三重県の学校ってどうなのよ11
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フランス現代思想家
ジャン・ナベール(1881年6月27日 - 1960年10月14日)
ジョルジュ・バタイユ(1897年9月10日 - 1962年7月8日)
ジャック・ラカン(1901年4月13日 - 1981年9月9日)
アレクサンドル・コジェーヴ(1902年4月28日 - 1968年6月4日)
ジャン=ポール・サルトル(1905年6月21日 - 1980年4月15日)
ピエール・クロソウスキー(1905年8月9日 - 2001年8月12日)
エマニュエル・レヴィナス(1906年1月12日 - 1995年12月25日)
モーリス・ブランショ(1907年9月22日 - 2003年2月20日)
モーリス・メルロー=ポンティ(1908年3月14日 - 1961年5月4日)
クロード・レヴィ=ストロース(1908年11月28日 - 2009年10月30日)
ポール・リクール(1913年2月27日 - 2005年5月20日)
ロラン・バルト(1915年11月12日 - 1980年3月26日)
ルイ・アルチュセール(1918年10月16日 -1990年10月22日)
ミシェル・アンリ(1922年1月10日 - 2002年7月3日)
ジャン=フランソワ・リオタール(1924年8月10日 - 1998年4月21日)
ジル・ドゥルーズ(1925年1月18日 - 1995年11月4日)
ミシェル・フーコー(1926年10月15日 - 1984年6月25日)
モーリス・パンゲ(1929年5月5日 - 1991年4月16日)
ジャン・ボードリヤール(1929年7月29日 - 2007年3月6日)
フェリックス・ガタリ(1930年4月30日 - 1992年8月29日)
ジャック・デリダ(1930年7月15日 - 2004年10月8日)
ピエール・ブルデュー(1930年8月1日-2002年1月23日)
ミシェル・セール(1930年9月1日 - )
ポール・ヴィリリオ(1932年1月4日 - )
アラン・バディウ(1937年1月17日 - )
フィリップ・ラクー=ラバルト(1940年3月6日 - 2007年1月27日)
ジャン=リュック・ナンシー(1940年7月26日 - )
ジャン・グレーシュ(1942年- )
ジャン=リュック・マリオン(1946年-)
ベルナール・スティグレール(1952年4月1日 - )
ピエール・レヴィ(1956年 - ) ディクテで学ぶ生きたフランス語』日本放送出版協会, 1955
『フランス語会話文章の入門 マルタン家の人々と = En France avec les Martin』第三書房, 1968
『やさしい中級フランス語 講読とテーム』第三書房, 1969
『言語とは何か ソシュールとともに』朝日出版社, 1974
『NHKフランス語入門』日本放送出版協会, 1969
『丸山フランス語文法読本』早美出版社, 1978
『すぐにつかえるフランス語』朝日出版社, 1980
『フランス語の発音のすべて = La prononciation Française』駿河台出版社, 1980
『ソシュールの思想』岩波書店, 1981
『フランス語とフランス人気質』日本放送出版協会, 1982
『ソシュールを読む』岩波書店〈岩波セミナーブックス〉, 1983。講談社学術文庫, 2012
『文化記号学の可能性』日本放送出版協会, 1983。増補完全版 夏目書房, 1993
『文化のフェティシズム』勁草書房, 1984
『欲望のウロボロス』勁草書房, 1985、オンデマンド版2013
『言葉のエロティシズム』紀伊国屋書店, 1986
『フェティシズムと快楽』紀伊国屋書店, 1986
『文化=記号のブラックホール』大修館書店, 1987
『生命と過剰 第一部』河出書房新社, 1987
『言葉と無意識』講談社現代新書, 1987
『言葉・文化・無意識』河合文化教育研究所〈河合ブックレット〉、進学研究社(発売), 1988
『欲動』弘文堂〈思想選書〉, 1989
『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社現代新書, 1990。講談社学術文庫, 2007
『カオスモスの運動』講談社学術文庫, 1991
『人はなぜ歌うのか』飛鳥新社, 1991。岩波現代文庫, 2014.9
『生の円環運動』紀伊国屋書店, 1992
『ホモ・モルタリス 生命と過剰 第二部』河出書房新社, 1992
『言葉とは何か』夏目書房 1994、改訂新版2001。ちくま学芸文庫, 2008 @ 9条2項が有る事で平和を保てると言う割にそのメカニズム(9条2項が有る事で平和を保てるメカニズム)を説明できない。 A 9条2項が有る事によって、前文で書かれた平和を維持できない事態(憲法を変えないという政府の不作為により外国軍侵略等)
を招く事を理解できない。B 9条2項が有る事によって、前文で書かれた政府の行為によつて戦争の惨禍が起る(憲法を変えないという政府の不作為
により外国軍の侵略等を招く)事を理解できない。 C 9条2項が有る事によって、11条で書かれた基本的人権が保障されない事態(外国軍侵略等)を招く事を理解できない。 D 9条2項が有る事によって、13条で書かれた国民は個人として尊重される
されている事に気付かない。 J 憲法制定以来問題点を指摘され、改正されない場合阿鼻叫喚の地獄絵図が巻き起こるであろう9条2項を改正しようとする
にすぎないのに、早急で議論がつくされていないと言い張るが、何年議論すれば早急でないのか、また、議論している間
に軍事侵攻されないとなんの根拠をもって主張するのかの問いに答えようとしない。 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。 第35回全国高校総合文化祭福島大会(ふくしま総文、文化庁など主催、朝日新聞社など特別後援)は3日目の5日、
福島市で合唱部門があり、福島県の会津高と山口県の萩高が、共同制作した曲「友情 時を越えて今」を歌った。
会津高のバスが渋滞に巻き込まれて到着が遅れ、合同リハーサルを一度もできないまま本番に。それでも、息の合ったハーモニーで大きな拍手を浴びた。
会津と長州が戦った戊辰戦争以来、両地域の一部には今もわだかまりが残る。「友情」は、そんな歴史を乗り越えようと、
5年前に山口県であった国民文化祭の一環で制作され、会津高が作詞、萩高が作曲。以来、定期演奏会のDVDを交換したり、手紙のやりとりをしたりして、交流を続けてきたという。
歌は「明日を信じ/優しい未来に向かって/飛び立とう さあ」という歌詞で終わる。会津高の金成昌吾部長(18)は
「過去の歴史はあるけれど、僕たちが新しい歴史を築いていこう、という思いで歌った」。萩高の杉山太紀部長(18)は「震災で大会開催も危ぶまれたが、一緒に歌えて本当に良かった」と話した。 花に浮かれる大坂、長州藩士達が鴻池市兵衛の姿を求めて走り回っている。
藩主・毛利吉元は参勤交代途中の京で江戸に出発出来ず立ち往生していた。36万石の長州藩も豪商・鴻池を頼らねば旅費も払えぬ財政状況。
その鴻池に代え地元の淀屋を新しい蔵元にしようとする浦部の画策に市兵衛がへそを曲げたのだ。
これまで通り鴻池を蔵元にと奔走した日野と鴻池当主・善右衛門の説得により、市兵衛は参勤交代の資金を出す約束をする。
市兵衛は帰国する長州藩の毛利吉元と再会し、藩政建て直しの助言を求められる。困難の予測される鷺沼の新田開発を進言した市兵衛は多額の資金の調達も約束する。
吉元は完成の暁には鴻池に新田を下げ渡すと約束する。そこには苦い顔の浦部がいた。
3幕
新田開発が完了する。その祝いの席上、市兵衛は吉元に褒美ののぞみを聞かれ「山中鹿之助の兜」を所望する。
鴻池の出自を元に市兵衛を陥れようとする浦部に真っ向から立ち向かったのだ。その上浦部は地元の大百姓の倅庄作を使って市兵衛の命をねらおうとする。
新田を鴻池から取り上げることが決定し、鴻池に討っ手がかけられる。責任を感じた日野は陰腹を切って市兵衛を訪れた。
しかも清七は手傷を負って絶命。長州藩の理不尽なやり方に、市兵衛の怒りが爆発する。完成させた新田を元の沼地に戻して長州に返却する、それが市兵衛の決断だった。 明治2(1869)年に戊辰戦争が終わってしまうと、そんな奇兵隊の大部隊は、平和時には無用の長物です。
長州藩は、奇兵隊の編成替えを行い、5000人の部隊を2000人の部隊へと人員の大削減を実施します。
もともとは、奇兵隊は農民や町人、商人などからなる非武士軍団です。
それが途中から徴収藩の正規軍団となり、武士団との混成軍になる。
それがいざ解体となると、家柄の良い武士団だけが残され、農民や町民兵は、いきなりリストラの憂き目にあったのです。
首を切られた元奇兵隊員たちは、これを不服として山口県庁を取り囲んだ。
反乱軍となったのです。
知らせを受けた木戸孝允(桂小五郎)は、明治政府の鎮圧軍を率いてこれを撃退した。
そして反乱の首謀者133名を処刑し、遺体の埋葬も禁じてしまう。
さらに逃亡した元奇兵隊員たちは、全国指名手配となり、以後10年のうちにことごとく捕らえられ、投獄され、殺害されたと言われています。
奇兵隊結成時の資金をまるごと供出した白石正一郎は、奇兵隊が5000人の大所帯となっても、その面倒を見続け、さらに元奇兵隊員たちが逃亡生活となると、その生活の面倒まで、裏で見続けた。
ところが、こうした家業を傾けての彼の活動は、結果として商売を傾かせ、結局、彼は明治8(1875)年には、自己破産してしまいます。 山縣有光
山縣 有光(やまがた ありみつ、1903年6月2日 - 1982年8月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。男爵。旧名・船越三郎。
東京出身。男爵・船越光之丞と母・松子(山縣有朋の娘)の三男として生まれ、有朋の養嗣子・山縣伊三郎の養子となり、祖父の功により、1922年2月、山縣公爵家から分家して男爵の爵位を授爵した。
学習院、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科(36期)を経て、1925年7月、陸軍士官学校(37期)を卒業。同年10月、陸軍少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1932年11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。
陸軍兵器本廠付(新聞班)、陸軍省軍務局課員、ドイツ駐在などを経て、1937年8月、航空兵科に転じ航空大尉となる。ドイツ大使館付武官補佐官、参謀本部員などを歴任し、1941年3月から1944年12月まで侍従武官を勤めた。
1944年3月、陸軍大佐に進級し、同年12月、浜松教導飛行師団司令部付となり、第6航空軍隷下の第21飛行団長として終戦を迎えた。1945年11月に復員。 山縣伊三郎
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日(安政4年12月23日) - 1927年(昭和2年)9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓、勝津。
略歴 [編集]
明治維新の立役者の一人であった山縣有朋だったが、彼には娘はいても、山縣家を継ぐべき男子の子供がいなかったため、姉の次男である伊三郎を養子とした。
ドイツ留学後、内務官僚として徳島・三重県知事、地方局長、内務次官などを歴任した。1906年に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。1908年逓相辞任後貴族院議員に勅選。
1910年には韓国副統監となり、韓国併合後は朝鮮総督府政務総監となり、中枢院議長も務めた。原敬首相により三・一独立運動後の文官朝鮮総督に擬せられたこともある
(実際には予備役海軍大将の斎藤実が就任)。1922年枢密顧問官。1925年に答礼使として仏領インドシナに派遣された。
1996年からJR九州・肥薩線を走っている観光列車「いさぶろう」号は、山縣伊三郎に由来する。彼の逓相在任中に肥薩線が建設され、
矢岳第一トンネルの扁額に彼の揮毫が残っていることから命名された(当時鉄道は逓信省の管轄だった)。 山縣 正郷(やまがた まさくに、有職読み:せいごう、新字体:山県、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日、は大正から昭和にかけての海軍軍人。最終階級は海軍大将。山口県出身。
1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を5位で卒業。同期には伊藤整一大将・遠藤喜一大将・高木武雄大将がいる。山縣本人も含めて、この期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。
遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、
のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
1917年(大正6年)12月、大尉に進級すると海軍大学校乙種に入校。翌年4月に水雷学校高等科に転じ、軍政・軍令よりも現場で水雷術を極めることを決意する。優等で卒業後も欅乗組・吾妻分隊長・矢風水雷長・有明駆逐艦長と水雷一筋に励んでいる。
1922年(大正11年)12月に海軍大学校甲種に入校し、さらに水雷術に磨きをかけた。卒業後も山城水雷長・横須賀工廠造兵部検査官・佐世保工廠総務部員として魚雷開発・製造の現場で研究を積み、水雷屋として将来を嘱望される身となった。
昭和2年より1年半にわたってイギリスに出張し、造兵監督官として魚雷に加えて機雷・爆雷の研究や掃海術の見聞を深めた。
水雷屋一本槍だった山縣が航空に転じるのは、大佐昇進を目前にした1932年(昭和7年)の人事異動である。航空本部に出仕を命じられ、総務部員に迎え入れられた。
海軍の傍流である航空に違和感を覚えていた山縣だったが、同じく水雷出身の松山茂航空本部長が航空雷撃の実現を目指して研究を推進していたことから、率先して航空魚雷と雷撃機の計画に参入するようになった。
松山や山縣の努力の結晶が、のちに世界初の渡洋爆撃を達成する「中攻」こと96式陸上攻撃機である。 1934年(昭和9年)11月の定期異動で、山縣は最初で最後の艦長職を空母鳳翔で勤める。鳳翔には上海事変・日華事変で戦果を出してはいたが、
山縣が着任していた期間は日中関係が膠着しており、実戦に投入されることなく、上海方面への示威航海を一度実施しただけで平穏な日々を過ごしている。
1935年(昭和10年)の定期異動で航空廠総務部長として指導的立場となる。さらに1936年(昭和11年)に海軍大学校に招聘され、航空教官となった。
当時の大学校では、前任の航空教官だった加来止男中佐が主張する航空主兵論に対する反発が強かった。
加来の後継者となった山縣は、研究者・現場指揮者の経験を踏まえ、
さらに航空主兵論を具体的に考察し、指導した。やがて大西瀧治郎や別府朋明ら航空現場上がりの後輩が出世し、山縣を支持する勢力となった。
教官時代から航空本部員時代にかけての昭和11-13年頃には、漸減邀撃作戦に航空兵力をフル活用する講演を重ね、戦艦不要論・基地航空隊拡充・飛行艇支援艦艇の採用など、斬新な航空兵力強化を提言した。
ただし、雷撃機・爆撃機優先の傾向が強く、陸上基地で運用する大型陸上機に使命を託す論調が強かったため、山縣から軽視された空母戦闘機の隊員からは不評であった。
また、ドイツ空軍創立に影響を受けた陸軍から空軍独立の提案が出された際には、航空屋としては歓迎だが、空軍が活躍すれば海軍が不要になる結果を生ずる以上、海軍組織を維持するためには空軍独立を認めない見解を示し、航空主兵論者を落胆させた。
また、空軍設立を提案する以上は、目視目標がない洋上での航空術を陸軍飛行隊にも施すべきとする難題を陸軍にぶつけ、空軍独立を断念させる原因を作った。
1938年(昭和13年)に少将へ昇進し、部隊司令官となる。華南駐留航空隊として艦載機で編制した第3連合航空隊司令官に任じられ、華南方面で爆撃・偵察を推進した。 1940年(昭和14年)12月にまたも航空本部に戻り、総務部長として1940年(昭和17年)3月まで航空隊編制・新型機開発を指導した。
この時、海軍省から配当される兵器用資材が艦政本部に掌握され、航空本部に必要量が回されないことに業を煮やし、航空本部独自の資材調達ルートを確立させるため「児玉機関」をフル活用したといわれる。
昭和17年4月にラバウルの第26航空隊司令官に任じられたが、これが山縣にとって最後の航空隊指揮となった。着任から1ヵ月後、中将に昇進したものの、中将が指揮すべき航空艦隊司令長官はすべて満席で、
1943年(昭和18年)6月に山縣は高雄警備府司令長官に回された。戦場からはるか後方の台湾は平穏そのものであった。
しかしこの年、オーストラリアに脱出していたマッカーサーは反攻の準備を整え、フィリピン奪還に向けて活動を始めた。そこで海軍は、反攻ルートと想定される西ニューギニアに第9艦隊、東インドネシアに第4南遣艦隊を新設し、
マッカーサーを正面から迎え撃つことにした。11月、第9艦隊を遠藤喜一、第4南遣艦隊を山縣に指揮させることにし、
上海と台湾で平穏に過ごしていた39期コンビはいきなり最前線指揮官に引きずり出された。
1944年(昭和19年)5月、マッカーサーは遠藤率いる第9艦隊を全力で撃滅し、遠藤は玉砕した。次はわが身かと決意した山縣だったが、
マッカーサーは半年の準備期間を経て、第4南遣艦隊が待ち受ける東インドネシアを無視し、フィリピンに直接上陸した。
山縣以下、第4南遣艦隊は遊兵化し、1945年(昭和20年)3月をもって戦局に何ら貢献することなく解散することが決まった。
帰国命令を受け、失意のうちに山縣は内地向けの輸送機に乗り込んだが、事故のために中国大陸の福州付近に不時着した。
3月17日、虜囚の辱めを受けざる決意をした山縣は自決し、大本営はこれを戦死と見なして大将に特進して追悼した。 大橋少尉のあわれ
スインズエユワ盆地の包囲が破れ、3月18日にブーティーダウン道を英軍におさえられた。トンネル付近で静岡県三島の野戦重砲兵第3連隊の15サンチ榴弾砲1門が奮戦していた
(ブーティーダウン方面は3門の重砲しかなかった)
敵のM3戦車が出てくると帰ることができなかった。重さ6tの重砲は牽引車が必要だが陣地を敵に襲撃されたとき奪われる先に破壊した。
桜井兵団に指示を求め、兵団から破壊して中隊に復帰に命令がでた。
トンネル内に重砲をいれ砲兵30名で守っていたが、歩兵が援護に集まり、英軍の集中砲火をあびた、援護の歩兵が十数名にまで減り、重砲を爆破しドンジョーン部落の中隊に復帰した。
四月7日、戦車十数量を伴う敵がドンジョーン部落北方高地を攻撃し占領した。
このとき、歩兵第102連隊松木平大隊長戦死した。
射撃応戦するべく、第1線の補助観測所に観測の名手大橋少尉以下5名派遣したが師団戦闘指揮所に出頭しろとの命令が来た。
師団長に歩兵団の福山少佐が処置の報告をしたとき、「馬鹿野郎誰が火砲を破壊しろと命じたのは」とどなられ、福山少佐は「小隊長の独断で破壊しました」と卑怯なごまかしをしたため、
師団長は怒り立って「責任取らせろ師団長命令だ」と大橋少尉の独断で破壊したことになった。
第2中隊の兵は怒りだし、中隊長が兵団の命令があっての行動であることを司令部に報告し、状況説明に大橋少尉が司令部に行き一応許されたが、たびたび師団の佐藤高級参謀から電話で
「生死栄辱をともにするべき火砲を捨てて、雲なき戦場を、孤影悄然と渡逃げ帰った貴様は自今、青空少尉と命名する。
おい青空少尉、復唱してみろ」侮辱されいじめられた。4月9日師団に呼び出され花谷川村斉藤にさんざん殴ったあと「貴様の様な不忠者は将校にしておけん。
上等兵だ恥ずかしかったら自決しろ」とまでいって階級章を外してしまった。その夜、部隊から1Km先で正座して手榴弾2発同時に爆破させ自決した。
天幕の中に遺書があり上官と部下に迷惑をかけたと謝っていた。最後に中隊長殿によろしくと書き、その後にご両親としか書いてなかった。
戦死公報には、昭和十九年四月十日・ビルマ、アラカン州ブツドン県ドンギャン北側高地において、上腹部穿透性砲弾破片創により戦死。同日付け中尉に進級 ●山口県出身の 2.2.6事件の首謀者の将校
●長州閥が大好きだった財閥を、嫌悪して死んだ将校
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。
陸軍主計官として階級は陸軍一等主計(大尉)に至るが、陸軍士官学校事件で免官、後に二・二六事件に関与し銃殺に処される。
●生誕地 山口県 大津郡菱海村
昭和4年10月陸軍歩兵中尉に進級するが、昭和7年6月主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。昭和8年(1933年)5月経理学校を卒業、
主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月近衛歩兵第4連隊附を命ぜられ、昭和9年(1934年)8月陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、
野砲兵第1連隊附に移る。同年陸軍士官学校事件に巻き込まれ11月に拘禁、翌年3月停職、4月に釈放される。その後村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8月に免官。
早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。昭和11年(1936年)の二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たり、翌昭和12年(1937年)8月に銃殺刑に処された。
獄中で「行動記」「獄中日記」「獄中手記」[1]を執筆し、暗黒裁判の実態と共に計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中日記」(昭和11年8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明)には、昭和天皇に対し責任を追及している文があり、
凄まじい怨念と共に注目に値する。彼(と北一輝)によると、日本は明治維新革命以来、
「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」(これは戦後の日本国憲法の捉える日本像に近い)なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」なのだという。
そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」[2]いた。
なお、磯部は銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。
三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』[3]を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。 会津の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は
それぞれの代官達にこれまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津による支配に
反対する建白書を出す事になる。
「会津は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら
小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ
私どもの村々は立ち行かなくなるだろう。」
(十日町市 史通史編3)
以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。尚 京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で
半ば財政破綻した会津は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津兵がまず行ったのは
戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津の御用金の割当は旧幕領の各地に及び
旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両
野田新田十八両。
(水原町編年史第 一巻) 個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた会津兵数人が
町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)
武器を持ち民衆を恫喝する会津兵や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる。
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出
百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿) 金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では
農兵の取立てが行われた。半ば強制的に行われた徴募では
貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず
農兵の食料までもが村々から取り立てられ
村々は二重の負担に苦しむ事になる。
何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して
正規軍にすら小銃が揃わない会津に徴募された農兵は
「先端に鉄の分銅が付い た鉄棒」や『竹槍』で、小銃を装備した
新政府軍に挑まされ事になる。しかしこのような農兵の士気が
上がる筈がなく、戦いが始まれば一目散に逃げた模様である。
(小千谷市史下巻)
会津兵による草莽の志士への襲撃も行われた。
殆どの草莽の志士は会津の進駐を聞き、身の危険を感じて
故郷から脱出した。しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は
剛腹にも、会津兵が進駐して来ても留まっていたが
三月に会津兵の襲撃を受けて殺害されてしまう。
(水原 町編年史第一巻) 越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が
相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。幕府の倒壊によって
支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所は
こうした行動を停止出来なかったから民衆の恐怖と憎悪は高まった」
(新潟市史通史編 3)
これを始めとして、新政府よりの新発田や与板の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴
略奪について「越後での略奪は会津兵ではなく衝鋒隊が行った」との
会津贔屓の主張がある が、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ
会津の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)
会津兵によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も
会津兵の一部と記述されているのだから、会津兵と同一視するのが妥当だろう。
何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと
記録しているのだから、衝鋒隊と会津は無関係と主張する会津贔屓の主張は
詭弁と言わざるを得ない。 かくして会津兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津から離れる事になる。
これを危惧した会津は家老梶原平馬を新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と兵による
略奪を禁じたものの、「人心尚之ヲ厭ヘリ」
(仙台戊辰史二巻)
このように一度民衆から失った信頼を
取り戻す事は出来なかった。
また年貢の減免等も行ったが
(水原町編年史第一巻)
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事 は出来なかった。
会津兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は
自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢上杉家だった。 会津の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた
かつての越後の支配者である米沢兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ
会津は異形はなはだしいゆえか衆人不服で負け戦の話をきくと
婦女子までがよろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)」
また米沢兵が出兵した事をで、会津兵により乱された
治安も回復した「この会津兵がひきとったあと
九之助の分家新津町祐蔵から米沢出張所へこのことを報じた。
するとただちに米沢兵十八人が槍・ 鉄砲持参で
とりおさえのため九之助方へ出張してきた。
米沢はくだんの会津兵を拘留し水原の会津陣屋へ照会した。
(新津市史通史編下巻) 五月二日に田中が新潟町に帰還した時
新潟は既に会津の占領下にあり、その蛮行略奪により
「市中之もの共殊之外動揺いたし
最寄最寄江家財取片付、惑乱一トならす。」
と言う無政府状態になっていた。
(新潟市史資料編5)
六月一日新潟町は米沢に引き渡された。
尚、会津は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津の蛮行略奪から解放されたのである。
「新潟港は外国貿易の場となり
同盟軍が武器弾薬を購入補給する基地となった
乱れていた新潟町の治安は米沢によって回復した。
(新潟市史通史編3) 米沢参謀甘粕継成の日記に、六月頃から会津の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。
依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て
味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ
死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。
其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々に
かけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば
遖れ御大事なるへしと云う。」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが、「略奪を行なう会津兵と一緒に行動するのなら
もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が米沢本陣を訪れて
訴えたのを受けて、今は民衆に慕われている米沢だが
会津と行動を共にするのを続ければ、民衆の信頼を失いかねないので
会津とは別行動を取るべきだと、米沢参謀の任にある
甘粕が考えていたのが判る。 蝦夷地政策は田沼失脚後に計画が廃止され調査隊は報告書を提出するも受理されず召し放たれ、印旛沼の工事推進責任者の勘定組頭達は罷免され
現地監督の代官宮村孫左衛門は「公金を預けておいた市中の者が行方不明」という理由で遠島の刑に処せられた。
こじつけに近い理由で意次に協力した人物は徹底に処罰された。
●田沼政権の 国税と貸付会所構想
天明六年(1786年)の貸付会所計画が田沼政権を分裂させた。日本国中が利用する河川や街道の大規模な普請を特定の藩に課す御手伝普請という不平等な制度を改めて平等に税を課し、
税の一部を貸付会所の資金として幕府が藩の知行地を担保に貸すことを構想していた。
多くの藩は借金踏み倒しの横行で信頼を落とし、商人から新たな借金ができず、天明の飢饉の折も現金を得るため米価高の江戸などに米を売らざるを得ないほど財政が悪化していたほどだった。
課税額は高百石で二両の割合で五年分割とし百姓一世帯あたりで銀2.5匁とし町民には間口一間あたり銀三匁を想定し寺社領も対象に加えた。
藩から見れば国税は幕府から保障された徴税権の侵害で藩が責任を持って幕府に納めるため徴収漏れがあると藩の自己負担になる。
重税を課し領民の不満が高まる中でこれ以上の国税を課すのは難しいため反対した。
また、度重なる借金踏み倒しで四苦八苦している大名救済を名目としている貸付会所は担保に領地を取ることから幕府が「担保に入れた藩の領地を取ることを目的」と誤解を招き政権への不満がさらに高まった。 吉田松陰はペリー来航直後、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。
その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた(川口雅昭『吉田松陰』)。
長州人に拠る、吉田松陰アメリカ渡航プロパガンダの捏造は、バレて居るのだよ。
死者の遺体を穢多に「賊の亡骸としてなら、罪人墓地の大穴に捨てても良いよ」の趣旨で埋めさせたのが実態でしょう。
佛として弔わせて貰えなかったのですから、遺族が佛教徒なら、恨まれて当然な訳です。
>会津藩への弾圧は許せない
会津藩への弾圧では無くて、佛教徒に対する弾圧です。
佛教徒に対する弾圧を埋葬問題とやらにすり替え様としても、無駄ですよ。
>仏教弾圧などに話をすり替えようとするのも会津病患者の特徴の一つです
若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、
罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ
「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。
いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、
工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。 そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。
伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。
『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、
殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』−伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。
町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。
民生局監察方兼断獄久保村文四郎の嫌がらせであった。埋葬地につけた墓標等を撤去せよとの厳命がきたのである。
埋葬問題とやらが殺害の動機ならば、久保村文四郎の 個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が
町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)
武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や
衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、
百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)
金銭や食糧の徴発以外にも
小千谷等の戦場が近い村々では
農兵の取立てが行われた。
半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を
強引に奪われただけでは済まず
農兵の食料までもが村々から取り立てられ
村々は二重の負担に苦しむ事になる。
何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して
正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は
「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で
小銃を装備した新政府軍に挑まされ事になる。
しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく
戦いが始まれば一目散に逃げた模様である。
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