名寄本線
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「留萌本線・羽幌線」
「日高本線・富内線」
「解せぬ」 >>237
渚滑線が廃止となり
紋別〜渚滑間の本数も減ったね 家に1915年12月の時刻表があった
名寄本線の湧別線開業当初の時刻
湧別軽便線(ゆうべつけいべんせん)の延長として、1915年に野付牛(現在の北見駅)方面(下生田原、現在の石北本線安国駅)から社名淵(後の開盛)へ延長された路線を発端とする。
https://i.imgur.com/ypM284W.jpg
https://i.imgur.com/W2gwtmq.jpg 紋別は空港があるが羽田から1往復飛んでるだけとか過疎空港なんだな
新千歳は不定期に就航してるが不調に終わって長続きしてない
バスの独り勝ち状態ともいえる 札幌〜紋別は高速バスは滝上町を経由するため近道
鉄道はどうしても大回りで不利だった
鹿屋市も鹿児島県第2の都市なのに鉄道だと錦江湾を大きく大回りする格好になりフェリーに太刀打ちできずあっさり廃止された 紋別はでっかいバスターミナルあるからバスの方が発展してしまってる
羽幌線も羽幌町に沿岸バスの巨大バスターミナルがあるし急行があったのに廃線になったのでバスに負けた可能性高い >>246
羽幌町のバスターミナルは鉄道施設の再利用
利用人口が少ないのに大型バスで運用しているのが無駄だよ >>246
原因と結果が関係しているようでそうでもねえって 代替バスも当初は名寄・遠軽直通が多かったけど
今は直通しなくなって系統分割されたね >>242
紋別空港を新しくしたのは名寄本線代替の意味合いもあったけど
札幌便が運航されなくなってしまう事態になった
そして紋別市自体が過疎化がさらに進んでしまった
バスも旭川に行く便は1往復しかない
>>249
ただ湧網線の沿線のように大半の地域で公共交通での移動がかなり難しい事態にならないのはいいけど今後さらに分断されて中距離以上の移動が難しい事態は避けないといけないけど 訂正
旭川⇔紋別のバスは3往復で
札幌発着で旭川経由が1往復のみの話 平成元年に放送された「ほっとないとHOKKAIDO」で廃止直前の沙留駅からの中継があった。
最後の駅長と岡田範子アナが出演していて、丁度19時05分発の遠軽行が1台で到着、
結構な人数が下車(数十人)したけど、タブレットの交換はせずに発車していた(※)
※記念に録画したので、全て確認済み。
この時間帯は興部〜紋別間が併合閉塞になっていたか? 末期の沙留交換は朝の1回だけでしたっけ。
個人的には、渚滑でなくて沙留の交換設備を残したことを不思議に思う。 >>253
この方のブログに当時の時刻表が載っている
https://4travel.jp/travelogue/10176510
興部〜紋別間の距離を考えると中間に1つくらいは交換駅が必要だろうし
沙留でも渚滑でも街の規模も同じくらい、距離的にも然程変わらないけどね。
渚滑線代替バスが紋別からの直通ではなく、渚滑駅前発だったら
渚滑の交換設備も残して無人化しなかったのでは?
結局、名寄本線内で終日、通票交換が行われていたのは
下川、上興部(※)、興部、紋別、中湧別の各駅か?
※上興部は名寄発最終が上興部行だったので通票扱いの駅員が必要 それは末期の話だろ?
貨物廃止の頃までは他にも交換駅あったし。
あと、たしか旧上興部駅に閉塞関係の確認図があったが、早朝や夕方以降は二つ以上の閉塞区間をまとめてたな。その取り扱いの正式名称がわからんが。 >>255
併合閉塞
小向や中興部も最終日まで交換駅だったけど
早朝や深夜は併合閉塞にしていた
他にも一の橋、西興部、開盛や元紋別なども昭和61年11月までは交換駅だったよ >>257
1970年代と
昭和61年11月ダイヤ改正前 >>258
全国版でなら開業当初あたりから1968年位までならほぼ毎年
道内時刻表では1969、1973.1982-1986あたり、途中抜けは多数
家に帰ったら適当にアップしますよ
もうちょい詳細に言ってくれたら有難い
ない場合は近い所をさがします >>260
61年10月末に西興部や一の橋が無人化されたり
上名寄、開盛などの交換設備を廃止したので、その前
53年12月に大幅な合理化も行われた様なので、その前 >>261
紋別発北見滝ノ上行も走り
貨物列車も程ほどに走っていたと思う
名寄本線の紋別近辺は昔は結構、賑やかだったろうね 急行紋別を特急格上げキハ183系投入しても無理だっただろうな
遠回りなので滝上町を経由できる高速バスの方が近道
高速バスに負けたともいえる >>266
石灰鉱山や豊富な森林資源を控え、ここを始発、終着とする貨物列車が頻繁に走り、
更に補助機関車の増解結基地として機能していた上興部なんて
駅弁屋もいて、売店もあったくらいだし、当時は賑やかだったろうね・・・ 写真でしか見た事が無いけど、蒸気機関車時代の
上興部はずいぶん栄えたみたいだね...
タイムマシンでもあったら、当時へ戻って
上興部駅の構内でのんびりと
汽車でも眺めてみたくなったよ。
起点の名寄や遠軽はもちろん
中湧別や興部も蒸気機関車が屯していたんだろうね 暇なしに蒸気機関車が走り回り
事務室からは閉塞機の鐘の音が
響いていただろうね いま名寄駅3番ホームなんて使っているの?
列車本数も減ったし、ほとんど需要もないのでは? >>263
明友デパート(友は字が違うかも)も、あったぞ
紋別では、めったにない2階建てだ
列車の待ちに、1階の売店でソフトクリーム 食べました。 >>268
隣の一ノ橋でも駅前に旅館があり、
蒸気撮影で何度か、泊まりました
朝食がごはんなんだけど、バターが
ついてきます wikiで上興部駅を見てみたけど、構内の広い大きな駅だし
周囲にも住宅が密集していて、結構な市街地だね おう、わい何年か前紋別空港使って泊まったで
悪くはなかったぞ 石北本線の安国から遠軽までと
名寄本線の遠軽から開盛までの間は762ミリの軽便線として建設されたんだよね。
つまり、この区間は当初は全くのローカル線として扱われた訳で、更に安国と遠軽との間で
石北本線と名寄本線との分岐駅争いが生じ、遠軽と生田原が分村に至ったとの事。
安国が分岐駅になっていたら、遠軽駅はスイッチバック構造にならずに
名寄本線の駅となって廃止されていたり、発展しなかった可能性もあるね。 中間の興部や渚滑はもちろん、起点と終点の名寄と遠軽からも駅弁屋が撤退したね・・・ 名寄本線が発着していた遠軽駅0番線跡は埋められてしまったね
1番線から数百メートルほど名寄本線の線路が残り、機回し等に使われているのみ 名寄本線が発着していた2番、3番ホームの屋根がなくなったけど
列車本数も減り、1番ホーム発着がほとんどだしね・・・ 名寄駅では弁当と燻製卵を買い
遠軽駅でも弁当を買い、蕎麦を食べるのが楽しみだったけど
遠軽駅の蕎麦屋はまだあるかな? 池北線か名寄本線でも残っていると石北本線が不通になった際の代替路として使えたんだろうけどね >>284
蒸気の頃 朝一の急行礼文で旭川から名寄へ到着、
出来立ての温かいシメジ弁当、250円が朝食でした
当時、名寄駅構内は木材チップのにおいが、
立ち込めていました 代替路どころか根室、網走、稚内へのたった一本の鉄路すら危機だぜ >>287
蒸気機関車の煙が染み込んだ
名寄駅2番、3番ホームの木組み上屋は風情があったな・・・ >>289
前方視界ゼロでも建前上優先的に突っ込んで行ける鉄道と、自己責任で動けなくなる道路。
ま、冬の北海道を知らないとなんでも言えるわな。
最近は道路よりも早く運休決め込むのが北海道の鉄道だけど。 >>291
利用客が僅かな区間だと汽車を走らせるよりも
バスやタクシーで代行輸送した方が安上がりだったりするからね >>288
石北本線が止まっているんだと
名寄本線か池北線が残っているとね >>293
網走方面への鉄道で最初に開通したのは池北線で
次が名寄本線、そして、石北本線が最後
名寄本線も開業時は主要幹線だった筈だけどね 名寄駅構内にまだ名寄本線の線路跡は引き込み線とかで残ってる? 名寄本線とは言うけど、名寄口よりも遠軽口の方が本数も多いし、乗車人員も多かったね 池北線は池田側から先に1910年に陸別まで開通して
その後、2年間で網走まで開通、1961年までは
石北本線の北見〜網走間とあわせて
池田〜網走間が網走本線だったね >>299
深名線や宗谷本線、札沼線、釧網本線でも単行で走っていたな 名寄本線 宗谷本線 釧網本線も各停の機動車は、
だいたい3両編成だったころしか、しらないので、
キハ53調べたら、おまえら、どうしたんだと思った >>301
ワンマン化前の宗谷本線(名寄以北)で結構走っていた。
ほとんど1台で間に合う区間だしね。
また、稚内〜南稚内間の回送列車を1駅のみ走る臨時列車として
運行した時期もあったが、利用は振るわず、程なく廃止になった。
少しくらい高くてもバスの方が便利だしね・・・ >>302
両方に運転席つけられて、カッコ悪いという意味 >>304
後に3両になるけど
設定当初は
急行はぼろ 1両
急行紋別 2両
名寄本線内は2両だった
https://i.imgur.com/kUvDT3l.jpg >>305
急行大雪も併結して、最盛期は10台から13台くらいの長大編成で札幌を発車した時期もある様だね。 普通列車は大体は1台か2台だったね。
もっとも、本線とは言っても根室、釧網、日高、留萌、宗谷、石北、室蘭、函館などでも
30年くらい前から単行気動車ばかり、実際に1台で間に合うからね・・・ 昭和55年頃でも名寄本線の収支係数は1000円を超えていたんだね 実態は早くからローカル線だったのに何故本線名乗っていたのか >>310
本線から分岐して、支線がたくさん(興浜南線、渚滑線、湧網線)もあったし、
開業当時は重要幹線だったけどね。 昭和40年代くらいまでは貨物需要もかなりあったんだろうけどね 本線だけど留萌本線、日高本線も廃止候補だとか
日高本線は止むを得ないか・・・ >>315
留萌本線なんて昔は各駅に交換設備を有し
石炭を満載した貨物列車がひっきりなしに走っていたけど
今は深川〜留萌間の交換駅も峠下のみで
1両編成の気動車がトコトコ走るのみ、留萌駅も寂しいね・・・ 昭和61年くらいまでは留萌駅も賑やかな構内だったね >>321
相撲の横綱みたいなもので本線と命名されたら
何々線とかに降格する訳にもいかないのでは?
昔は石狩沼田、恵比島、留萌などから支線も分岐していたが
森林資源は枯渇するし、農産物輸送はトラックに奪われ
炭鉱も閉山、と・・・ この区間もバスの方が便利だしね 四国の予讃本線、土讃本線、高徳本線、徳島本線は民営化時に『本』が抜けたね。 歴史的には石北本線よりも名寄本線の方が古いが石北本線が出来た時点で落ちぶれてたよな
「本線」として失格だった
天北線も幌延経由が出来て落ちぶれた 鉄道建設されたところは造りやすいところからだったろ
例外は狩勝峠みたいなとこだけ >>326
>>327
天北線は最終日まで急行が走っていたね
DD11が客車7台を牽いて走れたんだし
鉄道を作りやすい地形だったのかも知れないな。
線名を変えずに音威子府〜浜頓別〜南稚内、
音威子府〜幌延〜南稚内のどちらも宗谷本線だったら、
とりあえず天北線も残ったかも知れない。 道路だらけの今では理解できないかもしれないが、昔は内陸より海沿い、すなわちオホーツク海寄りに和人が住み着いたんだよ。
音威子府から山に入るか川沿いに進むかは当時も議論になったようだが、そのまま北上する方が理にかなっていたわけだ。
ただ、稚内までに峠越えが何度かあるから、人口希薄だが勾配の少ない手塩川沿いに本線の地位を奪われたわけだ。その結果が今。 天北線沿線には炭鉱もあったし、森林資源や漁業資源も豊富だったね
浜頓別や中頓別なんて砂金が出て、町ができた様なものだよ 根室本線滝川経由も石勝線が出来て一気に落ちぶれたな
災害で廃止される予定 >>328
へえ、平成になってもDD11が残ってて、しかも客車を引いてたの?
当時の鉄道雑誌見てもそんな話は書いてない
凄い貴重な情報ですなあ >>333
そうだよ。
初めは気動車だった急行天北は利尻間合いの客車7台だった時期もあるよ。
その後、気動車に戻り、廃止時は気動車だったけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています