尾小屋鉄道を語ろう
軽便の中の軽便、尾小屋鉄道の思い出、そして今を語りませんか。 >>276
観音下の先から尾小屋までは上り勾配が続くんだけど。
昔、尾小屋から小松市内まで自転車で30分で下りて来た。殆どペダルを漕ぐ必要が無かったな。 電動自転車や電動キックボードまである時代に
軽便鉄道より遅い乗り合いタクシーの出番が・・。 観音下から尾小屋は平均で20パーミル近くあるな
非力な軽便にはなかなかの勾配ではないかと思ったんだが
調べてみたら立山砂防は最大83もあったぞ >>277
輪行?
往復自転車とか?
何気に下り続きでスイスイなのわかる
気持ちいいよねw 尾小屋はどんどん寂しくなるな
路線バスの次は資料館があたりがなくなるか…? >>280
実は尾鉄廃止前後の数年間、新小松駅の近くに住んでました。
勿論、さよなら列車にも乗りました。
当時、家庭が貧困だったんで写真は殆ど撮れていません。
自転車で尾小屋へ行くときは、およそ一時間かかりました。
金野、沢~波佐羅、倉谷口の新道が無いときのことです。 >尾鉄廃止前後の数年間、新小松駅の近くに住んでました。
うらやまC 昔カネがあったかなかったなんかより、乗れたか乗れなかったかの問題だよな >>282
まさか「超」地元の方だったとはw
鉄道同様の当時のR416はさぞ風情があったでは?
バイパスとくに波佐羅や尾小屋トンネルみたいな道は、沿線らしくないというか・・
自転車で旧道を通って尾小屋駅に行くなんて今となっては夢のような話
あと新小松の廃線後の様子(変化)を知っているのも貴重ですね 普通の自転車で上り坂込みで16キロ1時間なら早い方だと思うけど
逆になんでバスと代行タクシーで1時間以上もかかるのか?? 廃線時の尾小屋は当時としては結構な賑わいだったようだがまったり感はある
これが現代だったら、葬式鉄で地獄の絵図と化していただろう 昭和45年頃の車内の様子の写真を見たことがある。
20歳くらいのミニスカートのかわいいお姉さんが写っていたけど、ご存命ならそろそろ後期高齢者にさしかかる頃かと思う。 自転車をそのまま車内に積んでた画像みたことあったな
今どきの会社みたく規則だなんだとつまらんことを言わないのがいいね
277氏もやったのだろうか >>289
チャリで尾小屋まで初めて往復したのは廃止後の昭和53年3月です。 今の婆さん達は若いころにごぞってミニスカートはいてたんだよな
いずれルーズソックスもそんな感じの存在になるのかもね
自転車持ち込みは規則どおりなら大きさが完全にアウトだし
分解しても当時は別料金が必要だったが、尾小屋は徴収していなかったろうな 現役時代のキハ3
いい味出てる
文春OLはマニアックな記事が多い
つまり、そういうことだ >293
おつかれさん
むしろ40年以上も木橋が残っていた方が驚き
最期の方はとても渡れる状態ではなかったろうけど 東京の記者なのに尾小屋を知ってる時点で、もう素性は隠せないだろう。 廃線から45年も経てば、トンネルや橋が通れなくなっておかしくない
山間部なんか藪で近寄れないなんてザラだろうし 最近は雪の降る地域が極端に分かれるが
キハ2が救出されて残った車庫は無事だろうか
手が入ったとはいえ、尾小屋の建築物で残ってるのは尾小屋構内の車庫くらいではないか? 赤門はもう手を入れる事はしないだろうから
あと何年持つかだが 車輛が搬出された後、庫は解体されたとのこと(ネットで見た)
建物で残っているのはバス停に移転流用された塩原の駅舎ぐらいでは
バス廃止だとこれも危ういな これは呆気ない幕切れだな
ある意味救出移転されただけの車両達よりもニュースなのに
せめて一緒に報じて欲しかった
ただ、車両のその後も音沙汰なしだが
一連のなかで多少でも報じられただけマシという程度の扱いなのか 「車庫撤去後の尾小屋駅構内跡」というようつべで観た
大雪でなく水害で車庫が葬り去られるとはな
撮影者のナレーションは間違いが多いし、ちょっと情報の正確さが怪しいので
解体の理由が水害とは必ずしも断定できないが、なんらかの影響があったのは間違いないし
まあ屋根がかなり見た目的にも異変が出てたからね あの広い尾小屋駅構内が水に浸かるなんて、過去にあったのだろうか もし尾小屋が営業を続けていたなら、昨年の豪雨で橋が流され運休、そのまま廃止なんてなってたかもしれない
駅跡は水深20センチというから水田みたいな状態だったのかな 現役時代、いつ行っても尾小屋駅の構内には水たまりがあったような気がする
山に囲まれているので水が集まりやすいのかもしれんな 塩原の待合の管理はバス会社から小松市に移ったのかな
すると小松市の判断になるのか
代替タクシーが続くかの問題もあるが、相当老朽化してるだろう
あとは台風とか災害で壊れないか トンネルや橋梁、ホームのような堅牢な構造物に比べるとやはり木造中心の上物はやはり不利
むしろ木橋や塩原はよく残った方か
いくら軽便の小河川部分とはいえよく橋を木造にしたとは思うが、それでも近年まで残ったことを考えると
かなり丈夫に作られていたのだろう
素掘りに近いトンネルが崩落しないで残っているのは地盤の関係だろうか 46年目の春の尾小屋からは
とうとう車庫とバスが消えてしまった… 赤門はバトンタッチの大役を果たしたな。
ファン活動の成功例として扱ってほしい。
個人で最後まで面倒見るというのは無理。状況が整うまで保ち続けるのは立派な行動力だった。 お前ら日曜に粟津行かなかったのか?
年に2回しかない大増発の日だっのに 他にも軽便鉄道は多々あったのに何故に赤門は尾鉄に着眼したのか あの頃非電化の軽便鉄道は尾小屋しか残っていなかったから 赤門が見初めてくれたからここまで持ちこたえられたと思う
文句は言えない >>323
花巻があった頃はナローや地方鉄道が幾らか残っていたうえ、赤門の人達も
経済的にも社会的な力もまだ若くて足らなかったとか、、
昭和52年に至ってとても珍しくなったし、金も力もある年齢になったとか?