江ノ島電鉄の昔ばなし©2ch.net
500系が片開きに改造されたときには卒倒しそうになった 初めて世田谷線を見た時は江ノ電の真似だと思った。
江ノ電がもらう側だったのを知ったのはずっと後だった_| ̄|○ 東急から転入したときにステップを切ったことが結果的に車体の剛性を弱め、
あまり稼働しないまま終焉を迎えるという不運の車両でもあった。 ステップを切ったくらいで柔くなるかな?
例えば扉を増設するのなら車体に新たに孔を空けるから
ダメージになるのは分かるけど? ステップ撤去なんかよくある話
それで元で電車が駄目になるなんて聞いたことがない 日本初のビューゲルってここだっけ?
一般的には広電と言われているが 306の編成で試用された方向幕が廃れて、細長の前サボが定着したのは、もしかして
元玉電30形の600形が玉電時代から用いた持ち込んで使い勝手がよく波及したもの?
600形が当初新塗装で登場したのは、それ以前ジリ貧だった江ノ電の輸送人員V字回復による
新規車両投入PRの意味だったの?
個人的には連結車で使い勝手が悪そうだが、山梨交通から来た800形の方が、ぱっと見単コロ100形300形似た感じになったので溶け込んでいたと思う。
600形の廃車が1本目と2本目では、随分間が開いたのは、何か迷いがあったのだろか?
その間に800形が廃車になった様な・・・ 戦後の資材不足時代に製造された山梨交通の中古車を、
わざわざ上田丸子経由で迎え入れたのは合点が行かなかった
もちろん江ノ電に来てからは入念整備のおかげで営業に供するには十分であったが
腰板のたわみや窓枠の軋みなど、江ノ電オリジナル車に比べると見劣りする部分が
目について仕方なかった。 3扉車=輸送力列車みたいな側面があったけど
連接車が重連運転を始めてからはかえってお荷物になっちゃったな 800形は馬力を買われて江ノ電に引き取られたと聞いているが?
4個モーター車だった。 当初は2扉だったのを使い勝手が悪いと言う理由で3扉化したが、
この改造が寿命を縮めたのかな? 800型はクリームとチョコレート色のツートーンがよく似合ってた。
山梨に里帰りしてオレンジ一色に塗り潰されてるのを見て驚いたが、あれがオリジナルだったとはね。 地元の甲府で長い間テツ屋さんやってた人によると、
あの色は完全なオリジナルとはちょっと違う色らしい。 >>2
時代的にも特異なデザイン。
だからこそオリジナルを保って欲しかった。 T000形登場時のインパクトは当時小学生だった自分には強烈だった。 編成間で行き来が出来ないのは惜しかった
後は言うこと無かったのに >>24
別に江ノ電だけに限った事ではないがね
何が気に入らないんだろ はみ出し停車がある線区では、やむなく先頭車もしくは最後尾に乗ってしまった場合に
自分が降りる駅で締切されちゃうと困るから編成間の移動が要ると思う。
江ノ電は詳しくないので分からないがはみ出し停車をやってるのかな 腰越が3両分のホーム長になってからは
鎌倉寄りの1両分ははみ出すけど、編成間の移動の心配はなくなったね 駆け込み乗車するからそういう不都合に対処できない。
江ノ電はわかり易いダイヤになってるのだから、余裕を持って電車を待つように心掛けるべきだ >>21
晩年の魔改造には卒倒したね
何がそうさせたのか >>29
両開き黎明期の作だったので動作の安定性が今市だったらしい 500形(初代)造ったアトに何故300形に戻った(マア どちらも厳密には改造だが)の?
廃止を予見して投資の後退? 束式が8000系を作ったあとに5000系を作ったようなものだ >>29
いや、晩年の曲面ガラス→5枚窓への変化は
俺的には大歓迎だったよ 初代500のクロスシートは普通のボックス配置だったんだな
てっきり阪神ジェットカーみたいな背中合わせかと思ってた >>37
同意
改造の図面引いた奴ちょっと来い、といいたい気分 500が登場した時はまだ両開きドアは珍しかったんでは?
曲面ガラスやR付き側窓など時代をかなり先取りした意欲的な意匠だわ >>29
魔改造なんて下品な言葉を使わない方がいい 現役話だが、乗ってて吊り掛け音に気づいた
しばらく吊り掛けは続くだろうが貴重な鉄道遺産だな サザンの桑田佳祐が映画監督になった稲村ジェーンが封切りになったころに乗りに行ったが
すごいブームだった
うまく客を取り込めてると感じた ロケ協力で電車や線路、駅が映っただけで宣伝効果に繋がる
湘南という立地の勝利
京都の嵐電と共通してると思う >>43
完全同意
当時の社内に新しいもの好きな人がいらっしゃったのかな 藤沢駅の入り口にあったコカ・コーラの大きな広告
CMの関係で早見優がイベントで駅に来たこともあった 江ノ島といえばアイドル全盛期のミニコンサートの聖地
今は死語になった親衛隊も江の電に乗って出陣したのだろうか 1980年代くらいまでは、線路で子供が遊んでいた? 江ノ島〜腰越の併用軌道区間の横断歩道で
電車接近ギリギリまで踏ん張って思いっ切り警笛を鳴らされてる悪餓鬼は
何度か見たことがある
あの区間をスムーズに走過する技術は
今も昔も称賛に値すると思う >>54
というより、よく言われた「民家の軒先を霞めて走る」の通り、本当に一般民家の庭のすぐ先を電車が通っていた
境界を示す柵も溝も何もなし、地続きw
今はプライバシー意識の高まりで壁や塀を作る家が増えてそんな光景は減った >>56
根性試し、な
子供は意味の無いことに必死になるもんだな 腰越付近の専用軌道には線路に向かって家の玄関がある住宅が多かったが、線路内立ち入り禁止が声高に叫ばれる今日でもそのままなのだろうか? > 線路に向かって家の玄関がある住宅が多かった
神戸電鉄粟生線市場付近にもそんな場所があった記憶がある。
探せば他にもあるかも。
腰越付近は専用軌道とはいえそんなに飛ばさないが、
神戸電鉄はそこそこスピード飛ばすからねえ >>57
塀というより竹垣が多かったな
趣があって良い >>59
電車は絶対に停まるのを分かってやってるんだから根性なんて無くってもできるでよ 『ちいさなでんしゃ』という絵本を覚えている人いるかな? 古い写真を見てると窓回りがオレンジになってる車もあるね 幼い頃 亡き父に江ノ電に両開きドアの電車がいる と言ったらあんなボロイ路線にいるわけないだろう
と笑われた ポール末期の頃 いま思うと500だった 調べてみると1955年前後というと両開きはまだ珍しかったと思う
営団丸ノ内線、阪神ジェットカーくらい? 開口部が広くなる以外の実用面のメリットが本当にあるか、当初はどの社も懐疑的だったらしい
ちなみに京急は1500で採用するまで頑固に片開だった。時は既に1980年代後半になっていた >>63
大事故に繋がりかねない
コドモの悪戯で済ましてはいかんよな ユーチューブの茨交水浜線の映像同じことをするガキが写っていて コメントにも危ないと書かれていた
まあ昔の江ノ電沿線は寒村で民度が低いのもいたからねえ 自分もだけど >>61
いわゆる勝手踏切のたぐいは減ったとはいえ各地に残ってる >>72
窓が少なくなって車内の採光が不利になるという説を読んだことがある
ネタ元は・・冷蔵庫 >>74
民度低かったの?
昔から鎌倉文士も居る高級住宅地兼別荘地というイメージだったが@浦和土民 続行運転してた頃の江ノ電は今みたいな観光色があまりなく
ちょっとうらぶれた雰囲気 腰越あたりは漁師やガテン系藤沢もガラの悪い者が多かった
文士の別荘地は沿線から少しそれてる
異論があるかもしれません 1980年代からイメージ一新で観光色を前に出してきたが
逆に社名から「観光」の文字が消えたのは偶然か 1900年 江ノ島電気鉄道
1949年 江ノ島鎌倉観光
1981年 江ノ島電鉄
江ノ電は戦前からの歴史ある略称 そのまえに
社名は今も昔も江ノ島電鉄だと思ってたのに
江ノ島鎌倉観光という社名の時代があったことさえ知らなんだ あの社名はひょっとしたらバス転換するかもしれないというのもあったんだろうか なるほどなあ
転換ではなく、電車を残しつつバスも拡充して稼ぎの中核にしようという魂胆があったか
また、ホテルや飲食も手広くやろうとしてたか…
いろいろ想像をめぐらせられる 教習所はタクシーの運チャンが免停食らって乗務できない間の食い扶持保障として教官として受け入れる慣行が昔あったらしい(昭和40年代)
なので運輸業が傘下に教習所を持つことは珍しくなかった
当時、運チャンが食らう免停て何だっただろう >>93 今の法令で駐車禁止二回繰り返せば累積で違反点数6点となるから、30日の免停処分。酒酔い運転のような重大な違反、ないし人を跳ねた場合は刑事罰となる。刑事罰受けたら3年間経って刑が失効しないと、教習所の教官の資格を得られないことがある。 >>89
戦後、総合レジャー会社を標榜したかったとかであの社名に
経営陣は1960年代に、ガチで廃線を画策していたほどだから
それも束の間、程なくなくして・・・(形成逆転)
モータリゼーション到来による交通渋滞で、沿線住民の反対運動勃発
江ノ電が見直されてるきっかけになった 廃止路線が存続していたらという仮定はよく見るが
もし江ノ電が廃止になっていたなら、その後はバス専用道にでもなっていたのだろうか >>98 湘南モノレールが江の電の線路敷活用して、江ノ島から鎌倉まで延伸する 撤退を考えてたわりには、車両の置き換えなどでそれなりに投資してたようだが。
高架化もやった