンデー毎日」1964年6月28日号)
この抗争事件で、双方の組員合わせて58人が逮捕され、そのうち
郷田会の会長と組員たち34人が松山刑務所の拘置監に収容されました。
その後、1965(昭和40)年12月27日の一審判決で32人に有罪判決が
下されますが彼らは控訴し、高松刑務所に移された郷田昇・郷田会
会長以外の組員たちは、引き続き松山刑務所の拘置監に残ります。
松山刑務所の刑務官(看守)が何をきっかけに暴力団員に買収され
たのか、ウィキペディアでは、時期も出典も書かれていないため確
認がとれませんが、「1人の看守が入所前から顔見知りであった被告人
に頼まれ、不正に手紙を投函し礼金を受け取ったことがきっかけ」
とあります。 この贈収賄の汚職事件の贈賄側で逮捕されたのは、郷田会長の妻の
多都子(ウィキペディアでの「被告人」)で、郷田会長が房内で禁じ
られているタバコを吸ったり正座の時間に寝ているなど、規律を守
らず自由に振る舞えるよう彼女から現金をもらい便宜をはかっていた
のが、看守の宮岡照雄(当時37歳、松山刑務所看守から逮捕時は大洲
拘置所看守部長)です。
のちに収賄容疑で逮捕され懲戒免職となるこの宮岡が、ウィキペディア
が言う「1人の看守」だと思われます。
こうして看守を買収し「弱み」を握った郷田会の組員たちは、汚職看守
の勤務時に拘置監の中を自由に歩き回り、飲酒・喫煙や花札賭博、
他の収監者からの領置金(日用品の購入のために囚人が施設に預けて
いるお金)の脅し取りなど傍若無人な振る舞いをするまでになります。 領置金の脅し取り
朝日新聞(1966年7月3日)
それにとどまらず、佐木氏が「66年3月初め、覚醒剤密売の28歳の
ホステス〔中島鶴子という名の、和子が「手記」で「30位の太めの女性」
と書いている同房だった人物で、同所に拘置されていた郷田会組員の
内妻〕が、30歳の看守を誘惑し、空いている房内で性交をした。これ
で弱みをにぎられた看守は、女子の雑居房に通じるドアの合カギを女囚
に渡した。その手引きにより、暴力団の組長たちが自由に出入りし、
ホステスと性交をした」と書いているように、組長らが性欲のはけ口を
求め、看守の手引きで女子房に入り込むまでになります。 読売新聞(1966年6月23日)
※福田和子への暴行には触れず
「デートの手引き」と書いている
朝日新聞(1966年6月23日)
*上の読売新聞と同じ日の紙面だが
「18歳の少女に乱暴」と書いている
「“狼の群れ”に送り込まれた」と佐木氏は書いていますが、
福田和子が入れられたのは、まさに無法地帯と化していた松山刑務所
だったのです。
なお、佐木氏が「30歳の看守」と書いたのは杉原章という人物で、
宮岡と共に松山刑務所での汚職看守の中心人物です。 朝日新聞(1966年7月8日)
さらに、看守の丹生谷文夫(同26歳)も、拘置されている組員の夫の
指示を受けた妻から現金をもらったとして逮捕され、この事件で懲戒
免職処分を受け、収賄容疑で起訴された看守は、宮岡・杉原・丹生谷
の3人になりました。
【贈収賄は形式処分、性暴力は封殺】
松山刑務所での贈収賄汚職による現場の無法状態が明るみに出たのは、
一つの事件がきっかけです。
1966(昭和41)年3月28日、新たに松山刑務所に着任した看守長の
梅崎元也保安課長補佐(同29歳)が、風呂に行く途中の郷田会幹部を
含む拘置囚6人から拘置監2階の廊下で暴行を受け、10日間のケガを
負ったのです。
それに気づいた看守30人が駆けつけ、暴行した6人を力づくで「制圧」
したのですが、その際に肋骨を折るなどの重傷を負った囚人が出たこと
から、6人が傷害罪で告訴されたのに対抗して、彼らの弁護人が「制圧」
に関わった看守を特別公務員暴行凌虐罪(警察官や刑務官など司法に
関わる公務員が、職務の遂行において被疑者・被告人に暴力を振るっ
た罪)で告発します。 そこで、松山地検が事件に関する取り調べを行ったことから、その
過程で贈収賄など松山刑務所の驚くべき実態が明るみになったのです。
事件は、梅崎課長補佐が、房内に禁止されているタバコがあるなど
拘置監内で不正が蔓延していることに気づき、問題解決に取り組もう
とした矢先に起きたのでした。
その後、梅崎課長補佐への襲撃は、不正の発覚を恐れた看守の杉原章が、
郷田会の組員に指図してやらせたものだと分かりました。
読売新聞(1967年10月5日) 杉原はまさに「墓穴を掘った」わけです。
信じられないような看守の腐敗と所内の無法状態が明らかになると、
当然ながらそれは大きな波紋を広げました。
まだ関係者への公式の処分が下されていない段階で、責任を感じた
現場の管理職が自殺します。
読売新聞(1966年6月28日夕刊)
6月28日、松山刑務所教育係長の大森常市副看守長(同52歳)が、
高さ50メートルのごみ焼却場煙突から飛び降りて亡くなったのです。
大森係長は、服役者を来島ドック大井造船作業所で働かせる、
「ヘイのない刑務所」と言われるユニークな更生の取り組みを推進
していた人で、事件の監督責任を感じての自殺と見られています。
6月末には法務大臣が、法務事務次官への異例の訓告を含め、事件に
関して「大幅処分」をすると発表し、7月7日と9日には先にあげた3人
の元看守に懲戒免職処分が下されました。
朝日新聞(1966年6月30日) しかし同月に、松山刑務所の現場の管理職がまた自ら命を断ちます。
朝日新聞(1966年7月24日)
7月23日に、保安係長の門屋茂副看守長(同52歳)が、「職員の
配置にも問題があったのではないか、職員間に不明朗な人間関係
があったのに耐えられなかった」と上司の名をあげ批判する遺書
を残し、刑務所内で首吊り自殺をしたのです。
刑務所の人員配置や人間関係に、上級幹部が関与する問題のあった
ことを告発する遺書の内容ですが、刑務所長は、「職員に休養を与
え精神状態の安定をはかりたい」と、門屋係長の自殺が疲労による
精神状態の不安定が原因であるかのようなコメントを出しています。
7月30日に法務大臣は、8月1日付で第二次処分をすると発表、最終的
に高松矯正管区と松山刑務所の関係者については、合わせて31人
(懲戒免職の3人を含む)が処分されて事件に幕が引かれることに
なりました。 朝日新聞(1966年7月30日夕刊)
このように、形式的には広範囲かつ厳正な処分が行われたように
見えますけれど、自殺した門屋保安係長が遺書で示唆したような
刑務所の上級幹部も関わる人為的あるいは構造的な問題について、
どこまでの真相解明と改善がなされたのでしょうか。
さらに納得いかないのは、福田和子が被害にあった房内での性暴力
被害について公的には問題として取り上げられず、後で述べるように、
法務省自身も事件化について否定的な姿勢を取り続けたことです。
このブログの「「悪女」福田和子の生涯(前編)」で簡単に触れましたが、和子は6月上旬の検察官の取り調べで性暴力被害について訴えています。 ところが、その数日後に刑務官を伴って面会に来た国選弁護人
(和子は私選と記述)から、「ここであったことはあなたの裁判には
マイナスになりますよ。あなたも早くここから出たいでしょう。
この書類に署名、捺印をしなさい」と言われ、和子は「検察官に騙さ
れていたのかと、あわてて署名、捺印をした」というのです(「手記」)。
署名したのが加害者の責任を問わないという「示談書」だったと、
まだ未成年だった和子は知りませんでした。 なぜこの弁護人が、和子の無知につけ込んで強姦事件の隠蔽工作と
思われても仕方ないようなことをしたのか、兵藤組長との癒着なのか、
刑務所上層部の意向を受けてのことだったのか、それとも……。
松山刑務所事件は、先にも触れたように、1966(昭和41)年7月15日
の第52回国会衆議院法務委員会で取り上げられました。
質問に立った日本社会党所属で弁護士の坂本泰良議員が、
「郷田会の兵藤組長兵藤卓也を手引きして、同刑務所内にある廊下伝い
の女囚監房に入り、兵藤は未決勾留中の十八歳の少女に乱暴したこと
がわかっておる」と述べ、政府の見解と対応を質問しました。 議事録によると、それに対して、津田實・法務省刑事局長(当時)は
次のように答弁しています(強調は小川)。
「在監者の間におきまして、先ほど申しました暴力団に属する者
であろうと思いますが、その者が女区へ出入りした間における当時
の未決の在監者との関係でありますが、(中略)当該関係事件につ
いて告訴等は現益存しておりませんので、その内容につきましては、
これはおそらくあるとすれば強姦等の事件だと思いますけれども、
告訴等が現存存しておりませんので、内容を捜査をいたしておりま
せん。ある程度の行き来はわかっておると思うのでありますが、それ
は結局告訴のない事実に属するかもしれない、その点については公に
することを差し控えたいと思います。」 性暴力が被害者からの親告罪だったこの当時のこと、事実を述べて
いるだけと言えばそうかもしれませんが、6月に弁護人が「裁判に
不利になる」という虚偽の口実で、本人もよく理解できないまま告訴
をさせないよう「示談書」に署名捺印させ、そのひと月後に法務官僚
が「告訴がないから捜査もしないし、この件について公にすることも
しない」と国会の委員会で述べている、この「タイミングの良さ」に、
なんの証拠もない話ですが、不可解さを感じるのは小川だけでしょうか。