ジークンドーとMMAを語るスレ
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ジークンドーとMMAを語るスレです
現代MMAにジークンドーがどう取り入れられているか?
ジークンドーの技術はMMAにどう応用できるのか?
なんでもどうぞ 動画を見ていると矢地が普通の感じの縄跳びをしていた。
ボクサーは縄跳びをいろいろな型で飛んでいるみたいである。
https://www.youtube.com/watch?v=Dsgc5P30dY8
多分、フロイド・メイウェザーなんて、もっといろいろ工夫して
縄跳びをしていると思われる。ジャンプはジークンドーに比例する。 剣仙が、一子相伝最奥義ともいえるかもしれない。
これはある気の武術家が、ふと目にした一文があり、それ以降
この剣仙について書かれたエピソードに遭遇したことないと言っている。
古今東西で剣仙人について書かれていたのはたったその一行だけなのである。
それほどすごい技なのだろうか。
ある男が、山道を歩いていると、一人の女が途方に暮れていた。
声をかけたところ、泊る宿がないみたいなので、自分の家に連れて帰った。
すると、ドアを叩く音がする。ドアを開けると、一人の僧が、誰か来なかったかと聞く。
おかしなことを聞くなと思いつつ、一人の女がいると告げる。
すると僧は、それは皇帝のところから逃げた妖怪であると言う。
お前はドアを閉めて、外で待っておれ。
家の中ですごい音がした。
一晩過ぎて、何事もなかったように僧が家から出てきて、帰っていった。
男が部屋に入ると、部屋中の壁や物に、なにか鋭い刃が当たったような傷がのこっていて、
赤い血で塗られていた。
僧は鉄でできたような剣を持たずに、部屋の中に入っていったので、気でできた無数の目に見えない刀を使うといわれる
気の飛刃術の達人であったのかと悟った。
これが究極の伝説の武であると気の武術家が語っており、武術家は、現在その剣仙の修行に日々送っているそうである。
ヒロ渡邉が、手が真っ赤に燃えている鉄球のように熱くなる、熱くなると念じて、念玉入りパンチを放っていた。
この動きを見て、気の飛刃術に似た感覚をおぼえた。鉄球をイメージするのでなく、鋭く飛ぶ刃をイメージして、拳の先から放つ
感じなのだろう。相手は、そのイメージの刃で、かまいたちに遭ったような状態になる。
それも伝説の剣仙の場合、それが乱れ飛び、刃が乱舞するのであろう。 http://img-cdn.jg.jugem.jp/69c/3898264/20201127_1979654.jpg
魔法陣の中央に座り、描かれている剣をイメージして、
相手に向かわせる。
するとなぜか相手は負傷する。
自由自在に操れるように練習をする。 なんだこの怪文は
今流行りのChatGPTってやつか? 武器の瞑想に習熟できたら、
神将の制御術である。
瞑想によって多数の神将を空間から出現し、
相手の瞑想による神将と戦わせる。
この場面は、ケンシロウとラオウが、お互いの多数の分身が
二人の上空で戦い合わせるシーンを彷彿させる。
召神将の術、神飛ばしの術ともよぶ。
ヒロ渡邉が不動明王のバリアを張りましたというのも、
一子相伝最奥義である気ノ術法ジークンドーなのだろう。 剣仙
これが、難しい。仙道の内功、外功による方法から入ったら、
マスターするのに大変な期間が必要となる。
剣仙がすすめたい方法は、
仙道のイメージ法に、パワーを発する物体を組み合わせるのである。
イメージ法というのは、色を使った瞑想をさす。現実の自然界のエネルギーに対応する色を使うのである。
パワーの物体とは、神秘図形(多分、魔法陣とか)、大地の特異点などのように、
強いパワーを発しているもののことだ。
このように剣仙は説明している。
飛刃を想像して飛ばすとき、パワーを発する物体を組み合わせたほうが良く飛ぶと言っている。
剣仙は、魔法陣のマットの上とか、大地の特異点がある場を探し、その場に立つことが大事だとすすめている。
ジークンドーで地球の引力を味方にせよというのは、パワーを発する物体とジークンドーを組み合わせているのだろう。
ジークンドーをのせるパワーを発する物体を、瞬間的に見つけだすこともジークンドーなのだろう。剣仙ドラゴン。 風姿花伝 神儀(じんぎ)に云(い)はく
天照大神
岩戸の前で神楽を奏し
細男を演じられた
天の細女尊が進み出られ
歌声を上げながら、庭火を焚き、足を踏んで足音を響かせ、何かが乗り移ったように、
踊り狂いなさると、その楽しげな声が、岩戸の中まで聞こえた
https://roudokus.com/Fushikaden/04.html
いろいろ伝わっているそれぞれの芸の一子相伝奥義を読み比べてみると、
古来の日本神道の神々が必ず登場することに気がついた。
つまり、古来の日本神道の神々と結びついての文章が始まって、
それは一子相伝奥義と認められていた過去の時代があったということなのだろう。
合気でも、岩戸の前で武を演じるみたいだけど、
一子相伝奥義とは、岩戸の前でその技を披露し、
阿波で渦を巻き、岩戸で岩戸開きができなければならないということかもしれない。
渦を巻くというのは、宇宙全体が渦を巻きながら回転していることを指して、まさに天照大神状態である。
真のジークンドーの完成である。 https://ae01.alicdn.com/kf/Sc5adecc079d14c60a8090eb6d9db2310B/Abs.jpg_Q90.jpg_.webp
剣仙が言うには、
ドッジボールみたいなものに太極図を描いて、
バウンドさせたり、自分の身体の周りを回転させて、
繰り返していくと、ものすごくはっきりとした気の感覚を
つかむことができる。
手を摩擦して気の感覚を出す。
ボールから出ている強烈な気の感覚を感じる。
強烈な気の感覚をわかること。
慣れてくると二つのボールを使って運動すること。
さらに慣れてくると、まったくボールがない状態で、ボールがまるで
手の中にあるかのようなイメージをし、その手つきを保ちながら
動作を行っていく。図は対応した極にもう一方の尾の末端を描く。
この尾からだんだん太くなるような線を描き、それぞれの大きな丸につなげる。
なお、対応する極の位置がずれていると効果がゆがんだ形で出てくるので
注意深く位置を決めてもらいたい。 ヒロ渡邉の指拳はすごいな。
赤サソリ、レッド・スコルピオン・ジークンドーなり。
古代バビロニア以来、天の河の西岸に雄大なS字型を描く。
その形からさそりと呼ばれてきた。
さそり座は、アンタレスと呼ばれ、ギリシア語で「火星の敵」の意。
火星に匹敵するくらい赤いからである。
北斗とさそり座が輝く。 脳は喜びや快感を求めて機能する。
技をだしたり、技を見たりすると脳が脳内で至福感にひたらせる。
文明とは、脳の喜びを追求する脳を作ることであったと発表されている。
この考えでいくと、ジークンドーとは脳を作ることになるか。
ケンシロウとラオウの一子相伝者との戦いは、それを見ている側は、
脳の快感が、その戦いを見て機能しだすのだろう。
パンチを入れられた人間が、効いている、効いているというのは、
人間の脳がパンチを受けて、喜びの波長があがったのだろう。
S波でいうと、相手がパンチを出す前が、S波のくだりの波の時である。
腹にパンチを受けたとき、S波のあがっている波の状態のときである。
ケンシロウが北斗最奥義と叫んだときが、ラオウとケンシロウのS波が北斗最奥義的S波が
上がっているときなのだろう。 このスレとは関係ありませんが人間とは本能的に文明を作る生き物なのかもしれませんね。 目とは人間の身体の中でもっとも非身体的な部分である。
もし物質が非物質になりうるとしたら、それは目について当てはまる。
目は物質的だが、同時に非物質的でもある。
目は内面のへの旅に使われる。目から一飛びすれば、源泉へと
到達できる。手からでは不可能だ。心臓からでは不可能だ。
身体のほかの部分からでは不可能だ。
ほかの部分からだと、その旅は長くなる。
その距離は大きい。目は、自分の中に入るのに一歩で十分だ。
体全体が非物質となるのがジークンドーの修行なりか。
ジークンドーは言う。物質から非物質になれ。 ある達人の話である。
何か有名な達人がいると聞いて、一度、勝負を願いたいということになった。
男は、毎日のように、達人の家の前に立っては、戦って欲しいと願い出た。
常に出てこない。三日目くらいも、同じように家の前で立っていると、ずぼんのひざあたりから
火が出て、丸くこげてしまった。男は、「われ敗れたり。遠くあなたの武芸に及ぶところではない」
と嘆いて、そうそうにその場から逃げた。
達人の武芸の試合は、そのように局外者では到底想像もつかぬ奇妙な形で決着がつくのである。
達人が神意玄妙な技を使う話である。この技はどのように説明できるのかわからない。 このストーリーは不可思議で、
近所の人が、どうやってそのようなことができたのかと
達人にたずねると、二階の部屋で寝ていたという。
二階からジャンプして、相手のひざに火を点火して、
すぐに自分の部屋にもどったのかもしれないと推測する。
そしてさらに達人のエピソードの中に、馬に乗って、山を走っていると、
敵の矢が飛んできて、馬が驚いて、谷に落ちた。
その瞬間に、ジャンプして、崖に生えている木の枝を手でつかんで、助かったらしい。
達人は、武術の練習をしていたので、落ちていく馬の背中から飛んで、木の枝を一瞬でつかむことができたと
告げたらしい。このエプピソードを重ねると、
一陣の風のような武芸の持ち主だった可能性がある。
そのエピソードに次の話もある。達人に技を教えた先生は、その達人の父親に恩があり、
そのため、達人が子供の頃に山につれていかれ、教えたそうである。そしてその技は
達人だけが伝承され、一子相伝の技らしい。 >>332と>>334の達人の話は興味深い
誰の話か気になるけれど
そういう話もっとない? 達人の神変不可思議なストーリーが、ナイル河みたいに、
あっちこっちの川が流れてきて、大河になるが如く、
神変不可思議なストーリーがナイル河のようにある。
達人は、片手で十頭ほどの巨大な馬をひきとめて、一寸も動かなかったらしいのである。
この状況はわからない。
難しい。木村拓哉が祭りで武将の恰好をして、岐阜駅の前を、馬に乗って行進する祭りがあった。
実は、「さあ!出陣だ!」と叫んだら、同時に火縄銃を打つのだが、突然の音で馬が暴れだし、観客があぶなくなるから鳴らさなかった
と言っていた。そんな騎馬ようの馬を十頭を片手でもって、足の軸の位置はまったく変わらない。
ブルース・リーのように達人は、一瞬で風のように足の位置が固定できるみたいなのである。 なんでや。
ブルース・リーでもそんなのムリやがな。
もっとマトモな達人話はあらへんの? 達人に一子相伝の武芸を教えた師は、
達人に対して何らの拘束をくわえず、また何ひとつ武芸らしいものを
教えようとしなかった。師が手をかけることといえば、たった一つ、
達人が夜寝る前に、静かに全身を摩擦してやるだけである。
これは目に見えぬ霊妙な効験を、達人の心身に与えるようであった。
一ヶ年過ぎ、ある朝、師が言う。
わしはお前の様子をじっと観察してきたが、およそ武芸というものは、
各人の持って生まれた天質があり、あとはその天質に合致するような技を磨くことにある。
そこで、最高の武芸者となるには、いろいろな条件をそなえていなければならぬ。
常人のまねられない、身のこなしの敏捷なわざをいう。
お前はその術を学ぶがよかろう。
ここを自分なりに解釈すると、最高の武芸者の条件とは、常人のまねられない身のこなしの武技と
いうことだと思った。玄関に立っている相手のひざにマッチの火みたいなものを
当てられたことに相手は気付けない。達人は常人がまねられない身のこなしで発火させ、
そしてまた二階の部屋に戻り、枕を当てて寝る。そう解釈している。
これは、忍者が空中で一回転しながら、ロウソクに着火させ、そのまま戸口から出ていく感じかな。
殿は入ってきたことも、出ていったことも気付かない。 イルカが出す超音波は、メロン器官という部位で1点に集めてから対象物に当て、
反射してきた音を下顎骨でキャッチして、対象物までの距離や方向を測定しています。
エサであるイカや小魚に音波ビームを当てると、その衝撃波によってエサとなる小魚は
気絶してしまいます。そこをイルカはパクリと食べるというわけです。
クジラもイルカと生物学上は同じ「鯨類」のため、
同様の方法で大きな頭部から超音波を出して、好物のダイオウイカを気絶させて食べています。
超音波は、物を通過する特徴があるので、超音波の特性を利用すれば、鎧通しの波動ができるのかもしれない。 それより
>>340の
師に、夜寝る前に、静かに全身を摩擦してもらっただけのp達人はそれからどうなった?
似たような話はボディビルでも聞いたことあるなぁ。
>>332 >>334で、君が書いた
家の前で待ってる人のズボンに火をつける達人も
>>341にヒントはあると思うけどね
鎧透しも出来ないことはないけど
それとは関係なく
家の門の前に居るの男の衣服に火をつける位は俺でも出来る
ウチの先生は離れた所に置いた皿を触れずに割ってたし
その程度の事なら出来る人は案外いる 師は達人に言う。
お前の工夫はまだまだだね。
それは聴風の工夫がたらぬからじゃ。
聴風というのは武芸の術語で、いわゆる声なきに聴き、
音なきに感ずる、という意味の言葉であると教える。
聴風をきたえなさいと言われているのではなくて、
工夫をしなさいというところが考えさせられる。 ま、何でも工夫次第だ
>>342
その方法、ギリシャ時代の戦争からあるが
あんまり有名じゃないのか? >>342 >>344
わかった !
発想の転換だな !! >家の門の前に居るの男の衣服に火をつける位は俺でも出来る
>
>ウチの先生は離れた所に置いた皿を触れずに割ってたし
>その程度の事なら出来る人は案外いる
やり方は幾つも考えられるけど
まあ、達人という触れ込みの人なら
「戦わずして勝つ」ための護身術とも言えるのかしら?
こういう話は嫌いじゃない ある理論では、
親子四代にわたって同じ誕生日である確率は計算上、
5000組に1組程度しかない。当事者にとっては、偶然で説明できない
神秘的な出来事であろう。しかし世界には10億以上の家族が存在しているのであるから、
統計学上は20くらいの家族において、四代連続で同じ誕生日があってもよい。
まれな偶然とは、主観的には絶対に起こりそうにないことであり、
客観的には絶対起こる事象なのである。
この理論で考えると、主観的には一子相伝者は存在しそうにないけれど、
客観的には一子相伝者は絶対に存在することになると考えらえる。
達人的技は存在する。 >まれな偶然とは、主観的には絶対に起こりそうにないことであり、
>客観的には絶対起こる事象なのである。
こういう考え方嫌いじゃないw
大事なことだから一度しか言わない、いいかよく聞けよ?
『本当に大切なことは何度も言え!』以上!
みたいな論法とかも
でもまあ
>主観的には一子相伝者は存在しそうにないけれど、
>客観的には一子相伝者は絶対に存在することになると考えらえる。
>達人的技は存在する。
これは飛躍というモノでは?
文化的に一子相伝などお茶やお花でも普通にあるだろうし
一子相伝が達人技などという保証もないんじゃないかしら?
奥窮まった意味もあるだろうけどね
単に象徴的な技かもしれないし 達人がやれば初心者がやるようなどんな基礎的な技であっても
達人技になるモノなのよ
礼節の流派の一子相伝の技が
単に正座して礼をするだけのものであっても驚かないよ
誰よりも奥深い見事な正座や礼を持って
一子相伝と認められるかもしれないしね ある達人がいた。
旅をしていたところ泊まった宿のある村が賊に襲われ
滅ぼされる所を、たまたま家族を失った少年を助けた。
少年は家族の復讐を誓い
達人に弟子入りし共に旅をした。
修行を重ね
様々な武芸者と戦い時には実戦を経験し
少年が成年へと育つ頃には並ぶものなき
武芸を世に称えられるまでになった。 だが、少年の頃の生い立ち故か
青年は自惚れを敵とし究極の技を求め
師に一死相伝の技を度々求め続けた。
その度に師の顔は曇り、
お前は既に並ぶ者なき武芸の手中に収めつつある
それでは満足できぬのか?と問いかけ続けた
やがて復讐の誓いを立てた少年は
己が勝てれば一子相伝の技を継承させてくれる様に懇願し
師に決闘を申し込み、そして青年は敗れた。
青年は息を引き取る前に
やはり一子相伝の究極の技には勝てぬか、、、と呟いた。
師は青年の命を奪う前に
ここまで悉く奥義を会得しながらも
まだ満ち足りぬ己が心に負けたか、、、と涙を流した。
復讐を誓った少年は既にそれ以上の道中を
師と旅を共にしながらも
闇に飲まれたまま夢の中をさ迷うかの如く生き
誓いを果たす事能わず
既に手にした大事に気づかず
在りもせぬ何かを求めるが故にこの世から消えた。
既にお前には与えていた。
師の涙が乾くと共に心も渇き果て
師は二度と弟子を取ることはなく
かつて伝えた技も教えもこの世から消えた。 師と達人はいろいろと会話をするのだが、
師が山の中を歩いていると、鷹と蛇が戦っていたのだそうである。
自分もくわしくわからないが。
鷹と蛇が攻防をしている。
そして、時間が経過して、鷹が遠くに飛んで行った。
師が、また同じ時間にその道を歩くと、また昨日の鷹と蛇が攻防している。
そして、また同じ時刻に行くと、また同じように戦っている。
師は言う。これは宿命なのであると。
師は、この攻防をじっとみつめ、そしてこれは、武の攻防と同じであると言う。
鋭い鷹の爪の攻撃と、それをよける蛇の身体能力。
この一本のロープが立ち上がり左右にゆれるような防御を自分の武に取り入れ、
そして鷹のような鋭い爪と接近、少しはなれ、鋭く接近して爪、そして相手の攻撃を
かわしながらはなれるような攻撃を取り入れようと考えたらしい。
毎日、同じ場所で鷹と蛇の攻防に師が出会うことなければ、一子相伝の技が開発されなかったのかもしれない。
またそれを見て技に加えるところがすごい気がする。達人も師の話を聞いて納得したような気がする。 >>353
始めてカンフー映画を見た小・中学生の感想文みたいだな
もっと大人のテイストで頼む 野獣の危害をさけるためには、師は樹にのぼって眠ることもおぼえた。
ふと師は岸壁の間に深くえぐられた一個の洞窟があるのを発見した。
彼はそこに荷物をはこんだ。道場の仲間の屍を洞窟の前にうずめて忠臣の霊魂が
自分を守護してくれることを祈った。
山道で食物をあさっている時、見るとおそろしく巨大な蛇がこちらへうねって近づいてくるのが
わかった。蛇の腹は水瓶のようにふくらんでおり、鱗がキラキラと光って、
眼は鏡のようであった。空から一陣の颯然たる風を感じた。
一羽の鷹が、蛇に向かって攻撃をする。
これも大きい。まるで古代の伝説に出てくるオーディン神の肩にとまる大鷲のようである。
翼をひろげて、戦意を示し、むきだした爪は鋼鉄の熊手のようにふるった。
すると蛇の体は柱のように突っ立った。風になびく柳のようにしなったかと思うと、
目にもとまらぬ速さで、鷹の頭部にかみつこうとした。
蛇の逆襲に、鷹は地に落下した。羽毛が雪のようにあたりに散った。
そこをすかさず、蛇はグルグルと巻きついた。鷹はこれで完全に死命を制されたかに見えた。
ところが、闘いはそれで終わったのではなかった。鷹は巻かれながら体をおこした。
さすがの蛇の緊縛力も抗しきれないのか、巻きつけた胴をとく。 鷹と蛇の争闘は勝負がつかず、日没におよんで鷹は空にとびさり、
蛇はいずこかに姿を消した。ところが次の日、その場所にゆくと、
また大蛇が現われ、鷹が飛びきらって格闘をはじめた。
なにかの神秘な力をそなえていて、人間よりも烈しい執念に燃えるのかも知れぬが、
それにしてもただの偶然の出来ごとだと思ったのが、再び繰り返されては神秘感というより
しかたがない。二度目も双方は五分と五分dとのひきわけじゃ。
三日目、よもやと思うて行ってみると、またまた同じ光景が出現した。そうなると是が非でも勝負の
決着を見きわめようとなって、毎日その場所に行って観戦した。
するとそのうちに、一つの微妙な事実に気がついた。闘いの様子を仔細に見ていると、かたちは
さまざまに変化するが、どちらにも一定の法則がある。ひと口にいえば、鷹の戦法は剛にして硬。
蛇はこれに対して、柔にして軟。鷹が強襲一点ばりでゆけば、蛇はこれを受けてひくが如く、
ひかざるが如く、巧みに応酬して間然するところがない。これは天が生物に与えた能力の極限じゃと
師の脳裏に、豁然として閃くものがあった。
鷹や蛇にこれほどの能力があるのなら、人間にないということはあるまい。
それから、鷹を見ならい、蛇をまねて、自らあらゆる危害を克服する術を修練した。
身のこなしかた、手足の使いかた、呼吸の吐きかた吸いかた、すべてに工夫をかさねた。
それが何百日の間つづいたか、いつか軽々と谷を飛びこえ、森の梢から梢をはせまわり、
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退け、また大木を掌ひとつできりたおすことができるようになった。
そして洞窟のあたりを騒がす獣は影を絶ち、山は太古の静けさに返った。師は山の支配者になった。 >どちらにも一定の法則がある。ひと口にいえば、鷹の戦法は剛にして硬。
蛇はこれに対して、柔にして軟。鷹が強襲一点ばりでゆけば、蛇はこれを受けてひくが如く、
ひかざるが如く、巧みに応酬して間然するところがない。
そうか?
そんなに単純でもないと思うが?
高が飛ぶ姿は銃の極限だし
蛇の牙は柔の中の剛で、牙にある毒は剛中の柔ではないのか?
>鷹や蛇にこれほどの能力があるのなら、人間にないということはあるまい。
それから、鷹を見ならい、蛇をまねて、自らあらゆる危害を克服する術を修練した
人間にないということはあるまいと言うのなら
人間の追及でなく何故、蛇や鷹の真似をした?
象形が近いサルの真似なら百歩譲って分からぬこともないが >いつか軽々と谷を飛びこえ、森の梢から梢をはせまわり、
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退け、また大木を掌ひとつできりたおすことができるようになった。
そして洞窟のあたりを騒がす獣は影を絶ち、山は太古の静けさに返った。師は山の支配者になった。
そして人間の極限の能力はそこにはないし
牙をむいて襲いかかる獣をたやすく退けたり
掌ひとつで大木をを切り倒しは出来ないし
そんな野生で野生を支配する能力が人間に隠されてもいない
偏ったご都合的理屈と
個人の願望と有り得ない飛躍で話を固められても
読まされる方は引くだけだわ
もうちょっと理論の整理から頼むわ 師がいろいろと語るのだが、
モンゴルについても話が出てくる。あの世界で一番拡大したモンゴルなのに、
そのモンゴルの兵における武技についてはあまり紹介されていない。
そしてモンゴルの兵に振り回された武将たち。
ここで言われているのが、モンゴル兵の武技が、武将たちよりもすぐれていたということであり、
そのために、武将たちの武術も、それによって進化したといわれている。
少林も太極拳も、モンゴル兵の兵術のない武術と戦うことで、その強さに圧倒され、
進化され、それが中央から南の香港にまで武術が流れていったと言っている。
世界最大の国を作ったモンゴルは、世界最強の武技をもっている兵隊であったと
師は説明している。ある意味で自然流モンゴル武術が最強であるらしい。 あのぅ書き込み長すぎてほとんどの人が見てないよ思うよ ある名人がいた。
時の政府に住処を追われ、安住の地を探しながら各所を転々と旅していた。
ある時は河に流れ着き、ある時は山に隠れ住んだ。
鬱蒼とした山の中を食せる獲物や水場を求め彷徨っていると
眼の燦燦と炎の如き輝く大蛇が鎌首を擡げるのを見た。
名人は蛇と睨み合いつつ縄張りから少しずつ身を引こうと
後ろ向きに蚊行歩を?した。
ある程度身を引いたところで別の気配がした。
空から鶴が青空に雪を纏わせるかの如く舞い降り立った。
二虎競食の例えの通り、達人は大蛇の威嚇を鶴に明け渡し
しばし鶴と蛇の争い合うを観た。
やがては鶴が羽ばたきと共に新緑の樹々の隙間から青空へと消え立った。
次の日も同じ時刻、同じ場所で鶴と蛇の争い合うを見るに
鶴の羽には柔中乃剛を蛇の牙には剛中の柔を知り山間に兵の動きを読むに至った。
また次の日も同じ時刻に各々が出会うに
鶴の飛ぶより風水の淡き香りを見、蛇の這うより山水の理を解いた。
かくなるは人も同じならんとし、
山を行くに山水を読み川を渡るに山水の流れに従い
空を仰ぎ見るに風水のあらぬを知り天之気に触れ五行乃朝元を知り空に至るを知った。
やがて山の端の紅く染まる頃、山水の流るるは原初の静謐に戻り
名人の姿を見るは蛇鶴甘二獣と雖も適わなくなった。
曰く、達した者成と。 モンゴルが最大の国家になるときに、
モンゴル兵が少林、太極拳の使い手とも戦ったと思われる。
しかし、モンゴル兵が、どこかの流派の武術を使ったということは自分は、
聞いたことがない。少林寺や太極拳は、モンゴル兵と戦って、
そのときにこういう技を使ったほうがいいと改良され、
そして中央、香港へと改良された少林寺、太極拳が流れ、伝承されていったらしい。
モンゴル武術が最強であるという源流が、武術界にあるらしい。
師はそう、達人に話している。少林寺、太極拳の型は、モンゴル兵と戦った後、改良されていった。 モンゴル兵のどくとくの技と戦いながら
少林寺、太極拳が改良され、それは中央に流れ、特に足技が得意技とされ、
それが北側の特徴となったらしい。
そして改良された少林寺、太極拳は、
武術家が船で香港に旅したので、船の中では、足技の練習ができないので
自然と手だけの技が修練され、そのため南の地域は、手技が発達し、
足技をあまり使わない武術が特徴となったらしい。
ブルース・リーが最初に学んだ武術が南の香港の武であった。 >>85 >>92
試合はスポーツだって事ヨ
危険な技は使わない、使えない
常識だね
常識はみんなで守りましょう >>364>>365
自分は知らない、聞いたことないから始まって
~らしいとか
思い込みだけで適当な事を書くの辞めて欲しい 拳法篇
「南拳北腿(なんけんほくたい)」といって
南派の拳法は手技が中心で足技が少なく、北派の拳法は足技が中心で
手技が少ないといわれている。
南派とは長江(揚子江)から南のことをいうが、拳法の場合は特に広東省・福建省を中心とした
珠江流域のものをさしていう。
北派とは長江より北から黄河流域で行われた拳法のことをいう。
北派拳術は河北省と山東省がとくに盛んであった。昔の交通機関を「南船北馬」という
言葉で表現しているが、拳法の場合も南派拳術は船で船頭が櫓をこぐ時の
立ち方が多く、北派拳術では馬に乗った時の姿勢が基本になっていて、立ち方の名称も
馬歩、騎馬歩といっている。伝説によれば河南の少林寺が清軍に焼かれて攻め込まれた時、
南方へ逃れた寺僧が紅船に隠れて揺れ動く船において修練したために蹴り技が少なくなり
拳法全体が変化した。それが南派拳術であるという。 >>369
そういう松田さんや笠尾さんの本を読めば書いてあるような
表面的な拳法の歴史とかどーでもいい
そんなよく知られた話を適当に剽窃されても困る
君は達人話の方が面白い
世間には知られてない昔の達人話はないかい? 軽功の武芸の練習がはじまった。
その方法は、深さ五寸、広さ四尺四方ぐらいの穴を
掘って、その中から上へととび上がれというのだ。
そんなことくらいは何でもないにきまっている。
ところが実際はそうはいかない。
というのは、まず四肢をかたく緊縛し、腰や足の折りかがみを
封じてしまい、足指を上にむけて、一動作で飛ばねばならぬからである。
すべて跳躍には、それにそなえて体の反動をつける準備動作が必要だが、
全然動けないようにして飛ぶのは不可能にちかく、困難事だ。
毎日、この練習のくり返しだ。
四尺の穴がずっとぬけだせるようになったのは、二年目のことだった。
穴の深さはそれから少しずつ増やしていく。そして、五年目には遂に五尺の深さから、
体が跳躍するにいたった。
「よろしい」師が言った。 >>371
この話の評価はこれから描かれるであろう展開次第だな
待ってるよ 穴からの跳躍をみてから、軽功の基礎はようやくできたぞ。
いよいよこの基礎を生かして、自在の武芸を身につける段階になったわい。
師は達人を伴って、三丈ほどもある松の樹の前にゆき、梢を指して、
「見よ。あすこの幹に、鳥が一羽とまっているであろう。
あれを手づかみにしてまいれ」いかに五尺の穴がとびあがれても、
十メートルの上空にいる鳥を捕らえることには、とうてい自信がない。
「ためらうな。武芸は工夫によるものじゃぞ、やれッ」
師の叱咤に、達人はままよとばかり、必死の気合いを身うちにこめて、
颯ッと地を蹴って舞いあがった。矢のような速さであった。一陣の風と共に、
地上に下り立ったとき、達人の手には、羽をひろげた鳥がしっかとつかまれていた。
「でかした!でかした!」師は噛んでふくめるように、
「これまでのふだんの練習は、体の力をぬくことにあった。お前の足はお前の体重を
のせているが、上半身の力がぬけてしまえば、そのように軽快なわざが自在にできるのじゃ。
軽功の武芸は、その法がとられたのである。 ここからだ
当にここからオチをどのように締めるかで全てが決まる
待ってるよ >>375
五尺の穴をやっととびあがれた弟子が十メートルの上空にまで飛べた理由とか
工夫だと言われたのに気合で何とかした処とか
実はこんな工夫をしてたとか
それがこれから明かされるのだろうか?
色々な謎を残したまま話は次の展開に向かうのだろう
続きを楽しみにしてるよ! 師の教授法は、ほとんど人の信ずべからざる奇妙な方法がとられてのである。
松の木の根もとに立つ。
そこで簡単な予備運動をした後、樹のまわりを左に向ってゆるゆると歩き、
徐々に速度を増す。つぎには、反対の右がわに向って廻る。
交互にそれをくり返してから、おしまいには全力疾走にうつる。
この場合、姿勢をくずしてはいけない。呼吸をみだしてもいけない。走りかたには
自ら一定の法則があるのである。
達人が立っているのを目がけて、木の実をむやみやたらと投げつける。
達人はそれをかわしたり、逃げたりしてはいけないので、飛来する木の実を、佚丁子で
ことごとく刺し止めなければならないのだ。
その困難至極なわざも、達人はやがてやってのけるようになった。
師は、それでも満足せず、「敵は前からだけ来るものではない」
といって、背後から木の実の攻撃をやらせた。
ふり返って見るひまはないから、心耳をすませて、あるか無きかの
かすかな音をたよりに、達人は佚丁子の応戦をする。
たいへんな苦心の末に、これもやりおおせるようになった。 >>375 >>378
ま、武術とは本来こうあるべきだよな
型よりも徹底的な武術的身体訓練 十干のひとつ「丁(ひのと)」。火の陰のエネルギーをあらわし、
穏やかで物静かな雰囲気を持ちながら、内には鋭さと急進性を秘めるといわれます。
そのような文字の意味をもっているみたいです。 列車強盗は、
列車が進行中に飛び乗って獲物を奪い、これを窓からどんどん外に放り出す。
盗賊は線路の両側に二分して待ちうけ、列車がさしかかると、まず大勢の盗賊が
馬の背から跳躍して車中に侵入する。
他の者たちは列車を挟んで馬を走らせ、捕獲品を受けとめるわけである。
この時も序幕の運びはいつもの通りうまくいった。窓が開いた。
そこから荷物が落下するはずである。
予期の通り黒い物体が飛んできた。それっと器用にこれを馬上で抱き止めた奴が、
どうしたのか、ワーッと叫んで荷物を投げ出してしまった。
次の奴も、次の奴も、またその次の奴も。
「どうした?」
親分が怪しんで馬をよせて問うと、
「生ま首だよ、親分。血の滴る生ま首だ」
「いま乗りこんだ兄弟の頭が飛んできたのよ」
「えーっ?」
これには親分、仰天した。
達人は汽車に乗っていた。
仲間の頭を、大根でも斬るように、スパスパと瞬く間に斬り落した腕前は
とても尋常の奴ではない。神変不可思議の武芸者だという評判は、町のカラ宣伝ではなくして
事実であったのだ。 >>340の先生から寝る前にずっと按摩だけされてた達人と同一人物ですか? 全部、同じ達人です。
達人は、普通では想像できないようなはなれわざをつかう。
達人は門をのりこえて庭に入るまで、全然雪上に足跡を因していない。
樹木から、樹木に渡って、地面を歩かなかったからである。
そして屋外から、正確な投石術を使う。
曲芸で今でもよくやる輪抜けの呼吸とおなじで、水平に宙を泳いでゆき、
前方にのばした手で卓上の地図をつかむや否や、再び宙に翻転して、
もとの位置に飛び返ったのだった。
こういうわざは正規の武芸にはないから、さすがに敵も完全にシテやられたのである。
蒙古の大平原を馳駆し、原始的な奇妙な体技に習熟した上に、
ほとんど鳥獣とひとしいまでの能力を発揮する、絶妙きわまる軽巧の術をたたきこんでいたのだ。 岳飛拳と唯一、いい勝負をしたみたいなストーリーである。
達人の師は、
一種独特な別格の師であった。
達人はおのれの武芸が何派に属するかすら、とんと分かっていなかったらしい。
師の武芸には、内家もあり外家もあり、蒙古の格闘術、チベットの戦闘技術などの
他に、自然界の山野猛獣の動きをとりいれた呼吸も多いのである。
岳飛拳の使い手とは、唯一、決着がつかなかったらしい。
岳飛拳の使い手が、達人の体勢に多少の利があったとして引き分けでご了見を
願おうと思い、差し出たまねをいたしたと言っている。 それはどんな戦いだったのだろう?
気になるな
詳しい解説を頼むよ 達人エピソードが実に面白くて興味深いです!
随分と詳しいようですが
あなたはその達人さまのお弟子さん筋の方ですか? >>388
>>389
パルクール要素が強い八卦掌とか遁甲術が近い様な・・・? 石壁の扉が開いて静かな摺り足で出てきた。
両腕を前に組んだまま、じっと視線を達人に注いだ。
これが音に名高い岳飛流の岳飛拳師か。
一礼して二三歩後ろに退った。相手は軽く礼を受けるようなゼスチュアをした。
が、お互いが向き合った瞬間から試合は既に開始されていた。
拳士は吐く息、吸う息で、空間に目に見えぬ闘気の火花を交錯させるのだ。
そして、その交錯はしだいに成る一点に凝結してゆくかの緊張の度合いが
高まる。達人はやがて両足をふんわりと左右に開いて、肩の力を抜いた。
一見、それは敵の攻撃を誘うためにわざと姿勢を崩したかの如くであったが、
事実は反対である。敵に毛筋ほどの隙を見出したなら、どこからでも
撃ちこんでゆける柔軟円転の構えだ。 しかし岳飛拳の使い手は、いぜんとして拱手のまま微動にしない。
双方そのままで釘づけになった。
十分、十五分、二十分。堂内を重苦しい静寂が領して、窓外に鳴く小鳥の声が、
いやに高く流れこんだ。見物人の一人が丈の細い杖をついて頭を垂れ、
背をかがめるようにしていたが、近くに寄ってよく観察する者がいたら、
見物人の大きな耳朶がピクピクと動いているのを見たであろう。
見物人の耳には音なき音が聞こえているにちがいない。
いや、空気の波動すら彼の鼓膜に瞭然と響くのかも知れなかった。
岳飛拳の使い手はふとそれに気づいたらしく、
怪しむような眼ざしをチラと見物人の方に送った。
それは明らかに一瞬の隙だった。いやしくも拳法の秘奥に
達した者が、敵を前にして視点を動かすなど、
あるまじき所作だ。もちろん達人がこの破綻を見逃すわけはない。
陽炎のごとく達人の体は宙に跳躍した。と、
同時に岳飛拳の使い手の体がパツとひろがって、身を沈めざま一回転し、
斜めに三間ばかり走った。
達人の足は空を蹴って床に落ちる。すかさず岳飛拳士、達人を
目がけて殺到し、達人も再び宙に舞い上って両者の
肩と足がふれ合ったかと思われた刹那に「ガーッ!」という
凄まじい叫び声が先ほどの見物人の口から炸裂して、
一本の竹が岳飛拳の使い手の鼻先をかすめて矢のように飛んだ。 岳飛拳の使い手は電気にうたれたように棒立ちになった。
すぐに頬の筋肉を微笑でゆるめた。
別の見物人が
「そこもとは竹を放った見物人であろうがな。
さてもさてもみごとな神技恐れ入った。達人は稀有の大器。
この試合が武芸に見物人の竹の助勢を加えれば、岳飛拳の使い手が負け
となろうか。アッハッハ」
「そうではござらぬ」
と竹を投げつけた見物人がさえぎって言う。
「達人が飛鷹落下の蹴りを外されたとき、岳飛拳士の耽虎出洞拳の一手は、
たしかに脇影(肋骨の上部)の急所をかすめた筈。
ただし二度目の跳び蹴りには達人の体勢がまさっていた」 わたしはつくづく浮世がいやになってきたところだから、
お前さんがそうおっしゃるなら、その手で、ひとつ威勢のよいパンチでも
くらって、あの世に旅立ちするのもいっそさばさばしてよい気持ちだろう。
さァ、どうぞそっちの方から遠慮なく。
そうかい、そんなに死にたいなら、おらが引導渡して進ぜるぜ。
と隆々たる腕を袖まくりして、ウオッとうめいて踊りかかった。
その猛烈な勢いに達人ひとたまりもなくぶっ倒れたかと思いきや、
軽く右手の指二本、ニョッキとたてて、体をひねりざま、打ちこんできた若者の肘のあたりをちょこんと突いた。
とたんに若者は、あたかも強力な電流にかかったかのごとく棒立ちになった。
「あっ!点穴だ!」
若者は叫んだ。その顔は恐怖にゆがみ、血の気がひいて真青だ。
昔から点穴と称する武芸の一技がある。人体に七十七ヵ所もある急所のつぼを正確に
とらえ、その一点に、指先で微妙な衝撃を与えると、頭、肩、肢などが痺れて、完全に機能を停止するのである。
点穴の使いかたによっては、その部分の細胞が徐徐に腐り、長きは三年目に生命を失うこともある。ともかく恐るべき秘法なのだ。 >>6 >>8
植芝先生がそう名乗ったから
そのまま受け継いだんじゃないですかね?
大東流しか知らない部外者の憶測ですが
本や動画で確認した処
大東流合気柔術とは確かに基盤は同じと言えど
全然違う事をしておられる様に
見受けられるものでして
難しい修行や技や危険な要素を省いて
誰にも身に付けやすくして
対立しない思想で作り直したと見れば
合気道は素晴らしく良く出来てると思いますけどね
それで、自分を殺しに来た敵と友達になることが奥義だと
それを目指すのが奥義だと言えてしまいそんな生き方を選ぼうとし、
本当にそんな風に現実を生きて行けるのならまさに理想通りでしょう 夜になると、室の粱に六七尺の長さの一条の綱を張り、
その上に一握りの綿花をかけ、じっとそれを睨んでから灯を消し、
闇の中で軽く綿花を弾いて、その揺れ動きから目を放さぬようにする。
次にはまた目をとじて、綿花を手で打ち、
綱と綿花とがふれ合う微かな音に耳をすますのである。
後に達人は、この視力と聴力が、武術の基礎に最も必要なことであるのを知った。
おおよそ大武術家たる者は、たとえ眠っている時に襲われても、決して不覚を
とらぬというのは、このような修練を不断に積んでいるからである。 ヒロ渡邉が言っていた。
ジークンドーの最終奥義は空中転移と名付ける。
ケンシロウもラオウも
お互いの無数の分身が、二人の上空で戦っていた。
出神の術というのもあるらしい。
もっとも神秘的な部分を形作るのが出神の術である。
出神とは、気(陽気)と意識の集中によりできた陽神という自分の
分身を、頭頂から出す術である。はじめのうちは、陽神は頭頂から出してもすぐ引っ込めるだけだが、
慣れてきたら自分の周囲を歩かせる。
この段階の陽神は、まだ三寸ぐらいの小さなものだという。
この時期の陽神は、赤ん坊のように小さく弱いので、出神時はとくに気をつけるように
しないといけない。やがて陽神が安定してきたら、一日に出神の回数を増やす。
出神は必ず天気のよい日のみ行ない、雷、雨、曇、風などの悪天候の日は
絶対に避けろとある。こうした自然現象によって、できたての陽神が破壊されるためである。
自分の周囲だけでなく家の外へ出し、その周りを歩かせたり遠出をさせたりせよ。 ジークンドーの最終奥義は空中転移、
これは振り子打法のイチローならば、この空中転移ジークンドーができるのかも
しれない。
空中で逆振り子拳を打つという感覚なのかもしれない、
振り子は合わすのがだ、その逆振り子で合わさない振り子拳なのである。
拳のトップで振り子に振れた拳を、空中で振り戻りのタイミングで右足体重にしてして右膝を
大きく左に曲げると、右肩がさがる。右肘を右脇腹につけると、拳が走り出し、
ここでも拳は振り子に振れてインパクトとなる。そのインパクトの形のまま、
五指と腕のシャフトが左へ平行移動するように、腰を高速で左へ送ってフォローとする。
ヒロ渡邉流、開眼ジークンドー式空中転移なのかもしれない。
このように拳をスイングすると、インパクトの形のまま拳フェーズが移動する。
拳フェーズは、インパクト前からインパクト後まで、常に飛行線に直角になっているので、
当たり場所が少しくらい狂っても、拳の先端は目標の方向に飛んでいくことになる。
空中転移ジークンドーをマスターすれば、初心者でも最終奥義ジークンドー・マスターなりか。 ジークンドーの最終奥義は空中転移、
ヒロ渡邉は、テッド・ウォンが、空中転移ジークンドーの練習をしていたと
述べていた。
アサリが吐く砂のように真実を吐き出してしまう。
アサリが吐く砂のように拳を吐き出してしまう。
結果が原因より前にある拳。最奥義ジークンドーはむずかしい。
すなわちマスターされたジークンドーは、ある瞬間、空間を飛び越えてしまうのではないだろうか。
J.A.ストラットンは、キルヒホフの場の方程式にふれて、場の方程式は2個の解を持つことができる、と述べる。
①(t+r/v)
②(t-r/v)
上記の①の式t+rは、通常知られている。
奇妙なのは後者である。
場の方程式を解いた結果として出てきた後者の解②(t-r/v)は、ちょっと”常識”では
考えられない解なのである。ストラットンも”常識”に反した解が出ていたことに困惑したようだ。
なぜなら、ストラットンが説明しているように、この第二の解は、場によって生成される以前から、
例えばリンゴの木が芽ぶく前から場(リンゴの実)が観察される、ということを意味するもので、
未来の次に現在がやってくると考えなければ理解できないからである。
ところが、ディラックは、量子論の中で、それは「先行可能性」を用いていると分析している。
空中転移ジークンドーとは、先行可能性t-rジークンドーなりか。わからない。 空中転移の最奥義、
大山カラテの三角飛びというものがある。
これは大山倍達がリングの上で不敗の技であった。
片一方のロープに向って飛び、ロープを足でキックしたその反動で、
もう一方のロープに飛んで、さらにロープをけって勢いをつけ、
相手のレスラーの目を攪乱させながら、カラテキックをいれるみたいな技である。
大山は試合中に三角飛びができたらしい。一蹴でレスラーはマットに沈んだらしい。
この技の継承者を聞いたことがないので、これも一部の人間に伝承された秘技の一つなのかもしれない。
空中転移三角飛びといえる。
別の方角に飛び、さらに別の方角に飛び、最後に腰をステップさせてワンインチ・キックをするのだろうか。わからない。 桑田投手が、ある集中力教室に通っていた。
その先生は、わりばしをハガキで切れるようになったら、
集中力をマスターしたことになると言われていた。
多分、桑田投手はそこからいいピッチングをするようになってきた。 カラテ大山倍達は、いろいろな最奥義を持っている。
アメリカでリングに立ったとき、目を突いてから、カラテキックをして、相手を倒したと言っていた。
その練習方法は、
手の真中の指で相手の鼻筋をしたから上へとなぞりながら、
そして左右の目を、中央の指の左右の指で突けば、失敗しないで突くことできると言っていた。
こうすれば、観客が騒ぐ中で、リングの上で緊張していても、初心者でも楽に相手を突くことができるらしい。
これも一子相伝の最奥義なのかもしれない。 ある日達人は街上を歩いていると、にわかに突風が起って、一商店の看板を吹き飛ばし、
それが達人の頭上に落ちてきた。
看板は七八十斤もあるほど厚くて重いから、まともに喰らったら脳をぶち砕かれて即死するか、
少なくとも重傷は免れない。この時通りかかった人々は、これを見て、
一斉に思わず、ああっ!と叫び声をあげた。
途端、達人は無意識に手をあげて、軽く一振りした。すると看板は五六尺先に転がって、
達人は無傷だに負っていない。
人々はまたしても、ああっ!と驚歎の叫びをあげたのだった。
この場合を考えると、ジークンドー・スペシャルみたいな感じがする。
頭上に落ちてくる看板をよけようと考えるのでなく、ワンインチ、手で一振りしているだけなのである。 ニコラ・テスラの子供の頃のエピソードがある。
母親が、テスラに言います。ネコと遊ぶとはやめて、火事になるかもしれないから。
父親が、それは、電気のしわざさ。あらしのとき、いなずまがひかるのとおなじ、自然の現象だよ。
テスラは言います。
じゃあ、自然って、大きなネコといっしょなの?
それからというもの、テスラはずっと、電気の不思議について考えるようになりました。
達人は、武術に対して、テスラのような電気で考えるのでなく、流れる気の感覚でとらえているのかもしれない。 ネコの毛と人間の指が摩擦を起こして静電気を発生することもある。 その一刹那!
「アッ!」腰のしたあたりに、錐で刺したような激痛が走って、とび上がった。
次の瞬間、腕が硬直した。全身がしびれた。腰は電気をうたれたようにジーンとする。
「おのれッ」叫ぼうとしたが声も出ない。
ただ視覚と聴覚だけが正常だ。
こんないまいましい話があるものだろうか。
では、今のはこの達人のしわざではなくて、他の誰かが物陰から矢か剣かを飛ばしたのではあるまいか?
目をみはって棒立ちになったまま、達人をにらみつけているが、頭もまわらず、
手足も動かないのでは、畑の案山子(かかし)も同然である。
達人はなにもなかったの如く、もう一度、ふとんの中に入り、寝てしまった。
朝になると、家の者が達人の部屋にやってくる。
案山子のように一人の男が立っている。
「達人さん、起きなせえな。あんた、相手を不動の金しばりにしておいて、
白河夜船で寝ちょるという法がありますかや」
ゆりおこされて目をひらいた達人、ウウンとのびをしながら、
「何ごとかいな。わしゃ何も知らんで。あれ、そこにいるのは誰ですか。
どうしたのじゃ、いったい」ことさらに驚いた様子で、
「これはどうやら立ったまま発作でもおこしたらしい。
早く家へつれもどして医者にかけにゃあかんぜ」
「どうでがしょう、達人さん、こ奴が前非を悔いて、許しをこうたら、こんどいっぺんコッキリだけ
堪忍して、動けるようにしてやってくださらねえか」 「そうかい」達人、おもむろに向き直って、
「なにもおれだって、生き人形にしてやろうというほど憎んでいるわけでもないよ」
「聞いたか。これから心を入れかえて、おとなしく致します、と町の衆に誓うか」
誓うといったって、男は返事もできないのだから、目だけで哀れっぽく、ハイ、ハイという表情をみせるので精一杯。
「では、皆さんのお顔をたてましょう」
達人、睡眠していたふとんの中から出てきて、立ち上がると、まず一本の指で、左の瞼の上を軽く突いた。
つづいて右の瞼を一突き。そらから左右の肩と上膊を叩き、両耳をひねり、さらに腿をうち、次にはヤッと気合いをかけると、
男の肉体は燕(つばめ)のように宙に泳いで一回転、ドサリと畳の上に倒れる。
「立て!」凛然たる達人の命令。男は不動の金しばりから放たれ、フラフラと辛うじて両足で肉体を支えているあんばいだ。
「以後、こんな不心得をおこすとは命はないと思えよ、天下は広大、身をほろぼすの元(もと)、わかったか」
「へえ」
町の衆は、広い世間に隠れていた達人にめぐり会い、われわれも、もう一度刻苦精励して、がんばろう。天地神明に誓を立てたのであった。 >>413->>414
達人ストーリーとしては面白いし
情感たっぷりな描写がまた良いと思います
最後に教訓として
罪人が心を入れ替えるのも
町の衆が落ち着くのも
好感度が高くて素晴らしい >>400->>403
>ヒロ渡邉が言っていた。
>ジークンドーの最終奥義は空中転移と名付ける。
>ジークンドーの最終奥義は空中転移
>ヒロ渡邉は、テッド・ウォンが、空中転移ジークンドーの練習をしていたと
述べていた。
これ、
詳しく知りたいので
動画があれば見てみたいのですが
どこに行けば見れるか検索キーワードとかあれば
ヒントでも下さい こちらの動画の17分あたりから誰にも見せていない
最終奥義を見せてくださいという話題がでてきて、
それは空中転移であると言っています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ub3Tyw8cP9Y ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています