そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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>>76 第一次大戦末期頃、スペイン風邪というのが今のコロナ以上に日本含め全世界的にパンデミックを引き起こしてたんだが。 国鉄の優等列車の禁煙車は、当初は自由席にしかなかった事。 特急料金の初乗りが「400kmまで」っていう時代があった事。 グリーン車やA寝台の料金に、通行税(10%)が課せられていたこと 上野や八幡にも京成百貨店があったこと(ただし、八幡のは「京成雑貨店」と揶揄されるほどショボショボだった) 雪が降ると関ヶ原がネックで新幹線が遅れ、2時間境の心理戦が繰り広げられていたこと。 りんかい線は開業当初全列車4両編成だった事。
当然コミケの時は地獄絵図だった。 2車体連結のEH級電機? 無駄無駄! EH10で懲りたでしょ
電気式ディーゼル機関車? 駄目駄目! DF50で懲りたでしょ 垂水(たるみ)ではなく、垂水(たるみず)という駅があったこと。
長谷(は せ)ではなく、長谷(ながたに)という駅があったこと。 ボロボロの古い地図帳を見つけた。
大隈線がまだ古江線で、三江線がまだ三江北線、三江南線の頃の地図。
熊野平が駅で・・
あ〜なんだか目眩く。 軽井沢から先が非電化。
北海道は・・
あ〜やっぱり目眩く。 トイレがウンコしぶきの時代。
窓開けて駅弁なんぞ食ったら中毒になりそうな時代。
なのに、乗ってみたい! 「停車中は(トイレを)使用しないで下さい」の注意書き。
あと、「上野―大宮間では使用を御遠慮下さい」ってのもあった。 >>90
十津川シリーズの再婚列車殺人事件では青酸カリだっけ? 特急「さざなみ」が、東京―館山・千倉間を1日9往復してた事。
(当初非難轟轟だったものが、今の有様と比べれば”立派”に思える) >>86
2車体連結のEH級電機 増えてる
EH200、EH500、EH800
電気式ディーゼル機関車
DF200で出力約3倍にパワーアップ >>95
それが最初は、「こだま」限定の16号車だった事。
(昭和55年10月に以下の変更、
「ひかり」にも禁煙車設置[+5号車を指定席から自由席に]
「こだま」の普通車指定席を1〜4号車→13〜16号車に移すと共に、禁煙車を1号車に) 特急「新特急なすの」、特急「新特急草津」など列車名に新特急という名称が入った特急列車
これらの特急列車は165系の急行電車の車両を185系に置き換えただけで、停車駅も急行時代と
ほとんど変わらなかったこと 新たに格下げした特急というクラス、つまり従来の急行。
という意味の新特急。 その185系の登場当初、国鉄は
「『踊り子』の全てがこの新型車両で運転というわけにはいかない」
って詫びてた事。
こんな車両になる位なら、「古くても」183系の方がよっぽどましだったんだが。 かつて、阪神電鉄にステンレス車体のジェットカーが2両だけ在籍していた EF200、EF500という、変電所を破壊する無茶苦茶な機関車があったこと。 185は8なのに窓が開くことは、さすがに覚えてるかw 北陸本線でDD50という2車体連結のディーゼル機関車が活躍していたこと >>104
DD50はEH10と異なり、あくまで重連で、
どちらか1両のみでも使用可能なこと >>102
今日はEF200の一周忌
平成に生まれ、平成に没した 20系のトイレは、薬液と混ぜて粉砕して放出していた。
いまいち意味不明だが、ストッキングが詰まって故障していた。 24系25型(2段式B寝台車)のトイレは、2箇所のうち1箇所が、通路と直角に向けられた事。 >>103 189も客室内の一部の窓を開けられるんではなかったっけ? >>100
185系踊り子がE257系なら183系踊り子はサフィール踊り子みたいなくらい183系は快適だったからな 新幹線(0系)には、かつて車両の真ん中に非常口があった 内房線直通快速は、千葉と木更津の間は五井しか停車しなかった。蘇我すら通過。
少しずつ停車駅が増え今では通過駅が巌根だけに… >>110
189系のそれはあくまで非常用で、185系とは意味が違う。
>>112
非常口は0・1000番代だけで、2000番代では廃止された。 赤羽線のラインカラーがカナリアイエロー(黄5号)だったこと 埼京線に呑まれる前の赤羽線のローカル感、もうわかんねーだろーな〜 南武線にウグイス色やスカイブルーの色とりどりの混色編成が走ったいたこと。 >>91
「使用中に停車しないで下さい」という落書き 185系の東海道線上り普通列車
10時頃に東京に着いた
一度も座れなかった
あれ、いつまで走ってたんだろ? >>103
8が特急という概念ももう薄れたな
JR東日本も何故か5だったし
最近は5を使いきり、6になった
6って急行型だろって思う >>118
それ見て、
「じゃ、そいつが降りる駅が近づいたら便所行ってやる(”大”の方)」
と思ったりもした。 主に浜松町駅(他に恵比寿も利用)を起点とした山陽、九州、
北海道方面向けのカートレイン列車
20系や14系の寝台車が連結されていた
20系はA寝台を連結していた
バイクを載せたMOTOトレインもあった >>122
京王の準特急てのも微妙。
Semi LTD. って表現、外国人に異様にウケるw 新大阪駅の新幹線ホームは、「1番線」から付番されてた事。 >>132
昭和60年3月に、工事時点での「0番線」が設置されたのを期に、
これを「20番線」、元の1〜6番線を「21〜2
6番線」に改番した。 かつて、東武伊勢崎・日光線の無料優等の主力が「準急」だったこと
日中に浅草・北千住から伊勢崎・新栃木まで乗車券なしで
直通できたこと
伊勢崎線に東武動物公園から先も通過運転する無料優等があったこと かつて、東武伊勢崎・日光線の無料優等の主力が「準急」だったこと
日中に浅草・北千住から伊勢崎・新栃木まで乗車券なしで
直通できたこと
伊勢崎線に東武動物公園から先も通過運転する無料優等があったこと うんこ撒き散らかしの線路の横から給水した水は、消毒中ランプが点いていないと、
飲んだら死ぬで。 >>140
どういたしまして。
で、その新大阪駅(在来線)に関しては、
「特急が停車して新快速(分類上は”普通”)が通過」
という時代があった事。 >>135
それ以前には・・・(旧・ドリフ時代の出来事)
・坂本九(1958)
ボーヤとして加入後、正メンバーに昇格するも?
間もなくしてメインボーカルに成れないことから脱退「パラキン」に移籍
・小野ヤスシ(1959-1964)
碇矢との確執からクーデター劇で飯塚、吉田、猪熊、祝らを引き連れ脱退
「ドンキーカルテット」結成、ドリフが今のメンバー構成になる切欠を作った
・木の実ナナ(1961-1962)
専属シンガー(準メンバー相当)で主に前歌担当 ドリフがもともとは演奏しながらギャグをやるコミックバンド中心の活動だったこと。小野ヤスシはバンドにこだわりたくてコント中心に移行しようとするいかりや長介と意見が合わなくなり脱退した。 いかりや長介死去の時は2ちゃんねるのあらゆるスレにいかりや追悼スレが立ち各板の住民達がスレ違い関係なくいかりやを追悼した事 271系電車による9両編成はるかが明日
4月1日(水)からこの板の仲間入りする事まさに志村けん発病から死ぬまで位な事 北陸鉄道がかつて小松線、金名線、加南線など石川県内に多くの路線を有していたこと 「列車に乗って何処にでも自由に移動出来た事」
てな状況が刻一刻迫ってそうだな 「病客車」なんてのが復活しなければ
良いが・・・。 筑波鉄道と鹿島鉄道は、関東鉄道から分社化して発足したこと >>135
そのうち、志村けんがドリフにいたこと
と言われるのかね? >>158
それより、ドリフターズの存在自体が。
一番若い志村で70なんだもの・・・ 35年前、蒲原鉄道が、2区間だけ残して廃止された事。 ゴーンがレバノンに逃亡したこと
もはや話題に上がらない コロナによって忘れ去られたもの
ゴーン
グレタ
飯塚幸三
ミルクボーイ
逆煽り運転
100日ワニ←イマココ >>167
「高輪関所」にすべきだったね。
宮脇さんが生きていたら嘆いていたと思う。 山陽新幹線「ひかりレールスター」が、運転開始初日に車両故障を起こしたこと >>167
むしろ品川こそ「品川ゲートウェイ」だろと思う カートレイン九州、カートレイン北海道など、マイカーを貨車に搭載し、
ドライバーや家族は貨車に連結された寝台車で寝れる寝台列車があったこと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています