そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 9
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東海道新幹線で、各国の国会議員を乗せるため先頭車と最後尾車以外の車両は全てグリーン車の編成が走ったことがある。 >>178
さらに追加
安全ピン
仲川遥香が甥を施設に預けたこと 去年の台風で水郡線と阿武隈急行と上田電鉄と箱根登山鉄道が不通であること 箱根登山鉄道は7月復旧だが今後の情勢によってはこれも忘れられることになるのか >>177
厳密にいうと、両端の2両ずつが普通車で中間の12両がグリーン車だった。 >>189
治っていたら逮捕されている。
逮捕されていないってことはまだ治っていない。 東北新幹線の各駅停車が「あおば」だったんだよね。
当時変な名前だと思った。 ということは生き残った京アニの人も治っていない人がいるってことか。 京阪宇治線の車内から事故現場のスタジオが見えた事。 15年前、スピードオーバーになった列車が脱線して、付近のマンションに激突した事。
しかし、この時の死者数も、今日の状況からすれば、微々たるものに見えてきちゃいそうな事。 鉄道でも「あおば」という名前は碌なモンがない
田都の青葉台駅はよく人身が起きてた >>190
やけどしなければ、何食わぬ顔して帰宅して今も普通に生活してた? >>195 かつては年間交通事故死者数が1万数千人いってたから(現在はその半分強)、それに比べると日本の新型コロナの死者数は格段に少ないが。
普段、安全と思われてたものが事故によって瞬間的に大量の死者数を出すから注目される。感染者数、死者数が急増している新型コロナも同様。 >>197 あれは板谷峠を登る181系つばさの暖機運転のために動かしてたんだっけ? >>200
何の目的で設定してたかは分からないけど、誰か知ってるんだろうか…?
それにしても、こんなローカル特急(と言っちゃ失敬だが)でも食堂車営業してたのは、今にして思えば凄かった。
あと「1両だけ自由席」ってのも鮮烈な印象だった。 >>何の目的で設定してたかは分からないけど
盛岡通らないけど、このルートが仙台・秋田間の最短ルート。急行2往復に特急1往復してたっけ。あおば廃止後は急行3往復になる。
東北新幹線が無く田沢湖線も電化されて無かった頃、東京から盛岡経由田沢湖線で角館まで8時間位かかってたような。観光で気軽に行けるようなところではなかった。 そういえば、「つばさ」って、その時々で最新の車両が使われているねぇ。
キハ82系、キハ181系、485系1000番代、いずれも最初の投入列車だったはずだし、
新幹線になって、400系ももちろん最初。
E3系で初めてお古が回ってきたってことでいいのかな? >>203 キハ81ははつかりが最初、キハ181はしなのが最初。 >>202
現在の小町95.96号のような立ち位置で、ビジネス客を中心に結構人気が有った列車らしい。 >>204
当時のはつかりは東北本線でなく常磐線経由だった事 上野から長野経由で大阪まで特急列車1本で乗り換えなしで行けたこと。 奥羽本線の福島〜米沢間と仙山線の羽前千歳〜作並間は直流電化されていたこと 「その特急が停まる」って勘違いして糠喜びの町があった事。
いざ来た特急列車は、「止まる事は止まっても」、ドアが開かず…。 E991系「TRY-Z」
俺もこの間、たまたまネットで651系と並んでる画像を見付けるまで、
この車両の存在、忘れてたよ。この車両、試験車ながら新幹線車両と
見違える外見で、当時のファンたちは驚きだっただろうな。 >>206
そっちにしないと余裕なかったとかかね? >>204
キハ82系(がっかりキハ81ではなく)、キハ181系については、
「つばさ」は最初の量産車が新製配置された列車の一つじゃない? 「つばさ」は新車だけかと思ったけど、「はつかり」のお下がり(キハ81)もあったんだね。
EF71補機があったから、なんとかなったのか。 >>211
常磐線の方が線路が平坦だから、勾配に弱いSLの全盛期には好都合だったとの事。
キハ81も、あの程度のエンジンのパワーだから、常磐線経由が選ばれたんだろう。 >>212 キハ181の量産先行車はしなのに投入。つばさは最初ではない。 >>212
そのキハ81は「瀕死のはつかり(バレエの「瀕死の白鳥」のパロディ)」とも呼ばれ、北海道初の電車特急いしかりも「がっかりいしかり」「いしかりしっかりせい!」と蔑まれた 新幹線は、早朝深夜とかを別にして、
大概混雑してた(というのがオーバーであれば、乗車率がよかった)事。 キハ81の高運転台が中途半端で、スマートな151系のマスク比してブルドッグ顔になってしまったのは、ダブレット閉塞方式のせいである。 クハネ583はあるぞ。
で、483系は50Hz専用なのに対して、583系は50/60Hz両用な事 余剰食堂車を利用したレストラン
サシ481や581 パーラーカー クロ151の最初の廃車はダンプ事故
国鉄新性能電車シリーズ最初の廃車でもある。 その代替として改造されたクロ150-3(←サロ150-3)もあっという間に181系に再改造で廃形式 モロ181-102 → モハ181-202が、たった3ヶ月で「事故死」した事。 181系になってからも、しばらくは禿げてなかったこと 手書きの153系「こだま」の『かえだま』が出たのも事故の影響。 四国の特急「しおかぜ」、特急「うずしお」の列車名は、山陽新幹線開業前、
山陽本線で運転されていた151系電車特急の列車名だったこと 「つばめ」「はやぶさ」「白鳥」「かもめ」「はくたか」あたりはご存知だろうが、
「はと」「ひばり」もあった。
「すずめ」「かも」「チョウゲンボウ」はなかったと思うw >>232
本日10日は183をすっ飛ばして185人な件 189系来ちゃいました。
瀬戸際峠を超えて感染爆発に突入か? >>253
「しらさぎ」は健在だが「雷鳥」は「サンダーバード」に・・・
なぜカタカナに。「国際救助隊」じゃあるまいし。 >>233
山陽特急時代の「うずしお」もその事故のせいで80系に代走され「うすしお」だの「うそしお」だの言われてたな 「房総ローカル」の上り列車の一部が幕張行だった事。 東海道新幹線の「ひかり」は初代ではない。
1958年に九州で急行の名前に使われている。 その急行の「ひかり」は、大分から豊肥本線を経て熊本、さらに博多を経由して別府に至る
(またはその逆回り)というとんでもない代物だった。
設定当初の名前は「ひまわり」で、後にまた「ひまわり」戻された。 今では、京都・大阪と博多間といえば新幹線しか思い浮かばないが、国鉄時代には山陰本線、
福知山線をわざわざ経由して通しで運転していた特急があった。
京都・大阪から博多に行くのに(またはその逆で)丸々乗る人がいたのかどうか知らないが、
子供の頃、博多から浜田までその特急「まつかぜ」に乗った覚えがある。 昔はそういう、「線名に忠実」な運転区間の列車、ってのが結構あった。
上越線開業後も、上野―新潟間に信越線経由の列車が運転されたり。
「北海」もそうだろうな。
「あさひ」→「べにばな」が、今泉―赤湯間で律義に米沢経由だったとか
(米坂線全区間運転)。 「くろしお」も非電化時代は天王寺〜名古屋の運転があった。
その後も天王寺・和歌山市〜名古屋間の夜行普通列車が存在していた。 延々特急の王者と言えば、青森「白鳥」。
昼間特急にして、大阪から青森まで、上野を無視してずっと日本海側を走り通した。
北陸、信越本経由で上野までの、信越「白鳥」の大阪発が上りなのに対して、青森「白鳥」
では大阪発が下りだった。 その「白鳥」初代は電車ではなく82系気動車だったこと。 博多〜宮崎間を鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由で結んでいた特急「おおよど」
博多〜宮崎間を最短距離で結ぶ特急だったが、所要時間は急行「えびの」と
10分程度しか変わらなかった。 函館―旭川・釧路間運転の「おおぞら」があって、
これは、列車番号上は旭川編成が”本体”だった事
(函館―旭川間3D・4D、滝川―釧路間4003D・4004D)。
食堂車は釧路編成に連結されてたけど。 特急「北海」
函館本線の通称「山線」経由の特急だった >>249
その「くろしお」がキハ81系の最後の舞台だったこと
その後、381系になった「くろしお」のイラストヘッドマークが、
「くろしおう」に見えて仕方なかったこと >>238
雷鳥を英語にしたつもりなんだろうけど、実は雷鳥の英語名はサンダーバードではないんだよな。 >>257
さらにそのせいでライチョウが米国の神話に登場する伝説の鳥「サンダーバード」に似ているから「雷鳥」と付けられた、という誤解も生じるようになった
ただこれは681系登場前からあったこじつけであるが 当然ながら黒潮の英語は「Ocean Arrow」ではない
また「Black Tide」でもない 加藤厚労大臣
出来る人ならコロナ担当大臣も兼任してたはず 「鹿児島本線から筑豊本線へ直通する列車は、貨物線を通過するため折尾駅は通りません
(運賃は折尾駅経由で計算します)」
というような趣旨の記載が時刻表にあった事。
で、索引地図にもその貨物線が示されてた事。 >>260 過労死させたいのか?厚生労働大臣だけでも大変だってのに 東海道本線・山陽本線で運転されていた急行荷物列車
EF58やEF61が荷物車やパレット貨車を牽引し、大阪駅にも停車して、荷物の積み卸しが行われていた。
EF58、EF61は晩年は信越本線から転属してきたEF62に置き換えられた。 両端のクハ103のみ冷房車で中間車は全車非冷房、中間車は冷房車と非冷房車混結の
京浜東北線、山手線の103系 >>265
そのあおりを食って、中間車はピカピカの新車だったのに、クハだけ103系
デビュー時に製造されたセコハンだった森ノ宮持ちの環状線と明石,高槻の
緩行線。 昭和61年11月改正で東海道本線・山陽本線の新快速は草津〜西明石間の
複々線区間では外側線走行になったが、その前年から昼間時間帯に運転される
新快速は外側線を走行する列車も設定されていたこと。 103系ATCの登場で、
小鉄が前面展望の楽しみを奪われたこと >>269
それ以前にその頃の国鉄は終日遮光幕全閉がデフォルトで車種問わず前面展望などできなかったこと。 埼京線、新宿湘南ラインが走っているのは貨物線で、EF15の単機回送なども見られた。 新快速が米原発着になったのは、民営化後の昭和63年3月改正からのこと
それまでは新快速は、米原の手前の彦根発着だった。 長岡京駅がかつて「神足」という駅名だったこと
(鉄ネタではないけど)大阪府はかつてタコが知事になったことがある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています