ジークンドーとMMAを語るスレ
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ジークンドーとMMAを語るスレです
現代MMAにジークンドーがどう取り入れられているか?
ジークンドーの技術はMMAにどう応用できるのか?
なんでもどうぞ 前回は、天心は3ラウンドにはいってからあざやかな後ろ回転まわしキックを入れた。
今回は、1ラウンドで、瞬間クロスパンチだった。
宮本武蔵も、かならず、前回勝った技を使って、
次の勝負で、使わない。最初から頭の中で、前回勝った技を使わないということを
決めて闘っている。同じ技で、連続して試合に決着技として使用しない。
それは宮本武蔵の勝利へのこだわりである。
連続して、決め技をつかわない。宮本武蔵の本を読むと、試合において、連続して
同じ必殺技をくりだしていない。必殺技をもたない必殺技。このこだわりは厳しいが、自己の修行となる。 MMAの舞台で使うにはジークンドーの練度が低かったんだろうな
付け焼き刃で使ったってしょーもないなんてのはジークンドーに限った話じゃないだろうと思われる 使えるんだったらボクシングだろうがMMAだろうがチャンピオンクラスでも出てくるだろ 石井の技を見ていると、
なにかスキージャンプとか、飛込みプールみたいな感覚がする。
スキー台までは登ることができる。
飛込み台までは、上がることができる。
そこまではできる。ジークンドーの形は、石井のようにできる。
問題は、そこからなのである。
スキーで、滑走して、途中で台がなくなって、手を広げて飛んでいくときである。
どういう手のひろげかたをしたらいいのか、まったくのイメージなのである。
飛込み台から、足をはずして、どう自分の身体をクルクル回転させるのか。
ジークンドーの場合、相手に拳が当たったときの、後ろかかとの角度の入れ方。
ここに味がある。ここに妙味があるという感じなのか。
ジークンドーは、なにもない空中で手をバタバタさせている感じなのである。
その一瞬のどの角度かが、一番力が入っているのだろう。
全身の重力を一点化する瞬間を、身で覚える。
水になれ。鳥になれ。重力の中の重力一点になれ。ジークンドーになれ。 斯様にジークンドーを究めんとすると気色悪いポエミストになるのである 石井が模型の歯をなぐるシーンがあって、
グローブをはめて、なぐると一本も模型の歯は折れていなかった。
周囲は、あごをなぐっているから折れないよ。的をはずしていると言っていた。
石井が、グローブをはずして殴らせて欲しいと頼む。
そして素手でパンチを出したら、歯がぶっ飛んでいた。鼻の穴の骨まで折れていた。
石井は経験上、あごにパンチを当てたら、振動で、歯や鼻の骨を折ることができると
理解していたので、あえて、テコの原理で、アゴの突端をたたいたのだろう。
歯を狙って打つと歯に与えるダメージはそれほどでないが、アッパーなら上下の歯を全部折れると学んでいた。
あえて的をはずすストリート・ジークンドーなりか。無的有的ジークンドー。 王が、この世界で一番大事な文字はなんだと質問する。
一文字で答えろと言う。
「それは仁です」と返事する。
ストリートにおいて、「仁」が必要なのかどうなのか。
ストリートの場合、一文字を考えている余裕はない。
あえて考えるなら「境」だろう。心の境=ジークンドーの道。
ブルースリーだけが、ジークンドーの峠はここだと思って、そこに立ち、見渡したのだろう。
ブルースリー以外の人間が、この地点が、ジークンドーの峠だとは述べられない。
それを述べて実演しているのが、ジークンドー・マスター石井なのだろう。
自分が、拳とか、キックとかジークンドーと言っているときは、「それは仁である」と答えている感じで書いている。 天遊の詩人、李白みたいな拳法をしなければならない。
熊は咆え竜は吟じて
厳泉 殷たり
深林を慄わし 層巓を驚かす
雲は青青として 雨ふらんと欲し
水は澹澹として 煙を生ず
空中 天鶏を聞く 千巌 万転(=ジークンドー)して 路(ストリート) 定まる >>221
矢地選手や纐纈さんが素手でなぐれば頭蓋骨が吹っ飛んだか大きく陥没すると思うが。チビクンドーの石井はあれが限界だぜ。 矢地の動画に石井が登場して、
ワンインチパンチの意味を知った。
そして、ジークンドーは、ブルース・リーがカンフーの動きに、
フェンシングを取り入れたと説明していて、
あの動きは、フェンシングなのかと理解した。
矢地、纐纈の動きは、フェンシングの要素を取り入れたら、それは基盤的に成り立たないと思う。
何本の歯を折るかも大事だけど、
フェンシングの動き方をして、パンチを出し、歯が折れるかが、自分は動画を見ていて思っていた。
矢地、纐纈の動きで、フェンシングと戦うことができるのだろうかというところも気になる。
ブルース・リーのジークンドーは、フェンシングを相手にしても、
その攻撃を避けることも頭に入れている戦い方である。
石井が、忍者と対戦したけど、手に空想の武器をもって戦っていたでしょうというと、
相手が笑いながらそうですと言っていた。
ジークンドーは、相手がフェシングの剣を持っていたらという戦い方も想定しているのだと思う。 ラオウとケンシロウの戦いの中で、
二人は戦う。
ラオウとケンシロウが同時に拳を打ち合う。
そしてラオウも、もう一度、拳をケンシロウに打つ。
そしてラオウは、倒れる。
最初の一撃は、ラオウは、ケンシロウが、自分が死なないぐらいのパンチを入れることを
わかっていた。しかし、ラオウは、自分が最強と認めた男のパンチを受けて、
死にたかった。そのため、わざと二発目をケンシロウに打たせるために、
再度、拳をふるった。
このラオウの最強の拳を受けて死にたいという北斗神拳の壮絶さ。
拳に生き、拳に死に、拳に生きる。
ケンシロウは、その逆なのである。
拳に死に、拳に死ぬ。北斗神拳の伝承者は、厳しいのだと思った。 石井がキックで板割りをしようとしたが、うまくいかなかった。
ブルース・リーの動画では、キックで板を割っていた。
ブルース・リーの場合、板を持つ人間が、腕力があったので、
足が当たったとき、衝撃で割れた。
平良は、腕の力が弱いため、石井の足が当たったときに、板がはじかれてしまった。
もしくは、板にかかる重さがすごくて、平良が板を持ち続けることが
できなかったため、成功しなかった。
否、ブルース・リーの時、板を持っている人間の手から板がはずれていく瞬間の中にある瞬間で、
板をすでにキックで割っていた。板をもっている板がはずれていく時には、
すでに板は割れた状態であった。
板を持つ手の力の強さとは関係なく、ブルース・リーは、普通にキックで割っていた。
割れた板を手に持って立っているということは、衝撃は板だけに通じていて、
持っている手には振動が行かなかった。
テーブルクロスをひいても、水を入れたコップが倒れないようなキックなのかもしれない。 >>231
その理屈なら投げた板を割れることになる
それが出来るならパフォーマンスとしてやってるはずだ。
その映像が無いという事は板を持つ人間の力も必要という事になる。
ただ、存命だった頃のブルース・リーなら平良さんが持ってても割れた可能性は高いと思う。 パンチではできてたから、原理的にキックでもできるはず。
投げられた板でもタイミングが合えばできるだろうけど、片手で持ってる場合より難しそう。
キックはいつかリベンジしてくれるんじゃないかな。 板ってなんだよ
木材なんて星の数ほどあるだろうに
例えば、松やケヤキなんてそう割れるもんじゃないが
ファルカタ材なら女の子にも割れるわ
なんの板かも知らないのに割ったから凄いって
武道オタってこういう雑なこと言うから
バカなんだ 足場板らしいよ
2.5cmの厚さを2枚重ねて叩き割った たったの2.5cm?そんな足場板はないよ
乗ったら割れるわ 石井のワンインチをみていると、力士がワンインチを使ったらどうなるのかなと
思う。相撲は、木の柱に手を打つが、腰からねじるように腕を前に打ち出す感じなのか。
力士の場合、ワンインチを受けても、その力を体の芯で吸収してしまうだろうか。
力士のからだ自体が、練習用ミットみたいなものだからかもしれない。
そして、力士のからだ自体がワンインチになるのかもしれない。 ここの素人がなんと言おうと格闘家は実力は認めてるからなぁ どうして板を割らなければならないのだ。
薪(まき)を割るならわかるが、どうして板を割らなければならないのか。
次に板の次に、氷を割らなければならないのか。
どうして氷を割ろうと考えたのだろうか。
考えるのである。
ジークンドーと氷とどこに関連があるのだ。どうして氷を割らなければ、
ジークンドーではないのだろうか。
ストリートを設定しているから、もし、氷山でストリートが開始されたらを
想定しているのだろうか。氷の強度を確かめるための練習なのか。
するとケンシロウは、北斗のタオ(タオの海の中)そのものかもしれない。 >>242
YouTuberのコラボなんて褒め合う動画しかないだろ ある武術の書を読んでいたら、
このようなことが書いてあった。自分の一子相伝の書を
本にしたら、世間の評判が良かったらしい。
するとあっちこっちから手紙が来て、「先生、この間の練習を
教えていただきありがとうございました。生徒が喜んでいます」
とお礼の手紙が、郵便受けに来るようになったらしい。
おかしいな。自分は道場から移動することはないのに、あっちこっちから、
自分に武道を教えてもらったとお礼の手紙が来る。
つまり、自分の本に自分の写真をのせていないので、
あっちこっちで自分の名前を語って、武道を教えていることがわかった。
それから、次の武道書から、自分の写真を掲載するようになったらしい。 どうして板が割れるのか。
平良は、やりますよと言いながら、板の年輪に目をつけながら、一気に突いているのだろう。
もしくは板の中央に目をつけて、そこを突いているのだろうか。
一枚目の年輪と二枚目の年輪の模様が一致しないので、年輪を気にしないで、無の境地で、
打っているのだろうか。もしくは、すでに二枚の板は割れていると頭の中で描ききって、
そこで打っているのだろうか。石井は、床から、エネルギーを吸い込んで、それを拳に集めているのだろうか。
もしくは、周囲のカメラを持っている人間とか、横から様子を見ている人間とかの気までも、
石井の拳の指一本一本にエネルギーを集中させて集めているのか。
もしくは、小指一本まで、鉄アレイで鍛えているのだろうか。足のつま先一本一本までも鉄アレイで鍛えて
いるのだろうか。板に拳が当たる力は、板も拳に対して同じ抗力を発生させているので、
板を打ち抜く瞬間の全の力=全力は、石井の背骨一本一本まで走っているだろう。
ヨットが一本の柱で帆を支え、風の力を利用して進路を進航するように、背骨が魚の尾ヒレのように力を後ろに流しているのだろうか。
石井は打った後も、両足の位置に変動がない。 ある映画を見ていたら、
リーダーが、こいつを店の外につれだせと言うことになり、
男は6名くらいの男に囲まれて、道路に出てくる。
そこで一人で、囲んでいる六人の男達を、円を描きながら、全員急所攻撃のみで、
ぶっ倒してしまう。
石井の動画を見ていると、キックやフックを混ぜながら、急所攻撃をしているが、
映画の中では、キックやパンチをいっさい使わないで、腰をかがめて、
旋回しながら急所だけをつぶしながら、六名をあっというまに倒してしまった。
こういう使い方もあるのだと思った。
最初から腰から上の攻撃は、頭の考えから排除して、徹底的に急所のみに的をしぼっていた。
これなら、人数を心配しないで、すみやかに攻撃可能である。変に身体を上下に上げ下げしていると、
隙(すき)ができてしまう。動画では、ほぼ一発の急所攻撃を受けて、全員が痛くて、立ち上がれなった。
どつかれて意識が飛んだのなくて、急所が痛くて、腰に力が入らないみたいだった。 渡邊も石井もキモすぎ
女衒 坂口を利用して売名行為
渡邊なんて性格悪すぎて俳優として全く売れなかったから女衒坂口を頼ってキモすぎ 植芝盛平だったらさ、気でわかるんだと思うけど、
気の感応の修行は、まだまだということなんだと思う。
武蔵は、「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」
と武術畢竟の言葉を残している。
これが達人の言葉である。
「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」ということができなかったのだろう。
武の最奥儀「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」という言葉が、自然と
口からもれたとき、達人の域に達したのだろう。 園子温に女貢いでたり、
女優の卵の首締めて喜んでた
キチガイ坂口利用して
映画デビューの石井って最低なバカだな 平等とは、厳しさを意味する。
実は、平等という言葉が、一番厳しい言葉なのである。
平等だからこそ、厳しいのである。
人間は、誰一人、次に何が起きるかわからない。
それはある意味で、平等なのである。
誰か一人でも、先読みができる人間がいればいいのだが、
神は平等に先読みができない人間を平等に作られた。
厳しいのである。次に何がおきるかわかる人間がいれば、それは人間ではない。
そんなことがおきることをなぜわからなかったのか。
これがわかれば、拳法なんか習わないでも、武の達人である。 坂口拓のインチキパンチ動画の続きで
漫画ろくでなしブルースの作者に
対して 前田タイソン 殺したい
と坂口拓が喚いてる キチガイ場面見て
気持ち悪くなった。こんなキチガイ利用して売名行為に勤しんでる石井もクズだな ハッタリキチガイ親父 坂口拓のインチキパンチ 全然効かないんだが???
3回レスラーみたいなオッサンの腹に御自慢のウエイブパンチで殴ったが
まったく効かずに、イラッときて相手の顔面殴ったキチガイ雑魚
坂口拓ww精神異常者
https://www.buzzvide.../6802924088814731781
坂口拓は、真正キチガイ
漫画のろくでなしBLUES「前田太尊 殺したい」って作者の前で絶叫してる精神異常者
雑魚w 坂口拓 ブチ切れてレスラーの顔面 自慢のウエイブパンチで
殴っても相手は倒れずにニッコニコ
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm37132471 アクターと格闘家とは違う。海外の映画を見ていると、
ちょっとボクシングをかじったおっちゃんが、
監督が、君~ちょっとボクシングジムに通っているらしいね。
次の映画を頼むよ。ボクシングはリングにも上がったことがないのに、
映画に出演。役どころは、犯人から携帯電話が鳴る。
すぐに切れるのだけど、オトコはその一瞬の声だけで、
町中を探して、相手を見つけだす。その一瞬の声を記憶して、
相手を割り出す。映画を見ていてすごいなって思った。
相手を見つけて、お前だろ!ってなぐりかかる瞬間が、
な~んか、テレビで見るチャンピオンのボクシングより迫力があった。
つまり、ボクシングは、ヒョッコにもならないのに、一瞬の声を頼りに、
探し出す演技がすごかった。その映画から一躍トップスターの仲間入り。
ボクシングはできないのに、視聴者からのパンチをくりだすシーンの要望が
多いので、常にパンチを演技の中でみせる。
もう映画の中の人間と板についている。どのシリーズを見ても、見入ってしまう。
役者と実戦とは、まったく違うのだと思う。役者は、どれだけ漬け物みたいに役を漬けるかである。
武術家は漬けている場合ではない。相手を倒してから漬け方を考えればいい。
野郎は、漬けすぎ白菜役格闘家ということは、誰も知らない。
ブルース・リーの場合は逆で、本家が逆映画の中に入ってしまった感じである。 あるニュースを読んでいると、
テレビ局から飛んで来る電波をテレビでデジタル受信しているが、
家での電波の受信は、ややぼけているらしい。
すべての画像は、点(画素)の集合体である。あまりハイテックにすると、
風景の映像が、マンガみたいに線がはっきりして、逆におかしくなるらしい。
実物とはほど遠い人工的な絵柄となる。
ある程度、自然にならなければならない。テレビを作っている会社は、
うちのテレビはきれいに映しますと言っているが、受信する電波は、
家にたどりつく前に質や鮮度が落ちているらしい。放送局から送られてくる映像は、テレビに
届くまでに必ず劣化する。テレビ会社は、テレビがより強力に電波を受信する装置を開発しているのだとてっきりそう
思っていた。ないものは作れないらしい。つまり、悪い電波から、きれいな映像として
電波を作ることなんて無理らしい。ハイビジョンの映像を悪く映すことはできるが、その逆は技術的に無理である。
良い電波からは良い質の映像を映すことができるが、
悪くなった電波からは、それなりの画質しか取り出せないらしい。
画像を構成する一点の正確な位置がわからないからである。 そらそうだと思う。絶対に作れないらしい。じゃあなにをしているのか。
マジシャンが帽子の中からハトをいれておくように、テレビの中にハトを入れておけばいいと
いう考えをエンジニアは持ったらしい。
テレビ局が発信したその瞬間のデータを、
自分の家にたどりつくまでに劣化したデータを受信し、そしてテレビの中にある装置で、
この劣化したデータを分析させて、元のきれいな映像を推測させて、多分、このデータは、
元はこのきれいな色のデータだろうとテレビの中で、その劣化した色のデータが、このきれいな色の
データだったと認識して、自分の家のテレビの画面に映し出されているのである。
つまり世界中の映像は、すでにテレビの中に貯められていて、それを変換しているのだそうだ。
入ってくる映像と同じ映像を、前もってテレビの中に入れておいてあるのである。
建物でいえば、あらゆる部署があっちこっちにあるが、それをきれいに通路で合わせるみたいに、
テレビは整理しているらしい。それを六階建ての建物のように一階の上に二階のデータ室を乗せ、
さらに二階のデータ室に上がってきたデータを三階のデータ室に乗せ、順番にデータ室を六階まで
積み重ねた状態を、テレビの内部で作っているらしい。
これを石井ジークンドーで考えれば、創始者ブルース・リーのジークンドーを
石井データ六階データ部屋が縦に積まれている状態なのだろう。六階の石井ジークンドー・データ室内には、
ハトでなくて八咫烏エンジニアが居て、コントロールしているのだろう。 >>261
ごめん、ちょっと何言ってるかさっぱりわからない 手品師が帽子に石を入れたあと、その帽子を開けると石はなくなり、
代わって鳩が飛び出す。
箱には前もって鳩が隠されていたのである。
受信した劣化した電波の色があざやかな色になるように、
装置に学習させて、色のデータをよみとり、テレビの中でつくりかえている。
以前のテレビは、家に届くまでに劣化した電波を、そのまま色に変えていた。
現在のテレビは、届いた劣化している電波を、元のあざやかな色は
こうだったのではないかと推測して、それを顕出する機能がついている。
対象となった実物の映像の波形と関連性のある対象のあらゆる物体の色のパターンを読み出している。
テレビの中に、あらゆる色の組み合わせができるように、すでに映像のデータがあり、
それを取り出して画面に映しているだけなのである。
テレビ局から家まで届く電波を強力にとらえる力がテレビがもっているわけでなく、
電波が届いてから、テレビの中にある装置が、元の色はなにかと推測して、組み合わせて、
色付けをしているのである。トラの模様と、このドラマの家の家具の模様の境は似ているので、
混ぜてしまおうと絵描きみたいなことをテレビの中でしているのである。 あっちの物体の色、こっちの物体の色、あらゆる物体がもつ色彩を組み合わせて、
よりそれに近い色を作り上げている。欲しいのは、テレビ局の大きなアンテナから発信された、その瞬間の
データをそのまま受信できる強いテレビのアンテナなのである。
家に届くまでに劣化したデータを、元のすぐれた色に加工、編集する推理する装置の力を
テレビに求めているわけではない。ブルース・リーのジークンドーの教えを知ることにおいて、
テレビ局の大きなアンテナから発信した電波データを直接、感じたいという感覚といえる。
そのブルースー・リー自体が、自分が受信したジークンドーという概念の元のジークンドーの核に
1ミリでも近づきたいと思って練習していたのだろう。テレビ局の上に立っているアンテナより、
そのテレビマンが手で動かしているカメラのレンズに目を近づけたいという感覚につながっていく。
ジークンドーの場合、目にたんこぶができるかもしれないが。 北斗のケンシロウの場合、
頭の中が、帽子の中のハトのようになっているのだろう。
ケンシロウが目でとらえた石は、
ケンシロウの脳では、それを鳩として、外に出している。
その鳩は、すでにケンシロウの頭の中に隠してある。
ラオウの技を受けるとき、そのままラオウの技をうけているのではなく、
ハトという北斗の技を出している。
ただ帽子の中でじっとできるハトではいけない。
そしてさあ、目を覚まして、はばたきなさいと言うと、はばたかなければいけない。
この呼吸が難しいのだろう。うちの作ったテレビは画像がいいですよというのは、テレビ局の電波と呼吸があうということなのだろう。 石井のヌンチャクの動画をみて、
練習中、自分自身に当たることもあるんだろうなと思ってみていた。
多分、練習していく間に、絶対にヌンチャクが自分に当たらない軌道があることに
気付くんだろうな。わからないけど。
ブルース・リーの場合は、ヌンチャクが相手に当っても、
戻ってくる軌道に変化がない。
軌道が変わらないほど、当たった相手の軌道が変わるだけで、
ヌンチャクの軌道は微動たりともしないぐらいの隕石ぶち当たり状態なのだろう。
ヌンチャクが相手に当っても軌道を変えてもどってこないほどの回転力をふりまわす腕の力が
必要なのだろう。相手に当たるたびにヌンチャクの軌道が変わっていては、武器にならない。 石井ウンコ
他流試合じゃなくて 触りっこしてるだけ
ガチで殴り合えよ 雑魚。 ジークンドーを考えると、悩む。ブルース・リーはジークンドーをどこまで進化させたかったのか。
ブルース・リーは自分で勉強し、いろいろな技を研究し、
そして自分がこれだという技を残して、集めてジークンドーにした。
この間のテレビのニュースでは、
テレビを帽子の中の鳩であるといっていたエンジニアが問題にしたのは、
「デジタル化」はアナログの置き換えではない。
これをブルース・リーのジークンドーに例えると、
新しいジークンドーは、アナログのジークンドーの置き換えであってはいけないと
語るだろう。ブルース・リーのしていた頃のアナログ的ジークンドーを守りつつ、
新しいジークンドーの技も取り入れて行く。それがデジタル化ジークンドーであろう。
それはアナログ的ジークンドーの置き換えであってはならない。
するとアナログ的、保守的な流れをくまないジークンドーの技を見つけなければならない。
アンログの置き換えでない新しい技を見つけてきて、ブルース・リーに見せて、
うなずくか、どうかなのである。 アナログ的置き換えではだめだと言いながら、
ジークンドーの流れを走っている技でなければ、ブルース・リーは顔を縦にふらないだろう。
しかし、アナログの置き換えでないデジタル技を見つけてきて、目の前で披露して、
師匠、どうですかとたずねて、ブルース・リーがにこっととして、指で
自分の胸をさし、「感じろ」「それはいいだろ」と言えば、ジークンドーの技に含まれる。
すると、個人個人が持つ心の中のブルース・リーのイメージで、ジークンドーの技が含まれていくことになる。
ブルース・リーがうさぎのようなフックをみせて、すぐに背後に回って、
相手の耳の後ろに指をさすような技を教室で伝授するのだろうか。
ジークンドーは、ストリートの達人ということであれば、そうなのかもしれない。 ブルース・リーが、
天下一武道会が開催される島に向かうために、木の船に乗り込む。
ここが不思議である。香港で生活していたため、木の船が身近な存在だったのか。
あるいはブルース・リーは宮本武蔵の本を読んでていたため、
巌流島の戦いを再現したかったのか。
易では「混沌」を太極として捉える。つまり、ブルース・リーが島に向かう前の
心境は、「混沌」である。ここでジークンドーのマークが現われる。
戦った後は、勝利か敗北か、決着がついているので、それは「混沌=太極」ではない。
そして小舟は、木で作られているから易の中の木気を示すのだろうか。
小舟は、乾いた木で作られているから、乾の卦を示しているのである。
「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八卦の中の乾を示している。
そして、龍は、乾為天をつかむということなのか。
太極ができた次には、天地乾坤の二元の派生を説く。二者が、戦う。
子即混沌、陽気と陰気として相混ずるところ、万物の萌(きざ)すところ。 ブルース・リーのジークンドーのマークを見ていると、
ブルース・リーはツキを重視していたのではないかと思えてきた。
目に見えない何か、目に見えない動いているもの、それはツキといえるかもしれない。
ジークンドーとは、自分の身体をコントロールする訓練ともいえる。
最終的に、最終ジークンドーとは、自分をコントロールすることで、
技を操る術である。自分を操る力を身につける訓練である。
ブルース・リーの哲学は、自分を操れる人は、ツキさえ操ることができる。
そこに究極的に一人、武の峰に立って、ジークンドーを開発したのかもしれない。
石井が弟子と水鉄砲を使って練習しているのを見て、そう思った。
石井が氷の板を割るより、必死な構えで水鉄砲の水を除けていた。氷より流れる水に向かって闘志を燃やしていた。 和辻哲郎「風土」に従えば、
日本人はモンスーン風土的な心をもち、温帯性低気圧的で台風的な性格を
身につけるようになった。日本人の心は両極端の状態を
いったりきたりして、安定線上にとどまることを知らない。
日本人は、荒々しく制御しがたい力をだまって耐えしのび、
禁欲的(ストイック)に服従する美徳をもつ。毎年、台風が上陸することにより、
受け身へ導かれ、忍耐強くまつことを自然と学ぶ国民性がある、と自分の意見を述べている。
台風の道となっている地域の武道と、台風が通過しない地域での武とは、
やはりどこか違うのかもしれない。
なんとなく日本的な武道とは、受忍後の攻がある。台風が過ぎるのを家の中でじっと待つように。
黙って相手の攻撃を受け続けるみたいなところがある。相手が攻撃しかけられたら、同時に攻撃する
武が海外では多いが、日本的なのは、相手の攻撃中は、こちらは防御に集中する。
攻撃側になったら、相手は今度は防御の構えとなる。
海外では、なにも言われなくても攻撃即攻撃するのだけども、日本はなんとなく、攻撃即防御の防御で、
攻撃をしなさいと言われて気付き、攻撃を開始するところから学ばなければいけないところがある。 >>248
そりゃ映画の殺陣なんだからそれぐらいできるでしょうよ。武術だとは言ってるもののブルースリーの物真似って感じかな。でも長年のブルースのファンだった物の目から見て石井はよーく真似してると感心する。物まねのレベルはかなり高いと思う 石井が、相手の手の動かし方、
そして足を前に出し、後ろ足をやや斜めにするとかの説明したら、
教えてもらった人が、急にブルース・リーみたいな動きになっている。
石井がワンインチパンチを伝授しているとき、
ワンインチパンチに回転を入れると、さらにパワーアップするよってアドバイスしていたが、
回転させていると、それだけ相手に当たる間があくのではないかなと思った。
パワーがあるほうがいいのか、なるべく当たる時間を短くしたほうがいいのか、難しい。
自分としては、回転より、速く突くほうを選びそうである。
スクリュー式ワンインチパンチを一回当てるより、真っ直ぐなワンインチパンチを速射砲2回当てるほうが
いいと思う。ジークンドー・マスター石井は、一撃でワンインチパンチをきめたいという思想があるから、スクリュー式を推奨しているのかもしれない。 ワンインチは本人が言ってる通りデモ用で実践用ではない
だからスクリューで正解 コルク栓を抜くようにスクリューが大事なことが理解できました。 テレビで芸能人が言っていた。
基本的に、自分の生命を粗末にしないで生きていくことを第一義に置いている。
第一義なのか。第一義においているのか感心して聞いていた。
だから、最悪の状態を未然に防ぐことが最優先だ。
死んだら元も子もない。元気で充実した人生を送るためにも、ぜひ活用してほしいと
言っていた。
ジークンドーの場合、未然に防がなければ、
自分が逆に相手に死を与えられる可能性があるかもしれない。そうなると、
二回目のパンチで倒せばいいかなと思っていると、自分自身が死んだらそれも、元も子もない。
最初に一撃することが、結局、自分の命を粗末にしないことになるのかと思った。
ラオウは常に、それを想定して鍛えていたが、ケンシロウに破れたのか。
ケンシロウの拳は、未然為未然の拳であった。 未来は、きちんとワンインチパンチのように、
足を運んでいた。前足と同時に後ろ足をやや角度を
かえていた。あの状況から、メイウェザーの背後にスッ(SU)と回る。 北斗神拳、南斗聖拳があるなら、
西斗神拳、東斗神拳がなければならない。
すると西斗月拳が登場している。
西斗日拳も登場していた。 タクちゃんねるで
ヒロ渡邉が纏絲勁(てんしけい)をみせていたが、
あれは耐えられない気がする。
一気にハチの巣からハチが飛び出し来るような気のねじれのパンチだな。 石井と平良の試合に向けての戦いをみたら、
矢地の動画に突然、現れたときと違い、なにか、
合気道プラス1(=プラス ワン)みたいな感じに見えた。
相手に接近するのはジークンドーの動きで、
近づいたら、足と足で合気道的に技(プラス ワン)をかけるみたいな、足技のみ合気道
みたいだった。夜空の星がクロスするように、相手の足と自分の足をクロスしていた。
エジプトのピラミッドの夜空で、星がクロスして、守護者スフィンクスの翼が羽ばたくような石井の足技であった。 海と石井がジークンドーで戦っていたけど、
前回に比べて、海はジークンドーをマスターしていたような気がした。
最後にワンピース・ルフィーのような伸縮自在の腕によるパンチが出てきた。
海は会場で警棒をふりまわしている人間を取り押さえたからな。
やはり石井のジークンドーを学んでいるだけあってうまかった。
感心した。もう少し暴れていたら警棒を取り上げて、そして海は
青い空から重力に合わし腕をおろす感じで、相手の胸に対しワンインチパンチをするんだろうな。 たくちゃんねるにヒロ渡邉が登場しているが、
あの技を出されたら、どうしょうもない感じがする。
天穴を押さえるなんて、想像もしていなかった。
穴所に対しての攻防コンビネーションが絶妙である。
気血エネルギーをくるわせて、戦闘能力をなくさせる技であった。 なんでもいいからパフォーマンス以外で魅せてほしいな
どうせルールガーって言ってなんの試合にも出ないんだろうけど 矢地の試合を見た。あのような試合もいいと思った。
いろいろな技を修得しているが、小技をみせない戦い方。
ジークンドーの技を知っているが、使わない。
正攻法のレスリングをする。しかし戦いの場、実戦の場、試合の場で、
持っている武器をあらゆる場面で使わなければいつ使うのだろうか。
さやに入れたままだとすぐに刀は錆びてしまう。
覚えた技は、すぐに使ったほうがいいだろう。
しかしそんなにはやく錆びてしまう技なら、それはジークンドーとはいえないだろう。
矢地が学んだジークンドーは錆びない。 ブルース・リーが言う。
拳を突き出す時、拳をただちに防御の姿勢に戻す。
しかし、この際気をつけなければならないのは、腕を引くのではなく、
自然に腕の力がぬけて戻る感じで引き戻すのでなければならない。
ちょうど平良が、試合終了の笛を聞いて、自分のコーナーにもどるときのような、
あの腕の力を抜いている感覚を試合の中での拳の突き上げ、突き戻しに使うと
いいかもしれない。 ここのスレ下にいくほど純度の低い文になるのはそういうもん?
それはさておき文に変換時点で少なくとも事実とは純度が離れてしまうのは必然、また複雑なため嘘や真実は再現なくわからなくなる。
しかし残酷なことに火のないところに煙は立たない。ここは嘘を嘘と見抜くなんてレベルをとうに越したところまで絡まっていると少なくとも私は見る。
ここで苦しい人はいないか?苦しいなら一度全ての事象を平等に見るが吉。
ここの全てをならべてみよ。それはもう快感だぞ。
私はここにある無神経さは憎いw
仕方ないことは知っているがいかんせん人だからなw
1人勝手に気持ち良くなってやる。
どうだこれは強そうだろう。 意識の進化が先行する。
事件や出来事よりも、意識の進化のほうが先行して起こる。
この考えでいくと、新しいジークンドーの技が編み出されて、
そして新しいジークンドーの考えが現われるのだろうか。
そうではなくて、
ジークンドーに対する意識が進化して、
そして、次に新しいジークンドーの技が編み出されてくる。
新しいジークンドーの技を身につけたとき、そのとき、新しいジークンドーの技が
開発されたのではなく、すでにジークンドーとしての意識が進化されていたと
考える。
ブルース・リーがヌンチャクをもって、ヌンチャクを振り回す技を見つけたのではなく、
すでにブルース・リーの内部にあるジークンドー意識が進化されていたと考えるべきであると
思った。ブルース・リーがヌンチャクで卓球しようと思ったのは、
すでにジークンドーの意識が進化完了していたのである。
リーがヌンチャクでボールを打った後で、ジークンドーに対する新しい考えができたわけではない。
常にジークンドーとは、他の武技と違って、意識の進化が先行する武技の道なのである。 石井が、瓦割を片足を上げたままの状態から、
ワンインチで割っていた。
腰からしたがわの力をまったく使わないで、割っていることなる。
拳の衝撃だけで割っている。
板と拳が当たっている小さな面積だけで衝撃を与える。
野球のバッドで言えば、遠心力的一点拳なのだろう。
バットを持たないで、拳を振り抜く感じなのだろうか。
矢地は、日が明けるのは近いぞ。早いぞ。 試合を見ていると、
ランダム的なパンチが飛び交い、ケリのランダムをくらうと、
倒れてしまう。先を読んではじめたつもりでも、リングでゴングが鳴り、具体化していくにつれて、
見えなかった試合運びロスが出てくるものだ。あとで気づいても、そのときではもう遅すぎる。
相手に自分の動きを制されているのである。試合を観察していると。なぜなのだ。
ジークンドーの練習をしていたのに。
相手のランダムの性質を読むことがジークンドーなりか。
左を制すものが世界を制す。
ランダムの性質を制したものが、ジークンドーを制す。
なりか。ジークンドーとは、ランダムの性質を試合中に読むことなりか。 レストランに行く。
そしてメニューを選んで、料理が来る。
食べる。料理を口の中に入れて、脳があれ?味が違うぞと感じる。
イメージしていたのと味が違うと、脳があれ?っと瞬間に思う。
料理番組でも、芸能人がいろいろ会話をしながら、説明を聞いて、
料理を口の中に運んだとき、ものすごくとけるとか言う。
思っていた感じと、イメージが違うのである。
ところが、ホームセンターで道具を購入するために、手に取る。
脳は、いろいろと思索を開始する。脳は、味わうことはない。そこには味覚が存在しないからである。
宮本武蔵は、食事中にはしで飛んでいる虫をはさんだといわれている。
これは、虫の目を見て、瞬間的に動きをつかんだのではなくて、
味覚的に武蔵はランダム性ではさんだのだと思う。道具を手にする感覚ではないと思う。
ジークンドーの攻撃を受ける感覚は、こういう違った感覚なのだろう。
武蔵にとって、人間の動きは、虫が大きくなっただけという感覚で、自分の足を移動させた。
相手は、道具を選ぶ感覚で戦う脳を動かしたのだが、武蔵は、手の感覚でなくて、脳の味覚的、味的感覚
二本の刀を同時に振りおろした。だから相手は、自分が斬られたという感覚が生じていない。
ジークンドーの技を受けている感覚を動画で見ていると、いつもみんながアレという感じをだしている。 >>294
ちょっと何いってるのかわからないんですけど ヒクソンと船木が試合をしたけど、
ヒクソンが腕を緩めても、船木がリングの上で意識を失っていた。
なのに、ヒクソンは近づいてきて、船木の背中をけりとばした。
試合後、どうして結果が出ているのに船木をけったのですかと質問したら、
船木の意識を取り戻すために背中をけったと言うのである。
ヒクソンのけりは、意識を失わせるけりと意識をとりもどさせるけりの
二種類があるということである。
ワンインチパンチの進化系は、意識をとりもどさせるパンチができるようになったら、
意識を失わせるパンチができるということである。
相手を気を取り戻せるパンチを当てる瞬間に、脳のスイッチを相手が気を失うパンチに変えるという感じかもしれない。
すると相手は気を失ってしまう可能性があるので、あくまで相手が気を失わないパンチを打っていると脳に
信号を送る。
石井が相手にミットをもたせているのは、こういう感覚なのかもしれない。 石井が胸をたたいて、そのはじかれた拳をそのまま
おでこに向けて当てていくと教えていた。
この相手の胸からはじかれた勢いをおでこを叩く力にもっていくことが大事であると
説明している。
簡単そうで、難しい。たたいてその反動がうまく胸から頭に、拳の先にその力をためたまま
運んでたたくことが可能なのか。胸からおでこに腕が運んでいる間に、その拳の先に先ほどの胸の反発力が
残留したまま、力の転移をすることがジークンドーなりか。
ジークンドー・マスターのみが達する世界、悟達の世界といえる。相手の胸を叩いて、その反動の力までも拳にのせて、
さらにワンインチパンチをくりだす。ジークンドーマスターのみが辿りつける世界といえる。
この理論でいけば、相手のふとももをけった勢いで、その反動力も、足のつまさきにのせて、次のワンインチキックすべしと
いうことなのだろう。 「絶対にオープンフィンガーの方が危ないですからね」
平本が言っている。
未来とメイウェザー戦について。
グローブをつけたのと、つけていないのと違いがある。
未来はグローブを相手がつけていたので、ダメージは残っていないと平本は解釈している。
まだまだ戦えていた。
日頃、オープンフィンガーで戦っているものが、グローブでなぐられたからといって
ダメージがのこるわけがない。
ここがわからない。5階級制覇をしたメイウェザーのパンチはグローブをつけているから
効かない。平本は生徒のみんなに言うのだろう。「グローブをつけているから効かない」って。
こういう感じなのかもしれない。波動パンチを胸に受けることも。
まず、頭の脳の抱く技のイメージと実際に胸で受けて、受けた胸の気持ち。
胸が信号で脳に、痛いよって伝えてから、脳が痛かったのかと反応する。
つまり痛みの信号が、当たってから電車のようにゆっくりと次の駅に向かう感覚なのかもしれない。
それが拳のままだと、それを目で確認して平本の脳と胸は同時に痛いぞって即反応する。
これをジークンドーの反射ステップに活かすべきだろう。然り。 真の武術家と武術家の違い。
それは松竹梅という流れを戦いの中で持っているかということだろう。
松で始まり、竹で試合の流れをつかみ、梅で、相手を取り押さえる。
ボクシングの場合は、この松竹梅の拍子がないのである。
松松梅とか、梅松松みたいな試合の流れがボクシングの戦いみたいなのである。
宮本武蔵の場合は、松で始まり、そして竹を見て、そして梅で決着をつける感じである。 見ての通りコロ助は糖質ナリ。
お手柔らかにしてあげてナリ。 武道の極意は、守離破なのだが、
その上の拍子として
松竹梅を考える。 ブルース・リーは二元式ジークンドー、
タオの印を道場に飾っている。陰陽のマークである。ジークンドーは動であれ、静であれ、動の中の動があり、
動の中に静があり、静の中に動があり、静の中に中静がある。
アウトストリートの中に、インストリートもあり、インストリートの中にもアウトストリートがある。
野球でいえば、前を走っている走者を追い抜いたら、アウトであるルールである。
普通のスポーツでは、前の走者を抜くことが大事なのに、ベースボールではだめなのである。
ルールで縛られた競技である。ジークンドーはそのベースボールの逆で、いかに自分の頭の中にあるルールを解除していくかという
競技である。頭の中に存在する概念という前走者を抜かなければならない。
ストリートとは、そういう戦いなのである。一方で、ジークンドーはタオのように、
徹底してルールというものを固めていく。足のステップの幅、向き、タイミングの間の抜き方など、
徹底的に固めていく。そして解放していく。そして解放から集約する。集約の中にある解放。解放の中にある集約。
ラグビーは、集約型の中の集約型の技の錬磨ともいえる。
いかに相手に集約的体当たりができるかという集約中集約なのである。集約中解放だと相手を解放したら、走行しながらボールを味方にパスされてしまうからである。
ジークンドーには、味方にボールをパスする秘技は必要ない。ボールは、自分でもったままでいいのである。
誰にパスをする必要がない。それが奥義であり大事な哲学である。ヌンチャクは自分の手でつかんだままにしておけ。 超絶・最強メッソドというのはあるらしい。
書を書いて気功を行い、文字を飛ばす書道気功による攻撃。
強力な気を持つ物体の粉末を墨汁に入れてパワーアップさせる。
そして拳を突き出すと、目に見えない拳が相手に向かって飛ぶ。
炭火の前で踊り、円を描き、火のパワーを吸収する炭気功による攻撃、
ありもしない匂いを出現させる香りの香気功による攻撃、
こうした気功は、普通の武術気功から見ると非常に神秘的である。
とはいえ、武術気功法の奥行きを考えるとき、決して等閑視できないものでもある。
ワンインチパンチの一点集中力の進化系ともいえる。 石井が「旅が始まったばかりだ」と言っていて驚いた。
石井のワンインチパンチを動画で見て、その使い方を天心、海、矢地に教えていた。
手を上に伸ばして、下に軽く降ろす。ミットの響く音がよくなってきたよ。
それを見ていて、術の旅は完走したと思っていた。もう何も学ぶ必要はない。
これだけ学べば良いと思っていた。石井がジークンドーはブルース・リーが世界中の武術を調べ、
その中で、これは大事だという技をブルース・リー自ら選択し、
われわれに教授してくれたものである。
この自然の石をみて、彫刻家が石を削るように、世界中の武術という自然岩からジークンドーという流派を
ブルース・リーが彫り出したのであると言っていたから、これがブルース・リーの武芸旅の到着地点かと思っていた。
ところが、石井は、毎日が「旅が始まったばかりだ」と言って気合を
入れ直している。これから、旅が始まるのかって驚いた。もう旅行の目的地についたばかりで、
あとは観光するだけでいいと思っていた。矢地の動画に登場してからずっと、目的地についていたと思っていた。
現地についたなって思っていたら「旅がはじまったばかりだ」と言われて、びっくりした。ジークンドーは終わらせる究極の技だと思っていた。
ストリートで相手を終わらせても、ジークンドーの旅ははじまったばかりだということになるのか。 イメージとして、
北斗のケンシロウのイメージが強いと思われる。
町を救ってくれた方のお名前を聞かせてください。
「ケンシロウ...」
あなたの名前をこの道の名前とします。「ケンシロウ・ロード」。
自分の名前が道として残るくらいの武芸は大事だと思う。
奥義というのは、不思議なもので、奥義を教えてもらった途端、それは奥義でなくなってしまう現象が
起きる。
しかし、それが奥義でなくなった途端、それは奥義となる。
資料とかでこれが奥義だって書かれてあって、当時は、これがようやっと奥義を手に入れたと感動する。
しかし、数年後、その技を自分のものしてしまうと、同じ手本を見ても、
それは奥義には見えない。見えないということは奥義が通常技となってしまっているからである。
奥義が通常になるまで練習して、通常になった奥義となる。すると通常になる前の技をわすれてしまって、
それを師匠に教えてもらうと、それが奥義となる。それを練習すると、最初の奥義のコツをわすれてしまう。
今、一番練習している技がすなわち奥義である。日頃、練習していない技が、奥義として活躍するのだろうか。
日々の練習こそが奥義であり、今こそ奥義を使うときだと思う時に、体が反応できなかった場合は、反奥義となる。
クレベルの試合を見て、反奥義でダウンしたと思われる。 スポーツと武芸は違うような感じがする。
マイケル・ジョーダンのバスケットの奥義、
メッシのサッカーの奥義、
武芸の奥義とは違う感じがする。最奥義の場合、
北斗と名付けられているので、星の配置と関連性があると思われる。
マイケル・ジョーダンのバスケットの奥義、
メッシのサッカーの奥義には、星の配置と関連性はない。
ただコートの中で競う合うだけである。
ラオウとケンシロウは、時間はたくさんあるのに二人は戦わない。
しかし夜空の北斗を見て、一瞬輝くのである。戦うときが来たと。
ケンシロウは、秘孔をただながめているだけでなく、夜空の星の輝きの配置を見るように、
何かを見ているのだろう。夜空の星の配置を見て、なにを語っているのかわからない。
しかし、何を語っているのかわかるようになったとき、拳に北斗の妖精が宿るのかもしれない。
そして相手の人体に星の配分と変化を読むことができるようになるのかもしれない。
達人の域である。拳にすべての力を、集めると言っているが、まさに全宇宙の星を一ヵ所に集めるような
集中力を拳という一つの全宇宙に集中しているのかもしれない。
ケンシロウもラオウも本当に一身に体全体の力をぐいぐいと拳一つに集めているのかもしれない。
そして耐えるほうも一身に力を胸板に力を凝縮させているのかもしれない。 ジークンドーと映画の中のブルース・リーの動きがなんとなく
違う感じがする。ブルース・リーの映画の中の動きが陽のジークンドーとすれば、
道場での動きは、陰のジークンドーだったのかもしれない。
映画の中の動きも、道場での動きも、両方がジークンドーなのかもしれない。
両方が影響を与えているのかもしれない。
宇宙には二つの太陽を持っている惑星があるかもしれない。
ブルースリーのジークンドーは、二重の星からの引力を与えられた惑星におけるジークンドーの動きなのかもしれない。
三つの太陽を持っている惑星なら、それに対応したジークンドーなのだろう。
地球なら、太陽と月の影響を考えてのジークンドーなのかもしれない。それをふまえてのジークンドー・キックなのだろう。
月で戦うなら月でのジークンドーの姿がある。ケンシロウが夜空の北斗をながめているとき、もし北斗の星の地表で
ラオウと戦ったならばと、その戦い方法を思考していたのかもしれない。月には28の姿がある。
北斗の構えも、28曜の姿が円を描くように存在する。 グリーン・ホーネットと違って、
ドラゴンの映画に登場するブルース・リーは同じラインのようで、同じではない。
グリーン・ホーネットのときに比べて、
ドラゴンの映画は、カンフーを前面に打ち出している。
徹底的にカンフーを押し出している。映画を見ていると、あらゆる武術の中で、ブルース・リーが獲得した
武技、すなわちジークンドーが最高峰であるというラインなのである。
いかなるジークンドー、カンフー以外の武術が、そこに入ってくるような溝はまったくない。
完全に塞がれている感じである。完全に塞いでいるのである。
ところが、映画の撮影現場以外のところでは、新しい武技を探して、研究熱心なのである。
ここが難しいところなのである。映画の中のジークンドーは完璧で、これ以上進化しようがないほど進化の極みが
ジークンドーなのである。ところが、映画の撮影時間以外は、新しい武技を探し求め、
さらに進化させようとブルース・リーの意識が進化を求め続けている。
そしてその技を映画の中で使うと、また次の新しい技の研究に突入する。
そして次の映画に使う。映画の中で発表しない武技は、道場の中だけの身内にだけこっそりと教える。
道場で、ブルース・リーが、この技を取り入れたらと言ったときから、それがジークンドーの技のレパートリーとなる。
そしてもしブルース・リーが生きていたら、この本に書いてある技もブルース・リーは喜んで取り入れただろう
と推測して、これもブルース・リーが推挙したはずの技であり、今日からジークンドーの新しい技として仲間入りしましたという
ことなのだろう。つまり教える側の頭の中にいるブルース・リーが、すべての源になるのである。
そう考える。教える側も、教えられる側も、お互いの心の中にいるブルース・リーが共鳴してこそ、ジークンドー道場は成立するものなのだろう。
道場の先生は、相手の心の中に存在するブルース・リーも、同時並行で鍛えているということなのだろう。
本人も鍛え、そして本人の中に存在するブルース・リーも強くしていくことで、本人も、仙人の住む雲がかかる山頂で、キックができるようになるのだろう。 ヒロ師匠が拳を突き出す前に、
なにか作法みたいな動きをしてから、パンチを出していた。
神を降ろして、撃ちましたと言っていた。
神を降ろして、打つ。
ヒロ流は、拳に縦糸が十分に織り込まれている武なんだと思った。
この縦の糸の波動伝達度は速くて高い。
この縦糸は神界から垂れさがり、神界に吸い込まれている。
この縦糸を神道といってもよいだろうし、日本精神といってもよかろう。
縦糸を伝わって、他者と交通する。
拳の先に神霊の縦糸が、そこから現実界に通じている端子となっている。
この拳の先にある端子は神界に通じているため、相手の腹の中で右旋、左旋のうずめとなっているのだろう。
この端子は永久でなければならない。さればこそ、それは拳は石のようにつよくしなければならない。
石を神として祀り、石に神が宿るからである。
石拳、鉄拳、柔拳が縦糸の端子となり、それで相手を打つ。キックする。 がまがえるは、両眼の辺りから幻覚作用のある毒を分泌する。
これがガマの油の正体。
大阪夏の陣や冬の陣で負傷した兵隊の傷薬として使われたらしい。
ガマの油が幻覚を作るらしい。
忍術は、ガマの油なのかもしれない。 アサガオも幻覚をつくるらしい。
アサガオの種は食べてはいけないらしい。
なんとなく身の回りの草花は、人間にとって幻覚を発生させるみたいだ。
ブルース・リーが、たくさんの鏡に囲まれた中で戦ったのは、
自分の幻覚においても、ジークンドーで
破らなければならないということを意味していたのかもしれない。
実際にブルース・リーは幻覚の中で、多元なジークンドーの技の練習を
していたのかもしれない。幻覚の霧に囲まれた脳の中で、己の直感は迷わせず、
相手の動きをつかみ、己の技を的確に打つ。 前回の動画で、なんかジークンドーの生徒さんが、
なんか手を上げて、手相占い師になりましたとか言っていたような感じであった。
ふーん、ジークンドーの練習もして、家で手相の本を買って、読んで、いろいろな手を見て
修行されていたんだなとか思っていた。
もしかして、石井はその生徒さんに今回、
手相をみてもらっていたのか?なんか、将来的には、道場の数を今より減らしたほうがいいですよとか、
47歳以降からは、道場の数を減らそうと本格的思うと手のスジに表れています。
そして道場が減り、困る生徒さんが大勢出てくると手相に出ていますね。
石井は当たっているよと言っていた。
生徒さんに道場の数を減らしたほうがいいですよと言われている石井がおかしかった。
ジークンドーの中心線が大事だとか、こうやってこう曲がって、ここで足をひっかけて、後ろに押すみたいな
感じで手相のスジの流れと枝わかれをお弟子さんは読んでいた。
みんなのジークンドーの修行が進んでいると思った。 ケンシロウとラオウの戦いが、ザ・ファイナルとするならば、
その戦いの意味は、宿命をもった二人、天命をもった二人が、その宿命を完成させた戦い
だったからだろうと思えてきた。
生れた時からその宿命が運命に内設(ビルトイン)されていた。
ジークンドーとは、ブルース・リーが外に対して技を求めながら、
実は、最初からブルース・リーの内側に川のように流れていた。
ジークンドーはブルース・リーが生まれた時から、内設されていた武技
だった。ブルース・リーが女性の腹から生まれたのではなく、
ジークンドーが女性の腹から生まれ出てきた。ジークンドー自身が、
腹の中で身籠ったと考えられる。それがドラゴン・ボールである。
ブルース・リーは、けりやパンチを出しながら、そのけりの上、拳の上で
ドラゴン・ボールを転がしたり飛ばしたりドラゴン・ボール遊戯をした技であった。
ドラゴンの道である。
生徒さんに手相のスジを見てもらっていたが、宿命、天命を知る道なりか。ドラゴン... 「天繩文理論これから2500年続く皇の時代」
「いよいよはじまる、皇の時代 : 天縄文理論はどのように生まれたのか」
小山内洋子
「皇の時代」が来るらしい。
ヒロ渡邉の皇流の武技もこの流れなのかな。
縄文の波動文化を武術に取り込んでいるのかな。 そんなもんはない
ムーに書いてあるようなことをいちいち真に受けるな ヒロ渡邉が、
ジークンドー式相撲取りをしてみせた。
驚いた。
力士の足がつくる三角形を見て、その頂点に当たるベクトルに対し、一点を押して、
相手を倒していた。ヒロ渡邉が解説してくれなければ、絶対に理解ができない。
この技は、押しているだけだが、この技にワンインチの合わせ技にすると、
さらに絶妙な効果があらわれてくると思う。
力士の後ろに作られる三角形の頂点に、武のコンパクト群があったということだろう。
ある限られた空間ににスキマなくものが詰め込まれている状態をコンパクト群と呼ぶ。
はじめから背後にあるコンパクト群の一ヵ所に力を集まらないようにしなければならない。
ワンインチパンチを背後のコンパクト群に受けると大変なことになることがわかった。
自分が持つ全体の和がゼロになってしまい、簡単に後ろに倒れてしまうことは明らかである。
さらに0.1秒だと、技を受けることは容易ではない。ドラゴン。 最初から、自軸を崩したワンインチ方法を教えてくれたらと思うかもしれない。
ところが、伝説の武道家も、日々、鍛錬を繰り返しているから、
ふと、瞬間に、新しい技、さっきまでとまったくホワイトクロスでなくてブラッククロス的な、
さっきまで正しいと伝えていた技が180度逆の軸を基軸した技を発見する場合がある。
天才だからこそ、日々、昨日教えた技を、まったく違った方向で否定していた技を
否定し、さらに否定する形を取る場合がある。それは天才武術家の持つ悩みなのである。
これは、険しい道ほど、必ず出現する。
そのサイクルは、何十年に一回、彗星が地球の近くまで接近するくらい、
突然、前日までの技を否定する技のひらめきが脳に、何も語らずして武道家の脳の中に、芽を息吹く。
それが、基本を少し形を変えての定理だったらいいのだが、
まったく軸をぶれないように打てと言っていたのが、軸をぶれながらのほうが、全体重がのっていいよと、
説明定理が、北極と南極の磁軸が逆転するようなことを言う必要が出てくるということが理解できる。
常に陰と陽は回転しているんだよと説明していたが、まるで洗濯機の回転みたいに、左回転していたのが、次に
右回転して回転すると洗いが良いみたいな感じなのだろう。赤龍と青龍が回転しながら武の天空を昇龍、ライジング ドラゴンなりか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています