空手の型はやるだけ無駄と言う現実107
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空手家は型の意味を知っているのだろか?
知っていると豪語してもそれはただのこじつけではないのか?
現実離れした動作を繰り返す事で弊害が生じてはいないか?
型の分解や約束稽古をやる前にあえて型を練習する意味を型信者は答えられるのか?
その証拠に空手の型の動作で戦ったり相手を倒した例は一つもない
これらの疑問が解消されなければ空手の型はやるだけ無駄ということになる。
そして、これらの疑問がいまだに解消されていないのが現実である。
もちろん、空手の型は型競技、昇段審査、健康体操としてそれなりの意味がある。
しかし、それ以外の【型で武器を持った多人数と戦う】【人間技レベルでない武技を創出】等のスペシャル(笑)な効果を求めて稽古するのはやるだけ無駄という現実。
空手の型はやるだけ無駄と言う現実107
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1551958363/
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 名称の件について、もっと分かりやすく書こうか。
1対1で相手が攻撃してくるのをサバいて、投げ、関節、あるいは打撃などで制圧する
そういった一連の流れの攻防をまとめたモノに名称がつく
例えば、柔術である起倒流のワザの名はこんな感じ
後詰 嵐 小尻返し 風車
例えばさ、
A「今日は風車を重点的に練習をしようか」
B「風車で使う崩しは小尻返しでも使いますよね?」
A「使うけど、最初に学ぶ崩しは小尻返しじゃなくて嵐で憶えるのが一番いいよね」
B「確かに、嵐を憶えれば応用で後詰にも繋げれますし・・・」
こんな感じ。 中国拳法でもいいよ?
例えば太極拳には柔術の時と同じく、套路の動作における一連の攻防に名前がついてる。
こんな感じ
単鞭 高探馬 海底針 野馬分髪
ちょっとさっきの柔術のやりとりをそのまま中国拳法に置き換えてみよう。
A「今日は野馬分髪を重点的に練習をしようか」
B「野馬分髪で使う化勁は高探馬でも使いますよね?」
A「使うけど、最初に学ぶ勁は高探馬じゃなくて単鞭で憶えるのが一番いいよね」
B「確かに、単鞭を憶えれば応用で海底針にも繋げれますし・・・」
こんな感じ
突っ込まれる前に一応言っとくが、書いてる俺は柔術にも中国拳法にも詳しくないので
この会話で出てきた技名や術理がそのまま現実世界に当てはまるとは露程も思ってないし言うつもりもない
あくまで攻防や術理に名称が存在すればこういう感じのやりとりが可能、と言いたいだけ。 では、本題の唐手の世界ではどうだろう?
A「今日はクーシャンクーのあの動作を重点的に練習をしようか」
B「あの動作ってどれですか? こうやって、こうして、こうする動作の事ですか?」
A「違うよ、こうして、こうやって、こうする動作の分解だよ」
B「分かりました。でも、クーシャンクーよりパッサイの身体操作も練習したいんですけど・・・」
A「いいけど、パッサイの身体操作ってどれの事? こうして、こうやって、こうする動作の分解に使う崩しのこと?」
それとも、こうして、こうやって、こうする動作で突くときに使う身体操作?」
B「違いますよ、第二十一動作ですよ」
A「二十一番目の動作って、こうきて、こうやって、これだっけ?」
B「いえ、こうして、こうきて、こうする動作が二十一番目でその分解で使う身体操作を練習したいんですよ」
・・・未開の原人じゃないんだからさあ、身振り手振りにも程があるだろっつー話。
でも仕方ないよねえ、実際に各動作を区切った攻防に名称がついてないんだから。 柔術さんや中国拳法さんは、実際に対人稽古をして技術を積み重ねてきた歴史があるから
一連の攻防にも練習する上で便宜上名称がついてるなんてのは当たり前ですけど
唐手の型は60を超えるし動作だけでも1000は超えるのに、柔術や中国拳法のような攻防の名称は無いっスよね
あれッスかね? みんな大好き「失伝」と一緒で
60以上の型の分解における攻防の名称も軒並み失伝しちゃって陰も形も残ってないんですかね?
戦火で記録が焼けると同時に、沖縄の人達の頭の中にあった名称の記億も何故か思い出せなくなったとか?
あるいは思い出せても、60を超える型、合わせれば1000を超える動作、それらの分解の名称を
ことごとくヒミツにして墓までもっていったから、現在でも分解の攻防の名称が残ってないんでしょうかねえ。
違うよ、ハナっから型の攻防における分解なんてものを練習する習慣が無かったから
そんな名称必要なかったんだよ。不便でも何でもない、だって対人稽古なんてものをする唐手家のほうが稀だったんだから。
そもそも、分解をしない、のではなく
分解なんてものが存在しない。分解ってのは型に攻防の意味があって、そこから意味を抽出して練習するからこその分解
なんだけど、元から型の動作に大した攻防の意味を込めて作られてないんだから、意味深にそれっぽく作っただけなんだから
分解もクソもねーわけよ。故に、分解なんてものを練習する習慣は無いし、習慣どころかそんなものは存在しないし
だから名称も生れなかったわけ。失伝なんかしてないの。元からないの。
そんなものが脈々と受け継がれてきてたら、本土に普及に来たときにわざわざ
本土の学生様に約束組手や自由組手を作っていただくなんてマネしてもらわなくてもいいし、ましてやそれを
本土から沖縄に逆輸入してありがたく採用させてもらわなくてもいいわけなんです。実際、約束組手や自由組手
という本土で作られた練習方式の名称が沖縄で今でも定着している。それ以前は約束組手や自由組手といったものは
何て呼ばれていたんでしょうねえ。分解の攻防の名称と同じく、失伝してしまったんでしょうかねえ。アホらしい。 あ、短絡的な人はこの書き込みを読んです〜ぐ頭に血が昇って反論したがるけど
俺は沖縄唐手の全ての唐手家が型の分解をやっていなかった、というつもりはありません。
例えば本部などはナイハンチの分解を個人的に研究してたフシがあります。
研究というのは、型に隠されている技術を模索する、なんていうファンタジーな行為ではなく
みんなが現在やってるのと同じ、この動作にこういう意味をこじつけよう、という作業。
ナイハンチの最初の動作は、相手の腕を摑んで目打ちだな、みたいなさ。
本部と、その周囲の人間が数名やってた程度じゃないでしょうかね。
まあ、沖縄唐手全体から見たら数百人居た唐手家の中で数人が当時としては珍しく
型に攻防の意味があるんじゃないかと大真面目にこじつけまがいの作業をしていたフシがある、程度で
とても沖縄唐手で対人稽古があっただの分解を練習していただの、それがスタンダードだったなんていう
フシは全〜然、見受けられません。柔術や中国拳法のように名称が無いってことが、如実に物語ってます。
型というのは、技術の結晶などではなく、マキワラを突いて立派な拳タコを作って、それでもモノ足りない人が
空気相手に殴る蹴るを繰り返して「く〜〜、俺なんか武術っぽい事やってるぅ〜!」って自己満に浸る装置なんですよ。
そこに深い意味はありませんし、まして現実の殴り合いを想定してるなんて現代の人間の都合の良い願望なのです。
あったら、当然動作の意味もその攻防の名称も伝わってますがな。
動作の意味が分からず名称も不明、ってのは失伝なんかじゃなくて、
元から存在しないって現実をとっとと受け入れましょう。
そして、だからこそ「こじつけ作業」を胸を張って行いましょう。
型に意味をこじつける作業は、尊い行為なのです。おわり。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています