【上野】急行八甲田・津軽・十和田 2号車【青森】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>3
東京経由で名古屋青森を走ったあおもりは団体専用扱いでしょ?
静岡県や神奈川県のミカン農家の出稼ぎ者が帰省などで利用した
らしいけど団臨扱いなので列車名は暫定的な仮称であって正式な列車名はないよ。 >>3
>>4
>>5
どっちにしろ上野発着ではないからスレ違いだな >>3-5
今にして思えば、上野東京ライン経由だったんだよねw 上野発着以外ダメとなると、臨時の品川発東北夜行もダメ? だよな。
鉄ヲタって細かすぎて
深く掘り下げるのに良い場合があれば
逆に弊害になる場合もある >>7
そんな感じだけど昔は現在の上野東京ラインみたいなキツイ勾配はなくて、
横を走る京浜東北線や山の手線と同じ勾配でした。
>>10
大雑把にすると収拾つかなくなるし、細かすぎると語弊が生まれてしまう。
一括りにするとあれだし、線引きするのがむつかしい。 >>8-11
一応、スレを立てたもので......。
まあ、適当に線引きして下され!。
急行「あおもり」は名古屋からだけでなく、大阪から北陸経由もあったしな。
東北奥羽線で青森に発着して、関東方面以南に抜ける急行なら広めにとっても良いように思うけど。
「八甲田」や「十和田」では臨時では昼行もあったから、夜行に限定しなくてもいいと思うが。 >>12
乙
まあこの場は「社交場」的雰囲気で・・・ >>4
交通公社の国鉄監修大型時刻表に記載がなかったし、
指定券も一般的なマルス発売してなかったので
このスレには関連しないと思われます。
このスレは上野発着・青森発着に関連した定期列車、
季節臨や多客臨の急行列車に関する話題がよかろうと?
>>12
急行あおもりは昔は青森発着の定期列車だった時代も
あるので関連するかと思います。 >>12
>急行「あおもり」は名古屋からだけでなく、大阪から北陸経由もあったしな。
さらに、
名古屋から東海道線経由だけでなく、名古屋から米原北陸線経由の臨時もあった希ガス。 12系+旧客のきたぐにも懐しいが旧客時代の急行十和田も懐しい いや、廃止されてからかなり年月が経ってから
臨時でチョットだけ「名古屋〜米原〜日本海縦貫〜青森」の「あおもり」が運行されたことがあった希ガス 急行あおもりは所要約19時間で下りも上りも新潟〜青森は空いていた >>19
20系で絵入りテールマークも用意されたやつ? >>21
それは多客時に運転される季節臨の急行「あおもり」だよ
そもそも臨時寝台特急「日本海51号・54号」の臨時急行格下げです
20系のオハネフ22とカヤ21には絵入テールマークも容易されて
1日だけ付けたヘッドマークもテールマークデザインだった
http://www.cwo.zaq.ne.jp/dd5416/img181.jpg >>16
時刻も編成もどこにも「あおもり」が見当たらないのだが…。
日本海と間違ってない?
それとも俺の目がバルスでめくr >>18
あれだけ多くの夜行列車が発着していた上野駅が今では信じられない
定期列車だってかなりの本数があったのにあと2ヶ月で臨時さえも0になる
越前 鳥海 北陸 能登 733M 天の川 佐渡 妙高 八甲田 津軽 おが あけぼの
はくつる 北星 津軽 出羽 まつしま いわて あづま ばんだい 新星 北星
北斗星 ゆうづる 十和田・・・ その中では北斗星にだけは違和感を覚えてしまうがw
ゆうづるなんか7往復もあったしねぇ。 1987年に国鉄分割民営化、JR発足。
1980年代前半までの国鉄時代に、
名古屋〜米原〜日本海縦貫線〜青森ルートの臨時急行あおもりが、
年末年始とお盆休みに運行されていた。
車両は、末期は、12系客車のみで、無論、座席のみ。
一方、1980年代後半のJR時代に、
特急日本海の臨時列車を急行に格下げして急行あおもりとして運行されていた。
使用車両は20系客車、全車三段B寝台。 >>26
あおもり化の前は20系日本海だったんだっけ?
急行用になった20系は白帯2本にされて、カヤやナハネフ22はアタマが寂しかったな。 >>27
JR以後、80年代後半、
定期運行の24系二段B寝台車と、臨時用の20系三段寝台との格差が酷いことから、
利用促進もあって、特急から急行に格下げ。
日本海→あおもり、のみならず、
あさかぜ、明星、彗星、あかつき、などの
東海道山陽系統の寝台特急の20系使用臨時便の
急行への格下げが実施された。
臨時あさかぜは、確か、急行玄海になった。
バブル崩壊から暫く90年代初頭まで運行されていたようだ。
本来のスレの趣旨に戻って、
当時の上野発着については、
上記の様な20系臨時特急の急行格下げのケースがあったかどうか、記憶がない。
というか、当時より直近の国鉄末期の1982年までに、
20系使用の急行が定期運行されていたから、無いと思うが。
その急行の名前は、新星、天の川。 あけぼのと津軽の補完におがを20系で走らせてた以上そりゃ記憶ないわな >>27
臨時急行あおもりの前身は20系だった臨時寝台特急日本海でした。
国鉄末期の臨時日本海は51号・54号として運転されていました。
急行用になった20系は白帯2本にされて、カヤやナハネフ22の
白線の白ハチマキがなくて不恰好でした。 自由席のある夜行急行があれば、思い立った時にすぐ旅行に出られたよ。
周遊券なら安く行けたし。
新幹線じゃ特急料金がネックだし計画的な旅行しか出来ない気がする。←俺はね。 >>32
下の広告の「Qきっぷ」も、もはや過去のものなんだな >>33
でも>>32当時は、国鉄の値上げが毎年行事だったので、割高感があって気軽さ
はなかった。
この年の10月改正で、特急が増えすぎて翌年に道内の特急自由席が利用可になったな。
それを思うとJR化後のぐるり北海道きっぷや、50歳以上限定の大人の休日パスの方が、
有効期間は短いが良かった。 東京発の20日間有効が冬季学割で2万円ちょっとだったな。 >>37
北海道話題のことだと思うけど
そりゃ時代によって違うだろ
話の流れで昭和55年当時ならノーマル学割で19,200円
冬期割引ならそれの2割引き
冬期と言っても10月1日から5月31日に発売されたものだから結構お得だったよね >>33
何?真夜中に行きたくなるとでも思った?
思い立ったらって別に夜に限らないでしょ?
ましてや夜行乗るのに、周遊券買えない時間帯に駅行く……途中駅の人は行く事も可能だろうけど、
関東エリアから乗るなら夕方前から支度しなきゃならないし。 >>35
俺のすぐ上の人も書いてるが
「すぐ」ってのは
貴方の言ってるような
そういう時刻的な意味じゃないでしょ 18時台や19時台の夜行列車だと事前に用意しておく必要があるけど
21〜22時台の夜行列車なら出発する前に均一周遊券を買った事はある。
例をいえば横浜駅のみどりの窓口で均一周遊券を買ってそのまま
上野駅に直行して21〜22時台の夜行列車に乗ったよ。
でも出発前の時間は有効的に使いたいから事前に購入したのが殆ど。 >>28
上野発着の20系定期急行は、十和田3・4号→津軽→おがもあった。
東北・上越新幹線開業後は、14系が夜行急行に転用されたり、583系が余剰に
なったりしてたので583系が臨時寝台特急はあったが、20系が特急運用はなかった。
根本的には新幹線開業で、上野発着夜行列車が激減したからな。 >>37-38
俺の時は千葉市内からの北海道ワイド学割・冬期で18800円だった。
ちなみに、、、、
旅客営業規則の市内制度(仙台市内とか札幌市内とか東京都区内とか)とは別に
ワイド・ミニに限って「函館市内」「新潟市内」「千葉市内」「高松市内」ってのがあった。 昭和55年3月の冬季割引+学割の都区内発北海度ワイド周遊券が
\23600だから昭和52〜53年・・・44年前だろうねw 18歳なら現在62歳w >>46
23600円って印字だろ?
それ冬期2割引をかける前の定価じゃないの?
冬期2割引は値段が手書き修正だった筈だよ。
>俺の時は千葉市内からの北海道ワイド学割・冬期で18800円だった。
昭和58年の5月30日に買ったよ。
現在はゴジラ松井の背番号と同い年 >>47
1980年の12月号のコンパス持ってるけど
23,600円は冬期割引でも学割でもない普通の東京発北海道ワイドの値段だわ
冬期2割引きは「割引」「2割引き」「2割」とか色々だったけどスタンプだったよ >>48
いや、だから、
そのスタンプを捺したうえで、
印刷してある定価→2割引の値段へ と、手書きで修正するんだよ。 >>49
冬期割引 北海道ワイド周遊券
でググってみな
訂正なしの方が多いから このスレの住人で急行十和田の食堂車を利用した人はいますでしょうか?
自分はオシ17が営業している十和田に乗った事はあるけど高校生ゆえ
当時は余分な持ち合わせもなく高級なイメージの食堂車には入れなかったです >>52
既にスレチを誤っているのに、亀レスで追い打ちかけるなんて大人気ないぞ 東北夜行急行と周遊券は切っても切れない関係だけどね。
何度となく乗ったけど、普通乗車券+急行券で乗った事は零。 最後に残った臨時八甲田もほぼ周遊券と共に消えたからな…
(98年は運転日数も停車駅も減で8月の運転をもって廃止) 急行八甲田や急行津軽はEEキップやハートランドフリーキップでも乗ったなぁ 八甲田や津軽みたいな急行夜行と均一周遊券が廃止になって乗り鉄は終わったと思った 自治厨気取りで悦に入ってるんだろうけど、逆に皆から返り討ちに遇ってるの図。 臨時急行おいらせはこのスレのグループでいいのかな? でも八甲田なんて良く続いたと思うよ、末期は「まだ走ってるのか」ってのが正直な印象だった 津軽に食堂車がなかったのは、板谷峠で負担になるからだろうか?
八甲田や十和田と異なり、関東から北海道へ行くのに、この列車を用いる客なんてほとんどないし。 >>62
峠越えのこともあるし奥羽本線の本数が限られる都合列車自体の席数も増やしたかった
もっとも戦後の東北夜行急行は十和田ほか常磐線経由の列車以外食堂車つかなかったような気もするが… >>62
八甲田にも食堂車は連結されたことはないですね。
そもそも十和田以外に食堂車があったのは、みちのく北斗北上おいらせで、
全部十和田の前身と言っていいのばかり。 俺が知ってる おいらせ は、盛岡〜青森のやつだけだなぁ。 なんかこのスレの盛り上がり見てるとよほど東北急行に愛着ある人多いんだなと思う。九州筑豊ルーツのオレ的には意外。あ、でも叔母さんは筑豊線経由の天草があかつきに替わってもずっと天草はまだ走ってると思ってたから、急行列車は親しまれやすいのかな? >>67
廃止を知らないってのは親しんでると言えるのだろうか? 地元の雰囲気としては特急への格上げでピカピカの14系15型にかわって、うん?なんかちかっばよかクルマが走る事なっちょう、くらいのもので廃止という悲壮な感じはなかったからなあ。それに新幹線が来て飛行機も手に届く値段になつて在来線の列車への関心が薄くなったと 違うか、東北と違って出稼ぎ労働というのがあまりないからな。辛くて寂しい出稼ぎからの開放という象徴的な役割があまり列車にはない。炭鉱閉山で悲惨は悲惨なんだけどいっそ新天地に移るかという楽観主義か、地元で極貧にたえつつ泥棒稼業やるか 笑 スレ違い失礼 >>66
急行おいらせは1990年12月〜が最後だと思う
上野〜青森で運転された臨時夜行列車 >>71
いや、92年のゴールデンウィークに臨時ではしったし、
秋の連休にも走った記憶はある。 東北ワイドで宿代を浮かすのに、真夜中の福島での津軽から八甲田への乗り継ぎは重宝した。
まだ12系だった八甲田で郡山〜青森(青森〜郡山)を6連泊した事あるけど今ではいい思い出だ。 またマルチかと叩く人がいるんだろけど、
やっぱり、こっちのスレにも書いておきたい
あらかじめ誤っておく m(__)m
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東北ワイド夜行折り返し
ここまで読んでみて、まだ誰も書いてないようだけど
昭和58年ごろのダイヤでは
上り「十和田」を深夜01時過ぎ?に小牛田で降りて、
20分ほどで下り「八甲田」へ乗換ができた。
これを2晩つづけて敢行したのだが、
なんと同業者数名と「ゆうべもお会いしましたね」状態だったw >>71-72
盛岡か青森に2両だけあった12系のリクライニング改造車が編成に入ったとか聞いたことが… 大人げないね
このスレに出入りしてるってことは40歳以上だろ?
他の板では[sage]ていないだけで噛み付いてくるやつもいるけど
2ちゃんねる黎明期にはむしろ[上げ]が当たり前で
へたに[sage]て下のほうでヒソヒソ話してたら逆に「なんでsageるんじゃゴルァ!」と怒られたくらいだ
何が言いたいかというと、
板によって、年代によって、
ローカルルールやマナー(←と、各自が勝手に思っているだけの事項も含め)は千差万別
自治厨が逆に嫌われることだって有る罠 正当化しようとして屁理屈とか老害以外のなにものでもない 全員が他のスレを隈無く見ている訳がなく、>>74の話を初見の人は俺を含めて複数いるのは確実。
まるで無関係な話なら荒らしだけど、このスレに合致した話題とそのコメ主を排除する理由は無い。
まぁ、日がな一日2CHに入り浸ってて全スレチェックされてる御仁には目障りかもしれんがね。 マルチ正当化とは
コメ主とか言ってるし
2chに慣れてないんだろうな 慣れてないと何か問題でも?
オメーみたいに年がら年中2chやってらんねーからな。 >>82
開き直るなよ
駄目なこと理解出来なきゃそりゃ問題あるだろ マルチだって色々あるだろ?
同一スレに繰り返し同じレスとか場違いなレスってんならともかく、
いや、それ以前に俺とアンタの応酬もこの場に於いては>>74以上に不要のものだ。
なので、これ以上は言わない。
レスされても言わないつもり。 >>84
>マルチだって色々あるだろ?
ない
以上 ・悪意を持った、あるいは過剰な自己主張に基づく同一文章のコピペと
・他のスレに書いてしまったネタけど、やっぱりこっちのスレの方が妥当だと断りを入れたうえでの再カキコ
これを同一視するのはおかしい
このスレの住人は中年以上なのだろうから、もう少し寛大になろうや >>86
そのスレのリンク貼れば済むこと
見苦しいから消えろよ、自意識過剰な老害と罵られたくなければなw >>76 >>87
ピク誌の12系・14系座席特集に写真載ってたオハ12327・328(盛岡所属、98年廃車)かな
同じ頃ふれあいみちのく増結用に外見はそのままカーペット車化したオハ12801・802もあったそうだが >>86
>他のスレに書いてしまったネタけど、やっぱりこっちのスレの方が妥当だと断りを入れた
入れてねえし いいじゃん別に。話題も無いのに。開けてみたら保守カキコとか意味不明なコピペよりなんぼかマシだわ。 盛モカの12系座席車は1988年と1989年の夏に快速海峡の客車が足らなくなってひと夏だけ海峡としても走っている はまなすの座席車も昼は快速海峡として運用されてたんだよね。 初めて北海道に行ったときに使ったのが
八甲田51号 しかも年末
車内は出稼ぎ帰りの労働者でいっぱい
方言が凄くて何言っているかわからんかったw
終点の青森に近づくころには、客はまばらで
車内には一升瓶がゴロゴロw 急行八甲田の間合い運用で14系を使った臨時海峡も1往復あった >>96
列車名と種別は変るけど、車両そのままで乗り換えなしで上野→函館直通だった。
さらに
MOTOトレイン編成が付くこともあった。スレチじゃないよね? ←(臨時)八甲田の付属編成だったし
防災対策から機関車の近くにバイクを積んだ貨車を連結するのはNGだったらしく、
(機関車から発火して貨車へ類焼すればガソリンに引火して危険だから)
MOTOトレインの編成は八甲田の最後尾に連結されていた。
ところが
上野から青森に到着した(臨時)八甲田は、車両そのまま函館ゆきの(臨時)海峡となる。
青森駅で進行方向が逆になるため、
それまで最後尾だったMOTOトレイン編成が、先頭になってしまう。
そのため、
MOTOトレイン編成を一旦切り離して、構内側線から機回しをして
反対側に再連結し直すという面倒くさい入替え作業をしていた。 >>97
>スレチじゃないよね?
スレチじゃね?
俺が判定するならスレチにする それ一回乗ったな
知ってたら同じ席番で取ったのにorz 夜行バスが事故を起こせば人的被害がでるから世間も騒ぐし
それもあって夜行旅客列車も残存しているんだけど
夜行トラックが事故を起こしてもあまり騒がれないから
夜行貨物列車の高い安全性があまり注目されない
そして日本の夜行貨物列車は風前の灯 >>95
8月上旬の八甲田51号は以外に空いていたよ
1980〜1981年ごろだと思うが。。。 >>93-100 の一連の流れからみて、「MOTOトレインはスレチでは無い」に、2票め MOTOトレインは急行八甲田に併結されて運転されていたが列車としては14系や
24系の寝台車とバイクを搭載するマニ50がMOTOトレインなんだよ
よって列車名も違うし、使用した車両も違うから急行八甲田には関連しないと思われ >>107
上野発青森行、青森発上野行の急行のスレだからスレ違い オレもスレチでないに一票。連結されていたのに何で排除するのか。
周遊券ありならこっちだって当然ありだろ。 元トレインのスレあるんだからそこですればいいじゃん もとトレインが八甲田併結だから排除する という理論がいまいちわからん モトトレインについては、このスレでの進行を許可します。 東北本線盛岡口・IGR・青い森鉄道・八戸線・大湊線14©2ch.net
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/rail/1437552733/
東北本線の話も禁止だな
意味わからん 年末年始の12系八甲田では車内の暖房が暑くて非正規のぼったくりアイスクリームがよく売れたそうだ
あと旧型客車時代の八甲田でも車内が暑くて同じように売れたそうだ
下りだと大宮〜宇都宮で乗り込んでアイスクリームを売り捌いたらしい 大したことないアイスクリームが
市価5倍くらいだったかな
ちょうど前の席に来たところで
「ただいま無許可のアイスクリーム販売が〜」 十和田が八甲田より本数多かったのが謎。八甲田の方が東北本線経由で沿線人口多いのに。 >>121
特急だってゆうづる>はくつるだったろ本数は
常磐線は仙台方面の列車だけだけど
東北本線は北陸方面、信越方面、上越羽越方面、磐越西線、奥羽本線への夜行も通る訳で >>119
俺が見たのは100円だったよ
「東北本線には普通列車にも車内販売があるのか!?」と当時は驚いたが、モグリだと知ったのはそれから20年後のことだった >>121-122
東北本線が日中過密ダイヤだったので、線路保守的な意味で夜行列車は、
常磐線経由を多くしていた。
もしその時代に、震災で福島原発が爆発してたらガクブルだなorz >>123
市価いくらのアイスを100円で売ってたの?たいして利益なさそう… マイナンバー通知カードを返還することで、マイナンバー制度を廃止させることができます
マイナンバー通知カードを受け取ってしまっても、市町村に送り返そうhttps://www.youtube.com/watch?v=_f3I2RTC17s
311東日本大震災は人口地震テロ さゆふらっとまうんど(平塚正幸)https://m.youtube.com/watch?v=XiK9DeIMt14 津軽が出世列車とか。それで古き良き昭和ロマンという感性もあるんだろうけど、よく考えたら高々帰って来るのに乗った列車で人間評価されたくないな。そういう狭い価値観の地域社会って息苦しそうだ。結婚披露宴で出された魚の切り身の大きさが後々まで噂話になる、みたいな >>121
深夜の常磐線は貨物の本数が少なくて、一部単線区間があっても
東北本線(上野〜仙台)より深夜の列車密度が少なかったから
十和田やゆうづるの本数が多かったんだよ 常磐線経由なのは、東北本線が過密ダイヤだったのも一因だが
福島〜松川の急勾配を避けていたのも理由のひとつ >>130
四ツ倉駅以北は一部単線区間が今でも残っているよ。
あと常磐線に上野〜仙台〜盛岡経由の夜行列車が多かったのには
黒磯駅構内のデットセクションが地上切替で手間がかかったのも
理由にあげられるようだ。
常磐線のデッドセクションは車上切替なので手間がかからず一瞬で終るが
黒磯駅構内は下り八甲田や津軽が到着すると一旦EF58やEF65を開放して
西那須野方面の電留線に移動して架線を直流から交流に変更してから高久寄りの
電留線からED75を移動して連結させて発車する手間が面倒。
(EF81の導入で1988年の一部夜行列車から黒磯駅も車上切替に変更したけど
急行八甲田や津軽などは最後まで地上切替方式だった)
因みに常磐線は取手〜藤代のデットセクションはEF80もEF81も地上切替で早く、
水戸駅並びに平駅での機関車交換も同じ交流区間だから簡単だった。
(下り十和田などが水戸駅で交代、上り十和田などは平駅で機関車交代してた) >>131
南福島〜金谷川〜松川は急勾配の20〜25‰があって貨物は
最後部に補機を連結してたからそうですね。常磐線は
意外と平坦区間が多かったからね。 >>130
それこそ震災前とかC62が走っていた時代の風景残してるところがちらほらあった >>132
黒磯通過の特急列車(485、583)もあったから設備は車上切替に対応してるだろうね。単に高価な交直機を買う余裕が国鉄に無かった、のか…? >>135
上野口の交直流機は国鉄時代、常磐線優先に運用されてたのが要因だろう。
それからED75機関車の有効活用もあったような。
東北本線上野口の客車列車で初めてEF81牽引になったのが北斗星。
同時に客車ゆうづるが無くなり、常磐線の定期客車は全廃になった。
それでもその後に運転した臨時のエルムや、北斗星トマムスキーは、
当初黒磯でEF65PFとED75に機関車交換していた。 >>135
田端に最初に配置されたその高価なEF81は東北本線の貨物用だったんだけど >>138
東北線黒磯口に初めてEF81が走ったのは水戸線経由の貨物列車牽引用
当時、急行津軽や急行八甲田はEF58〜ED75へ機関車交換してた 仙台以北の貨物なんか常磐線を通らせた方が楽そうなのに 全線電化前ならともかく電化後だと特急・高速貨物は完全に東北本線優先(特に10000系貨車使用列車はブルトレ並の扱い)だったからな 当時(最大7往復時)ゆうづるに何回も乗ったけど、ちょうど単線区間の辺りで上下の離合があった記憶がある。
待つ方を足が遅いor途中駅目的の客も多い客車列車にすることで捌いてたみたいだった。
そんな感じで、貨物も有効時間帯がちょうどあの辺りに重なったんじゃない? 電車区間がネックなんだよな、常磐線。おかげで水戸線経由で東北線に逃がすような貨物もあったという
>>139
黒磯口w
田端新製配置の81の最初の運用は東北線。水戸線に入るのは80の置換で富山から81が内郷に転属されてきてから >>140
そうだが高速貨物専用だったED75P重連は貨物だと東北線直通の
貨物ばかりで常磐線に入る高速貨物はなかった。 >>133
深夜の福島駅であけぼの、津軽、おが他奥羽本線直通の列車が機関車交換をしている一方
上り貨物がED71(補機末期はED75)を後ろにつけて発車していくなんて光景あったな >>137
黒磯の機関車の交換、なくなるのですか? >>147
2018年3月に黒磯駅のデッドセクションを黒磯‐高久間へ移設、
黒磯駅構内を完全直流化して黒磯駅構内が直流化される
定期の貨物列車は黒磯通過だし、設備も老朽化して地上切り替えは
金もかかるから廃止して高久駅よりに車上切替のセクションを作る 地上切替より車上切替のほうが安いとは、時代も変わったな〜。 >>149
機関車交換と切替作業(+一部は乗務員交代)で黒磯周辺に100人位置いてる人員の削減
黒磯駅は窓口も遅かれ早かれ閉鎖だろうし2017年以降はより遺跡みたいな場所になるな
黒磯に東北への定期特急や急行が停車していたのはもう20年以上前になったしED75もたぶん切替設備と運命共にするのか… 途中の街外れにある小駅でも待避離合とかしてたんだろうか
今は撤去されている中線もそんな駅にあったし >>150
>遺跡みたいな場所
北陸線の田村駅みたいになるんかな?
終日無人となり、側線ひっぱがした跡がわびしくなり…
たまに隣那須塩原からきっぷ回収箱清掃に駅員がやってくる程度となり… 田村、寂れてたな。まぁ元々機留線だけでEF70がゴロゴロあっただけの所ではあったけど
宇都宮の機関区も跡形もなくなってるし、最近だと東京機関区もそうだよな。さいたま新都心みたいになるんだろうな
黒磯まで行ってED75に変わって、高久側にED75がゴロゴロしてるの見ると、ここから東北なんだなって実感があったんだけど
>>149
元々車上の方が安いでしょ。だから地上切替は黒磯だけだったんだし。1列車に機関車2両を用意しなきゃいけないし
まぁ米原−田村はデッドセクションなのに3両必要だったけど 地上切替は変電装置やDC/AC切替システムに金がかかって
広い土地も必要だった これから懐かしの何々みたいな往年の国鉄列車を走らせることがあっても黒磯のワクワク感は無いんだね
大宮のテッパクみたいに丸ごと残して欲しいものだけど EF58からED75Mに地上切替で機関車交換してた時代の八甲田や津軽がなつかしい
上り八甲田だと朝飯にちょうどいい時間で機関車交換は朝食の駅弁購入に最適だった
でかいヤカン提げて販売してたなめこ汁に九尾釜めしか高原肉めしがオイラの定番だった 今、テレビのニュース番組に「フリーライター上野友行(うえのともゆき)」って人が出てた。
一瞬、「上野夜行」に見えてしまったw >>158
昔の上り八甲田は黒磯が8:26-36だったからちょうどいいかも知れない
因みに自分は郡山駅で買う事が多かった、東北軒の磐梯牛めしや
山菜きじ焼弁当など。因みに急行津軽(404レ)は黒磯が7:35-42だったので
こちらも朝食時間にピッタリにの駅弁購入に最適な停車だった。 うわー、こんなスレがあったのね
久々に古い音源整理してたら八甲田54号の車内音を録ったものが出てきたんで
検索してたらここにたどり着いたわ
小学生の時だったんで詳細書いてないし細かいことはうろ覚えだったんだけど
ここの書き込みでなんとなくいろんなこと思い出してきたわ >>161
>八甲田54号
青森7:17(8104レ)20:06上野の時代かな? 全盛期に東北本線のすぐそば住まいだったからか走り抜ける音は耳に焼き付いてる
やっぱ電車の夜行てガタガタと音がうるさいもんだなと思ったのも今では懐かしい 夜行列車は撮影に不向き
廃止はファンのことを考えてのこと TR47台車の奏でるジョイント音が心地よかった、長尺レール区間に入るとむしろ違和感で目が覚めたw そんな台車の客車を牽引する機関車は厳ついながらもどこか軽快に見えるゴナナやゴハチがしっくりくるかな自分の中では
でも実際は新鋭の(当時では)EF65や81の方がガタガタって通過音があんまし無かったような?
71や75などの赤い電気は自由に遠征出来る年齢になるまでどんな通過音なのか知りたくてたまらなかった >>165
何で?
5月中旬くらいから7月中旬くらいなら朝5時から撮影できるよ >>168
マルチに反応すな
それはともかく黒川橋梁とか庭坂のカーブに夜明け前からカメラ準備するなんてことももうね… >>162
小学生が当時のモノラルのラジカセで録った音だけど需要あるもんかね?
>>163
当時まだ子供で将来的に大事なものになるなんて思ってもいなかったから
詳しいことメモってなかったんだよね
記憶では71年か72年の夏休みだったかな
サラッと通して聞いてみたら…
A面は発車直後のアナウンスによると福島を5分遅れで発車
次の停車駅は小牛田3:29着の予定と言っていた
B面は次の停車が沼宮内だから盛岡あたりから録ってる様子
録り始めから30分で沼宮内停車、そこから残り15分は奥中山に向かって
速度を落としつつ踏ん張って走る音が聞けるんだけど、残念なことにこちらの面は
兄貴との会話がごにょごにょ入って恥ずかしいことに orz
このへんが小学生のやることだわw 兄貴との会話が恥ずかしい内容のものでなければ、
うpすれば需要有りと思われw >>169
黒川橋梁ならともかく、庭坂のカーブでは新幹線しか来ないからね。
昔は庭坂大カーブや赤岩の松川橋梁俯瞰であけぼの6号とか撮影したのが懐しい。 庭坂の大カーブて俯瞰から撮ろうとすると北山林道を歩いて30分以上はかかると南正時さんの本に書いてあったな
その当時10歳だったので早く1人で行ける年齢にならなきゃと焦ってた 北山林道からの庭坂俯瞰もいいけど赤岩対岸山の上からの俯瞰もいいよ コロタンの鉄道本ネタでスマンが南正時さんの本に撮影地ガイドがあってイラストで少年が描かれてたのは俺みたいでワロタw すまん実家で探したけど見つからなかったので思い出せない
たぶん捨ててはいないと思うが ケイブンシャの鉄道大百科でぐぐったらこんなのが出てきた テラナツカシス
ttp://ameblo.jp/aru-king/entry-10522168153.html ここでなんとなく昔はよかったとか感慨にふけっている人へ。
当時の長距離列車は客室内もうもうとタバコの煙が舞っていましたので、その点もお忘れなく。 当時はスモーカーだったから気にしなかった
逆に自由席のボックス占領しても匂いのキツイタバコを
吸ってると人が寄り付かなかったからこれ幸いだったよ タバコの煙なんて余裕
窓を開けると排水が顔にシャワーされるほうが嫌 高坊の時に乗車した、101レ八甲田(旧客)の車内音をラジカセで録った音源が出てきた。ほとんど上野駅発車と青森駅到着のみですが、つべにうpしてみました。友人の声が入っていたり、テープ劣化によりお聞き苦しい箇所はご勘弁を。
http://youtu.be/jBcteZVu7IY
161さんもぜひ、うpお願いします。 >>182
旧客時代は当り前だった
夏は窓全開だから汚染した可能大
>>183
なつかしいGJ >>185
ありがトン
上野発の夜行列車を忘れずにいたい、との思いでうぷしました
>>184
メモによると、75年1月に撮った八甲田52号の推回
場所は定番の鶯谷ホームから
この日はゴナナでした
http://imepic.jp/20160217/295230 >>186
画像サンキュー!
ゴナナのデッキに乗った興奮は今でも鮮明に覚えてるよ
ヒガハス沿い住まいだったのでほぼ毎日見ていた 津軽と八甲田は直流区間はEF57,58交流区間ならED71,75と
牽引機のバリエーションが豊富で被写体にはもってこいだったね。
十和田はEF80,ED75しか出てこないから前者に比べ魅力は乏しい感じがする。 先生!何でEF80は交直機なのに水戸で付け替えだったのですか? >>183
GJサンクス!凄い貴重なもの持ってんだね、感動した♪ >>186
撮影地が鶯谷ってのが尚良いね、特に下りは『上野をゆっくり後にする』と言うオープニングが最高! >>186
57に旧客はかっこいいな。103系もまだATCじゃない
この客車、品川の波動用だよね。南シナの10系が営業で使われてるの始めてみた。この10系90年代まで残ってて
小回によく繋がれてた。乗せてくれねーかなっていつも思ってた。
旧客の方は中央線とかにも使われて、最後に川崎に留置されてたんだよな。
>>188
津軽とあけぼのはEF71、ED78もあったからな。で、401レは宇都宮で58同士で機関車交換とかしてた
>>189
交直機は高いから効率よく回すため。蒸機の名残で電機でも所属区の運用範囲があって長距離は交換してた。
日本海縦貫の81も昭和60年くらいからなんだよね、ロングラン
東海道山陽夜行は電化の進展と一緒にロングランにしたけど >>189 >>192
国鉄時代は特に水戸までED75ロングランさせたほうが運転上も都合がよかったからな
(80が機構的に些か高速に弱い&常磐線の臨時等で使う75を青森からそのまま重連で送れる) 常磐線の十和田やつうづるは機関車交換が水戸といわきがあって下りと上り列車を分けていた。 >>187-188、>>190-192
皆さん見ていただきどもです。192さんの博識には脱帽です
南シナの波動用はあまり酷使されていなかったので、キレイに見えるのでしょうか?
確かにナハフは旧客が運用離脱した後も、控え車として動いているのを見たような。
動画にも入れた写真ですが、76年8月西日暮里駅ホームから後追いで撮った101レ
http://imepic.jp/20160217/743660
メモがないのですが、時期は77年2月場所は久喜-白岡で撮った102レと思います。115系が後カブリして泣いた、、
http://imepic.jp/20160217/777560 195ですが、2枚目の画像が重すぎたので縮小してこちらに再うぷしました。
http://imepic.jp/20160217/793510
すみません >>192
国鉄末期でも秋田〜青森の日本海はED75-700が牽引してましたね
>>195
>>196
うp乙です
宇都宮運転所の原型小窓のEF58が牽引する上り急行八甲田ですね
オユ10・ワサフ8000・スハフ42・スロ62・ナハ11以下略の特徴ある編成は
102レ・103レだけでしたので画像を拝見して急客102レだとわかりました。
115系との裏カブリは残念無念 >>197
ワサフ8000は編成美を壊しているような気がしたけど、定期八甲田の特徴。オユは上りだけ連結でしたね。
改めてネガを見返すと、駅以外での走行写真が少ないことに驚く、、 >>195
やっぱヒガハスの田園風景は良いものだねえ
ゴハチと旧客が上ってくる午前中かな >>199
102レの大宮発は10時40分だったので、10時15分〜半あたりに現地を通過したものと思います。
メモはないのですがこの日のネガを見ると、ヒガハスの田圃で下りはつかり1号などを撮ってから久喜方面へ移動し、ゴハチの荷46レと下りつばさ1号を撮影。
さらにポイントを探して徘徊する内に上り八甲田の通過時刻が迫る→何とかたどり着き、慌てて撮ったようです。
そのせいで手前の枝も未処理ですorz >>200
いろいろ情報ありがとうございます
レスと画像もよく確かめずヒガハスなんて書いてごめんなさい
なんか田園風景と右奥の樹木で早合点してしまいました
よく見ると見沼用水と綾瀬川の鉄橋が無いです
しかし午前中の久喜ー白岡は順光の爽快感がいつ見てもたまりませんね
枝の処理もこの際気になりませんよ 急行八甲田102レは12系になってもワサフ8000が連結されていて
1984年12月くらいだとEF65PFの次位がワサフ8000で違和感がありました 大宮から北はどこもヒガハスみたいな感じだったんだよな。田んぼか林。土呂はなくてヒソ辺りは林と畑だった
どこでも撮れたんだけど、いまは住宅地だらけになったね
ヒガハスのあの辺りだけは見沼代用水もあって調整区域でそのまま残ったけど >>202
その頃だと黒磯以南の客車は軒並みPF牽引で上り津軽と荷レのみ58だったかな >>201、>>203
この日の記憶はまったく曖昧なのですよ
Google mapで見ると白岡駅の北側、現在は県道78号線とクロスしているあたりで撮ったのではないかと。
一本手前の架線柱の間で切るつもりだったが、予想以上に編成が長いので慌てて左にカメラを振る→機関車の足回りにボックスと柵がかかる、といった有様で高坊になってからもあまり学習していません。
>>202、>>204
PF+12系の時代もまだワサフが連結されていたのですか。91年頃、久しぶりに八甲田に乗車した時はPF+14系
80年代は鉄から離れていたので、津軽と荷物列車を牽引していたゴハチの最末期を撮っていないのが残念です >>204
上り津軽と荷レはぎりぎりまで宇都宮のEF58でしたね。
ただし津軽も1往復に減ると夏至くらいにならないと東大宮以北での撮影は難しかったです。
しかし削減された1往復があけぼのに格上げになるとあけぼの3往復体制で6号は撮影がしやすかった。
>>205
自分がワサフ8000+12系の102レを目撃確認したのは1984年12月なかばの撮影地ですので
急行八甲田が14系に変わった1985年3月14日の直前までは102レにワサフが連結されていたのかも?
昔は久喜-白岡やヒガハスで早朝から待っているとEF58牽引の津軽、荷34レ、荷38レ、
八甲田や583系はくつる、PF牽引あけぼのなども撮影できて晴天の休日は自転車で通っていました。 ここ見てると一週間に一度でいいからタイムマシンに乗りたい… 宇都宮時代のゲニニに牽かれる旧客の急行津軽なつかしい
白線入りのグリーン車に続いてA寝台にB寝台…この頃は神だった >>208
うぷGJです。上り津軽2号ですね
丸屋根のマニがイイ感じ! >>202
1984年2月改正で操車場・荷物列車が大幅縮小したけど、その後も付いてた? 1977年で冷房なしの旧客、これで急行料金取るのって遜色急行じゃね?
乗らないで見ているのは面白いだろうけど、8〜10時間も硬いボックスシートにいるんじゃ、睡眠不足なるわな。 遜色急行って言いたいだけだと思うが、安心しろ。旧客の急行がなくなるのはその5年後、ボックスの冷房なしの
急行なんてその10年後くらいまであったんじゃないか
>>211
12系の時はワサフついてた。14系化が昭和60年だから1年くらいマニついてたのかな。荷レなくなった昭和61年には
なくなってる だからさ、70年代後半になって非冷房、ボックスシートで急行料金取るってのが、遜色なんだよ。
転換式クロスへの改造もしない、旧態依然のまま。客離れは当たり前。 >>214
そう思うのは21世紀の今だから。
70年代後半当時は当たり前だったよw
都会の通勤電車でも冷房率100%には程遠かった。 遜色って言葉覚えて使いたいだけだから相手するなよ。 特別料金取る長距離急行と通勤電車を比較されてもなあ。 まあ、マニアにとっては憧れかもしれないけど、繁忙期に自由席で座ることもままならない状態で、長時間移動しなくちゃならない家族連れにとっては、我慢大会でしかなかったんだよねえ >>216
子供なんでしょ。今の基準でしか考えられないようだし。
それか定義付けたいだけのかわいそうな疾患持ちとか。
放置が一番。 >>208
機次からマニ36 スロフ62 オロネ10 オハネフ12ですね。
大宮←土呂間なので津軽2号(404レ)だと大宮着が9:37なので9:34〜9:3に通過かも?
急行津軽2号(404レ)は乗った事も撮影した事もあるので1978年の代表的な停車時間だけ書いておきます
青森20:35,弘前21:14-15,大館22:00-02,東能代22:47-48,秋田23:42-50,横手1:00-02,新庄2:21-25,
山形3:29-50,米沢4:39-44,福島5:33-41,郡山6:32-37,黒磯7:35-42,宇都宮8:25-27,大宮9:37-38,上野10:04。
夏至の頃は板谷峠の庭坂大カーブや赤岩の松川橋梁俯瞰で撮影したり、真冬は
白河より手前で雪の中を走るED75津軽2号を撮影しました。 なんか馬鹿の登場でスレが汚れてんな
どうせあっちの板にいる廃止厨みたいなクズが出てきてんだろうけど
>>208
東大宮を過ぎて大宮駅の直前かな?
手前の線路は東武野田線とか >>221
急行津軽の板谷峠越え、機会があればぜひ拝見したいものです。
津軽といえば、伝説のC58重連迂回津軽を撮りに陸東へ行けた方は幸せですね
私もあと数年早く生まれていれば、、 仙山線経由の津軽とか陸羽東線経由あけぼの乗車経験のある俺 >>224
あけぼのが陸羽東線で迂回運転されたのは、73年4月12日たった1日のみですね。その日に乗り合わせるとは何とラッキーな!
20系客車の前後で、2両のC58は死闘を演じていたことでしょう。 ピントが怪しい写真ですが昭和51年8月のある夜、上野駅14番線ホームで撮影したものです。時計は19時05分を指していて八甲田号の発車5分前です。乗客はほとんど車内に入っていますが、後続列車の席取り組でホームはカオス状態。あの頃のざわめきが聞こえてくるでしょうか?
http://imepic.jp/20160220/809820 >>225
そっちじゃなくて板谷峠追われた直後(90年10月〜97年3月)の陸羽東線経由時代じゃないかな
この間に津軽は仙山経由の583系→485系(廃止直前はまた583)となった末廃止されてしまう もしかしたら小学生だった自分もこのホームに居たのかもしれないと思うと胸熱 >>228
見ていただきサンクスです。私は高1でしたが、上野駅のどこかですれ違っていたかもしれませんね。
この写真を見た後でサントリーBOSSの北海道新幹線編CMを観たら、妙に胸熱になってしまいました
http://youtu.be/f78fvddOiKk >>229
あらら、ご丁寧に
当時のこのような写真を持ってないので
大変懐かしく拝見させて頂きました
こちらこそありがとうございました >>224
あけぼのなら北上線迂回(DD51牽引)で乗車したことあり。
奥羽線(板谷峠経由)は何度もあるけど
陸羽東線経由のあけぼのは乗った事ないかも…
>>226
いや〜なつかしい、
ホームにいる人達のルックスが高度成長時代って感じがする。
一番輝いていた時の上野駅地平ホームですね。
後続列車の席取り組は気になります。この時代だと19時発では
19:31発の急行津軽1号がありますが発番線まで覚えていません。 >>231
ベルボトムジーンズに時代を感じますねえ。
山男風の方もいたりバラエティに富んでいます
74年11月の時刻表しか持っていないので多少変わっていると思いますが、このホームから発車する夜行列車をピックアップすると
発時刻 列車名 番線
20:51 越前 15
21:08 八甲田54号 14
21:20 おが2号 15
22:00 あけぼの1号 14
22:28 あけぼの2号 15
22:41 津軽2号 14
23:08 ざおう54号・ばんだい54号 15
23:32 いわて3号 15
23:48 ざおう3号・ばんだい5号 14
となります。多客期のため、不定期列車もほぼ全部運転されていたと思われます。
19:27発の津軽1号は13番線発でした 鳥海は13番ホームだったっけ?
やたら早い時間の乗車待ちというとこの列車が思い浮かぶ。 >>233
鳥海は13番線で20:51入線→21:14発車でした >>226氏の撮影時期に近い時刻表として
交通公社時刻表 1976年4月号復刻版より
上野駅14/15番線 発着列車一覧(19時以降)
到着 番 発車
入線 線 時刻
1827 14・1910・ 101レ 八甲田
1839着15・ ・ 912M 草津4・あかぎ4
15・1913・2915M あかぎ4・ゆけむり7
1920着14・ ・1020M ひばり10(583系)
1934 14・1944・ 595M (宇都宮行)
1924 15・1950・5013M ゆうづる1
2001着15・ ・ 896M (前橋発)
15・2012・ 597M (黒磯行)
2006着14・ ・8104レ 八甲田52
2029 14・2051・ 603レ 越前
2040 15・2108・6103レ 八甲田54
2102 14・2119・6402レ おが2
2116 15・2200・1001レ あけぼの1
2140着14・ ・ 402D おが1
2159 14・2220・ 5M はくつる
2224 14・2241・ 403レ 津軽2
2244 15・2308・8407レ ざおう54・ばんだい54
2256着14・ ・ 28M はつかり5
2314 15・2332・ 105M いわて3
2338 14・2349・6401M ざおう3・ばんだい5 >>235
226,232ですが貴重な情報ありがとうございます。
50.3ダイヤ改正でゆうづるが5往復→7往復体制となった影響もあり、相当変わっていますね
はくつるもこのホーム発になったのですね 14〜15番線は一番夜行列車を出していたホームですね
すれ違いだけど北斗星5号は開業当初14番線発でした >>229
小学生だった自分には上野駅や大宮駅にいた高校生がとても大人に見えた記憶があります
横で聞こえていたのは今度の休みに周遊券を使って乗りに行くとか撮影の話です
自分も早く中学生になりたくてたまらなかった1977年の春 出発前、開け広げた窓越しに別れを惜しむ光景、そこかしこから聞こえる哀愁漂う会話
今は亡き父や祖父母、当時の彼女や友人達の事が思い起こされ、涙が止まらなくなるよ 当時はフィルムや現像にけっこうなコストがかかるから車輌はガンガン撮っても
こういった無駄撮り的な写真はあまり撮られてないよね
後になってから無駄じゃない事に気づくわけで… (´;ω;`) >>240
フィルム前半や後半のいわゆる捨て切りの部分に、今になって面白い物が写ってたりするんだよなw 昔は記録に残すのってコスト掛かったからな
個人だけじゃなくてテレビ局だってビデオテープ使い回してたし
ラジオ局も録音テープ使い回してた
こんな良い時代が来るとは 今は便利になったよ
動画も画像も消してもう1回撮影できる >>238
高1といっても蓮田や根府川へはせいぜい月1程度しか行けなかったし、夜行列車で遠征な
んて年1回がせいぜいでしたよ(笑
>>239
あの頃は夜のホームを歩いているだけで、そこら中にドラマがある感じでしたね。出会い
と別れ、喜びと哀しみが、、。
拙い一枚が記憶の扉を開けるきっかけになったとすれば、嬉しく思います。
>>240,241
この日のネガを見ると夕方尾久のホームから客車区にいる20系を撮ったもの、
その次が上野駅14,15番線のホーム風景(上に貼った写真)と八甲田の「青森行」のサボを撮ったもの各1枚
次は高架ホームへ移動しEF5861の単機回送とEF571の臨時津軽を各1枚ずつ撮って終わっていました。
SL全廃の翌年で目標を見失い、手近な上野駅周辺に出かけたのでしょう。八甲田で自分が北海道へ旅立ったのは、その後1年もたってからでした。 >>245
高校生まで神奈川県に住んでいたから根府川はよくいったよ。
5月下旬くらいの日曜日は朝4時前に起きて自転車で1時間かけて
根府川〜真鶴の白糸川橋梁や早川寄りの石橋のカーブで
EF58牽引の紀伊いなばやEF65P牽引の出雲や瀬戸を撮影しに
よくいったよ。
蓮田は大学生になってからだけどギリギリ八甲田や津軽がEF58で
撮影する事ができたけどあと2年早く生まれて東京の大学にいってれば
蓮田でいろいろ撮影できたけど・・・贅沢かな。 >>162,183
ちょっと手間取って遅くなったけど、福島〜の45分間分をとりあえずアップしました
このスレだけの限定公開のリンクです
福島からのアップダウンを軽快に走るEF58?の唸りもところどころでうっすら聞こえます
https://youtu.be/UyXXPFuASDo
このところ毎晩これを聞きながら寝るんだけど、寝台乗ってるみたいで良い気分で眠れるw >>249
アップ乙です!
深夜の東北本線をひたすら北へ疾走する八甲田
乗客の多くは眠り、静かになった車内
もの哀しいホイッスルの音が旅愁をかき立てます
懐かしいこの音を聴いているだけで、もう涙目です >>249
うp乙
ホイッスル音とその後にすぐ聞えるエアー音は明らかにED75ですね ☆ 日本の核武装は早急に必須ですわ。☆
総務省の『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。
日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願い致します。 >>249
客車の走行音は、43系ではなく10系か12系のように聞こえますね。
先頭車スハフ12だとディーゼルエンジンの音が耳につくはずなので、10系かな? 252ですが、先頭車がオハフ13ならエンジン音は聞こえないですね。すみません。
ネット上で八甲田54号の写真を見てみると、12系が使われていたようです ↑252じゃなくて253でした
何やってんだ俺は、、 >>253
ナハフ11じゃないの?
1976年か1977年夏休みに乗車した八甲田54号だから
まだ新系列客車はまだ八甲田に投入されてないよ。
因みに定期八甲田が旧客から12系に変わったのは
1979年4月から >>257
ウザイなら他所のスレへ行だけばいいだけ
どうしても1970年代から1980年前半の東北線急行夜行列車スレは
EF57やEF58、ED71やED75牽引が中心だから撮影も中心となる
そう思うなら当時の急行八甲田・津軽・十和田で乗り鉄話題をふれば
話の流れが変わると思うよ 12系八甲田54号の先頭に立つEF574(77年に廃車)
http://homepage3.nifty.com/EF57/EF57/EF57r/EF57r.htm
八甲田や津軽、十和田、おがの50番台には、波動輸送用の12系が定期列車に先行して投入されていた
76-77年頃、定期は非冷房で臨時は冷房付きという状況は俺も上野駅でよく見かけた EF57形というと流石に東北線では急行八甲田や津軽では撮影してないけど
水上〜湯檜曽などの上越国境でEF57形補機が牽引する急行などの撮影は多い
スキー時期になると石内銀嶺○○号とか走るので上りの回送とかを鉄橋で
よく撮影した。 上越国境っつぅと、EF16というイメージなんだが、
EF57なんて走ってたん? 走ってた。東海道に58が入って57は上越へ。ツララ切りはその時につけてる
でも>>262が言ってるのはEF16だな 急行八甲田は旧客や12系時代はかなり乗ったけど1986年の改正で14系になってからは数えるほどしか乗っていない
急行津軽も同じで、旧客や12系時代はかなり乗ってるのに14系になってからは5回くらいかな
485系や583系になった津軽は結局1回も乗らなかった もう手遅れだけどもっと乗っておくべきでした × 1986年の改正で14系になってからは
○ 1985年の改正で14系になってからは 14系や20系は窓が開かないのが嫌でねぇ、正直意図的に避けていたよ
はさすがに今では平気だが、ガキの頃は貧乏育ちの悲しさか、窓の開かない高級な車両に耐性が無く、
初めて新幹線に乗車した時は、嬉しさより息苦しさと恐怖からか乗車15分で吐いた
だから当時は12系や50系、急行型電車が大好き(旧客は神)だった、今でも185系とか大好きw 混雑してる時は14系でも仕方がないけどシーズオオンフとか空いてる時なら
旧客や12系のボックス席が最高。友達や彼女(奥方)と2人なら確実にお互いに
足を前の席に投げ出して楽な姿勢でも旅ができるし、場合によっては1人で
ワンボックス占領も可能。 >>269
見ず知らずの人とでも互いに足を延ばし合いしてたことあったよ、俺は。
さらに
583系つがる自由席で、勝手に下段寝台をセット(車掌黙認)して、
見ず知らずのオッサンと俺の2人で添い寝したことだってあるw 「つがる」という名称の列車は特急だぞ
急行の夜行列車は漢字で「津軽」だ 昭和48年頃、阿久悠作詞の「北に消えゆく二人」という歌を最近初めて聴いた。駆け落ちしていく若いカップルを主人公にした歌詞なんだが、乗り込んだ列車は急行八甲田をイメージしていたように思えて仕方ない。
以下、歌詞をワンコーラスだけ↓
19時発の北へ行く汽車
ベルの終わりに飛び乗る二人
互いの膝にカバンを乗せて
硬いシートで身体寄せ合う
幼い恋を責められて
恋を捨てずにみんなを捨てた
どこでどうする
この二人
オリジナルは仲雅美という歌手のシングル盤用に提供された曲で、全然ヒットしなかったと思う。俺が聴いたのはチューインガムという姉妹デュオがカバーしてアルバムに収録したもの。
阿久悠氏が故人となった今では、確かめようもないけど何か気になる、、 いまどきのそういうシーンはほとんどバスに置き換わったな。歌もマンガも。夜行列車なくなったから当然だが。 気象板でも同じことがいえるが、過去を美化しすぎる風潮どうにかならないか。
前にも書いたけど、非喫煙者にとっては昔の夜行列車なんか、座席車を利用する限りは一晩地獄だぞ。 >>275 鉄道に関して過去を美化したがるオタが集まってくる板だから、仕方がない。 気象板で過去を美化ってどういうことだろう
昔は猛暑がなくて過ごしやすかった、とか? >>274
以前はつべに上がっていたけど、削除された
みたい。レコチョクで、さわりだけは聴けま
す。このアルバムの23曲目です
http://recochoku.jp/album/A230207907/
ちなみに2番の歌詞↓
汽車の窓から花火が見える
通り過ぎてく街は祭りか
指をさしたらもう消えている
そして窓にはまた闇ばかり
幼い恋を責められて
恋を捨てずにみんなを捨てた
どこでどうする
この二人 >>275
先に>>267さんとか、俺(>>268)が書いてるだろ。
14系は最悪だけど、旧客や急行型は窓が開くから無問題。 上野を出る時は全開だが郡山あたりから先は、夏の夜風が涼しすぎて窓閉めてたかも 黒磯〜白河間は気温が下がった
福島盆地は暑かったけど県境の
国見峠は涼しかった記憶がある >>283
まだ現役のオハ472266は津軽や十和田の運用に入ってたな。 オハ472266は高崎駅始発のSL列車で乗った事がある 高崎始発のSL列車には、むかし北陸本線の旧客で乗ったオハフ332555も使われていたな。 汽車基準、ホームもかさ上げされていないのが普通だったので
初めて上京した時に電車基準のホーム高さに恐怖したw >>288
オハフ33が北海道で朽ち果てる前に、早くJR東に戻してほしいね >>289
東海道沿線で育った身としては、電化されても未だに低い東北本線とかの方が奇妙に感じるw >>291
ステップ付きで対処できるならそっちの方が安上がりだからね 都内生まれで都内育ちなので一般的な電車しか知らなかったけど
初めてステップ付のデッキがある列車に乗ったのは小学生くらいで
越後中里だったか石内か忘れたけど国鉄のスキー列車だった。
帰路は181系の特急朱鷺だったけどあの時の12系スキー列車の
ステップとの出会いは違和感があったけどその後夜行列車として
12系や14系、はたまた旧客に乗ると子供の頃の事を思い出す。
残念ながら旧客(座席車)の津軽は1978年10月、八甲田は1979年4月、
十和田下り5号・上り2号は1979年10月から新型の12系に変わって
しまったので旧客時代の急行夜行(上野⇔青森)列車は数える
ほどしか載っていないのが残念。 >>293
石内銀嶺ですか?
それとも西武鉄道主催のスキー列車? >>291
大磯とか低いまんまだったぞ
祖母が乗り降りに苦労してたし、小さい俺も怖かった。 >>295
80年代ぐらいまでは東海道線も低かった気がする
自分も子供だったけど、スカ線やケト線や私鉄と違って
東海道線だけはいつも階段一段上るように乗車してた記憶がある 弘前始発の臨時急行津軽に乗った事があるけどいつも空いてたイメージがあった 津軽と八甲田の臨時列車は主要駅を怒涛のごとく通過する便が結構多くて
時刻表を眺めるのが楽しかった >>299
弘前発着になる臨時津軽は板谷峠が通れなくなるまで長らくあった
(最後のころは津軽81・82号が12系、80・83号が14系) JRになってからの津軽81・82号は上野〜福島間は八甲田81・82号と併結してたと記憶にある 自分が知ってる急行「八甲田81・82号」は以下のダイヤ
上野19:41→06:37青森
青森22:01→10:19上野
1990年ごろのGWだと思われ 急行八甲田の12系も盛アオからいつのまにか北オクに変わっていたなぁ >>306
この動画から39年が過ぎた
あと4日で上野発の夜行列車は完全消滅
時代は変わったね オラオラそこどけ!とばかりに走り回るターレット、赤帽さんも現役でしたね
どことなくカオスな感もあった地平ホームの賑やかさも今は昔ですかね 荷物扱いや郵便扱いしてた駅にはあったターレットなつかしい
ターレットのエンジン音にホーム案内放送の音にスハフ・スハネフ・カニの
ディーゼル発電機音に乗客の声が混じったシーンがまだ自分の耳の奥に
こびりつているような気がする。 急行八甲田(定期列車)を牽引したED75は国鉄時代は青森機関区で、JRになってからは福島運転所でいいんだっけ? >>312
確か民営化直前の61・11改正から福島所に移管だったと思うけどもしかしたら60・3かも >>315-316
でも今思うと、上野発着の電車急行も情緒があったな。
小ぎれいな冷房付きで軽快な走りの電車急行は、上野駅の雰囲気から旧客に比べて
物足りなく感じたけど。 455系は乗ると165と車内が同じでガッカリした事がある
ドアのステップが455にあるだけの違い 455どころか、キハがきてたもんな。おがにいいでにときわ。
>>315
あずまは最近のあっちのやつだな。福島行はあづま >>321
停車駅は・・・・・山形、天童、神町、東根、楯岡、大石田、新庄、古口、狩川、余目、終点酒田でございます。 12系14系時代の八甲田で夜に北へ旅立つ経験がしてみたかった 考えてみたら、上野から夜行列車に乗ったことが無い
中学生の時東北ワイドで回ったけど、名古屋在住なんで中央、信越経由で東北入りして、周遊区間内では列車ホテルとして利用して、帰りは天の川で上野に着いたけど >>326
言っちゃ悪いが上野から夜行に乗ったことないのは夜行列車マニア失格でしょ? >>327
関西在住とかだと夜行列車乗りまくってても上野発着夜行と縁がないとか普通だと思うよ 田舎がどこかによるよな。
九州行は両手の指くらい乗ったけど、東北は1回もない。
1度秋田への仕事の出張であけぼのになりかけたけど、とりやめになった。上司と寝台なんてやだと思ってたからほっとした。余談だが秋田で見た日本海はまだまだブルートレインの風格たっぷりだった90年代。 >>328
そういう意味ではなく、上野発着の夜行ってのは一番の花形でしょ?
その様な列車に一度も乗れていないというのはね、個人的主観だけど >>330
>上野発着の夜行ってのは一番の花形でしょ?
そんなことはない
日本の鉄道史上一番の花形の夜行は東京駅発だよ 東京発夜行の魅力って何?
全く想像できないけどなぁ 東京住みで九州・北海道とも足しげく通い'74で鉄行動から足を洗ったのだが
華々しさなら東京駅発だろうが、ロマンという点では上野駅櫛形ホームから
青函連絡経由で北海道を目指す汽車旅が最高だったね
ちなみに窓・ドアの開かない箱はつまらないので特急には乗らずじまいで
九州へは霧島/高千穂か安芸~はやとも乗り継ぎ、帰りは色々適当
北海道へは八甲田~宗谷、帰りはライラック~みちのく3号(オシ17で昼飯を食う)が常だった
あの頃の八甲田は57牽引で14番線から1630発だった。 >>332
日本の鉄道史上一番の花形の夜行=ブルトレってことだろ
価値観の多様性は人それぞれに有って良いではないか? >>333 連投ゴメン
みちのく3号…×
十和田3号…◎ そうだよね、価値観は人それぞれで良いと思うわ
まぁこのスレは上野発の急行スレだから、
そっちが好きな人の方が多いだろうけど。
時代にもよるだろうね、東京発と書いている人は、
もしかしたら新幹線博多開業前の急行華やかし頃を
言及してるのかも知れんし。 どこに住んでいようが乗り鉄撮り鉄の際あちこちの夜行を使わなかったのかおまいら 自分がリアルタイムで経験してなくても来てええじゃろ >>339
自分がリアルタイムで経験してないものを懐かしく思うってどういうこと? >>339
親も、生まれる時代も選べない、人間皆平等なんてウソだからな、諦めな
話変わって、青森電化後の八甲田って仙台で青森方にスハ・スハフ2両増結してなかった?
上野からだと立ちんぼになりそうなので仙台迄まつしまかいわてで先回りして着席したような記憶が… ありがとう、ググったら出てきた
カップヌードルを初めて食ったのもその時、プラ製フォーク付きで
メチャクチャ美味しかったよ
俺的には盛岡からC61牽引の頃が八甲田の絶頂期だなー >>339-340
模型や映像から入って思いを馳せるのもいいじゃないか
上野発夜行もC62時代のニセコもリアルタイムでは知らんけどカッコいいものだぞ
若いからって馬鹿にすんなや >>334
模型的には1950〜60年位のぶどう色一号の「銀河、彗星、あさかぜ」旧客編成
が面白い、「阿房列車」は大好きだ。自分は北関東の人間だから親しみがある
だけかもしれない。あとゴナナの記憶と昭和歌謡のイメージかな。 >>345
良いこと言うなぁお前さん!
模型や映像から入って思いを馳せるってそれ今の俺だわ(笑)
北斗星やはまなすが廃止されて落ち込んでいる時に模型や映像は最高の慰めになってくれる
ありがとう、あんたのレスに救われたよ この板は『懐かし…』ですからね
・懐かしむことの対象⇒実体験=過去に実際起こった事≒ノンフィクション
・思いを馳せることの対象⇒妄想=なにかから個々人が脳内に創り出した物≒フィクション
なので両者に優劣はありませんが、別の人種なので他の板へ行くのが筋ではないでしょうか? 資料から過去を追いかけることも懐かし板の存在意義やろ 当事者の記憶が揺らぐ事もあるでしょうし
実体験を資料から再確認する行為は私が述べた内容と矛盾しないと思いますが
 ̄ ̄ ̄ 冷凍みかんを自製して喰いながら鉄模で19:30上野発車とか遊ぶ、最高の追体験 >>320
上りだけ上野にきていた「そうま」を忘れないでくれ。
夜上野に着いて、水戸行の快速(Bグ営業)となるやつ。
ついでにいえばこの水戸行が常磐線の定期券乗車できる列車の最終。 >>355
それは78年10月改正で、「ときわ」になり電車化されただろう。
そこまでなると181系DC「つばさ」も近くなってくる。 >>356
53.10は細かい変更が多かったな
Tb連結中止に伴う仙台の455・457系統一、いわて・まつしま各季節1往復廃止
↓
453系の勝田転属、つくばねの移管
↓
そうま1/1のときわ編入に伴い、原ノ町〜仙台の普通1往復が453系(G営業)に変更 その時代に生きてない奴はNGってのなら
古典文学・芸術・音楽などの愛好家を全否定するのか? 懐かしいと思わなければならないというのもまた視野狭窄 そのときは何気ない「ヒトコマ」であっても、
その話がでると涙がでそうになるのは、
その「ヒトコマ」からその時々の過去の自分がいて
そして人間というものは勝手なもんで、
できることならタイムマシンに乗って過去の自分に会って
「ああしなさい」「こうしなさい」と
いってみたくなる思いがあるからなんだよな。 「ここは大人の集会所だ。若造はスッコンデロ!」というのも了見が狭い。
もっと門戸を広げてもいいと思うんだよね。
今は昔、
30代以上板で、20代以下の人がカキコした際に
「若造は来るな」という排他的な住民がいて荒れた時期があった。
一方では
「中年の会話が中心だけど、年齢制限なんか気にしなくていい」という穏健派
「来てもいいけどROMるだけにしろ」という折衷派
さまざまあって、何となく自然に落ち着いていった。
しかしながら、
やっぱりジェネレーションギャップで会話が噛み合わなくなり
後に「30代以上板」→「30代板」に改軌され、別途「40代板」「50代以上板」が誕生した。
さらに現在は「30代板」「40代板」「50代以上板」「60歳以上板」へと細分されている。
「特撮板」や「アニメ板」の場合も、「懐かし特撮板」「懐かしアニメ板」が分離独立したが
「懐かし」の定義が「放送終了後5年」というものだった。
たった5年・・・そんなの昨日のことじゃないですか。
やはりジェネレーションギャップは解消できず
さらに「懐かし・・・昭和」「懐かし・・・平成」へと細分化されている。
やっぱり、「懐かし鉄道・昭和板」と「懐かし鉄道・平成板」に分けなきゃならんのかね? >>366
スレの対象になる列車等によって年齢層は自ずと決まってくるんじゃね? 江利チエミ、山口百恵、モーニング娘。だけでも三分割できてしまう >>368
>368 名前:回想774列車 [sage]: 2016/06/02(木) 20:47:29.49 ID:BW5Ca2Rl
>江利チエミ、山口百恵、モーニング娘。だけでも三分割できてしまう
それは流石に大雑把すぎませんかねえ
間に小柳ルミ子とかピンクレディとか松田聖子世代がいるわけで >>332
>東京発夜行の魅力って何?
・早期からさくや・はやぶさ・みずほ・富士・出雲・あさかぜ・瀬戸にヘッドマークを付けていた事。
・殆どの東京発着寝台特急で食堂車を営業していた事(紀伊・いなば・あさかぜ3・2号・瀬戸を除く)。
・はやぶさ・富士・あさかぜ・出雲・瀬戸に新型の24系25形100番台や200番台を投入していた事。
・一部を除き、乗車時間が長かった事。 >>371
そうは言っても東京発の夜行には何処か魅力がない、やはり上野発で北へ向かう夜行こそ哀愁があり魅力的である 哀愁ってなんだよw
意味わからねぇ。なんかに影響されすぎじゃねぇのかw 上野の夜行の魅力ってのは、雑多な感じ。
東京の夜行の魅力は、統一されたようにスムーズに流れる感じ。
車両も、駅の造りも、乗客の流れも。 >>371、おまえ贅沢したいだけだろ?
カネ撒いて贅沢買ってチヤホヤされて、窓もドアも開かない箱でシステムにはまって
ブロイラー化するのがそんなに楽しいか?
言っとくがカネで買った快楽はすぐ忘れ去るぜ
おまえみたいなハイソ様(笑)にゃ上野発の夜行急行の楽しさは永遠に判らないだろーよ、小僧 この調子だと上野口のブルトレや583もも否定しないと変だしとりあえず対立煽りたいだけだろう いい年したおっさん同士で何やってんだか
だから鉄はダメだって言われるんだよ >>375
石川は石川でも、どっちかっつうと啄木先生のほうだろ
「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」 でも急行と特急は生活臭の有り無しで、まったく別の乗り物だったよ
ハネ通路側の窓を開けて風を受けてトリスのポケット瓶をチビチビらっぱ飲み…
俺にとって夜行急行の楽しみはこれに尽きたな やはり上野発の方が良かったなー 闇の中を疾走する快感があった
東海道・山陽沿線は街の灯が途絶え無いんだよね 銀河鉄道999はその東海道山陽の街灯がヒントになったそうな 俺もそれ好きだったよ、俺の場合はそれプラス缶ピーだったがね
ただ日本列島を北上するハネの通路側は全て進行方向左側で
太平洋・瀬戸内の潮風には当たれないんだよね
十和田とか安芸・雲仙・天草・筑紫・・・あたりでやりたかったですなぁ
良かったのは、筑紫での折尾~小倉での大S字カーブを駆け抜け
ながらの、西日を背にした八幡製鉄工場群の鉄色の眺めと
抜海~南稚内での利尻から見えたの冬の日本海ぐらいだったかね
ややスレちゴメンね >>387
当時確かに缶入りピーナッツ(アーモンドやクルミなんかもあった)売ってはいたな
キオスクにあったかどうかは記憶にないが オトナの男に成るにはな!?
其の一:硬くなったチンポコの使い方を熟知する
其の二:『飛び降りは大変危険です列車完全に止まる迄お待ち下さい、お止め
ください、お止めください!お〜おーおい!』
の絶叫を他所に上野駅の地平ホームに飛び降りる
必要がある。
両者共にその行為が日常性の中で、不機嫌そうに、つまらなそうに、クールに
かつテキパキと行わなればならない。
間違ってもワクワク感など出してはならない。
特に其の二に関しては
@出来るだけ速度が出ている時にやる
A後部の車両でやると、その車両が完全に停車してから降りた客の方が先に行ってしまい
恥ずかしい思いをする事があるので編成長に注意する必要がある
B踏み切り足で着地する
これだと容易に対地速度とシンクロ出来る
要は三段跳びのホップステップだ、間違っても
ジャンプしてはいけない。コケる
C柱に気を付ける
D移動売店に気を付ける
Eターレットに轢かれない
F鋭く飛び降りた後は踵を引き摺りながらズチャラズチャラだらしなく歩く
G此れが重要!くわえ煙草でやる。煙草はピース。片手には缶入りピース(ピー缶とも言うが
俺はJazzマンを目指してたのでカンピーと呼ぶ)の缶を持つ!
要するにだな…君が宇都宮在住の童貞君だったら、缶ピー持って上り八甲田で上野駅
そして鶯谷駅から吉原のトルコ風呂に直行して口明けの嬢を指名する
かくして君は一日にしてオトナの男に成れる訳だ
以上 オトナの男に成るにはな!?
其の一:硬くなったチンポコの使い方を熟知する
其の二:『飛び降りは大変危険です列車完全に止まる迄お待ち下さい、お止め
ください、お止めください!お〜おーおい!』
の絶叫を他所に上野駅の地平ホームに飛び降りる
必要がある。
両者共にその行為が日常性の中で、不機嫌そうに、つまらなそうに、クールに
かつテキパキと行われなければならない。
間違ってもワクワク感など出してはならない。
特に其の二に関しては
@出来るだけ速度が出ている時にやる
A後部の車両でやると、その車両が完全に停車して降りた客の方が先に行ってしまい
恥ずかしい思いをする事があるので編成長に注意する必要がある
B踏み切り足で着地する
これだと容易に対地速度とシンクロ出来る
要は三段跳びのホップステップだ、間違っても
ジャンプしてはいけない。コケる
C柱に気を付ける
D移動売店に気を付ける
Eターレットに轢かれない
F鋭く飛び降りた後は踵を引き摺りながらズチャラズチャラとだらしなく歩く
G此れが重要!くわえ煙草でやる。煙草はピース。片手には缶入りピース(ピー缶とも言うが
俺はJazzマンを目指してたのでカンピーと呼ぶ)の缶を持つ!
要するにだな…君が宇都宮在住の童貞君だったら、缶ピー持って上り八甲田で上野駅
そして鶯谷駅から吉原のトルコ風呂に直行して口明けの嬢を指名する
かくして君は一日にしてオトナの男に成れる訳だ
以上 S53 12 31 に上野から乗った臨時十和田
スハ43系に10系寝台なども連結されていた記憶がある 座席車の通路に新聞紙を敷いて一夜を過ごし 盛岡辺りからやっと席が空きはじめた
今じゃそんな豪華列車、幾ら金を積んでも乗る事は出来ない 半濁点と濁点の違いも分からないのかよw
>>386の記述は缶ピーでなくて缶ビーだぜ
缶ビール(麦酒)の缶ビー ココは減らず口しか叩けねー、ゆとり屎ガキヲタクが来る場所じゃねーんだよ
巣に帰りやがれ、もー来るんじゃねーぞ アスペ低能野郎 青森へ到着すると連絡船が出航を待っている
今回の船は何だろう そんな楽しみもあった
乗り換えの醍醐味があった 青森マラソン・函館マラソンやったなー、青森の連絡通路の方が長くて屈曲も多かった記憶がある
レチが車両ごとに乗船名簿とちびた鉛筆渡して回収していくんだよな
連絡船での手足伸ばしての仮眠は本当に助かった 青函連絡船は桟敷席が最高だよ・・・ゴロンと寝られるから 函館駅では、ワイド周遊券で乗れる特急自由席が遠くて階級制度を痛感した。 ほたるの光が流れる中でのドラの音、あれって本当に打ってたのかねー?
良い光景だったよなぁ〜、、、 >>408
洞爺丸などボーイが乗組のころはライブ
津軽丸後しばらくしてテープ
末期にライブ一部復活 >>408
出航前にドラのテープが流れ、出航と同時に蛍の光が流れる ピンポンパーンポーン♪
入場券で船内お入りの方、当船はまもなく出港しますので
お急ぎ桟橋送迎場の方にお戻りください
>>405
>>406
深夜便や急行八甲田接続で寝不足なら桟敷席が多かった。
あと空いてる時も桟敷席、逆に激混みの時は1人分の
スペースが確保されてる椅子席が多かった。 臨時の51号とかだとEF57だけじゃ足りなくてEF56も牽引してた 八甲田6:30着でいつも八甲田丸
はつかり0:15着でいつも十和田丸
函館は時間に係わらず摩周丸
羊蹄は船の科学館で乗ったが >>412
(規則上の是非はともかく)入場券だけで船内にって可能だったんだろうか?
乗船口では乗車券は確認しないけど、乗船名簿は回収してたから、乗船目的以外は無理じゃね? 青森発八甲田(旧客付)は大宮駅で沢山の人がおりた記憶がある。
みんな上野駅まで乗るものと思っていた。 青函連絡船乗った船舶ベスト5
@八甲田丸
A十和田丸
B摩周丸
C大雪丸
D羊蹄山丸 羊蹄丸だろう?
現役時代は貨物船改造の2隻は乗れなかったな
八甲田丸と松前丸も
結局乗ったのはは津軽丸 羊蹄丸 大雪丸 十和田丸 摩周丸 12系になってからの八甲田で、
荷物車がワサフってあったよね。
画像検索しても見つからない。 >>422
YouTube
1984年(昭和59年) 秋 青函連絡船 津軽線
に映ってるけど 12系は快適だったなぁ(スハフ除く)
ピッチ広かったし、手摺りにアタマ寄っかかれたし。
14系と違って窓が開くのが良かった。
下手に簡リクなんかだと寝られやしない。 >>425
いいよね12系、おいらは拾った漫画を枕に窓側が頭だった
上り八甲田はなぜか電暖強すぎて焼き魚気分だったなぁw これは12系と言わない
ってこのスレで言わなければならない時代か まあ野暮なことですまんが、東北本線系統にはオハネ12の配置はない。
それ以外のオハネフ12・13、スハネ16。 >>434
なんだと思う?
自分は旧客だと認識してるけど 編成の一番最後の貫通扉を開けたまま走る習慣があったのが旧客
・・・というのが俺の勝手な基準w どうなんだろ?
お盆で還って来てる某氏は10系を含めて雑客と言ってたし
郵便・荷物車は14系や50系に準じた車も居たし…
内装を近代化したオハ36なんかはナハ10より綺麗だった印象 スレチだが
夜行鈍行「山陰」は、旧型座席車+10系寝台(オハネフ12だかスハネフ12だか知らんが)の編成だったが
末期には12系座席車+10系寝台(オハネフ12だかスハネフ12だか知んが)になってしまった。
前者は、寝台も含めて旧型と呼んでいいだろうが、
後者は、座席部分は旧型じゃなくなってしまった。 >>439
デッキを封鎖
電源を自前で確保
かなあ
境目が20系か12系 >>441
10系を旧型とする位置付けなら末期の津軽 まりも 利尻 大雪このあたりも
スハネフ12は無いよ >>439を支援
したがって、12系座席車も20系も旧型ではない。
10系寝台は旧型に入れてやってほしい。 >>443
末期の津軽は583系 まりも 大雪は14系 利尻は 続き
利尻はキハ183系とスハネフ14
スハネフ12 ? だからオハネ12など10系寝台や座席車は12系じゃ無いから 設計は10系以降が新系列だろうけど、旧客に10系寝台数両はノスタルジー世代だあね 基本的に同一系列だけで編成を組むのが新系列客車の定義じゃないかなぁ。 >>450
それだと、「12系座席車+14系寝台車」の編成は旧系列客車になってしまうぞ。 ちくま・さんべの20系+12系も当てはまってしまう〜
走行中開放可の客車が旧型のイメージかな >>450
20系客車の固定編成のフレーズで
てっきり中間連結は半永久連結器でも使っているのかと思った 国鉄が20系から新系列って言ってるんだから
国鉄車輌課は10系から新系列のつもりだったんだろうけど、20系は成功して
10系、早期にボロボロになっちゃったからな
10系が難しい位置にいるからこういう論議になるんだろうけど >>452
ちあきなおみ「喝采」より・・・♪動き始めた汽車にひとり飛び乗った
こういうフレーズが解る世代も少なくなってきたな。 オユ14なんてのはオユ10をベースにしながら12系に準じた車体構造だと言うし…
マニ50は50系だけどスユニ50は台車が旧系列
車体は新しくても吊りかけ駆動の更新車みたいなものか?
マニ44? 貨車でしょ? >>458
既にオユ11 101〜105から12系に準じた車体になっている。
スユニ50は台車と一部部品を流用した更新車。 >>456
中島みゆき「ホームにて」で、
「振り向けば 空色の汽車はいまドアが閉まりかけて・・・」
の歌詞はいわゆる寝台ブルートレインではなく、旧客のイメージがわく世代も少なくなってきたよな。 当時幼稚園児のおれは日東の日本航空のDC-8のプラモデルの箱に描かれた夕焼けの空を背景に着陸するDC-8見ながらうっとりして喝采聞いてたわ。
DC-8は歌とは全然関係ないんだけどな、幼稚園時の俺にはよくあった 笑 >>461
中島みゆき「時刻表」
♪今夜中に行って来れる海は何処だろう? 人の流れの中でそっと時刻表を見上げる♪
「冊子の時刻表」でも「壁に貼ったポスター型の時刻表」でもなく
昔の「上野駅中央改札口の上に吊り下げられた大きな列車案内板」なんだよね。 中島みゆきといえば「あたいの夏休み」
軽井沢か清里のことを歌った歌 チェリッシュの「はつかり号は北国へ」という曲もあった >>464
週刊紙読んで来れば数珠繋ぎー
って歌? >>463
>上野駅中央改札口の上に吊り下げられた大きな列車案内板
手作り感が旅情をさそったよね
そういえば、、、
いつのまにか甲子園球場のスコアーボードも電光掲示板になっちゃったね 大宮まではまだまだ序の口
宇都宮もまだ関東だし
福島過ぎると来たなと思うが仙台まではまだまだ
仙台すぎると来たあと思う
盛岡過ぎるとこれぞと思う
東北の旅 >>468
まさにその通りだったね。
盛岡辺りで白々と夜が明けはじめ
周囲の景色が見えてくると、来たぞ!と思ったものだよ。。
それが今や、東北名物が走るプレハブ・・・(´Д`)ハァ… 常磐線沿線在住
飲んで終電近くに乗ると、夜行がこれからバンバン来た時代もあったんだなと思ったりする 季節列車のオール寝台「十和田」に乗ったが、目が覚めたら十三本木越えだった。 福島仙台あたりで田んぼの真ん中に「白松ガもなか」「花春」とか看板が見えたね。
青森に近づき右手に海が見え出すと連絡船に乗る前から「いよいよ北海道だわ」と気がはやる。 >>474
白松が○○ の看板目立ったね
最中と羊羹がカタカナなのな
福島あたりではハイセブンの看板もあったわ
ちなみに車窓から見える看板ではないが、青森に行くと「ユドーパン」の看板のお菓子屋がやたらあったわ >>474
福島仙台あたりからホーム真ん中に走るプレハブ小屋が見えたね。
青森に近づき右手に海が見え出すとガマン大会から解放され「やっと北海道へ脱出できる」と気がはやる。 10系寝台車も走るプレハブだったんじゃね?
そして冷房なし、コチコチのボックスシートで開放式ドアの走るボロ家が併結され、それでも急行料金取るってのが、40〜45年位前の東北夜行急行だった。 >>477
ハネは冷房化されてから、ナからオ級に上がって良くなったよ
10系ロザ、ハザは最後までよく跳ねてたわ >>477-478
そんなガラクタを平成の時代に作るな、走らせるな!!ってことだろw >>478
プレハブのハネに後付けで冷房付けても、長く持たなかったということだろ 長く持たなかった?
50年代から80年代まで走りゃあ十分だろうが
現代版プレハブよりは間違いなく格上だろうな 冷房付けてヘタって25〜27年位で引退だろ。
実質、遜色急行化してたのをだましだまし使ってたわけだから。、
701がデビューしてから間もなく25年になるのか・・ >>482
で、701が秀逸な車だとでも言いたいのかな?
だとしたらお前の感覚はどうしようもなく世間ズレしてるなwww
屑鉄らしい立派なセンスをお持ちでwwwwwww 701アスペなんてほっとけよ
スレチだし荒らしただけだろ 701のゴリ押しウゼえ
どんだけ10系sageされても車窓に背を向けた跳ね駄馬よりはマシ
701系の跳ねまくりに比べたら10系なんてかわいいもんだった
スレ的にも701イラネだわ みんなスレタイ読めるかな?
昔、出世列車の御利益にあやかりたくて
年、身なり不相応にA寝台を奮発したなw
ゴハチが肩で風切り10系ロネ,ハネに12系ハザがズラリの時代だった 昭和五十年代前半までは熱帯夜はめったに無かったし、民家では窓を解放して蚊帳を吊って就寝していたし、冷房機なぞ普及していなかった。東北筋ならなおさら。
勘違いして過去を卑下しても始まらない。 78年に通勤バス初の冷房車、私鉄は有料特急・急行ならばほとんど冷房化していた時期に、国鉄は冷房なしの旧客を急行料金取る長距離列車に使ってたんだけどね。
そして関西私鉄では無料の特急に転換式クロスが当たり前だったのに、国鉄急行はコチコチのボックス席。
同時代でこれだけの差。客が夜行急行から逃げたのは当たり前なんだよ 八甲田って、旧客、12系、14系時代も通して、ずっとオールハザだった印象。
そもそも寝台があった時代ってあったの?
日本語も空気も読めない気の毒なガイジ
とうとう放置プレーかw >>494
昔は上野〜青森通しのと仙台以北のみ連結の寝台車繋いでたそうだが昭和50年辺りで外した
あと旧客時代はスロ62がついていたはず >>494
1975年頃は仙台〜青森間だけB寝台連携だったとケイブ社の百科事典で見た記憶がある 昭和41(1966)年10月改正、古すぎるか
△ ▲ B C D E F GH IJ KL M
荷 郵 自1 指1 寝2 寝2 2 2 2 2 2 2 2 2
△下りだけ 白河−青森
▲上りだけ
LM 福島−青森 >>494
臨時の八甲田の付属編成にMotoトレインが連結されてたことならあるけどw 14系座席車+24系寝台車の臨時おがとあきたがあったな あくまで噂ですが今日の天理臨で583系ラストランと噂されてますね。
何というか、あの車両が消えるとあの頃の生き字引が消える様で寂しいです。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
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トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社テレビビジネス森友学園パチンコ必勝法オークション販売時代)
NHK中国人用トランプ大統領テレビニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 豪華列車で喜んでる連中は八甲田や津軽には乗車したこと無いんだろうなとは思う
朝からホームで新聞紙敷いて座席を確保することから旅は始まってるんだ 自分も夕方からはあるが、朝から待ってるなら、そのまま乗ればいいと思ったことある。
当時は昼の急行あるから目的地まで行けるし
宿代節約のため? >>504
目的地はその列車の停車駅とは限らないからなぁ
支線乗り継ぎとかあったら昼行だと乗り継ぎ駅で最終出た後になったりするから >>503
若い頃八甲田や津軽使って旅行してて
今は豪華列車の旅で喜んでる人はたくさんいるだろ >>504
八甲田が上野発1510の時代
常磐線廻り、みちのく950、はつかり1330では青森着が2300以降になってしまう(渡道がメイン)
青森直通の昼行が少ない時代は貴重だったんだ。
http://i.imgur.com/q5BkOSa.jpg
http://i.imgur.com/4jtjpid.jpg 名物焼きそば「急行」閉店 88歳店主、厨房で倒れ死去
6/4(日) 10:23配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170604-00000015-asahi-soci
北海道のJR・道南いさりび鉄道木古内駅そばにあった老舗食堂「駅前飯店急行」の店主垣内キミさんが5月、亡くなった。
直前まで名物の焼きそばを作り続け、厨房(ちゅうぼう)で倒れた。旧国鉄時代や昨年春の北海道新幹線開通など、
木古内のまちの移り変わりを見守った88年の生涯だった。約60年続いた食堂は、垣内さんの死去とともに幕を閉じた。
「駅前飯店急行」は、垣内さんが作る和風味の焼きそばが名物だった。2013年夏までは、JR木古内駅のすぐ前で
開店当時の古い店舗で親しまれてきた。北海道新幹線開業に伴う駅前再開発で立ち退き、同年10月から数百メートル離れた場所に
移転して営業を続けていた。
垣内さんが倒れたのは5月16日。夕刊を読み、午後5時ごろにやってきた男性客に焼きそばを作ったあと「背中が痛い」と言って、
厨房にある丸いすに腰を下ろした。毎日手伝いに来ていた知内町の宮西容子さん(62)に「水が飲みたい」と頼んだ。
宮西さんが湯飲みを取ろうと振り向くと、いすから崩れ落ちるように倒れていたという。
すぐに救急車を呼びドクターヘリで函館の病院に運ばれたが、午後8時過ぎ息を引き取った。大動脈瘤(りゅう)破裂だった。
道東の浜中町出身。旧国鉄時代、松前線と江差線の分岐点だった木古内駅前で始めた店は繁盛した。
「急行でも止まればいいのに」と願いを込めて付けた店名だった。
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 大学受験の時、どうしても宿が取れず、仙台から上野まで十和田に乗って行った。案の定、全く眠れず、試験会場では半分船漕いで問題解いてた。
それでも第二志望に現役合格しました。平成初頭のおはなし。 ↑
すまん、八甲田だった(十和田はすでに廃止されてた)。
上野駅到着が5時50分ころだったのを覚えてる。 通しだけでなく早朝上野到着の便利な始発でもあったようで
八甲田で郡山からお嬢さんが乗って来て上野まで俺に寄りかかって寝てた
新幹線増収のための廃止でもあった 平成初期の頃だと思うけど、ふれあいみちのくを使った、臨時の夜行で、八戸から上野まで乗ったわ。お盆の上りだけど、空いていて快適だったわ。
列車名が思い出せないのよね。
八甲田8○号だったか、お座敷みちのくとでも言ったかな? 昭和45年夏に臨時の津軽で渡道したとき、上野出るときの牽引はEF56だった >>517
OK
583系臨時津軽は寝台も連結されていた時期があった 昭和40年代の時刻表見てみたら、帰省ラッシュ時の奥羽磐越方面の夜行を上野駅の混雑緩和の為か品川発に変更する処置を取ってたんだが、これっていつまで続けてたんだろう?やっぱり新幹線工事で東京〜上野間の線路剥がすまでかな
あと、実際に品川から乗った経験ある方がいらっしゃればその時の話をお願いします 数か月前のRP誌によると昭和50年の年末が最後だったらしい<品川発 RPじゃなくて先月発売の国鉄時代だった
山貨経由と東京経由両方設定されていた
品川発着の理由は519氏のとおり上野の混雑緩和のため 定期列車は上野で荷扱いするから東京経由じゃないかな? 中学の時に臨時十和田は上野で撮影した。その後に鉄道から離れたので八甲田や津軽は撮影どころか見ることすらしなかったのが悔やまれる。 >>503
三沢航空ショーも劇混み
リクライニングをハの字1組にした隙間に新聞敷いて寝てた輩が居たの >>526
通路立ちがあるくらいに混んでた時はそれやってたな
チビだったんでスッポリ入り込めた
足を縮めて窮屈だったけど立ちっぱよりはマシだった >>517-518
538津軽
自由席ハザ 勝手に下段寝台セットして寝てる客が多数
車掌も見て見ぬフリ >>66
確か盛岡からのはつかりが一時間に一本走らない時間があって、他客期のその時間帯においらせが12系で走ってたわ。八戸発14時台の八戸線快速に接続してたね。懐かしいわ。 >>533
機関士の気分しだいなんだろうが、
黒磯から先は、貨物列車の発車とおなじ
俺は、夜勤だ、おまえら 起きろ〜との
無言のメッセージが、届きます >>511
東京住みから北海道の大学に通う事になり、記念にと八甲田に乗った日、車中で国鉄からJRに変わったのを思い出した >>528
東北本線では暗黙の了解だったんだよな
583系はつかり自由席で同じような事日常茶飯事だった
4人以上であのスペースで酒盛りして、仙台過ぎた頃には雑魚寝で青森まで行くグループがいた >>537
オレはそれをやって、朝山形を発車してから車掌に叩き起こされた。 夜行の十和田は想像つくが昼の十和田とか乗ってるの苦痛では? トーホグ人はじーっと静かに座ってるのよ
今の東北新幹線みたいに >>539
気動車「おが」も上野〜秋田を日中長い時間走ってたしな。
また上り「八甲田」も日中の区間が長かったが、「まつしま」の使い方をする利用客も多かった。 津軽はずっと食堂車無しで山形秋田弘前は格下扱いなのを痛感したものだ 揺れる車内での調理って難しそう
あと、碓氷峠を超えるときとか、調理場のテーブルが斜めにならなかったのかな? >>546
約4度傾くからなぁ、利用する分には不自由なかったけど。
(計算結果、実際にサシ489でコップの水の傾きを紙に写し取ったのもそれくらい)
横軽は空気バネをパンクさせるから、ズンという振動は直接来るが、ふわふわとは揺れない。 上野ー秋田の「おが」って、非電化区間ってあるの?
奥羽本線電化後は全線電化区間だったと思うのだが。 >>548
当時、交直流電車を製造して充当する金が無かった。
また、当時は電化が進んで急行型DCが余剰気味で、それを活用する必要があった。
全区間架線下のDC急行なら、他に赤倉などの例もある。 >>548
羽前千歳-秋田の電化が1975年じゃん
急行用電車の新製は4年前に終わってる
当時は他で急行用電車が余らない限り
電化しても特急格上げかディーゼルカーのままという場合が多いね
457系増備して電車化したらキハ58系が余っちゃう
そこまでして電車化するメリットなかったんだろう 秋田での間合いの関係もあるのかな
平地を走るまつしまとかときわをDCに置き換えて
おがやざおうを電車にして板谷峠を20分短縮&冷房は
利用者的には相当ありがたい感じがする ときわは末期まで奥久慈併結してるのはキハだったよな
それに電車でもときわは451だから >>549
>>549
なるほど、そんなところですかね
レスありがとうございました >>551
間合の関係はあるよ、
通勤時間帯にその分だけ別に車両が必要になる。
それも理由で特急に格上げしなかった列車もある。 >>551
そもそもまつしまの455系は仙台持ちだしンなことしたらざおうの455系運用まで巻き添えになるがな
ざおうも新幹線上野開業まで残るのは455系の定期1本と12系の臨時だった辺りで察したほうがというとこだけど 抑速ないとかは置いておいても、板谷はMT54の455や485でMT比2:1を確保してたから
たとえ451をMT比2:1にしても、上越の時に161系でそれでやっとだったから板谷は無理だと思う >>556
「ざおう」は上越新幹線大宮開業前までは、「いいで」併結の気動車が定期で、455系電車は
季節列車だった奇妙な急行だった。
大宮暫定開業時は「つばさ」「やまばと」が減ったけど、山形地区は新幹線乗継ぎの利便性が悪く、
上野直通列車の需要がまだ多かったので、電車「ざおう」を定期化したようだった。 八甲田は発車時の連結機の遊びが有りすぎてめちゃくちゃ揺れた思い出しかない
寝ててもその度に起こされた >>561
どの時代の話?
14系ハザ?
12系?
旧客?
気動車? >>561ではないが14系八甲田下りで再ノッチ時ビクーリ起きる位の衝撃。上りではそんなに感じなかったのでウテシにもよるんでしょう
その乗ってた上りが誰か写真撮っててさよなら出稼ぎ列車と読売写真大賞金賞取った(平成5年11月22〜23)記憶 機関車の癖と性能と運転士によるな。交流機は面倒さえ厭わなければその差が出にくいのと
ダイヤに余裕があるから、562みたいな印象になる。
あと同じところで衝撃くるのは故障してる時もあるから一概にヘタというわけでもないのかも 急行妙高の夜行も酷かった記憶
ET62+旧型客車
貨物列車が発車する時の様なあの連続音と揺れ >>542 >>543
夜行十和田は急行食堂車では一番遅くまで残ってたからな。
あの北陸トンネル火災でオシ17が連結禁止になって食堂営業も廃止に追い込まれた。 >>249
この音を聞きながら絵本の「やこうれっしゃ」を見ているとたまらない。夜行バスの出始めでも学割で東京ミニ周遊券が東京往復の最安だったので津軽、八甲田は乗ったなぁ。青函連絡船の青森駅の広い待合室が懐かしい。
青森新町の成田本店のベストセラーになっていたけど写真集「青函連絡船の人びと」はここに集う人にはおすすめです。 ターレットが行き来する青森駅ならわかる
けど、下り津軽で停まった秋田駅のホーム
がやたら広かった印象がある。朝食の牛めし
と350缶のサッポロ黒ラベルが後のあけぼの
4分停車でも定番だった。
下り八甲田の盛岡15分停車の記憶はほとんど
ないのはなぜか?ホームが普通の広さだった
からなのだろうか?
今になって583系と485系の津軽に乗ってお
かなかったことが悔やまれる。 >>577
確かゆうづる待ちだったと思う。
583系の車両だった。 下り八甲田の盛岡15分停車って5時45分到着6時ちょうど発の時代の話だよね?
俺的にはちょうど夜行と昼行の区切り目みたいな感じで印象深かったけどな 一戸駅にとんかつ弁当があった時代ですね
若さと旅の勢いから朝食として何回か食べ
た記憶があります。一度でいいから連絡船
の鮭弁当を食べてみたかった。 >>249
福島の次は小牛田!
いい八甲田号に乗られましたね かすかな記憶では小さい頃母親とお盆の時、はつかりの切符とれなくて三戸から上野まで昼行十和田乗った記憶ある。自由席で三戸からどこらへんかまで立ってきたのを覚えてる。上野駅着いた時もかすかに記憶あるが座席に座ってた。18時頃着いたんじゃないかな? 平成元年の仙台駅時刻表を見ると
3:13分 下り急行 八甲田青森行き が載っている。
次発は 6:08 一ノ関行き 6:24 利府行き
6:32 松島行き(休日運休) 6:40 利府行き(休日運休)
6:55 古川行き
当然のことながら、新幹線が開通しているので盛岡・青森方面の特急電車は記載されていません。
ちなみに、北斗星下り時刻は 1号 21:13 3号 21:44 5号 23:34 >>581
これが仙台駅発 3:13分の列車か?
で、1975年頃の仙台着 急行 いわて
の仙台駅5時台の電車はあったの?
たぶん、これで上野駅から乗って帰省していたのかな〜(記憶がない爺) >>586
>これが仙台駅発 3:13分の列車か?
そうだね
仙台には3時1分到着
ちなみに
>6:32 松島行き(休日運休)
これは大河原5時32発の松島行なんだけど休日のみ仙台行になる >>577
下り急行八甲田の盛岡駅15分停車は1985年3月14日から1990年までの
間で、盛岡駅は5:45-6:00の15分停車だったが、1991年くらいから
盛岡駅は5:55-6:00の5分停車に減り、1993年12月からの臨時八甲田に
なってからは盛岡駅の発着時刻が5:43-45の2分停車に縮まって寝台特急
はくつる3号(13M)の退避は6分停車の水沢(4:43-49)に変わった。
更に1996年春の改正で臨時八甲田の時刻が大幅(上野22:16→9:09青森)
に変わると盛岡駅時刻は5:51-6:07へ変更されて、はくつるも1往復に
減って黒磯駅か郡山駅で八甲田を抜いているものだと思う。 >>581
下り八甲田の事実上の夜明けというか朝を迎える感じだった。
早朝なのに盛岡駅の駅弁3社(伯養軒・村井松月堂・むつ弁)が
ワゴンで駅弁を売っており、15分停車でゆっくり朝飯を選ぶ事が
出来て貴重な15分間だった 夜行の夜明けと言えば、津軽1号の上りで目を覚ますのが西那須野だった。下りは十文字だったか。那須塩原が東那須野だった頃は、西那須野の方が観光地への入口だったなあ。 今から45年前、中学を卒業した北海道へのご褒美旅行で郡山から「八甲田」を利用。
当時普通車自由席は満席で通路でリュックにもたれていると傍に座っていたのおばさんから
「どこまで行くの?」と聞かれ
「釧路までです。」と答えると
「先は長いから気をつけてね」大福をわけてくれたっけ。
そのおばさんは下町風の普段着で車内はそういう客が目立った。
通路で一晩過ごしたが後年「はつかり」などの利用よりも想い出深い。
3月に定年退職前の有休消化で当時の思い出をだどるべく釧路に向かう際に「はやぶさ」
を利用したが隣席へのあいさつ以外はスマホで過ごす。
時代の変化を痛感するのみ >>592
>隣席へのあいさつ以外はスマホで過ごす。
お前は何してたんだよ?
話しかけられるの待ってたのか? 上り津軽2号(404レ)は6:32-37の郡山駅で、上り八甲田(104レ)は6:44-46の
福島駅が夜明けでその辺りで目を覚ます事が多かった。
でも朝飯調達は黒磯駅で上り津軽2号(7:35-42)、上り八甲田(8:26-36)共に
停車時間にも余裕があったし、当時はホームで駅弁となめこ汁の立売りも
していたけど10分停車の上り八甲田なら1番線ホームの立ち食い蕎麦でも
余裕で間に合った。 急行津軽は旧客、12系、20系、14系と乗ったけど津軽が2往復あった時代がよかった >>597
仙山線周りの頃だったか 583系と485系もあっただろ 1980年後半に583系板谷峠越急行津軽もあったよね 座席を回した14系 の背もたれのすき間に新聞を敷いて、リュックを枕に一晩を過ごした下り八甲田の記憶、自由席は通路に寝る人を踏まないようにトイレに行くのも大変だった。
深夜国道?を走るトラックを軽々と置き去り、上り津軽で関東圏に入ると北東北に無い瓦屋根と朝靄の中に点在する竹やぶ。同じダイヤでやってくれないかなぁ。小5の初一人旅で583ゆうづるのパン下(偶然)で小窓から外を見て一睡もできななかったのもいい思い出 八甲田・津軽・十和田なんか何両編成で運転していたんだろうか
おれは、仙台までだったので専ら、ばんだい・まつしま・いわて号を
利用していたんだが何両編成だったかわからん。 川部駅のホームの駅そばって美味しかったよね
何年か前にリバイバルイベントあったみたい
だったけど参加できず。 >>602
定期列車の電源車・荷物車・郵便車を含む夜行急行の長い編成
急行きたぐに 14両
急行鳥海 13両
急行能登 13両
http://kobayasi.on.coocan.jp/rail/hensei.htm#1
急行佐渡 13両
急行八甲田 13両
急行下り津軽2号(403レ) 13両
急行上り津軽1号(402レ) 13両
急行下り十和田3号 13両
急行上り十和田1号 13号 >>600
583系の急行津軽は1990年9月から車両変更開始している
1983年7月から1990年8月までは14系客車だったよ 板谷峠経由の最終津軽(90年8月31日)が移行ダイヤで583だったくらいだなまあ 繁忙期の臨時急行十和田は12系よりも14系が来たときは嬉しかったな
但し、ドッタンバッタンの簡易リクライニングシートだけどね 臨時急行十和田は12系だよ
季節列車の十和田が14系 十和田は特急ひたちよりも停車駅が少ない。
おそらく勝田には停車実績無し。
但し、ひたちが長く停車しなかった土浦の通過実績も無し。
上りは土浦の泡姫御用達だったのか? 季節十和田14系車で土浦停車時間8分があったけど、おそらくL特急ひたち通過待ちだっただろうな 14系時代しか知らないけど、上り津軽と下り八甲田
が福島で並んだよね?当時宿代わりに福島ターン
していた人もいたんだろうなぁ、連絡船をからめる
とさらに発展できそう 十和田市 盗撮目的か 県職員の男 逮捕(青森県)
3/15(日) 11:32配信青森放送
盗撮目的で上北地域県民局の女子トイレに侵入した疑いで県職員の男性が逮捕されました。
逮捕されたのは上北地域県民局地域農林水産部の技師 工藤敬登容疑者35歳です。
工藤容疑者は今月12日から13日にかけて盗撮をする目的で庁舎内の女子トイレに入った建造物侵入の疑いです。
警察の調べに対し、工藤容疑者は容疑を否認しています。
警察によりますと1階と2階にある女子トイレの個室に隠しカメラが複数台設置されていて、カメラに気付いた職員からの通報で発覚したということです。
警察が詳しい状況を調べています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-00000124-rab-l02 座面が固くて痔持ちには拷問
背ずりは車によってはまあ辛抱できる っていうか、14系よりも、(すいてる時は)12系の方が横になって寝やすい >>631 最悪だった。ボックス席スライドさせて寝台にするのは禁止。車掌が見回ってきて注意される。12時間も硬い座席に座らなくてはならなかった。 >>633 みんなスライドさせてるんだよ。車内放送流れるけど、車掌の来ないうちに。だんだん、やらなくなるけど。 既に眠っている人を起こすわけにもいかず
っていう車掌の弁を鉄道誌のルポで読んだことあるな
上段中段を引き出そうとしてたのは止めたらしい 上段、中段引き出そうとは思わなかったな。鍵がかかっているような感じだったから >>634
>みんなスライドさせてるんだよ
だから何? オレはグリーン車だからシートをリクライニングさせた >>641 車掌が黙認したのは、起こして座席を元に戻させるとトラブルになりそうだと感じたからなんでは?
その添い寝したのがヤクザっぽいやつだったとか。
自分が乗ったときは黙認されるような雰囲気ではなかったね。 642だけど、乗ったのは1991年11月の上り。
黙認されたのはそれより前だったのか? 1992年の夏の上り津軽だったかな。たしか新庄か天童あたりから上野まで乗った >>644 秋田県北部から上野まで乗ったが、車掌が座席ロックしたのは見てないな。
ほぼ定員乗車だったけど。混雑状況によっても違うんじゃないの? ロックされたのは583系じゃなくて、20系ロネのボックス席の方だろ。 下りの臨時十和田って仙台に5:30過ぎに着くんでなかった?
それなりに仙台下車客もいて需要はあるなと見たぞ。
1番ホーム着で、伯養軒の立ちそば結構売れてた。店の人朝からこんな人の数?っ
てビックリした顔してた。
でも、盛岡までに客は結構下りるから、それ以降は1ボックスか半ボックス占領
出来たりして、居心地ではトータルで14系の八甲田より良かったぞ。天井高いし。
それと14系は長時間乗ると寒いか暑いかだけど、12系は快適だった。
1991年盆の話。 >>649
1990年4月号の時刻表では臨時急行十和田(8201レ)の
仙台発着は5:16着-5:23発になっている >>649
俺も12系の方が好き
14系は通常は(簡易リクライニングは論外だけど)背もたれを倒しても、膝が伸ばせない。
2席占領できても横になりにくい。
4隻向かい合わせにして、ようやく脚が伸ばせる。 ガキの頃、臨時のつばさに乗ったら12系でがっかりしたわ。 >>652 親御さんから、特急料金割引だし臨時だから指定席取りやすい、ちょっとは我慢しろと言われなかったのか? うちの親は「時間かかるからつばさの臨時は嫌だ」だったな ウチの親も似たようなこと言ってたが
臨時佐渡+いなほで秋田まで連行したら何も言わなくなりました >>654-655
うちの親って??? 子供の、間違いじゃないの?
俺たちの親の世代って戦前生まれだろ? もっと粗悪な座席だったのでは? >>656 戦前生まれの親が週5日制がまだ普及せず、盆暮れの帰省が今よりも集中していた時代、移動時間節約したいと考えるのが普通だろ。
高い金出して指定券苦労して取って定期のつばさに乗るか、スピードや格は落ちるが臨時つばさで行くか、それとも立ち席覚悟で幼い子供連れて津軽で行くか。 子連れの帰省が如何に大変か想像できない鉄オタがいるんだな >>658
ここに入り浸るような男共は生涯独り者の素人童貞しかいない >>653
母親だったので細かいことは頓着しませんでした
座る席が確保できればよかったのです
また母は特急車両に乗ると乗り物酔いするみたいで結果的によかったかもしれません
>>654
たしかにノロノロで時刻表にない駅で停車して定期の急行に追い抜かれていました
>>656
母は若い頃汽車に乗るときは座布団を持参したと言ってましたね 1982年か3年だったが、20系寝台の「十和田」で青森まで。幅52cmでも苦痛と思わなかった
じつはこれが最初のブルトレ乗車。「撮るもの」であって「乗るもの」と思ってなかったからかなぁ ビジネスクラスのフラットシートもそれぐらいの幅
しかも料金はボッタクリ 飛行機と鉄道を一緒にするな
フェリーと寝台列車を一緒にするようなもんだ >>658
5ch(2ch)の鉄道スレは結婚しなくて(出来なくて)
家庭を持ったことがないヤツが多い独身ヲタが多いから
多分理解出来ないのだと思う >>667
子ども達はガッタンゴットンに乗ると妙に気持ちが高ぶるもんだ
特に長距離便だと >>668
ガキの頃に一人で真冬にクソ混んだ八甲田を利用したが、北とうほぐから上野まで大型荷物置き場に座っていったぜ。
ガキながら酷い経験だった。 >>669
ボックスシートに4人、その下のスペースに2人が寝てる、
こんな時代もあったものだ 新聞紙ひいて通路で寝たの思い出した ボックスに座るより楽に寝れた わ そういや津軽も八甲田もスハフしか乗ってないからいつもエンジンの音が耳鳴りで残ってたな >>661
20系「十和田」なら、82年11月まで。83年は有り得ない。
その際の上越新幹線開業ダイヤ改正で、12系1往復になった。 88年に八甲田に乗った
14系で味気ないと思っていたけれども
今思えばとても貴重なおもひでぽろぽろ 上りの八甲田・十和田は、長い編成でも八戸・盛岡などから自由席が座れない時代も
あったのに、もうそれは過去の遺物になってしまった。 夏休み。下り八甲田(定期)の仙台増結車(自由席)に一度乗ったが、立ち客も出るありさま。
自分は運よく窓側に座れたけど、今思うと護送車みたいだった。 今朝、新日本紀行(昭和54年放送)で
朝の奥羽本線十文字駅に到着した「津軽3号」が映っていた
ED75-700に牽引された12系(後部の1-5号車寝台編成は確認できず)
田植えを控えたて出稼ぎから帰った人たちが続々に降りてきた
それと交換してホームの反対側で動き出した貨物列車(トラ45000、ワム80000など2軸車ばかり)とか、
今まさに発車した貨物列車(ED75-700に牽引、ヨ8000が先頭)とかが見られた
新幹線のない時代はのどかだね
ノスタル爺といわれても、懐かしいものは懐かしいな >>685
その映像は「NHKアーカイブス」で見られるはず。
無料ですから試してみてください。
自分は検索が面倒なので観てません(陳謝)。 >>684
「キングコング対ゴジラ」に登場する「津軽3号」は、こだま型の特急電車だった >>687
まさに夜行急行が出稼ぎ列車と呼ばれてた時代か 満員の夜行列車って荷物も多いから網棚も床も荷物で埋まってるイメージ 座席の夜行とかホタテや貝ヒモ食いながら隣で呑んでるおやじ思い出すなぁ
食べるか?とか言ってホタテくれたりするw 青森〜上野は常磐線へ回る列車が多かったのはどうして。 東北本線は信越、北陸、上越、羽越、奥羽方面とか詰め込んでたからね >>694-695
それと共に夜行でゆうづるが多かったのは、東北本線保守の関係もあっただろう。 はつかり号は常磐線が電化したのに東北本線経由に変わってしまった 1Mは北海道連絡ありきだったから
全線複線で速達化できる東北本線廻りになったんですね 昼行だと常磐線の単線がネックになるし、
電車だと多少の勾配は高速で走れるからね 東北本線も単線多かったから。福島近辺の勾配と単線、大宮から上野の線路容量がひっ迫してた
S.40に大宮の高崎、東北の立体交差、S.42に福島近辺の複線化、S.43の大宮以南の電車線の線増
これらをやって、43.10の全線電化と全線複線化で青森行は距離も短い東北線を使うようになった 盛岡までなら夜行「いわて」がありましたね
昼行でも運行できる範囲=電車という方程式でしょうか >>702
仙台〜青森は「くりこま」で運転したけど、上野〜青森は全線電化なら距離的に特急化の意向になっていたような。
夜行急行や普通は他の交流電化区間と同じく、機関車稼働の関係で客車や、また非電化区間直通車両の併結の関係で気動車で運転も多かった。 西方向の急行で、
80系/153系で東京⇔姫路(はりま)
153系で東京⇔広島(宮島)
167系の東京⇔下関(長州)
475系の名古屋⇔博多(玄海)
は可能だということから、青森も理屈上では可。 90年代でさえ秋田開業前の仙台以北の
東北新幹線の寂しさを思い出してみると
60年代に最新の貴重な455系を仙台以北
盛岡以北にさく余裕はなかったんだろうと
思う。通過するだけの北海道連絡特急には
良い車を割り当てるが区間利用も多い急行
には客車で充分という 急行型1971年までしか作ってないから
485は1979年まで。もう特急しか増発する気がない
くりこまとまつしまでいじれば上野ー青森で直通出来そうな気もするけど、仙台の455、凄まじい運用してたからやりたくなかったんだろうな
儲けにならんし >>708
だね。上野〜秋田の「おが」もずっと全区間架線下DCで走らせていたし。 >>706
長州!
修学旅行列車「わこうど」のスジで走る多客臨
主要駅でたっぷり停車時間を取るから下関まで16時間くらい要したんだよね 84年の14系寝台車も連結していた「津軽」は、まだEF58牽引だったんだ!
https://youtu.be/oxVu77Fgg1c 青森駅に到着する、国鉄末期の「八甲田」
この当時、既に国鉄色から塗り替えた気動車が存在してたとは!
https://youtu.be/nSmES5pTLa4 座席の客車急行…
青函トンネルが開通した時、せめて1本くらいは
上野⇔札幌を走ってほしかった。 >>717
座席車で上野〜札幌直通?
もしそうなら青函トンネルがあと20年早く開通してないと無理だっただろう。
34年前の開業時は類似距離の東京〜博多でも夜行座席車はなかったし、JR北・東も当初は北斗星の需要も懐疑的だった。 20年早く青函隧道が開業するとなれば1968年
1968年に上野〜札幌間で座席夜行急行が走れば
明らかに旧型客車だっただろうね?
津軽海峡線も非電化区間だったかも知れない
1968年だと新型客車では20系だけで12系も14系も
まだ生まれて来てなかった
上野〜札幌間を20時間で結んだのだろうな(遠い目) 流石に防火上旧客はないだろ
専用の何か作るしかない 青函トンネル内で垂れ流しは大問題になる
しかし、トンネル内だけ使用禁止にできるほど短い距離ではない
12系はあと1年で作られるものの、折戸だから冬季の札幌直通は無理
20系はすでにできているものの、まだ垂れ流し(粉砕はしていたけど)
よって、製造中の455系に循環式トイレを設置した編成を数本作り、青森−木古内間にて暫定運転することになろう
583系は全車装備
1968.10開業時
特急「すずらん(昼座席)/おいらせ(夜寝台)」 583系 上野−函館。青森以北食堂車非営業
快速「海峡」 455系 青森−木古内(繁忙期は蟹田−木古内間へ短縮されることも。車両改造編入を受けて1969.10改正にて函館通年発着化)
ただ、北海道内の急行の気動車化率は年々上がっており、千歳線の付け替えまで南回りが電化できないとなれば、寝台特急以外は函館乗り換えが妥当
寝台特急も折戸の20系では札幌発着には使えないため、設計を進めていた12系寝台車(当時。後の14系寝台車)を引き戸に改め、集中電源方式でも使えるよう改良された結果、14系名称変更
オシ14は排水タンクも設置し、函館・青森両駅でも給排水実施
1970.10改正で485系が新製投入されて特急比率向上
1972.3改正でようやく14系投入
特急「すずらん」 485系・583系 583系は1往復だけ 青森以北食堂車非営業
寝台特急「北斗星」 14系(集中。2度電源車付け替え)
快速「海峡」 455系 青森−函館
と言う夢を見た >>721
便所は大きな問題だ。
係員がポータブルトイレを巡回する夢を見た。
「トイレに行きたい方はお申し出下さい」 NIOEが通過したときはジョッピンカッタのかしら? 上野から北海道周遊券で八甲田に乗って青森まで乗ったな
往復乗ったけど二度と乗りたくないと思った
東北地方の人の忍耐強さを改めて認識した列車だったわ >>725
わかる
座席車で上野から青森まで乗るなんで考えられない
最低でもB寝台でないと >>727
それはこのスレ的には少数派じゃないか? >>727
少なくとも昭和時代に、そんな利用者は当たり前にいた。
一時は583系ゆうづるで、全車座席車もあった。 買ったばかりの文庫本数冊とウォークマンに予備電池とお気に入りの曲だけを入れたカセット数本を抱えて乗ったので
特に苦痛はなかったな >>726
80年代で旧客や10系客車とかの頃じゃないよw
でも12系か14系かは覚えてないな
85年のダイヤ改正で14系化らしいから中3終わりの春休みに乗ってるので14系だったのかな
https://youtu.be/muE7ZMZaO2Q?t=277
上野14時19分発 八甲田53号
八甲田の臨時列車って真昼間に走ってたんだね >>721
折戸の24系は北海道のあちこちに行ってたけどな
まあ定期列車ではないが >>732
八甲田53号は青森に2時13分に着いて連絡船の臨時便に乗り継いで函館に6時20分に着いた
なので連絡船まで含めると普通に夜行列車 >>792
69年生まれか?そうするとバブル絶頂期に成人した世代か?
14系座席車なら、当時の特急普通車と同等の設備だったから、八甲田全区間でそんな感想なら、東京〜博多で0系新幹線普通車乗るのもきついかもなw >>735
まあそうだけど、ずいぶんロングパスだな >>735
> バブル絶頂期に成人した世代
これ見ると得してそうだが全然そんなことない世代だな むしろ世の中に金が満ちているときに学生で金がないのでバブルの恩恵はあんまりなかった世代だな >>738
そうとも言い切れない。人手不足でアルバイトの時給が高騰してた。
そのため就職するよりバイトを続ける方が潤うので、わざと就職しない学生もいた。
またバブル時期、新幹線のグリーン車に学生の利用が多かった。
そして就職活動では企業側が新卒の学生を確保したいので、遠方からの交通費支給や、
高級レストランの接待、研修の名目で高級リゾートホテル宿泊など、
今では考えられない待遇だった。 >>739
「言い切れない」のはそうかも知れん
まぁでも貧乏学生も多かったよ
グリーン車利用が多かったのは就職活動の時に企業が交通費出してくれたからな
俺みたいに研究室に居残った人間はほぼほぼ恩恵がなかったよ
あと「一生フリーターで生きていける」って就職しなかった同期連中は今でも就職してないなぁ >>740
どの時代でも一律に潤うことはないが、バブル期に学生のグリーン車利用はそれだけでなく、バイト成金も多かった。
またバブル期に女を手中にしたいため、グリーン車で機嫌取る若者もいただろう。グリーン個室で行為に及ぶ者もw
女子大生の方がそれ以上に潤っていた。
アッシー君や複数の男を股にかけ、高収入で支出がかからない女子は多かった。 色んな世代はあれども
鉄ヲタに関しては断然昭和10〜20年代生まれが勝ち組だな >>743
新井さんとか久巳さんが属する50's後半もなかなか
高校生くらいでSLの終焉や新幹線博多開業
20代半ばくらいで貨物やゴハチの終焉(久巳さん神懸かりでしたね) 新幹線開業前の上野駅の賑わいとブルトレ衰退前の夕暮れ時の東京駅の賑わいを知ってるだけでも自分は幸せだと思う リニアに乗るのを楽しみにしながらも寿命が尽きた面々がいるから一概には言えない 東北新幹線が当分壊れているので復活すれば良いのに。 >>749
上野東京ライン・湘南新宿ラインの普通・快速電車が、新幹線開業前より
大幅に多くなってるのでそうはいかない。
那須塩原〜仙台で臨時快速が、いなほ編成のE653系で設定されたけどな。
でも混雑してるようで、常磐線も一部不通ならE657系を充当できないかと思うが。 >>732の動画、たしかに国鉄式文字だけど
なんか暑苦しい違和感があるな。
やはり駅掲示類や行先表示で使う文字で
列車案内に使う文字ではないな。 >>747
平成あたりから、高速バスネットワークが確立し、高くて乗り心地悪い夜行列車は敬遠・衰退していった。
スレタイの八甲田と津軽も平成5年に定期廃止されたので、物心ついた時は過去のものだったろう。
鉄道好きなら周遊や乗り潰しに不自由な時代になった点はあるが、交通機関が移動手段と割り切れば長距離を安く行き来も可能なので、その意味では負け組でもない。
青春18きっぷの利用者は、若年層が少ないと言われていて、その意味で平成生まれ以降は鉄道好きや鉄道にこだわってる連中が少なさそうに思えるが。 周遊券の廃止がデカイな
北海道ワイド、東北ワイドで10~20日過ごせた(学生なら学割も効く)
特急も夜行も自由席乗り放題
そんなのが無くなったら、みな鉄道旅行から離れてしまうよ 周遊券は急行自由席は無料ですが特急は除外だったと思う >>755
ワイド周遊券は、域内なら特急の自由席は無料だよ
だから、夜行折り返し(オホーツクやおおぞら)が出来た
東北だと、福島で八甲田から津軽が名所だね >>755
最初はそうだったけど一部のワイドだけ乗れるようになって
結局全部のワイドで乗れるようになったよ
行き帰りは最後まで急行普通車自由席だけだったけど >>754
周遊券は国鉄時代末期の急行大幅削減で、事実上終わってた。
青春18きっぷは出だしの頃でも、旅行先によっては周遊券より使い勝手は良かった。
北海道へも上野発着の夜行急行廃止後は、ワイド周遊券よりも往復北斗星か新幹線が使えた
ぐるり北海道きっぷの方が勝った。 >>743
昭和10年代生まれは撮り鉄とか乗り鉄とか超贅沢で金持ち以外は不可能
昭和20年代生まれも後半がやっと庶民でもそこそこの出歩きが可能だが遠出や贅沢な出費は金持ちでないと無理
昭和30年代生まれの前半は蒸気最後には間に合ったが戦後の全盛期は知らない
結論 昭和10〜20年代生まれの金持ちの家に生まれた連中が勝ち組 >>747
平成生まれより、昭和50年代生まれの方が負け組っぽい。
この世代は周遊券で旅行するにも、利用できる急行が無くなったりとか、食堂車などが楽しめなくなった。
また90年代後半までは、遠方へ行くのに交通費が高くなるのが当たり前だった。
そして何より、バブル崩壊後の就職氷河期にモロ食らってしまった。 >>761
俺はまさに昭和50年生まれだが負け組だと思ったことはないなぁ
ブルトレにも間に合ったし今の新車両も楽しめてるし >>762
スレタイの八甲田と津軽乗車は間に合った? 過去に客車急行限定で、同一愛称名で4往復以上運転された列車って十和田だけだよな? >>764
津軽は乗れなかったけど八甲田は乗れた。臨時だったけど。
ケチって座席にしたのを今でも後悔してる。
親に借金してでも寝台に乗っておけばよかった。 >>766
八甲田は座席車オンリーの期間が多かったので、それでいいのでは? 八甲田は
1号=気動車(昼行)
2号=客車,座席+寝台(夜行) >>769
寝台付きのもあったよ
20系の寝台専用のもあった
昭和50年生まれだと乗ってたとしても記憶にないだろうけど >>771
八甲田に20系は使われなかったぞ。
20系が使われたのは、十和田。 トンネル開業に合わせて札幌まで延長すれば面白かったと思う >>776
バイクや車の渡道でネックは津軽海峡だから、それを越えれば自由自在に運転する方が
かえってフレキシブルで速いだろう。 特別急行札幌行き→トワイライトエクスプレス,北斗星
急行→青森止まり
なのでアンバランス。 25年前に臨時の津軽に乗った
あんな座席の夜行でも、一人旅の女のコとか乗ってたなあ 俺
急行おがに乗った事有るらしい
記憶に御座いません >>784
いずれにしても羨ましいけど、
客車に乗ったのか、気動車に乗ったのかで、
色々とロマンの思い出が変わってきますね 14系座席おが
20系座席(ロネ改造のハザ+ハネの座席あつかい)おが
両方とも乗ったけど気動車おがは経験ない 車両と関係ないけどこの時代の上野駅ホームにはゴミ処理用のダストシュートが設置されてて
今では考えられないけど鍵もなく誰でも捨てたり下を覗けたりしてたよね
蓋を開けて覗いて遥か下を動いてるベルトコンベア見てビビった小学生の俺
なんか急に思い出したw 急行十和田や八甲田をトンネルを通って函館や札幌まで延長できず
青森止まりだったのは残念。 急行おが・・・
おが1号が定期のキハ58系編成での男鹿行きで
おが2号が季節列車の14系座席車で秋田行きだったなぁ >>788
モトトレイン運行シーズンには青森に到着した定期急行八甲田の車両が
そのまま臨時快速海峡83号として函館まで運転された事をお忘れか? >>790
「八甲田」「十和田」として行かなきゃ無意味 お盆の時仙台から東京に帰る時周遊券だったので特急けちって昼間仙台を発車する臨時の八甲田で帰ったことがあった
がら空きで家族で一車両貸切だった
福島と黒磯で駅弁買った記憶
今考えると物凄く贅沢な旅だったが当時はひばり乗れず不貞腐れてたw >>793
その当時、特急の待避回数が相当あり、電車急行と比べても足が遅かったので、ひばりの1.5倍ぐらいの所要時間でなかったか?
国鉄時代、そのような臨時列車でも編成が長かったので、ガラガラで優雅な列車も多かったけどw 昭和50年代の臨時八甲田の編成見てると旧客、12系客車、14系座席車、20系客車と格差が激しいな
793さんは何だったんだろう 八甲田、20系あったっけ?
東北本線の昼行の急行は退避多くて上野-仙台、電車まつしまでも5時間くらいかかってたんだよな
臨時の客レなんて6時間かかるだろ >>797
ARC資料館に出てるが間違ってるかもしれん
> 臨時の客レなんて6時間かかるだろ
5時間半くらい
1981年の時刻表を見ると八甲田54号は仙台発14時31分上野着20時6分になってる
ところがこの列車運転日によっては常磐線周りの十和田56号になるのだが
同じ時刻に仙台を出発して上野に着くには一時間近く遅い21時3分 20系の臨時八甲田は定期十和田20系化用の車両の送り込みついでのアルバイトとファンに書いて有ったような無かったような…
知らんけど いや国体輸送用だったかな?臨時十和田も運転されてる 八甲田ははくつるへ上げて、
津軽も2往復ゆうづるへあげて残りは全て寝台を外せば、
上野品川テント村は解消できた 八甲田:12系から14系に変わった時に時間も遅くなっていた
東北本線経由の十和田として残ったと意識していた 上野駅にある、国鉄時代からの名残が残っているものを教えて下さい!
往年の庶民の上野駅が感じられるような・・・。
客車列車がたくさん運行されていた時代を感じさせるものとか・・・。
おおく発着する長距離列車の荷物関係の施設とか・・・。
僕の知っている限りだと、発車ベル、巨大な壁に描かれた絵とかですかねー >>835
13番線ホームがそうだけど、四季島発着で装飾されたから、少し雰囲気が違うと言われればそれまでだけど。
14番線からの地平ホームも、名残りはありそう。 1988年の臨時十和田(上り)
仙台過ぎたあたりから日が昇って
12系ボックスで昼の常磐線急行みたいな感じだったな
途中ひたちに抜かれまくってたけど
ガラガラでめっちゃいい旅ができたことを思い出しました >>839 ねぶた祭り見た帰りに乗った記憶 宿泊しなくても夜行利用でねぶた見物できた古きよき時代 青森駅前の喧騒を抜けるとガラガラの12系が待っていた。朝平駅でうにめし買って朝ごはんにした。めちゃめちゃ美味しかった。 うにめしも貫禄のあった青森駅も今はもうない… >>921
それ言ったら八甲田も全くかすらないんだが
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