ロスト・スペラー 20
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化け猫達は徐に散開して、ニャンダコーレを取り囲む。
「力を見しぇて貰(もりゃ)わにゃーのー。
ニャー、新入りや!」
しかし、化け猫達は自ら仕掛けようとはしない。
ニャーニャー威嚇するだけだ。
普通の化け猫より一回り二回り大きいニャンダコーレを警戒しているのだ。
「コレ、仕方ニャー……っと、伝染(うつ)ってしまった、コレ。
後悔するなよ。
シッ!!」
ニャンダコーレが爪を伸ばして左腕を振り払うと、獣魔法が発動して、彼の左に居た化け猫の額に、
小さな爪痕を付けた。
「ギャニャッ!!」
然程、大きな怪我では無いが、見慣れない獣魔法に化け猫達は戦慄する。
基本的に戦いで使う様な獣魔法は咆哮で相手を怯ませたり、自分の能力を強化する物が殆ど。
偶に相手を弱体化させたり、動きを止めたりする物があるが、遠隔攻撃が可能な物は珍しい。
化け猫達は忽ち戦意を萎えさせて、渋々戦いを止めた。
「ニャ、よう判ったで、こかぁ一旦、矛を収めようや」
「コレ、そのヴェリャー様とやらには、コレ会わせて貰えるのか?」
ニャンダコーレが問い掛けると、化け猫達は畏縮して答える。
「ニャ、ミャー、ああ、会わせちゃーでにゃ。
しばし待(みゃ)っちょれにゃ」 ニャンダコーレは化け猫達に連れられて、「ヴェリャー様」に会いに行った。
所が、化け猫達は街を徘徊するばかりで、一向に「ヴェリャー様」に会える様子は無い。
彼は化け猫達を疑って、脅し掛ける。
「コレ、一体何時になったら、コレ、ヴェリャー様とやらに会えるのだ、コレ?
巫山戯た事をする積もりなら……」
化け猫達は慌てて言い訳する。
「ニャー、ヴェリャー様にゃ、どこで会えーきゃ判りゃにゃーで。
決(け)まった所(とこ)に居(お)ー訳(わきゃ)ーじゃにゃーきゃーの。
今(いみゃ)探(さぎゃ)しちょー所(とこ)だぎゃ」
「コレ、どこに居るのか判らないのか?」
ニャンダコーレは呆れるも、化け猫達は気にしない。
「判りゃにゃー物は判りゃにゃーで、しゃーにゃーぎゃや」
この儘、化け猫達に付いて行っても無駄では無いかと、ニャンダコーレは思い始めていた。
しかし、化け猫のネットワークは侮れない。
直ぐに化け猫達は「ヴェリャー様」の居場所を掌握する。
「ニャー、判ったで!
ヴェリャー様(しゃみゃ)ぁ、南(みにゃみ)だぎゃ!
こっちゃ、こっちゃ!」
1匹の化け猫の呼び掛けに応じて、化け猫達は急いで付いて行く。
特に急ぐ必要は無いのだが、何と無く雰囲気で、走ってしまうのだ。
ニャンダコーレも四足歩行になって駆けた。 「ヴェリャー様」が居たのは、ボルガ市内の南部にある橋の下。
そこで魔犬に囲まれて、1人の女が大きな丸石の上に座っていた。
「ほんにゃりゃ俺等(おりゃーりゃ)は、こいで……。
案内(あんにゃい)はしたでにゃー」
化け猫達は魔犬に近付きたくないので、早々(さっさ)と逃げて行った。
ニャンダコーレは堂々とした二足歩行で、橋の下に屯している魔犬の群れに向かう。
彼が近付くと、それまで伏せていた魔犬達は徐に立ち上がり、警戒し始めた。
女は丸石の上に横臥して、少しも反応しない。
ニャンダコーレは魔犬を物ともせず、歩みを進める。
魔犬達は愈々総立ちになり、彼に向かって吠え始めた。
流石にニャンダコーレも飛び掛かられたくは無いので、一旦足を止める。
そして、その場から石の上の「ヴェリャー様」に対して、よく通る声で話し掛けた。
「コレ、そこの貴女が『ヴェリャー様』か?」
「ヴェリャー様」は気怠気に目を開けて上半身を起こす。
それと同時に、唸っていた魔犬達が静まり返った。
「何じゃ、貴様は?」
「コレ、申し遅れた。
吾輩はニャンダコーレ」
「私はヴェラ。
ニャンダコーレとやら、ここに何をしに来た?」
「コレ、この街に溢れる妖獣共を従えているのは、貴女と聞いた。
どう言う者なのか興味があって、コレ来た」
ヴェラは暫しニャンダコーレを熟っと見詰めていたが、その内に飽きた様に再び伏せる。
「御苦労な事だ」 脅威とは見做されていないのかと、ニャンダコーレは小さく嘆息した。
魔犬達もニャンダコーレから遠い集団は、興味が失せた様に伏せる。
ニャンダコーレは1歩踏み出し、ヴェラに向かって行った。
「禍々しい気配を感じるぞ、コレ!
貴女は、コレ真面な人間では無いな!!」
彼の指摘にヴェラは再び体を起こす。
「フム、解るのか……」
ヴェラの体は魔力を纏い始める。
ニャンダコーレは得体の知れない感覚に身震いした。
「その体の中に、コレ、幾つもの魂を感じる!
コレ、虎か!?」
「懐かしいな。
憐れな老虎……。
そして将軍虎共……」
「コレ、貴女の気配には覚えがある。
ナハトガーブの下に居た狐か!!」
「そこまで看破するか……」
ヴェラは緩りと丸石の上に立ち上がった。
魔犬達は、彼女の纏う禍々しい気配に怯えて、少し距離を取る。
「ロホホホホ……。
その通り、私は狐から人に成った者」
「戯言を!
獣は所詮、コレ獣!
人に等、成れはしないのだ、コレ!!」 ニャンダコーレの言葉にヴェラは怒りを滲ませた。
「何だと?」
「その証拠に、コレ、貴方は魔性を捨てられない!
唯の人であるならば、コレ、魔性は要らない筈!」
「フン、人に拘る必要は無い。
脆弱な人間が、如何程の物だと言うのだ!
魔性を持つ私は、人より優れた存在だ!」
堂々と言い切るヴェラを無視して、ニャンダコーレは問う。
「コレ、貴女の目的は何なのだ、コレ?
正か、コレ、妖獣軍団の仇討ちと言うのでは、コレ無かろうな?」
彼女は数極の間を置いて答えた。
「或いは、そうなのかも知れぬ。
思えばナハトガーブも憐れな存在だった。
私は、より優れた物が地上を統べるべきだと思っている。
ナハトガーブには、その力があった。
結局は唯1人の人間に負けてしまったがな。
私は同じ轍は踏まぬ。
今度は私がナハトガーブに代わって、人間共を屈服させよう」
「コレ、私は貴女の力が、そこまで強いとは思わない。
妖獣は所詮、敗者ニャンダカニャンダカの血筋なのだ、コレ」
ニャンダコーレの一言にヴェラは激怒する。
「敗者だと!?」 それに魔犬達は同調するよりも、味方の筈の彼女への恐れを先に抱いた。
その様子にヴェラは益々怒りを膨らませる。
「どうした、貴様等!!
己が血統を敗者と罵られて悔しくは無いのか!」
「コレ、多くの妖獣にとって、ニャンダカニャンダカの物語は、コレ、遠い昔の語に過ぎぬのだ。
そして、コレ貴女は今や人でも妖獣でも無い、唯の怪物だ、コレ!!」
「フン、だから何だ!!
私は獣を超え、人を超え、更なる上位の存在になった!
強者こそ絶対!!
私より弱い物は、私に従い、平伏するのみ!
Cooh――――!!!!」
ヴェラは大声で吠えて、大気を揺るがした。
魔犬達は腰を抜かしてしまうも、ニャンダコーレは姿勢を低くして四つ足になり、鳴き返す。
「Neeee――――!!!!」
獣魔法は相殺されて、お互いに効果が無い。
ヴェラは目を見張った。
「我が魔法に魔法で対抗するとは!」
「この程度の魔法、コレ、何を恐れる事があろうか!!」
「高が化け猫風情がっ!!」
彼女はニャンダコーレに対して凄んで見せるが、特に何か出来る訳では無い。
獣魔法は相手を怯ませるだけだし、魔性の瞳も遠くからでは効果が無い。 ヴェラは苛立って、魔犬達に命令する。
「えぇい!!
犬共め、何をしておる!!
掛かれっ!!」
しかし、魔犬達はヴェラの獣魔法を受けて、恐慌状態から立ち直れない。
その隙にニャンダコーレは四つ足の儘、素早く駆けた。
木偶の如く動かない魔犬達の間を縫って、ヴェラの居る丸石の元にまで迫り、高く飛び跳ねて、
獣魔法による一閃。
「シャーッ!!」
共通魔法で言う『風の刃<ウィンドリッパー>』に相当する獣魔法。
俗に「鎌鼬」、「不可視の爪」、専門用語的には「小陣風爪(こじんふうそう)」と称される。
風の爪はヴェラの頬を掠めて、小さな傷を付けた。
その瞬間、ヴェラとニャンダコーレの目が合う。
彼女の魔性の瞳をニャンダコーレは正面から受け止めて、睨み返す。
互いの瞳力が拮抗し、効果が無い。
(此奴、私の魔性が通じない!?)
ヴェラは驚いたが、ニャンダコーレは追撃せずに、直ぐに距離を取った。
そしてヴェラに対して言う。
「この騒動の正体、コレ、確かに見たぞ!
お前達ニャンダカニャンダカの、コレ子孫共の野望は、この吾輩が挫く!!」
「何だと!!
貴様は何者だと言うのだ!?」
「吾輩はニャンダコーレ!!
コレ、ニャンダカニャンダカ一党の仇敵、ニャンダコラスの子孫である!!」
そう名乗ってニャンダコーレは撤退した。 その儘、ニャンダコーレは四つ足で駆けて、市内の魔導師会支部に向かう。
途中、彼はビシャラバンガとコラルに会った。
ニャンダコーレは足を止めて、ビシャラバンガに話し掛ける。
「ニャッ、コレ、良い所に!」
「どうした、ニャンダコーレ?」
「黒幕を見付けたのだ、コレ!!
奴はヴェラと名乗った!」
「ヴェラ……。
確か、反逆同盟の中に、そんな名前の奴が居たな。
エグゼラの狐だったか?」
「コレ、それだ!!
エグゼラの狐、コレ、妖狐が人の姿になった物!」
ニャンダコーレの話を聞いて、ビシャラバンガは大きく頷いた。
「良し、これで反逆同盟と浮浪者殺しが繋がったな。
魔導師会や都市警察も動く理由が出来た。
よくやったぞ、ニャンダコーレ!」
彼に褒められたニャンダコーレは小さく笑う。
「ニャヒヒ……。
あー、コレ、しかし、油断は出来ないのだ。
コレ、奴には妖獣共が付いている。
それに奴自身も、コレ、未だ何か手を隠しているだろう、コレ」
「……余程の化け物で無ければ、この己でも倒せる。
心配するな」
少し謙虚なビシャラバンガの励ましに、ニャンダコーレは小さく頷いた。
「ニャー、コレ、貴方の実力は知っている。
頼りにしている、コレ」 それからビシャラバンガはニャンダコーレに尋ねる。
「それで、ヴェラと言う奴の居所は判るか?」
「コレ、ここから南の橋の下に居たが……。
今も同じ場所には、コレ、居ないと思う。
誰でも、コレ、最後の手段は、最後まで取っておきたい物であるからして、コレ」
「真面にやり合う積もりは無いと言う事か?」
「コレ、強敵を避けるのは兵法の基本である。
手強い強兵を避けて、コレ、多数の弱兵や無力な者を叩くのである。
戦いはコレ、数であるからして、勝てる物とだけ戦うのだ」
ビシャラバンガは大きく頷き、再びニャンダコーレに尋ねた。
「では、どう対応するべきだと思う?」
「ニャー、コレ、無闇に追い掛け回すのは愚策である。
今はコレ、確りと守りを固め、出向いて来た所をコレ叩くべきであろうな」
「成る程、罠に掛けてみるか?」
「ニャ?
妙案があるのか、コレ?」
ビシャラバンガは小さく頷く。
彼等は再びポイキロサームズと合流して、魔導師会にヴェラの存在を伝えに向かった。
浮浪者連続殺人事件と呪詛魔法使いの出現は、やはり裏で繋がっていた。
これで魔導師会や都市警察も、浮浪者連続殺人事件の解決に動き出す筈だったが……。 「私達も事の重大さは理解している積もりです。
しかし、人手が足りないのですよ。
呪詛魔法使いを追って、街の警邏をしながら、妖獣を追い払い、それだけでも手一杯なのに、
更に外道魔法使いが居るなんて……」
魔導師会の反応は色好い物では無かった。
寧ろ、厄介事を持ち込まれて、迷惑していると言いう風な態度。
「こちらに貸せる手勢は無いと言う事か?」
「……はい。
申し訳ありませんが……」
ビシャラバンガは謝罪が口先だけの物だと感じていた。
詰まる所、現行の体制を動かす事が億劫なだけなのだ。
「心にも無い事を言う必要は無い。
もっと正直に言ったら、どうなのだ?
訳の解らない連中の報告で動く事等、出来る訳が無いと」
「否(いえ)、決して、その様な事は……」
「違うのか?
では、こうか?
そちらの事は、そちらで解決してくれと」
「否々……」
「どうやら、その様だな。
気にするな、こちらも勝手に動いていると思われない様に、報告しているに過ぎぬ。
この件に関して、こちらに一任して貰えるなら有り難い」
魔導師会の者は沈黙した。
その通り過ぎて、言い返す事が出来なかったのだ。
口先だけの言葉は、ビシャラバンガに嘘だと見抜かれる。 結局、魔導師会や都市警察の協力が得られない事に変わりは無かった。
ビシャラバンガの交渉が下手だった所為もあるが……。
彼は寧ろ、事情に明るくない者が割って入るのは、解決の妨げになると考えていた。
反逆同盟の魔法使い達は、対共通魔法使いに有利な性質を持っている事が多いのだ。
下手に大勢が出動すると、逆に纏めて対処され兼ねない。
ビシャラバンガはポイキロサームズと相談する。
「やはり魔導師会や都市警察は、こちらにまで手が回らない様だ。
ヴェラとやらは己達で退治するしか無い」
しかし、ポイキロサームズは不安がった。
亀女のコラルが言う。
「私達だけで大丈夫でしょうか?」
「その前にニャンダコーレの話を聞こう。
ニャンダコーレよ、ヴェラに就いて教えてくれ」
ビシャラバンガの要請に、ニャンダコーレは深く頷いた。
「ウム、コレ、私はヴェラと直接対峙した。
それで判った事が、コレ幾つかある。
先ず、ヴェラ自身は、コレ、大した力を持っていないのだ、コレ。
厄介な物は、コレ、魔性の瞳と、簡単な獣魔法だけだ、コレ。
コレ、詰まり……瞳と『咆哮<ロアリング>』にさえ気を付けていれば、コレ、後は腕力の勝負になる。 妖獣共を、コレ、従えているのも厄介ではあるが……」
ビシャラバンガは対処法を尋ねる。
「どうすれば、魔性の瞳と咆哮を防げる?」
「魔性の瞳は、コレ、魅了の一種である。
コレ、瞳を覗かなければ良いのだが、相手と対峙するのに、コレ、瞳を見ないと言うのは、
大きな制限となってしまう」 ニャンダコーレは指を立てる代わりに、爪を伸ばした。
「コレ、しかし、魔性の瞳にも発動条件があるのだ、コレ。
瞳には、コレ感情が表れる物。
コレ、相手の感情を捉えなければ、コレ、効果が出ない。
コレ、その点、諸君等ポイキロサームズは有利と言える。
何故なら、コレ、爬虫類や両生類、昆虫類の瞳は、人とは違うのでな、コレ。
『見る側』にとっては、コレ、見慣れない瞳に先ず驚いて、魔性を向ける所では無くなる」
蛙男のヴェロヴェロが確認する。
「詰まり、俺達には魔性の瞳が効かないって事か?」
「そうであるな、コレ。
後は、コレ、咆哮に怯まなければ良い」
それなら何とかなるかも知れないと、ポイキロサームズは希望を持った。
しかし、蜥蜴女のアジリアが水を差す。
「でも、どうやってヴェラと戦うんだ?
素直に姿を現してくれるとは思えないけど」
「それは……コレ、姿を隠して、囮作戦をするしか無いと思う、コレ」
「誰が囮になるんだ?」
アジリアの問に、ニャンダコーレは一同を見回した。
「コレ、出来るだけ人型に近い物が良いな」
そう言いながら、彼は囮に最適な人物を見定める。 ビシャラバンガは余りに巨体過ぎる。
当然警戒されてしまうだろう。
亀女のコラルは横に広過ぎる。
彼女も怪しまれる。
昆虫人のヘリオクロスも体が大き過ぎる。
ニャンダコーレは背が低い。
蛇男のヤクトスは足が無い為に、歩き方が不自然。
蜥蜴女のアジリアは尻尾が目立ってしまう。
そうなると、残りは……。
「えっ、俺か!?」
蛙男のヴェロヴェロしか居ない。
「頼むよ、ヴェロ」
アジリアに頼まれても、ヴェロヴェロは素直に頷けなかった。
「いや、しかし……」
ヴェロヴェロも容姿は人間に近いとは言い難いが、フード付きローブで何とか誤魔化せる。
側(ガワ)を覆えば、太った男性で通らなくも無い。
それでもヴェロヴェロが躊躇う理由は、やはり恐怖心。
妖獣を従えた者と戦う決心が付かないのだ。
相手と一対一なら未だ良いが、妖獣を複数従えているとなると……。
ヤクトスも頼み込む。
「他に居ないんだ。
大丈夫、独りで戦えとは誰も言わないよ」
「お前、他人事だと思ってさぁ……」 ポイキロサームズは特異な外貌をしているが、中身は普通の人間の積もりなのだ。
特別優れた能力がある訳では無いし、何か魔法が使える訳でも無い。
人並みに臆病でもある。
「大体ヴェラってのは、何者なんだよ。
獣魔法を使うって、野生児なのか?」
ヴェロヴェロの疑問に、ニャンダコーレは答える。
「コレ、野生児と言う表現は中々面白い。
ヴェラは、コレ、妖獣が人の姿になった物である」
その言葉にアジリアは驚いた。
「私達とは逆って訳かい?」
「コレ、そうであるな」
ポイキロサームズは人の心を持ちながら、人外の姿を持った者達だ。
獣から人間になったヴェラとは確かに逆。
だが、人に化ける妖獣の昔話は多くあるが、実際に人の姿に変化したと言う明確な記録は無い。
「所謂『成り上がり<アップスタート>』って奴か?」
ヴェロヴェロが問うと、ニャンダコーレは首を横に振った。
「ニャー、コレ、違う。
コレ、成り上がり等と言う、可愛らしい物では無い。
もっと悍ましい物だ、コレ」
「悍ましい?」 ニャンダコーレは険しい顔になる。
「奴はコレ、自力で人に変化した訳では無いのだ。
コレ、体も魂も、幾つもの異物が、コレ一体になっている」
「な、何だよ、それ……」
ヴェロヴェロは蒼褪め……は出来ないが、精神的な衝撃を受けて恐怖していた。
「恐らくはルヴィエラの仕業だろうな、コレ。
闇の力で、コレ、人間の体を造り、そこに無理遣り魂を押し込めたのだ、コレ」
「そんな化け物を相手にするのかよ」
ニャンダコーレの説明でヴェロヴェロは悉(すっか)り弱気になる。
言葉だけ聞けば、どんな怪物なのかと恐れるのも無理は無い。
「否、コレ、平素は普通の人間だ、コレ。
コレ、何等かの本性を隠していても、追い詰められるまでは、コレ隠し通すだろう」
そこで影人間のシャゾールが言った。
「ヴェロ、心配なら私が影に付いて行こう」
「わっ、シャゾール、居たのか!」
「他に適任者は居ないんだ。
頼むよ、ヴェロ」
シャゾールに説得されて、ヴェロヴェロは渋々ながら頷く。
入念な準備が必要と言う事で、作戦の決行は翌日となった。
この日は魔導師会が手配した市内の宿に泊まって過ごす。 魔導師会の紹介と言う事で、宿の従業員達も一行の奇怪な風貌には目を瞑ってくれた。
事件と獣達の所為で旅行者が居ないので、宿は空々(がらがら)。
殆ど貸し切り状態である。
宿としても、貴重な客を逃す訳には行かなかった。
この宿には温泉があるが、ポイキロサームズの中でヴェロヴェロとヘリオクロスは湯に浸かれない。
囮の役目のヴェロヴェロは詰まらなそうに、和風の宿泊室から宿の中庭を見ていた。
彼は同室のヘリオクロスに語り掛ける。
「ヘリオス、お前は温泉に行かないのか?」
「コノ体デハ、ドウモ水ハ苦手デ……。
ヴェロサンハ?」
「俺は蛙だからな。
熱い湯に入ったら、あっと言う間に茹で上がっちまう」
「オ互イ大変デスネ。
早ク人間ニ戻リタイナ」
「ああ、全くだ。
俺達を生み出した奴には、責任を取って貰いたい所だが……」
「デモ、相手ハ大悪魔ダッテ」
「そうだな、俺達じゃ足元にも及ばない。
ヘリオ、何故お前は反逆同盟と戦うんだ?」
「ドウシテモ何モ……。
皆ガ一緒ダカラデスヨ。
皆ガ止メルッテ言ッタラ止メマス。
ヴェロサン、今更何デ、ソンナ事ヲ?
ヴェロヴェロは反逆同盟との戦いから抜けたいのかと、ヘリオクロスは思った。 ヴェロヴェロは意地の悪い質問をする。
「――ってぇ事は、皆が戦わないって言ったら、お前も止めるのか?」
「マァ、ソウデスネ。
僕ダケデ戦ウノハ厳シイデスシ」
「お前は、それで良いのか?」
「エッ、何ヲ――」
ヘリオクロスは彼の言葉に驚いた。
「皆が戦っているから」と言う理由は、積極的な意思では無い。
誰か1人でも、やる気を無くしてしまったら、全員が意欲を失う。
そう言った脆さを孕んでいる。
ヴェロヴェロは真っ直ぐヘリロクロスを見ていた。
「何デ僕ニ、ソンナ事ヲ聞クンデスカ……?」
「やる気が無えなら、止めた方が良いぜ。
不本意な戦いで死にたか無えだろう?」
「不本意……」
ヘリオクロスは真剣に自分の置かれた状況に就いて考える。
ヴェロヴェロは警告しているのだ。
今の浮ら浮らした心の儘では、危機に対応出来ないと。
自分達が絶対に安全と言う事は無い。
反逆同盟との戦いに参加している以上、どこかで危険な目に遭う事は覚悟しなければならない。 ヘリオクロスは逆にヴェロヴェロに問う。
「ヴェロサンハ、ドウナンデスカ?
何デ戦ウンデスカ?」
「俺は……。
そうだな、俺にだって人の役に立とうって気持ちはあるんだ。
俺にしか出来ない事があるなら、やってやろうって思う」
「ソレデ死ンデモ良イッテ事デスカ?」
「何言ってんだ、良かねえよ。
でも、死ぬかも知れねえだろう?
その時に後悔しねえかって事だよ」
「ヤッパリ、怖インデスカ?」
ヘリオクロスはヴェロヴェロが急に、こんな話を始めたのは、自分が囮をする事に対して、
恐怖や不安があるからでは無いかと考えた。
ヴェロヴェロは数極の間を置いて、小声で答える。
「怖いか怖くないかで言ったら、怖い。
怖(こえ)えよ、そりゃあな。
でも、止める訳にも行かねえだろうよ。
何でとか、詰まらん理由は要らねえ。
やるからには、やる。
お前達が止めても関係無え。
俺は、こんな姿になる前の俺の事を覚えちゃいねえが、多分、そう言う性格だったんだ。
これは言わば、俺の魂の証明みてえな物だ」
そう力強く断言出来る彼が、ヘリオクロスは少し羨ましかった。 ヘリオクロスは俯き加減で言う。
「僕ハ……屹度、臆病ナンダナト思イマス。
コウナッテシマウ前ノ僕モ」
「ああ、だから無理すんなよ」
「ソレデモ僕ハ、皆サント一緒ニ居マス。
コウシテ会エタノモ何カノ縁デス。
皆一緒デ居マショウ。
反逆同盟ヲ打チ倒スマデハ……」
「その後は、どうするんだ?」
ヴェロヴェロの問に、ヘリオクロスは自信の無さそうな声で言った。
「ヤッパリ、皆撒ラ撒ラニナッチャウンデスカネ……?」
「そりゃ何時までも皆仲良く一緒にって訳には行かねえだろうな。
今は皆、目的があって一緒に居るだけだ。
何時か、それぞれの道を見付けて歩く事になる」
「僕ニハ何モアリマセン……」
小声で零したヘリオクロスを、ヴェロヴェロは慰める。
「まぁ、そんな物だろう。
俺だって今後の事なんか、何も決めちゃいねえんだ。
でも、何とかなるさ。
そう言う気持ちで居なきゃ、後ろ向いてばっかじゃ、どう仕様も無えぜ」
「ヴェロサンハ強イデスネ……」
「そうでも無えよ。
雑な持ち上げ方すんな」
何時の間にか、外は雨になっていた。
それぞれの思いを胸に、囮作戦の日を迎える。 翌日、雨は止む所か益々激しくなっており、囮作戦は一旦中止になった。
雨の中では、獣も濡れるのを嫌がって出歩かないのだ。
しかし、ヴェロヴェロは提案する。
「今こそヴェラとか言う奴を探す好機じゃないか?」
「どうして?」
アジリアの疑問に彼は淡々と答える。
「雨が降っていれば、獣は出歩かない。
それは詰まり、監視の目が緩むって事だろう?」
「向こうから来るのを待つんじゃなくて、こっちが奴を探しに出向くって訳かい?」
「ああ、この雨なら、どこか屋根のある所で休んでいる筈」
「しかし、『この雨』だよ」
蛙のヴェロヴェロと亀のコラルは、雨を問題にしないが、他の者達は違う。
アジリアもヤクトスも雨に濡れるのは好きでは無い。
序でに、ニャンダコーレも。
ビシャラバンガは目的の為ならば、多少の事は苦では無い性格なので、気にしない。
こう言う時はビシャラバンガが意見の纏め役を買って出るべきなのだが、彼は人の和に疎かった。
ヴェロヴェロが熱弁を振るう。
「雨が何だよ。
俺達は何の為に、この街に来たんだ?」
「自棄に張り切ってるじゃないか?」
一体どうした事だと、アジリアはヴェロヴェロの態度に驚いた。 そこでヘリオクロスが彼に加勢する。
「僕モ今ノ内ニ叩クベキダト思イマス。
今ナラ妖獣モ少ナイデスカラ、戦イモ楽ニナルデショウ」
「ヘリオス、あんたも雨は一等苦手だったじゃないか?
どう言う風の吹き回しだい?」
「今ハ、ソウ言ウ事ヲ言ッテル場合ジャ無イッテ事デス」
2対1で押されているアジリアに、今度はニャンダコーレが加勢した。
「コレ、コレ、落ち着くのだ、コレ。
急いては事を仕損じると、コレ、言うだろう。
コレ、一応魔導師会にも断りを入れておかなければ、コレ、私達だけで奴と戦うのでは無いのだ」
ヴェロヴェロもヘリオクロスも彼に説得される。
だが、ここで話が落ち着き掛けていたのに、ビシャラバンガが口を挟む。
「こちらから打って出るのは、妙案だとは思う」
「ビシャラバンガ、コレしかし、ヴェラが今どこに居るのか絞り込む必要があるのだぞ、コレ。
闇雲に市内を歩き回るのでは無く、コレ、土地勘のある者を頼るのだ。
それは、コレ、やはり魔導師会か都市警察の者だろう」
「連中が協力してくれるか?」
ビシャラバンガは魔導師会や都市警察の手を借りるのに、否定的だった。
ニャンダコーレは彼を説得する。
「今は雨だ、コレ。
魔導師会や都市警察の見回りも少なかろう」 ビシャラバンガは一同を見回して、改めてニャンダコーレに尋ねた。
「それで……誰が魔導師会に渡りを付ける?」
この中で交渉上手な者は居ない。
全員が沈黙していると、そこへ隠密魔法使いのフィーゴ・ササンカが現れた。
「その役目は私が果たそう、ニャンダコーレ殿」
「ニャ、コレ、ササンカ殿!
何時から居たのか、コレ?」
「最初から居たぞ。
交渉にヤクトス殿を借りて行くが、構わないな?」
「えぇっ、私ですか?」
驚くヤクトスにササンカは真面目な声で言う。
「私達だけでは相手にされないだろうから、親衛隊の手を借りたい。
ストラド・ニヴィエリの事だ。
ヤクトス殿は彼と親しいのだろう?」
「親しいと言うか……。
ウーム、他の人達よりは親しいと言って良いんでしょうか……?」
ヤクトスは親衛隊員ストラドが未だ執行者だった頃から、行動を共にしていた。
他の者達より関係が深いと言えば深い。
ササンカは弱気なヤクトスに力強く告げる。
「とにかく話をする。
細かい事は、その後だ」 ヤクトスとササンカは親衛隊員ストラド・ニヴィエリに、仲介を頼みに行った。
ストラドはボルガ魔導師会支部で、呑気に寛いでいた。
「どうした、『蛇男<ヴァラシュランゲン>』?
失礼、今は名前があるんだったか?
あー……ヤークト?」
「ヤクトスです」
「そう、ヤクトス。
何の用だ?」
「この辺の地理に明るい人を探しています」
「そりゃ何で又?」
「えーと、この大雨でしょう?
獣は濡れるのを嫌って、雨宿りしている筈です」
「お前達は浮浪者連続殺人事件を追っていたんじゃないのか?
何で獣の話が?」
「ああ、えーと、そこから説明しないと駄目でしたか……。
実は反逆同盟が関わっていた事が判ったんです。
犯人はヴェラと言う、妖獣から人間になった女です」
「ヴェラ……。
反逆同盟に、そんな奴が居ると言う話だったな。
詳細は不明だが……」
「そのヴェラと言う女が、妖獣を従えているんです。
だから、妖獣が出歩けない今の内に、居所を探して叩こうって……」 ストラドは大きく頷く。
「話は解った。
それで居所の見当は付いているのか?」
「多分……。
私は分かりませんけど」
自信無さそうなヤクトスに、ストラドは呆れて溜め息を吐いた。
「やれやれ、こう言う時は嘘でも良いから、判っていると言うんだ。
幸い、話が解る俺だから良い物のな」
ササンカが話を締めに掛かる。
「それでは頼めますか、ストラド殿?」
「ああ。
地理に明るいって事は、地元の奴が良いな。
暇そうな奴を見付けて、手配してやるよ」
「感謝します」
「おう、大いに感謝してくれ」
ヤクトスとササンカはストラドに渡りを付けて貰い、地元の執行者を遣して貰える事になった。
彼の名はミヤ・ロクセン。
ボルガ地方魔導師会法務執行部所属の執行者で、取り立てて優秀では無い、程々の執行者だ。
本当に、唯単に地元民だと言う事だけで、ポイキロサームズ等の元に派遣された。
彼は最初、ポイキロサームズの特異な風貌に驚いていたが、それも直ぐに慣れる。
そして、早速ホテルにて作戦会議に参加するのだった。 ロクセンはポイキロサームズ、ニャンダコーレ、ビシャラバンガ、ササンカと顔を付き合わせて、
ボルガ市の地図を睨みながら、ヴェラの居そうな場所を探す。
ロクセンは先ず、自分の見解を言う。
「この雨ですから、下水道は増水していて使えないでしょう。
無人の空き家や倉庫が怪しいですね」
更に捜索地点を絞り込むべく、ニャンダコーレが発言した。
「コレ、奴は多数の妖獣を従えている。
それなりに広い場所に、コレ居ると思う」
「そうなると……。
ウーム、無人の広い場所……。
でも、屋内は大体避難所になっていますから……。
屋根さえあれば良いのでしょうか?
それなら、大街道の高架下とかですかね……。
今なら浮浪者も居ないでしょうから、都合が好いでしょう」
「そうと決まったら、コレ、大街道沿いを探しに行けば……、コレ、良いのかな?」
「ええ、多分。
でも、大街道は長いので、雨の内にと言うのであれば、手分けして探す事になります」
大街道はボルガ市の中心から北西、西、南西、南南西、南に分かれている。
それぞれの道を辿って一々調べて行くとなると、結構な時間が掛かる。
そこでビシャラバンガが提案した。
「己に良案がある。
浮浪者達のネットワークを活用するのだ。
今なら、どこに妖獣が多いか判る筈」
浮浪者達も人目に付かず、且つ、雨風を凌げる場所を知っている。
都合の好い場所は、先ず浮浪者が目を付けている筈なのだ。
そして妖獣とは居場所を奪い合う事になる。 ビシャラバンガは浮浪者達から聞き込みをして、妖獣達が屯している場所を特定した。
それは南西のブリウォール街道の高架下。
人気の無い河川と一般道路を跨ぐ高架の下には、種々の妖獣達が犇めいている。
犬、猫、狐、狸、熊、亜熊……。
その様にポイキロサームズは戦慄した。
ポイキロサームズは特異な風貌を持ち、それぞれの外見に応じた生物の特徴を持っているのだが、
特別な魔法が使えたり、魔法資質が特別に優れていたりする訳では無い。
獣の群れと戦うのは難しい。
そこでビシャラバンガが先陣を切る。
「先ずは、己が行ってみる。
お前達は逃げ出す獣共の中に、ヴェラとやらが居ないか見張ってくれ」
そう言って、彼は堂々と正面から高架下の獣達に向かって行った。
高い魔法資質を持つビシャラバンガは、魔力を纏って巨大化する。
その威容に獣達は怯んだ。
接近して来るビシャラバンガから遠ざかり、距離を取る。
獣達は押し合い圧し合い、高架の下から食み出す物達も居る。
高架の下に入ったビシャラバンガは、獣達の集団に向かって前進する。
獣達は後退を続けて、弱い物達は高架の下から追い出され、雨に打たれる。
ビシャラバンガが1歩足を前に踏み出す度に、魔力の衝撃波が獣達を襲う。
これは物理的な衝撃波とは違う。
振動を感じはするが、実際に体が後方に押されたりはしない。
揺さ振られるのは精神だ。
魔法資質が鋭敏であり、且つ魔法資質が魔力の衝撃波より弱い存在は、自身の内の魔力の流れを、
衝撃波によって崩される。
これが強烈な違和感や不快感となり、一層の恐怖を喚起する。 ビシャラバンガは妖獣達に呼び掛ける。
「ヴェラとやらは、どこだ!?
貴様等、軟弱な獣共を率いて、お山の大将気取りの者は!」
怒気を孕んだ彼の言葉は、丸で獣の咆哮だ。
小さな獣達は怯んで逃げ出す。
熊や亜熊でさえ、ビシャラバンガに比すれば、子供同然。
圧倒的な『力』の化身。
それが巨人魔法使いのビシャラバンガなのだ。
多くの獣達は高架下から出て行き、散り散りに雨の中を逃げ出す。
半分近くの獣が高架下から逃げ出した所で、漸くビシャラバンガの前にヴェラが現れた。
否、ビシャラバンガがヴェラの居る所まで、獣達を押し退けて進んだと言うべきか?
金髪の美しい娘の姿をしたヴェラを、ビシャラバンガは睨み付ける。
「貴様がヴェラか!」
「そうだ。
そう言う貴様は?」
流暢な人語を話す彼女は、丸で人間だ。
しかし、ビシャラバンガには判る。
彼女の魔法資質は明らかに異常。
得体の知れない物が混然一体となっている。
ヴェラを盾として彼女の後ろに隠れていた獣達は、その異様さに漸く気付いた。
そしてヴェラからもビシャラバンガからも離れる。 ビシャラバンガはヴェラに言った。
「フン、所詮は野に生きる獣だ。
忠誠心等と言う物は、持ち合わせていない」
それでも彼女は動じず、堂々としている。
「元から期待等していない」
「貴様の詰まらん遊びも、これで終わりだ」
「ホホホ、終わり?
どう終わりだと言うのだ?
貴様が私を倒すとでも?
どうやって?」
ビシャラバンガの威容にも、ヴェラは怯まない。
その態度が彼の癇に障った。
「女は殴れないとでも思っているのか?
貴様の様な外道に、男も女もあるまい。
少しでも助かりたいと言う気持ちがあるなら、大人しく魔導師会の裁きを受けるのだな」
「ホホ、もう勝った積もりで居るのか?
お目出度い奴よ」
ビシャラバンガは高笑いするヴェラに向かって、魔力の塊を打ち出した。
魔力の飛ばす、『魔力弾<エナジーバレット>』と言う初歩的な魔法だ。
ビシャラバンガの高い魔法資質によって物質化された拳大の魔力弾は、石の様な硬さになる。
それが彼の怪力で、恐ろしい速さで飛んで行くのだから、ヴェラには避けられない。 ヴェラは鳩尾に投石を食らった様な衝撃を受けて、その場に崩れ落ちた。
彼女は激しく噎せ込んで、しかし、不敵な笑みを浮かべる。
効いていない訳では無い。
確かに痛みを受けているし、肉体も損傷している。
それをビシャラバンガは気味悪く思った。
「……何だ?」
「フッフフフ、効かんよ」
「どう見ても、効いているが……」
「貴様には判らんのか?
我が内に潜む物が……。
もっと私を痛め付けろ。
人の身は狭い狭いと嘆いておる。
肉体と言う器を破り、解き放たれる時を、今か今かと待っておるのだ」
彼女の言動にビシャラバンガは怯み、追撃を止めた。
ヴェラを殺すのは簡単だが、それが何かの引き金になると彼は理解する。
戦いに関して鋭い嗅覚を持つ彼には、ヴェラの言葉が感覚で理解出来るのだ。
ヴェラは美しい女性の体の内に、途轍も無く巨大で醜い「何か」を押し込めている。
それは打撃を受ける度に彼女の中で膨らみ、突き破って表に出て来ようとしている……。
ヴェラは薄気味悪い笑みを浮かべた。
「ククク、どうした?
攻めて来ないのか?」
彼女は浸々(ひたひた)とビシャラバンガに向かって歩き始めた。 ビシャラバンガは顔を顰めて、腰を溜め、魔力弾発射の構えを取る。
構えだけで、実際に発射しはしない。
これでヴェラの反応を見た。
しかし、ヴェラは歩みを止めたりはしない。
恐れて怯む事も無い。
「威嚇の積もりか?
可愛いな」
ヴェラはビシャラバンガの対応を嘲笑った。
それは弱者に向ける顔。
優越と侮蔑の笑み。
怒りを感じたビシャラバンガは小さく自嘲して、強気にヴェラに対して笑みを返した。
それは未知に立ち向かう挑戦者の顔。
更なる己の高みを見る笑み。
ヴェラは歩みを止めずに、一層見下しの感情を強くする。
「強がるな。
私は強者、お前は弱者。
身の程を弁えぬ者に明日は無い」
対してビシャラバンガも言い返す。
「強がっているのは、どちらか?
貴様の目は曇っている様だな。
力に溺れた者の目だ」
彼は無防備に近付いて来るヴェラに、魔力弾で弱い一撃を加えた。
魔力弾は彼女の肋骨を叩き、心臓に衝撃を与える。 ヴェラの心臓は心室細動を起こす。
彼女は蒼褪めて、魚の様に口を開閉させた。
ビシャラバンガは憐れみの目を向ける。
「……肉体を傷付けずとも、命を失わせる方法は幾らでもある。
力押しだけが戦いでは無い」
ヴェラは必死に呼吸して、自分の胸を叩く。
しかし、益々苦しくなって行くばかりだ。
彼女は最後の力を振り絞って、最終手段に出た。
「わ、私……は……、死な……ん……!」
ヴェラは鋭く伸びた爪で、自らの腹を引き裂く。
自ら体を破壊する事で、内に封じられた物を解き放つのだ。
鮮血が噴き出し、雨で湿気た地面を赤く染めて行く。
「お、おぉ……」
ヴェラは満足気に微笑みながら、俯せに倒れて息絶えた。
傍目には狂ったとしか思えない行動。
だが、ビシャラバンガは気を抜かない。
ヴェラの肉体は死したが、その魔力反応は消えていないのだ。
約1点後、ヴェラの肉体は再び動き出す。
生気を失った彼女の体は徐々に暗緑色に変色し、腐敗して溶け落ちる。
それは緩やかに拡がって泡立ち、宛ら毒沼の様になった。
妖獣達はヴェラの死に動揺して、暫く茫然と立ち尽くしていた。
「ギャーーーーッ!!」
突然、妖獣達の中から悲鳴が上がる。 見れば、化け猫が1匹、緑色の粘液に絡め取られていた。
化け猫は徐々に力を失い、やがて粘液に呑み込まれて行く。
妖獣達は『恐慌<パニック>』に陥り、その場から逃げ出そうとするが、足元が忽ち緑の沼に変じる。
妖獣達は足を取られて、脱出も儘ならず、小さい物から順に沼に沈んで行く。
ビシャラバンガは妖獣を助ける積もりは無いが、この目の前の恐ろしい事態を何とかしなければ、
もっと恐ろしい事が起きるのでは無いかと感じていた。
彼は大地に拳を突き、その衝撃で地上に魔力を巡らす。
「ギャギャッ!!」
何割かの妖獣は、魔力の衝撃派で粘液から逃れる事が出来た。
粘液から脱出した妖獣は、一目散に雨の中を走って逃げる。
粘液の沼から幾つもの泡が立ち、弾ける。
その音は丸でヴェラの笑い声の様だった。
「ロホホホホ、ロホホホホ」
ビシャラバンガは粘液の正体が、魔力を纏った液体だと気付く。
彼は自ら魔力の粘液に踏み入り、魔力を纏わせた拳を叩き込んだ。
「化け物め!!」
魔力の衝撃が電撃の様に粘液から魔力を分離させる。
粘液に捕らわれていた、妖獣達の死体が浮き上がる。
骨と皮だけになった物や、溶けた肉塊の様な物が……。
遠くで戦いの様子を見ていたポイキロサームズは恐怖した。
ヴェラは人の体を捨て、不定形の悍ましい怪物になったのだ。
勇敢なニャンダコーレも逃げ出したい気持ちを抑えるので精一杯だった。
「こ、これが奴の正体なのか、コレ……」 ニャンダコーレはササンカに呼び掛ける。
「コレ、ササンカ殿!
早く魔導師会に連絡を!」
「相解った!」
ササンカは風の様に迅く、魔導師達を呼びに行く。
次にニャンダコーレはポイキロサームズに指示した。
「コレ、私達もビシャラバンガに加勢に行くぞ!」
「加勢ったって、俺達に何か出来る事があるのかよ」
ヴェロヴェロは困惑を露に問う。
実際、何等特別な力を持たないポイキロサームズは、戦力としては数えられない。
ニャンダコーレは少し考えて、自分の考察を述べる。
「あれは、コレ、ヴェラの魔力に水が反応した物!
恐らくヴェラは、コレ、自分の体細胞を水に溶かして、あの様な姿になったのだ、コレ!」
「だから、どうすれば良いんだよ!」
ヴェロヴェロは原理よりも具体的な対策を求めた。
ニャンダコーレは数極の思案後に決然と告げる。
「コレ……、燃やす!!」
確かに、ヴェラの液体の体は燃やし蒸発させれば、小さくなる。
「燃やす!?
でも、今は雨だ!」 雨では火の勢いは弱まる。
魔力の炎は水の中でも燃え続けるが、それでも火勢が弱まる事は避けられない。
強い炎で一度に焼き尽くさなければ、ヴェラを倒せない。
ニャンダコーレは言う。
「コレ、とにかく火種と燃料になる物を探して来るのだ!
それまでは私とビシャラバンガで、コレ、何とか食い止める!」
彼はビシャラバンガの元に駆け付け、呼び掛けた。
「ニャー、コレ、ビシャラバンガよ!
『球体成型<モールド・スフィア>』でヴェラを閉じ込めるのだ、コレ!」
「ムッ、成る程!」
ビシャラバンガは直ぐに理解して、液体のヴェラを覆う様に魔力を展開させる。
彼の優れた魔法資質を以ってすれば、拡がったヴェラの回収も容易。
だが、ヴェラも無策では無い。
緑色の沼から、ヴェラの形をした物が飛び出す。
「ホホホ、ホホホホホ」
それは人の言葉は喋らないが、耳障りな笑い声を上げながら、ビシャラバンガの魔法から逃れる。
その動きは元は液体とは思えない程、身軽で素早い。
丸でトビネズミの様に軽快に跳ね回る。
ビシャラバンガはヴェラの大部分を球体に閉じ込めたが、数体のヴェラの分身を取り逃した。
「ええい、逃したか!!
ニャンダコーレ、どうにかしろ!」
「ニャッ、しかし、液体では……」 ヴェラの分身はビシャラバンガから離れて、市街地へ向かっていた。
ニャンダコーレは風の刃で仕留めようとするも、液体が相手では効果が無い。
更に、大雨が彼の集中力を削る。
(ムムム、コレ、この雨では……!)
ヴェラの分身は地表を流れる水に乗って、滑る様に移動する。
その姿は人型から獣型に変化して、速度を上げる。
ニャンダコーレは懸命に彼女を追った。
ビシャラバンガはヴェラの大部分を押し留めているので、その場を動く事が出来ない。
数点して、ササンカがロクセンを連れて、戻って来る。
「ビシャラバンガ殿、暫し待たれよ!
直ぐに魔導師会が来る!」
「己の事は構わん!
今暫くは持つ!
それよりも、ニャンダコーレを追え!!」
「ニャンダコーレ殿が、どうされた!?」
「街の方へ、分裂したヴェラを追って行った!」
ビシャラバンガの話を聞き、ロクセンが驚いた声を上げた。
「街へ!?」
「追うぞ、ロクセン殿!」
ササンカが駆け出すと、ロクセンも彼女を追う。 ロクセンは魔力通信で、他の魔導師達に呼び掛ける。
「こちらミヤ・ロクセン!
市街地に『ヴェラ』が向かっている!
……えっ、特徴!?
どんな奴かって……」
彼は変化したヴェラを見ていなかったので、何とも言えなかった。
ササンカが助言する。
「緑色の液体だ!」
「み、緑の液体です!
その取り零しが市街地に向かっていると!
……えっ、何をする積もりかって!?
それは……」
ロクセンは再びササンカを見たが、彼女にもヴェラの目的は判らない。
「判らない!
だが、とにかく止めるべきだ!」
「わ、判りません!!
とにかく止めて下さい!」
通信の向こうの魔導師達は反応に困っている。
市民に被害が出そうなら、避難させるなり、屋内に止まらせるなり、対策を取らないと行けない。
市民の命を預かる者として、どの様な被害が想定されるかも判らないと言うのは、非常に困るのだ。
しかし、判らない物は仕方が無い。 魔導師会の執行者達は、呪詛魔法使いの捜索とは別部隊で、ヴェラを討伐する小部隊を編成した。
「相手は液体だって?」
「そう言う話だ。
魔力を持った……水精とか、そう言うのだろうな」
「どうやって戦えって言うんだよ?
しかも、この少人数で」
ヴェラ討伐隊は5人編成。
これから正体不明の外道魔法使いと戦おうと言うのに、余りにも心許無い。
「仕方無いだろう。
陽動の可能性もあるんだ。
文句ばっかり言ってないで、魔力探知を掛けろ。
出た所勝負だ」
5人の執行者達は魔力探知で、異質な魔力の流れを探す。
反応は直ぐにあった。
「南方に反応が4つ。
1つだけ何か違う物が……」
「4つか!
それなら1人1つで行けるな!
絶対に取り逃すなよ!」
隊長格の指示で、執行者達は一人一殺を目標に魔力反応の元へ向かった。 4つの反応の内、1つはニャンダコーレだ。
ニャンダコーレはヴェラの分身を追って、魔法攻撃を仕掛けていた。
「Naoooo――!!」
打撃が効かないなら、音で攻める。
鳴き声に魔力を乗せて、丸で遠吠えする様に。
魔力が共鳴してヴェラの液状の体を崩して行く。
ヴェラも受けてばかりでは無かった。
彼女は足を止めて、獣の姿に変じ、ニャンダコーレに襲い掛かる。
彼女が取った動物の姿は虎だ。
緑色の液体の虎となって、吠え、噛み付く。
「グルルルル……」
それは真似事等では無く、正しく虎その物。
ヴェラは取り込んだ動物の魂を再現している。
ニャンダコーレは四つ足で応戦するも、雨の中では俊敏な動きが出来ない。
地面は泥濘んで足を取り、雨水は冷たく体に圧し掛かって体温を奪う。
「クッ、コレ……」
自らの不利を自覚しつつも、ニャンダコーレは引き下がろうとしない。
ニャンダコラスの子孫が、邪悪な力を手にしたニャンダカニャンダカの子孫に負ける訳には、
行かないのだ。
虎と化したヴェラの攻撃を避けながら、しかし、ヴェラが街へ逃げない様に誘導する。
(コレ、所詮は獣の知能だ!
逃げる物を見れば、コレ、追わずには居られない!) ヴェラとニャンダコーレが交戦している所に、2人の執行者が駆け付けた。
「おっ、何だ、ありゃ!?」
「化け猫と……何か変なのが戦っているぞ!」
2人は足を止めて、どちらに加勢すべきか一瞬迷う。
「えーと、敵は水の精霊だっけか?」
「だったら、化け猫を助けるのか?」
「そうだな。
危(ヤバ)そうな奴から片付けよう」
執行者の2人はニャンダコーレよりも、得体の知れない液体の虎を警戒した。
化け猫位なら、どうとでもなるだろうと言う侮りもあったが、真実間違った判断では無かった。
執行者の2人が近付くと、ヴェラは気配を察知して逃走しようとする。
ニャンダコーレも執行者に気付き、人語で命じた。
「ニャッ、コレ、逃がすなっ!!
そいつを捕まえるのだ、コレっ!!」
ニャンダコーレの指示を受けて、執行者達は互いの顔を見合う。
「捕まえろってよ」
「そりゃ逃がす訳には行かない」
2人は呑気な会話をしながら、共通魔法で一瞬にして液体の虎を凍らせる。
執行者は魔導師の中でも腕利きの者達。
強大な力を持ったヴェラ本体なら未だしも、力の弱い分身では相手にならないのだ。 凍った液体の虎を見て、執行者の2人は相談する。
「それで、どうするよ、これ?」
「取り敢えず、持って帰ろうぜ。
分析して貰えば、何か判るだろう」
「誰が持って帰るんだよ、こんなの……。
面倒臭えなぁ」
ニャンダコーレは執行者達に駆け寄って、先ずは礼を言った。
「コレ、助かった。
有り難う」
執行者達は彼を只の化け猫としか思っておらず、軽く遇う。
「礼が言えるとは中々躾の行き届いてるニャン公だな」
「良し良し、大丈夫か?」
不用意に頭を撫でようとする執行者の手を、ニャンダコーレは振り払って訴えた。
「コレ、そんな事より、急ぐのだ!
こいつと同じ物が、コレ未だし2体居る!」
必死な様子の彼を執行者達は宥める。
「心配するな、俺達の仲間が対処している」
「コレ、本当か!?」
「嘘は言わねえよ、安心しな。
この程度の奴に後れを取る程、魔導師は弱くねえ」
ニャンダコーレは耳を垂らして、安堵の息を吐いた。 しかし、未だビシャラバンガの所にヴェラの本体が残っている。
ニャンダコーレは改めて訴える。
「しかし、コレ、未だ本体が残っているのだ。
私の仲間が、コレ、戦っている。
何とかして欲しい、コレ」
「ウーム、しかし、こいつを放って置く訳にはなぁ……」
執行者の1人は、凍った虎を見ながら両腕を組んだ。
そこで、もう1人が言う。
「こいつは俺が見ておく。
お前はニャン公と行ってくれ」
「……解った。
そっちは早い所、応援を呼んでくれ」
「あいよ」
ニャンダコーレは執行者を連れて、ビシャラバンガの元に急ぐ。
――一方その頃、ポイキロサームズは火の元になる物を探していた。
アジリアが他の仲間に問う。
「今、この街で手に入る物って何がある!?」
ヴェロヴェロが答えた。
「油とか?」
「油……。
店に売ってれば良いけど、開いてる店があるのかい?」
「開いて……開いていないかもな。
そん時は勝手に持っていくしか無えよ。
金は後で払えば良いだろう」 足の速い(※)ヤクトスが、先に油屋を発見する。
「こっちに油屋があるぞ!」
油屋とは文字通り、油を売る店だ。
料理用では無く、可燃性の高い危険な物を売る為に、専門店が取り扱う。
今日は開店していないのだが、一刻を争う時に、そんな事は言っていられない。
ヤクトスは店の戸を叩いて、店員を呼ぶ。
「開けて下さい!
誰か居ませんか!?」
大抵どこの店でも、閉店時であっても緊急時の為に、店番は置く物だ。
店員はヤクトスの呼び掛けに応えて、姿を現した。
「はい、はい、何事ですか……?
うっ、うわぁあああ!?」
しかし、彼は異貌に驚いて、腰を抜かす。
ヤクトスは腕の生えた巨大な蛇だ。
胸部は人間の様に幅広になっていて、肩部も明確になっているが、下半身は殆ど蛇その物。
店員は彼の目を見て、気絶してしまう。
「あっ、あのー?
ど、どう仕様……。
取り敢えず、中に運んで安静にさせないと」
ヤクトスは店員を抱えて、店の中に入った。
※:足は無い そこへアジリアとヴェロヴェロが駆け付ける。
「ヤクトス!?」
「やっちまったか!?」
ヤクトスは慌てて弁解した。
「いや、違う、誤解です!
この人は私の姿を見て、気絶して……」
アジリアとヴェロヴェロは安堵する。
「気絶してるだけか……。
それなら良かった」
「こいつは好都合だ。
今の内に、油を持って行こう」
ヴェロヴェロは油の入った『瓶<ボトル>』を両手に抱えて、早々と店を後にしようとした。
流石にアジリアが彼を止める。
「一寸待った、ヴェロ!
あんた、この儘で行く気なの!?」
「仕様が無えだろう?
一々許可取って、金払ってる暇なんか無えんだ!
そう言うのは、全部終わった後に、魔導師会に何とかして貰えば良い!
ヤクトス、お前も来い!!
店員は、そこら辺に寝かせとけ!」
彼は先に雨の中を走って行く。 アジリアとヤクトスは店員をバックヤードに寝かせると、自分達も油入りの瓶を持って、
ビシャラバンガの元へと急いだ。
2人……2体……2匹(?)はヴェロヴェロに追い付き、共にビシャラバンガの元に向かう。
未だヴェラを閉じ込めているビシャラバンガの元に着いた3匹の内、ヴェロヴェロが真っ先に、
大声で呼び掛けた。
「油を持って来たぞ!」
「良し!
球体に向かって放り込め!」
ビシャラバンガの指示に従い、3匹は油入りの瓶を、ヴェラを閉じ込めている球体に向けて、
投げ付ける。
瓶は球体に吸い込まれて、ヴェラと共に球体の中に閉じ込められた。
「燃え尽きろ!!」
ビシャラバンガは球体を圧縮させて、内部圧力を高める。
圧力の上昇で温度が上がり、油の自然発火温度に達して、液体のヴェラを焼き尽くす。
ヴェラは依り代を失い、魔力だけの存在となった。
体を失った魔力は脆い。
特に元は妖獣だったヴェラは、魔力だけとなった己の存在を維持出来ない。
精霊化の術を心得ていないのだ。
「オオオ……」
媒体を焼き尽くされて、ヴェラは怨嗟とも苦痛とも付かない、奇怪な叫び声を上げる。
だが、それは球体の中に封じられて、誰にも届かない。
「消え去れ、永遠に!」
ビシャラバンガは強引に球体内の魔力を己の魔法資質で磨り潰した。 後からニャンダコーレと執行者が駆け付けるも、もう片付いた後。
ニャンダコーレはビシャラバンガに問う。
「コレ、ヴェラは……?」
「倒した。
最早魔力の欠片も残っていない」
「それは、コレ、良かった……」
安堵するニャンダコーレに、今度はビシャラバンガが問う。
「そちらは、どうだった?
逃げた分身の方は片付いたか?」
「ああ、コレ、魔導師会の執行者に任せたのだ、コレ」
ビシャラバンガは執行者に目を向けた。
執行者は自信有り気に深く頷いて、彼を安心させようとする。
「大丈夫だ。
あの程度の物に後れを取る執行者では無い」
「そうだと良いがな」
ビシャラバンガは小さく息を吐いて、市街地へと移動する。
「とにかく、これで浮浪者連続殺人事件の方は、一段落と言って良いだろう。
妖獣共も戴く物を失って、散り散りになる……筈だ。
暫くは様子見だな」
彼の言う通り、浮浪者連続殺人事件は、これで解決したと言って良いだろう。
しかし、未だ呪詛魔法使いの件は片付いていない。
真に平和が取り戻されるのは、未だ先の事になる。 凍った液体の虎を除いて、ヴェラの分身は全て執行者によって処分された。
魔導師会は外道魔法使いの研究と対策の為に、ヴェラの分身である凍った液体の虎を厳重に封印し、
魔導師会本部まで運んで、それを解析する。
残るは呪詛魔法使い。
どうにか事件を止めようと、ビシャラバンガ達も呪詛魔法使いを追う事になった。
意外な事に、浮浪者達もビシャラバンガ達に協力してくれる。
「儂等にも、お前さんの手助けをさせてちょうよ。
殺された上に、死んでからも利用されるとは、哀れでならん。
市民様にゃあ一言も二言も言いてえ所だが、それとは別だでな」
浮浪者達は魔導師会の協力を得て、呪詛魔法によって復讐を続ける「死者」の身元を特定した。
浮浪者達とて知り合いや友人は居るのだ。
全くの天涯孤独な者は少ない。
浮浪者達は死者を説得させてくれと、魔導師会に申し出た。
果たして、既に死して呪詛を放つだけの存在となった者に、人の心は残っているのだろうか?
本当に説得等可能なのだろうか?
それに関して、呪詛魔法使いを追って執行者に協力していたレノック・ダッバーディーの分身、
『音石<サウンド・ストーン>』は、執行者達に助言する。
「呪詛魔法は恨みを晴らす。
死者は物を思う事をしない。
生前の呪詛は、死後も変わらない。
恨みを晴らすまでは」
「やっぱり駄目ですか?」
「……だけど、全くの無駄とは言い切れない。
僅かでも、良心が残っているなら。
呪詛が恨みだけの物では無いのなら」
僅かな希望を胸に、浮浪者達は仲間の呪詛と相対する。 呪詛魔法とは中々厄介な物で、恨み持つ魂は恨みが消えなければ、実質倒す事が不可能だ。
妨害され、撃退される度に、恨みは強くなり、更なる力を得る。
そもそも呪詛魔法使いを止めても、呪詛魔法は止まらない。
一度発動した呪詛魔法を止める事は、不可能と言って良い。
呪詛の対処法は、呪詛の目的を知る事だ。
恨みを晴らしさえすれば良いので、その目的を果たさせれば、被害は最小限で済む。
しかし、浮浪者の死者が抱いていた市民への恨みは、漠然とした物だ。
特定の誰かを標的に定めた物では無い。
故に、「どうやって解消するか」が大きな問題となる。
正か、市民を全滅させる訳には行かない。
だから、執行者達も「説得」に期待を持ったのだが……。
呪詛魔法によって生じた怨念を「説得」するのは、困難である。
基本的には目的を果たす為だけの傀儡となるので、説得の余地は無い。
レノックの助言も「可能性」を提示しただけであり、本当に説得出来るとは彼自身も期待していない。 未練を残して
第五魔法都市ボルガにて
浮浪者の市民への悪感情を利用した、呪詛魔法使いの市民全滅計画は実に上手く行っていた。
どの位上手く行っていたかと言うと、魔導師会と都市警察と更にビシャラバンガ達が協力しても、
全く呪詛魔法使いを発見出来ずに、被害を食い止められなかった程である。
最早お手上げと言う他に無かった。
もう市内には居られないと、住み慣れた家を捨てて脱出する市民も出る有り様。
人命には代えられないと、魔導師会も市民の脱出を補助した。
こうして「市民」が居なくなれば、浮浪者が恨む対象も居なくなると言う訳だ。
しかしながら、どうしても脱出したくないと言う頑固な者も居た。
そうした者達は、口々に魔導師会や都市警察は何の為にあるのかと責める。
この期に及んで市内から脱出しない市民は、市内を脱出する余裕の無い市民だ。
市外に身寄りが居ないとか、魔導師会の補助を受けても未だ引っ越しに掛かる費用を工面出来ない者。
弱者の怒りが、より弱い者達に向く様に、こうした余裕の無い市民が特に浮浪者を虐める。
その浮浪者の怒りが、呪詛魔法によって返って来ているのだから、これも自業自得なのかも知れない。
一方で、呪詛魔法の対象外である浮浪者達は、妖獣が排除された事で、市内に戻って来ていた。
魔導師会や都市行政は空き物件に浮浪者を住ませる事で、市内の秩序を保とうとしていた。
街を廃墟にする訳には行かなかったし、浮浪者も仕事を与えれば、真面な生活が送れるので、
更生の可能性もあるのだ。
そうして浮浪者の幾らかは市民に復帰した。 しかし、こうした「復帰市民」と既存の市民の間でも問題が起きる。
それは復帰市民が元浮浪者だと言う事実から来る偏見だ。
表向き差別を禁じても、それが完全に解消されるまでは数世代を経なくてはならない。
復帰市民も同じ「市民」であると言う感覚は、中々根付かない物だ。
多くの市民は、去って行った市民が戻って来る事を願っているし、そうなれば復帰市民は邪魔だとも、
考えている。
平和になった後も復帰市民が居座っていると、去って行った市民が戻って来ないとも。
だが、市民側とて一枚岩では無く、寧ろ去って行った市民の帰還を望まない者も居た。
それは市民が減った事で、新たな権益を得たり、活躍の場を広げた市民だ。
……未だ事件は解決していないのに、誰も皮算用をしてばかりだった。
魔導師会と都市行政、市議会は、この事態を重く受け止めて、どう対処すべきか相談した。
都市行政機関を代表して、市庁職員が現状を説明する。
「現在、所謂『復帰市民』が既存市民と同数に迫りつつあります。
一方で既存市民は減少の一途であります。
市内を脱出した市民にアンケートを取りましたが、事件が解決すれば市内に戻ると言う者と、
暫く様子を見てから決めると言う者が、大体半々と言った所です。
全体的には市内に帰還したいと言う意見が大半でしたが、安全が証明されるまでは戻らない、
或いは、市内の状況によっては復帰しないと言う者も、少なくありませんでした。
これは避難先の市が受け入れに寛容だった事も、関係していると思われます」
それに対して魔導師会の反応は冷淡だった。
「魔導師会としては市民が生活出来てさえいれば、細かい状況には拘らない。
市民の構成が入れ替わろうとも、それは人の自由だと思っている」
問題なのは、市議会議員の姿勢だ。
新体制を望む者も居れば、復帰市民を認める者、認めない者、帰還市民に関しても認める者と、
認めない者が居る。
全く撒ら撒らで意見が統一されていない。 喧々諤々の議論の末に、結論は持ち越しとなった。
結局、魔導師会と都市警察が頑張って、呪詛魔法を止めるしか無いと言う事に。
果たして、この事件を解決する事は出来るのだろうか?
そもそも、そんな事が可能なのだろうか?
事は一人の浮浪者から始まる。
彼の名はショ・ナン・シンシ。
浮浪者の両親から生まれ、浮浪者として育ったと言う、生粋の浮浪者の青年だ。
実は、彼の様な者は珍しい。
浮浪者は自分で子供を育てられないので、赤子の内に拾った等と言って児童養護施設に預ける。
赤子とは酷いと思われるかも知れないが、赤子から幼児と呼べる年齢まで育ててしまうと、
愛着が湧いて離れられなくなる。
どうして、そこまでして手放さなければならないかと言うと、浮浪者として生きるより、
その方が真面な人生を送れると信じている為だ。
それは間違ってはいない。
最初から浮浪者として生きなければならないと言うのは、とても不幸な事だ。
浮浪者になるのは簡単だが、一度浮浪者となった者は這い上がる事が出来ない。
そう言う意味では、浮浪者から「復帰市民」になれる今回の騒動は、シンシにとっては好機と言えた。
しかし、シンシは市民になる事に興味が無かった。
彼は生まれ付いての浮浪者であり、その事に自信と矜持の様な物を持っていた。
生まれ付いての浮浪者である彼は、浮浪者達の中でも浮浪者暦が長い方で、過去への執着も無い為に、
浮浪者達を導く立場でもあった。
彼は結構な世話焼きでもあり、故に呪詛魔法の元となった浮浪者達とも面識があった。 シンシは知っていた。
呪詛魔法の元となった浮浪者は、全て「元市民」である事に。
そして自分達が浮浪者と言う身分に貶められる事になった、元凶を恨んでいると言う事に。
彼は魔導師会や都市警察に、その事実を伝えた。
呪詛魔法使いは元市民を無差別に狙っているのでは無い。
直接か間接かの違いはあれど、殺された市民は、浮浪者に恨まれていた。
例えば、社員を首にした者だったり、同僚を陥れた者だったり、悪辣な詐欺を働いた者だったり、
子供を捨てた親だったり、全員が何かしら後ろ暗い過去を持っていた。
中には巧妙に自分の悪事を秘密にしていた者も居たが、当の浮浪者から話を聞いていたシンシと、
魔導師会が持つ浮浪者の怨念の情報を突き合わせれば、どんな事をしたのか直ぐに明らかになった。
だが、問題は罪を犯さない人間等居ないと言う事だ。
自分が悪事を働いたと言う心当たりのある者は、魔導師会に名乗り出て保護を求めよと言われても、
自分こそ恨まれていると自覚している人間は少数だ。
逆に、当人が気にしている程は恨まれていないと言う事もある。
呪詛魔法は八つ当たり的な恨みも対象になるので、本当に悪い事をしたとは限らない所も非常に厄介。
魔導師会と都市警察は、シンシから得た情報を公表するべきか迷った。
それが及ぼす影響は、とても大きく根が深いのだ。 公表後に都市を離れる市民は、白い目で見られる事だろう。
罪の有無に関わらず。
公表された事実を元に、人々が冷静に判断出来るとは限らないのだ。
では、怪しい人間を調べ上げて、退避を促せば良いかと言うと、それも難しい。
素直に退避するとは限らないし、逆に反発して意固地にさせてしまうかも知れない。
何しろ自分は悪人だと認める事になるのだから。
悪いのは死んだ浮浪者だと言っても、そんな理屈が通用するなら苦労は無い。
幾ら怪しくても、実際に恨まれているとは限らないと言うのが、又難しい。
逆に、全く怪しくない者が殺された時に、魔導師会や都市警察は言い訳が立たない。
それに、どんなに秘密にしていても、情報とは漏れる物だ。
完璧に情報を伏せられたとしても、実際に避難した人々の素性を誰かが興味を持って調べれば、
恨みを買い易い職種の人が多い事は、判ってしまう。
それに本気で恨みを持っていれば、市外に退避した所で無駄である。
呪詛魔法は遠く離れた所で、無効に出来る物では無い。
効力こそ弱まるが、どんなに時間が掛かろうとも追って来る。
シンシは自分に何が出来るかを考えていた。
彼は浮浪者と言う身分に、一種の誇りの様な物を持っている。
浮浪者も都市を構成する存在であり、都市は浮浪者無くしては回らないと言う一面がある。
都市を清潔に保つのも治安の維持も、浮浪者が果たす役割は小さくない。
浮浪者を見れば、都市の有り様が判る。
貧民街の貧民程、都市から隔離されていない浮浪者は、それぞれ野鼠と家鼠の様な物。
市民と同じく都市に生きる命なのだ。 シンシは浮浪者達の世話役として、長らく色んな浮浪者達を見て来た。
浮浪者と言う境遇を受け容れらずに、浮浪者の中に入る事を拒む者にも、声を掛けて様子を見た。
その経験上、殺された浮浪者と言うのは、浮浪者の中に馴染めなかった者が多いと言う事も、
判っていた。
そうした者達は零落しても、自分は浮浪者とは違うと言う、小さな自尊心を保とうとするのだ。
それで殺されるのは馬鹿じゃないかとシンシは思うのだが、人間は単純には出来ていない。
人間が誇りを持つのは、自分自身では無く、自分の置かれた立場や環境なのだ。
誇りを持てない立場や環境は受容し難く、蔑んでさえいる。
嘗て自分達が蔑んで来た立場に、自分も落ちる事を何より恐れている。
市民になれると言うのに、復帰市民になろうとしないシンシも、それは同じだ。
彼も態々苦労の多い浮浪者で居続ける自分を、愚かだと思っている。
だが、彼には責任感の様な物があるのだ。
自分は生まれ付いての浮浪者だから、復帰市民になれなかった浮浪者を纏めるのも、自分なのだと。
もし自分が市民になる時は、この街から浮浪者が1人も居なくなった時だと。
浮浪者連続殺人事件は終わり、何れ死した浮浪者の恨みも晴らされて、事態は終息するだろう。
そうしたら、又市民と浮浪者と復帰市民の間で、問題が発生するとシンシは予見していた。
その時に上手く仲立ちしてやれるのも、自分しか居ないと彼は信じていた。 しかし、中々呪詛魔法は消えなかった。
どうしても消えない最後の1人が、何時までも市内に出没し続けたのである。
誰か恨み持つ者が帰還するのを待っているのでは無いかと、市民達は恐々としていた。
魔導師会や都市警察が現れると、霧の様に消えてしまうので、退治する事も出来ない。
魔導師会の執行者が記録した似姿を見せられたシンシは、その正体はニレ・ヤナキだと判断した。
「こいつはニレ・ヤナキだ……と思う」
「どんな奴だった?」
執行者の質問に、シンシは正直に答える。
「どんなって……。
よく解らない奴だった。
若い男、年は俺と同じ位。
浮浪者の仲間になるでも無く、その辺で呆っと突っ立ってる事が多かった」
一体どう言う人物なのかと、執行者は眉を顰める。
それに対して、シンシは落ち着いた口調で言った。
「そう言うのは、珍しくないんだ。
何て言うのかな……。
もう市民から片足落ち掛かっている連中は、大体そんな物なんだよ。
浮浪者になる踏ん切りが付かないから、最初は遠巻きに見ているだけって言う」
「成る程」
「あんたも、どうだい?
一寸体験してみないか?
家も仕事も無くして、これこそ真の自由って奴だぜ」
「いや、遠慮する」
シンシの冗談めいた誘いを、執行者は苦笑いで断る。 彼は語りを続けた。
「ヤナキは……、仕事を首になったと言っていたな。
家賃の支払いも出来なくて、その内、追い出されるだろうと。
だからって、実家に帰るのも『自尊心<プライド>』が許さなかったみたいだ」
「それは……可哀想に」
「全く、可哀想にな。
俺は浮浪者仲間にならないかと誘ってみたが、良い顔はされなかった。
まあ、仕様が無い。
そう言うのも、よくある事だ。
その内、諦めて浮浪者になるか、立ち直るか、他所へ行くかするだろうと、俺は思っていた。
だが、そこで例の事件だ」
「……詰まり、ヤナキの事は解らないと?」
「そうだな。
でも、誰かを強く恨んでいるとか、そんな事は無かったと思う」
シンシの話を聞いて、執行者は小首を傾げる。
「特に誰かを恨んでいたりはしなかった?」
「俺が見た限りではな。
誰を恨んで良いか、判らないって言った方が良いのかな?」
「もしかして、ヤナキは恨みを打付けられる相手を探しているのか?」
「そうかもなぁ……。
恨むと言っても、そいつは首になった会社の社長か、自分を直接首にした上司か、それとも、
自分を切り捨てて残った他の同僚か、或いは、全然関係無い事かも知れないし、もしかしたら、
実力の足りない自分自身を恨んでいたり、そんな自分を産んだ親を恨むとか、社会だとか、
世の中だとか、恨める物は一杯あるからな」
執行者は沈黙した。
結局、どれが本当の事かは、恨みを持つ当人しか解らないのだ。 その日の夜、夜の路地裏を徘徊していたシンシは、ヤナキを見付けた。
もう死んでいる筈の彼が居るのは、どう考えても異常だ。
呪詛魔法で誕生した、彼の怨恨では無いかと、シンシは身構える。
彼は共通魔法が上手くないし、特殊な能力がある訳でも無い。
少し喧嘩が上手いだけで、戦闘に関しては特筆すべき所が無い。
呪詛魔法を相手に、何が出来る訳でも無いのだ。
余り魔法の知識が無いシンシは、先ずヤナキの呪詛に話し掛けてみた。
「お前、ニレ・ヤナキか?」
ヤナキの呪詛は緩りと振り向いて、静かに頷く。
取り敢えず話が通じそうで、シンシは安堵したが、実は悪手である。
呪詛魔法に安易に関わるべきでは無い。
見掛けても、素知らぬ顔で無視すべきだ。
呪詛に巻き込まれて、良い事等何一つ無い。
……ヤナキの呪詛は沈黙した儘で、シンシは恐る恐る尋ねた。
「こんな所で、何をしているんだ?」
ヤナキの呪詛は数秒の沈黙後、非常に聞き取り難い低い声で答える。
「……分からない」
「分からないって……」
「俺は死んだのか?」
ヤナキの呪詛は本体が死んだ事も理解していない様子だった。
どう説明したら良い物か、シンシは困る。
「死んだのかって……」
「俺は……何なんだ?」 ヤナキの呪詛は自分の置かれた状況を、全く理解していない。
そもそも説明してやるべきなのか、シンシは判断に迷った。
今のヤナキは彼自身では無く、呪詛だと教えてやった所で、良い事があるとは思えないのだ。
適当に誤魔化す方が良いと、シンシは思った。
「ヤナキ、あんたは死んだんだよ。
今は幽霊みたいな物だと思う」
「幽霊?
人は死んだら、幽霊になるのか……。
死んだ事が無いから、分からなかった」
ヤナキの呪詛は素っ呆けた事を言う。
「幽霊になった俺は、これから、どうすれば良いんだろう?」
「さ、さぁ?
何か生きている時に、やりたかった事とか無かったのか?」
シンシはヤナキの呪詛から何とか前向きな言葉を引き出したかった。
生前の恨み辛みの事は忘れさせて、どうにか他の方向で未練を晴らしてやれないかと思ったのだ。
「やりたかった事……。
いや、俺には何も無かった。
全てを失った俺は、生きる気力も失くしていた」
「でも、何か未練があるから幽霊になったんだろう?」
「そうなのか?」
「いや、知らんけど」
シンシは目の前のヤナキが、本当にヤナキの呪詛か疑い始める。 もしかしたら、彼は本当にヤナキの幽霊なのかも知れない。
そうシンシは思い始めていた。
魔導師であれば、魔力で判定出来るのだが、生憎とシンシには呪詛魔法を判別出来る程の知識が無い。
(魔導師に相談してみれば……。
いや、駄目だ。
予防的措置とか何とか言って、強制的に消されるかも知れない)
シンシはヤナキの呪詛を魔導師会には見せず、自力で彼の魂を安息に導こうと考える。
「ヤナキ、幽霊ってのは、どんな気分なんだ?」
「……とても焦っている。
何かをしなければと、心が騒ぐんだ。
でも、何をすれば良いのか、俺には判らない」
「それを見付けたいんだな?
幽霊の儘で居続ける事は出来ないのか?」
「今の儘で居たいとは、少しも思わない。
とにかく心苦しいんだ。
俺は何かをしないと行けない……」
どうにか彼の力になれないかと、シンシは本気で考える。
ヤナキの呪詛は暫くシンシを見詰めた後、こう尋ねて来た。
「所で、君は誰なんだ?」
「えっ、俺を忘れたのか?
そもそも覚えていないのか?
俺はシンシだ。
ショ・ナン・シンシ」
シンシは名乗ったが、ヤナキの呪詛は沈黙した儘で小首を傾げる。 生前のヤナキはシンシの事を憶えていたが、真面に名前を記憶していなかった。
その頃は余り他人に興味が無かったと言うか、職を失ったばかりで、それ所では無かったのだ。
シンシに対しては何と無く覚えがある様な無い様な、非常に曖昧な記憶しか無い。
「聞いた事がある様な気がする」
「……まぁ、良い。
それじゃ、改めて名乗ろうか?
俺はショ・ナン・シンシ。
浮浪者達の世話役をしていた者だ」
「それで、俺に何の用なんだ?」
「用って……」
どう説明したら良いか、シンシは迷う。
今のヤナキは呪詛魔法で魂だけの存在となったと言っては、自分の恨みの感情を思い出して、
暴走してしまうかも知れない。
「死んだ筈の人間を見掛けたら、声を掛けずには居られないだろう」
「俺は死んだのか?」
「どうやって死んだか、憶えていないのか?」
「……判らない。
でも、それは重要な事じゃない気がする」
ヤナキの呪詛は、生前の恨みを晴らそうとしている。
唯それだけが彼の存在理由。
故に、死因は問題では無いのだ。 それは詰まり、自分を殺した者に復讐したい訳では無い事を意味している。
他に恨みを晴らすべき対象が居るのだ。
シンシには理解し難かった。
「どうしてだ?
あんたは殺されたんだぞ」
「殺された?
君は俺が、どうやって死んだのか知っているのか?」
「ああ、知っている。
少々辛い話になるが、良いか?」
「いや、それなら良い」
「良いって、あんた……。
本当に聞かなくて良いのかよ?」
「知った所で、どうにもならないだろう。
それよりも俺には、やるべき事があるんだ。
そっちを思い出すのが先だ」
「一体『それ』は何なんだ?」
自分の命よりも重い物があるのかと、シンシは本気で理解出来なかった。
ヤナキは最早呪詛の塊であり、人間だった頃の人間らしい執着と言う物を完全に失った様に見える。
「判らない。
俺には何も判らない……が、やらねばならぬ事がある。
それだけは判る」 シンシは彼を説得するのは諦め、その恨みか無念かを晴らしてやるべきでは無いかと、思い始めた。
今のヤナキは生前のヤナキとは違うのだ。
所詮、呪詛は呪詛。
誰が犠牲になろうと、精々1人か2人の事。
早々と恨みを晴らして、消えて貰った方が、街が平和になると。
自分が恨みの対象となるとは、全く考えなかった。
シンシとヤナキは殆ど接点が無かったのだから、それは当然である。
「何をしなきゃ行けないんだ?
親か?
それとも子供が居たか?
それとも嫁さんか彼女か?」
シンシはヤナキの身内に対象が居ないかと突いてみる。
ヤナキは少しの間、考え込んだ。
「親……父さん、母さん……?
親には出来の悪い息子で悪かったと思っている。
でも、会いたい訳じゃない」
「親には会いたくないのか?
子供は?」
「子供……」
「おっ、彼女でも居たのか?」
子供が未だ生まれていなくても、付き合っていた女性が居れば、何度か夜を共にしていても、
不思議は無い。
その時に相手が妊娠した可能性があるなら、子供が出来ていないかは気に懸かるだろう。
そうシンシは考えた。 しかし、ヤナキの呪詛は首を横に振る。
「いや、多分違うな……」
「多分?」
「彼女は居たけど、何年も前に別れた。
子供が出来たと言う話は聞いていない」
こうなったらと、シンシは思い切って尋ねる。
「それなら、憎い奴は居ないか?
どうしても恨みを晴らしたい様な、糞野郎は?」
「……いや、居ない」
「あんたは、もう死んじまったんだから、取り繕う必要は無いんだぜ?
何たって幽霊なんだ。
未練があって出て来たって事は、何か憎い奴でも居たんじゃないのか?」
ヤナキの呪詛は暫く考え込んでいた。
心当たりが無い事も無いのだろうと思い、シンシは突く。
「ほれ、あんたを首にした会社の奴等は?」
「ウームムム……」
「社長とか上司とか同僚とかに、向か付く奴が居ただろう?」
「そりゃ1人や2人は……」
ヤナキの呪詛は抑えた声で答える。 シンシは意気込んで言う。
「良し、殺しに行こうぜ」
「ええっ!?」
「あんた、未練があんだろう?
未練を残した儘じゃ、何時まで経っても綺麗に逝けねえぜ?」
「いや、殺そうとまでは思わないって」
ヤナキの呪詛は断言した。
恨んでいない事も無いが、そこまで強い恨みを持っている訳では無いのだ。
「じゃあ、何なんだよ?」
「だから、それが判れば苦労しないんだよ」
当の彼自身も、自分の未練の正体が判っていない様子。
シンシは段々面倒臭くなって来た。
「詰まり、あんたは何か未練があって化けて出たのに、その未練が判んねえってんだな?」
シンシの問にヤナキの呪詛は申し訳無さそうに頷く。
「ああ」
「面倒臭え奴だな。
死後も手間を掛けさせるのか……」
「済みません」
ヤナキの呪詛は、呪詛の癖に悄気て俯いた。 シンシは両腕を組んで低く唸る。
彼は心の中で、ある決断をしていた。
「良し、魔導師会に何とかして貰おう」
「何とかって?」
ヤナキの呪詛は不安気な声を出す。
シンシは瞭(はっき)りと告げた。
「そりゃ強制的に浄化させるんだよ。
あんたも、訳も解らない儘、浮ら浮らしてるのは辛いだろう」
「いや、そりゃそうだけど、強制的って」
「嫌なら早く思い出せよ。
死ぬ前に、自分が何をしたかったのかをな。
早くしないと執行者を呼ぶぜ」
「……どうやって?」
「そりゃ呼びに行くんだよ。
……走って」
シンシは通信機を持っていないし、共通魔法が得意と言う訳では無いし、魔法資質も優れて高くない。
だから、魔導師会への連絡手段は、直接話す他に無い。
「その間、俺が大人しく待ってるとでも?」
「えぇ……?
あんた、逃げて何をするんだ?
逃げた所で、どう仕様も無いだろうに」
「そうかも知れない。
でも、足掻けるだけ、足掻いてみる」
「それなら勝手にしろよ」
もう付き合い切れないと、シンシはヤナキの呪詛に背を向けて手を振った。 シンシはヤナキの呪詛に会った事を魔導師会に報告したが、魔導師会側も打つ手が無かった。
「何か未練があるけど、その未練が判らないのか……」
「ああ、そうだよ。
だから、ヤナキはボルガ市を彷徨(うろつ)いてるんだ」
「誰かを恨んでいるんじゃないのか?」
「恨んでいるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。
未練っつっても色々あるからな。
ナヤキが浮浪者になる前に、何をしていたのかとか、どんな未練がありそうかとか、
魔導師会なら簡単に調べが付くだろう?
そんじゃ、後は頼んだぜ」
シンシは執行者にヤナキの件を丸投げしようとしていたが、呼び止められる。
「待ってくれ。
私達ではヤナキを捕まえる事が出来ない。
君にナヤキとの交渉を頼みたい」
「は?
マジで言ってんのか?」
「ああ、本気だ」
「えぇ……?」
「今の所、ナヤキと真面に話が出来たのは、君しか居ない」
「そりゃ、あんた等が隙有らばヤナキを消そうとしてるからじゃねえかよ。
警戒されてんだよ」
自業自得では無いかとシンシは言ったが、それで執行者の対応が変わる訳では無い。 執行者の守るべきは市民であり、共通魔法社会であって、未練を持った呪詛の願いを一々叶えて、
安らかに逝ける様にしてやる義務も義理も無い。
シンシは深い溜め息を吐く。
「金を呉れるんなら、やってやっても良いぜ」
「頼む」
「それで、支払いは?」
「成功報酬式と、日当式と、どっちが良い?」
「日当で頼むわ。
成功するか確証は無いからな」
「報告書を上げて貰う事になるが……」
「げっ、報告書と引き換えかよ」
「確り仕事をしたと言う証拠が無いと、支払いは出来ないんだ。
上は規則に煩くてね」
お役所だなとシンシは呆れた。
魔導師会側の事情も解らなくは無いが、本気度は余り高くない事が読み取れる。
一応ヤナキは無害だと言う事が判ったのだ。
何時かヤナキは復讐の対象を思い出すかも知れないが、緊急性は低くなった。
「報告書なんて書いてられっかよ。
じゃあ成功報酬で頼むわ」
「良いのか?」
「一々何日何時間やったとか細かいのは苦手でな。
俺の勝手で程々にやっとくわ」 そう言って去ろうとするシンシを、執行者は再び呼び止める。
「おっと、待ってくれ。
今回の報告分だ」
執行者は彼に封筒を渡した。
「一応、名目は協力金と言う事になるな」
シンシは中身を見て驚く。
「えっ、こんなに」
彼は一々お札の数を確かめなかったが、中身は50万MG。
厚みだけで大金と判る。
浮浪者にとっては道端で運良く大金を拾う以外では、中々お目に掛かれない金額だ。
執行者は真面目な顔で言う。
「今回の情報は特に有益だった。
お仲間にも伝えてくれよ。
価値のある情報は魔導師会が買い取ると」
「いや、こんな事すると逆に情報の選別に困る事になるぜ?」
浮浪者は市民に比べて生活に余裕の無い者が多い。
金の為に嘘の情報や、どうでも良い小さな情報まで持って来ようとする者も現れるだろう。
そうなると逆に現場は混乱する。
しかし、執行者は問題にしなかった。
「何の為に共通魔法があると思っているんだ?
人の嘘を見抜く事等、造作も無い。
虚偽の報告には業務執行妨害を掛けるぞ」
やはり執行者は好かないと、シンシは閉口した。 それからシンシは浮浪者達にヤナキの呪詛の話をして、目撃情報を魔導師会に伝えれば、
報酬が貰えると教えた。
浮浪者達の対応は区々だったが、大体半分位の者はヤナキの呪詛を探す気になった。
そしてシンシ自身も、ヤナキの呪詛を探した。
彼は報酬には余り期待していなかった。
寧ろ、浮浪者がヤナキの呪詛に返り討ちに遭ったり、或いは浮浪者同士で報酬を巡って、
諍いが起きる事を懸念していた。
浮浪者達は数人のグループに分かれて浮浪者を追っていたが、直ぐにシンシの懸念通りに、
グループ同士で派閥を作って、足の引っ張り合いを始めた。
シンシは浮浪者同士の諍いを止める為にも、夜間に1人だけでヤナキの呪詛を探して、
街の路地裏を歩く。
「おっと、シンシさん。
あんたも賞金目当てですか?
それも1人で」
シンシは中年の浮浪者の男性に、声を掛けられた。
彼の名はトーキ・フミヤロ。
それなりに浮浪者歴の長い人物だが、余り人望は無い。
不真面目で好い加減な男だ。
そう言う性格の者は、浮浪者には珍しくないが……。
シンシは話を合わせて適当に遇う。
「ああ、最初から独りが気楽だ。
どうせ賞金を貰っても、分け前で揉めるに決まっている」
「シンシさんともあろう方が?
あんたなら、そこ等の若い衆に言う事を聞かせる位、訳無いでしょう」
「買い被るなよ。
金の欲目は恐ろしいんだ」 シンシは独りで行動したかったのだが、フミヤロは後を付いて来る。
「何だ、フミヤロ?
俺に用があるなら言えよ」
「いえ、私も本当は纏まって行動したかったんですがね、生憎と誰も組んでくれなくって」
「それで?」
「嫌だなぁ、シンシさん……。
全部言わせる気ですか?」
「俺は独りが気楽で良いんだ」
フミヤロは仲間を探していて、シンシに組まないかと持ち掛けていた。
だが、シンシは相手にしない。
彼はヤナキの呪詛と一対一で話したいのだ。
それでもフミヤロは諦めが悪い。
「シンシさん、実はヤナキって奴の居所を知ってるんでしょう?
態とヤナキを捕まえずに、情報を小出しにして、魔導師会から金を強請(せび)ろうってんだ」
「人聞きの悪い事を言うな。
ヤナキの居所なんか知らん。
判っていれば苦労は無い」
大体の浮浪者は性格が捻くれている。
そう簡単に他人を信用せず、悪巧みや邪推をする。
弱者が生きて行く為の護身術の様な物だ。
善意を小馬鹿にして、斜に構えた態度を取るのも、その1つ。
だから、そう言う連中に「金では無くてヤナキと話がしたいだけだ」と言っても、信じて貰えない。 しかし、フミヤロはシンシの目を見て、確固たる意志を感じ取っていた。
それを「ヤナキの居所が判っている」と誤解する辺りが、性根の卑しい所だが……。
「ヘヘヘ、隠し事は無しにしましょう。
お互い仲間は居ないんですから、丁度良いじゃないですか?」
「仮にヤナキが見付かったとしても、賞金を分けてやる気は無い」
「珍しく吝嗇(ケチ)じゃないですか?
何か入り用なんです?」
シンシは利益を独占する様な人物では無いと、フミヤロは理解していた。
「買い被るな。
俺は元から吝嗇だ」
「否々、吝嗇と言っても、只の吝嗇じゃないって事は、皆知ってる事ですよ。
あんたは他人の為になる事をしたがる。
実に立派な人だ。
大金を独り占めしようなんて強欲は似合いませんよ」
「心にも無い事を言うな。
名誉欲の為だとか、手下を増やす為だとか、陰で好き勝手な事を言っている癖に」
フミヤロは内心を言い当てられて、困った顔をする。
「やや、嫌だなぁ、お人の悪い。
何も彼も御存知でいらっしゃる。
『だから』ですよ……。
本当なら、あんたが皆を纏めて、ヤナキを捕まえに行くでしょう?
それをしないって事は、訳ありなんじゃないんですか?」 彼の推理は良い所を突いていた。
嫌な奴だとシンシは小さく溜め息を吐く。
「俺は欲深な連中と組む積もりは無い。
金の配分なんて、考えるだけでも面倒臭え。
そんなのは不和の元にしかならない。
浮浪者同士で金を巡って争うなんて、馬鹿気てる」
「でも、食い物の分配は面倒見てるじゃないですか?」
「金は食い物より面倒臭えんだよ。
食いっ逸れても飯には次があるが、金は違う。
定職を持たない浮浪者(おれたち)にとってはな。
どうしてか浮浪者の身分まで落ちておきながら、未だ金に未練のある連中が多い。
食い物では殺し合うまでは行かないが、金なら分からない」
フミヤロは感心して頷きながら聞いていたが、シンシは彼にも忠告する。
「フミヤロ、あんたもだ。
俺に纏わり付いても、良い事なんか無いぞ」
「事情は話して貰えないんで?」
「俺の目的は唯一つ。
この下らない騒ぎを早々と終わらせる事だ。
出来るだけ穏便にな。
これが終わって市民が戻って来た後も、どうせ面倒事が待ち構えてるに決まってる」
「はぁ、御苦労な事です。
でも、褒賞金の話をして、皆を焚き付けたのは、シンシさんじゃないですか?」
フミヤロの指摘にシンシは真面目な顔で答えた。
「俺だけじゃヤナキの奴を捕まえられないからな」 フミヤロは理解し難いと言う顔をしていたが、シンシは相手にしない。
「あっ、待って下さい!」
「未だ俺に用があるのか?」
「私にも協力させて下さい」
「駄目だ、信用出来ない」
シンシはフミヤロの協力の申し出を断る。
明らかに金目当てなのだ。
「いや、お金に興味は無いんでしょう?
だったら、私が貰っても良い筈……」
「だから駄目だっつってんだろうが!
絶対に問題が起こる!」
「黙ってりゃ判りませんって」
「金は持ってるだけじゃ意味が無えんだ。
どこかで必ず『使う』。
そこから足が付く」
「そんな事、私だって子供(ガキ)じゃないんで」
フミヤロはシンシに説教される謂れは無いと、憤然とした。
彼にとってシンシは所詮若僧だ。
偉そうな態度を許せるのにも限度がある。
シンシは面倒臭そうな顔をして、フミヤロに尋ねた。
「あんた、金を手に入れて、どうする気だよ」 フミヤロは俄かに悄然として、深刻な面持ちで語り始める。
「私は借金の所為で、妻と子を置いて家を出たんです」
「それで?
金を持って帰れば、元の家族に戻れるとでも思っているのか?
あんたの妻も子供も、あんたの事を心底恨んでいるだろうよ。
借金拵(こさ)えて蒸発なんざ、何度殺しても殺し足りない様な気分だろうぜ」
「良いんです。
少しでも罪滅ぼしになれば……」
シンシは急に人情話を始めたフミヤロを疑いの眼差しで見詰め、幾つか質問をした。
「借金の額は幾らだ?」
「……3億」
「褒賞金如きじゃ全然足りないぞ。
今も借金に苦しんでいるか、良い代論士でも見付けて、普通の生活に戻っているか、
どっちかだな」
褒賞金は多くても数百万MG位の物だ。
とても3億の借金は返せない。
「あんたの話が本当か嘘かは知らないが、二度と妻子には合わない方が良い」
シンシに冷たく突き放され、フミヤロは苦々しい顔になる。
彼は開き直って、素直に欲望を吐いた。
「ああ、嘘ですよ、嘘。
金は自分の為に使います。
幾ら貰えるかは知りませんけど、数日か数週か、個人的な贅沢をする位は余裕でしょう。
浮浪者だって、その位は良いじゃないですか?」
「悪いとは言わないが、それなら手前で稼ぐんだな」 2人が話しながら歩いていると、彼等の前方に人影が現れた。
先に気付いたのはフミヤロ。
彼はシンシに言う。
「シンシさん、あいつは……?」
「……ヤナキか?」
シンシは足を止めて、前方の人物を凝視した。
暗がりで人相は判らないが、背格好はヤナキと同じ位。
人影が動かないので、シンシは恐る恐る近付いた。
フミヤロも彼の背後に隠れて付いて行く。
シンシは2身の距離まで接近したが、未だ顔は判然としない。
再び彼は足を止めて、今度は呼び掛けてみた。
「ヤナキ!」
影は徐々に正体を現す。
それはヤナキの姿をしていた。
「……シンシか……」
「どうしたんだ、ヤナキ?
何時もと様子が違うぞ」
「誰も彼も俺を探している。
どうして、そっとしておいてくれないんだ?」
ヤナキの呪詛は疲れた様な声で言う。
半分はシンシの所為なのだが、当のシンシは罪悪感を感じていない。 彼は開き直って言う。
「何時までも未練囂(がま)しく現世に留まってるからに決まってるだろう。
魔導師会も本気になったんだ。
今、あんたの居所を知らせれば、褒賞金が出るんだよ」
「……それで、シンシ、君も金目当てに来たのか?」
「俺は違う。
俺の後ろに居る奴は、金目当てだがな」
それを聞いたフミヤロは吃驚して飛び上がった。
「わっ、馬鹿っ!
何て事を言うんだ、このっ!!」
ヤナキの呪詛は怒りの目でフミヤロを睨む。
恨みの塊であるヤナキは、負の感情に流され易い。
自分が恨まれては堪らないと、フミヤロは慌てて弁解する。
「ち、違いますよ!!
私も金は欲しいですが、命には代えられませんから!
どうか見逃して下さい!!」
ヤナキの呪詛は怒りを収めて、小さく溜め息を吐く。
シンシは彼に尋ねた。
「それで、晴らさなきゃならない未練は判ったのか?」
「……全然だ。
俺は何の為に、蘇ったんだろう?」 悩まし気に首を横に振るヤナキの呪詛を見て、シンシは問う。
「この街から出て行かないって事は、ここに関係する事なんだよな?」
「多分、そうなんだろうと思う」
「相変わらず、瞭りしない奴だな。
とにかく、誰かを恨んでる訳じゃ無さそうか?
そこまで憎い奴なら、思い出せないって事は無いだろうからな。
俺は無理に解決しなくても良いと思うが、中には怖がる奴等が居るからな」
「そうだと思う」
「しかし、未練が思い出せないとか、あり得るのか?
そこまで強い執着じゃないとか?
どうしても叶えないと行けない、強い願いじゃなくて、何と無く引っ掛かっている位の」
「そうかも知れない」
「忘れられる位だから、どうせ大した事じゃないんだろうな。
あれだよ、家の鍵を閉め忘れたかも知れないって、一日中引っ掛かっていたりする類の。
俺は今まで真面な家に住んでた事なんか無えから、鍵とか知らんけど。
何だっけ、取るに足らない様な事を異様に気にして、落ち着きが無くなるのって。
――ああ、強迫性障害だっけか?
あんた、それなんじゃないのか?」
「判らない。
もしかしたら、そうだったかも知れない」
ヤナキの呪詛の返答は、段々弱々しくなって行く。
呪詛である彼にとって、何の為に存在し続けているかと言う事は、非常に重要なのだ。
呪詛の強さが、その儘、存在の強固さになるのだから。 シンシは思い切って、ヤナキの呪詛に提案した。
「良し、それなら探しに行こうぜ。
あんたの生きて来た痕跡を辿って行くんだ。
その内、どれが未練か判るだろう」
これにはフミヤロが驚く。
「ええっ!?
シンシさん、本気ですか!?」
「冗談で、こんな事を言うかよ」
フミヤロは呪詛魔法が怖かった。
死んだ人間が現世に留まっていると想像するだけで恐ろしいのに、それが目の前に居るのだから。
彼はシンシは怖くないのかと疑う。
そして、その理由は金目では無いかと予想した。
「もしかして、褒賞金だけじゃなくて、解決金まで貰おうって肚ですか?」
「あんたは金の事しか頭に無いのか?」
シンシの呆れた様な口振りに、フミヤロは不機嫌な顔で沈黙する。
ヤナキの呪詛はシンシの真意を量り兼ねていた。
「俺が怖くないのか?」
「怖い?
幽霊が怖くて、夜の街を歩けるかよ。
大体、俺は他人に恨まれる覚えなんか無えからな。
俺が恨まれるとしたら、大抵は逆恨みだ。
そんな物、怖くも何とも無い」
堂々と言い切るシンシには、彼なりの哲学があった。 自分だけの哲学や信念を持つ者は強い。
その眩しさに、フミヤロは劣等感を覚えた。
「よく、そこまで言い切れる物ですね」
僻みを込めて彼は皮肉を言ったが、シンシは強気に言い返す。
「正当な恨み程、怖い物は無いからな。
逆恨みなら、容赦無く叩き潰せる。
そもそも何も持たない浮浪者を恨むなんて事自体、臍で茶を沸かす位、可笑しい訳だが……」
これが持たざる者の強さなのだ。
シンシは改めて、ヤナキの呪詛に呼び掛ける。
「行こうぜ、ヤナキ。
1人より2人だ。
あんた独りで踉々(うろうろ)してたって、何にもならねえだろう」
ヤナキは少し迷ったが、素直に頷いてシンシに従った。
「有り難う。
宜しく頼む、シンシ」
そこでフミヤロも声を上げる。
「あっ、私も行きますよ!」
シンシは驚いた顔をして、フミヤロに告げる。
「金は出ねえぞ」 それにフミヤロは少し怯んで、卑屈な笑みを浮かべた。
「全くって事は無いでしょう?
だって、事件を解決するんですから」
「解決するとは限らないぜ?
そもそもだ、フミヤロ、あんたにヤナキの悩みが判るのか?」
「そんなの判る訳がありませんや。
でも、2人より3人でしょう?
私にしか判らない事もあるかも知れませんよ」
「そこまで言うなら、好きにすると良い。
だが、邪魔をするなら置いて行くぞ」
「へ、へへ、そうならない様に頑張ります」
こうしてシンシとヤナキの呪詛とフミヤロは、ヤナキの未練の正体を探しに行く事になった。
先ず最初に向かったのは、ヤナキが最後に暮らしていた空き家。
ヤナキの呪詛は生前の事を余り覚えていなかったが、シンシとフミヤロは浮浪者のネットワークを、
最大限に活用して、その場所を突き止めた。
そこは街外れに淋しく置かれた小さな荒(あば)ら屋。
「ここが、あんたの最期の場所らしいが?」
シンシはヤナキの呪詛に話し掛けたが、当の彼は難しい顔をしている。
「……そうなのか……」
その反応を見たフミヤロは、眉を顰めてシンシに囁いた。
「外れっぽいですね」
「とにかく中に入ってみよう。
それで色々思い出すかも知れない」
シンシの先導で一行は荒ら屋に踏み入る。 真っ暗な屋内には小物が散乱していて、足の踏み場も無い。
ヤナキの呪詛は屋内に入ると、辺りを見回した。
「ここは何と無く覚えがある。
そうだ、俺は確かに、ここに居た。
短い期間ではあったが……」
「おっ?
思い出したか?」
シンシの問い掛けに、ヤナキの呪詛は小さく頷く。
「ああ、大体思い出して来た。
だが、ここじゃない」
「未練が判ったのか?」
「……ああ、俺の未練は1匹の子猫だ」
それを聞いてシンシとフミヤロは脱力した。
フミヤロが呆れて愚痴を零す。
「猫かよ……」
高が猫如きと彼だけで無く、シンシも思っていた。
浮浪者が寂しさを紛らわす為に、野良の動物を飼う、或いは、餌遣りをする事は、よくある。
しかし、多くの浮浪者は動物を飼う余裕が無く、餌遣りだけで済ませる。
個人が責任を持って飼うなら未だしも、唯の餌遣り行為は推奨されない。
浮浪者にとって貴重な食料を無駄にするだけで無く、街の衛生管理にも悪影響がある為だ。
生前のヤナキの状態から言って、真面に猫の世話をしていたとは考え難い。
シンシはヤナキの呪詛に問う。
「あんた、子猫を探し出すとか言うんじゃないだろうな?」 ヤナキの呪詛は当然の様に頷いた。
「あの子が、どうなったのか見届けないと」
「しかし、あの騒動だぞ?
他の動物に殺されていたり、もしかしたら業者に駆除されてるかも知れない」
「それでも……確かめずには居られないんだ」
シンシは肩を落として、深く長い溜め息を吐く。
「はぁーーーー、やれやれだ」
子猫が見付からなければ、ヤナキの呪詛は消えない。
しかし、見付かる可能性は低いとシンシは考えていた。
否、低い所か、0に近い。
今この街には殆ど動物が居ない。
多数の妖獣を含めた動物が屯していた中で、子猫が生き残っているとは思えない。
恐らく死体さえ見付からないだろう。
詰まる所、ヤナキの呪詛は存在しない子猫を探して、永遠に街を彷徨う事になる。
「これ以上は付き合い切れねえな。
取り敢えず、目的は判ったんだから、良いだろう。
フミヤロ、後は頼んだぞ」
シンシはフミヤロに後の事を任せて、その場から立ち去ろうとする。
フミヤロは慌てて彼を止めた。
「ま、待って下さいよ!
どうすりゃ良いんですか!?」 「こんなの、どうするも何も無えよ。
子猫を探す以外にあるか?
俺はパスだ、やってられん。
良かったな、フミヤロ。
子猫が見付かれば、魔導師会からの褒賞金は全部あんたの物だ」
「そんな、シンシさん、薄情な!
私に押し付けて行かないで下さいよ!」
「俺はヤナキが誰かを恨んでる訳じゃないって判っただけで十分だ。
フミヤロ、あんたは金が欲しいんだろう?」
ヤナキの呪詛は言い合うシンシとフミヤロを、凝っと見詰めている。
フミヤロはシンシの肩を掴むと、彼をヤナキの側に引き倒した。
その儘、フミヤロはシンシを置いて逃げ出す。
「冗談じゃない!!
幽霊に付き纏われるなんて、御免ですよ!」
そう捨て台詞を吐いて、フミヤロは街の暗がりに姿を消した。
シンシは深い溜め息を吐いて、尻餅を搗いた儘、ヤナキの呪詛を見上げる。
「本当に子猫を探す気なのか?」
「俺には他に何も無い」
「仕方が無いな、俺も少し手伝ってやるよ。
本当に少しだぞ。
それで見付からなかったら、後は自力で何とかしな」
ヤナキの呪詛は特に感謝の言葉を口にしたりはしなかった。 ヤナキの呪詛が言うには、子猫は白と茶の斑で、青い瞳との事。
それだけでは該当する物が多そうなので、確実に判別出来る様な特徴は無いかとシンシが尋ねた所、
子猫の耳と尻尾の先が茶色だと言う。
生前のヤナキは、その子猫に名前等は付けなかったので、呼ぶ事も出来ない。
翌日からシンシは浮浪者達に、子猫を見なかったかと尋ねて回った。
浮浪者以外にも、市民や魔導師にも聞いて回ったが、特に成果らしい成果は無く、彼は途方に暮れる。
(こりゃ無理だな。
ヤナキには諦めて貰うしか無い)
夜を待って、シンシは再び路地裏に赴き、ヤナキの呪詛と会った。
「ヤナキ、駄目だった。
子猫は誰も知らないとよ。
あんたの目当ての子猫だけじゃなくて、他の猫も見掛けないらしい」
ヤナキの呪詛は無言の儘、小さく俯いた。
恐らく彼は子猫を探して、永遠に街を彷徨うだろう。
しかし、未練は本当に、それだけなのだろうかとシンシは疑い始めていた。
「ヤナキ、そんなに子猫の事が気になるのか?」
「……気になる……と言うよりは、気にならない訳では無いと言った方が正しい気がする」
ヤナキの呪詛は虚空を見詰めて答える。
「もしかしたら、あんたの本当の未練は別にあるんじゃないか?」
「そうかも知れない」
彼の返答は今一つ瞭りしない。 シンシは改めてヤナキの呪詛に提案した。
「もう一度、あんたが生きてた頃の所縁の場所を巡ってみないか?」
ヤナキの呪詛は俯き加減で小さく頷く。
それを見たシンシは彼を励ます様に言う。
「一寸、身の上話をさせてくれよ」
ヤナキの呪詛は沈黙した儘、再び小さく頷いた。
シンシは夜の街の路地裏を彷徨きながら、自分の過去を語る。
「俺は生まれ付き浮浪者だった。
浮浪者の両親から生まれた、浮浪者の子供。
言い方は変だが、生粋の浮浪者だ」
ヤナキの呪詛は彼を見詰めて、真剣に耳を傾けている。
シンシは彼の対応に少し驚きつつも、語り続ける。
「小さい頃は、それに何の疑問も持たなかったが、10歳前後から他の子供とは違う自分に、
疑問を持ち始めた。
どうして俺は浮浪者の子供なんだろうかって。
大抵の浮浪者は、子供を育てる余裕が無いから、孤児院とかに預けるんだよな。
『預ける』のとは違うか、返って来ないんだから」
シンシは時々冗談を挟んで、ヤナキの呪詛の様子を窺うが、その真剣な表情に変わりは無い。
そこまで真面目に聞かなくてもと、シンシは困惑したが、話し始めて途中で止める訳にも行かず、
照れ臭い様な奇妙な心持ちで続けた。
「何で浮浪者が孤児院に子供を『捨てる』のかって言ったら、子供を浮浪者にしたくない、
その一心以外に無い。
孤児院なら多少の偏見はあれど、浮浪者の子供より真面な職に就ける可能性は高いしな。
だったら、何で俺の親は俺を捨てなかったのかって言ったら、『愛している』からって……。
それは嘘じゃないんだよな」 シンシは深呼吸をして、路地裏の隙間から見える、狭い夜空を見上げた。
「浮浪者が孤児院に子供を捨てるのだって、断腸の思いなんだ。
子供なんか要らないと思って捨てる奴は……中には居るだろうけど、当然それだけじゃない。
子供の将来を考えて、そうするんだ。
でも、否、『だから』なのかな?
俺は学校に通う同い年の子供等や、自分の将来の事を考えて、不満に思ったんだ。
『どうして親は俺を捨ててくれなかったんだろう』ってな」
彼はヤナキの呪詛を見ずに、俯いて自省する。
「子供を捨てるのも育てるのも、どっちも子供を愛しているからなんだ。
でも、親の心子知らずと言うか、子供の頃は自分の事が何より先に来ちまう。
俺は親に何で俺を捨ててくれなかったんだと、馬鹿な事を訊いた。
親父には殴られ、お袋には泣かれた。
未だ俺は子供だったのに、親父は本気で殴った。
そんだけ許せない言葉だったんだろう。
酷く傷付けたと思う。
その親も俺が20歳(はたち)になる前に死んでしまった。
大体、浮浪者ってのは長生き出来ない」
シンシは改めてヤナキの呪詛を見た。
ヤナキの呪詛は変わらず、シンシを見詰めている。
シンシは大きな溜め息を吐いて言う。
「今、俺は浮浪者だって事に不満を持っていない。
何だ彼んだで、旨い立場に居るしな。
だけど、あの頃は『浮浪者の子供』が嫌で嫌で仕方が無かった。
その時に死んで、もし呪詛魔法なんて物があったら、親の前に化けて出ていただろうな。
……ヤナキ、あんたは浮浪者になって何を思った?」
「判らない」
ヤナキの呪詛は真顔で答えた。 余りに堂々と言われた物で、シンシは困り顔になりながら言う。
「あんたが浮浪者になった事と、あんたの未練は、多分だが、関係している」
「どうして、そう言い切れる?」
「浮浪者になりたくてなる奴なんて、居ないからさ。
皆、何か大きな物を失って浮浪者になる。
浮浪者になって、何かを失う事もある。
そこに未練が生まれない訳が無い」
「俺は何を失った……?
家族でも恋人でも無い。
元から俺は独りだった……」
「仕事とか、友人とか?」
「そこまで大層な身分でも無かった。
仕事に情熱を持ってもいなかったし、重要な仕事を任せて貰えた事も無かった。
失って惜しい様な友人も居なかった」
元からヤナキは寂しい人間だった。
会社も首にしても影響の無さそうな者から切るのだ。
「それでも環境が変わるってのは、大変な事だぜ?
無くして困るのは、何も形ある物だけじゃない。
夢とか、希望とか、あんたにもあったんじゃないのか?
浮浪者になって、それを捨てざるを得なくなったとしたら……」
「夢……希望……。
そんな物、あったんだろうか?」
呪詛となったヤナキには、嘗ての生気に満ちた人間らしい感情を思い出す事が出来ない。
所詮、彼は呪詛なのだ。 呪詛は本人では無い。
記憶を引き継いでいても、本質は恨みを晴らす為だけの存在だ。
その他の事は、どうでも良くなっている。
恨みと言っても色々ある。
怨恨、悔恨、憾恨。
呪うのも人ばかりでは無い。
動物、運命、無策。
呪詛魔法は無念の感情を元に発動する。
シンシはヤナキの呪詛の様子を見て、もしかしたらと思った。
「ヤナキ、あんたの『恨み』って……。
何も無い事なんじゃないのか?
何も出来なかった事、その物が、あんたの後悔だとしたら?」
「……そうなのかも知れない」
相変わらず、ヤナキの呪詛の答は瞭りしない。
シンシは改めて提案した。
「だから、あんたの生きていた頃の、所縁の地を回ろうと思うんだ」
ヤナキの呪詛は小さく頷いた。
彼としては他に行く当てが無いから、そうするより他に無いのだ。
「とにかく行こう。
それで何か判るかも知れない。
先ずは、あんたが勤めていた会社からな」
シンシはヤナキが生前勤めていた会社を、魔導師会の者から聞いていた。
それだけで無く、彼の生家や未だ真面な暮らしをしていた頃の住所まで。 シンシは自分で無ければ、ヤナキの呪詛をどうにかする事は出来ないと考えていた。
魔導師会は死者の呪詛に対する理解が無い。
唯の魔力の塊としか見ないから、恨みを晴らしてやる事に関心が無い。
更に、ヤナキには親しい者が居ないから、そう言う者達による解決も見込めない。
シンシは自ら、お節介焼きを自認していた。
残念ながら、流石に夜の会社には忍び込めなかったので、2人はヤナキが暮らしていた賃貸住宅に、
移動する事になった。
ヤナキが暮らしていた賃貸住宅に、シンシとヤナキの呪詛は着く。
そこは木造の安宿で、如何にも貧乏人の住まいと言う外観だった。
シンシは管理人室を訪ねて、交渉する。
「夜分遅くに悪いが、一寸良いか?」
「何なんですか、貴方は?
こんな夜遅くに」
管理人室から出て来たのは若い大柄な男で、不機嫌そうな顔をしている。
確かに、夜遅くに訪ねて来るのは非常識だ。
シンシは男に問う。
「あんたが管理人?」
「違います。
私は警備会社の者で、夜間の警備を任されています。
管理人に話があるなら、日中に出直して来て下さい」
「いや、管理人じゃなくて、部屋に用事があるんだ」
「貴方、ここの住人ですか?」
「俺じゃなくて、俺の友達(ダチ)が……」
そう言って、シンシはヤナキの呪詛を見た。
ヤナキの呪詛は確り付いて来ている。 管理人代理の警備員は、面倒臭そうな顔でシンシに尋ねる。
「えっと、お名前は?
何号室?」
ヤナキの呪詛が答えないので、シンシが代わりに答えた。
「ニレ・ヤナキだ。
301号室」
「301……ニレ、ヤナキ?
そんな人は……」
ニレ・ヤナキが立ち退いた後の301号室は、空室の儘だった。
警備員は眉を顰める。
「301は誰も使っていません。
変な悪戯は止して下さい。
警察を呼びますよ」
シンシは誰も使っていないと聞いて、丁度良いと思った。
「誰も使っていないって事は、新しい入居者が見付からなかったのか?」
「そんな事は、どうでも良いでしょう?
早く帰って下さい。
本当に警察を呼びますよ」
「いや、どうでも良くない。
ニレ・ヤナキは確かに301号室を使っていたんだ。
確かに、あんたの言う通り、今は住んでいない。
一寸前に、ヤナキは家賃を払えなくなって、部屋を引き払った。
その時に忘れ物をしたんだ」 シンシの言葉を信じて良いのか、警備員は迷った。
「忘れ物って何なんです?」
「あー、それも忘れてるんだ。
とにかく無い無いって煩い物だからよ。
もしかしたら、ここに来たら何か思い出すんじゃないかって」
「巫山戯てるんですか?」
そんな言い訳が通るかと、警備員は眉間の皺を一層深くする。
彼の反応も理解出来るが、ここは退く訳には行かないと、シンシは言い返した。
「いや、大真面目だ。
本当に困っているんだ。
直ぐに帰るから、301号室に入れてくれないか?」
「駄目です、警察を呼びます」
警備員は頑なで、シンシは閉口する。
どうにか出来ないかと、彼は知恵を絞った結果、ヤナキの正体を教える事にした。
「呼んでも良いが、それじゃ解決しないぜ?」
「何を巫山戯た事を」
全く取り合おうとしない警備員に、シンシは不敵に笑って言う。
「俺の友達、よく見てみな」
シンシはヤナキの呪詛を引っ張って、警備員の前に立たせた。
警備員は身構えて、ヤナキの呪詛を凝視する。 「こいつ、死んでるんだ。
噂の呪詛って奴さ」
シンシは態と声を低くして、脅す様に告げる。
「ジュソ……?
ジュソって、あの呪詛ですか!?」
「他に、どの呪詛があるってんだよ。
こいつ、この世に未練を残した儘、死んじまってさ」
警備員は恐怖に蒼褪めながらも、未だ半信半疑の様子でヤナキの呪詛を熟(じっく)り見る。
そして、緩(ゆっく)り手の伸ばして触れてみた。
そこで警備員はヤナキの服に布の質感が無い事に気付く。
手応えはあるのだが、丸で指先が痺れた時の様に、浮わ浮わしている。
「ヒッ、何だ、これ……!?」
「だから、呪詛って言ってんじゃねえかよ。
詰まり、幽霊みたいな物だよ、幽霊」
「うっ、うわっ、魔導師会……!」
直ぐに警備員は執行者を呼ぼうとしたが、それをシンシが止める。
「待て待て、よく考えろ?
何で魔導師会が未だに呪詛を退治出来てねえと思う?」
「えっ、何ですか?
どう言う事だって言うんですか?」
「魔導師会でも呪詛は、どうにも出来ねえって事だ。
あんた、下手に呪詛の邪魔をすると、呪われるぜ?」
警備員はシンシの言葉を信じて、悉(すっか)り怯えていた。 「きょ、脅迫ですよ!!」
「そんな事を言われても、俺にも、どう仕様も無いんだ。
こいつの無念を晴らしてやらない限りはな」
警備員は呪われたくない一心で、シンシに尋ねる。
「ど、どうすれば……?」
「難しい事は無い。
301号室を見せてくれれば良い。
何かを盗ろうとか、そんな事は考えちゃいない」
警備員は迷った末に、自分も同行して、2人を監視する事にした。
「解りました。
……こっちです」
彼は管理人室に鍵を掛け、2人を301号室に案内する。
301号室は3階端の一室。
警備員は部屋の鍵を開けて、シンシとヤナキの呪詛を中に通す。
2人は部屋に入ると、中を見回した。
シンシがヤナキの呪詛に尋ねる。
「どうだ?
何か思い出せそうか?」
「ああ」
ヤナキの呪詛は懐かしそうに室内を歩き回る。 当然だが、301号室には嘗て人が生活していた痕跡が無い。
家具等は最低限しか置かれておらず、寂しい物だ。
それでもヤナキの呪詛は自分の生前の姿を思い出していた。
「……碌でも無い人生だった。
ここでの生活は面白くなかった。
働いて、寝て、起きて、又働いて。
それだけで日が過ぎて行った。
とても虚しくて辛かった」
彼の言葉には強い無念が篭もっている。
当たりかなとシンシは期待した。
「死ぬ程の苦しみじゃない。
それが余計に悲しかった。
俺は徒生きているだけ、死んでいないだけだった。
生きているのか、死んでいるのかも、よく判らなかった」
徐々に不穏な禍々しい雰囲気を纏い始めるヤナキの呪詛に対して、シンシは空気を読まずに発言する。
「今も、そう変わんねえじゃん?」
ヤナキの呪詛は俯いて沈黙してしまった。
「俺の人生は一体何だったんだろう……?
死んだ後まで、俺は……」
シンシは何と無くヤナキの呪詛の正体が何かを理解した。
彼は何も成せず、何も果たせずに、若くして死んだ事、その事実を恨んでいるのだ。
自分の人生に絶望するのは、人生を諦め切れていないから。
人生に納得出来ない内に死んで、それが未練となって蘇ったのだ。 シンシはヤナキの呪詛に言う。
「もう死んじまった物は仕様が無いだろう。
あんたは死者だ」
ヤナキの呪詛は急に自嘲し始めた。
「……フフフ、可笑しな話だな。
生きている間、何も出来なかった事が未練なのに。
死んだ後も、何をすれば良いか判らなくて彷徨っている何て。
これじゃ丸っ切り馬鹿じゃないか?」
「おう、死んでも治らねえ馬鹿だな。
取り敢えず、仕事や金や家は疎か、命まで無くなったんだから、もう怖い物無しだろう?」
「怖い物無し?」
シンシの言葉がヤナキの呪詛には信じられなかった。
シンシは自信を持って、彼に言う。
「今、あんたには何も無い。
全てを失った。
これ以上の自由があるかよ」
「自由……」
「ああ、自由だ。
どこにでも行けるし、何でも出来る。
どっか行きたい所があるなら、言ってみろよ」
「そんな物は……」
自由と言われて、ヤナキの呪詛は戸惑った。
彼は長い間、自由になった事が無かったので、何をすれば良いのか判らないのだ。 シンシは思い付く限りの事を言った。
「そうだな、ボルガ地方の名所巡りでもしてみるか?
先ずは山登りとか、どうだ?
霊峰アノリに、最高峰ガガノタット。
天上から地上を見下ろせば、小さな悩みなんか吹っ飛ぶぜ。
海も良い。
南方のファンテアンジやジャンクの海は、年中温かくて泳ぎ放題だ。
閑(のんび)り過ごしたいなら、オーイオーイの一面の花畑でも見に行こうか?」
ヤナキの呪詛は、彼の言葉から場面を想像するも、呪詛である身が自由を許さない。
「それは良いと思う。
……だが、俺は、この街から離れられない」
「駄目か……。
この街で何かをしないと行けないんだな」
これは難しいとシンシは両腕を組んで悩む。
そこに警備員が声を掛けた。
「あのー、もう用が済んだんなら、帰って欲しいんですけど……」
恐る恐ると言った様子の彼に、シンシは謝る。
「ああ、悪い。
助かったよ。
ヤナキ、帰ろう」
シンシが呼びかけると、ヤナキの呪詛は暗い顔で言う。
「帰るって、どこに?」 彼の反応を見て、失言だったとシンシは後悔した。
ヤナキの呪詛には帰る場所等と言う物は無いのだ。
何とか言い繕おうとシンシは言葉を探す。
「未だ消えないって事は、少なくとも、ここじゃないんだろう?」
「ここじゃない?」
「あんたの『帰るべき場所』だよ」
「そんな物があるのか?」
懐疑の視線を向けるヤナキの呪詛に、シンシは面倒臭そうに答えた。
「知らねえよ。
唯、確実に言える事は、こんな所で呆っと突っ立ってたって何の解決にもならねえって事だけだ。
次、行くぞ、次!」
彼は強引にヤナキの呪詛を引っ張ると、警備員に礼を言う。
「邪魔したな。
有り難さん、助かったぜ」
「えっ、ええ、どう致しまして」
シンシとヤナキの呪詛は賃貸住宅を後にして、次なる目的地に向かう。
「それで、シンシ、どこに行くんだ?」
「今度は、あんたの実家だよ」 それを聞いたヤナキの呪詛は、露骨に嫌な顔をした。
「実家……?
いや、でも、俺の実家はボルガ市内には無いし……。
俺はボルガ市から離れる積もりは無いし……」
明らかに腰が引けている。
シンシは真面目な顔で告げる。
「積もりだとか、そんな事は関係無い。
とにかく行くぞ。
あんたも、親の顔位は見ておきたいだろう?
仮令、死んだ後でもさ……」
「……俺は行かない。
行くなら、シンシ一人で行って来てくれないか?」
「俺が一人で行ったって、仕様が無いじゃないか……。
他人の実家に、どんな名目で上がり込めって言うんだよ。
あんたが行くから意味があるんだ。
あんたが行かないなら意味が無え」
ヤナキの呪詛は沈黙した儘、何も言わなくなった。
何と無くシンシは察して、ヤナキの呪詛に問う。
「親に会うと気不味いのか?」
「……ああ、親には会いたくない」
「仲が悪いのか?
虐待されていたとか?」
「……そう言う訳じゃないんだが……」
ヤナキの呪詛は俯いて、語尾を濁した儘、再び沈黙した。 彼は都市から離れられなかったのでは無い。
都市から離れたくなかったのだ。
呪詛であるが故に、生前の想いや行動に縛られるのである。
正にヤナキの親こそが、彼の未練の正体では無いかと、シンシは考えた。
否、どう考えたって、それ以外には考えられないのだ。
ヤナキの呪詛は両親の事を忘れている訳では無い。
「もう今日は終わりにしよう。
明日の夕方、あんたの実家に行く。
何時もの路地裏で会おう」
「いや、俺は……」
シンシの宣言にヤナキの呪詛は戸惑うばかりで頷かなかったが、シンシは構わず去って行った。
そして一日が過ぎ、再び日が沈んで、夕方になる。
薄暗い路地裏で、シンシはヤナキの呪詛が現れるのを待った。
しかし、何時まで経っても、ヤナキの呪詛は現れなかった。
(……そんなに嫌か?
それとも親に会わせる顔が無いか?)
日が完全に沈んで、夕方が終わって、真っ暗闇の夜になって、シンシは深い溜め息を吐く。
(仕様が無い。
俺独りで行くか……)
待ち疲れた彼は路地裏を出て、鉄道馬車の駅に向かった。
取り敢えず、ヤナキの両親に会って、色々と話を聞いて、それから改めてヤナキを誘おうと、
シンシは計画していた。 シンシは夜間の馬車鉄道に乗って、ボルガ市から東のオキニリ町へ行く。
そこがシンシの実家のある町だ。
人気が少ない駅の『昇降場<プラットフォーム>』の椅子に腰掛けて、呆っと馬車の到着を待つシンシの、
直ぐ隣から人影が差す。
シンシが隣を見上げると、そこに居たのはヤナキの呪詛だった。
「来たのか、ヤナキ……」
「ああ」
ヤナキの呪詛は短く、それだけ言った後は沈黙した。
シンシは色々と言いたい事や聞きたい事があったが、ここは大人しく黙っている事にした。
やがて馬車が到着して、疎らに人が乗り降りする。
「えェー、第五魔法都市ボルガ東駅ィ、第五魔法都市ボルガ東駅でェ御座イマす。
乗客の皆様ァ、お忘れ物の無い様に、御注意願イマす。
この列車は東行き、東行きで、御座イマす。
お乗り間違いの無い様に、お気を付け下さいませ」
シンシは徐に立ち上がって、ヤナキの呪詛に呼び掛けた。
「それじゃ、行こうぜ」
2人は列車に乗り込み、空いた席に座って、オキニリ町に着くまで一休み。
途中、車掌が切符の確認に来たが、ヤナキの呪詛は無視された。
シンシは彼を揶揄う。
「只乗りかよ。
便利だな」
「シンシも死んでみるか?」
「はは、遠慮しとく」
列車は東へ、東へ。
そしてオキニリ町に停車する。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています