ロスト・スペラー 20
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
公爵がぶつかった勢いで魔神像がかたむきはじめました。
公爵はすかさず立ち上がると、大きな体で魔神像を支えます。
「ま、魔神様に何と言う事を!
貴様、万死に値するぞ!」
構わず前進を続けるクローテルにあせった公爵は魔物を呼び集めました。
「ええい、魔物どもめ!
暴れるだけが能ではあるまい、しっかり魔神様をお守りせぬか!」
領地をおおっていた魔物は魔神像に集まって、巨大な悪魔になります。
それを見上げて公爵は感動しました。
「おお、これが魔神様の真の姿……!
どうだ、小僧!
お前の様な者でも、この偉大さが分かろう!」
魔神像は動き出して、天地をゆるがしました。
魔神像が両手を高くかかげると、領地に雷が降り注ぎ、辺りを火の海に変えます。
「す、すばらしい……!
燃えろ、燃えろ、すべて燃えてしまえ!
魔神様、その炎で世界を焼きつくしてくだされ!」
もう公爵は正気を失ってさく乱していました。
クローテルは低い声でつぶやきます。
「こんな物の何がすばらしいのか……」 公爵は彼の言葉を聞きのがさず、怒りくるいます。
「何だと!?
貴様、魔神様に対して何と無礼な!
恐れを知らぬと見える!
魔神様、魔神様、この小僧に魔神様の偉大さを思い知らせてくだされ!」
それに応じて魔神像が両手を高く上げ、地鳴りの様な怪しい呪文を唱えると、天から光の柱が、
クローテルを目がけて落ちてきます。
光の柱が落ちる様は雷のごとく物すごい速さでしたが、クローテルが腕を振り払うと、
光の柱は弾かれて魔神像の胸に直撃しました。
魔神像はゆれて大きくかたむきます。
「何と……!」
公爵は魔神像を支えようとしましたが、魔神像は自力でふみ止まりました。
「おお、さすがは魔神様!」
公爵が安心したのも束の間、クローテルが大地を叩くと魔神像の足元がくずれて落ちこみ、
魔神像にひざをつかせます。
クローテルは全力で走り、再びかがやく剣を手に取ると、高く飛びはねました。
魔神像を頭から叩き割ろうとしているのだと、公爵はさとりました。
「止めろーー!!」
公爵はクローテルを目がけて、やみの雷を落とします。
魔神像の指からも光線が放たれました。
クローテルは公爵の雷を剣で受け止め、さらに魔神像に向かって剣を投げました。 やみの雷をまとったかがやく剣は、光線を突き破って魔神像の心臓にささります。
魔神像はあふれる力を受け切れず、内側からばく発して粉々になりました。
「魔神様ーーーー!!
小僧、貴様、何と言う事を!!
魔神様、魔神様、この私めがかたきをうちますぞーー!!」
公爵はひるむ所か、一層の憎悪を燃やして、クローテルをにらみます。
公爵の体はますます大きくなって、残った魔物をも吸収し、さらなる力を得ます。
それはよろいを着て剣を持った、大むかでの様でした。
クローテルはかがやく剣でよろいを突きますが、つらぬいただけで手応えがありません。
「バカめっ!!
お前の攻撃はすべて見たぞ!
お前はしょせん力まかせに切るか打つだけしか芸が無いのだ!
もう、お前の攻撃は効かぬ!
わしの体をいくら切ろうが、いくら打とうがムダだっ!!」
公爵の口からはあらゆる物を溶かす緑色の液体がふん射されます。
液体を浴びたクローテルのはだは真っ赤にただれました。
「こうなれば貴様もただがんじょうなだけのデクよ!
じわじわとなぶり殺してくれる!
魔神様とわしに歯向かった事を後かいするが良い!」
クローテルはかがやく剣で公爵を切り刻みますが、むかでの体はばらばらにされても、
元通りにつながって復活します。
「ワハハハハハ!!
痛くもかゆくもないわ!!
炎と雷の攻めを受けろ!!」
落雷が何度もクローテルをおそう上に、公爵の口からは火炎がはき出されます。 クローテルは雷をよけながら、剣を振り回して風を起こし、炎を返しました。
「うわ熱つつつ!!」
公爵は火にあぶられて、のたうち回ります。
「炎は止めだ、雷を受けろ!」
炎の攻撃を止めて、雷を落とそうとする公爵に対して、クローテルは高く剣をかかげました。
雷は彼の剣を目がけて落ちて来ます。
直撃のしゅん間に、クローテルは剣を公爵に向けました。
雷はまるで弾かれたように公爵目がけて飛んで行きます。
雷の矢を受けた公爵は体がしびれて動きが止まります。
「グワアアアア!!
小しゃくなっ!
ならば、これでも食らえ!」
それでもひるまず、今度は口から毒のきりをはきました。
毒のきりは地面にただよい、草木をくさらせて行きます。
クローテルがとんでよけようとすると、公爵は足をふみ鳴らして地しんを起こしました。
「にがすか!!
毒を浴びてくさってしまえ!!」
クローテルは足元がゆれてとべず、毒のきりに飲まれてしまいます。 毒の中では息もできず、クローテルは少しずつ弱って行きました。
「ハハハハ、ようやくおとなしくなったか!
手こずらせおって!
そのまま己の無力をかみしめながら死ね!!」
公爵は地面をゆらしながら、毒のきりをはき続けます。
さしものクローテルも打つ手が無く、毒のきりの中にしずんでしまいました。
しかし、運命はクローテルを見放しはしませんでした。
遠くからかねの音がカランカランと鳴りひびきます。
「クローテル殿ーーーー!!」
旗を高くかかげて、マルコ王子一行がかけつけました。
マスタリー・フラグの聖なる力が、毒のきりをしりぞかせ、ベル・オーメンのかねの音が、
黒雲(くろくも)をさいて、空を明るませます。
戦いが長引いて、もう夜明けが近いのです。
朝日のまぶしさに、オッカ公爵は目をつぶりました。
「オオ、もう朝か!!
まぶしい、目が見えぬ!
ええい、ガンガンうるさいぞ!!
雲が戻らぬ、頭が割れそうだ!
これがベル・オーメンの力……!」
「邪悪な力よ、去れ!!」
レタートの鳴らすかねの音が、黒い夢にしずんだオッカ公爵を目覚めさせます。 マスタリー・フラグをかかげたマルコ王子は、毒のきりの中でうずくまっているクローテルに、
かけよりました。
「クローテル殿、生きているか!」
「助かりました、マルコ王子」
お礼を言うクローテルに、王子は首を横に振ります。
「いやいや、魔物どもが居なくなったので、こうして出て来られたのだ。
それもクローテル殿の働きであろう?」
公爵は怒りくるって暴れ出しました。
「どいつも、こいつも、わしの邪魔をする!!
ほろびよ、わしの敵はみなほろびよ!!」
公爵は地面をふみあらしますが、マスタリー・フラグの結界を破る事は出来ません。
クローテルは毒から立ち直り、マルコ王子に言いました。
「王子、旗を貸してください」
「あれを倒す手があるのだな?
良かろう、クローテル殿。
邪悪な公爵を打ち倒してくれ!」
王子はためらいもなく聖なる旗をクローテルに渡します。
クローテルは旗を持つと一度大きく振り回して高くかかげ、天高くとびました。 彼は朝日を背に負って、魔物と化したオッカ公爵の頭に、マスタリー・フラグを突き立てます。
「う、うわっ、わしが死ぬのか……!
このわしが……」
またたく間に公爵の体はくずれ、朝日にさらされて灰となりました。
立派な公爵の城のあとには、がれきしか残っていません。
クローテルはマスタリー・フラグをマルコ王子に返しました。
「ありがとうございました、マルコ王子」
ひざをついて旗を差し出す彼に、マルコ王子は言います。
「礼を言わねばならないのは、私の方だ。
クローテル殿が居なければ、今ごろ私たちは、どうなっていた事か……。
あなたが、あなたこそが新しい聖君なのだ。
ベルを鳴らし、旗をかかげる、そんな事が出来る人物は他に居ない」
王子は旗を受け取ると、クローテルの前でひざをつきました。
「お立ちください、クローテル殿。
いつかあなたは運命のみちびきによって、アーク国の君主、真の聖君、神王となられるでしょう。
その時に私はルクル国の王子として、神器マスタリー・フラグを持つ者として、改めて、
あなたに忠せいをちかいます」
「止してください、マルコ王子。
私は神王ではありません」
「ええ、今は未だ。
しかし、私は真の王となる方を見ました。
あなたの存在は私にフラグレイザーとしてのほこりを思い出させました。
神を信じる敬けんさも」
マルコ王子は立ち上がり、旗をたたむと、白布に包みます。 マルコ王子はドクトル、レタート、フィデリートと4人の兵士、3人の召し使いを連れて、
オッカ公爵領を後にしました。
一人残されたクローテルは深いため息をつきます。
「これをどうすれば良いのでしょうか……」
オッカ公爵は倒れ、その家臣たちも消え去り、領地を守る者も統治する者もだれも居ません。
「とりあえず、王に使いを送りましょう」
クローテルはアーク国王とりん国のディボー公に助けを求めるため、領民の中でも地位のある、
町長を一人選んで使者にしました。
そして魔物が荒らした領地を元に戻すために、クローテル自身も復興を手伝いました。
3日後に西の国とアーク国からえん助が来るまで、クローテルはオッカ公爵領に留まり、
領民といっしょに働きました。
アーク国に戻ったクローテルはアーク国王に事の次第を説明します。
「うわさは本当でした。
オッカ公爵は悪魔に取りつかれ、人びとをいけにえにささげていました。
私はルクル国のマルコ王子の協力で、何とかオッカ公爵を打ち倒しました。
オッカ公爵領には新しい公爵が必要です」
「ルクル国だと?
そなたは外国の者を頼ったと言うのか?」
アーク国王のきつ問にクローテルは素直に答えます。
「はい。
成り行きではありますが、そうしなければ公爵のたくらみをくじけませんでした」 アーク国王は、ろ骨に不満と警かいを顔に表していました。
「マルコ王子は何か言わなかったか?
オッカ公爵領の明け渡しや割じょうを求めたりだとか……」
「いいえ」
「では、しゃ礼やほうしょう金を求めたか?」
「いいえ」
「それでは、ばいしょう金や支えん金を求めたか?」
「その様な事は全くありませんでした」
「ウーム、ますます怪しいぞ」
マルコ王子は何も求めなかったと言うクローテルに、疑い深いアーク国王は計略があるのではと、
心配しました。
そんな王にクローテルは言います。
「マルコ王子にたくらみは無いと思います」
アーク国王は彼の目を真っすぐ見つめると、小さくため息をつきました。
「……そなたが言うのであれば、信じよう」
その場では納得した王でしたが、心の中では、いつかクローテルが王位をねらうのではないかと、
そんな予感がしてならないのでした。 解説
『悪魔退治<デモンバスター>』編は、運命の子シリーズ第2部の8つの小編の7つ目である。
この後はクローテルがアーク国の王となる最終編の『王位禅譲<スローン・インヘリタンス>』編に続く。
原典に於ける、この編の重要な部分はルクルバッカ王国のマルコデロス王子にクロトクウォースが、
神王として認められる所にある。
邪悪な公爵が何の彼のと言うのは、実の所どうでも良い……と言っては語弊があるが、
少なくとも大きな問題では無い。
本編に於いても、大きな改変は無く、クローテルはマルコ王子に認められて、主要な人物の中では、
彼を真の聖君、神王であると認めない者は居なくなった。
オッカ公爵領は原典ではオカシオン、又はオッカションとなっている。
地理的には西の国(ディボーパリョーン公爵領)の南西、ルクルバッカ王国の北西に位置する。
大陸の端に位置しているが、この国を経由しなければ行けない国は無く、辺境の小国と言う扱い。
オッカ公爵は原典ではセルヴァン・コン・オカシオンであり、先祖代々オカシオンを治めていた。
オカシオンは嘗ては小国ながら独立していた様だが、当時はアークレスタルト法国に服属して、
「王」では無く「公爵」を名乗らされていた。
どうもオッカ公爵は、この辺りに大きな不満を抱えていた様で、それが悪魔の力を頼った、
主要な原因の様である。
しかしながら、特に事前に何等かの大きな事件があった風でも無く、少々唐突に感じられる。
小さな不満が少しずつ鬱積し、それを晴らそうとしたと見るのが自然だが、もしかしたら、
史実のアークレスタルト法国側に直接の原因となる瑕疵があった物の、当時の政治的な事情で、
伏せられたのかも知れない。 物語中、クローテルはアーク国王に命じられてオッカ公爵領に派遣されているが、この頃になると、
アーク国王は開き直って、クローテルを便利に使おうと考えている。
最後には王位を追われるのではと恐れるが、その心境は王位禅譲編では少し変化している。
これに関しては王位禅譲編で言及する。
史実のオッカ公爵が実際に何を企んでいたのかは不明だ。
邪教崇拝、悪魔崇拝を始めたとされているが、どの様な悪魔なのかも明らかになっていない。
作中でも原作でも、悪魔に関連する物は『使役される悪魔<レッサー・デーモン>』と魔神像のみである。
公爵を傀儡として操る様な悪魔の黒幕と言った物は登場しない。
独立心を持っていた為に、因縁を付けられて滅ぼされたのかも知れない。
武装蜂起しようとしていたのではないかと疑う説もあるが、他国を攻めたと言う明確な史料は無い。
武装蜂起説では、領民の減少は徴兵に因る物と考えられている。
即ち、領民(農民その他の余剰人口)を徴兵しながらも、それを宗主国に報告しなかったばかりに、
見掛け上は領民が減ったと言う物である。
勿論、この説も裏付けとなる史料は無い。 オッカ公爵領をマルコ王子が訪れたが、これは当時としては危うい行動である。
如何に公爵で一定の独立した権限があるとは言え、宗主国の断り無しに他国の貴族を受け入れる事は、
宗主国への裏切りや敵対行為と見做され兼ねない。
オッカ公爵領は飽くまでアーク国の権勢の及ぶ範囲内であり、国内の問題は国内で解決せねばならず、
マルコ王子の介入は余計な世話でしか無い。
それをマルコ王子も承知しており、態々アーク国王にオッカ公爵領での異変を伝えている。
これは「貴国が動かなければ我が国が解決する」と言う暗黙の脅しであり、その儘反応が無ければ、
ルクル国がオッカ公爵領を制圧して、自国領に加えていた。
実際、ルクル国の方が首都がオッカ公爵領に近く、よりオッカ公爵領を制圧し易い。
オッカ公爵としては、近いルクル国に服属するよりも、遠いアーク国に服属する事で、
少しでも独立した政治を行える様にしたかったのだろう。
しかし、マルコ王子に侵略の意図があった訳では無く、彼はクローテルが派遣される事を見越して、
国境に陣取っていた様である。
国境は誰の土地でも無いが、それ故に勝手に軍を展開する事は許されない。
マルコ王子一行は軍勢と言うには心許無いが、無視出来る規模でも無い。
もしクローテルが現れなかった場合、マルコ王子は少しずつ兵隊を集めて、何時でもオッカ公爵領を、
制圧出来る様に準備していた事だろう。 マルコ王子がクローテルを待ち構えて駐留していたのは、東の国境の砦前である。
マルコ王子がオッカ公爵領に入るには、南の国境の砦を通った方が早いし、妨害も受けないが、
それではクローテルに会えないので意味が無いのだろう。
当時の都市は復興期の様に殆どが城塞都市で、周囲を城壁に囲まれており、その周辺に小村落がある。
そして、それぞれの領地の境にも砦と塁壁が築かれており、国境を守る砦の塁壁より外は、
どこの土地でも無い。
勿論、国境を全て塁壁で囲う事は現実的では無い。
整備された道や、その周辺の平らで移動し易い所に塁壁を築き、それ以外は進入が困難な山林や、
河川、沼地になる様にしておくのが普通だった。
人工的に丘陵を築いたり、態と荒れた山林を残しておいたりもするのも、国境を守る為である。
オッカ公爵領の東の国境は、西の国(ディボー公領)に通じており、慣例的に言うのであれば、
ここも一応はアーク国の領地である。
勝手に軍隊が駐留すれば、戦争準備と見做され兼ねない。
先述した様にマルコ王子一行は「軍勢」とは言えないが、疑われても仕方の無い状況ではある。
西の国やアーク国から軍隊を派遣される可能性もあった。
だが、仮に軍を派遣する場合でも先ず話し合うのが常識であり、国境沿いに軍隊、又は、
それに準ずる武装集団を発見しても、行き成り攻撃を仕掛けるのは、当時では非常識だった。
戦争の前段階として、「意思の確認」と「(最後通告を含む)警告」があり、同時に迎撃態勢を整え、
最後に「宣戦布告」があって、正式な戦争となった。
これを経ない戦争行為は、国際社会の非難の対象となる。
原典を見ても、マルコ王子の行動を非難する様な部分は無く、アーク国側が軍を動かした事も無い。
よって、マルコ王子一行は脅威とは見做されなかったのであろう。 マルコ王子はクローテルと共に領内への進入許可を貰ったが、これが実際に有り得るかと言うと、
時と場合に依る。
一国の王子を、その国の服属国でも無い国が独断で招き入れる事は、本来は好ましくない。
正式に自国の王の許可を取るべきであろう。
しかしながら、王族の扱いと言う物は難しく、多少の非礼なら呑むのが一般的な対応である。
これをどこまで呑めるかは、当人の度量次第だが、王族相手であれば、一般人なら怒る所でも、
堪えようとするだろう。
もしかしたら、自国の王には報告しないと言う、事勿れ主義的な回答も有り得るかも知れない。
受け入れるも非礼、追い返すも非礼となれば、どちらの顔を立てるべきかと言う話になる。
オッカ公爵領はルクル国に近いので、脅威度で言えば実はルクル国の方が高い。
領民もルクル国民と交易をしており、関係は浅くない。
オッカ公爵領を巡って、アーク国とルクル国は戦争こそしていないが、過去に何度も、
武力を伴わない小競り合いを繰り返して来た。
クローテルはマルコ王子の付き人の様な扱いだったが、これも相手が王族と言う事を考慮すれば、
仕方の無い事と言える。
旧暦の王族の中でも、マルコ王子はヴィルト王子と並び、神器を受け継ぐ正統な代理聖君の血統だ。
神器を持つ王族や貴族は、神器を持たない王族や貴族よりも上の扱いなのである。
同じ王国でもグリースとルクルでは重みが違う。
逆に、盾を継承するオリン国の国主は公爵だが、同じく神器を持つ王と殆ど同等の扱いになる。 オッカ公爵領に対して領土的野心を持っておらずとも、マルコ王子が派兵の準備を進めていた裏には、
邪教崇拝への警戒感がある。
西方に於いて、邪教崇拝は禁忌である。
表向きには、「現世利益を唱える宗教は人を堕落させる邪教である」として、こうした者達が、
「世界を良くない方向へ導く」とされている。
これ自体には一理ある。
そもそも現世利益を唱える宗教を信じた所で、実際に利益がある訳では無い。
確実な利益が約束されるならば、それは最早宗教では無くなる。
神頼みをする位なら、現実を確り見ろと言う意味の、「天を仰いで石に躓く」と言う諺もある。
即ち、現世利益ばかりを謳う宗教は、私利を求める人の心を利用した悪辣な詐欺であり、
故に邪教と言っても良い。
邪教は現世利益の有無を信心の有無や信仰の軽重に置き換え、より多くの奉仕を求めて、
搾取しようとする。
邪教の信徒は奴隷であり、搾取される事に喜びを見出してしまう。
では、当時の教会は詐欺では無いのかと言う問題になってしまうが、一応の理屈で言えば、
現世での利益ばかりを求める事に熱心な者は、利益の追求こそが幸福と錯誤する愚者であり、
人が求める利益には際限が無く、故に永遠に充足を得られず苦しむ事になるらしい。
現世利益の嘘は暴けるが、死後の事までは観測しようが無いので、どうとでも言えると言う、
小狡い面もある。 説教臭い話は横に置くとして、どうして為政者にとって邪教が良くないかと言うと、王の権威が、
教会に支えられている為である。
王とは人々を従えて国を統治する役目を神から認められた者なので、そこに他の神が居ては困るし、
人々が自分の利益の為に邪教を崇拝する様になっては、王の権威が揺らぐのだ。
旧暦の教会にとって、神とは良き王を定める他に、人の魂を救済する存在であり、更には、
人類が苦境に陥った際の救世主でもある。
「神を信じていれば良い事がある」のでは無く、「神が居るからこそ今がある」と言う考えで、
良い事も悪い事も神の定めた法の上の事であり、教会は神を信じる者の集まりとして、
教えを広めると共に、神に倣い寛大な慈愛の心を持って、多くの人を救う事を目的としている。
……飽くまで、表向きにではあるが……。
貧民を救済するのも教会の役目であり、教会関係者は贅沢を戒め、弱者に施しをする事になっている。
これによって、教会は「神に見放された者」を減らし、信徒が絶えない様にしている。
ともかく、こうした国を支える『体系<システム>』を破壊するのが邪教なのである。 以後は、オッカ公爵が邪教を崇拝していた物として語る。
オッカ公爵が邪教を崇拝していた理由も、作中で語られた通りとする。
邪教崇拝、悪魔崇拝は、当時としては禁忌だが、実際は時々あった様である。
王族も貴族も平民も奴隷も、誰でも邪教を崇拝した。
その多くは悪魔崇拝であり、人は神では無く悪魔の力を借りたがった。
何故なら、神は選ばれた者にしか力を与えないが、悪魔は誰にでも力を貸した為だ。
正確に言うと「誰にでも」では無いのだが、神よりは余程選定の基準は緩かった。
神が人に力を与えるのは、善人に限り、しかも相当の窮地にある事が前提だ。
生きるか死ぬか、或いは大多数の人間、例えば人類自体の存亡が懸かっている様な状況。
それに比べれば、気に入った者に力を貸す、或いは召喚に応じると言う悪魔の何と気安い事か……。
そう言う訳で、邪な願望を持つ者は誰でも邪教、或いは、それを司る悪魔を崇拝した。
日常の小さな願いや、清く正しい願いであれば、悪魔に祈る事はしない。
精々その辺の精霊信仰や聖人信仰に留まる。
悪魔を頼ると言う事は、その禁忌、背徳感から、相応の大きな願い、どうしても叶えたい、
必死の願い、野望、欲望になる。 オッカ公爵は自国の独立を保ちたかった。
そして何者にも侵されない権威を欲した。
旧暦では国家の独立を保つ事は困難だ。
どんな立場にあっても、隣国や大国の干渉は免れない。
小国であれば尚の事。
他国からの干渉を確実に排除しようと思えば、それは修羅の道になる。
即ち、覇権主義に陥らざるを得ない。
オッカ公爵は悪魔の力を借りて、覇権国家の国主になろうとした……と見る事も出来るが、
それが実現したかは疑わしい。
飽くまで、公爵領内の事だから人々を従わせられただけで、対外戦争を始めたら、国力は落ちて、
如何に悪魔の力があろうと、国民は逃亡し、周辺国から袋叩きにあって、早晩滅亡しただろう。
悪魔の力の維持には生け贄が必要で、領民の生け贄が尽きたら、他国から攫って来るのだろうか?
そうして出来上がるのは、果たして人間の国だろうか……。
公爵に深い考えは無く、肥大化した自意識を利用されて悪魔に操られていたと見る事も出来る。
悪魔が登場した時点で何でもありなのだから。 マルコ王子一行とクローテルは公爵の城に案内されたが、これは結構な距離を移動している。
大体にして、公爵ともなれば領主の城は領地の境から離れた所に置かれる物だ。
物語中、余り重要な事では無いので省かれたのだろう。
原典でも領内の様子に変わった所は無いとされている。
領内で領民が生け贄にされていると言う重大事件にも関わらず、領内の様子は変わっていない事から、
領民も悪魔に洗脳されていた可能性がある。
城の地下での儀式に参加していた者に、洗脳されていた様な描写があるので、その他の場面でも、
完全な支配が行き渡っていた可能性は高い。
原典ではオッカ公爵領内に関する不穏な噂は、異変を察知して領地から逃げ出した領民や、
領地を訪れた旅人や商人から伝わったとされている。
その過程で尾鰭が付き、大袈裟で不確定な噂となって行ったのだろう。 オッカ公爵の城は正式名称を「ヴェッテン城」と言うが、ヴェッテンはオカシオンの別称である。
原典では一貫してヴェッテン城であり、悪魔の砦となった後も、その呼称が使われている。
因みに、戦いが終わって崩落し、再建した後もヴェッテン城である。
旧暦当時の家は、身分の高い者に限らず、平民であっても裕福な者は、家に客間を設けて、
更に余裕があれば、来客が寝泊まり出来る部屋を作った。
この「客を迎える」と言うのが、それなりに名誉な事だった様で、何時何時(いつなんどき)、
来客があっても良い様にしておくのが、一種の礼儀と言うか、常識だった。
多数の使用人を抱える貴族の家であれば、使用人の寝泊まりする場所も合わせて、ホテルの如く、
何十も部屋があり、更に別宅や別荘がある所も珍しくは無かったと言う。
作中では公爵の城の広さに関して、詳しい描写は無く、原典でも省略されているのだが、
当時の高位貴族の城は、現在で言う都市の大きな学校並みで、公爵の城も相応だったと思われる。
この城と言うのが、当時の貴族達の権威を示す物だったらしく、見栄を張る為に身の丈に合わない、
立派過ぎる城を建て、財政難に陥って領民に反乱されると言う、仕様も無い事件もあった。
一応オッカ公爵は、領地の収入に見合わない生活をしていたと言う、当時の評価がある。 領地内の者の内、誰が公爵の真意を知っていたのかは曖昧だが、取り敢えず、城の中で公爵に、
直接仕えていた者達は、全て共犯関係にあったと見られている。
中には無理遣り悪魔の力で協力させられた者も居るだろうが……。
城の地下では悪魔崇拝の儀式が行われていたが、これは当時の有り勝ちなイメージである。
人目に付かない様に夜中に地下で行われる物と相場が決まっているのだ。
トランス状態になる為に、酒を飲む、麻薬を焚く等して、正常な判断力を失わせると言う事も、
よく行われていた為に、国や教会の取り締まりは一層厳しくなったと言う。
城の中の人物は殆どが悪魔化していたが、下級の召し使い達だけは原典でも描写が無い。
作中では省かれているが、原典では城の兵士は全員悪魔化して、クローテルに退治されている。
原典では公爵が退治された後、城の中は蛻の空になっており、そこで全滅したかの様に思われるが、
実は後の描写があり、そこでは公爵の城で働いていた者が戻って来ている。
どうやら地下の儀式に参加していた一部の召し使いは、領民達と共に城の外に抜け出していた様だ。 悪魔が領内に溢れた後、教会が避難所となった。
原典では、この時に教会には多数の領民が避難していたとある。
戦争でも教会は重要な避難場所であり、ここを攻撃する事は教会への敵対行為と見做された。
「何かあれば教会へ」と言うのが、当時の常識だったのだ。
しかしながら、如何に教会でも全ての領民を収容する事は困難である。
実際、教会に避難していたのは領民の一部で、その他は家の中に篭もっていた。
原典の描写によると悪魔が家を壊したり燃やしたりしているので、家の中でも無事とは言えず、
領民の半分は犠牲になったと書かれている。
旧暦の戦争に於いては、街に火を放つ事も有効な戦術としてあった事を付記しておく。
火攻めは攻城戦でも用いられたが、教会が機能する様になってからは余り使われなくなった。
これは火の勢いで教会まで焼いていしまう事例があった為で、無差別な攻撃を行えば、
戦争に勝利しても教会から背教者認定された。 作中でクローテルは神器であるベルを鳴らし、旗を突き立てているが、これは原典でも同じである。
神器を扱える者は、基本的には神器を受け継ぐ者だけであり、それも1つの血統が1つの神器と、
厳格に定められてた。
詰まり、ベルリンガーが旗を持つ事は出来ないし、フラグレイザーが鐘を鳴らす事は出来ないのだ。
クローテルが神器を扱えたと言う事は、彼こそが真の聖君と言う証である。
一方で、聖君以外でも神器を扱えたと言う話もあるにはある。
例えば、神槍コー・シアーを聖君でも何でも無い一般人が振るった記録があり、それによると、
村落が魔物の群れに襲われ窮地に陥った、その時、魔物に立ち向かう一瞬だけ槍が軽くなって、
魔物の群れを薙ぎ払ったと言う。
その後、槍は重くなって振り回せなくなっており、窮地に神が力を貸したとされている。
この様に非常事態であれば、一般人でも神器を使えたので、クローテルが真の聖君と言えるかは、
実は怪しい。
神器は神聖な物であり、持ち出せるのは非常時と決まっているので、文句を付けようと思えば、
どこからでも付けられるのだ。
クローテルを認めない者達は、その後の話で登場する。 公爵が崇拝していた悪魔の正体は謎である。
原典でも「悪魔公爵」となっているが、どこの何と言う種類の悪魔かは明記されていない。
オッカ公爵を「悪魔公爵」と言っているのかも知れないし、本当に悪魔の公爵なのかも知れない。
オッカ公爵自身は「魔神様」と言っているのも、混乱の元である。
悪魔が引き起こした数々の不可思議な現象に関しては、何も言えない。
本当に、話の中にある様な事を起こせるのだとしたら、強大な悪魔だったのだろう。
魔法使いにしては魔法の規模が大き過ぎる上に、出来る事も多過ぎる。
悪魔の仕業だとしても、ここまで出たら目な物は記録に無いので、大袈裟に表現した可能性もある。
雷と炎の攻撃は当時の神威の表れか?
旧暦の史料自体が少ないので、もしかしたら他にも例がある様な事だったかも知れないが……。
原典と合わせて考えると、どうやら魔神像こそが悪魔の本体であり、それが破壊された後は、
悪魔が公爵に乗り移った様である。
訳の分からない神器の中でも「訳の分からない物」と言われるマスタリー・フラグだが、
この話ではフラグを、怪物となった公爵に突き立てた事で、悪魔を完全に消し去り、勝利した。
この事からマスタリー・フラグには、魔除けの効果があると推測される。
「敵地に立てれば勝利が確定する」と言う意味不明な解説は、それを拡大解釈した物と思われる。 さて、この話にはクローテルが苦戦する場面もある。
これの意味する所は、クローテルも無敵の神の子では無く、所詮は人間で、神器の力を借りなければ、
強大な悪に対抗する事は出来ないと言う事を示したのだろう。
神器の継承者達の面目を保つ意味もあるのかも知れない。
振り返ってみれば、クローテルは割と窮地に陥っている。
大火竜バルカンレギナにはコー・シアーが無ければ立ち向かえなかっただろうし、北海の魔竜も、
素手で追い詰めてはいたが、輝く剣が無ければ止めは刺せなかった。
巨人相手には力負けもしている。
人間相手には無敗で、化け物とも互角に戦えるが、巨大で強大な物には何か武器が無ければ、
及ばないと言うのが、共通した設定の様だ。
クローテルに関する話は「神王ジャッジャス」を忠実に描写した(とされる)伝説の通りであり、
大筋は原典から改変されていない。
魔法大戦に於いては、神聖魔法使いは傀儡魔法使いのエニトリューグに敗北した。
エニトリューグは神器を持つ十騎士を各個撃破する事で、神の力を封じたとされている。
共通魔法使いは神聖魔法使いを含む他の全勢力を下して、魔法大戦の勝者となったのだが、
仮にジャッジャスが原典の通りの実力を持っていたとしても、神器の不可思議な力が無ければ、
そう苦戦はしなかったと思われる。 統治者が居なくなった後のオッカ公爵領の復興は結構な難事だった様だ。
オッカ公爵には子供が居らず、妻1人と公妾4人が居た他に、その他の妾が10人程度居た。
しかし、妻も公妾も他の妾も行方不明になっており、原典では生け贄に捧げられたと見られている。
他に3親等以内の血縁は無く、アーク国側も後継者探しに苦労していた様だ。
オッカ公爵領は半ば独立国の様な扱いだったので、領民は公爵を尊崇するとまでは言わないが、
それなりの敬意を持っており、他国から統治者が派遣される事を望まなかった。
緊急手段でディボー公がオッカ公も兼務する事になっていたが、実際に統治はしていない。
オッカ公爵から最も近い血縁者である、又従弟の子を呼び寄せて公爵の地位を与えようともしたが、
これは領民の反発で頓挫した。
新しい領主は血統よりもオッカ公爵領に所縁のある者でなければ、領民は納得しなかった。
しかし、これと言う者は居らず……。
アーク国側が領主候補を提案しては、領民が難色を示す事を繰り返した。
不幸な事に、領民側も特に誰を領主として迎えたいと言う、具体的な人物を指名出来なかった。
オッカ公爵は1つの家系で代々長らく統治して来たので、他に候補が居ないのだ。
最終手段として、ヴィルト王子の直轄地にする案もあったが、領民の反応は肯定的では無かった。 この事態を解決したのは、ディボー公だった。
現実主義的な武闘派の彼は領主不在の期間が長引くと良くないと言う事で、市長や町長を集めて、
その中から公爵領を統治する者を選ばせる事にした。
だが、誰も平民にしては立派な暮らしをしている物の、貴族の生活を知らなかった。
悪い事に、公爵家の使用人の中で、領地を経営する手腕を持った、上級の使用人は全滅していた。
ディボー公はアーク国王に1つの進言をした。
それはオッカ公爵領には貴族を置かずに、アーク国の監督地と言う事にしておいて、
各領地から使用人を送り、政治は市長や町長の合議によって進めると言う物である。
これを受けてアーク国王は監督者にヴィルト王子を任命し、王子自身は直接の統治をしない物の、
市長や町長の合議よりは上の立場から、政治に助言が出来る事にした。
以後、オッカ公爵領は「公爵領」では無くなり、疑似的な共和制を採る事になったのである。
公爵を廃した後のオッカ公爵領の正式名称は、「オカシオン合議統治領」。
実際の統治の様子は史料が少ないので、よく分かっていないが、大きな問題無く機能した様である。
但し、後に先述したオッカ公爵の又従弟の子が、領地の継承権が自分にある事を主張して、
地位確認を求めた訴えを起こし、小規模な戦争に発展する。
この事は第3シリーズにて語られる。 ともかく、オッカ公爵領の騒動で、クローテルはマルコ王子にも認められた。
もう彼の栄光への道を阻む物は無くなり、最終編の王位禅譲編に突入する。
一地方領主に過ぎないクローテルが、如何にして王となるのかは、多分に政治的な要素を含む為に、
飽くまで「童話」と言う体で、原典とは少し異なる解釈の話運びになる事は断っておく。 熱帯森林戦
魔導師会は地道な調査の結果、反逆同盟の拠点と思しき建造物をカターナ地方の森林で発見した。
魔導師会は組織の威信に懸けて、ここで決着を付ける積もりで、慎重に決戦への準備を進めた。
先ず、建造物の周囲に何重にも結界を張り、魔力の流れを完全に支配する必要がある。
結界を張る為の魔法陣は、完成間近で作業を中断する。
複数の結界を一気に発動させる事で、相手の不意を突くのだ。
大魔法陣を描く作業と同時に、魔導師を動員出来る上限まで集めて、特別部隊の編成も行う。
『相談役<アドヴァイザー>』として、現地での作業風景を見ていた魔楽器演奏家レノック・
ダッバーディーは、不安気な面持ちで同行者の親衛隊員に言った。
「……ここまでしてもルヴィエラを仕留める事は出来ない。
少しでも同盟の戦力を削ぐ事が目的だと、ここの指揮官は解っているのかな?」
「そんなにルヴィエラは恐ろしい物なのですか?」
「君達は今まで何を見ていたのか……って、何も見ていないか……。
話だけ聞かされても中々信じられないのは分かるけどさ」
レノックが如何にルヴィエラの強大さを訴えても、魔導師は聞く耳を持たない。
否、魔導師だからこそ自分の目で見た物以外は信じられないのだ。 魔導師達も八導師から悪魔公爵の恐ろしさを聞いている筈なのだ。
だが、余りにも強大過ぎて、今一つ理解し難いのだろう。
魔導師の中には魔城事件を経験した者も居るのだが、それでも未だルヴィエラの「全力」を、
見た訳では無い。
レノックは溜め息を吐いて言う。
「僕としては拙速でも速攻した方が良いと思うんだけどな。
準備に時間を掛けると言う事は、相手にも時間を与えると言う事だよ。
何時連中に感付かれるかも知れないのに、悠長だ」
「そうまで言うなら直談判しては?
私が仲介しますよ」
親衛隊員の提案に、彼は首を横に振った。
「速攻にもリスクは伴う。
指揮官は安全策を取りたがるだろう。
それに僕は外道魔法使いだからね。
どうも魔導師のエリート達からの覚えは良くない様だ。
僕の提案と知って頷いてくれるかな?」
長年外道魔法使いと対立して来た魔導師会は、敵に分類される者と手を組む事に拒否感がある。
自負の強いエリートならば一層の事。
魔導師会の誇りに懸けて、出来るだけ自分達だけの手で物事を解決しようと言う意識が働くのだ。 親衛隊員は尚も進言する。
「今後の連携も考えると、偏見を正すのも早い方が良いと思いますが……」
「しかし、ここまで準備を進めておいて、今から作戦変更して突撃しろと言うのも、
中々難しい話じゃないか?」
「それは……、そうでしょうが……」
入念に計画した物を切り捨てて、新しい作戦を選択するのは困難だ。
これまでに掛けた時間と労力が、判断力を鈍らせる。
埋没費用効果と言う物だ。
「先も言ったけど、僕は戦いが、ここで終わるとは思っていないよ。
何事も経験さ。
一度ルヴィエラの『本気』を見ておくのも悪くないだろう」
「『経験』出来れば良いのですが……」
親衛隊員は全滅の可能性を考えて、小声で零した。
レノックは笑って答える。
「そう心配する事は無いよ。
ルヴィエラにとっては人間なんか取るに足らない存在だ。
卑小な存在を相手に本気で怒る事は、見っ度も無いと言う意識がある。
それが悪魔貴族なんだ」
そうだと良いのだがと、親衛隊員は心配そうな顔で事の成り行きを見守った。 一方、砦の中の者は事前に魔導師会の襲撃を知っていた。
何故なら予知魔法使いのスルト・ロアムが居る為だ。
予知魔法使いが居る以上、密かな企みは無意味だ。
特に、直接攻撃を仕掛ける場合は確実に見抜かれる。
魔導師会に拠点を突き止められる事をスルト・ロアムが察知したのは、その3日前だった。
拠点を突き止められる事は既に避けられず、問題は如何にして被害無く拠点を変更するか、
或いは、魔導師を迎撃するかと言う点に絞られた。
しかしながら、肝心の同盟の長であるマトラ事ルヴィエラには、その気が全く無かった。
「マトラ様、そろそろ何等かの手を打たれた方が宜しいかと存じます」
彼女は警告をしたスルトに対して、気怠そうな態度で言う。
「私の手を煩わせる積もりか?
あの程度の相手、お前達でも何とでもなろう」
「それでは確実に犠牲が出ます」
犠牲が出ると聞いたルヴィエラは、興味深そうに尋ねる。
「それは誰だ?」
「誰と言う話では無く、進んで対処しなければ、全滅も免れないでしょう。
勿論、貴女を除いての事ですが……」
スルトの説明にも関わらず、彼女の笑みは益々大きくなった。
「それは面白い!」 スルトは予知魔法使いだが、全てを思い通りに出来る訳では無い。
どう足掻いても避け得ぬ運命、動かせぬ障害の様な物はあるのだ。
ルヴィエラの存在が正に、それだった。
マスター・ノートが全知の書になる為の最大の障害は、神の如く絶対の力を持つルヴィエラなのだ。
どれだけ巧みに物事を進めようとも、彼女の存在で全てが無に帰す可能性が残り続ける。
「スルト、否、マスター・ノートよ、お前に権限を与えよう。
この困難を乗り越えて見せろ」
「……分かりました」
スルトは抗議も反論もせずに唯肯く。
こうなる運命からは逃れられなかった。
スルト・ロアムは今、全知の書としての実力を試されているのだ。
彼は残りのメンバーで戦力になりそうな物と、今後役に立ちそうな物を仕分けて、犠牲者を決める。
ニージェルクロームと彼に付いていたディスクリムは離脱中。
サタナルキクリティアとゲヴェールトは実力的に失う訳には行かない。
バレネス・リタには闇の子を育てる役目がある。
スフィカとエグゼラの狐は失っても痛くないが、利用価値はある。
シュバトは何をしても死なないので、構わなくても良い。
そうなると犠牲にして良い一人は、ビュードリュオンだ。
彼を犠牲にしても良いのであれば、何とか魔導師会に勝利出来るだろうと、スルトは考えていた。 意外にもスルトが指揮を執る事に反発する者は無かった。
彼の背後には同盟の長であるマトラが居る。
彼女の性格も大体の者は知っているので、反抗しても無意味だと悟っているのだ。
この段階では誰が犠牲になると言う事をスルトは誰にも明かさなかった。
そもそも犠牲が出ると言う事自体を伏せていた。
自分が指揮を執れば全て上手く行くと、「嘘」を吐いた。
予知魔法使いにとって、「嘘」を吐く事は大きな『禁忌<タブー>』である。
自分の予知が正しいと言う証明をする為には、嘘を吐いてはならない為だ。
予知とは正しい事を言うから価値があるのであり、間違った事を言う予知は予知では無い。
予知で嘘を吐けば、忽ち信用を失い、予知魔法使いとしての価値が無くなる。
何故なら、彼はマスター・ノートだから。
そして予知魔法使いは自分の事を占っては行けない。
マスター・ノートは何れ全知の書となるが、それでも所詮は道具に過ぎない。
道具として、より完全な形を目指すのは、道具の義務である。
だが、それと同時に道具は道具としての機能を失ってはならない。
よって彼は誰か1人には真実を告げなくてはならない。
当然ビュードリュオンは除外するとして、秘密を守れる者でなくてはならない。
残念ながらルヴィエラは信用できない。
そこでスルトが選んだ信頼出来る者は……サタナルキクリティアだった。
悪魔の彼女は人間を何とも思わない上に、悪魔らしく「契約」の概念を持っている。
一度交わした約束を違えない。 スルトの計画を聞かされたサタナルキクリティアは詰まらなそうな顔で言う。
「話は終わりか?」
自分の予知は外れないのだと彼は自分に言い聞かせて、心の平静を保った。
「ああ」
「何故、私に話した?」
「それが予知魔法使いの義務なのだ。
私が予知魔法使いであり続ける為には、予知の正しさを知る者が居なくてはならない。
事が終わった後で、全て計画通りだと言われも困ろう?」
「それは確かに。
しかし、私は思うのだ。
その話こそ私を欺く為の嘘では無いか?
真実だと言う保証が、どこにある?」
サタナルキクリティアの疑問に対するスルトの答えは、実に堂々とした物だった。
「どこにも無いが、信じて貰わねばならぬ。
私はマトラ様に指揮権を委ねられている」
だが、サタナルキクリティアは人差し指を立て、嫌らしい笑みを浮かべる。
「投資詐欺の話を知っているか?
詐欺師が『大豆<ファナハバ>』の先物相場を利用して、金持ちに投資詐欺の話を持ち掛けた。
私は市場の裏情報を知っている。
1000万MG預けてくれれば、1週間後に倍にして返すと。
騙された人物は警察に、詐欺師の予想が5日連続で的中したので信じてしまったと語った。
警察が調べた所、同じ様な被害者が他に10人は居た。
詐欺師は一体どうやって予言を的中させたのだろうか?」
※:大豆に相当する作物。
ダード、ダド豆、ファナ豆とも言う。
豆には他に、ハバ豆、バガ豆、野豆、黒豆、鞘豆等がある。
豆を表す一般名詞は「ハバ」。 スルトは眉を顰めて答える。
「先物相場は上がるか下がるかだ。
どちらか判らなくても、2人に声を掛けて、1人には上がる、もう1人には下がると言えば、
どちらかは当たる。
確実に2日連続で当てたいなら、同じ調子で4人に声を掛ければ、1人が残る。
10人相手に5日連続で当て続けるには、320人が必要だ」
「逆に言えば、320人に声を掛ければ、10人は確実に騙せるな」
「私も同じ事をしようとしていると言いたいのか?」
それは余りにも予知魔法使いを馬鹿にしていると、彼は憤った。
サタナルキクリティアは声を抑えて笑う。
「くっくっく、悪かったよ。
冗談だ、冗談。
お前の指示に逆らおうと言う気は初めから無い。
少し揶揄ってみただけだ。
予知魔法使いなのだから、その位は解っていた筈だな?」
「予知は言う程、万能でも完璧でも無い。
……今の所は」
「頼り無いな。
そんな事では困るぞ。
お前の指揮に従うと言う事は、お前に命を預けているのだからな」
「ああ、解っている。
私に任せておけば、何も間違いは無い」
スルトは自信を持って言ったが、サタナルキクリティアが彼を見る目は酷く冷めていた。 魔導師会は順調に準備を進めて、明朝を決戦の時と決めていた。
既に準備は整っており、反逆同盟からの不意の襲撃にも対応出来る様にしている。
魔導師達は夜も寝ずの番を立て、心構えは戦闘状態だった。
事が起こったのは、真夜中の北の時。
その頃、レノックも親衛隊と共に寝ずの番をしていた。
親衛隊員は予てより気になる事があって尋ねる。
「レノック殿、お休みになっては如何ですか?」
「いや、平気だよ」
「……何時、お休みになっています?」
「何時も休んでいるけど?
今だって休んでいる様な物じゃないか」
今一つ噛み合わない回答をするレノックに、親衛隊員は一拍置いて強い口調で言った。
「私が聞いているのは、『眠らなくて大丈夫ですか?』と言う事です。
ここ数日、私はレノック殿が眠っている所を見ていません」
「ははは、何を今更。
僕は一度だって、君達に眠っている姿を見せた事は無いぞ」
「えっ」
レノックの言う通り、これまでも親衛隊員は彼が眠っている所を見た事が無かった。
しかし、宿に泊まったりしていれば、その間は休んでいる物と思うのが普通だ。 そんな下らない話をしている間に、事は静かに進んでいた。
反逆同盟の拠点を取り囲んでいる「北」の部隊が、悪魔サタナルキクリティアと対面する。
北の部隊の指揮官は合図した。
「そうら、お出でなすったぞ!
魔法陣を発動させろ!
子供の見た目だからと言って油断するな!」
この時の為に、魔導師会は入念な準備をした筈だった。
こちらから仕掛ける前に、向こうから仕掛けて来た事も、何等驚く様な事では無い。
魔法陣の内側に閉じ込めれば、大抵の敵は封じ込められる筈だった。
だが、魔法は発動しなかった。
指揮官は狼狽して部下を問い詰める。
「……どうなっている!?
魔法陣に魔力が流れていないぞ!」
「そ、それが……!
蟻です、無数の蟻が魔法陣の形を歪めています!」
「蟻!?
昆虫にしてやられたと言うのか!
しかし、魔力は感じなかったぞ!
魔法では無いと言うのか……」
共通魔法の魔法陣を打ち破ったのは、昆虫人スフィカがフェロモンと羽音で指揮する蟻の大群だった。
熱帯の狂暴な蟻の大群が、魔法陣の一部を食い破って、魔法の発動を阻んだのだ。 隊長は舌打ちして言う。
「構うか、相手は一人だ!
九人で三角陣を取れ!」
共通魔法使いは数が力になる。
複数人で連携すれば、何倍もの力の相手とも互角に戦える。
魔導師一人一人は人間としては優秀だが、それだけの存在だ。
一人が何百人分もの力は持たない。
だから相手の脅威を見誤る。
どんなに強くとも精々自分の数倍程度だろうと。
サタナルキクリティアは含み笑いする。
「フフフ、可愛い物だな。
悪魔の恐ろしさを知らないと見える」
彼女は愛らしい子供の体を捨てて、悪魔の力を解放した。
体は見る見る大きくなり、成人男性並みに力強く筋肉質になる。
額の小さな角は見る見る伸びて、凶悪に捻じ曲がる。
口からは牙が、手足の先からは爪が伸び、人の姿から外れて行く。
小さな弦の様な尻尾は固く太く変質して、大蛇の様に畝る。
その背には漆黒の翼が生えている。
「一人ずつ生爪を剥がす様に甚振り殺してやる」
サタナルキクリティアの魔法資質は平均的な魔導師の十倍や二十倍では利かない。
詰まりは、それだけの人数が束になっても敵わないのだ。 拠点の西には石の魔法使いバレネス・リタとエグゼラの狐が、東には昆虫人スフィカに加えて、
血の魔法使いヴァールハイトが向かった。
そしてレノック等が居る拠点の南には、暗黒魔法使いのビュードリュオンが……。
「どうやら良くない事が起きた様だ」
レノックは冷静に、付き添いの親衛隊員達に告げる。
「その様ですね……。
折角準備した魔法陣が無効化されています。
速攻を仕掛けるべきとのレノック殿の判断は正しかった」
親衛隊員も余り焦りを表さずに答える。
素直に認められてレノックは小さく苦笑い。
「ハハ、言うだけなら只さ。
実際に行動に移せなければ何の意味も無い。
この儘では各個撃破されるぞ」
「何か妙案はありませんか?」
親衛隊員の問にレノックは淡々と答える。
「こちらも各個撃破して行くしかない。
先ずは、こちらからだな」
彼の視線の先にはビュードリュオンの姿があった。
夜闇に紛れて、その姿は明瞭には見えず、魔法資質にも反応は無かったが、確かに居る。
「気付かれるとは思わなかった。
見られてしまった物は仕方が無い。
私は暗黒魔法使いビュードリュオン・ブレクスグ・ウィギーブランゴ。
悪いが全員ここで死んで貰う」
彼は堂々と名乗って宣戦布告する。 身構える親衛隊員の2人に対して、レノックは臨戦態勢を取らない。
物悲し気な瞳で、ビュードリュオンを見詰めて言う。
「不協和音が聞こえる。
君は苦しい状態にある様だな」
「レノック殿、今は話している場合では……」
親衛隊員の忠告を受けて、レノックは小声で謝る。
「済まない。
僕も所詮は悪魔なんだ。
可哀想な彼の声を聞いてやりたくてね」
そうしている間にビュードリュオンは小声で呪文を唱えていた。
「死の床に臥せる物達よ、我が声に応え目覚めよ……。
朽ちた体に死せる魂を宿らせ、不滅の使徒となれ」
これを聞いたレノックは小声で親衛隊員に告げる。
「『死霊術<ネクロマンシー>』だ!」
ビュードリュオンの肉体が変質して、幾つもの生物が合体した怪物になる。
内臓が腐敗して行く奇病に冒された彼は、生き延びる為に他の人間や動物の肉体を継ぎ接ぎして、
どうにか生存に必要な生理機能を保っていた。
彼自身が合成生物の様な物なのだ。
彼の肉体を構成している、それぞれの生物の「部品」を魔法で再生させる事で、怪物の姿になる。 ビュードリュオンの奇怪な正体に、親衛隊員達は恐怖を覚えた。
牛や馬、鹿、山羊、或いは犬、猫、猿、そして人間の様な物まで、複数種の動物が体の一部を、
ビュードリュオンに繋がれた状態で蠢いている。
彼の魔法資質も合成した動物の数だけ強化されている。
「オオオオオオオオオオーーーー!!」
動物の首が、それぞれの鳴き声で吠えると、魔力が揺らいで音の魔法を放つ。
獣魔法の一形態『鳴動<ランブリング>』だ。
複数の動物の鳴き声が共鳴して、より効果の大きい魔法となる。
これは振動分解魔法だ。
振動の共鳴によって大量のエネルギーを発生させ、分子間の結合を断つ。
物理現象との組み合わせの為に、単純に魔法だけで防ぐ事は難しい。
空気の振動を抑える魔法ならば対処可能だが、先制されると詠唱での魔法発動が阻害される。
親衛隊員の2人は何とか空気の壁で自分達の周囲を覆ったが、ここからの反撃は難しく、
一時撤退を考えていた。
「レノック殿、一旦下がりましょう」
親衛隊員の呼び掛けに、レノックは余裕の表情で言い返す。
「その必要は無いよ。
解っているだろう?
僕が『音』の魔法使いだと言う事を」
彼は大きく息を吸って、指笛を吹いた。
ピーと言う甲高い音と共に、空気の振動が収まる。
「小僧、貴様徒者では無いな!」
ビュードリュオンはレノックを警戒した。 レノックは肩を竦めて答える。
「一つ忠告しておこう。
僕は音を自在に操る魔法使いだ。
君では僕に勝てない。
その体では尚の事」
「成る程、貴様は見た目とは違い、相当な実力の魔法使いなのだな。
態々自らの能力を明かすとは……。
だが、私とて修行を重ねて来た魔法使い。
そう簡単に倒されてはやれん」
ビュードリュオンは彼の忠告にも退かず、腕の筋肉から蛇を分離させて投げ付けた。
「行け!」
蛇は大口を広げて毒牙を剥き、真っ直ぐレノックを目掛けて飛んで行く。
これを難無く避けたレノックは、太鼓の枹(ばち)を取り出し、何も無い空を叩いた。
落雷の様な轟音が響くが、それは丸で意思を持っているかの様に、遠方には拡散して行かず、
ビュードリュオンに向かって行く。
「ウォオオ、何だ、これは!?
か、体が撒(ば)ら撒らになる!」
「君の体は性質の異なる物を魔法で無理遣り繋げているな?
それが不協和音の正体だ。
調律の不具合は、全体に悪影響を及ぼす」
「利いた風な口を叩くな!
貴様に私の何が分かる!
生まれ付いて不具を抱え、生きねばならぬ苦しみ、貴様に分かるか!」
ビュードリュオンは崩壊しそうな体を、どうにか繋ぎ止めながら恨みの言葉を吐いた。 レノックは返事の代わりに2度目を打つ。
毒蛇の群れで繋がれたビュードリュオンの猩々の右手は、朽ちた縄の様に解けて、腐り落ちた。
「その業、共通魔法使いでは無いな!
何故、魔導師会に加担している!」
ビュードリュオンの問い掛けに、レノックは肩を竦めて問い返す。
「それは、こっちの台詞だよ。
どうして悪魔に加担して、人間の敵になりたがる?」
「好きでやっている訳では無い!
私が生き続ける為には、こうするしか無かった!」
腐って行く体を取り替える事で、ビュードリュオンは今日まで生きて来た。
それも全ては内臓が腐敗する奇病の為。
「僕には魂の年齢が見える。
君は人間にしては十分に生きたんじゃないのか?
それ以上は贅沢と言う物だよ」
「人並みの健康体を手に入れたいと言う願いが、そんなに贅沢か!
病に苦しめられる事の無い、平穏無事な生活を求める事が、強欲の罪か!」
レノックの言い種(ぐさ)にビュードリュオンは吠えた。
彼は最初から病に苦しむ事の無い平穏な生活、唯それだけを求めていた。 しかし、レノックは冷淡に切り捨てる。
「ああ、贅沢だね。
それだけの為に、どれだけの人を君は犠牲にして来たんだ?
心も体も満足な人間が、世の中に一体どれだけ居ると思う?
目耳鼻口、五臓六腑、四肢と五指、頚胸腰の椎、血液と髄液、骨と関節、筋肉と腱、知能と精神、
皆どこかしらに異常を抱えている。
寒ければ風邪を引くし、暑ければ熱に中てられる、人間は脾弱な生き物だ。
完全に健康な時間は一時的な物さ」
「その一時的な満足さえ、私には与えられなかったのだ!」
「だからと言って、人を殺して良い事にはならないだろう。
君の人生は辛い事ばかりだったと言うのか?
本の一欠片の幸福も味わった事が無いと?」
「黙れっ、元より解って貰おうとは思っていない!
ああ、そうだとも!
所詮は私の我が儘だ!」
ビュードリュオンは開き直って、腐り落ちる左腕をレノックに向けて投げ付けた。
そして魔力を暴走させて自爆させる。
レノックは爆発に合わせる様に枹を振るった。
空気の壁が出現して爆発を防ぎ、同時に音の波動がビュードリュオンを襲う。
今度は馬の右脚が腐り落ちた。
「未だ死なん!
こんな所で死ねる物かっ!」
強い生への執着。
それだけでビュードリュオンは今まで生きて来た様な物だ。 だが、彼は反攻に転じる事も出来ない。
レノックが空を叩く度に、彼の体は制御を失って崩壊して行く。
それでもビュードリュオンは耐えていれば援軍が来てくれると信じた。
予知魔法使いのスルトが立てた作戦に、間違いは無いと信じている為だ。
その信頼は最初から裏切られている。
スルトは最も強力で厄介な敵であるレノックを足止めする目的で、ビュードリュオンを独り、
南側に派遣させた。
四肢と下半身を失い、残るは胸と首から上だけになったビュードリュオンは、這いながら訴える。
「こ、これが私の真の姿だ……。
腐り落ちる臓腑を除けば、これしか残らない。
哀れむが良い、然も無くば、嘲笑うか……」
レノックは無視して空を打った。
ビュードリュオンの心臓が震えて、破裂しそうになる。
「ぐっ、よ、容赦無しか……!」
「その心臓も君の物では無い様だな。
全ての筋肉や臓器が病に冒されていたとは考え難い。
古くなった物を自分から捨てたと言うのが、本当の所だろう?
君は長く生き過ぎたんだ」
「人の一生を勝手に決めるな。
どこが十分かは私が決める。
……暗黒魔法の神髄を見るが良い」
ビュードリュオンは地面に散った肉体に魔力を流して、魔法陣を完成させた。
それは悪魔召喚の魔法陣だ。
「我が血肉を贄に捧げる。
出でよ、地に封じられし飽く無き貪よ」 大地が震えて、地の底から何かが湧き出て来る。
それは黒い靄となってビュードリュオンを包み、彼を更なる怪物へと変えて行く。
レノックは親衛隊員の2人に警告した。
「これは行けない!
2人とも下がってくれ、ここは僕が何とかする」
「しかし、レノック殿!」
ビュードリュオンの周囲に集まる不吉な魔力の流れを、親衛隊員の2人も読み取っていたので、
レノックを置いて下がる事には抵抗があった。
2人を退散させる為に、レノックは敢えて強い言葉を使う。
「君達は足手纏いだと言うんだ!
僕の心配をする暇があったら、他の人達を助けに行け!」
普段の様子からは想像も出来ない態度に、親衛隊員の2人は衝撃を受けた。
それだけ危機的な状況なのだと理解して、2人は場を離れる決意をする。
「分かりました。
レノック殿、お気を付けて」
「ああ、直ぐに片付ける」
ビュードリュオンの胴体は、地面から生えた巨大な口を持つ鮫の頭の様な物と合体していた。
レノックは彼を睨んで言う。
「暗黒魔法の知識をどこで仕入れたかと思ったら、そう言う事か……。
君の強欲が貪を呼び寄せたのか、それとも貪に取り憑かれて道を誤ったのか?
どちらにせよ、僕は君を倒さなくてはならない。
光栄だよ、原初の大罪に会えるとは!
『欲深き物<グーラ-アヴァリティア>』!!」 「貪」とは抑えの利かない欲望である。
全ての生き物が備える物で、生きて行くのには必要不可欠な感情だが、その尽きる事の無い様は、
全てを貪り尽くすが如く。
古代の人々は、これを「貪」と名付けた。
全ての者は、これが持つが為に欲望を抑えられなくなり、罪を犯す。
それとは逆に、「貪」は生まれ付いて具わっている物ではなく、外より齎される物であり、
これこそが生物を「強欲」に誘うのだとも言う。
「貪」が象徴する物は、貪食と貪欲、そして全てを引き付ける重力だ。
「欲しい」と言う衝動に覚えの無い者は居ない。
「貪」は欲しい物を手に入れれば落ち着くが、後に更なる欲望と共に復活する。
この「貪」を拠り所にした悪魔が「グーラヴァリティ」。
全ての生きとし生ける物が持つ、「欲求」を糧にする存在。
生まれ持って避け得ぬ罪業、「原初の大罪」を司る悪魔の一。
求め続け、幾ら得ようと満たされぬ物!
飽く無き強欲と放恣の化身!
「私は生き続けたい!
その為ならば、全ての命を食らい尽くす事さえも厭わない!
おお、万物よ我が糧となれ!
全テハ我ガ為ニ有リ、軈テ我ハ全テヲ食ラヒテ、完全ナル存在ト化ソウ!」
ビュードリュオンは悪魔と同化して、自らの思考を失っている。
グーラヴァリティは唯、全ての物を呑み込む存在だ。
大地を吸い込み、蟻地獄の様に擂り鉢状の穴を掘ると、天を仰いで全ての物を食らい尽くそうとする。
「大言壮語も好い加減にするんだな!
これでも食らえ!」
レノックは『大喇叭<コンクリッシュ>』(※)を抱えて、大音量でグーラヴァリティを攻撃した。
※:Conchlish……大型の金管楽器で、「conchlisica」(conchlis=巻き貝)を語源とする。
テューバやホルンの類。 しかし、グーラヴァリティは全く怯む様子が無い。
この悪魔は音をも食らっている。
「足リナイ!!
モット、モット聞カセロ!」
最早ビュードリュオンはグーラヴァリティに付着しているだけだ。
我が儘勝手に吠える声は、彼の胴と同化した巨大な口から発せられている。
「流石に古の大悪魔は違うな。
あらゆる攻撃を吸収してしまうのか……」
レノックは冷や汗を掻いた。
グーラヴァリティの強さが伝承通りであれば、この悪魔には全ての攻撃が通じない。
どんな攻撃でも吸収されて、更なる力を与えてしまう。
とにかく地道に有効打を探して行くしか無い。
(貪を収める方法を何とか考え付かなくては。
為す術無く見ているだけでは小賢人の名が廃る)
これは知恵比べだ。
レノックはグーラヴァリティでも食らい尽くせない物を何とか見付け出さなくてはならない。
彼が思考している間も、グーラヴァリティは徐々に蟻地獄の半径を拡げて行く。
熱帯の巨木が倒れて蟻地獄に吸い込まれ、折り曲げられてグーラヴァリティの腹に収まる。
それでも一向に満足する様子は無い。
「モット、モット食ワセロ!!
全テヲ我ガ内ニ……」
音が効かないと言う事は、衝撃も通じないと言う事。
恐らく熱や冷気での攻撃も無意味であろう。 レノックは空中に浮き上がり、悪魔の本性を現した。
彼は鼓動と共に音を発する人間大の奇怪な球体となり、高周波でグーラヴァリティに攻撃を続ける。
耳を劈く様な甲高い音がグーラヴァリティを襲うが、やはり怯む様子は無い。
「アア、アア、未ダ足リナイ!
モット聞カセロ!」
グーラヴァリティは振動を吸収して、高熱を蓄え、赤く発光した。
(効いていない……訳じゃないんだな。
吸収し切れないエネルギーが熱と光になって漏れている。
後は奴の固有振動数が判れば……)
レノックは音の高低を変えながら、グーラヴァリティと最も反応する周波数を探る。
「オオ、オオ……!
未ダ、モット、モットクレ!!」
グーラヴァリティは愚かにも、自らに最も響く音に反応して、感動の声を上げる。
(お望み通り、くれてやる!!)
レノックは敢えてグーラヴァリティに飛び込み、その体内に吸収された。
グーラヴァリティの中は暗黒の空間で、それまで取り込まれた物が無造作に漂っている。
丸で重力の無い宇宙空間の様。
(何と無く覚えがあるな……。
ああ、ルヴィエラが造った暗黒空間と似ているのか……。
しかし、あちら程は虚無の空間じゃない) レノックはグーラヴァリティの中で重低音を発する。
心臓の鼓動の様なリズムが、グーラヴァリティの中で反響する。
内側から響く音にグーラヴァリティは困惑した。
「オッ、オッ、何ダ、コレハ……。
我ガ内デ膨ラミ続ケル……」
(媒体は所詮人間。
容量の拡大には時間が掛かる。
グーラヴァリティは何度出現しても、同じ運命を辿った。
宇宙を呑み込める程の無限の可能性を秘めながら、その貪欲さ故に成長し切る前に自滅する。
恣に貪り食らい、己を律する事が出来ないから、そうならざるを得ない)
「オフ、オフ……」
グーラヴァリティは内側で反響する音を漏らすまいと、吸収を止めて口を閉ざした。
それでも堪える事が出来ず、口の端から空気が漏れる。
(音は空気を振動させ、熱を発して体積を増す。
その苦しみは、饅頭が胃の中で水を吸って膨らむが如し)
「ゲ、ゲ、ゲゲェ!」
グーラヴァリティは堪らず大口を開けて、吸い込んだ物を吐き出した。
土砂と木片が蟻地獄を埋めて、グーラヴァリティの体は小さく萎む。
そして最後にレノックを吐き出して、グーラヴァリティは消失し、ビュードリュオンの体だけが、
その場に残った。 悪魔の力を失ったビュードリュオンは、胸から上だけしか残っておらず、既に虫の息だった。
「う、うぅ、死にたくない……。
助けてくれ……」
レノックは球体から出て、人の姿を取る。
「生き続けるだけならば、人の形に拘る必要は無かった筈だ。
……君は人間として生きたかったんだな。
気持ちは分かるが、しかし、それは叶わぬ望みだ。
人間は永遠には生きられない……」
「わ、私は……死ぬのか?
こんな所で、本当に……」
「ああ、その通りだ。
安らかに眠れ」
レノックに見下ろされ、ビュードリュオンは地面を噛む。
「うぅ、父も母も病に冒された私を見捨てた。
私は病の身で、独り生き続けなければならなかった……。
私には愛する者も、守るべき物も無く、唯己が生きる為だけに生きた。
虚しい一生だった……」
彼の泣き言をレノックは黙って聞いていた。
それが死に行く哀れな者に対する慰めだった。
「……最後まで、誰も私を救ってはくれないのか……」
ビュードリュオンは虚しさの涙を流しながら事切れた。 「虚しさから涙を」とか「虚脱感から涙を」とした方が良かったでしょうか?
「悔し涙」はあっても、「虚し涙」は聞いた事がありませんし……。
推敲が足りなかったでしょうか……。 彼が倒れた後で、レノックの元に隠密魔法使いのフィーゴ・ササンカが現れる。
彼女は主人に対する様に跪いて報告した。
「レノック殿、魔導師会は撤退を始めました」
「急襲する積もりが、逆に急襲を受けて、連携に乱れが生じたか……。
僕等も引き下がるとしよう。
同盟にはルヴィエラ以外にも、厄介な連中が居る様だ。
これ程の者を捨て駒に使うとは……」
ササンカはレノックを抱え上げて、その場から去ろうとする。
レノックは驚いて彼女を見上げた。
「うわっ、何をするんだ!?」
「撤退するのでしょう?」
「幾ら子供の姿だからって、抱っ子は止めてくれよ。
自分で歩ける」
「しかし、子供の足は知れていましょう」
「良いんだよ、殿を務める積もりだったんだから」
「そうですか……」
ササンカは残念そうに彼を下ろす。
役に立ちたいと言う彼女の気持ちは有り難いのだが、子供扱いは何とかならない物かと、
レノックは咳払いをして眉を顰めた。 反逆同盟の者達は魔導師会を追撃しなかった。
レノックとササンカは何事も無く、後方に退がった魔導師達と合流する。
多くの魔導師は手負いで、治療を受けていた。
レノックは大隊長を探して状況を尋ねる。
「君が指揮官か?
戦況を聞きたい」
「何だ、お前は?」
大隊長は子供が戦場に居る事を不審に思って、眉を顰める。
そこへ親衛隊員が駆け付けて、間に入った。
「彼は例の『相談役<アドヴァイザー>』です。
失礼の無い様に、お願いします」
大隊長は露骨に不満気な顔をする。
それは差別意識の表れだ。
「今頃出て来て何の用だ?」
「戦況を聞かせてくれ」
「……各部隊を後退させた。
今は戦闘行為は中断している」
「戦果と被害状況は?」
大隊長は質問を続けるレノックを無視して、補佐を呼ぶ。
「アドワード、こっちに来い!
お客さんの話を聞いてやれ!」 大隊長は直ぐに、その場から立ち去った。
素人の相手をしている暇は無いとでも言いた気な態度に、親衛隊員が代わってレノックに謝る。
「済みません、無駄に自尊心だけは強い様で……」
部外者に口を出されたくないと言うのは、ある種の「職人意識」だ。
自分は責任ある専門家であり事情に通じているので、無責任な一般人の意見は必要無いと決め付ける。
それに部下を率いなければならない立場で、弱味を見せる訳には行かないとも感じている。
レノックは苦笑いで応じる。
「君が謝る事は無いよ。
それに彼の気持ちも解る。
僕だって魔法の知識に関しては煩くなるからね。
とにかく情報が聞けるなら、誰からでも良いさ」
大隊長に呼ばれた補佐は困惑した様子で、親衛隊員に話し掛けた。
「えぇと、何の御用でしょう?」
「いや、私達では無くて、彼の質問に答えて欲しい」
「はぁ、誰なんです?」
補佐も子供が居る事を不審に思っている。
親衛隊員は溜め息を吐いた。
「反逆同盟との戦いに於ける、我々魔導師会の相談役に選ばれた方だ。
八導師直々の御指名である」 八導師の指名と聞いて、補佐は吃驚して目を剥いた。
「えっ、こんな子供が……?」
「見た目に惑わされては行けない。
彼は旧暦より生きる大魔法使いの一人なのだぞ」
親衛隊員の答に、補佐は信じられないと言う顔で、レノックを真面真面(まじまじ)と見る。
レノックは咳払いをし、改めて尋ねた。
「拠点を攻めると言う作戦は、どうなったかな?」
「はぁ、一時中断です」
「――と言う事は、近い内に再開する?」
「……分かりません。
皆、この機会を逸したくないと言う思いは強いのですが、無謀な突撃を繰り返しても、
被害が増えるだけでしょうから……」
「今の所、どの位の被害が出ている?」
「死亡者が2名、負傷者は……軽く50名は超えています。
中でも厄介なのが、石化した者が十数名程度居る事です」
「石化?」
「はい、如何な原理かは不明ですが……。
魔法での診断の結果、全身が貝素化しているとの事です。
生死の判断も付かないので、一応は『行動不能』扱いにしています」
対象を石に変える魔法は数多くあるが、これはバレネス・リタの仕業だ。
彼女は瞳に捉えた物を石に変える、石化の魔眼を持つ。 レノックは続けて質問した。
「戦果は、どれだけあったかな?」
補佐は苦々しい顔をする。
「……分かりません。
交戦して幾らか手傷を負わせたと言う報告はありましたが……。
少なくとも、敵に止めを刺したと言う報告はありませんでした」
「敵の戦力は殆ど減っていないと見るべきかな?」
「率直に言えば、作戦は失敗したと見るべきでしょう。
直ちに態勢を立て直して挽回する事は難しい状況です」
結論を求めるレノックに対して、補佐は渋々事実を認めた。
レノックは慰めを言う。
「しかし、全く無駄だったと言う訳じゃない。
相手方の戦力の全部では無くとも、大部分は判明したと言って良いだろう。
それに一人は僕が仕留めた」
「仕留めた……?」
「ああ。
取り敢えず、どんな奴等と戦ったのか情報交換しよう。
相手の姿と戦い方が判れば、後の対策も立て易い」
レノックの提案に補佐は頷き、魔導師達が戦った相手の情報を、正確に彼に伝えた。 ――補佐の話を聞き終えたレノックは言う。
「小さな女の子が悪魔に変身したと言うのは、恐らくサタナルキクリティア。
蜂の様な女は昆虫人のスフィカ。
虫を操る力を持っているらしいから、蟻を使って魔法陣を壊したのも彼女だろう。
犬を従えていた男は多分だが、ゲヴェールト。
石化の能力を持つ女はリタ。
そして僕等が戦ったのは……ビュードリュオン。
残る1人の女は一寸分からない。
ヴェラかジャヴァニか、それとも新しいメンバーか、ルヴィエラとは違うと思うが……」
補佐は両腕を組んで低く唸った。
「ニージェルクロームとディスクリムが居ませんね……」
「ニージェルクロームは竜の力を解放してカターナで大暴れした後、何処かへと飛び去った。
もしかしたら、未だ帰還していないとか、何等かの事情で戦えないのかも知れない。
ディスクリムは……ルヴィエラの創造物だから表に出て来なくても不思議じゃない……。
確認の為に、もう1度仕掛けたい所だけど……。
ルヴィエラが出て来たら、どう仕様も無いからなぁ」
悩むレノックに対して、補佐は小声で告げる。
「大人しく応援を待った方が良いでしょう」
それが賢明な判断だとレノックも頷こうとした時、地響きが起こった。
同時に膨大な魔力の流れを全員が感じる。
魔力観測員が補佐に魔力通信で異変を知らせる。
「同盟の本拠地から大量の魔力の溢出を確認!」 レノックは魔力の溢れ出す源を見詰めて言う。
「ルヴィエラが動き出したか!」
常識では考えられない、余りに膨大な魔力を目の当たりにして、誰も身動きが取れない。
そもそも地上で魔力が「湧き出る」事が有り得ないのだ。
地上に存在する魔力は限られており、大量の魔力を感知する事は、即ち、周囲の魔力を集める事に、
他ならない。
だが、この現象は違う。
反逆同盟の本拠地から魔力が湧き出している。
親衛隊員も補佐も大隊長さえも言葉を失っていた。
それは畏れと言う感覚だ。
偉大な存在を前にして、冒し難いと感じる心。
強大な存在を前にして、敵わないと感じる心。
人間に限らず、全ての魔法資質を持つ者が感じる、怯懦と平伏、敗北者の精神。
「魔法生命体」としての格の違いを思い知らされ、戦わずして相手を屈服させる程の「力」。
辛うじて、レノックだけが抗える。
彼は呆然としている親衛隊員に声を掛ける。
「後退して距離を取るんだ!」
「あ、はい!」
親衛隊員は大隊長を説得して後退する様に指示を出させた。
そこに多くの言葉は要らなかった。
とにかく「恐ろしい」事は誰にでも解るのだ。 やがて地響きは大きくなり、大地が割れ裂けるかと思う程に激しく揺れた。
後退した魔導師達は真面に立つ事も出来ず、大地に這って何事も無い事を祈るしか無かった。
「レ、レノック殿……」
ササンカは震えてレノックに獅噛み付く。
レノックは彼女を安心させるべく、優しく抱き返して囁いた。
「大丈夫だ。
何があっても僕が皆を守る」
混乱の極みの中、空が明るさ増して行く怪現象に、誰も彼も奇妙な神聖さを感じていた。
永遠にも思える3点が過ぎ、漸く大地の揺れは収まる。
同時に、深夜の暗闇が戻り、魔導師達の畏怖の感情も嘘の様に消え失せていた。
「一体何だったんだ……?
取り敢えず、無事な者の中から4、5人を選んで、調査に向かわせろ」
大隊長は疑問を解消する為、反逆同盟の本拠地に斥候を派遣する。
「僕も付いて行こう」
レノックが同行を志願すると、大隊長は嫌な顔をしたが、それだけで何も言わずに黙認した。
「レノック殿、我々も……」
ササンカと親衛隊員もレノックに同行を求めたが、断られる。
「余り大勢で出掛けては、隠密行動に支障が出る。
何、心配は要らない。
僕の予想が正しければ、何も起こらない筈さ」
そう説得されて、一同はレノックを見送った。 早朝の森の中は常夏のカターナ地方とは思えない程、静かな冷気に包まれている。
レノックを含めた斥候部隊は、慎重に反逆同盟の本拠地へと向かった。
そこで一行が目にした物は……、
「き、消えている……?」
何も無い空き地だった。
砦が丸々消失している。
「逃げられたか……。
それとも逃げてくれたと言うべきかな」
レノックの独り言に、斥候部隊の者達は複雑な表情をした。
全員「取り逃した」と言う悔しさより、明らかに「見逃してくれた」と言う安堵が勝っていた。
敵は強大で恐ろしい。
魔導師が何百人と集まった所で、勝てる気が全くしなかった。
皆の反応を窺って、レノックは独り思う。
(少し刺激が強過ぎたか?
完全に萎縮してしまっている。
戦える敵と戦うべきでは無い敵を見極めさせる積もりが、これでは戦い自体を忌避し兼ねない。
どこで出て来るか判らないルヴィエラを恐れて、戦えなくなってしまっては意味が無い)
完全に心を殺している処刑人は、こうした余計な事を考えないだろうが、普通の執行者を含む、
大多数の魔導師は、自分で思考して判断する事を許されている。
故に、強敵を前にして恐怖に足が竦む事もある。
難しい物だとレノックは小さく息を吐いた。 ともかく決戦は先送りされた。
反逆同盟の一員であるビュードリュオンは死に、多くの魔導師達が真に恐ろしい物を知った。
否、魔導師達は真に恐ろしい物の片鱗を垣間見たに過ぎない。
未だ本当の恐怖を味わっていないのだ。
これを機に魔導師達が己の分を弁えてくれる事を、レノックは願った。
魔導師が何百人、何千人集まろうと、ルヴィエラを倒す事は不可能なのだ……。 凶事は突然に
所在地不明 反逆同盟の新たな拠点にて
反逆同盟の長マトラは魔導師会に突き止められた拠点を放棄して、極寒の地に魔城を召喚した。
新たな拠点を極寒の地に定めた事に、同盟のメンバー達は不満を口にした。
ゲヴェールトが全員を代表してマトラに抗議する。
「マトラ様、ここは寒過ぎます。
拠点とするには不向きかと……」
「私は何とも無いが?」
魔城の謁見の間にて、玉座に腰掛けたマトラは、気怠い声で答える。
大悪魔には寒さも暑さも関係無いのだ。
「……不都合があるのは私だけではありません。
昆虫人のスフィカさんも冷気には弱いでしょう。
エグゼラの狐も、この寒さには参っています」
「私に何をしろと言うのか……」
呆れて溜め息を吐く彼女に、ゲヴェールトは改めて訴えた。
「どこか他の場所に拠点を移す訳には行かないでしょうか?」
「それは難しいな。
他の場所では魔導師会に直ぐ嗅ぎ付けられる。
一々連中の相手をするのは煩わしいよ。
新たな拠点が欲しければ、自分で造るのだな。
そろそろ『同盟』の一員として『活躍』しても良い頃だろう?」
マトラは鼻で笑い、ゲヴェールト等の腑甲斐無さを指摘した。
共通魔法社会に反逆する集団の一員でありながら、何の活動もしない事は有り得ないのだ。 ゲヴェールトは反論出来ずに、悄々(すごすご)と立ち去った。
マトラは大きな溜め息を吐き、悉(すっか)り少なくなってしまった同盟のメンバーを思う。
(ここも寂しくなってしまった物だ。
弱気の虫が付くのも、解らんでも無い……。
社会に動揺を与えているのは事実だけど、それだけでは何の利益も無いんだから。
虚しくもなろうと言う物。
だけど、尻を叩いて動かしてやらないと行けないってのは、何とも手の掛かる事だねェ。
……やっぱり同盟からの離脱者には制裁が必要だったか)
彼女は独り思い立って、玉座から腰を上げると、闇の中に姿を消した。 ブリウォール街道にて
世間を覆う不穏な空気とは裏腹に、晴れた穏やかな日の事。
精霊魔法使いコバルトゥスと、リベラとラントロックの姉弟、未知の魔法使いヘルザ、
そして獣人のテリアと鳥人のフテラの3人と2体は、ブリウォール街道を移動中だった。
獣人テリアと鳥人フテラは人の姿を取って、正体が暴(ば)れない様にしている。
大人しく正体を隠して、執行者との無用な衝突を避ける位の知恵は、2体にもあるのだ。
一行は一応は反逆同盟を止める事を目的としている物の、各地を旅して怪しい噂を聞き付けては、
反逆同盟との関連を調べる程度で、同盟と本格的な敵対はしない積もりだった。
しかし……。
今は未知の魔法使いヘルザが具合を悪くして、無人休憩所でリベラの看病を受けている所。
ヘルザの体調不良の原因は瞭(はっき)りせず、魔法で回復させる事も出来なかった。
どこが悪い訳でも無いのに、何故か魔法資質まで弱っている。
そんな訳で一行は彼女の容体が回復するまで足止めを食っていた。
――ブリウォール街道の中でも、ボルガ地方寄りの所に、森の中を通る道がある。
如何に大街道とは言え、沿道に絶えず商店が並び続けている訳では無い。
寧ろ、商店があるのは長い大街道の中の、本の数通の区間に過ぎず、それ以外は道を切り拓いた、
自然の儘なのが普通だ。
そして、どれだけ人通りが多くても、その様な区間は誰も彼も唯々通り過ぎるだけで、
少し道を外れると、全く人目に付かない。
だから、時々用を足しに道を外れる人が出る。
そんな余談は措いて、そうした「人通りは多いが特に何も無い区間」で一行が小休憩していると、
俄かに空が暗んで、冷たい風が吹き始めた。
天を仰いで眉を顰めるコバルトゥスに、リベラはヘルザから一時離れて問う。
「一雨来そうですか?」
「雨なら良いんだけどな……」
彼女は冷たい風と広がる雲に降雨の兆しを見ていたが、優れた魔法資質を持ち、精霊の声を聞ける、
コバルトゥスは恐ろしい物の気配を感じていた。 彼はリベラに問う。
「ヘルザちゃんの具合は、どう?」
「中々良くならない――いえ、寧ろ、酷くなって行ってるみたいで……」
「彼女は勘が優れているのかも知れない」
暗雲の広がりは世界を覆う様で、昼間だと言うのに、丸で真夜中の如くになった。
吹き付ける冷たい風は、丸で真冬の如く。
流石に、これは奇怪(おか)しいと誰でも気付く。
リベラは不安気にコバルトゥスに身を寄せた。
「ど、どうなってるんですか、これは……?
コバルトゥスさん……」
コバルトゥスは彼女の肩を抱いて、冷気の中心を睨む。
そんな2人の様子を見て、ラントロックは不満気な顔をした。
義姉のリベラが他の男を頼るのが面白くないのだ。
その代わりに、フテラとテリアが彼に縋り付く。
「こ、怖い……。
マトラ様が来るよ……」
テリアの呟きを聞いて、ラントロックは目を見張る。
「そんな馬鹿な……。
あの人が、こんな所に現れるって言うのか?」
敵の親玉が軽々しく出掛けて姿を現すのかと彼は疑った。
しかし、彼女が現れるのであれば、これだけの異変が起きるのも納得出来る。
フテラはラントロックの袖を引っ張って言う。
「は、早く逃げよう……!
ここに居たら見付かる!」 彼女の忠告を受けて、ラントロックはコバルトゥスに呼び掛けた。
「小父さん、マトラが現れるって!」
「マトラって、あの女だろう?」
コバルトゥスは一度マトラと対面した事があった。
その時、彼女は精霊魔法に怯んで撤退した。
そこまで脅威になるのかと彼は疑問に思い続けていた。
もしかしたら返り討ちに出来るのでは無いかとも思うのだ。
だが、今の彼はリベラやラントロックを預かっている身。
危険が及ぶのが我が身だけなら未だしも、もしもの事を考えれば、ここで無理は出来ない。
彼はリベラに言う。
「リベラちゃん、ラントロック達を連れて離れているんだ。
『あれ』の目的が何かは判らないけれど、徒事じゃない事だけは確かだ」
コバルトゥスの指差す先、暗雲の中心には、真っ黒な雲の塊がある。
そこにマトラ事ルヴィエラが居るのだ。
「コバルトゥスさんは……?」
「一寸『あれ』の相手をしてみようと思う」
「や、止めた方が良いですよ。
一緒に逃げましょう。
ヘルザちゃんも連れて――」
「ヘルザちゃんには構わない方が良い。
巻き込んでしまうだけだ。
俺が奴の注意を引き付けておく。
何れ戦う事になる相手なんだから、少し位は実力を見ておかないとな。
大丈夫、逃げ足には自信がある」
その余裕の態度が、リベラを逆に益々不安にさせる。 この儘だとリベラも残り兼ねないので、ラントロックは彼女を急かした。
「義姉さん、早く!」
リベラは一度ラントロックを見て、再びコバルトゥスに振り返る。
「無理はしないで下さい」
「ああ、分かってるよ」
コバルトゥスはウィンクして彼女に背を向け、迫り来る黒雲を見上げた。
彼以外は道を外れて、近くの森の中に駆け込む。
通行人も異変を察知して、足早に先に進んだり、来た道を引き返したりしている。
人気が無くなった大街道の真ん中で、独りコバルトゥスは精霊石を高く掲げた。
「火の精霊よ、我が願いを聞き届け給え!
その輝きを以って、闇を払い給わん!」
彼は精霊石を発光させた後、更に呪文を詠唱する。
「光は集いて一振りの剣となる!」
精霊石は一層輝きを増しながら収束して、一条の光の束となる。
コバルトゥスは精霊石から無限に伸びる光の剣を、黒雲に向けた。
しかし、光は黒雲に吸い込まれるだけで、何の反応も無い。
「……効いていないのか?」 コバルトゥスは光の剣を照射した儘、黒雲からの反撃を待った。
嫌がらせの様な攻撃が効いていたのか、黒雲は彼の頭上に来ると、粘着いた黒い雨を降らせる。
「うわっ、何だ、こりゃ!?」
コバルトゥスは光の剣を収め、器用に風を操って、黒い雨を浴びない様にした。
大地に溜まった黒い水は、複数の場所に寄り集まって黒い怪物の姿になる。
全部で6体。
それぞれの怪物は異なる姿を取っている。
ある物は犬の様であり、ある物は魚の様であり、又、熊の様であり、蟹の様であり、雄牛の様であり、
百足の様である。
怪物は緩りとした動きで、コバルトゥスを取り囲んだ。
黒雲は彼の頭上を通り過ぎて、大街道を外れ、森の中に向かう。
(攻撃して来る者を無視してまで、誰を狙っている!?
ラントロックか、それとも……)
コバルトゥスは再び光の剣を振るい、黒い液体の怪物達を薙ぎ払う。
「退(ど)けっ!!」
光の剣を浴びた黒い液体の怪物達は、一瞬で蒸発した。
コバルトゥスは急いでリベラ等と合流しようとするが、精霊石が反応しない。
精霊石に込めた力を、今の戦いで使い切ってしまったのだ。
普通なら自然界に存在する魔力を回収する事で、精霊魔法を使うのに支障は出ない筈なのだが、
暗雲の影響で周囲の魔力が悪影響を受けて、利用し難くなっている。 コバルトゥスは自分の足で走り、黒雲を追った。
何時もより体が重く、思う様に動けていないと感じるのは、魔法に慣れ過ぎた為か……。
(俺が駆け付けるまで、無事で居てくれよ、皆!)
彼は祈る様な気持ちで、森の中に駆け込む。
一方、森の中を走っていたリベラ等は、黒雲が自分達を追って来ると理解し始めていた。
テリアは泣き言を漏らす。
「や、やっぱり、マトラ様に逆らうんじゃなかった……!
屹度、私達を粛清しに来たんだ!」
それを聞いたラントロックは彼女とフテラに言った。
「フテラさん、テリアさん、俺達を置いて逃げてくれ。
この儘、皆揃って全滅する位なら、そっちの方が良い」
フテラとテリアは人間であるリベラとラントロックに足を合わせている。
本気で逃走すれば、もっと遠くに逃げられる筈なのだ。
だが、フテラは頷かない。
「そんな事は出来ない。
私達は一緒だ」
お言葉に甘えて逃げ出そうと考えていたテリアは、慌てて言い繕う。
「そ、そうだよ、そんな卑怯な真似が出来る物か!」
「でも、この儘だと……」
そんな事を言っている内に、黒雲は一行の頭上まで来て、黒い雨を降らせた。 黒い雨は森の木々を濡らしながら、地面に集まって、人の姿を取る。
それは丸で兵士の様だ。
鎧兜を身に着けて、手には槍を持っている。
黒い液体の兵士は数を増やして行き、十数人にもなって、一行を取り囲んだ。
闇は徐々に深まって行き、黒い兵士達をも呑み込んで、夜より暗い闇が辺りを支配する。
2人と2体は体を寄せ合い、お互いの存在を確かめた。
そうでもしなければ、暗闇の中で孤立してしまいそうだった。
闇の中では空も大地も失われ、全てが黒に包まれている。
マトラ事ルヴィエラは、暗闇の底から姿を現した。
リベラとラントロックは身構えるが、フテラとテリアは恐怖に縮み上がっている。
ラントロックは強気にマトラに尋ねた。
「今更、俺達に何の用だ!」
マトラは不気味に笑って言う。
「実は、戻って来て貰えないかと思ってな。
同盟のメンバーも数が減って寂しくなってしまった」
「そんな事を言っても、もう遅い!
何も彼も、あんたが同盟の事を真剣に考えて来なかった所為だ!
だから、皆死んで行ったんじゃないか!」
ラントロックの抗議にも彼女は平然として、申し訳無さを感じさせない。
「どうも私は去る者を追うのが苦手でな。
説得して止めてやる事が出来なかった。
共通魔法使いと積極的に戦おうと言う者は貴重だったと、今更ながら気付いたのだ」
「俺達を連れ戻して、どうしようって言うんだ?
共通魔法使いと戦わせようって?
冗談じゃない!」
言葉だけは反省している風のマトラに、ラントロックは威勢良く啖呵を切る。 マトラは両腕を胸の前で組んで、困った様に笑った。
「中々頑固だな。
そこまで嫌と言う者を無理遣り従わせるのも骨だ。
『私の』敵になると言う認識で良いのだな?」
脅しを含めた問にも、ラントロックは屈しない。
若さと勢いだけで押し切る。
それはマトラの真の恐ろしさを知らないが故の無謀な勇気だ。
「ああ!」
マトラは意地悪く笑って、今度はフテラとテリアに目を遣る。
「お前達も同じか?」
震えて何も言えない2体に対し、彼女は嘲る様に更に問う。
「私を裏切るのか?」
テリアは恐怖に耐え切れず、言い訳した。
「い、いえ、そんな積もりは……」
「では、どう言う積もりだ?
所詮、お前達は人外の存在。
人を食らう宿命の怪物だと言うのに、我が膝下を離れて、どうする積もりだったのか」
弱者を詰るマトラは本当に楽しそうだ。
数多の魔法使いの中でも、最も性格が悪いと言われるだけはある。 リベラはマトラの態度に怒りを覚えて、フテラとテリアの2体を庇い立った。
「卑怯な!!
脅して言う事を聞かせるなんて!」
意外な指摘にマトラは向きになって感情を露に反論する。
「卑怯……?
小娘がっ、粋がるなよ!!
悪魔公爵の私に対して卑怯等と……!
どこが卑怯だって言うんだい、ええ!?
力弱いからと言って、脅しに屈する奴が悪いんじゃないか!
悪魔は強者こそが絶対なんだ!
弱者は踏み躙られて当然なんだよ!」
強大な悪魔貴族を卑怯と面罵する事は、絶対にしては行けない事だ。
誇り高い悪魔貴族は正面からの堂々とした力尽くを好む。
それは悪でも恥でも無く、正しい事なのだ。
フテラとテリアは逆上するマトラに益々怯えてしまった。
テリアは恐怖心を抑えられなくなり、堪らず逃走を図る。
それをマトラが見逃す筈は無く、彼女に向けて黒い雷を落とす。
「こらっ、逃げるんじゃないよ!
お前に人間の姿は未だ早かった様だねェ!!」
「ギャーーッ!!」
落雷を受けたテリアは小さく縮み、一瞬で猫に変えられてしまった。
魔獣ですら無い、極々普通の猫だ。 知能まで獣以下に後退したテリアは、自分の姿に疑問を持つ事も無く、只管に逃走して、
闇の向こうに姿を消す。
マトラは次にフテラを睨んだ。
「私に逆らうと言う事は、『あの様に』なると言う事だ……。
何百何千年生きた魔物だろうと、私の前では小動物も同然。
魔性を奪われ、命短い畜生に成り下がりたいか?」
それは長い年月を掛けて「成り上がった」フテラには、死刑宣告に近い脅しだった。
テリアを猫に変化させた魔法は、時が経てば解ける様な一時的な物ではない。
不可逆の絶対的で永続的な「退化」だ。
彼女は平伏してマトラに許しを乞う。
「お、お許し下さい、マトラ様……!」
その姿にリベラとラントロックは衝撃を受ける。
フテラは恐怖の余り、マトラに屈したのだ。
マトラは心底愉快そうに邪悪な笑みを浮かべた。
「良い良い。
では、私と来てくれるな?」
フテラは弱々しい瞳で、許しを乞う様にリベラとラントロックの2人を見る。
ラントロックは強気にフテラを見詰めて、首を横に振った。
彼はマトラを睨んで言う。
「フテラさんは連れて行かせない!」
マトラは高笑いした。
「ファハハ、可愛いなぁ!
丸で身分を弁えぬ、無知な子犬の如きよ!」
フテラは蒼い顔でラントロックを止める。
「止せ、トロウィヤウィッチ!
私が降れば、それで済むのだ」 それは彼女なりに考えた上での行動だった。
自己犠牲の精神にマトラは大いに満足する。
「そうそう、物分かりが良いな。
賢い子は好きだよ。
お出で」
彼女は手招きしてフテラを誘う。
フテラはラントロックに申し訳無さそうな一瞥を呉れて、マトラの元へ歩いて行った。
マトラは彼女の肩を叩いて、リベラとラントロックに振り向かせる。
「では、私からの命令だ。
そこの2人を殺せ。
勿論、聞いてくれるよな?
我が忠実な下僕よ」
リベラとラントロックは同時に言う。
「卑劣なっ!!」
「私が直接手を下しても良いのだが、それでは忠誠心を測れぬからな。
どうした、何を躊躇う事がある?
やれ!!」
罵倒も意に介さず、マトラはフテラに改めて命じた。
正か、こうなるとは思わず、フテラはマトラに許しを乞う。
「マトラ様、どうか、お許しを……」
「ならぬ!
同盟を裏切ったのはトロウィヤウィッチも同じ事」 必死の哀願もマトラに切り捨てられて、フテラは愈々困り果てた。
リベラとラントロックはマトラを睨んで身構えている。
フテラは己の勇気の無さを呪った。
本人の居ない所では、どれだけ平気で裏切りを働けても、結局強い者には逆らえないのだ。
マトラは何も出来ないフテラに、疑問の言葉を投げ掛ける。
「何を躊躇う事がある?
この私以上に恐ろしい物が存在するのか?
お前が生き続ける為には、私に従う他に無いのだ。
自分の心に素直になれ」
口では優しく言いながらも、マトラの目は少しも笑っていなかった。
彼女はフテラの本心、戦いから逃げたがる怯懦の心を見抜いているのだ。
「……お前も人間の姿は未だ早かったか……。
形(なり)ばかり人でも、心が伴わぬ物を、人とは呼ばぬよ」
天から落ちる黒い雷がフテラを打ち、彼女の姿を1羽の烏に変える。
フテラも又、猫に変えられたテリアの様に、遠くへ飛び去る。
ラントロックはマトラに怒りの言葉を打付けた。
「何て事をするんだ!!」
「私は何も悪い事はしていないよ。
奴等に人間の姿は未だ早かった。
それだけの事だ。
恐怖に耐えて戦うでも無く、割り切って私に従う事も出来ず、その心は逃避を望んでいた。
私は望みを叶えてやっただけ」
彼女の反論は詭弁染みていたが、嘘は無かった。 マトラはラントロックを真っ直ぐ見詰めて言う。
「さて、トロウィヤウィッチ、お前の番だ。
改めて問おう、お前は私の下に降るか?
否と答えれば――」
「断る!!」
言い切らない内に拒否されたので、マトラは少し機嫌を損ねた。
「命が惜しくない様だな」
「そんな事は無い!」
「……えー、詰まり?
命は惜しいが、私に従うのは嫌だと。
巫山戯けているのか?」
「巫山戯けてなんかいない」
「正か、私に勝てると思っているのか?」
その問にラントロックは答えられなかった。
勝てると言う自信は無い。
だが、ここで弱気に取り憑かれて、屈服する事だけは嫌だった。
「勝てないと判っていながら、戦うか……。
それも人間らしいのかもな。
では、儚く散るが良い」
マトラは片手を上げて、強い圧力を発生させる。 「何時でも心変わりして良いぞ。
真綿で首を絞められる様に、熟りと苦しんで行け」
彼女は緩やかに苦しみを増して行かせる事で、2人の変心を望んでいる。
――否、変心が起こるのは副次的な物だ。
実際は、そんな事等、考えてはいない。
彼女は人の苦しむ顔を見たいだけ。
保身と本心との間で葛藤し、保身を優先して屈する姿を見たい。
或いは、本心を貫いて、恨みを持ちながら苦痛に歪む顔を見たいのだ。
リベラはマトラの攻撃を防御する術を持たない。
魔法資質の差が大き過ぎて、防御に魔法を使う事が出来ない。
ラントロックは「裏技」で魔法を使えるが、正面からマトラと当たって打ち克つ事は難しい。
どこかで不意を突く事が出来なければ……。
その時、リベラが隠し持って(存在を忘れて)いた懐剣が輝いた。
ゲントレンから渡された守り刀だ。
攻撃的な魔力の流れを感知して、鞘と刀身に描かれた魔法陣から守護の魔法が自動で発動する。
マトラは驚きつつも、それが脅威で無い事を直ぐに見抜き、小さく笑う。
「無駄な抵抗を……」
確かに、守り刀の魔法も1点と保たないだろう。
その間に何とか出来ないかとリベラはラントロックに問う。
「ラント、貴方、何か持ってない?」
「何かって、俺は道具なんか、そんな……」
何も無いと答えようとした彼は、1つだけある事に気付いた。 彼は懐を漁って小瓶を取り出すと、逆様にして中の水を地面に覆(こぼ)し、水溜まりを作る。
これは魚人のネーラを召喚する為の水だ。
水の正体を知らないマトラは、小首を傾げる。
「何をしている?」
ラントロックは守り刀の輝きを反射する水溜まりの水面を見詰めた。
そこには見覚えのある風景が映っている。
ソーシェの森の中に建てられたウィローの住家だ。
水溜まりの中では、ネーラがウィローの住家の裏庭にある井戸の傍で、水仕事をしていた。
――水を通じて空間が繋がった瞬間、ネーラはマトラの強力な魔力を感じて震えた。
そして、ラントロックの危機を理解した。
彼女は水が張られた洗濯桶に飛び込むと、瞬時にラントロック等の元に転移する。
「トロウィヤウィッチ!」
彼女は上半身を水溜まりから出して、ラントロックの足を掴んだ。
そして強い力で水溜まりの中に引き摺り込む。
ラントロックはリベラに手を伸ばして、呼び掛ける。
「義姉さん、俺に掴まって!
逃げるよ!」
リベラは彼の手を掴み、諸共にネーラに水の中に引き込まれる。
同時に守り刀が折れて、その効力を失った。
「ムッ、未だ奴が居たか!!」
マトラはネーラの姿を見て、眉を顰める。
既にリベラとラントロックは水溜まりの中に姿を消した後。 ネーラによってリベラとラントロックは、ウィローの住家に転移させられた。
洗濯桶の中から飛び出した2人は、芝の上に転がって、肩で息をする。
ネーラは直ぐに洗濯桶を引っ繰り返し、水鏡を封じて、マトラが追跡出来ない様にした。
「あ、有り難う、ネーラさん。
助かったよ……」
ラントロックは安堵の息を吐きながら、ネーラに礼を言う。
ネーラは彼を睨んで厳しい言葉を打付けた。
「私が居なければ主は殺されていた」
「あ、ああ」
それは否定出来ない事実だ。
ラントロックは肯かざるを得ない。
「もう危険な事は止めてくれ……。
私は主を失いたくはないよ」
真剣なネーラの訴えに、彼は怯んだ。
反逆同盟と戦っていれば、何れルヴィエラとの衝突は避けられなくなる。
それでもラントロックは首を横に振り、彼女を抱き締めながら言う。
「有り難う、ネーラさん。
俺の事を心配してくれて。
でも、俺は逃げ出す訳には行かない。
解ってくれないか?」
ネーラは何も言えなくなり、抱かれる儘だ。
その様子にリベラは女誑しだなと思いながら、義弟に冷めた視線を送っていた。 2人を取り逃したマトラは小さく息を吐く。
「まあ良い、2体は始末した。
次第に野生に帰り、永遠に元に戻る事はあるまい」
彼女は全く興味が失せた様に引き揚げる。
黒雲は瞬く間に収まり、晴天が戻った。
凍える様に冷たい風も穏やかで温かい物に変わる。
マトラが存在していた痕跡は影も無い。
彼女が創り出した空間では、時間の流れが歪む。
長らく話し合っていた様に思えても、現実の時間では1点も経過していない。
悪魔公爵の能力を以ってすれば、その位の事は容易に可能なのだ。
コバルトゥスがリベラ等の居た場所に駆け付けた時には、既に誰も居なかった。
「遅かったか……!」
彼は焦燥を露にして、力の戻った精霊石を高く掲げた。
「応えてくれ、リベラちゃん!」
彼はリベラにも精霊石を持たせている。
精霊石同士は感応して、通信機の様な役割も果たす。
もし無事ならば応答がある筈だ。
精霊石の中を覗き込むと、彼女が持つ精霊石の風景が映り込む……。 ウィローの住家で休んでいたリベラは、バックパックからの魔力反応に気付いて、中を漁り、
輝く精霊石を取り出した。
精霊石を見詰めると、その中にコバルトゥスの顔が映る。
「あ、コバルトゥスさん!
大丈夫ですか?」
「大丈夫かって、こっちの台詞だよ!
全員無事なのかい?」
コバルトゥスの問にリベラは表情を曇らせた。
「……全員ではありません。
フテラさんとテリアさんが……」
「彼女達が?」
「動物に変えられてしまって……。
どこかに逃げ出した儘なんです。
その辺に猫と烏が居ませんか?」
コバルトゥスは辺りを見回したが、それらしい物は見当たらない。
魔力の反応を探ってみても、特に引っ掛かる物は無かった。
「いや、全然……分からない。
とにかくリベラちゃん達だけでも無事で良かった。
今、どこに居る?」
「ウィローさんの家です」
「そりゃ豪い遠くに……。
直ぐ、そっちに向かうよ」
「ヘルザちゃんの事、忘れないで下さい」
「分かってる、分かってる」 そう返事をした彼は精霊石による通信を終えて、ヘルザの元に引き返した。
ヘルザは起き上がって、不安気な顔で待っていた。
彼女はコバルトゥスを認めると、急いで駆け寄る。
「コバルトゥスさん、皆は無事ですか!?」
「ああ、どうにか遠くに逃げた様だ。
……でも、フテラとテリアが……」
殺されてしまったのかと早合点して、ヘルザはショックを受けた顔で口元を押さえた。
コバルトゥスは慌てて言葉を継ぎ足す。
「いや、死んでしまった訳じゃなくて、動物に姿を変えさせられてしまったらしい。
どこに逃げたのか……。
とにかくラント達と合流しよう。
所で、もう具合は良いのかい?」
彼の問にヘルザは俯いて答える。
「はい……。
雲が晴れると同時に、気分も良くなって……」
「それは良かった」
安堵するコバルトゥスだったが、ヘルザは強く否定した。
「良くありません!
私は恥ずかしいです。
私も戦わないと行けない時に、自分だけ気分悪くなって倒れているなんて……」
彼女は自分の体調が悪化した原因に心当たりがある様子だった。 コバルトゥスも確信までは持っていないが、何と無く彼女の体調不良の原因は察している。
恐らくは、マトラ事ルヴィエラの強大な魔法資質に中てられて、本能的に身を守る対応をしたのだ。
言い方は悪いが、所謂「仮病」、狸寝入りの様な物だ。
魔法資質を抑えて、相手に見付からない様に弱体化した様に振る舞う。
意図して行っている訳では無く、本能的に身に付いた物だから、自分で制御も出来ない。
コバルトゥスはヘルザを慰めた。
「でも、それで助かったとも言える。
もしかしたら君は、俺達より早く予兆を掴んでいるのかも知れない。
魔法資質が優れているのか、それとも他の感覚とのリンクが鋭敏で繊細なのか……。
どちらにしても、上手く利用出来れば、例えば不意打ちを防いだり、活用方法はあると思う」
「私でも、お役に立てるんですか?
どんな事でもします!」
「ああ、そう言う事は余り言わない様にしようね。
何でもとか、どんな事でもとか、そう言うのは」
コバルトゥスは苦笑いして、彼女の肩に手を置く。
「これからラント達と合流しに行く。
今はソーシェの森に居るらしい」
「ソーシェの森?」
「……魔女の婆さんの家だよ」
「ええっ、そんな遠くに……って、あっ、ネーラさんか!」
遠隔地に瞬間移動する魔法をヘルザは知っていた。 コバルトゥスとヘルザはレノックの助力で、空を旅してソーシェの森に飛んだ。
フテラとテリアを失い、一行は再びウィローの住家に戻される。
そこで全員で改めて、反逆同盟と戦う旅の危険に就いて、話し合う事となった。
ラントロックは正直に、マトラが自分達を襲った理由を語る。
「マトラは俺達を裏切り者として始末しようとしていた。
今回は逃げられたけど、次は分からない。
ヘルザ、それでも未だ俺と来るかい?」
ヘルザは即断で肯いた。
「私も裏切り者なんだし……。
私にも出来る事があるなら。
どんなに危険でも良いよ」
次にラントロックはコバルトゥスとリベラを見る。
「小父さんと義姉さんも、良いの?
俺達と一緒に居ると、又マトラに狙われるかも知れない」
リベラは強気に答えた。
「だからって、家族を見捨てる人が居るの?
余計に放って置けないでしょう」
コバルトゥスも続いて頷く。
「敵の親玉が向こうから出向いてくれるなら、好都合じゃないか」
ラントロックは何だか嬉しくなって、含羞みながら答えた。
「有り難う、皆」 それを見ていたネーラは、ラントロックに改めて水を詰めた小瓶を渡す。
「主の力になりたいと思っているのは、私も同じだよ。
フテラとテリアの事は残念だったけど、私の力が必要になったら、何時でも呼んでくれ」
ラントロックは小瓶を受け取りつつ、この場に残る彼女が心配で言った。
「ネーラさんこそ大丈夫なのかい?
もし、ここにマトラが現れたら……」
「私には水鏡の魔法があるから大丈夫。
海でも川でも、どこにでも逃げられる」
遣り取りを傍で聞いていたウィローは眉を顰める。
「私が大丈夫じゃないんだけどね……」
リベラは申し訳無さそうに、彼女に言う。
「ウィローさんも私達と一緒に行きませんか?」
「ヘッ、冗談だよ。
若い子には付いて行けないさ。
私も旧い魔法使いの一人、自分の事は自分で何とかするさね」
ウィローは苦笑いして断った。
こうして一行は再び反逆同盟と戦う決意を新たにする。
人の姿を失って逃走してしまったフテラとテリアも探しながら……。 悪魔の支配する街
所在地不明 極北の地 反逆同盟の拠点にて
反逆同盟の拠点に帰還したルヴィエラを待っていたのは、血の魔法使いゲヴェールトの体を借りた、
彼の祖先ヴァールハイトだった。
「マトラ公、どこに行っていた?」
「裏切り者を処分しにな」
「誰の事だ?」
「B3Fのフテラとテリアだ。
魔性を奪い、動物に戻してやった」
マトラは失敗したラントロックの事は口にせず、恰も目的は完全に達成したかの様に答える。
ヴァールハイトの顔が少し緊張した。
マトラは彼の顔を見て意地悪く笑う。
「お前達も私に処分されたくなければ、少しは役に立って見せろ。
どうすれば私に『貢献』出来るのか考えるのだな」
それは何も行動を起こさなければ、何れ処分すると言う宣言とヴァールハイトは受け取った。
「……分かった。
私も無為に過ごしていた訳では無い。
温めていた計画を実行に移すとしよう」
「期待しているぞ」
漸く動き出した彼に、マトラは満足して頷いた。
そして相手を思い通りに動かすには、やはり恐怖が必要なのだと確信したのだった。 ブリンガー地方北東部の都市マールティンにて
マールティン市はブリンガー地方の中でも古い景観を残した都市である。
現在でも妖獣から街を守る為の外壁が残っており、その様は旧暦の城塞都市を思わせる。
外壁は補修を繰り返して、復興期の外観を保っているが、これは観光の為であり、今時妖獣の襲撃に、
怯える様な人は居ない。
しかしながら、ブリンガー地方の中でも開発が遅く、長らく妖獣が脅威だった事実があり、
それ故に他の都市が外壁を撤去した後も、ここには外壁が残った。
マールティン市は北にシェルフ山脈、南にベル川に繋がるワルル川、東西にドゥーテの森があり、
宛ら陸の孤島であった。
ドゥーテの森は『猜疑』を意味する名の通り、人を惑わす森とされており、行方不明者が多発する、
不気味な森とされている。
迷信深い田舎者達は、この森の開発には乗り気で無かった。
地理的にシェルフ山脈を越える事は論外。
その為に他都市との交流には南のワルル川を越える必要があり、これがマールティン市周辺の、
開発が進まなかった理由である。
今ではワルル川に橋が架けられ、交通の便も幾らか良くなったが、マールティン市は辺境都市と言う、
扱いに変わりは無い。 ヴァールハイトが狙ったのは、このマールティン市だった。
余り人の交流が活発で無く、都市を囲む外壁もある為に人の出入りの管理がし易い。
領地にするなら、ここを候補の一つにと彼は決めていた。
自分の血を飲ませた者を操ると言う、彼の特殊な魔法の性質は、近代化された都市の掌握に、
とても都合が好い。
田舎の小村では精々井戸水に血を混ぜる位しか方法は無かったが、上水道の整備された所では、
主要な配水管に血液を混ぜるだけで良い。
彼の血は1杯の水に1滴垂らすだけで効果がある。
これを飲んだ者はヴァールハイトの命令で、自由意思を失って動く人形の様になる。
血液の摂取を繰り返し、より支配が強まれば、記憶や意識の改竄も行える。
それも命令が下るまでは、全く自覚が無く、問題無く日常生活が送れるので、もしかしたら、
一生操られていると気付かないかも知れない。
その地域で暮らしていれば、水道の水を飲まない者は殆ど居ない。
ヴァールハイトは水道水に血液を混ぜてから、定期的にマールティン市を訪れて、自分の血の支配が、
どの程度まで浸透しているか確かめた。
そして、市内の殆ど全員が血の支配下に置かれた事を認識して、密かに行動に移った。
彼は市役所にて戸籍を改竄し、昔から馴染みのあった人物の様に振る舞い、やがては市長よりも、
遥かに権力を持つ影の存在となった。 それは引退した政治家の様な存在だ。
実質的な権力を持たない筈のに発言力と影響力があり、影で有力者達を動かす……。
もし正気の人間が居たなら、聞いた事も無い様な人物が何時の間にか、マールティン市の大物として、
君臨している事を奇妙に思うだろう。
しかし、この市内に暮らしている人間は、彼の存在を疑問に思う事が出来ない……。
否、1人だけ居た。
それは市内の魔法道具店の店員マトリ・タカラだった。
タカラはボルガ地方出身の魔導師で、マールティン市の水が体に合わなかった。
故に、水道水を口にする事は無く、態々飲料水を雑貨屋で買っていた。
念には念を入れて、調理に使う水まで売り物の飲料水を使う位の徹底振り。
この為にタカラはヴァールハイトの血の魔法に影響されずに済んでいたのである。
彼女が異変に気付いたのは、店長との何気無い会話中だった。
「タカラ君、今日は例の集会に出掛けるから、留守を宜しく」
「例のって何ですか?」
「あれだよ、マイストルさんの」
「マイストル?」
「あれ?
タカラ君は知らないの?
マイストル・レッドールさんだよ。
超有名人じゃないか」
タカラは彼が何を言っているか解らず、気味悪く感じた。 店長は半笑いで丁寧に説明する。
「知らないって事は無いだろう?
タカラ君、ここに来て何年?」
「えー、4年ですが……」
「4年も居たら、どこかで話位は聞いてると思うけどなぁ?
マールティン市では、とにかくマイストルさんに話を通さないと事が進まないんだよ」
「初耳です」
「最初に説明したと思うけどなー?」
「どんな人なんですか?」
「全く知らないの!?
ウーム……。
でも、余り人前に姿を現す人ではないから、有り得ない事では無いのかな……」
タカラは自分の記憶を疑い、何度も自分自身に問い直してみたが、知らない物は知らない。
店長は更に意味不明な説明を始める。
「いや、しかし、数月に一度は集会があるからな……。
知らない筈は無いんだよ」
「集会も初耳なんですけど……。
そんな習慣ありませんでしたよね?」
「いや、あったよ?
タカラ君、大丈夫?」
自分が奇怪しいのかと、タカラは段々自信が無くなって来た。 彼女が腑に落ちない心持ちで店番をしていると、顔馴染みの客が話し掛けて来る。
「今日は、タカラさん。
店長は?」
「集会です」
「あぁ、マイストルさんの所か!
そうだった、そうだった。
集会の日だったね」
この客もマイストルと言う人物を知っている。
タカラは愈々自分に自信が無くなって来た。
彼女は馴染み客に問う。
「集会って何をするんですか?」
「えっ、知らないのかい?
タカラさんは一寸前に来たばかりだから仕方無いのかな?
市内の有力者、詰まり、市長とか地区長とか社長とか、大きな店だと支社長の事もあるけど、
そう言う人達がマイストルさんの呼び掛けで集まって、色々話し合うんだよ。
街の将来とか、何か事業を興そうとか、そう言う事で後々問題が起こらない様にとかね。
マイストルさんは調整役って所かな」
やはり聞いた事が無いと、タカラは首を捻った。
4年も暮らしていて、一度たりとも、そんな話は耳にしなかった。
最近始まった習慣なら未だ解るが、そうでも無い。
暫く途絶えていて、最近になって再び始まったと言う訳でも無い。 夕方に帰って来た店長に、タカラは尋ねる。
「お帰りなさい。
集会の様子は、どうでしたか?」
「はは、どうって事は無いよ。
近況を報告して、食事なんかして、それで解散さ。
飲み会みたいな物だねぇ」
店長の顔は仄り赤く、少し飲んだ後の様だ。
こんな事は今まで一度も無かった。
この店長は真面目な人柄で、勤務中に酒を飲む事は有り得なかった。
集会に出掛けるのは、休養扱いなのだろうか?
それとも仕事だと考えているのか?
タカラは疑いの眼差しを向けて言う。
「勤務中に飲酒は良くないですよ」
「あー、いやいや、今日は休暇って事にしとくから。
固い事言わないで。
勤務中じゃないから、良いの良いの。
何時もの事だよ」
飲酒の所為で好い加減になっているのかと彼女は怪しんだ。
「休暇と言う事にしておく」と言う台詞も有り得ない。
店長は公私を確り区切る人だった。
休むなら休むで、最初から決めておく人だ。
飲酒したから休暇と言う事にしようと考える、自堕落な人では無い。
そもそも酒を飲む集会に参加するのが初めてだと言うのに。 マイストルと言う人物が何者なのか、タカラは店長に尋ねた。
「店長、マイストルさんは何をしていた人なんですか?」
「知らないよ。
だけど、私が来た時から、今みたいな感じだったから……。
元市長とか議員とか、そんな所じゃないか?
魔導師って事は無いからなぁ」
「店長、何時からマールティン市に勤務してました?」
「10年位前から」
「マイストルさんは、どんな感じの人なんです?
性格とか容姿とか……」
「年齢にしては若々しい人だよ。
50歳位だったかな?
60歳だったかも……。
とにかく、その位の人だ。
性格は気削(きさく)だけど、妙な威圧感って言うか、近寄り難い雰囲気がある。
見た目は白髪交じりで細身だけど、背筋の伸びた人で、若い頃は持てたんだろうなぁって……。
そうそう、ジョイエルと言う、お孫さんが居るんだ。
彼の若い頃に、よく似ているらしいけど、余り姿を見せないらしいから、詳しい事は分からない」
そこまで語れると言う事は、少なくともマイストルは実在しているのだろうと感じる。
架空の人物では無い。
では、どうしてタカラは彼の事を知らなかったのか?
偶々知る機会を逸し続けただけなのか?
彼女は混乱の中で徐々にマイストルの存在を認めつつあった。 それが覆るのは、翌日の事。
魔法道具店に魔導機の定期発注をしようとしていた時だった。
タカラは店長に尋ねる。
「発注は先月と同じで良いでしょうか?」
「あ、待ってくれ!
在庫それ程減ってないから、今月は要らないよ」
「えーと、どれの発注を止めるんですか?」
「どれじゃなくて、要らない」
「……0って事ですか?
えっ、全部?
新製品とか安くなってるのとかありますけど……」
彼女は耳を疑った。
この魔法道具店はマールティン市で魔導機を扱う唯一の店舗だ。
使い捨ての魔力石の様な消耗品まで取り寄せないと言う事は先ず無い。
所が、店長は浅りと切り捨てる。
「要らない、要らない」
「無くなったら困りません?
在庫があると言われても、不測の事態に備えて、常に1月分は余裕を確保しておくって……。
そう言う話でしたよね?」
欠品があっては市民生活に混乱が生じるのではと、彼女は懸念していた。
事故や災害で納品が遅れる事は有り得るし、運送だけで無く、生産に問題が生じる場合もある。
それは極々常識的な判断だ。
「これからは方針を変えようと思ってね。
不良在庫が積み上がるのは良くない。
欠品が出たら、その時は、その時だ」
店長は楽観的だが、本部から叱責を受けるのではないかと、タカラは心配する。
どうも店長の様子は奇怪しい。
それと言うのも、謎の集会に出掛けてから……。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています