以下Wikiより抜粋

弟子の糸洲安恒が型稽古に主軸をおき、また那覇手の影響を受けて「身体を堅める稽古法」を重視したのに対して、松村宗棍はむしろ実戦(組手)と柔軟性を重視した稽古法だったとされる。
直弟子の屋部憲通は、大正4年の新聞記事で「松村翁の如きは生まれ乍(なが)らの武道者で専ら実地の経験から積上げてきた天才者であつた」[7]と語っている。
同じく、屋部憲通は、『拳法概説』(昭和4年)所収のインタビューで松村の稽古法は、3,4回型をしたあとは「真剣の練習試合――何らの防具を用ゐずに――せられた」というものであったとし、組手を主体とした稽古方法であったと述べている[8]。
直弟子の本部朝基は著書『私の唐手術』(昭和7年)において、「松村先生は(中略)決して力一方の武士ではなかった」「常に静中動きを見て運用自在であつた」「常に其の型の稽古は力の入れ方及び型の運用に意を注いで居れた」と語り、その稽古法は敏捷性や型分解、組手を重視していたものであったとしている。また、松村は糸洲のことを鈍重で嫌っていたという[9]。
空手評論家・金城裕は、昭和30年頃、伊江御殿の伊江朝助男爵から聞いた話として、松村は「糸洲の技はのろくて、実戦に間に合いますまい」と評していたという[10]。