なつかしの国鉄日豊線・豊肥線・久大線
日田と言えば、久留米発大分行の12系客レが昼食タイムだった。
(夏の暑さは相当なものだな) (現)大分県国東市国見町伊美
(旧)大分県東国東郡国見町伊美
オレの生まれたころ(昭和50年)は
大阪刷の朝刊が前日の夕刊とあわせて午前11時頃配達された。
どんなルートだったのだろう。急行「くにさき」〜宇佐〜大分交通
だったのかなー? >>493
そこまで昔の話じゃなくて12系+寝台併結時代の話ね
行き違いとか関係ない夜中の停車 日田の夏の暑さは尋常ではないな、かって国鉄時代の久大本線の普通列車は気動車も客車も急行の間合い運用の気動車以外は殆ど非冷房で由布院や豊後森や日田で長時間停車の時は熱風をかき回す扇風機の風のみで暑かった思い出があった。 >>490
昭和47年までの夜行鈍行だった時代に、行商のおばさんが乗っていた名残り。 豊肥本線熊本〜水前寺間で国鉄最後の頃かJR発足の頃からかディーゼル機関車DE10が牽引して電源車に当初はスハフ12後に車掌車ヨ8000を改造して使用していた当初は485系で後に783系も入った確か列車は特急有明だった。 昭和50年代頃キハ20かキハ55の窓がバス窓の車両が有った叉キロ25の格下げのキハ26の400番台(窓がやや小さく座席が非リクライニングの回転クロスシート)の車両も有った。 日豊本線の旧型客車(昭和58年頃)の客車形式はスハフ42やオハ46が主にナハ10系の軽量客車もあった列車によっては下り鹿児島よりに荷物車や郵便車も連結していた所蔵は門司港と鹿児島が主でした。 延岡方面の普通列車の終列車の異常に早い南延岡駅(昭和50年3月)
0544(普通 大分)、0736(日南1 小倉)、0754(普通 大分)
1050(しいば 別府)、1158(普通 門司港)、1444(日南2 小倉)
1541(普通 門司港)、1747(普通 高千穂)、1928(日南3 別府)
0032(日南4 門司港)
朝、博多から天ヶ瀬まで普通列車として行き、門司港まで「あさぎり」として往復。
1605に由布院に着き、5分の折返しで「ひこさん」に化ける。
学校帰りの高校生がごった返す中で、サボの入換えやらなにやら
あわただしい折返しだったと推察できる。 昭和42年12月24日夜(夕)新大阪駅から急行夕月の1号車(オハネフ13-洗面所側が下り方向)
EF58一般色小窓が牽引、岡山迄は前にマニ60が付いており、岡山からはEF58の次位がオハネフ13、
関門ではオハネフ13洗面所側の貫通扉を開けてEF30〜ED76-0を間近で観察、大分では附属編成
切り離し、釜換えを知らずに暫くして、汽笛音が変(ピーッではなくホヒィーッの音)な
のに気付き、貫通扉を開けると、模型でしか見た事の無かったDF50(朱〜煤けていた)
を間近で観察。途中山間の駅でDF50牽引の富士に抜かれました。14時頃に宮崎に着いた
時には最後尾はスハフ43-0(青15号)でした。 昭和54年の夏由布院発キハ66と67の急行はんだに乗りたかったが車両トラブルの為非冷房準急型のキハ55がピンチヒッターで急行運用についていてがっかりの思い出が有ります。 今からすれば、宮原線を存続させていれば、
観光路線として成立していたかも? >>510
このまえ「ゆふいんの森」に乗ったら、
女性アテンダントが宮原線の話していたな。 宮原線で走っていた車両は単行気動車で末期は主にキハ40だった、当時は車掌乗務で乗客が少ない時は客室の座席に座っていた。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 SL時代の久大本線の写真で主に朝の由布院発大分行きの列車は由布院駅に転車台が無くD60がバック運転していた。 夜行日南で延岡から乗り込み俺を叩き起こして「津久見で起こしてくれや」と頼んできた酔っ払いのオッちゃん
目覚めた行橋駅では消えていたけど
まだ生きてるかな? 今は特急を含め全列車車内禁煙が当たり前ですが国鉄時代の大分地区の普通列車は昭和60年3月までは禁煙車は無く駅構内もホームや待合室やトイレまでもどこでもタバコ吸うのが当たり前だった、朝夕のラッシュ時でも禁煙タイムも無かったです。 C57の逆向き運転ってとこなんだろうか?
大分-幸崎の区間運転というのがあって、記憶にある時代は
ディゼルカーになっていたのだが、ダイヤを見る限り、
機関車運転の時代があるんだよね
このときの機関車はいったいなんだったのか?
大分機関区だと、C55あたりかあるいはタンクのC11か? C57の逆向きは小学校の時に宮崎-南宮崎大淀川で何度か見ただけだなぁ 今般の大雨で
日田ー光岡で橋梁崩壊で、久大本線は不通になった。
久大本線の蒸気機関車は、D60です。
大分機関区所属です。
60号〜65号と67号ですね。
鳥栖では直方機関区所属のD60があった。
直方機関区所属のは
26号〜29号、31号〜34号がいました。 真ん中の廃止が正式に決まった豊肥線の両都市圏残存区間は
「大熊線」「大竹線」に決まりました
めでたし、めでたし 日豊本線の蒸気機関車は
C55がいました。
大分機関区所属のは
C55の改造が北海道のC55より激しかった。
門デフ取り付けは、もちろん、テンダーをD51のを振り替えていました。 日豊本線の客車急行
『日南』『高千穂』臨時で『ぶんご』があった。
『ぶんご』は臨時とあって、グリーン車なし
蒸気機関車はC55とかC57と言った気の利いた物を使わず
あろう事かD51を使った。
余談になるが、豊肥本線で、熊本地震で被災した箇所は廃止が決定したのか? 大分機関区のED76で
74号がいました、パンタグラフが、デカパンとチビパンがあった。
小倉駅上では、門司寄りがデカパン、大分寄りがチビパンであった。 昭和49年
都城駅構内入れ換えのみの仕業となったパシフィックはDFの後位で日豊線を
もはや単独運転は志布志線だけと相成り青井岳・田野バンクを訪れる諸氏も激減しました 長期青井岳で泊まり込みで撮影したカメラマンの回想で
青井岳の国民宿舎は鯉とかの川魚だらけで
げんなりしたとか書いてたな 昔は今みたいに即日冷凍冷蔵配送で
肉や海の魚は来ないからねぇ・・
山の方は肉って言ったら猪か鹿しか食えなかったと言うし 久大本線の光岡ー日田で
橋梁崩壊が発生しました。
昔、大雨での橋梁崩壊は、豊肥本線でも発生しました。
豊後清川付近です。
今般の大雨での鉄道被害は、昭和47年、則ち1972年を思い出す。
7月、8月に熊本、高知、山口で大雨が原因の鉄道事故が発生した。
7月には
高知では、土讃本線の繁藤駅付近で大雨によって、土砂崩れが発生して、DF5045が川に転落しました。
熊本では、肥薩線大畑ループ線、大野築堤で大雨で地盤の緩んだ築堤をDD51758が通り、自重で築堤が崩れ、DD51758は脱線、築堤下に転落しました。
8月には
山口の美祢線、厚保ー松ヶ瀬信号場の奥畑集落で土砂崩れが発生して、D51529貨物列車が土砂に乗り上げて脱線事故が発生、乗務員二名が死傷しました。
それが原因で宇部興産道路なるものの建設ピッチが速くなった。
ひいては、美祢線の石灰石輸送貨物列車の全廃の発端になった。 久大本線の蒸気機関車は大分のD60以外に鳥栖〜豊後森間の豊後森の8620の運用もありました更に夜明〜日田間の日田彦山線列車では門司のC11タンク機関車もいました。 如何でしょう
激甚災害指定のどさくさ紛れに豊後森の扇形庫に九州各地の放置蒸機を集めて入場料に復興義援を含ませてみれば
とりあえず鹿児島からはD51714を贈りたい処ですが鉄屑になりました 豊後森から宮原線があった。
蒸気機関車はC11です。豊後森機関区所属ですか?
噂によると、後藤寺機関区所属のC11が担当したらしい? >>531
入場料をいくらにするか知らないが、集めたり補修したりするのに
かかる費用を回収するのに何年かかるんだ?
豊後森なんて久大線の「ゆふいんの森」がちょうどいい時間にすれ違うから
鉄ヲタが集まるわけだが、肝心の主役不在で人が集まるのか? どうせやるなら、「ゆふいんの森」がすれ違う時間帯に
向之原駅で列車撮影する者から「撮影料」1000円徴収するほうが
まだいい。焼石に水程度でしかないが。 撮り鉄の皆さん
たまには御布施(入場券購入)して日頃の垢を落としましょう 昭和最後のGWに豊肥線の急行に乗ってトイレに行ったら垂れ流し式で流れ行く枕木が見れた 国鉄時代は線路に糞やペーパーが落ちてるのが風物詩でしたね、たまに線路際でカメラを構えていると尿の雨に打たれたりしました JRになったばかりの昭和末期の九州の気動車のトイレは急行普通問わず垂れ流しだった、今は汚物タンクの付いているキハ40とキハ47とキハ66も当時は全て垂れ流しだった。 大分地区の普通列車トイレは電車気動車客車問わず平成になってもしばらくは垂れ流しのままだった、平成6年春に大分電車区に汚物処理装置の抜き取り設備が出来たが普通列車トイレはその後もしばらくは垂れ流しのままだった。 夏の列車旅で窓を全開にするのが躊躇われる様になったのは何時からか? >>543
90年代かな。209系とかの固定窓台頭、本州じゃ115とか165とか下段固定されて開かなくなって
強制的に上だけ少し開ける感じ、まだ日豊線の475は冷房効き過ぎ時は開けても
顰蹙は買わなかったが・・ 実際に101や103の窓を全開にしていると子供が落ちる危険性があったからな。
冷暖房完備を当たり前として窓は開けないものというのが普通になってきた。 しかし
かつてのローカル線DC列車
夏場の停車時は暑かったね >531
現在いる29612は志免で放置されていた車両やね かっての旧型客車のブレーキに鋳鉄制輪子を使用していた為夏場に窓を開けていると見えない細かい鉄粉は服に付き赤茶色のシミになり鉄臭さが染み付いていた。 昔、別府から長崎迄走る、
急行『西九州』号があった。
久大本線経由で。
長崎本線に最後まで急行電車が入らなかった。
長崎本線の電化が遅かったせいもあろう、
急行電車化が期待されたかも知れない
急行『出島』『弓張』も
急行『出島』号の諫早での作業ダイヤが最後まで急行電車の進出を阻んだ。
則ち、『出島』号の諫早での島原鉄道車両の増解決作業があった。 >>549
「西九州」は、別府から佐世保が主編成で、長崎のほうは「ついで」。
「西九州」が設定されたころは、まだ佐世保の青い目をした人たちは
頻繁に国鉄を利用していた。
なお、昭和40年頃だと、長崎と佐世保では、特急や急行の乗り入れ本数、
乗り入れる列車の一等車両や食堂車の優先具合で比べると、佐世保のほうが若干高め。 別府-佐世保というのは瀬戸内の神戸等からの船を受けてのルートか >>550
さくらには長崎編成しかA寝台と食堂車が14系なった当初は付いていなかったな
後に連結されたから最初からあの編成だったら編成的にも同一編成で予備車も少なくて済んだかもしれない >>551
佐世保の駐留米軍が別府に慰安等で出かけるための列車。
>>552
かつて、雲仙・阿蘇を経由する「九州国際観光バス」が
やまなみハイウェイを経由して(三角〜島原間はバスごとフェリー)運転されており、
その時代の復活をってことだと思う。このバスの経路は断続的には今でも残っている。
>>553
ところがその「さくら」も、登場当初は、長崎編成は、一等B寝台、二等寝台のみで食堂車無、
佐世保編成は、一等A寝台(個室)、一等B寝台、二等寝台と食堂車連結。 >>554
さくら 食堂車佐世保編成
1965-10だね 家に時刻表があった。 JR化後の話だけどあかつきの長崎編成にシングルデラックスとシングルツインとツイン
佐世保編成にソロが連結されたころの編成は
関西発着の九州ブルトレとしては豪華だよな >>572
1954の肥後小国まで開通時点で豊後森区にC11191が配置
以降'70/10まで同機が豊後森区で担当
その後、熊本区にC11運用が集約されて同機も熊本区に転出
ただし、同線よほど貨物がないとみえてほとんど運休
'71/2に大分運転所にC11270が転入
同機を臨貨用に充当し、同年春まで使用
宮原線の貨物スジ廃止は'71/10だが、実質的には5月頃に終了 わずか一駅間だけの
直川発直見行きは混4592レという番号で
前後の関係は
南延岡発直川行き地域貨物4592レ
これが直川着16:43
問題の混合4592レ 直川発16:44→直見着16:52
すぐさま
直見発16:53
これが門司操行き地域貨物4592レとなる
客車を離合する余裕はありえない時間なので、
肥薩線などで見られたように列車後部にオハフかスハフ一両くっつけてこの区間だけ営業扱いしたと思われる
直見地区に小中学校がなかったための直川小・中学校からの下校用の可能性が高い
南延岡→普通貨物1598レ→延岡→混合1598レ→佐伯→普通貨物1598レ→大分ってのも接続時間はかなり間合いがあるが、客車運用からすると当初から大分までくっついてると思われる
(下りの混レがないのは、下り編成を上りでは小分けして別列車に仕立てている可能性が高い) 急行『西九州』号は、佐世保からの駐留米軍の別府へ向かう列車であったという。
日豊本線は、沿線に軍用地が多かった。
則ち、南小倉は、山田弾薬庫があった。
城野は、キャンプジョーノと言う米軍施設
築城は、キャンプツイキ、現・航空自衛隊築城基地があった。
鹿児島本線は、竹下駅
板付ベースキャンプ、現・福岡空港があった。
春日公園、大野城の両駅は、春日ベースキャンプがあった。 >>561
急行西九州の開業は1964年
高度成長期で日本人観光向けだと思うよ。
1946〜1956辺りの進駐軍列車でも、専用列車はおろか、急行すらないし… そうかなあ?
別府から長崎、雲仙方面
長崎から別府方面の流れか。
日本人であれ駐留米軍であれ。 別府から長崎への流れもあったね。 両親の1965年時アルバムに神戸から別府の
関西汽船むらさき丸船内、別府泊、長崎・雲仙観光して阿蘇・宮崎と回って宮崎空港から
伊丹に帰ってた。当時このコース新婚さん向けだと思うけど
自分も生まれる前年で兄や姉は小さいのに預けられたのだろうかw 大分はハネムーン列車
急行ことぶき走らせてたし
別府→阿蘇→長崎
大分→宮崎→鹿児島→熊本→長崎
→佐賀→福岡〜飛行機
旅行にお金をかけたりと、暮らしが豊かになった時代 準急西九州設定は日本人観光客の国内旅行需要をあてにしたもの
駐留軍なんて全く関係ないよ
当時の佐世保の米軍関係者が別府の温泉に行くなんて嫁や恋人が日本人とかのレアケース、当時の米軍は温泉なんぞ興味ない
休日は車でつるんで博多や長崎の歓楽街に繰り出すのが大多数 昔の日豊本線は輝いていた。
急行『錦江』号は、グリーン車を2両も連結したり、また、急行『高千穂』号は、東京からの急行列車だから
C55は、テンダーをD51のと付け替えた。
別府、宮崎は新婚旅行のメッカであった。
話は変わるが、別府や宮崎が輝いた頃は
観光バスが多かった、観光バスと言えば、バスガイド
今では、貴重品になった、亀の井バス、宮崎交通のバスガイドの冬服。昔ながらの『これぞバスガイド』がある。 東京だと、戦争で新婚旅行どころではない→箱根熱海→別府宮崎→ハワイサイパングアム→欧米全般→アフリカ南米→国内回帰→新婚旅行そのものが陳腐化 「雲仙から阿蘇」「阿蘇から雲仙」は観光の定番だったのは間違いない。
国語の教科書にもその紀行文が採用されたくらいでして。 ・・・今調べたら、「雲仙から阿蘇へ」の執筆者(片桐大自氏)は、学校図書の編集者だったんですな。
当時の教科書を入手する以外にもう読めないかもねえ。 70年代にはもう豊肥線の優等列車は地盤沈下してるでしょ。観光道路走るバスに客取られているから。
昭和30年代ほどではないにせよ、指宿、宮崎も観光客呼びこんでまっせ。宮崎シーガイアは何とか復活できてるし。
ただ、ツアーバスやマイカーの客が増えて列車利用する客が少なくなっただけ。 80年代前半、国鉄末期の久大線、豊肥線のやる気なさそうなダイヤ、優等列車が懐かしい。
特急はなく、コチコチのボックスシートの気動車急行だけ。これでは観光地まで直行する観光バスに対抗できない。 >>575
その頃だと、従来のグリーン車を普通車指定席として営業していたが。 >>576 自由席は従来のボックスシートだったわけだろ。これで急行料金取る。値段の面でも観光バスに対抗できないわな。 せめて、自由席もキハ66のような転換式クロスに変えてほしいと思ってだけどね。リクライニングまでは望まないが。 60年代はまだ自家用車どころか観光バスも国鉄に対抗できなかった
まともな完全舗装片側2車線の国道が珍しい時代
70年代中盤のオイルショックで出鼻くじかれたが、貨物同様に80年代には完全にレジャーや帰省に鉄道を頼る時代は終わった
飛行機とバスと自家用車が当たり前となり、それまで60年代から多数設定された盆暮れ正月やスキーや海水浴の臨時列車も本数が激減した やまなみハイウェイができたのが1964年、70年代には九州横断バスが豊肥線の急行から客を奪っていた。山の上まで乗り換えなしで行けるというのは、列車にはできない強みだね >>580
そんな九州横断バスですら、時代の趨勢に伴う乗客ニーズの変化に抗う事も出来なかった。
そして今は観光要素を廃して、実質的に乗合バスと化した虫の息状態。 >>581 高齢者でも利用しやすいツアーバスの時代だからね それに価値観多様化して、お決まりのコース見学では物足りない、選択の多様性と利便性、それに長距離運転が苦痛で風景眺めていたいという人にとっては、ツアーバスが最適ってわけで 「やまなみハイウェイ」を経由する九州国際観光バスは、
最も長距離を走るもので長崎〜別府でしたな。島原〜三角間は
バスごとフェリーに載せました。
このバスは観光バスながら、途中乗降地を選べるもので、
ガイドさんは三角表を片手に乗車券も売っていました。
能登半島の国鉄バスにも同じようなものがありましたな。
これとは別に瀬ノ本で10分停車するだけの一般路線バスタイプのものも
ありました。 確か大分管理局持ちの急行由布と火の山は昭和60年3月のダイヤ改正から指定席にグリーン車用のシートを使用した車両を導入した由布はキロ28の格下げ車火の山はキハ58の改造車だった、JRになって平成始めの頃自由席にもリクライニングシートを導入した。 書き忘れでしたが確か昭和57年の秋のダイヤ改正で急行由布火の山のグリーン車の利用客が少ないので編成から外したようです、ちなみに平成4年の特急格上げ後これらのリクライニングシート車は長崎に移動して快速シーサイドライナーに使用された。 >>586
一部はえびのとかにも担当されていたはず >>586-587
平成3-4くらいだと旧九州色(上白・下ベージュで赤黒帯)のリクライニングか
485のロマンスシート車が火の山・由布とえびの・くまがわにも充当だったね。
長崎行ったやつ以外に熊本所属のは平成5-6にかけてシーガイアオープン合わせて青のカメマーク入りに。
58がグリーンのリクライニング、65が485リニュ車や783タイプのシートだった。
四国から買った65はボックスで見劣りだったな。 急行由布は59-2改正までキロ28連結してたよ。
空気輸送でしたが車掌さんはいつもキロ28の車掌室に居ました。 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁スキンケア」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜フィリピンチリスペイン上西ツイスタードライブローリングファイヤーシュート立川
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 優等もそうだがローカル列車も平日朝を除けば空気輸送
なんとなく諦めムードがあったな JR九州になったばかりの頃帰省シーズンに小倉大分間にも715系のぼったくり臨時急行ふるさとライナーが運行されたのかな? ぼったくり急行と言えば昭和40年代前半博多大分間の急行ゆのかに急行型電車の475系が当時は関西方面の急行運用があり車両不足で421系や423系の急行運用が有った。