日本の学校って個性つぶすの大好き好きだろ
何でも自由がいいとはもちろん思わないが、
やりすぎ。
軍隊みたいな文化を愛しすぎ。
おれの高校母校早実な。あそこもヤバスだったな。 壊すことしかできない連中が幅を効かせる世の中だからしょうがない。
そういう連中は常に叩く側であって叩かれる側に回ることは絶対にないという確信があるんだろう。
圧倒的な安全圏を確保しながら人を攻撃しているわけで
そういう人間が善人なのか悪人なのかとか考える意味すらなく
ただ社会が生み出した集団病理なんだろう。. 何でもかんでもお気持ちに押し切られる社会。
大人が子供に振り回され大人であることをやめていく。
ロンブー敦
「野球にしてもサッカーにしても、やっぱりすごい部活の上下関係の話とか聞くじゃないですか。
僕からしたらもうそんなの考えられないけど、夢を持っている人はそれに従わないと夢のレールに乗れないから強引に乗るけど
でもそれでもこの体罰しんどいなとか、この考え方しんどいなとかっていうのにぶち当たって、でも悩みを相談する場所がなくて
今回みたいなこと(自殺)になるっていうのがもう明らかになっているので、だから強豪校の伝統とか考え直す時期に来ているんじゃないかと」 まあそら誰もが最終的には負けるからな。
分かってて進むしかないしな。
死ぬ時までは生きるしかないからな。
しきりに時代が変わったを連呼するのだがその時代とやらがそんなに魅力的なものに
誰の目にも見えないのは明らかで格差社会とも相まって勝ち組が世渡りを正当化する
呪文として弱者を救う振りをする為に使いまわしていくんだろうな。
主語デカ
科学的な指導ができない奴に指導者の資格はないし、
勤務中に女性のプライベートを聞く昭和ジジイは排除されるべき
部下に論理的に説明ができない根性論経営者や暴言上司は淘汰されるべき
個性や科学や論理が重視される時代へ粛々と向かうべきだ まあ俺とは関係ないから別にどうでもいいっていったらどうでもいいのかもしれんが
こんなものを無制限に認めていけば細かいことに物凄く気ばかり使う最終的には何もできない社会
にしかならんのは目に見えてるからな。
それでいいのなら別に好きにすればいいが。 いくら時代の価値観が変わろうとも人間の本質ってものは変わらないからな。
俺は今の時代は人間の本質を過剰に抑圧しているようにしか見えないし
少しでも踏み外すと良識から袋叩きにあうから誰も踏み出さないわな。。 要するに社会からネガティブなものを徹底的に排除して
楽しいことだけ考えて生きられる子供のユートピアをつくろうとしてるんだろうが
揉め事や面倒なことを極端に嫌がるようになり
乗り越える壁の存在そのものが意識できなくなり
無難に流されるように生きるのが一番コスパのいい生き方ってことになる。
人間なんて一皮剥けば弱いものだから支えるものがなければいくらでも落ちていくしな。 . 分からないことを分からないで放っておくことができない社会。
真実なるものが確定しないと安心できない。
そんなものは当事者の中ですら移ろうものなのだが犯罪と不法行為の境目が曖昧になり
人に迷惑をかけないという絶対正義が少しでも踏み外す人間を容赦なく裁くようになり
悪の質と基準が無限に拡大するので誰もが犯罪者になるリスクと隣り合わせで
上辺だけの人間関係がデフォルトになっていく。
あらゆることが道徳の物差しで測られるようになるので世の中から遊びがなくなっていくのだろう。
犯罪が悪いことっていう建前が揺らぐことはないが
いくら締め付けを強化してもなくなることはないし生きにくくなるのは悪人だけじゃないからな。 逆に体罰やハラスメントは揉め事や面倒なことを隠蔽する、してきたものだ
北朝鮮も、パンも食えないフランスも一見は秩序が保たれている
揉め事や面倒なことを隠蔽する社会というのは秩序の代償として何者かが虐げられ続ける社会である
いざ、脱昭和を進めるべきだ
科学的な指導ができない奴に指導者の資格はないし、
勤務中に女性のプライベートを聞く昭和ジジイは排除されるべき
部下に論理的に説明ができない根性論経営者や暴言上司は淘汰されるべき
個性や科学や論理が重視される時代へ粛々と向かうべきだ >>1
学校教育はレギュレーションを旨とすべし
そんなことで潰えるようでは個性とは言えない
昔は学校はもっと高圧的だったし個性的な人だらけだった 私刑、集団リンチとも言われる昨今のキャンセルカルチャーの正体は「空気の支配」。
圧倒的大多数による共通認識という体裁をとっているので
「正しい」のではなく「自明」「当たり前」「当然」。
正しいと言葉にする必要すらなく間違っている可能性などハナから想定外。
他人を責めているという自覚すらなく当たり前のことを言っているだけなので
どれ程叩こうとも主体がなく批判されることのない聖域に自分をおいている。
こうしたネットで燃え広がる流れも元々はメディアの後追いであり
テレビの言うことを何でもかんでも鵜呑みにする大衆がリベラルの扇動の元に先鋭化しているだけ。
この流れが収束する気配はないにせよ乗せられるかどうかが個人の判断であり
当たり前の既成事実とされてしまったことが実際は人為的なものかもしれないという
疑問からの相対化の作業は必要。 全ては週刊誌やそれを拡散するメディアによって引き起こされる問題であり
被害者に無限の権力を与えることにより加害者に悪人レッテルを貼りつけ叩き
かつ自分好みの善人に矯正することで収束させようとする。
問題は物事の大きさが本来の大きさをはるかに超えて拡大し
正当化された悪意が無限に増幅し誰もそれに疑いを持たないことにある。
この構造が変わらない限り同じことはいくらでも起こすことは可能で
目をつけられた人間は何の抵抗もできないままひたすら追い込まれ
これまで積み上げたもの全てを失い赤子としての再出発を迫られる。
価値観のアップデートは必ずこういう問題を巻き起こすもので
能天気に世の中が良くなっていくなどと信じることのできる性質のものではない。 極左なんてのは誰も相手にしないし左派野党も国民から見放されつつあり
リベラルってもののイメージは下がる一方だがただ手をこまねいて何もしてないわけがなく
時代に適応する形でソフトタッチでイデオロギーを薄めた国民の口に合う甘口思想に衣替えしながら
マジョリティの世論ってことにして秩序破壊や体制弱体化工作を飽くまで合法的に行い
今や体制がリベラル化して合法的に日本人を日本人たらしめていた常識や美徳を抑圧し解体していく。
何といっても合法なんだからどうしようもなく人間の本能的な常識ってものの歯止めで対抗するしかない。
まだそこまで食い荒らされていない領域もあり法も完全にリベラルに支配されているわけでもなく
だからひたすら情緒で圧力を掛けてくるのだが恫喝以外に手口がないと分かれば惑う必要もない。 善と悪は対立概念ではなく善は悪の下地の上に成り立つという不文律がなくなったんだろう。
本能の否定、理性の万能化というのもリベラルの唯物論で
人間は進歩するらしいが本質を捻じ曲げてまで進化して生きるっていうのも歪んではいる。
本能は社会性で制御するものだったのだが社会性を支える規律を解体しながら
本能そのものを理性で管理統制するという心を粘土細工のようにこねくり回す直接的な内面への干渉社会であり
他人を傷つけないこと以上の価値は何もないという人工的な同調圧力への従属をあらゆる人間に強要するんだろう。 巨悪は暴かないと悪い奴のやりたい放題になるなんてカビの生えた世界観で
強者には強者の自律的なモラルはあったし全体の幸福を守る責務を自覚していさえすれば
多少の強引な乱暴さは許容されていた。
上に立つ者が無能になって困るのは大勢の下の者たちなんだが
強者を引きずりおろせば弱者が浮かばれるという倒錯した理論で
目先の快・不快の為に将来の幸せ全てを切り崩し棒に振る朝三暮四の理論。 立場に見合った責任を果たしていることへの敬意が完全に欠落しているから
仮に問題があったとしてそれを汚物のように見做し排除すること以外の何も目に入らない。
問題が疑惑に過ぎないという留保は絶対的な真実によってねじ伏せられ
極悪人のレッテルがひたすら強度だけを上げていく。
謝罪・贖罪・体質改善と言った選択肢を与えることで社会改良の大義を手放すことはないのだが
それ以外の言動を許すことはなく純粋無垢な善人としての生き方以外認めない中での改善であり
組織であれ個人であれ生まれ変わる以外に生き残る道はなく
そんなことが可能だとしてもう生きるモチベーションは失われているだろう。 明治以降の欧米化は近代を受容したってことだな。
それにしたって伝統の否定の上に成立したものではないが必要だったんだろう。
昨今のポリコレ騒ぎは敗戦後の欧米コンプレックスからの同化願望によるもので
和魂洋才が洋魂洋才に変質しつつある現象で保守派が欧米追随に警鐘を鳴らすのは当然のこと。 何を以て反キャンカル側の勝利とするのか。
俺の今の感触ではキャンカルの猛威はかなりガタ落ちしていて
もうかつてのような破壊力が生れることはないと見ているが
こういう問題を起こすのは常にメディア側なんだから今後も起きるだろうし
逆らえない大人を無数に生み出していくのかもしれんが
自分を追い詰めているのが国民や社会や時代などといった漠然としたものではなく
思想に過ぎないということは明らかになっていく。
これを以て一応の勝利とは考えているが道徳的非難によって人が抹殺されるという事例が
後を絶たないのであれば意味はない。
その意味でも誰かが一度は踏みとどまる必要があるとは思う。 差別についても建前と本音の乖離が広がる一方でな。
俺は人を見下すとか馬鹿にするとかは全部差別意識からくるものと思っているから
そう考えたら今の世の中でも許容されている差別はいくらでもある。
総じて不潔でキモくて暗くて金がなかったり馬鹿だったりする人間は差別される。
別に障害者差別や在日差別が良いとは言わんがもうやる奴が一人もいない中で
なお差別が悪いと叫んでもどうにもなるまい。
差別語も言葉に政治性がびっしりとこびりついてしまいもう使いたくても使えない現状で
ネットや活字の世界でのみ生き残るものになるんだろう。
本来差別っていうのは人間の本質と骨がらみでだからこそ質で吟味されるものだったんだが
やりたくてもできない現状というものを踏まえれば
人々は故なき差別を憎む気持ちなどとっくに失っていて責められる恐怖ぐらいしか持っていないだろう。
見下す、馬鹿にすると言った蔑視が許さないと言う不寛容に置き換わっていく社会の流れもあり
差別が悪いという建前はもう完全に機能不全を起こしており弊害しか残っていない。 何でも思い通りになると思ってるからな、サヨクは。
あらゆる綺麗事の根底にはこの万能感・支配欲がある。
で、それで実際思い通りになってたんだと思うわ。
ただ力づくに圧し続けているだけなんだがやればやる程社会が崩れていき
それを政権や保守派のせいにしながら突っ走れば人心を失いイメージが悪くなるから
いくら思い通りになってもやればやる程不満が高まっていくと。 そういう世の中なんだろ。
理屈が一切通じない力だけで押し切る社会。
正義マンだけが好き放題暴れまわり誰も近寄れなくなる社会。
ビビッて泣き言を言うのだけはやめにしよう。 大体サヨクなんて多数派でもなんでもなく少数のうるさい集団ってだけだからな。
多数派工作と政権叩きとネトウヨ弾圧と思想押し付けしかやらないし
他人の弱みに付け込むことだけは異様に鼻が利く連中がマジョリティなわけないよな。 まあ俺はサヨクの綺麗な言葉にくるまれた獰猛さを暴き虚飾をはぎ取ることしか興味はない。
それで何が変わるわけでもないだろうが外から見た見栄えが悪くなれば
ちょろまかされる人間も減るし付け狙われる人間の心の重しも軽くなるだろう。
人助けだな。 男女平等は女の人格を認めることでそれなりにメリットのあることでもあり
その意義を肯定することは過去を否定しないこととは矛盾しない。
そういう規範も唯一絶対神聖不可侵のものではないし
昨今のリベラルフェミの過去の全否定や性規範・性差の原罪視とは一線を画する必要がある。 俺は男女平等は肯定するが男尊女卑を殊更毛嫌いする連中は否定する立場。
女が自由に自己主張する社会っていうのが悪いものとは思わないが
そもそも人間が人間の人格を完全に尊重するなんて規範自体が間違っているのであって
対等とか尊重とかに異常に神経質になってるのは面倒臭い意識高い系で
少しぐらいマウント取られたぐらいでガタガタ言うなと。
また男女には性差ってものがある以上仕切りや待遇の違いができるのは当たり前。 「私の友人が映画の世界でスタッフをやっているんですけども、
今まで違うところにいた時は、監督をはじめ全ての主要スタッフの吸っているタバコの銘柄を全部把握させられて、
誰々さんのタバコ切れてるじゃねえかみたいな、そういうことがまかり通っていてメンタルを崩して休んでいたんですよ。
やっぱりその会社には復帰できないでいたら、今是枝さんのところに入って頑張っているんですけど是枝さんのところは真逆で」 上からの強制力の否定・解体っていうのも結果平等の建前を破壊する考え方で
未熟な人間ややる気の足りない人間を無理にでも引き上げようとする責任の放棄で
落ちこぼれる人間は落ちこぼれるにまかせ能力のある人間だけに機会を与える
新自由主義的な弱肉強食社会を推進するだけの思想。
実際そこまでやる気のある人間は極少数なので全体としての地盤沈下につながる。 正義の機能不全。
言葉本来の意味での正義などもうどこにもなくただ人を叩くためのツールに成り下がっている。
人を傷つけている自覚がないので歯止めが効かないのも特徴で
被害者ポジションに自分を置きながらの人格攻撃なので
自分のやってることが誹謗中傷ではないという強固な確信がある。
訴訟で脅して示談金をせしめるなんていうのも傍目には明らかな恐喝なんだが
合法でありさえすれば倫理的な問題も全くないと思っているんだろう。
政権叩きにせよ政敵・加害者叩きにせよ正当防衛というスタンスを崩すことはなく
自分が不快になった原因を全て他人に擦り付けることで
完全無害な人間として際限のない他者攻撃を空気を吸うように当たり前のこととして正当化する。 リベラルが弱者権力を無限に肥大させ社会規範を破壊し
自分たちの都合のいいものに塗り替えようとしているのは確かなんだが
彼らが必ずしも弱者ではないということは重要。
マスコミ特にテレビに出ている人間はほとんどが勝ち組だし
努力してその地位をつかみ取ったのは事実だしある程度社会に貢献しているのも確かなんだろう。
どんな破壊活動も社会改良という大義名分の元に行われており
実際百の害悪があったとして十ぐらいは世の中の役に立っていることもあるのかもしれない。
自由は勝ち取るものという規範を身をもって体現してはいるんだろうし
本能に対する忠実さや必要悪としての悪意や人を蹴落とす闘争心なども人並に持っているから
社会に影響力を行使できる立場につくことができたのだろうが
そういうことに対して無自覚で言葉と人格の乖離という問題が表面化している。
善意を持っていたとしてそれを帳消しにして余りある攻撃性を持て余しているから
言葉でいくら良いことを言っても責任を取ろうという気がないのなら信用できないしな。 個性を伸ばすなんて余裕は、小中公教育には無いからな。 善と悪は対立ではなく加減の問題であって悪を完全に排除する純粋善を目指すのがリベラル、
悪を包含した全体としての善を目指すのが保守と理解している。
純粋善は理屈の上でしか成立せず生身の人間が実践に移すと必ず独善と狭量を生み出すことは明らかになっている。 「忙しいはありがたい」? 新採用教員にブラック職場「肯定」冊子 千葉県総合教育センター
2023年3月20日 06時00分
千葉県内の公立小中高校などの新採用教員向けの冊子の一部に、長時間労働など職場の「ブラック環境」を肯定・助長するような記述があり、3月中にも改訂版を出すことが関係者への取材で分かった。
学校現場からは「時代錯誤だ」などと異論が噴出していた。
冊子を作成した県総合教育センター(千葉市美浜区)の担当者は「(時間外労働の削減という)時代の流れに合っていないと指摘されても仕方がないと思う」と話している。
◆「明らかに時代錯誤」
問題の冊子は、同センターが2013年に公表した「学級づくりガイドブック」。
子どもと保護者との人間関係のつくり方や、規範意識の育て方などが31ページにわたってつづられている。
このうち、複数の現職教員が疑問視するのが「教師としての在り方」と題された項目。
「『忙しい』は『ありがたい』ことと考えましょう。自分が成長するチャンスです」「心がけたい言葉は『私にやらせてください』」と記載されている。
4月に新採用された教員は同センターのホームページから冊子をダウンロード。
県教育委員会は15年度以降、課題リポートを採用校に提出させている。
小学校のベテラン男性教員は「特に若手の現職教員から反発が大きい。こんなことをやっていると、職場や自分の将来が心配になる気持ちが分かっていない」と指摘。
高校講師の男性は「学校現場は多忙が実情。『忙しいと感じることは仕事が下手だから、悪いこと』と言わんばかりだ」と憤る。
4月に県内公立学校に教諭として着任予定の大学4年生の男性(22)は「参考になる部分もあるが、明らかに時代錯誤な文言に誰も異論を唱えず、自分たちに読ませることが不思議。
教育現場に古い体質が残っていると感じてしまう」と残念がった。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/239023
千葉県の新採用教員向けの冊子「学級づくりガイドブック」
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=239023&pid=956825
https://pbs.twimg.com/media/FrnuMCBaEAAdfL8.jpg 生き方の本質において真面目じゃない人間が他人にだけ人の道を求めても響かないわな。
本質において真摯な人間は他人を脅迫したりはしないし
どんなに道徳の衣を纏っていても肝心要な生き方は形で現れるし人も見ている。 良くないことはするべきではない、と良くないことは絶対にしてはならない、
の間には天と地ほどの差があるからな。
絶対にしてはならないことっていうのも確かにあるが明らかにそうではないものにまで政治的に適用していく。
そういう教条的な良識派は他人にだけその基準を押し付け
自分の問題は全て相手の悪意に対する正当防衛だと主張し明らかに批判の域を超えた脅迫や人格攻撃も
道徳的非難の体裁を取っていさえすれば何の加害性もないと思っている。
また自分たちの批判は公益に適うもので相手の批判は私怨による言いがかりという
結論ありきの根拠のない印象操作が前提となっており
だから悪人に対しては何を言っても許されるし相手は無限に譲歩させる存在としてしか認識されない。
左右対立におけるリベラルのスタンスはこれで一貫しているのだが
マスコミ総がかりの思想宣伝にも関わらず左派離れが起こっている原因を直視できなければ
いかに圧力を強めようともどの道先細るだけだな。 善行の名の元に国民の罪悪感を刺激して過去からの現状を否定することがリベラルの真の狙い。
現状の否定をテコに積み重ねる善行ではあるので見返りの有無に関わらず
必ず打倒すべき敵が意識されており政治闘争に組み込まれた条件付きの善意であり
社会への感謝や恩返しといった前向きな動機に基づく善意ではない。
動機が不純なので言葉と身体が一致せず、である以上無償の善意なんて困難でしんどいことを
引き受ける覚悟もないと考えるのが自然ではあるんだろう。 不平不満や憎悪をテコにした善意が世の中の役に立つのかと言えば立たないから批判されている。
役に立たないだけなら放っておけばいいんだろうが人に押し付けるから周りからウザがられる。
ネガティブな善意の矛先は大抵社会秩序の維持に必要な立て付けを悪として解体するモチベーションに
向かうので善意であれば社会が良くなるというのは自己満足の幻想で現実においては衰退を加速する。 些細なことで被害を訴え相手を断罪したり正しさの元でやりたい放題する人間が
常日頃の振る舞いでも信用するに足る人間かどうかっていう疑問はある。
善行にしても体を張ったり欲得と絡まない規範を自分に課すことができるのかとか。
そういう人間の言うことを聞いていると一見まともなことを言っているようで
反論しづらい響きを伴っているんだが所詮それだけのことで
正しさの威圧の元で他人を黙らせる効果しかなく
つぶさに見ていけばいくらでも不整合を抱えているし
根っこにある動機が作為によるものである以上論理が不自然なものになるのは当たり前なんだろう。
今までの経験からこういう連中を納得させることは無理で
モラルの裏に隠れた言葉の暴力性を削ぎ落すしかない。 体罰やハラスメントは揉め事や面倒なことを隠蔽する、してきたものだ
北朝鮮も、パンも食えないフランスも一見は秩序が保たれている
揉め事や面倒なことを隠蔽する社会というのは秩序の代償として何者かが虐げられ続ける社会である
いざ、脱昭和を進めるべきだ
科学的な指導ができない奴に指導者の資格はないし、
勤務中に女性のプライベートを聞く昭和ジジイは排除されるべき
部下に論理的に説明ができない根性論経営者や暴言上司は淘汰されるべき
個性や科学や論理が重視される時代へ粛々と向かうべきだ 人間は平等ではないが価値は同じ。
これが本来あるべき民主主義社会だと思っている。
価値が同じなんだから差がついたところで大した問題ではない。
平等思想は差を認めないから厳然とある差は人間の価値の格差に直接結びつく。
この価値は金、能力、性格、性別、若さ、容姿などで選別され
同じ人間でありながら別の世界の人間かのような錯覚にリアリティを与える。
決して誰からも見ることのできない差別であり絶対的な真実である。
人間は平等ではないという事実を認め受け入れ差別という言葉の意味を希薄化し
差なんてあって当たり前で誰も気にも留めないという価値観を共有できない限り
人間の価値の格差は無限に広がり続けていくだろう。
まあ現実の前には無理筋の暴論だがまずはできるところから手をつけなければ
見えない差別の進行は止まらない。 俺はどこからどう見ても人のことを偉そうに言える程の魅力や厚みを持った人間じゃないって疑問はずっとあった。
ただそれを言い出したら過去の20年全ての全否定だからな。
これしかできん人間だがこれは俺にしかできず世界の崩壊をかなりの部分食い止めた。
俺並に何もできん人間ってのも珍しくはなくしかもそいつらは本当に何もできないだけだから俺にも価値はある。
ただそういう奴らも自分の感情の赴くままに生きるってことぐらいはしており
その意味で自分の言葉を持っているんだがそれは俺にはないんだよな。
意味のあることしか書けず意味のない他愛ない呟きは俺の中にはない。
正確には劣等感ではないんだがそれに近い欠落感は常にあり人に見透かされるのが恐かった。
しょうがないよな、そういう人間に生まれ育ったんだから。
先のことなんか考えんよ。考えてどうにもならんし疲れるだけ。
今やれることをやり流され続けいずれ自分の輪郭ぐらいは掴みたい。 承認欲求とかもあることはあってしかもそれはかなり強いんだが
思考や言動の基準や動機になることだけは一切なく
ただ後になって自分の言葉の力に酔いしれているだけ。
それは健全なことではなく病的なものだと思うが
俺の場合そもそも人から誉められたことがほとんどなく
肯定されることがあってもその一億倍否定ばかりされて育ったので
それぐらいのナルシズムはあっても責められる謂われはないと思う。
とにかく否定されるってことへの耐性だけは凄まじく高いので
他人の罵詈雑言とかはいくら浴びても耐えられるし恨みを含むこともなく
そういう被害に過敏に反応して反撃を正当化する連中への嫌悪感ってのが
思想の根幹にある。 他人からの悪意ってものも響くことは響くし堪えるんだが後に引くことは全くない。
怒りはその場だけで吐き出して終わり。
だからネチネチと後に引く私怨をもっともらしく正当化したり
底に悪意を隠した正論風味の綺麗事の臭いはすぐに見抜くし
そういうものへの怒りってのが原動力ではあった。
そういうものもないにこしたことはないんだが特に今の世の中なくなることはないよな。
苦しみは人一倍味わったが苦労はしたことのない世間知らずのボンボンなので
世間の現実の荒波に一人で向かい合うことへの恐怖心ってのが抜きがたくあり
親が死ねば強制的に向き合うことになるんだが腹を括りたくても括れず
分かっていてどうにもできない逃避に浸っている現状がある。
あといつも緊張しているのが当たり前で落ち着く、リラックスするというのが
どういう状態か分からずこれも現実逃避と連動している気はする。
こういう人にないものも持ってはいるんだが人間として見た時相手にされるような人間ではなく
環境病で昔はもっと酷かったので治癒する可能性もなくはないと思っているが現実には病根が深すぎる。
贅沢病と言われたこともあるがそんな生易しいものではなく
理不尽のレベルは常人の想像の及ぶところではない。 昔、経済成長してた時代は会社に従順な社畜をつくるのが役割だったから
同質で会社の指示に従う奴隷が必要だった
今の時代それが完全に合わなくなっているが、変えられないのが学校というところなのだろう
意識の高い親、お金持ちの家庭は、個性を否定する普通の日本の私立よりも
インターナショナルスクールに通わせる親子が増えてきている 不適格教員は今すぐ氏ね
存在自体が人生泥棒
自分の子供の将来を奴らに潰されても知らんぞ 権力を行使するということは多数の幸福の為であったとしてもある程度の加害性が生れるのは
避けられないことで、この加害性に無自覚で向き合うことなく逃げるような人間は政治家として大事は為せない。
これは政治家に限ったことではなく核に厳しさのない優しさなんかを無限に人間関係に適用する人間は
やはり人間として最低限の筋が入っていないんだろう。
人が人を傷つけるということはあるのであって良い悪いの問題以前の問題として自覚し目を背けない態度が必要。
加害性の質は問われるが完全にないことにはできない。 リベラルの本質には加害性に対する根源的な憎悪というものが抜きがたくある。
共産主義国家や極左の粛清や暴力性にしてもこの加害性への憎悪に端を発した無自覚な加害性であり
自覚がないから制御できず歯止めなく暴走する。
だからと言って加害性を全肯定できないのは言うまでもないが
人間の本質から抹消するっていうのは別の問題として捉え理論武装で歯止めをかける必要もある。