見つかった2枚は、米空軍が53年12月に発行した「米国空軍航空図」(縮尺50万分の1)、54年9月の「米国空軍・ジェット機用航空図」(同200万分の1)。米国製航空図は世界のほぼすべての地域を網羅し、民用、軍用に広く使用されたという。

 いずれも西洋名の「リアンクール岩礁」と書かれた竹島と韓国・鬱陵島(うつりょうとう)の間に点線を引き、竹島側に「JAPAN」、鬱陵島側に「KOREA」と記していた。点線について地図の凡例は53年が国境線、54年は島の主権の境界線と説明。講和条約調印前に発行された版には点線がなく、舩杉准教授は今回の2枚について「条約の内容が反映されたとみられる」としている。

 同条約は日本が放棄する領土として、鬱陵島や済州島などを列挙。韓国は竹島を日本が放棄する領土に加えるよう条約を起草した米国に要求したが「竹島が韓国の一部として扱われたことはない」として却下された。