1988(昭和63)年春のダイヤ改正と時刻表を語ろう
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皇族だからって結婚しなきゃいけないのか?
しばらく結婚はないけどしばらくずっとカレシでーすじゃだめなのか。 JR東海のテレビCM
落合(当時ドラゴンズの選手)がカーチャンと福嗣(当時0歳)と一緒に出ていた 翌年廃止になる名寄本線ですが、この年は流氷の大当たりの年。
翌年(平成元年)は昭和62年と並ぶ暖冬の年で紋別付近には接岸せず、
車窓から流氷の絶景を眺めることが出来た最後の年になりました。 61.11じゃなくてそこか
青函トンネルと本四架橋の時か JR発足をアピールするためか相当意欲的な改善が各線でされた
鉄道ファンのカメラは北斗星にばかり向いていたが、沿線住民にとっては、宇都宮線や高崎線の快速運転開始のほか、現在のsslの原形といえる池袋発着の運行開始などは衝撃的だった。 同時に東京〜九州ブルトレの衰退進行も生じた。
せっかく博多あさかぜに、レトロ調食堂車を投入したのに。 北陸で485系リニューアル車、「かがやき」「きらめき」運転開始もこの改正だったな。
特に「かがやき」は、首都圏〜金沢を上越新幹線長岡乗り継ぎに力を入れた施策だった。
それまでは、東海道新幹線で米原乗り継ぎと迷うところだったが。 7両編成で運転されていた山陰本線の特急「あさしお」、「はまかぜ」はこの改正から閑散期は5両編成、
6両編成で運転されていた特急「北近畿」も閑散期は4両編成で運転されるようになり、山陰本線米子以東や
福知山線、播但線、舞鶴線、宮津線の旅客の輸送量に合わせてこれらの特急列車の編成が見直された >>10
TVCMでも「長岡乗り換えが常識」なんて盛んにやってたなぁ 九州のハイパーサルーンも、この時デビューだな。
民営化初の特急車両で注目され、真ん中に出入口があるのが斬新だった。
普通車座席も乗り心地よく、国鉄時代からの485系座席が未改良だったので、
同じ特急で差が大きかった。 彦根発着だった東海道・山陽線の新快速が米原発着になったのはこの改正からだった 381系しなのに、パノラマ型グリーン車デビュー。
九州のハイパーサルーンといい、窓や前面展望がワイドな車両が登場してる。
しかししなののパノラマ型グリーン車、従来通り4列掛けはいただけない。
今回の改正でも横3列のグリーン車が増えているのに。 米子~益田間に1往復設定された特急「くにびき」
キハ181系3両編成で米子発益田行きが夕刻、益田発米子行が朝方の運転だったが、
人口の希薄な山陰西部を走る特急ということもあり、影の薄い特急列車だった。 ダイヤ改正での、東京・上野発着ブルトレ&客車夜行急行。
北斗星で一部誤植あり。
https://youtu.be/ZfQPVLovMyQ >>16
山陰本線内に181系同編成を使用した快速や、間合いの普通列車、
「あさしお」1往復が倉吉〜米子快速列車で存在してたのも、影の薄さがあっただろうなw 新幹線100系「ひかり」でカフェテリア付きの列車が営業運転開始
二階建て車両の階下にスーパーの陳列棚のような棚が設置され、サンドウィッチ、おつまみ、飲み物、ミニサラダなどが並べられ、昼頃には棚の前に行列が
できるほどの大盛況だった >>20
日本海は海峡を越えるなら札幌までいくべきだった >>21
日中の運転時間が長過ぎるため、定期列車で札幌へはNGになったのだろう。
昼行特急とのスピード差でダイヤも苦心するだろうし。
しかしそれが翌年、団体臨クルーズトレイン用に改造されたトワイライトエクスプレスに繋がった。
それが好評でいけると見込み、半定期化された。 今の新幹線もそうですけど函館までというのが中途半端すぎ >>22
日中の運転時間が長過ぎると言えば、はやぶさも熊本まで、富士も大分まで短縮されたよな >>24
富士、はやぶさも大分と熊本で半分切り落としていた。
昭和30年代の鉄道優位な時代は、そんな長距離・長時間でもある程度需要はあったが、飛行機の発達や国鉄値上げで利用が減ってた。
東京〜札幌も青函航路時代、飛行機のシェアが90%以上だったので、北斗星は走らせても利用客があるか懐疑的だった。 田町、田端間で早朝、日中、深夜帯に山手線、京浜東北線が同じ線路を走っていたのも
この改正で廃止されたかと(ダイヤ混乱時を除く)。 というと京浜東北線に快速導入もこのタイミング?
御徒町の快速通過は地元からの反発があったが実際やってみたら旅客からは好評だったと故山之内氏が言っていたが21世紀に入って停車駅は増える一方・・・ >>27
停車駅が増えたのは、上野東京ラインの影響だね。 >>28
東京モノレールが子会社になって浜松町が加わったのはまた別かな 神田停車も追加されたし、もう京浜東北線の快速運転は止める方がいい。
需要がある新橋を通過なんて、馬鹿げてる。 東北・高崎線115系が池袋乗り入れ。今では当たり前に走ってる湘南新宿ラインのはしり。
同時に新宿〜村上の165系夜行快速「ムーンライト」定期化。
そして間合運用で新宿〜黒磯の快速「フェアウェイ」も運転開始。
東北貨物線経由で新宿まで足を伸ばすのは、当時この2往復だった。 >>31
165系の座席がグリーン車発生品なので、「フェアウェイ」を増発してほしかった
けど、185系新特急「なすの」も本数多かったので、そうはいかなかったか。
それから東海道線の東京口、上野口の高崎・東北本線に日中の快速を新設したのも
この改正だった。
東北本線ラビットは細々今でも残って、東海道線アクティーは春の改正で壊滅。
高崎線のタウンはアーバンに改称された。 京浜東北線は〜品川〜東京〜秋葉原〜上野〜田端〜にして終日快速にするのが良い 関西新快速もラッシュ時に本格運行されるようになったのはこのときから 彦根は折り返しできる構造だったのですか
今は折り返しできない。 50系は登場からわずか11年なのに大幅な運用削減になり、各社で大量の余剰が発生。快速海峡用が50系だったのも、既に余剰車が相当あったから。 >>38
国鉄時代に機関士の仕事を無くさないため作ったようなものだね。
でも分割民営化で機関車が客貨分離したので、客車列車の役目が薄くなってきた。
まだこの当時、国鉄末期改造のジョイフルトレインの稼働はあったけど。 >>39 50系造らなかったら旧客更新を何で埋め合わせするかだね。
赤字国鉄はキハ47の劣化版ごときものを量産するしかなかったかも。
キハ30系を仙台地区など東北にも投入していたのかもなあ。 >>40
本来は電化区間なら電車、非電化なら気動車だけど、国鉄時代は赤字体質の
緊縮財政だったので、交流電化区間の電車投入をケチったのがあった。
この当時もまだ東北本線一ノ関以北や、奥羽本線、羽越本線は全線にわたって
50系客車が稼働中。
JRがワンマン列車を運転開始もこの改正だったので、まだ東北の電化区間で
ローカル列車をどうするかの決定打が、まだなかったようだ。 オハフ52/オハ52
車体は113系準拠の3扉、ボックス席
とか。 片町線に学研都市線の愛称がついて快速運転が始まったのもこの1988年3月改正だったね
翌年に学研都市線全線電化完成して朝を除いて快速の本格運転に繋がった >>43
当時の快速は3両だったので京橋あたり大変だったのでは 快速に愛称が付いたのもこの時期だった
タウン・スイフト・ラビット・アーバン
当時はグリーン車も連結されなかったので味気ない感じが >>36
内線→外線移行の効果が早くも発揮されたのですね
「アーバンネットワーク此処に始まる」てな感じ♪
青函隧道と本四連絡橋が開通してNIOEの来日も決まって
なんとまぁ明るい未来を望めた時代 大垣の117系が米原まで行くようになったのもこの改正から。
新製時は降雪区間走行の予定がないため、宮原の117系より耐寒耐雪装置を簡略化したと鉄道ファンに書いてあったので、関ヶ原を走っても大丈夫なのかと思った。
その後は何度となく、米原発浜松行の快速でお世話になったが。 >>44
88年の運転開始当初は長尾発は夕方のみ、片町発は朝のみの設定で、1.5往復だったため、ラッシュへの影響は少なかったかと。 米原で東海と西日本の117系が並ぶことはあったのかな? フツーに並んだ
6→4両の椅子取りゲームで
当時の席取りは、そこまでひどくなかったが
東海の117が白+オレンジになったのは、
金山総合駅ができた辺りだったか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています