夜行列車総合スレ★14
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
懐かし板への移行の要望が多かったのでこっちに次スレ立てたよ
前スレ@鉄道総合板
夜行列車総合スレ★13 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mevius.2ch.net/test/read.cgi/train/1505558733/ 自分が青春18きっぷが発売になると以下の普通・夜行快速には世話になった。
・函館⇔札幌 普通43列車・44列車(その後の41列車/46列車)
・東京⇔大垣 普通347M・344M(その後の345M/340M→375M/372M)
・新宿⇔長野 普通441M・442M(その後の松本行きや421M上諏訪行き)
・上野→長岡 普通733M(その後の臨時尾瀬夜行)
・名古屋⇔天王寺 普通921レ・924レ(寝台車は南紀→はやたまの名称)
・京都⇔出雲市 普通827レ・826レ(寝台車は山陰の名称)
・高松→窪川/中村→高松 731D・762D(グリーン開放の自由席がお得)
・門司港⇔長崎 421レ・420レ(寝台車はながさき、佐世保編成もあり)
村上行きのムーンライトには165系時代に世話になったけど上諏訪夜行や
ムーンライトながらには殆ど乗らなかった。世代の差なのだろうけど急行アルプスと
言えば165系だったし、急行妙高はまだ旧客だった。名古屋からの山岳夜行の急行
きそも旧客で津軽や八甲田は12系時代が一番多く乗ってる(14系も乗ったけど)。 夜行「だいせん」とかも、本心では「旧客や20系!」と言いたくなるんだけど、
(本からの刷り込みなのかもw)
自分が辛うじて見たのは、最末期のキハ65系リゾート系仕様の編成がギリギリ…
しかも乗った訳ではなく、大阪駅到着だけ
サンライズ以外の定期夜行列車に乗れたか…ってだけでも
世代分断みたいになってしまう…ってのが、最末期の時期ではあれ
実際に複数の夜行列車に乗った身としては、本当に悲しくもある…
「きたぐに」も583世代だし かいもん・日南 は1978年3月から20系+12系に変更
ちくま・だいせん・さんべ は1978年10月から20系+12系に変更 >>550
”十和田3・4号” ”新星” ”天の川” は何年何月何日から? >>548
ほとんどがミッドナイトやムーンライトになったけど、旧客だと18切符ギリギリ間に合うくらいだったんだよな
はやたまは新宮行だったけど58に旧客。ながさきは乗りたかったけど遠かった
441Mや垣鈍は飯田線いくのに使ったし、長岡夜行も北陸旧客乗りにいくのに使った覚えが
>>550
だいせんはナロネを座席車にしたから全部20系。あれもよかった。十和田もそうだな 青春18きっぷは1982年3月1日から発売してるので旧客の夜行列車だと
函館と札幌を山線経由で結んでいた普通列車の43・46レ(41・46レ)と紀勢線
夜行のはやたま、山陰、ながさきがあったけど、はやたまは天王寺〜新宮
がEF58牽引、新宮〜名古屋はDD51でしたね。
733Mは宮内駅で米原駅の長距離旧客普通列車522レに乗り継げたし、小出
駅から只見線の始発にも接続したので便利だった。 >>551
十和田 1977.10.1、201レ・204レに20系に置き換え。1978.10.2、203レ・204レに変更。
新 星 1976.10.1、20系9両に置き換え。
天の川 1976.10.1、20系11両に置き換え。 1975年に北星・北陸・安芸を20系で寝台特急へ昇格
翌年には20系を急行に充当開始、このころが端境期。 >>555
北星:1975年3月10日に20系(12B)化・特急格上げ、1978年10月2日に14系(12B)化。
北陸:1975年3月10日に20系(12B)化・特急格上げ、1978年10月2日に14系(12B)化。
安芸:1975年3月10日に20系(10B)化・音戸を特急格上げ、1977年9月から2段寝台の
24系25形の9Bに変更となるが約1年後の1978年10月2日に特急安芸廃止。 >>552
ナロネ20改造の座席車に4人で座るのは狭かったよ
20系A寝台の日中は2名で使っていたし、ヒルネでも4名では使わなかった 20系のA寝台はよく間違える人がいる
ナロネ20 1人用個室ルーメット+2人用個室コンパートメント
ナロネ21 プルマン形開放式寝台車
ナロネ22 1人用個室ルーメット ナロネ22 1人用個室ルーメット+プルマン形開放式寝台車 >>557
乗ったことないんでしょ
583はその座席配列で昼行特急で使ってたのに
最低でも715とか419で知ってそうなもんだけど >>562
狭いんやなくて向かい合わせが嫌だったと素直に書けばいいのにねぇ>>557 >>561
20系A寝台改造の座席幅が93p、そして583系の座席幅が106pなので
ナハ21の座席幅の方が13p(1人当たり6.5p)狭いことになる。
183系・189系・485系・14系座席車などの2名分座席幅(横幅)が100pくら
いなので>>557の記述はあながち不正解ではないと思う。自分もナハ21は
十和田3号と4号やだいせんでも乗ったし、十和田3号と4号の運用が終わった
後に急行津軽(1982年11月〜1983年6月)でも乗ったけどあの席に4人座ると
やや窮屈だった記憶がある。網棚も無かった時代は荷物の置き場がなくて荷物
が多い時は季節列車の十和田1号(14系座席車)を選んだ事があるよ。 >>565
ついでだからボックス席についても調べてみた。
なんと驚き、急行形165系や455系のボックス席横幅が97pですよ。 >>564と>>566のソースは日本国有鉄道車両設計事務所・NEKO MOOK・
鉄道ピクトリアル・鉄道ピクトリアル別冊・交友社別冊・ジェーアールアール
各社の出版物を参考にした。 >>553
上野発長岡行きの普通夜行733Mはまだムーンライトの設定が無いころに普通夜行列車で
上越線方面と長岡接続の信越線や飯山線などに乗り換える際に便利な列車だったけど115
系は夜行列車には向かなくて上野駅から高崎駅まで帰宅帰りのサラリーマンが利用する
ため、なかなか寝れない列車であった。14系ハザの臨時の佐渡51号もシーズンには運行
していたけど青春18きっぷだと733M利用の方がチープで全車自由席だからチープな旅に
はこちらの方が向いたかも知れない。 ここはどこ?
只今サンライズで移動中
まだ静岡についてないと思うけど >>568
そんな感じだったね。自分も乗った時、座れず荷物持ったまま大宮過ぎるまで立ってたな。
大垣夜行も小田原辺りまではそんな感じだったけど、
平日は小田原から先はガラガラでワンボックス占領できて快適だった。 つまりデブの戯言やったのか
まあナハ21は特急で使ったわけじゃないから別にいいんでないか? 20系の本来の特急運用においての2等車はナハ20、ナハフ20、
ナハフ21だからナロネ21改造の異端種ナハ21なんて車両は
名門20系一族から見れば邪道なのかも知れない。 >>564
座席幅って肘掛けも入ってるんだよな。だからナロネ21でも1000mmくらいになる
14系ハザのR51もシートだけだと970とかじゃないかな。10系からハザも肘掛けが外側にでて
1000mm超えるようになった
ナハ21、シートの奥行きもピッチもあるし、特に狭いってことはないと思うんだが
14系ハザのR51、夜行だといたるところでガッタンガッタンいってうるさいんだよな。ちょっと身体起こす
とガッタンいって戻りやがる
自分はだいせんしかないけど、やっぱりナハ21の方がよかった ナロネ21の座席は荷物置きも兼ねた一人掛けの設計だから、そのままナハ化すると狭いんだな。 >>575
空いている時期で14系座席車の片方の席を回して1BOX占領できるなら
前の席に靴を脱いだ足を前に投げると楽な姿勢で夜行列車旅できるけど
そうも行かない時は20系のナハ21の方が楽だった。
自分はだいせんは未乗で十和田とおがで乗ったよ 20系客車は自由に旅行できる身分になった時にはもうシュプールで最期の活躍を細々としていただけだったな。
単純に急行券買って乗れるような代物ではない乗り鉄苛めの列車だったし、結局20系は乗れずじまいだった。 20系の「シュプール」が運転されていたころは、少なくとも大阪発なら「雲仙」とか「霧島」とかの20系臨時急行は運転されていた。
これらは普通に乗車券と急行寝台券買えば乗れてたから、「シュプール」が乗り鉄イジメ云々とはあまり関係ないだろう。 ヤマケイレイルシリーズ2ブルートレインを見るとナハ21の座席は指摘の通りロネの座席そのままだな 末期(1993年)の20系はカートレイン九州・あおもり・雲仙・霧島が走っていたけど
二段ハネの方が快適だったので20系のB寝台に乗ったのはエキスポドリームが最後。
A寝台では1987年の天の川と1989年のカートレイン九州がラストだった。
>>580
上段寝台撤去と絨毯剥がしてリノリウム床がむき出しくらいしか見た目は分からない。 >>581
1993年ごろは20系を使った臨時急行の"天の川" "玄海" "おが"
"ねぶたドリーム"がまだ走っていたような気がします >>581
上段とっただけじゃなく、そこに網棚つけて間仕切りを真ん中?を残して取っ払ってるでしょ
圧迫感なくなって583に近い印象。窓が違うけど 三段寝台の使いやすさはやはり583の圧勝だわな、レール並行というスタイルにさえ我慢すれば。
どうしても枕木並行よりも違和感があったのは何故だろう >>582
1993年夏臨からは20系の天の川・玄海・おが・ねぶたドリームはすでに設定が無く
て1993年夏では天の川が14系座席車、玄海は列車自体設定なし、おがは24系寝台車
+14系座席車・ねぶたドリームは24系寝台車に変わっているよ。
鉄道ダイヤ情報1993年7月号の夏の臨時列車速報を参照
>>583
そうでした、どうもナロネ21のヒルネとナハ21の座席車が頭の中で混乱してる。
レス番号と話の一部内容が一致してますよ。 鉄道ジャーナルだったかの乗車ルポに八甲田があって、ナロネ改造ナハについた記述
があるから読んでごらん。
言われているリノリウム床や、使用していたシーツは丸めて車掌室に放り込んでいた
とか書かれていたと思う。 >>585
この時期辺りが20系が臨時でもあまり運用されなくなる時期だよな そこまでこのスレが20系客車で盛り上がるなら、
20系客車スレを先に埋めてあげようよ…w 今度京都でオロネ24の車内が公開されるから見てこよ 20系に乗ったのは95年12月の「桜島」だけだな。確か新大阪から熊本まで。狭くて往生した。
臨時急行でもその辺りが最後の運用じゃなかったかな。
平成の初めまでは「日本海」や「あかつき」とかの臨時にまだ使われていたと記憶するが。 それでもかつては“走るホテル”などと持て囃されていたものです。
具体的に何をどう表現していたのかはよく分からんが、
国鉄とマスゴミが癒着してポジ誘導すれば無敵だったのか >>591
20系の臨時寝台特急は日本海81・82号、あかつき81・82号、明星が1990年まで走ってた シュプール乗るんだったら1日位スキーしろよ
訳のわからん行動する鉄あ >>それでもかつては“走るホテル”などと持て囃されていたものです。
具体的に何をどう表現していたのかはよく分からんが、
国鉄とマスゴミが癒着してポジ誘導すれば無敵だったのか
60年前に戻ってみたら? >>596
20系(電車・客車)も、登場から60年なんだよなぁ…
1950年代→60年代の発展(新幹線が筆頭)が、
ある意味革命的だったのかもしれないけど >>595
1993年2月のシュプール戸狩・野沢に乗ったら碓氷峠(横川〜軽井沢)を越える
最後の客車冬臨だったので車内はスキー客よりも無線機片手の横軽無線を聞く
鉄ちゃんばかりで異様だったよ
横軽無線
https://www.youtube.com/watch?v=n3ryRb1RwKI >>596
>>597
20系電車(後に151系へ改称)が登場したのも20系客車が登場
したのも1958年だから今年で60年間だし、20系電車は日本の
特急電車の先駆け的な登場は革命的だと思うし、20系客車を含
めて日本鉄道史に残るパイオニアだよね。 >>598
スキー列車だからガヤガヤしてたんだろうけど、もし録音しているヲタから静かにしろだの言われたらゲンナリしただろうなぁ。
やっぱりスキー列車はスキーヤーだけの方がよさげ。
もっとも、軽井沢には用はなかったものの移動手段として「シャレー軽井沢」を使ったことはある。 >>600
音響で負けてカーナビメーカーになった老舗企業ですね JRの放送で【マナー守れ】【安全のため】とよく言うのは、【自己保身】のため。計り知れない数の事故を起こしていることを誤魔化せるから。
衝突、架線柱ポッキン、脱線、転覆、変電所火災、線路陥没、架線切断などの事故を起こしても構わなくなる。乗客を長時間車内缶詰しても【マナー】【安全】と言えばメンツが保てる。
【事故】を【トラブル】【点検】【確認】という放送は悪質な隠ぺいだ。
過去の事故を教訓にしないどころか、【工作員活動】【世論誘導】【責任転嫁】に血なまこだ。
JR関係者は中国や韓国へ行って反日活動をしている。検索すれば画像が出てくる。
JRはテロリスト 革マルが浸透している。
一方不特定多数の乗客は
悪いことしてないのに【パワハラ】な放送を聞かされる
歩きスマホや黄色い線踏むことがまるで大事故のように洗脳を行う。 >>597
ほぼ同い年のピンク・レディーが還暦だからなw >>600
福音商会電機製作所から始まった会社ですね 分かります 高周波、チューナーが強かったパイオニア
エアチェック文化が廃れて特にやられた
あけぼのBソロは3.5mmジャックのヘッドホン持ってると音楽が聴けた、夕焼け空を眺めながら聴くイージーリスニングは音質はともかく良かった 鉄道系板でパイオニアと言ったら台車の外側でブレーキディスクがくるくる回ってるやつじゃないんですか ジョイント通過するときに安っぽいガチャガチャ音が鳴るのがパイオニア台車 おっぱいマニアを略して
パイオニアかと思ってたよ…。
勉強になったわw >>616
女性二人組でオッパイが列になるからパイレーツだっちゅーの 思わず「お〜山〜がふ〜たつあ〜りました〜」って、どこかの絵描き歌の冒頭が思い浮かんだw >>611
>>613
東急車輛のパイオニア台車と言えば外側に露出しているディスクブレーキ
相鉄(相模鉄道)の1000系ではあのディスクが脱輪して問題になった
いまは東急車輛もJR東日本に譲渡されて株式会社総合車両製作所になったがw パイのパイのパイ
チンチロリン
プリンプリンプリン
ブーラブラ >>623
╰⋃╯ そろそろ夜行列車の話題に戻そうぜ
って事でお題を振ろう・・・
みなさんの想い出に残る夜行列車(よく乗った・好きな夜行列車でも可)の
列車名(列車名が無い普通列車の夜行なら列車番号)をひとつ挙げよ!! >>627 津軽、母の実家が秋田県北部なので、幼いころから何度かこれに乗った。
秋田県をぐるっと回っていくわけだから、同県北部から上野まで12時間近くかかるのが難点だな。
上野から乗って宇都宮過ぎた辺りで寝て、途中の駅で目を覚ましてまた寝て、明け方には十文字辺りを走っていた。上りは朝6時ころに西那須野辺り。津軽が二本あり、これは1号のダイヤ。 はくつる
横浜出身なのに、なぜか九州ブルトレより東北夜行のほうが好きで
そのなかでもはくつるは青いマークが好きで、時刻表上でも孤高かつ急行群の兄貴分って感じがして
583系ならではの表定速度の速さもかっこよくて
かつ初めて乗った寝台特急がはくつるだったから
なぜかゆうづるはそんなに好きではなかった(嫌いでもなかったけど) >>627
俺は1977年〜1982年ぐらいの急行『八甲田』でまだ12系座席車9両編成の時代だったけど
八甲田にはよく乗ったよ。青函連絡船を経て函館駅から釧路行きのおおぞら3号、同じく
網走行きのおおとりに接続していた。東北旅行の往復でも使って更に東北ワイド周遊券の
自由周遊区間である郡山⇔青森内でも八甲田車内を1泊の宿にしたわ。
当時の急行八甲田のスジは(下記参照)に東北ワイド周遊券・自由周遊区間内で八甲田を
一夜の宿にするには都合よく、時間的にもちょうどよかった。
下り八甲田:上野19:10、郡山22:31-34、福島23:12-14、盛岡3:22-25、青森6:15
上り八甲田:青森0:02、仙台5:30-35、福島6:44-46、郡山7:27-29、上野11:07 >>627
関西圏と九州を結んでいた14系座席車の急行雲仙・西海・阿蘇・くにさきかな?
南山陽方面や九州に行くのが使えて周遊券だと自由席なら無料だから気軽に乗れた
残念ながら1980年10月1日のダイヤ改正で廃止になったのが残念無念 >>627
あかつき
まさに絶妙な使いやすさの時間設定だった >>627
自分の中では583系時代の「きたぐに」だなぁ…
「グランドひかり」の食堂車乗車(当然食事も)を兼ねて、
プライベートで初めて関西に行った時に乗車した…ってのもあるけど
直江津以北で、この時とは別に3度乗ってもいるから
自分にとっては、583系は夜行列車での移動での原点でもある
仙山線経由・臨時列車時代の「津軽」にも(寝台に)乗ったことがあるんで 115系の松本発高尾行き夜行各停。
登山者がよく利用したが、自分も北アルプスからの帰りに乗った。中電のボックスシートだから寝心地は良くない。
モータの騒音や振動は結構ある。 かいもん、日南、長崎夜行。
始発から終着までワイド周遊券エリア内なので
夜中の宿替わり折り返しが不要なので重宝した。 平昌五輪でも、競技は深夜まであったのに、観客が帰ろうとしたら最終列車はとっくに終わっていたり……。いずれにせよ、あってはならない連携ミスだ。
運転取扱いの人件費を削り、全てシステムでやろうとするから、臨時や変更に対応出来なくなるんですよね。
今回に限らず他の大きなターミナル駅でも列車の変更内容が営業社員に伝わらない事は日常茶飯事とJR九州の方から聞いたことあります。
地上駅だった頃の大分駅はドリームにちりんが深夜に長時間停車していたし、運輸区や機関区を併設していたから
深夜でも駅職員が常駐し何かしらの動きがあっただろうけど、今は深夜帯を走る列車が皆無だから、引き継ぎがしっかり行われず
今回の様になってしまったんですね。
深夜の臨時特急、到着前に駅閉めちゃった 216人降車
4/22(日) 21:39配信
朝日新聞デジタル
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180422-00000058-asahi-soci
JR九州は22日、臨時特急列車が到着する前に大分駅の営業を終了するトラブルがあった、と発表した。
同日午前1時38分に到着した列車から216人が降りたが、駅の一部の照明が消え、出入り口は施錠されていたという。
JR九州大分支社によると、21日に福岡市内で人気アーティストのコンサートがあったため、臨時列車を運行していた。
だが、当日勤務する駅員に引き継ぎがされておらず、22日午前1時ごろ、通常通り駅の営業を終了したという。
巡回中の警備員が気付いて扉を開けて誘導。自動改札機は通行可能だった。
乗り越し精算などが必要だった乗客約15人には、車掌が対応した。(前田朱莉亜)
.
朝日新聞社 JR九のチョンボだな。
イベント用臨時を出す他社も気をつけねばな。 >>627
22年くらい前に鳥取に住む彼女と長距離恋愛をしてた時に僕が会いに
行く時に必ず乗ったのが寝台特急出雲3号だった。毎月金曜日に職場か
ら直行で東京駅へ向かい出雲3号で米子駅まで乗ったものだ。帰路は
伯備線特急経由で新幹線にて東京へ戻ったけどサンライス開業前に2人
はゴールインした。 >>627
富士
自分は高校まで延岡だったが大学も新卒就職も東京だったので
年2〜3回の帰省では往復「富士」を利用してたので、おらが国の
列車的なイメージがあった。高校3年の時に大学受験で初めて乗った
富士だけど当時は終点まで食堂車を連結してたが大学1年の暮れに
富士で帰省した時は食堂車は大分で切離されていたな。
大学から就職へそして今現在も東京住みなので富士は廃止になるまで
帰省で利用した想い出のある夜行列車だった。
富士の食堂車で食べたビーフシチュー定食の味が今でも忘れられないよ。 >>639
往復で20回以上の利用してるはずだが、
毎回ビーフシチュー食ってたのか? >>641
でも四ヶ月とか六ヶ月とか間があいてるわけで
毎回同じメニューでも何の問題もないわな >>641
639ではないが、どこに毎回ビーフシチュー食べたとあるのだろう。 >>641
南正時氏のブルートレイン「富士」同乗記のレポートでビーフシチューを奨める文面を
覚えていてビーフシチュー定食を食べたんだ。お年玉を貯めて学生のくせして富士に
乗れば毎回食堂車で食べたけど毎回ビーフシチューばかりは食べてない。関門定食や
焼肉定食、ミックスフライ定食なども食べたけどビーフシチュー定食は4〜5回食べたが
1980年に乗った時にビーフシチュー定食がメニューから消え、1983年に乗った時は
関門定食、チャンポン、皿うどんのご当地メニューは消えていたけどメニューは豊富だった。
食堂車のメニューが大幅に減った1991年か1992年からは食堂車は利用しなくなったよ。
国鉄時代の富士・食堂車は14年間利用、富士の乗車は30年間も続いた訳だけど最終富士に
乗れたのが本当によかったと思っている・・・食堂車は連結されてなかったけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています