懐かしの東武鉄道について語ろうパート6
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都営住宅もだけれど、伊勢崎線沿線では
昭和40年頃の日本住宅公団の竹の塚周辺の団地、松原団地、武里団地など、それから
民間マンションや戸建て宅地開発で沿線人口
が爆発的に増えたということか。 >>170
通勤快速、日曜日に都内の祖父母の家に遊びに行くのに狙って何度も利用したなぁ
春日部→北千住間の利用だったけど、
日曜日のせいか各車両座席がさらっと埋まる程度の乗車率だった記憶がある
伊勢崎系統にも通勤快速あった気がするけど、
自分が利用するようになった昭和50年代後半はもう廃止されてた 当時の中長距離は平日も休日も同じスジだったはず(国鉄も) >>171
東京まで乗り換えなしで行けるのと北千住で乗り換えるのとじゃ雲泥の差だろ 通勤快速と言えば見た目が準急や各停だから駅のアナウンスが念を入れた内容が繰り返されていた思い出がある。
これは見た目が快速の快速急行もそうだったけど。
そう言えば東武では全駅停車の列車を“普通”って言ってなかったんじゃない?“各停”とか“各駅停車”とか言ってたが。
自分は電幕が導入された時に初めて東武で“普通”って言葉を聞いたが・・・・ >>178
東京のどこへ行くかによって違うんだけどねえ。 >>180
>>171へのレスなんだから>>178の東京は東京駅に決まってるだろう
まあ>>178は根本的におかしいんだけどな くだんの通勤快速は春日部から北千住まで無停車だったけど、先行にくっついちゃって
しょっちゅう駅間で止まっていたのを覚えています。
ぎゅうぎゅうで長時間閉じ込められて辟易した記憶あり。
昭和50年ころだから、竹ノ塚まで複々線になって少し経ったあたりかな。 >>126
スレチだが名鉄の戦前のターミナル押切町周辺と犬山橋は路面なのに下呂乗り入れ電車や省線客車は垂れ流しトイレだった。 くそ暑い夏の夕方の7800系の下り通勤快速も悲惨だった。
非冷房で汗がタラタラ疲れた足で立って27分。
逆に深夜は6000系の準急なんてのがあり、クロスシート車で
西新井に降り立つ不思議さ 21年前出張からの帰りで北千住から下りの6050の準急に乗った事がある。
無茶苦茶混んでいた。6050が準急に使用される時間帯って大体ラッシュを
避けた時間帯・・・・・・と言う認識があったのでこんな時間でも働いている
人多いんだなあ、と思った。その6050が北千住に顔を出さなくなって
もう1年に成るんだな・・・・・・。 元々終電近くなると職場の飲み事帰りの客が増えて混む上に
クロスシートに短編成ではドア付近にギュウギュウ詰めになるよな。
西新井や草加で降りる人などは中に入り込むと降りられなくなるから
余計ドア付近に固まる罠。ってかあれ浅草から乗って奥のクロスシート
に座っちゃってうっかり寝込んで目が覚めたら降りる駅だったとか
だったらどうなってたんだろう?次の駅まで乗って引き返して来れる
ダイヤだったかな?? 今さらだが、鶴瀬サークルが西山信号所の写真を公開してるけど、これって池袋電車区の貴重な写真じゃね? あの準急は北千住まではまローカル線風情のまったり空間
北千住でたまたま当たった乗客はホームでウンザリしてたな そんなこと言ったら6000の準急や5700の準急はどうよ
5700は正月の大師線にも入ってたことあったな えっほんと? 57大師線。
嘘ついたら針千本のますよ 各社の新型車を尻目に戦前形テイストの78増備。
早晩陳腐化するのが分かっていても『そんなことを気にしている場合でなく』という解説を見るが、誰がなおざりにしたのか不思議に思う。
当時まだ中間層以下社員だった花上さんの著書もその辺は不詳なんだよなあ。
地下鉄乗り入れという外圧をキッカケに、やっとこさ8000系開発や3000系更新とか堰を切ったというのかもしらんが。 東武の通勤車での高性能車両は昭和36年の2000系だから、他の私鉄とそれほど変わらないのでは?
それより平成に入っても5700を使っていたことや、更新車の5000など吊り掛けが長生きしたことが、高性能車の開発が遅れたとの印象になったのだと思う 初物に飛びついて大火傷、他社の開発状況を様子見して安定期になったのを見極めてから導入した。ってことでしょ←新性能車
スペはVとしては割と早い導入だったと思うが大火傷にならず良かったね 191 78が戦前テイストとな。
なるほど
A昭和10年代前半までの作りの良い省線電車
⬇️
Bとりあえず終戦まで持てばいい63型
⬇️
C敗戦直後で金も物もない時の一時しのぎの63型
⬇️
桜木町事故でパンタ壊れ乗客丸焼け、中野電車区民家突っ込みなど
ジメジメくらーい時代
⬇️
D20年代後半、復興が進み少しづつ作りの良くなるの63型
⬇️
E90系試作車出る前位の全金製などの作りの良さ
相棒の7300の下回りなどはまさしくC時代のものだったが、
たしかに7800や更新後の7300のハコはしっかりしたつくり
でDないしE期との認識だったがたしかにA期の戦前テイストとも
言えるのかもね。 東武は国鉄101、103、あるいは西武の101以前のような安物を造らなかったということだろ。 >>195
矢印は不通の記号「↓」で頼むよ
機種依存文字使う意味がない 国鉄101系あたりだと、オールMで登場するも変電所容量から限流値を下げざるを得なくった→
今度は加速度が旧型車以下に→オールMで走らせるのは不経済だから付随車を挟んで限流値を
上げる→結局性能的にはそのまんまみたいなゴタゴタを観察してたんだと思うよ。 >>194
直角カルダンの失敗を教訓に、数をたくさん作る通勤車では新しい技術を導入せず
総取り替えになったとしても損害が少ない特急車でVを量産したのは賢明だったのかも。
加減速の頻度が多い通勤電車をVにして特急車は抵抗制御、っていう近鉄みたいな考え方が
VVVFインバータ装置が高かった当時の常識だったし。
初物に飛びついて大やけどしたのは、そのあと20050・9050で付けたLCD次駅案内装置。
大失敗して撤去して、後に他社ではLCDが標準になったのに東武はなかなか採用しなかった。 >>199
あれは珍しがって画面に触る奴がいたからだよ、あとラッシュ時に手を強く押し付けられたりとかね。 LCDってラッシュ時に手が届く位置にあったの??ラッシュ時は体支えるために
どこにだって触れるからなあ。オヤジはドアの閉まるとこに指がいって
縫うほど血が出る怪我した。東武に言いなよって言ったのになんも言わなかった。 >>201-202
満員のところに無理して乗るときにドアの上の部分に手を掛けるけど、
20050などを作っていた頃の営団の車両だと、下側が出っ張って指が引っかかる
場所を作ってあった。東武にはそれがなかったからな。
ドアの上に手を掛けたらディスプレイ、なんてこと、
背の高い人だとそうなっていたのかも知れない。 東上線の某奥の方の駅・・・
静かな午後・・・踏切が鳴り出す
「荷物電車」が走り抜けて行き、踏切のすぐ先の駅で停車・・・
再びの静けさ・・・
幼い頃に見た遠い日の記憶・・・ 幼い頃、よく利用する東上線の駅で通過する貨物列車を見ながら、この空の荷台に飛び乗れば満員電車使うことなく池袋まで楽勝で行けるんだろうなあ、と妄想していた。 また、小学生の頃、東上線の路線図見て接続するのができたばかりの武蔵野線と、川越駅行っても列車を見たことがない川越線、ずっと奥の方でこれまたローカルな八高線と秩父鉄道だけ。
分岐するのは越生線だけ。京王、小田急、それに東武伊勢崎線に比べ、何てつまらない地味過ぎる路線なんだろう、と思っていた。
地下鉄乗入れに期待をかけていたが、ずっと遠い将来のことと感じてたし。 >>199
LCDモニターの最大の敗因は、当時、モニターを生かせるコンテンツがなかったこと。
当時は、携帯電話でさえ、トンネルはおろか、地下駅でも使えなかった。
そんな時代に、地下鉄車内、ましてやトンネル区間で、リアルタイムでのニュースや運行情報、広告なんて、とても望めない。
で、結局、電光掲示板がテレビになったという目新しさだけで、表示できるのは、あらかじめインプットされた次駅案内と乗りかえ案内、それに動きの少ないアニメぐらい。
地下駅やトンネル内での携帯電話受信可能など、使用環境が整う前に、モニターが劣化して、装置ごと撤去する羽目に。 >>192
新性能はともかく古臭い内外装のままS36まで大量生産したワケですよ。
そのうえ頑丈なだけに長年使用する禍根になってしまった。
巷間云われる『気にしている場合でなく』や『保守の象徴』の主体(主語)が何だったのか、素朴な疑問なだけっす。 >>208
当時でも、山手線の6ドア車両にあったLCDではテレビの文字放送
(ニュースや天気予報)を流してたよ。
CMもあったけど、静止画が多かったw 東武伊勢崎線の高架複々線工事、北千住〜西新井間。
荒川鉄橋は多分、東京湾側に新しい橋脚を建設架橋して、その後に元々あった橋脚をかさ上げして架橋したような気がする。
何分その当時幼少のため記憶が定かでないのですが、ご記憶の方いらしたらご教示願います。 高校のときに卒業レポートみたいのをやることになってて
根古谷線のことを調べたなあ
当時はネットなんか無くて、本当に自分で集められるだけの資料と現地調査だけでなんとか
やり遂げたっけなあ・・・ 荷電。。。
昭和57年の夏休み、伊勢崎本線を爆走するモニを撮りに俺は小菅駅で
カメラを構えてた。程なくして遠くにセイジクリームの荷電が見えた時
くらりと目眩がして一瞬意識を失った。再び目が覚めると周りの様子が
違っていた。駅が地上の田舎くさい駅になっていて枕木は木、
さっき来かけていた荷電は茶色くなっていて、日光行の看板が
掛かってをり、荷電のはずが乗客が沢山乗っていた。 >>213
乗客、みんな骸骨だった。とかじゃあるまいな? >>196
っていうか西武はあまり金掛けた電車を作らなかったイメージ
新2000だって70年代半ばにできた車両の焼き直しみたいなものだったし >>215
昔から質より量の西武って言われてたのに何を今更 >>217
戦前型17m級旧国の足回りに新造車体を載せて客の目を誤魔化してたのが西武。
一応新車で釣りかけとしては高性能だが半鋼製車体で客の目には非常に古臭く映ったのが東武。 まぁ東武にしても、3000系や5000系の例がありますからねぇ。 >>219
それは東武の場合あくまで自社の旧型車の車体載せ替えだけど、西武はわざわざ国鉄から旧国の足回りを買い集めてたって点が違う。 当時は新車を作っても作っても輸送量が間に合わなかったって時代だし
西武は足回りはボロくても車体が新車で綺麗なら少なくとも乗客の評判は良いというのを利用した訳ですな >>221
そして西武には伝説の2M4T編成と言うのがあってだな・・・ 西武車ってエアサス台車なのに吊り掛けとか、ヘンチクリンなのがかなり最近まであったよね。
(近江鉄道に残党がいるけど)
取り付けられるんだって驚かされたけど、東武はその手の流用はやらなかったな。 それだったら小田急のPIII台車付けたツリカケとかも 変態と言えば西武のエアサスDT13とかね、FS-10のトラックブレーキ化、軸受け改造もかなり変態。 >>221
あとはモーターの非力さを何とかするために軽量車体を載せたってのもある>西武 井の頭グリーンのTS117という台車もツリカケでディスクブレーキの付いたかなり変わり種だった 脱線しちゃうけどあの形態が拡大しなかったのは、天候による効きの変動や重量の問題かな?
クルマのブレーキと違いムキ出しだもんねえ。 >>229 T車では台車枠の内側に出来たから普及したでしょ。 >>230
国鉄はディスクブレーキ大好きだったね。
103系までもがT台車はディスクだったんで驚いたものだ 鶴瀬サークルの連中、今度は県営鉄道のことで狂ったことを言い出したな。
だれか介錯してやれ。 >>218
西武の赤電の大多数は
戦前の時点で車体更新(鋼体化)の始まっていた大正時代の木造車と同じ機器(システム)を積んでるというのがすごいよね
でも西武、東武、相鉄、名鉄あたりの大手私鉄の車体更新車はまだ理解できる(京阪は理解できない)
旧型車の更新でおかしいと感じるのは富山地方鉄道と伊予鉄道かな
初期高性能車(車齢30年)にボルスタレス台車おごって10年で捨てた富山地鉄と
車内がニス塗りのつりかけ半鋼製車(車齢27年)にエアサスカルダン+デスクタイプコンソールつけて
そこから23年使った伊予鉄は目の付け所がずれてると思う 結構鉄道会社の経営方針って、長期的に考えてるように見えて、そうでもないからね
特に新車を買う余裕が無い中小私鉄だと、その時の出物に左右されることが多い
中古鉄道車両なんて1点モノみたいなもんだから、良いと思ったのが出たら買っておかないとだから >>235
名鉄の3700代HL車もなかなな凄かったぞ 琴電にプレゼント
瀬戸電に厄介払い
ガムテープで貫通扉を封鎖 考えてみたら、ここ50年以内の東武の車両って、合併や車両製造から撤退して、現存しないメーカーも含めて、ほぼすべてのメーカーで作っているんだね。
作ってないのは帝国車両(昭和43年に東急車輌と合併)と新潟鉄工(現・新潟トランシス)、それに、今の総合車両ぐらい。 >>239
ここ数年の間に川重と近車に発注したから、ほぼ全社コンプリートになってるだけのような。 富士重工のプレート付けた8000系乗ると、ちょっと得した気分だったなぁ 10030系は新車の頃から外板が波打ってたのが富士重工業製 >>241
今は亡きメーカーのプレート見るとなんか特した気分になるよね
いずれ乗りたくても乗れなくなるから 意外にも、東武の押上駅は、東武初の地下駅である(但し、管理は東京メトロ)。 スペーシア(100系)は、アルナ工機製車両では初のJR線を営業運転した車両である。 >>245
アルナ製の貨車はJRに引き継がれなかったのだろうか。 東武鉄道のトップ研究者って名誉館長しか思い浮かばないw >>247
ほとんどの国鉄貨車はナニワ時代の落成で、アルナとしては何両だろう?
コキ50000の1970年度第三次債務のうち、川重グループ製作分45両の一部が該当
同グループとしての最後でもある(以後は川重の単独)
コキ関係は?
川車→川重グループ(ナニワ→アルナ・富士車両と共同)だから事実上下請け
これらはグループ銘板なので、通常の楕円銘板とは仕様が違う
コキ10000やコキ50000などはJRに引き継がれたけど?
ナニワ・アルナ製作分がどの程度あったか 241 富士重工 何とか信託車輌 て銘板が貼ってあった8000があったが
あれはリースだったのかね?? 三井住友信託銀行のプレートじゃなかったかなぁ
いつのまにか見なくなったから東武が買い取ったのかもしれんね >>239
8000の初期車に帝国車両あったんじゃないかな? 滅多に乗らない6000の扇風機にはスイッチがあったのはビックリした >>255
帝国車両はないはず。汽車会社はあったけど。 >>254
8000系作ってる時代はまだ三井住友信託銀行にはなってない
三井信託銀行だな
信託車両は期限が来れば所有権は鉄道会社に移るよ 信託車両制度って、アメリカで盛んだと聞くけど、アメリカは車両がメーカーのレディメイドの場合が多いから成り立つ制度であって、日本みたいな風土には合わないよね。
悔しかったら、借金のカタに東武8000系を持ってけや!って話。
つまらないマネーゲームだよね。 >>261 東京メトロ銀座線の01系も信託車両方式なんだけど。
この方式で冷房付きの新車を大量に入れて、同線の体質改善図ったわけで。 あ、01系は当初は冷房準備車か。こう訂正しとかないと、些細なことに突っ込むしか能がない鉄オタが湧いてくるから。 >>253-254
>>259
信託車両は償還期間が設定されてる、その間はメーカー側の名義
償還時に信託の銘板を撤去され、鉄道事業者側の名義となる
車両もしくは機器メーカー、信託銀行、鉄道事業者の3者間による信託基本協定により
信託契約(メーカーと信託銀行)と、賃借契約(信託銀行と鉄道事業者)
2つの契約により成り立つのが特徴 航空機は機材リース方式が普及しているが、日本の鉄道車両であまり普及してないのは、需要変化に応じて機材を入れ替えることがあまり無いからかな?
航空機は大型機から中型機に転換、ってことがよくあるんだが。 信託銀行に昔、ビッグという5年の貸付信託があったけど、そのお金が信託車両に回ってたんですかね? >>262
営団の信託車両は
三菱電機、三井信託銀行、帝都高速度交通営団の3者協定で
三菱製走行機器に関する信託と賃借 >>261
>>265
最近日本で、車両信託が行われないのは、コンプライアンス上問題があるから
民法の賃借契約などを無視(排除)した契約で、その免罪符が信託の銘板!?
現在では車両リースの方が一般的で
リース会社との契約や、特定目的会社(SPC)を用いたレバレッジド・リース
などの手法がある >>266
信託車両は、メーカーからの動産(車両や機器の現物)による信託
信託銀行には、車両信託による手数料が入る仕組み 8000系も長いこと乗っていない
7年前に亀戸線の2両編成乗ったのが最後だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています