夜行列車総合スレ★20
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日本の夜行列車も2020年8月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、
臨時列車で何とか走っていた「ムーンライトながら」もコロナ禍の影響でこの夏には設定されず、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」
「WEST EXPRESS 銀河」など、豪華な客室を売りにする寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、
ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴ですが、これらもコロナ禍で今後が不透明になっています。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★19@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1589225459/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ >>325
国鉄時代で番号被りと言えばオロネフ10もだな。
ただ電暖有無で+2000されてる/されてないの違いはあるけど。 >>325
数でいったらオハネ25 560番台もな >>324
カニ25・カヤ21共に図面を見る限り室内に消火装置らしきものは見当たらない
20系の電源車はそもそも技術員の添乗が前提の車両だったから、発電室内への酸素の供給を遮断することになる
自動消火装置を設置するという概念自体がなかったはず
老朽化も進んでいたし、集中電源式ということでそこまでは必要ないと割り切られたのかも >>324
アルカディアはエンジン自体からの出火ではなく排気管の中にたまっていた油に引火したのが火災の直接原因だから
自動消火装置を設置していたとしても防げなかったはず JR東日本新潟支社の欧風気動車アルカディアの火災懐かしい
新清水トンネルを通過した直後に1号車(キロ59 508)出火
トンネル内だったら大惨事になっていたと思う >>330
被災車両が1両だけで済んだことで、残された2両は結果的にJR線上でのキハ58系の最期を飾ることになったんだっけ
キハ28はトップグループ(2010)が最後に残る結果にもなったけど
トンネル内での大惨事…このスレの本来のネタならきたぐに(オシ17 2018)ってことになる訳か 火災になって消失したのがキロ59 508で残る2両は保留車になったのち、
4年後くらいにキロ29 505とキロ59 509は盛岡支社に転属した上で1両を
追加して普通車扱いの団体専用Kenjiへ改造したと記憶している
この手の車両には縁がないけど1989年12月28日にエレガンスアッキーを
使った臨時快速夜行エレガンスこまちに乗って上野から秋田まで東北線、
陸羽東線、奥羽線経由にて約12時間欧風気動車の夜行列車の旅を味わいました アッキーはダメだろ。アッキーは。
夫の足を引っ張ってばかりだし。 >>324 >>328
20系自体はカニ21の無人運転化で試験的に新製した3両(122-124)と昭和46年度以降の無人運転改造車は機器自動化、技術員監視盤廃止以外にも
電源室・荷物室へ火災・煙感知器追加、荷物車以外も配電盤や車掌室へ警報器と消火装置操作用の起動箱追加となってるな確か
(炭酸ガスボンベ自体は当初は電化区間で無人運転に切り替える計画だったカニ22の時点で荷物室内に設置) 昔の電源車(カニ)は発電部分に技術員が乗って荷物部分には荷レチが乗って2名乗務の電源車が多かった・・・懐かしい このスレのニキ達は多かれ少なかれロマンを夜行列車に
求めているであろうが、そのロマンを絵画に求めて
みるのも良いものだ。例えば
絵本 やこうれっしゃ
子供向けの絵本だけれど昭和57年までの10系寝台旧型客車の絵がある意味下手な写真以上にリアルで感動するであろう
赤松麟作 夜汽車
教科書に出てくる所がベタであるが、赤い光にダブル
ルーフの木造客車の社内はある意味心象風景に近い
エデュアール レオン カルテス
鉄道とはあまり関係ないパリの夕刻の街並みの作品であるか、路面や街の店の窓に反射する黄色い赤い夕陽や
自動車のライトなど夜行列車の心象風景とも言えて
感動する。 10系寝台は懐かしくもあり、乗れればまた乗ってみたいものである
高校2年生の北海道旅行で見た札幌と釧路を滝川・富良野経由で走っていた
急行「狩勝4号(417レ)・3号(418レ)」は10両編成中、7両が10系寝台で
オロネ10、スハネ16、オハネフ16が中心に組成されて1両がグリーン車
そして普通車が2両で自由席を連結しない全車指定券が必要な豪華な編成に
各号車から漏れて湯気を上げている蒸気暖房のスチームがこれぞ北の夜汽車
だと感銘を受けた。 >>339
絵本なら「ブルートレインさくらごう」。
夕方の東京駅、夜の名古屋駅、深夜の大阪駅、上り下りさくらの離合、朝の門司駅、そして、分割、長崎駅といずれも夜行列車ならおなじみの光景が続く。
絵も昔の図鑑のようなタッチで、リアルかつ躍動感のある描き方。
機関車の交換シーンもしっかり書かれており、今でも子供と読んでいる。 >>340
その末裔が「まりも」・夜行「おおぞら」…
そんな列車ですら、最終的には跡形もなくなったというのが、時代の流れだよね
中距離なら夜行バスか日を跨がない移動、長距離なら飛行機で早々移動と言うのが
時代の趨勢になって、実際に完全にシフトした、と とにかくコスパが悪すぎる
夜行バスは快適で割安
飛行機は時間激短で価格も昔よりは低下
懐古趣味の道楽できる暇な鉄オタ系以外に需要がない 首都圏対北海道は、鉄道側が40年前に完全に負けを認めたようなものだからね
その時から既に40年も経っているというのが、時の早さともなるんだろうけど >>340
夜行急行狩勝は自由席が連結されてなかったのでワイド周遊券や立体周遊券では無料で狩勝へ
乗れなかったので釧路方面は毎回普通夜行からまつに乗っていたけど昭和55年10月1日にからまつが
廃止されると夜行急行狩勝にも自由席(しかしたった1両のみ)が連結されて北海道ワイド周遊券で
も狩勝の自由席に乗る事が出来て有り難かったよ。
>>343
1983年くらいまでは学割で大幅に値引いた(冬季なら更に割引)北海道ワイド周遊券があれば
20日間道内の国鉄線と国鉄バスは乗り放題で札幌を基点に4方向(函館、稚内、網走、釧路)へ行く
客車夜行列車が走っていたからコスパは最高によかった。
>>344
1980年で首都圏対北海道のシェアは飛行機9割・鉄道1割で青函トンネル開業して北斗星が3往復
走るようになっても対比は変わらなかった。 >>345
あと2年で、東北・上越新幹線が開業してからもう40年になってしまうのが、本当に信じられない
自分の中では、開業直後の記憶が未だに何となく残ってるよw
この2つの新幹線が開業して、東北・上越方面の夜行列車を取り巻く環境も
一気に激変してしまったよなぁ 幸風 って事じゃない?その後使われない語彙だよね。時代背景としては悲惨な戦後復興が
ようやく軌道に乗ってちょっとだけこのまま頑張ると少しは幸せな事もあるのかな、って思えるようになったのを風に例えたんじゃないかな?でもまだまだまだまだ厳しい暗い時代だったと思うよ。 >>346
東北・上越新幹線開業は最初は大宮暫定開業でしたなぁ、大宮暫定開業と
上野暫定開業は多くの夜行列車が廃止や臨時格下げになって旧客や10系寝台車
もが消えてゆく運命だった正に改悪とも言えるダイヤ改正でした
>>347
列車名の由来では幸風(さちかぜ)という爽やかなイメージから
列車名では1971年より1975年まで札幌〜旭川を運行した急行列車にも使用
1972年の札幌冬季オリンピック計画で大会成功でよい風が吹くように銘々された噂もあり https://youtu.be/b9WKC5sT9Z4
ここにスハネ30とかナハネ10とかスハネ16とかを
感じて欲しい。昭和57年は過ぎて無くなっても、
そこに我々が何かを感じようとしているものは
不朽なのだ。
ちなみに花巻電鉄っぽいのはリアルにいる。 >>348
東京−長崎、元々は富士だよね。で、戦後に平和やさちかぜみたいな当たり障りのない
名前をつけて急行を走らせ始めた。そういう時代だったんだろうな。つばめや富士でもダメという
>>349
なにが改悪だったのかわからん。新幹線開通に余計な時間がかかったおかげで上野口に
10系ハネや旧客があの時まで残ってくれてたというのに
自分の嗜好に合わないのは改悪とか言ってると老害って言われるから気をつけろ 特急さちかぜ(昭和32年10月1日〜昭和33年9月30日)。
特急平和(昭和33年10月1日〜昭和34年7月19日)。
特急さくら(昭和34年7月20〜平成17年3月1日)。
特急さちかぜ は あさかぜ と名前が似ていて紛らわしい ということで、
1年後の昭和33年10月1日ダイヤ改正で愛称を特急平和へ改めて
短命に終わった記述がどこかにあったような?。 さちかぜは今の福岡県警のヘリコプターの
名前として使われちょうごたるね。
北九州で好まれる名詞なんやろかね。
因みに九州の方言で、さっちが、っち言う。
今あまり急ぎで無さそうな事先にしてると
そげんこつさっちが今やらんといけんとな?
って文句言われる。
( ^ω^ )ツマンネ 九州関係なくね?
北海道の特急いしかりの候補名でヘッドマークまで作ってあったわけだし
そのマークをつけたテールライト外付け改造前の485系1500番台の写真を
どっかの本で見たことがある さちがぜは見た事ないけど平和なら昭和58年7月24日に14系座席車12両+オシ14で
東京〜大阪〜東京をロイヤルエンジンEF5861が牽いてる姿は見たことがあるくらい このスレには桜島や高千穂で東京〜西鹿児島をフル乗車したツワモノはいないのかな? >>358
日豊線経由の特急「富士」で、
東京〜西鹿児島を24時間ちょっと掛かって、
乗り通した事はありますが、
急行「桜島」や「高千穂」は残念ながら・・・・・
代わりに青函連絡船で、
沈没した洞爺丸には乗船したよ。 >>358
359のお兄さんと反対の左周りの特急「はやぶさ」で、東京〜西鹿児島を21時間掛かって、
乗り通した事はありますが、原型と言うだけでこの前まであった24系25型だし何の自慢にもなりませんね。
急行「桜島」や「高千穂」は残念ながら
若すぎて見たこともない。・・・・・
オヤジに連れられて75.3前にも写真は撮ってたから、狙えば見れたんでしょうけどね。
鹿児島に帰る婆さんを送りに行った時に長崎編成も混ざったはやぶさは見た事があります。
幼児には荘厳な20系は怖かったなあ。 高千穂は、東海道は昼行で山陽が夜行になるから東京からだと「夜行列車」の印象が薄いんじゃない? >>358
自分は1977年7月にはやぶさ(東京16:45→西鹿児島14:42)で西鹿児島まで行って
岐路に富士(西鹿児島9:41→東京10:10)で東京まで乗った事はあるけど乗車日の
約9ヶ月前に新製配備された24系25形だったので約5年前まで臨時北斗星で走っていた
同系統の車両なので>>360さんの言われる様に何の自慢にもならない。
祖父母が和歌山県の那智勝浦町に住んでいたので年末年始や旧盆には急行紀伊や
寝台特急紀伊(急行那智にも乗ってるはずだけど記憶にない)に乗ったけど
流石に桜島や高千穂には乗った事がないよ。 そもそも そんな事で自慢されてもね・・・
懐かしスレなんだから 過去の思い出に浸ればいい
ブルトレブームの頃は脚光浴びて賑やかで楽しかったじゃないか
それでいい 最初にはやぶさで西鹿児島へ行って帰路で富士に乗って東京方面へ
帰る人が多いようだけど自分も同じパターンだった 富士の東京駅発が
遅いために早川駅以西で車窓から海が見れないのが要因のひとつで
西鹿児島到着が富士だと18時過ぎと遅いのが岐路に富士を回して往路は
東京駅発が早いはやぶさを選んでいたけど他の人も同じ理由かな? 夕食、車内調製の弁当で夜食、朝食でいいならあるぞw
大分折り返しで昼食時間帯は繋がってなかったからな
ちなみに弁当はうなぎ弁当ととんかつ弁当の二択だったと記憶している >>361
戦後生まれの団塊の世代ですよ。
青函連絡船の洞爺丸に乗った時は、
上野〜青森が急行「北斗」C寝台で、
道内の函館〜札幌方面が急行「まりも」特別2等車の乗り継ぎで。
洞爺丸は寝台船室だったから、
123等時代の1等だった筈。
会社が日本交通公社のお得意様だったから、
丁度余った寝台券を当てがったのだろう。
乗車券は「異」のゴム印が押された黄色の1等切符。
ついでに質問すると、
宇高連絡船の「紫雲丸」に
乗船経験がある方はいませんか? >>366
富士の食堂車で3食食べたよ
夕食:関門定食
朝食:和朝食
昼食:焼肉定食 >>369
昼メニューはどうしてたんだろうね。
朝や夜と同じというわけにもいかないだろうから、夜から何点かピックアップした感じだろうか。アラカルトは絞って、焼肉定食にカレーにサンドイッチみたいな。 業務スーパーに5袋300円くらいの業務用レトルトカレーが売ってるんだけどエサとしてはなかなか美味くて
ちょっとハマってるw なんか立ち食いそばに付いてくる
カレーみたいな感じなんだよね。
そして富士の昼食というか夜の含めて軽く食べるなら
こんくらいで十分って感じがせんでもない。
オーシャン東九フェリーなんぞはご飯麺含めて完全
冷凍レトルトなんだからそりゃひどいもんだ。 >>369
クルー以外で、三食ハチクマな猛者がいたのかどうかは気になるw >>370
昼専用の幕の内弁当があって他にカレーライス、カツカレー、スパ
ゲッティーと焼肉定食にひとくちカツ定食やハムサンドイッチなど
昼に食堂車を利用する人は少なくて車内販売の駅弁が安いせいかも?
車内で作るハムサンドイッチは車内販売品と同じ内容だと思う
食堂車ではお皿にナプキンを敷いてサンドイッチを盛り付けていた
昼食を済まして1時半くらいに食堂車の写真を取りに行ったら車掌と
食堂車従業員が遅いお昼ご飯中でコックさんの一番若い人が自分が
首から提げていたオリンパスOM1を見て俺もカメラ好きだよって
話になってコックさんは鉄道が好きで食堂車のコックになったそうだ
食堂車スタッフさんや車掌さんからもいろいろ話せて楽しい旅になったよ >>372
食堂車のクルーはスパゲッティーの上に目玉焼きと
ハンバーグが乗った食事をお昼に食べていたよ
車掌は食事は終っててコーヒー飲みながら煙草を
吸いつつ、ノリホ?みたいのを集計していた
翌年にさくらに乗ったら朝の朝食営業の前にオシ14
を通り抜けたら車掌がどんぶり飯の上に目玉焼きと
福神漬けが乗った"はちくまライス"を食べていた
一般旅客はメニューにない物は注文できないと思うけど? ランチが食べれる頃の「はやぶさ」や「富士」に乗ってみたかったよ ハチクマが乗務員用の裏メニューであることを知らないヤツがここに来るなんてあるのか? その裏メニューを乗務員以外で&食堂車の車内でしっかり食べた
真の猛者もいるのか、って意味合いで
関係者と非常に親しい関係でないと、当然無理だろうけど ハチクマライスなんて貧弱な物を食べなくても金があれば
当時の食堂車にはもっと美味い物があるから無理して頼む奴は
貧乏人か常識が分からないバカなんだろうなw アホクサ 知ったかのすくつ()のスレなのに、今さらナニ言ってんだよw スパゲティベロネーズも食堂車と日本食堂独特のメニューだったのに
あんまり注目されないよね
1年ちょっとであっという間に消えた神田鉄道倶楽部でやってた程度で 絵入りテールサイン派
文字テールサイン派
あなたはどちら派? >>381
絵入りテールサインの方が好みかな?でも国鉄独特な文字を使った文字テールサインも捨てがたい
自分は客車のテールマークより牽引機関車に掲載している丸いヘッドマーク派だと思う >>381
20系の 日本海 あさかぜ 安芸 あけぼの などは文字の最後尾バックサインがよかった
絵入りテールマークは 富士 が好きだけどそれぞれに良さがあって想い出もあるから
文字テールマークか、絵入りテールマークどちらかを選ぶのは難しいと思われる 初めて見た14系座席車・最後尾の「急行」サイン
特急みたいに列車名を入れないので華やかしさはないけど
じっと急行サインを見つめていると男の哀愁に似ているようだ
20系の急行サインはそれなりに旅情みたいものがあるけど
雲仙 西海 阿蘇 くにさき と季節列車や臨時の十和田1号や
銀河51号の急行マークは簡素化されて近くまで行かないと
急行の表示が見えないもどかしさがいいのかも知れない テールサインは、サイズとも大きく関わってくると思う
やっぱりサイズが大きい20系(切妻でない緩急車)は、文字だけであっても特に印象に残るのかと 20系の最後尾テールサイン(切妻貫通形のナハネフ21やナハネフ23を除く)は
大きくて横幅サイズが大きいので列車名でも急行表示でも太い文字を使っていたので
遠くから見えて判別できたのが良いと自分は思っている
個人的には20系に限り、文字マーク押しだけど20系のテールサインに限って言えば
絵入でごちゃごちゃにするよりシンプルな文字マークの方がすっきりしていると思われ >>381
それだけじゃ寂しいと言って地元の小学生だったか中学生が
テールマークのデザイン案を門鉄局に送ったら
それが採用されてしまった「かいもん」「日南」は? >>381
それだけじゃ寂しいと言って地元の小学生だったか中学生が
テールマークのデザイン案を門鉄局に送ったら
それが採用されてしまった「かいもん」「日南」は? >>373
昭和50年代初めのジャーナルに昼間帯の「富士」の食堂車の写真があった。
ヒルネがあったのかは知らないが、東京からの利用者もあらかた降りてしまったであろうに、結構メニューがあったんだな。カレーとサンドイッチくらいかと思っていた。
新幹線以外の食堂車で昼飯食ったのはトワイライトとアムトラックだけだな。 >>388
銀河は絵入りでもバランスのよいデザインでしたね
白地に急行の文字よりも車体色と相まって一体感があった 特急は食堂車ありが鉄則とすると、当時有明も営業してたんだよね?九州島内での営業体制が出来てたとすると有明が1本多いだけの事で大した負担にはならない? 20系急行銀河の急行表示文字テールマークがよかったな
銀河意外にも新星、天の川、十和田、ちくま、だいせん、さんべ、
かいもん、日南の文字マーク 急行 EXPRESS 表示もよかったが
ナハネフ23のマークは頂けなかった
初めて20系急行の誕生は1976年2月20日からで、20系だった
特急つるぎ が同年同月同日に25形投入で余った特急つるぎ の20系を
そのまま急行銀河に当てている。 505 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/10/15(木) 02:28:46.69 ID:jmMwIwCI0
https://i.imgur.com/PWA4x2L.jpg 14系能登、189系妙高、183系アルプスは最後まで絵入りにならなかった。 >>394
昭和50年3月まで583系3往復全列車営業してたよ。
その改正から新幹線接続特急で10往復になり、エル特急に指定され485系3往復だけ食堂車営業。
昭和55年10月改正で食堂車廃止。 >>397
定期夜行列車では14系妙高、14系八甲田、14系津軽、
583系津軽、485系津軽も同じであった 共通するのは東日本の夜行急行か
他は全て絵入りマーク >>402
メモリアル能登は1997年5月31日から6月1日にかけてRSEC(鉄道資料交換会)が
企画立案して実際に運転された団体専用列車だけどEF62と岐路のEF63には絵入り
マークを基にして作成したヘッドマークが機関車に取り付けられたけどスハネフ14
のテールマークは団体の表示が入っていたよ。 ああ、だめだ。90年代の話題とか新し過ぎて
ついて行けない。生ヌルいと言うか、ギラギラ
して落ち着かない、それでいて退屈である。
日本の鉄道はJRになって終わったのだ。
よーしパパメモリアルに乗っちゃうぞー、とか
もう見てられない。機関士なんか手を振って
ガキンチョに愛想振りまいてるし。
あのなー国鉄というのは局報ひとつの上意下達で力強く動く組織でしかしもっと殺伐としたものんだよ。国電田町駅の東京方面で65PFブルトレ待ってると、近所の慶大の女2人ずれが、何?何この人達撮ってるの?つうとのうひとりが、電車撮ってるみたい。。とか言ってヤダーって、この根暗野郎どもって少し侮蔑のこもった笑いをする。ああそうだお前らと俺とは生きてる世界が違うんだよ。ほっとけ。 と思うと
東京駅で駅員がこっち見て、お前あと1センチ
線路側にはみ出て出発信号機見れなくしたらしょっぴいて鉄道公安室に連れてくぞって目をしてる。そうしたピリピリした殺るか殺られるかの殺伐としたのがいいんじゃねーぇか >>402
リバイバルトレインや懐かしの○○は除外でしょ?
団臨(団体専用臨時列車)など論外だと思うよ
>>403
Rsecもヤラセが好きな団体だったな
定期列車ニセコのDD51にマーク付けたり北上線
迂回のあけぼのDD51にマーク付けたのは評価する
>>404
レス職人乙 久々に出会えて懐かしいよ
局報懐かしいな、南局と三局共通を東鉄書店から
とっていたけど工事や起電停止などの情報も多くて
国鉄の内部資料なので捨てる時に苦労したわ 道内管内の北斗星のヘッドマークはなんで斜めっていたんだろう? 中で回るからね
表の透明アクリルの内側が結露してることもしばしば 缶ではなくて看だろw
出雲のHMみたいにしっかり作ってないからな
金がないJR北海道だから仕方がない 北斗星元年に1号に乗ったら団体の真ん中にぶち当たり、どんちゃん騒ぎで眠れなく、盛岡手前ぐらいでようやく静かになったら、トンネル進入時に再び喧騒、万歳三唱。
函館で団体が降りて、さあ眠るぞと思ったらヒルネ解放。
・・・ついこの間のようだ >>413
あったよ
北斗星が開業した年は函館からヒルネ客が多くて14系座席車を函館で増結したほど >>413
函館から
ttp://pbs.twimg.com/media/Cy6a4y_UUAAD0bk.jpg
ttp://pbs.twimg.com/media/DO-3Ug3UEAAAKFw.jpg 車内宴会やら万歳三唱やら黙認しておいてヒルネ解放するから起きろなんて、全く承知できないと車掌に文句垂れたら他号車未使用寝台を使わせてくれた
しかも札幌駅で運転士からDD51のデッキ上で記念撮影してもいいよと言われ、ヘッドマークの後ろでシャッターを切ってもらったので、すごく印象深い >>416
宴会の時点で先に車掌に言えば良かったのに。 文章にしてみて自己中な考え方の屑っぷりに投稿をやめようという気にはならんかったのだろうか
宴会の件はともかくヒルネ扱いになる号車を取ったのお前じゃん 宴会客って、スハ25がタタミのお座敷だったら面白かったかもなあ >>418
ヒルネ扱いの号車はヒルネが始まる函館までしか寝台券を発売してなかったはず
ヒルネにあるのは事前に判って乗ってたはずで、ヒルネ解放するのはおかしいと文句つけたとか言ってることが無茶苦茶だわな
…嘘臭くね? 北斗星1号の函館着は四時台だったはずだが、そんな時間に1両分の降車客がいるのか当時から疑問だった。 北斗星が開業する前日までは函館駅朝4時台の特急も走っていたからねえ 樺太鉄道の大泊18:45発 豊原経由 7:26敷香行きの話題はここでよござんすか? 上野出た時点で電化さえされてない時代に、上野青森で24時間近く、青森稚内でまた24時間、船に乗って樺太に上陸して更に夜行で一晩ってどんな旅だったんだろう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています