■昔の秩父鉄道 東武熊谷線を語ろう■
東武野田線は >>> ちゅーぷるへ
Tobu Urban Park Line
TUPL:ちゅーぷる
★「三経ロンドングループ」のCMのメロディで
♪ちゅーぷる、ちゅーぷる、ちゅーぷる
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♪愉快な ちゅーぷる
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武蔵野線は >>> むーぐるへ
Musashino Gamble Line
MGL:むーぐる
20.jan.2022 【朝方に謎の光が2つ】
未確認の発光体は一体なんだろうか?
://www.youtube.com/watch?v=lEJg-qVhxtY
>>597
厚木飛行場はそもそも厚木には無いんだよね(敷地は綾瀬と大和にまたがる)
地名の厚木とは全く接しておらず相模川の対岸海老名を挟んだ先にあるし 熊谷線、懐かしいね。
昭和58年5月31日、営業運転最終日はものすごい人出だった。
満員で、乗る事も叶わなかったから、クルマで沿線風景を撮りまくった。
妻沼駅に最終列車が到着する頃には、沿線周辺の人たちが集まり、パジャマ姿の子供も混じっていたのが印象的だった。
拍手の中を最初列車が到着、その後は人だかりも急にひけてしまい寂しかったな。 東武野田線は >>> ちゅーぷるへ
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20.jan.2022 キハ2000、ここの人、いつの時代の塗色がお気に入りでしょうか?
・初期の クリームとブルーのツートーン
・>>463の質問の答えにもなる、オレンジとクリームのツートーン
・概ね昭和50年以降から晩年までの、クリーム一色
個人的にはオレンジとクリーム時代。前照灯がブタの鼻型2灯になる前ごろまでの。 妻沼駅は10年くらい前はまだ遺構が残っていたのよね 昭和40年代の後半ぐらいまで、妻沼駅の結構先の方(西小泉方面)まで線路が延びていた。
当然、最後は車停めで終わっていたけど、野焼きの跡が残る草っ原の中にレールが埋もれるように残っていたのを憶えている。 東武野田線は >>> ちゅーぷるへ
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20.jan.2022 東武にDCなんて熊谷線廃止後はあり得ないと思っていたけど、会津鉄道の乗り入れ開始で再び見られることは快挙だった。 熊谷線出来て40年で廃止。
それからまた40年、同じだけの時間が過ぎてしまった。
熊谷駅構内以外は、駅舎改札まわりなどは
昭和18年のままだったよね? 新幹線開業後も一応まだ熊谷線は残ってたから
新幹線開業後、つまり橋上化以降は今の秩父鉄道熊谷駅と当時はほとんど変わっていないのでは 昭和18年戦争中殺伐とした時代だったはずだが、妻沼駅は国鉄ローカル線のような懐かしい
雰囲気だった。国鉄ローカル線だって、汽車がディーゼルになっただけで昭和18年のまんま
だったんだろうか?昭和20年だったか伊勢崎線で学徒動員された女子高生?が運転する電車が閉塞無視した為か正面衝突の大事故起こして何十人も犠牲になる大事故が起こった。そんな殺伐とした時代のものが何故懐かしみがあるんだろう?中島飛行機の軍用路線として作られたあの路線が何故長閑で懐かしみがあるんだろう。 >>611
残念ながら、小田急・名鉄・南海は過去帳入りしてしまった >>604
>>608
貴重なお話、ありがとうございます
熊谷線廃止から40年近く経ちますね
僅かな期間、熊谷には新幹線と熊谷線両方走っていましたね >>580
115系が秩父鉄道に乗り入れたときはどんな幕表示だったのだろう? 乗り入れてた頃って高崎線の115系ってサボ使ってなかったっけ 115だったか211だったか忘れたけど、三峰口という表示を回している途中で見た事ならある。使用実績有無は不明。 臨時で103系が秩父に乗り入れたこともあった。
乗ってみたかった。 秩父鉄道に乗り入れた115系のトイレには汚物タンクは付いていたのかな? 大井川鐵道に乗り入れてたのが113系
秩父鉄道に乗り入れていたのが115系
どちらのトイレにも一気にで汚物タンクは付いていたのかな?
余所様の路線を糞で汚すのは気が引けるだろ? 妻沼から先西小泉まで、開通していたら、今頃どうなっていたかと妄想する。 西小泉−妻沼間は1945年9月完成予定だったからあと少し戦争が終わるのが遅かったら
様相は変わっていただろう 東武はやる気なかっただろうから電化されなかっただろうし、
熊谷~西小泉の区間列車が1時間1~2本走るぐらいだったんじゃね
太田から熊谷まで乗り換え2回もある時点で線路が繋がっていないも同じだし
結局は矢板線みたいに廃線になってるかもしれんね 小泉ではなく太田とつながっていたなら少しは需要はある
館林は論外で、小泉線沿線住民が都心へ行くには遠回りすぎる >>631
恐らくだけど、東武がやる気が無かったとしても小泉線と繋がっていたら電化していたと思う
離れ小島の路線ならともかく、繋がっているのに西小泉~熊谷間だけ非電化は効率が悪いし
まぁ、矢板線みたいな例もあるからなんともいえないがw 妻沼駅舎の佇まいは田舎のローカル線の駅の心象風景そのままだったなあ。当時まだあちこち残っていた国鉄超ローカル線の駅と通じるものがあった。
昭和20年頃の東武本線の駅もあんな感じだったんだろうかね? 妻沼駅舎の佇まいは田舎のローカル線の駅の心象風景そのままだったなあ。当時まだあちこち残っていた国鉄超ローカル線の駅と通じるものがあった。
昭和20年頃の東武本線の駅もあんな感じだったんだろうかね? >>639
戦時中に建てられた駅舎だから簡易的なものじゃないかと思う >>641
普通の木造駅舎だよ
まあ凝ったところのない単純な造形だったから戦時型と言えなくもないけど 妻沼駅の待合室にハンドルをぐるぐる回す黒電話もあったな
妻沼タクシー呼び出し専用 当時の写真を見ると東武の地上駅舎よりかなり小さい感じするな 1980年前後はまだ街灯が整備されてなくて駅周辺でも夜は真っ暗で怖かった妻沼 本来、夜は暗いものだ
暗いのが防犯上良くないというなら
夜間の外歩きをやめることだな 妻沼の中心地は駅周辺ではなくて聖天さまの辺りで合ってますか 元々どこの街も町中に駅ができたと言うのは稀
市街地を用地買収は金と手間がかかるし
熊谷だって駅が出来た頃は駅前は町外れだった