昭和40年代の鉄道
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ドン・キホーテのことをドンキって略すくせに
マクドナルドをマクドって略す関西人を馬鹿にするっておかしくね? 時刻表読んでてこの時代が一番読み応えがあるかもしれない 昭和49年まではいいのか?
ならば新幹線博多延伸前で、かなり楽しい時期だったなw SLを追っかけて夢中になってたのは49年いっぱい(会津が最終)それ以後は北海道と九州で、都内の高校生の範囲を越えていた。 昭和50年からはむしろ近郊のEF57や58に萌えた 通勤電車に女性専用車両が無かった
列車はタバコくさかった
優先座席は年寄り限定優先座席だった 民族大移動と言われるほどの年末年始、お盆、それにGWの長距離列車大混雑。
休日の分散が進んでなかったので集中、特に年末28〜30日が酷かった。急行津軽の品川特発やってた頃。 昭和45年頃の朝の西武線東久留米駅、雨の中、大勢の通勤客が傘をさして電車を待っている。
ホーム上の屋根付き部分が今よりずっと短かく、ホーム真ん中辺りにしかなかった。
入ってくるの火冷房の赤電、先頭は501か551っぽい。 資本主義国家だとこうなる、というのを如実に表しているのが昭和40年代前半の日本の鉄道 >>12
東北本線の赤羽-大宮6線化工事
常磐線の綾瀬-我孫子間複々線工事
上野駅の11・12・13番線の新設工事
これらの工事が終わってもなお続いたんだっけ? まだまだ給料が安かった時代
鉄道の長距離旅行は(仮に鈍行普通車でも贅沢だった
昭和50年代になると一変
所得は伸びてかなり割安になった 50年代に入って青春18のびのびきっぷができたが
京都10時台からから米子20時30までの長距離鈍行に乗り続けたのはさすがにきつかった
焦げ茶色の客車のやつ 今では信じられないだろうが、昭和40年代の横浜線はドル箱路線だった。 >>40 相模原から横浜港までの米軍車両輸送やってたから?
あれは思いやり予算としての米軍駐留経費から運賃支出するんであって、財源は日本の税金ではないのか?
それはさておき、新宿駅騒乱事件の原因となった燃料輸送列車火事も含め、反戦、ベトナム戦争抗議運動の的とされた。 レス19です。レス18への返答。
米軍車両輸送の収入だけではないが、国電区間のみの路線だから営業収支が良くなる。
青梅線の青梅・奥多摩間のようなローカルな区間もない。
京浜東北線や中央本線東京・高尾間で見ると、営業収支はもっと良いでしょ。 小淵沢行ったとき汽車土瓶でお茶売ってたが
あれは釉薬塗ってたやつだった
その昔は素焼きだったと聞くが素焼き土瓶のお茶買った人いる? 土瓶は通販で買えるけど、懐古以外の利用価値が乏しい 全国的に一番鉄道網が充実していたのは昭和40年代かな
鉄道にとっては活気があって夢のような時代だったろう 昔って今みたいにすぐに運休とかしなかったよな
何時間遅れても目的地まで走った
昔は今みたいに大型トラックが走れる道も少なく、物流の主役は鉄道が担っていたからな 昭和40年前後の東海道国道の文字通り殺人的な貨物需要の超絶オーバーフローは恐ろしい。
旧態依然とした片道一車線の国道しかなくて
トラックが夜通し鈴なり状態。毎晩起こる事故で必ず数十キロの渋滞が発生。まさしく地獄地獄。そんな時代に鉄道の側でEF60や65の登場がどれほど待たれたか、どれほど期待が大きかったか想像出来る。 >>25 昭和40年代後半から国鉄の赤字が深刻化してくる。地方私鉄や路面電車の廃止は、この時期かなり進んでいる。都電が荒川線以外全部廃止されたのが昭和47年。大阪市電はもっと早い。 それまで衣食住確保だけで精一杯だったのが
一家に一台クルマ持てるようになったからね 第一次交通戦争と呼ばれた昭和45年頃、踏切での事故も頻発。東武や名鉄のように踏切事故が多い所で高運転台化が進んだ。
小田急NSEが名鉄7000のように前方監視カメラつけなかったのは、踏切事故がそんなに多くなかったからか? >>29 マイカー普及より早く地方私鉄のバス転換が始まっている。昭和42年廃止の仙北鉄道登米線、46年廃止の福島交通飯坂東線など。 夏が今ほど暑くなかった気がする。
クーラーのない家庭が普通だったから、冷房がなくても平気だった。
湿気も少なかったような感じだ。 43.10(1968.10)までとそれ以降じゃ大違い
45.10(1970.10)でほぼ首都圏・幹線無煙化完成
それ以降は昭和50年代と大差ない
都内で学校終わってからSL撮りにいけた時代は45.9まで
当時の鶴見周辺の東海道線・横須賀線・京浜東北線・高島線並走もかなりの密度だったはずだが総持寺踏切が普通に自動車・自転車、歩行者の往来に使われていた タバコくさかったよね
国鉄も専売公社も国営企業だったけどさ 42.夏生まれだけど、いつから記憶があるのか
よく考えるんだよな。
日曜日にオヤジが大阪に行くと聞いて連れて行けとギャン泣きして付いて行ったのが万博の
年だったかどうか?幼稚園2年の前に保育園で
問題児だったのも少し記憶がある。小田急ロマンスカーが停車駅じゃないのに臨時停車していて急病人という話で恐れ慄いた(なんか1車両が短いし台車がよく見えないし、幌が付いてて不気味)、寝台特急はやぶさが20系だった、日航機墜落や乗っ取り事件が連続していてダマスカスという言葉が未だに怖い、幼馴染の女の子の毛糸のパンツを下ろしたのがチクられて母親においおい泣かれた(なぜ大人になったら下ろさなくなった?)などなど バリアフリーが進んだのもこの頃
ただし遅々として進まないところもあり、2023年5月時点で南海和歌山港駅はホームに至るエレベーターが無く、車椅子の人が南海四国ライン経由で大阪から四国へ行くことは事実上できない >>37 エレベータ―やエスカレーターって、昭和40年代だと上野や池袋といったターミナル駅のホームに1か所位しかなかったけどな。
荷物運搬用のエレベーターは別として。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています