爆音立てて突っ走る京浜東北線103系に萌えるスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
赤羽以北や蒲田〜横浜間は、中距離電車との高速併走劇が繰り広げられました。
快速ができたのも103系時代です。
209系やE233系に世代交代してラインカラーは青となりましたが、
103系時代を知る者としては、今でもやはり水色と呼びたいものです。
姉妹スレ:
爆音立てて突っ走る京阪神緩行103系に萌えるスレ
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1222263926/
爆音立てて突っ走る常磐快速103系に萌えるスレ
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220536255/ 1976年頃の大宮寄り3両は101系(90系)だったのか? ←大宮3+7大船→ オリジナル時代、大宮方先頭車はいずれもクモハだった。
やがてATC準備が進むと7両の両端は高運クハ化され、プラスアルファで冷房モハユニットが組み込まれた。
数は少なかったと思うが10両貫通も見た記憶はある。
捻出されたクモハつき非冷房車群が名古屋辺りに行ったはず。
4+6へ大きく変わったのは1980年の秋口前だったな。
この時にクモハユニットは中間に組み込まれ、二度と先頭に出なくなった。
ATC化と同時に午後になると走ってたクモニ13の新聞輸送も終わり。 クモハの運転台側モーター、点検で蓋を開けると髪が絡んでる。
ま、匂いですぐわかるけどね。
なんて話を中の人に聞いた。 >>349
確かクハ103-4は阪和線転属予定だったと聞いたことある
ついでに言うなら仮にTc4が実際に阪和線に行ってたら京浜東北線に居たクハ103の1桁車(Tc1〜8)は奇数車が大阪環状線、偶数車が阪和線に行く予定ということに?
更に余談だが大阪環状線にはその後山手線からTc9もやって来たことになった >>345
北モセに留置されてたのは544番です。
「クハ103-544」で検索して下さい。 >>360
>>345 です。
確認しました。
しかも写真まであったとは…。
ありがとうございます。
長年の疑問が氷解しました。 103系は短編成では運転が難しいのかな。
仙石線での103系(4両編成)末期の頃は女性運転士も運転していたが
ブレーキや発進時のタイミング(ノッチの加減)が難しい
あれから8〜9年経過するが、彼女たちは立派な新幹線運転士に
なってるだろうな(笑)。
で、昭和50年代には山手線・京浜東北線で利用していたが
10両編成位ではそんな感じはしない。
モハ6+クハ4=10両編成では停止・発進時のショックはほぼないが
仙石線のようなモハ2+クハ2の4両編成では操作が難しいんだろうな。
最後まで現役だった4両は両端ともに低運転台だった記憶なんだがな。 >>362
運転技術の面で、JR奈良線で通用する者は
全国どこ行っても通用するってことか。
205系への置き換えが進んでいるものの、
103系4両編成が当たり前のように使われる時代が30年弱続いた。 JRになっても6+4いたな
しかも営業運転で先頭に立てない低運転台が中間に封じ込められてた
下十条電車区の交番検査ピットの長さが足りないためだが1986年廃止後も残ってた 103系4両の快速(湊町〜新今宮〜天王寺〜王寺〜法隆寺〜奈良〜木津〜加茂)で走っていた 103系の6+4とか7+3の編成は、当時の国鉄が将来を見据えた編成で
短編成の4とか3を地方へのお下がり運用を考えてのことだったんかな。 そういえば
ケトの103系
ミツに転入したけど
真っ先に201系に置き換えられたなぁ >>368
総武緩行線の201系が分割併合しないのに6+4になってたのは中野電車区の交番検査ピット有効長不足のため
後の京葉線転用で活かされた 大宮発の終電が東十条から赤羽止まりに変わったのはいつからだろう。
東十条止まり時代は朝までホーム留めしてたのかな。 東十条駅止まりの電車は、
昭和の時代には中線(2・3番線)進入でなかったの? >>373
けっこう前だったのね。
赤羽で乗客と車掌を下ろせばそのまま一人で下十条留置へ直帰できるもんな。 中間に運転台があると車内巡回で一旦線路に降りなければならず手間がかかる
大阪環状線の201系で4+4が短命だったのはそれで乗務員に嫌われた
交番検査ピット長不足でどうしても分割しなければならないならば回送運転台を取り付けるか103系1000・1200番台の先頭車を中間に挿入するかすれば解決する >>376
ホームには降りるだろうが線路には降りないだろ。
貫通路が無きゃ無いでどこの会社でも連結部分や乗務員扉にあたる位置に台が設けられてる。
車外に出ることすら嫌うなんて、上方の乗務員はモノグサだねえとしか思わんな。 >>345
それ、もしかして田端で山手線内回りにお釜掘られてやつじゃないの?
あと、76年ごろだったら南浦和ー蕨間を走行中の南行電車が、
沿線にからはみ出していたクレーン車のアーム部分と衝突し、
クハの前面上部が大破した事故が遭った。 >>350
洋光台で土砂に突っ込んだ、クハ103と愉快な仲間たち1号車〜3号車は、
しばらくの間磯子の電留線の端に放置されていた。
尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流行っていた頃だった。 2008年にたったスレがまだあって、103系はもう無い・・ >>379
そう、そのカマ堀り事故。
日暮里ですけどね。
鉄道ファン'75 5月号
JTB 103系物語
wiki 日本の鉄道事故(1950〜1999)
その他 個人サイト
で確認できました。 南行ので田端~上中里間て何気に平均スピード早くね?いつもすっ飛ばしてる感じする。上中里は乗降客一番少ないのに何か違和感感じる。 その昔、王子-上中里は女子高校の密集地帯。
微妙な偏差値ばっかりだったけどね。 体調不良で蕨駅西口の階段が登れなくて
そのまま独身寮に戻った経験は人生初の
苦い思い出。 >>382
ATC導入のきっかけとなった事故であるが準備にかなり時間がかかった
クハ103-269〜の導入が1974年だがATC使用開始は1982年 >>386
お陰でTc4とMc99が、顔を突き合わす様になりました。 京浜東北線よりも常磐線の103系15両編成のほうが萌える!!。 朝の上の駅で片側60箇所のドアが一斉に開き、ドカッと吐き出される大量の人人人。 昭和50年前半期の常磐線(上野乗り入れ)は103系15両編成だったんすかね
京浜東北線の車窓から見ていたけども15両編成とは思わなかったわ!!。
っうか、日暮里駅のホームってそんな長い編成に対応していたの? 常磐線103系の15両編成は、昭和 63年3月ダイヤ改正から。 15両化でまさか常磐線に高運が登場するとは思わなかった。 43年くらい前に訳ありで、蕨高校付近から南浦和駅の交番まで
歩いて行った経験があるが、あの当時は国際興業の路線バスもなく
田んぼ道をひたすら歩いて行った記憶がある。
訳あり=盗難被害届をだすため
そのころは、川口芝地区の大規模公団住宅が盛んに建設されていた頃(出来ていたかな?) 大宮〜南浦和の五駅。
何で西口ばっかり発展したんだろうね。 >>394 中仙道(国道17号)が駅の西側を通っているから。というか、元々旧中山道沿いの旧市街地に隣接して東北線が造られたから。
川口市内に入ると中仙道から遠ざかる。 爆音っうか、赤羽から蕨までの区間で高崎線や東北線の湘南カラーの電車と
並走して(マジ走り)103系が追い抜いたッう記憶がない。
で、鶯谷から上野間では敵は徐行してるから勝てるんだが(笑)!!。 千葉のたまご屋さんのTc525を塗り替えてスカイブルーにするって昨年聞いたけど、今どんな感じなのかな。 >>397 2編成やで
NS407編成と409編成 103系は空車時と積車時で車高が10センチくらい違ってくるとか話があるんだな
コイルバネはバリアフリー的に良くない
仮にもし空車時に合わせてホーム高さを設定した場合積車時に10センチ車体が沈んで逆段差ができて降りるときに躓きそう コイルバネ時代にバリアフリーの発想はないからなあ・・・ >>405
良かった
このスレ書き込みある度に奈良線103系の廃車決定報告かと思ってしまう そういや103系の車内って特有の匂いがしたなあ。
そう、209系でもE231でもない独特のニオイ。 昔、蕨に住んでいた。
中距離電車には湘南カラーの115系が走っていた頃も、各駅停車はモハ72だった。
その中で初めてスカイブルーの103系を見たときはまさに掃き溜めに鶴であった。 一部の車両は3/4閉回路が付いてたが使った事例を聞いた事がない
車内保温でドア1個だけ開けることができる 2017年最後まで大和路線走ってた103系は車内に扇風機あったのに
最後まで環状線走ってた103系には車内に扇風機無かった
この違いは何故 209導入前の京浜東北線って前面以外は阪和線とほぼ同じ車両だったの!? ATC引っ掛けちゃうと乗り心地が悪くなるので指示速度超過でATCブレーキが作動しないように運転してそれでもなお引っ掛けたら205系ではB3に入れて緩解時の衝撃を軽減するテクがあった
103系はどうしてたんだ? >>416
スカイブルーの103系の通勤快速勝浦行きなんてのもあったね。
同じ頃阪和線でも、天王寺発紀伊田辺行きの103系快速があった。 八丁堀→蘇我ノンストップの通勤快速があったね、29分だったかな、爆音を堪能しました。 >>418
最初そうだった。後に新木場が停車駅に追加されたね。 >>418
南船橋と海浜幕張はそのうち停車駅になるかと思っていたけど、今でも通過しているね。 その昔、ニッポン放送の上柳昌彦のラジオを聴いていたら
「旦那が寝込んだんです。京浜東北線から103系という電車が引退したから。」
という視聴者からのエピソードが紹介されていた。 >>422
ヨッ!お疲れさんというラジオだと思った >>400
東海道線区間の大森ー蒲田―川崎ー鶴見間では、
ATS時代の103系は、スカ線や東海道の中電や優等と張り合い、
抜かす事も度々あったぞ。
ATS時代の103系非冷房車は、蒲田→川崎で100Km/h強迄加速したのを、
何度か目撃してる。多分回復運転してたのだろうけど。 そういえば蒲田駅の近くにソープランドがあって電車で通過する度に
何か気まずい思いをしていた子供の頃 花月園踏切ではかっ飛ばすモーター音だが
生見尾踏切では南行が速度を勾配の影響で3号車当たりからスピードが落ちる走行音に
北行は逆に勾配を降りる位置だけに下って行く音が徐々に速度が上がっていく
モーター音も軽快な音にまさにリズム感のある走行音だった 京浜東北線103系後期車のMT55Aの高速走行時のモーター音は、
何だかヘアードライヤーのモーター音みたいで今一好きになれなかった。 1970年代の国鉄の順法闘争
当時の京浜東北線は103系の高運転台(大船側)
大宮側は103系(101系改)は低運転台
運転席のサンバイザーに新聞を挟んで運転していたね。
新聞を読みながら運転できるんだから凄いよな(笑)。 >>428
101系のクハを改造したクハ103がいたのは関西にだけで、
京浜東北線には1両もいなかったよ。 >>428
大宮側はクモハ103だと思った
確か大宮側がクモハ103を先頭にした3両編成でその後ろに高運転台のクハ103の7両編成
で3+7で10両編成だと思った
気が付くと4両と6両で10両編成か10両貫通編成になっていた
先頭はATC付きの高運転台クハ103になり
低運転台のクハ103やクモハ103は分割編成の中間に封じ込まれた 10号車がクモハで、1号車がATCクハの編成は確かに存在した。
夏場の南行でこの編成が来ると、ホームの乗客達は冷房車だと一瞬期待するんだけど、
全車非冷房なので、期待を裏切られてガッカリしていた。 このインチキ冷房編成は、ウラの10両貫通編成だった。 しかも、両端がATCクハで、中間8両が非冷房ボロ編成の完全詐欺編成も存在した。
東横線8000系冷房工事準備車のインチキ編成と同様、悪質だった。 インチキ冷房編成とはいえ
当時は窓を開けて走ってくれれば、それなりに涼しくて快適だったような気がした youtubeで中央線(西線)のネタがある。
中津川駅まで入線していたような >>432
2例とも7両編成側のサハが非冷房のようだけどこういうのは元々組んでたボロ6両をATCクハと新製冷房車モハユニットに置き換えたけどサハだけボロのまま残った感じだな
抜かれたボロ6両はどこに行ったんだろうか? >>434-435
中間8両非冷房の完全詐欺編成は先頭ATCクハと大阪環状線に投入するモハユニットが同時に作られて元々組まれてたボロクハが新製モハユニットと組まれて大阪環状線に転属、ATCクハは残された8両のポンコツ車と組まされたことになったんだよね 京阪神緩行線以外の青い103系は全て京浜東北線由来?
(京阪神緩行線のみは元山手線の先頭車+新造中間車だった模様) そういえば山手線で10両すべてAU75は見たことがあるが
京浜東北線で10両すべてAU75って見た記憶がない。 >>442
そういえば阪和線にはクハ103-2・6・8が京浜東北線から来たんだっけ
本来はクハ103-4も阪和線に転属予定だったけど事故で立ち消えになったんだよな
仮に4が阪和線に来てたら関西に居た一桁クハ103は奇数が大阪環状線(クハ103-9は1979年頃山手線から来た)、偶数が阪和線に綺麗に分かれてたな
>>443-444
山手線は1973年にクハが低運新製冷房車のロットが編成単位で入ったから全車AU75どころか全車ユニット窓冷房車もあったよね
翌年のクハ差し替えで低運新製冷房車クハは京阪神緩行線に行ったな 港南台在住なので子供の頃は京浜東北線の103系は当たり前の存在でした。
もう京浜東北線から撤退して24年なんですね。
このコロナ禍ではありますが、奈良線の103系に会いに行きました。
戸袋窓が埋められていたり細部は違いましたが、やはり懐かしかったですね。
何か子供の頃に戻ったかのような不思議な感覚がありました。
その奈良線の103系も引退してしまいましたね。
あとは京都鉄道博物館のクハ103-1ですね。 JRになっても中間に低運転台が入ってるのあったな
下十条電車区の交番検査ピットが8両分しかないためだった
「意味なし分割編成」は総武線の201系もそうで中野電車区の交番検査ピットが短いため >>448
> 交番検査ピットが8両分しかないため
俺的にはこれが理由なら「意味なし」とは思えないんだが
感じ方や表現方法って人それぞれだな 旅客にとってはデッドスペースになるだけだが後々の転属で役立ってる
私鉄では半分ずつ検査できるよう簡易運転台を設けてデッドスペースを無くしてるのある
国鉄で簡易運転台は特急・急行型では例があるが通勤・近郊型では聞いた事が無い >>444
昭和49年頃に京浜東北線に最初に北ウラに入った高運編成は、10両全車新製で、
AU75を載せた編成だった。
あと、昭和51年頃に南カマ所属の低運冷房改造車5編成が登場しけど、
付属3両非冷房+基本7両がAU75を載せた正しい冷房改造車だった。
ATS末期の頃には、その他に付属3両+基本7両の低運全車AU75冷房改造車も登場したけど、
短期間で転属して行った。
低運クモハやクハの転属が始まってから、新製の高運クハに差し替えが行われ、
両端3両のみ冷房や、両端高運クハで全車非冷房のインチキ編成が蔓延り出した。
その後、それらの非冷房中間車がAU75以外の安物で冷房改造された。 >>448
京浜の7+3は、下十条電車区の交番検査ピットの件が最大の理由だけど、
当初は根岸線などの末端区間(多分蒲田以南)で、日中の閑散時には付属3両を切り離し、
基本編成の7両で運転する計画があったらしい。
しかし、解結作業の人員配置など手間がかかるので、結局実現しなかったと、
鉄道関係の雑誌で読んだ記憶がある。 国鉄通勤型で回送運転台はやった事例がないな
私鉄だと検査時に分割可能なよう簡易運転台搭載がある
151系はサシで分割できる 後期車で使われてるTR212はTR62と殆ど一緒では?
ディスクブレーキ付きのコイルバネ台車である点が共通して車輪直径も同じ
TR62じゃダメだったのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています