昔の神奈川中央交通 [無断転載禁止]©2ch.net
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昔の神奈川中央交通バスについて語るスーレだお♪マターリいきましょう。 昔のま
鶴川駅〜鶴川団地線はまのドル箱路線だった。 それほど昔ではないが、かつては横04は後払い整理券方式だった。
前払い均一運賃の横浜駅西口に、異なる運賃支払方式の路線が乗り入れるのは異質だった。
それでも大多数の乗客はちゃんと順応していたが、乗客と運転手がトラブルになっているのを目撃したことがある。
その乗客の言い分は、乗車した時にバスカードをカードリーダーに投入したのに、なぜ降車する時もバスカードをカードリーダーに通さなければならないのか、というものだった。
(当時はバスカードの時代だった)
その時は私も運転手に加勢してその乗客に運賃支払の仕組みを説明し、このバスは運賃後払い方式なので、降車時にもバスカードをカードリーダーに通す必要があることを納得してもらうことが出来た。
今では横04は、前払い・行先自己申告方式で運行されている。 町47 町48 買物バス
そして、あと数日で町11 町14 町42が仲間入り…… (´・ω・`) 神奈中指折りのドル箱路線戸62が走っていた頃の長後は輝いていたな。
あの激狭な東口の浜銀前で誘導員の笛を合図に、長尺のブルやエアロKが方向転換をする光景こそ神奈中らしさの凝縮だったな。
やはり神奈中には広々小綺麗なターミナルは似つかわしくない。 あんな想定外な場所に小綺麗なターミナルが本当に出来たからね………
乗り入れてくるバスのダイヤは劇的に歯抜けになったが。
小田急の方も今や、昼間は各停のみ10分に1本だけ停車する寒駅になってしまった。 本厚木駅南口〜長後、藤沢、茅ケ崎、綾瀬車庫、用田車庫、伊勢原
が同じ乗り場から発車していた。
なかなか定刻運転が難しい路線ばかり。 神奈中で誘導員を使った折り返しといえば昔の原町田駅かな
中山行とか瀬谷行とか相模原病院行とか長距離路線が多かった
その頃は上溝や淵野辺駅北口にも誘導員いたような、、、記憶違い? 前扉が後ろに開く
床が木
シートがビニル張り
非常口が中央にある
降車ボタンが緑パンツ 戸塚駅の大踏切脇から出ていた横46
日中でも頻発していた。 >>12
前ドアが客席側に開くのはなぜだったんでしょう!? 車掌専用
灰色パンツボタン
冷房車のペンギンヘッドマーク >>9
長後街道路線が長後(立場じゃないよ)で分断される前は更に凄い事になっていたのでは。長後操車所は戸塚の配下だった。
>>11
小田急の優等系が停まらない駅、で察して貰えると思っていた。長後駅東口。
>>12
中央非常口とは。北村、富士のBA30とか呉羽のMR490ですかね。
東武が1980年頃にCJM500の富士3Eで中央非常口仕様を出してきたというのは、蛇足か。後付け冷改された個体もいた。
ビニールシートは、凄まじい色の日焼けと、夏場は本当に焼けちゃって、背ずりに凭れるのが憚られるのが。ザラザラシートが神に思えた。
>>14
神奈中名物謎仕様でしたな。停止しきる前に開扉する運転手も多く、ヲタ席では素晴らしい迫力を堪能出来たw 橋本〜相模原のように同一区間になん系統も存在した。
少量多品種の神奈中。 水道道〜戸塚駅 のように起終点両方書いてあって、系統番号がなかった。
前の方向幕の左側の系統幕は、前のり前払いと運賃の支払い方法が書いてあって、系統番号が出来たとたんに運賃の支払い方法から横46のような系統番号を表示するようになった。 ボケる前に書いて置く。ってことだよ。
ナウでヤングな君達も、GGIになればわかるさ。
>>21
町田が以前からそうだったんだよね。東京バス協会のお約束で都内のバス全てに系統番号を振る様になった時、「前乗り後払い」の幕を使ったものだから、
乗降方式の表示は何処かへ吹っ飛んでしまった。因みに系統番号は白地に青文字で、1986年の県内一斉付番とフォーマットは違う。
今考えると、横長幕を導入した時に、乗降方式幕の別途確保にこだわり、エアロスターの安全窓を潰してまでも幕を設置したのは、この時の反省が元かもしれぬ。 >>22
横浜市営バスの緑営業所でかつてあったような、系統番号を独立幕にしてた仕様は、神奈中では他には例が無かったはずなので唯一か?
今の話になるが、町田の前面LED表示は幕時代を彷彿させる「経由地・行き先」の1行表記が他所より多いような。
他所では経由地上段、行き先下段の2行表示が殆どだけど。 ピンポンパ〜ン♪
お待ちどうさまでした。毎度ご乗車くださいましてありがとうございメス。
この車は厚木8系統 本厚木駅発、松蓮寺行でございメス。
途中お降りの際は車内取り付けブザーでお知らせ願いメス。
お知らせがなければ通過いたしメス。
なお、車内でのおタバコと、危険物の持ち込みは固くお断りいたしメス。
走行中は揺れますから、ご注意願いメス。
事故防止上、やむを得ず急ブレーキをかける場合がありますから
ご注意願いメス。
車内でお年寄りや体の不自由な方のために、優先席を設けてありメス。
車内の混雑の時には、すすんで席をお譲りいただくようご協力願いメス。 >>5
たしか、横52も後払いだった記憶がある。
この路線と62・横51が笹下車庫担当だったとは、なんか非効率だった気がしないでもないな。
当時は環状2号が開通してなかったということもあるけど。 >>21
78年式までの方向幕横の小窓に系統を表示していた時、行先と系統は連動していたの?
もし手動で運転手の目視頼みだったら、
[平45][平塚駅〜小田原駅]
みたいな微妙な間違いが多発していたと思われるのだが。 >>24
「ダァ!しゃ〜りやっす! 」
ギィィィィィィーーーーーーーッ!!! ゴロゴロロローーーートッ....スチャッ! ペッ!
ウォンォン ウウウウゥゥゥォォォォォォォーーーーーーッ....ガラゴソッ...ギャッ
ウウウウゥゥゥォォォォォォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン.......... 神奈中と言えばランダムダイヤ
昔
10 02 21 29 41 44 58
11 09 25 44
12 12 50
13 05 10 24 27 49
14 02 25 40 56
現在
10 00 30
11 00 30
12 00 30
13 00 30
14 00 30 相模原駅から国立相模原病院に行く場合、国立病院行きよりも小田急相模原駅に乗ったほうが速かったよね 神奈中の1986年系統番号設定の凄まじいところ。
・ルートナンバー概念は無く、運行区間全ての種類に対して系統番号を付番したこと。
船22の区間系統が立01とか、余所者には絶対想像の付かないことが、遍く発生した。
・幕を惜しげもなく新調したこと…そりゃそうだろ。というところだが、78年以前の小型幕車について、前面幕と後面幕を共用しそうなところ、敢えてそれをしなかった。
・旧乗降方式表示幕…系統番号表示の為だけに提供(乗降方式表示がお留守になった問題。側面の可動式の出入口幕を操作して解決すると判断していたようだ)
・前面行先幕…従前のフォーマットを保持。
・後面行先幕…系統番号と、起終点表示を同居。普通ならこの幕を前面にも充当しそうなところ、実際はそうでなかった。
エアロスター黒幕新車の、系統番号相当部分が艶消し黒の目隠し板を施され、運用していたのも思い出。 そうそう、黒幕が出たての頃、
なんで行先表示が右端に寄ってるんだろうって思った。 >>16
非常口が中央にある車両
日野RB10もな。
最後まで残ったのは、津久井の富士重BA30で1980年下期まで、でよいよな。 富士重工3EのU31冷房車のエアコンの吹き出し口のバリエーション。
半期導入ごとにコロコロ変わったな。 金産ボディのRB10て、舞岡と秦野以外にいましたかね? >>26
系統・前・横・後、全て独立操作。
ダッシュボード?に縦2横4列の幕操作ボタンが並んでいた。 富士重3Eの冷房吹き出し口(UD)
横長でグレーの固定式のダンゴムシみたいなやつ。
横長で黒くてそろばんみたいなやつ。縦方向に角度調節できる。
正方形で真ん中が金属製のやつ。縦横に角度調節できる。
いすゞはヂーゼル機器製のため、これらとは全く違ったと思う。 昔もあんなもんじゃない?
まさか、今の長後駅東口ターミナルしかご存知ない訳ではあるまいな。アプローチも、長後街道ではなく国道467に変わってしまった。
知らないとすれば、ぐぐーるマップの航空写真をご覧あれ。
長後街道を、踏切直前まで西進してきたバス(戸62ほか)は誘導員に交通整理された踏切前を左折、オリジン弁当の前あたりが降車場。古久家から横浜銀行前あたりの道幅一杯を使って、別の誘導員の笛の助けを借りて切り返し反転。
乗車場はオリジン弁当向かいあたりの線路際。踏切前で右折し、長後街道を戸塚やいずみ野、上和田団地(大和駅)方面へ。
藤沢やドリームハイツからのバス(と長後車庫の回送車)は湘南台小前交差点から北上、理容アイザワの前で左折、長後駅舎の前で右折、長後駅の階段を行き過ぎたあたりが降車場。同じく切り返し反転し、横浜銀行前が乗車場。
(店名は、ぐぐーるマップ掲載の現在のもの) >>5
運賃箱の現金投入口に蓋があったな。
停留所に着くと運転手が開け閉めしていた。
>>9
厚52、東名中学行きってなかったけ。
>>10
上溝には誘導員居たが、淵野辺には誘導員居たっけ?。
上溝の定期券窓口、かなり古い建物。
淵野辺のかなり古い待合室と日時限定の定期券窓口があった。
今現在の淵野辺の状態になっても、多摩営業所のワゴン車がバス待機所に乗り付けて、やはり日時限定で定期券を販売していた。
いつの間にか定期券の販売は終わってしまったが。
>>19
相39作の口経由、橋35大島経由、橋38南橋本工業団地経由、橋52宮下経由、橋53オハラ経由、橋55三菱経由。
>>31
相16、相模原駅〜富士見町〜仲町〜上溝〜番田駅前〜原当麻〜座間〜相武台前駅〜小田急相模原駅〜国立病院、かなりの長距離運行。
仲町、番田駅前の区間は廃止になったし。
仲町は厚木営業所のバスも通っていた。 運賃の支払い方法を表示する部分を特注したのか、いすゞのLVキュービックとその中型のLRジャーニーはあとつけのようにてっぱっていた。
前ドアのドアエンジンの関係だろう。
秋田中央交通に移籍したLRは運賃支払い方法の窓を埋めずに撤去もせずそのまま、でっぱりの上をカラーリング。後ろのり後払いで使えばよいのに。 >>42
藤沢には帝国ボディのRB10がいたのは覚えてるが、金産もいたっけ? 東海道線の踏切を渡り切れなくて電車に突っ込まれたのってB8?MR? >>25
中山市ヶ尾も、『よ』がやってた。
>>
長後車庫の跡は市営住宅だっけ?あの部分だけ道が広くなってる。
>>43
なぜかあのころのいすゞは、前ドアが開くとき『ダン』って音がしたな。 横浜駅西口から保土ヶ谷駅〜東海道〜戸塚駅方面だと、平戸団地、東戸塚駅、戸塚駅(大踏切)と昔は色々な行き先があって、横浜市営バスの平和台ゆきや芹が谷ゆきと同じバス停でかなり本数があった。
今じゃ、東戸塚駅ゆきだけで本数も半分に、市バスは廃止に。
朝の横浜駅方面は、相鉄の西横浜駅利用者のための水道道ゆきも結構あったような。
横浜市営バスのバス停だと、簡単な路線図に市バスは丸に系統番号、神中は丸の中に番号でなく神とかいてあって、神奈中の系統番号ができてもそのままだった。(今でも?) 平戸団地発水道道行き
何て言うのも1日1本有りましたね。
せっかく坂を登って来たのに誰も乗らすに出ていってた。
実質坂下口始発便だった。 戸30保土ヶ谷駅西口
系統番号付いた後も走っていたのかどうか謎だった クソ車椅子が乗ってきたせいで遅刻しそうになった。本当迷惑 >>52
戸塚発着じゃないのに なぜか戸28
逆の水道道→平団はあったの?
88 かわいいバス。乗りたかったな〜
ttp://mu3rail.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_14e/mu3rail/1966machida05-03-a8cc7.jpg?c=a1
本厚木〜八王子の路線とか。 >>57
保01 水道道〜こども医療センター
があったから保系統でもよかったはずだけど
戸27 戸塚駅〜平戸団地+
戸28 平戸団地〜水道道=
戸29 戸塚駅〜水道道
とセットで付番したんだろうね。
水道道発着便は保土ヶ谷駅東口で折り返せなかった時代の名残だから、
当然水道道発の設定はあったんじゃないかな。 >>63 保土ヶ谷駅東口にバスロータリーが出きる前は、路上バス停だったな。
水道道付近に専用の反転地があった記憶もないけど実際はどうだったのだろうか。
水道道到着→回送で浜松町交差点右折→すぐまた右折→藤棚商店街通過→東海道に戻り、水道道バス停から戸塚駅ゆきに。
とか。
横浜市営バスや相鉄バスも保土ヶ谷駅東口ロータリーがないときはどうしていたのだろうか? 水道道は「西横浜駅前」などに改称するか、サブネームを付けてもいいと思うけど、あえて放置してるの?
車内放送でも駅がすぐ近くにあることを案内しないし。 横浜の歴史を語る名称で長年続いているし。
敢えて変える必要もないんじゃない?水道道。
今の横46は、保土ヶ谷区内で「新道回り」を表示していた期間があったような。1977年前後? 羽衣町(関内駅前)みたいな扱いでいーんじゃないの? 幼少の頃、茅ヶ崎に住んでた俺は、時々親戚のいた平塚に行ってたのだが、平塚駅前では実に様々なバスが見れて、興味が尽きなかった。
特に、伊勢原から来る川重のBA30や、秦野から来る富士重のBA30、金産のRB10は、落ち着いた感じのふそうMRと比べてボディスタイルやエンジン音にグロテスクな印象を受けたものだ。
当時は小田原駅行きの箱根登山も見れたのだが、いつの間にか姿を見かけなくなった。
あれはいつまで平塚駅に乗り入れていたんだろうか? >>67
保土ヶ谷2丁目から市営が旧東海道を経由(現在の相鉄と同ルート)していたので、
神奈中は新道経由と表示していたんですよね。 よそ者だが茅ヶ崎に身内がいた俺としては、5Eの丸目車と角目車の違いがようわからなかった憶えが。
5Eが消えてからやっとその疑問が解けたのだが、
いすゞはCJMが丸目だったのがLVでは角目になったのに対して、日デはU31からU32になっても丸目のままだった。
これだけは何故だったのかが未だに謎。
まぁその細かい部分の違いがあるのは7E(窓の枚数)でも新7E(クーラー形状)でも連綿と受け継がれだが。 初めての乗りバスは相模原始発の矢部駅経由淵野辺駅北口行きだった >>53
小学生まで国道1号線沿いに住んでいて、よくバスに乗ったり、見に行ったりしてたけど、系統番号設定前は記憶にないが、設定後は見た事ないな。幕だけの存在だと思ってた。
>>066
LCD運賃表示器の下部(黒い部分)に、本日は環境定期券適用日です…みたいに、相鉄線西横浜駅ご利用のお客様は…みたいなのは字幕流れているけどね >>67>>71
「新道経由」というと、横32戸塚駅西口〜横浜新道〜横浜駅西口を思い出す。
幕の経由地表記は「バイパス」だったかな? >>75
是非復活して欲しい路線のひとつですね。
今なら当時より渋滞も無いと思うが。 >>75
戸塚時代はバイパス表記、戸塚駅表記
舞岡時代は横浜新道表記、戸塚駅西口表記 昔の巻取り式の運賃表には、整理券番号のところが黄色のものと
赤色のものとがあったように記憶している。
黄色の車が圧倒的に多かったが、まれに赤色の方に乗れると嬉しかった。
当時よく食べていたレトルトの丸大ハンバーグは、
ビーフが赤、ポークが黄色のパッケージだったので
俺の中ではいつもそれのニュアンスと重ね合わせていた。 >>78
あれ確か1981年以降で、増車した車両に設置されてた。
運賃箱も赤色のやつがセットで設置されてたね。 >>60
この形のバスっていつ頃まで走ってたんだろう? >>65 横浜市民じゃないから、平日朝のみ運行の水道道行きを見に行けない。
知り合いの湘南神奈交バスの運転手さんに聞いても、会社と営業所が違うから知らないだろうな。
複雑怪奇と言えば、二宮駅発着の団地の循環路線。
ダイヤ表と団地内の経路図を持たされて乗務していると教えてもらった。
知り合いの運転手さんは、完璧に覚えたから、地図を途中で見ることないとか。
昔から複雑怪奇な神奈中バスの路線てありましたか? 一昔前の町田の様子を記録した写真集が刊行されるんだけど、それには昔懐かしい神奈中の写真も幾つか載るらしい。
吉川百貨店の前を行く大和車なんか萌え〜だな 水道道回転は市営9系統藤棚と同じ
回送か実車かの違いだけ >>49
昭和40年代の後半まで、小田急の狛江営業所が担当していた様ですね。
まだその当時は、町田と生田(現在の登戸)営業所は無かった様だし。
>>73
淵57、相模原駅〜市役所前〜矢部駅〜淵野辺駅南口〜淵野辺駅北口のルートだっけ?。
>>83
淵24の多摩区役所〜登戸間は往路と復路で経路が違うから、スタフに地図が記載してあると聞いた事があるが。 昨日、茅ヶ崎駅から小谷行きの神奈川中央バスに乗ったんですが、声からして20代、30代の若い運転手さんの活発な声かけや大きな声での安全確認など、とても好感を持ちました
8割以上の運転手が停車の際の声かけや社内のアナウンス、安全確認さえ無いのに、昨日の若い運転手さんは久しぶりに素晴らしくて感動しました❗ 昔の神奈中のスレなんだよな。
客とウテシが喧嘩して、ウテシがブチ切れて。
文句があったら陸運局でも何でも言いやがれや。
スラロームのコーナーをジグザグハンドリングでJK達を悲鳴と号泣の巷に放りこんだりね。
ダンプの運ちゃんには挙手の礼をしたりする。というね。
楽しかったな。あの頃の神奈中があるから、今の神奈中も好きな俺が居る。 乗客満載でオラオラ運転、
降車にモタついたらプシュプシュ鳴らして煽る
でも、年寄りや身体が不自由な人の乗降には気遣いする
職人魂に溢れた運転手が居た時代 昔、洪福寺の左折レーン(曲がった先が陸橋で、渡ると浜松町の所)でバスの前に割り込もうとしたトラックがいた。
バスの運転手さんは、「みんな後ろから並んでるからだめだと!」と言ったら、
バカトラが左ミラーをバスの前につき出す→バス無視して直進→バカトラのミラーが割れる→バカトラが追いかけてきて次のバス停で運転手同士の喧嘩→お客近くの交番に駆け込む→後続のバスに乗り換え。
1980年代に権太坂にすんでたいとこが高校の帰りに遭遇した。
神奈中か横浜市バスかどちらか覚えていないというけど、昔の神奈中だったらありそうなことだな。 35〜40年前は、新車と廃車直前でかなり差があったけど、今は大して変わらんな。
バスマニアじゃなかったら、ほとんど一緒だろうな。 今はエアロスターでエアロスターを駆逐する!という時代になって久しいからなあ。
1977年 4R94をB800Nで
1981年 MR410をK-MP118Nで
確かに雲泥の差、というのも不適切な言い方かもしれんが、凄い落差はあったね。 >>95
MP38登場までは、KC代からQKG代までは意匠がずっと同じだったから、素人目には新車に置き換わった印象は薄かったろうな。
特にツーステとワンステじゃ、09年から黒サッシ・熱線吸収ガラスに変わったくらいで他は変化に乏しいし。 発車までの待ち時間にエアータンクのバルブを開いて回る。
シャーーーーーーーーーーーーーッ!!!!
ドバシャーーーーーーーーーーーーーッ!!!!
エアドライヤーの普及で今は見られなくなった。
方向幕が手動ハンドル式の頃、終点が近づくと信号待ち時に運転席を外して側面幕を変える運転士が結構いた。 >>64
水道道の折返場は市営専用で、11系統回送と28の水道道止まりが使っていた記憶があります。
神奈中の水道道止まりは、最初から現在と同じく回送で→藤棚→浜松町→かと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています