ジークンドーとMMAを語るスレ
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ジークンドーとMMAを語るスレです
現代MMAにジークンドーがどう取り入れられているか?
ジークンドーの技術はMMAにどう応用できるのか?
なんでもどうぞ ポケットに手を突っ込んでいたので、岡田に注意した。この世界ですぐにスターになったので、礼儀を学んでいなかったのだ。
アメリカでは、礼儀というものは存在しないのである。
ポケットに手を入れていても、誰も怒らない。
ただ撃たれるだけなのである。
警官もすぐに撃つ。アメリカでは、話をしている途中で、ポケットに手を入れたら、
銃を取り出すのではないかと思って撃つ。だから、アメリカでは絶対に禁止の動きなのである。
ヒロ渡邉や石井は、アメリカで修業をしているので、
相手を威嚇すると拳銃が出てくる、つまり相手に拳銃を出させるような
動きをしないジークンドーの構えから来ているから、日本のルールの中で育った他の格闘技みたいに、
威嚇の威嚇するような構えがないし、教えがないので、あ、そーなのかなという感じで
ヒロ渡邉や石井の構えを見てしまっているのかもしれない。ケンカの最中でも絶対に、
拳銃をだすような動きは絶対にしてはだめである。ただ普通にジークンドーの動きをしていれば、
あ、これはストリート上でのケンカなのだと思い、相手も拳銃を出さないケンカをする。
ポケットとか、上着の中などに手を入れるとか、そういうしぐさをするとギャングにすぐに撃たれる。
ポケットに手を入れたらだめではなく、ただ海外では拳銃で撃たれるということだけなのである。
常に手になにももっていませんよと手のひらを相手に見えるよう出しておきながら、ジークンドーでの勝負に入る。
ヌンチャクを取り出したら、逆に相手は安心する。このケンカには、銃は出てこないなと安心する。 相手に拳銃を向けて、
その拳銃を素手で落とされる。床に落として、相手は、その銃を足で遠くにけってしまう。
相手が、構える。
この時が大変である。こちらも構えろと相手が、目で合図をする。
ここからジークンドーが開始されると考えてもいいと考える。
ゴングが鳴ってから試合が始まると思ってはいけない。
手に持っていた銃を簡単に相手の目に見えない速いスピードでキックではじきとばされて、
そこから戦いのゴングが鳴っていると想像したほうがいい。自分は追い込まれ、
相手のエンジンは温まっている状態である。
そこからジークンドー・パンチを相手に当たるかどうかなのだろう。
自分が相手の銃を落とさせたのでなくて、自分の持っている銃を落とされてからの戦いである。
こういう気持ちで矢地は、リングにのぼってほしい。 映画で良く見るシーンがある。
相手ともみ合いながら、相手に自分が手に持っている銃を奪われる。
そして相手は、おでこに対して銃口を向ける。
指で引き金を引く。
弾は飛ばない。はじめから、入れていなかったんだよ。
そこからカンフーの戦いが始まる。
こういう感じで、矢地はリングに上がってほしい。
そういう感じで、相手に網に押しつけてほしい。
リングに上がって、相手と向き合ったときに、試合が始まると思うのではなく、
最初から弾を入れていなかった銃口を向けられてからの気合という感覚である。
ワンインチをいれていなかった準備前の肩の力のように。 ジークンドーの世界感。
ブルース・リーは相手と対峙するとき、
相手の心を読むという感じではなく、流れる時間場を感じている。
変化にゆだねるための時間を作っている。
戦う前の時間に逢い、戦ういまという時間にゆだね、
戦った後の時間に逢う。
戦った後の時間作用にブルース・リーは、ジークンドーをゆだねる。
ブルース・リーは、ジークンドーにゆだねる戦士である。
宮本武蔵は、無限五輪にゆだねる戦士である。 点穴、
「釈に云わく、一極に帰せしむ」
一極を目的とする方向性を帰せしむという進行状態によって示し、
その状態がそのまま点穴である。
一極が秘孔に対応し、帰が秘孔に対応する。
つまり、帰せしむの中に一極と秘孔を包含している。
点穴を帰せしむとは、律動であり、時間感覚の本因とも見てとれるだろう。
そして、その時間の方向の帰着するところが一極となる。
一極と秘孔とは帰せしむによりて連続して一つの運動系を顕現していることになり、
一極を人間次元に訳せば実成ということになる。 武術における立場とは、場を立てるということである。
立った場ということである。
立った場というところにこそ、北斗化された、果としてのジークンドー回転が
展開されてくる。
展開されるということは、時間によって、統一場のシンボルである
ジークンドーの訓が、七星の光によってすべてを照らし、
万象を成す意味において、各所の場が成りたち、居場所としての、技が一体化し、
全一なるジークンドーとなり、ここにこそ、ブルース・リーの本質を具体化されたのである。 神の拳とは、
見えるものの中には見えないものがあり、
見えないものの中に見えるものがある。
拳は、神の領域に入る。
相手の拳が見えた時、実は、拳は見えていない。
相手の拳が目の前で見えない時、実は、拳の軌道は見えている。
相手が、己の拳が見えた時、己の拳の本体は見えていない。
相手が、己の放った拳が見えない時、相手は自分の拳の軌道が見えている。
見えない程の速い拳がさらに速くなるとき、その拳は相手に見えるのである。 手でしっかりと握ったおむすび、握ったお寿司は、お美味いということを
知っている。手でつくったものは、味は格別である。
人間の指で握りしめて作るからである。
手で握ったものは、三味も五味も違うのである。
手から出るパワーが大きな作用をするからである。
拳を握るとパワーが出るのである。 ジークンドーでは肉体とは何かと問うことは
この世界とは何かを究めることに等しい。
肉体とは、古代ギリシア人にとっては、
何より小さな世界であり、逆に世界とは大きな肉体に
ほかならない。私を造形したのは神である。そして北斗は神に
由来するからこそ完全である。 魂の中に一つの楽器を作り、
その演奏の仕方を習得することを目的とする。
誰もが生まれながらに自分の魂という精妙な楽器を弾きこなせるわけではない。
それゆえジークンドーはブルース・リーの魂の武技といえる。 もし逆境にみまわれたならば、
静かにおちついてそれをじっとみつめて、真相を知れ。
そして危惧に費やすことなく、その代りに自己の内に
宿る一層高次の有力なる力を発揮せしめよ。
北斗の神の心と自分の心の間に
願望の磁石ができるまで、瞑想を続ければ、
あとは自然になるのである。 龍の図象は、紀元前2000年紀末から1000年紀初の青銅器の紋様の中に
見いだすことができる。 ジークンドーの奥義は、
三位一体ではなく、三位三体。
三体が同等である。三体同位。
それが究極ジークンドーの奥義なりか。 ブルース・リーは
島に上がったとき、へびを捕まえて袋に入れた。
そこには恐怖という心はなかった。
そのへびを操縦室に放り投げると、
慌てて男たちは逃げた。
ヘビに接したように、ブルース・リーは戦いにおいても、
同じなのだろう。三体同位なり。 ジークンドー至上主義を説くとすると、
「子、九夷に居らんと欲す」
電気コードのソケット部分を、足の指の間に挟む。
そして、ここから出ている気を
意識でもって吸収していく。この気を背骨に沿って指先に上げる。
そのあとは指先からついた点穴に、これを放射させればよい。 外気発射。
指一本で、あるいは指二本をくっつけた状態で対象物へ向ける。
対象物と自分との間についたてを置いてトレーニングをする。
気のパワー以上に、意識の変革が要求される技である。 北斗一子相伝
自分が地上に為すべき使命を守らなければならないと潜在意識で
思い続けている限り、北斗神拳の道を歩んでいると考える。
自分はこの地上でなすべき仕事(使命)があるのだと繰り返し、
全心全霊で、心のなかで叫ぶことである。
そして拳に北斗神拳が宿ることを強く悟ることであろう。 北斗一子相伝は語る。
それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して、
百法界なり。
われの一心だけでなく、汝の一心も解かなければならない。
われと汝の対応によって起生する一心も、
われと拳との対応によって起生する一心も、
北斗という時代に託される。 天地初発乃時、
是の故に天神物を生ず。
聖人これに則る。
天地変化す。
聖人これに効(なら)う。
天象を垂れて、拳を見(あら)わす。聖人これに象る。 北斗を己のものとすることは、
拳を己のものとすることを意味する。 ストレートな暗示の読み取りに強い格闘家、
間接的暗示の読み取りに自信がある格闘家の
二種類がある。 直線というものは決してこの世にはない。
どんな精密な計器で引いてもそこにはかなりゆがみが存在する。
光でさえ宇宙空間では重力により曲がる。
われわれが直線として使っているものは
一種の仮定にすぎない。
直線とは本来われわれの精神の働きと共に存在する。
この世界の現実の存在は、必ず曲線を描き、
スピンして存在してゆく。
ま向うから直線的に相手を突き切ることをめざした
日本刀が、直刀からいつか優美で芸術的ともいうべき
曲線をもち、武術が、円転やラセンを説くのは同一の原理である。
存在は曲線を描く。 植物は、体内時間や、バイオリズムや、日照時間の変化に反応して花を咲かせる。
植物は、五次元的情報空間を神経機構の作用としてささやかながら描いている。
武術家の大脳も、
武術空間の中に、多次元の情報空間を描く能力が隠されている。
ブルース・リーは新しい意味を持たせた記号、ジークンドーによって、
今まで武術家が表現できなかった武術空間を、明確に武術論理として
表現したのであった。 ケンシロウが、傷を負った場合、
回復して元の状態にもどる。
この現象は、時間反転といえるだろう。
意識が何らかの作用を及ぼしている。
点穴の場合、
時間加速現象が発生しているのだろう。 ブルース・リーは、われこそは、と時代の先頭をきっている人間性をもっていた。
ブルース・リーは時代に対して格闘続けた男である。 ジークンドーとは心の力である。
その原動力は、不動の信念、あるいは思念を育てることが基本となる。
爆発的な動機ともいうべき目的をめざす心である。
ジークンドーは、情緒感情が根源である。
それが薄れたりなくなれば、ファイナル・ジークンドーの開発は望めない。 グレイシー柔術は、殴る技がある。
柔道では、相手を倒したら、
そこから関節を取りにいく。
グレイシーは、腹を殴るのである。
柔道では、殴るという技はない。つかむという技は
あるが、殴るということはない。
柳生の場合、相手を倒し、さらにグレイシーの場合、手で殴るのだが、
柳生は、手で殴らないで、剣を握ったまま、
倒れている相手に上からさらに攻撃をしかけるらしい。
宮本武蔵は、その柳生の者にも勝っているらしい。 時間の子たるブルース・リーは、
人類の核心までもぐりこんで還ってきた。
ジークンドーとは、
とどまることを知らぬ流れのごとく、
全世界を自己の拳のうちに包含することなりか。 点穴が入ったポテンシャルの領域には、
通常の意味での時間は、存在しない。
点穴は
力から時間を引いたものが、点穴のポテンシャルだからである。 宮本武蔵は、
剣を使わないで、両手で相手を
つかみ、岩石落としをしたらしい。
組み打ちも強かった。
岩石落としの場合、相手を自分の肩の位置までは
持ち上げ投げなければならない。
その同等の力で刀を振っているということになる。
宮本武蔵は、剣の五輪書の次に組み打ちだけのの五輪書も執筆できただろう。 武蔵は、サッカーでいえば、メッシみたいな感じなのだろう。
エンジンがかかると異次元的な動きなのだろう。
普通にゲームをしていたらメッシは、みんなと普通の動きを
しているのだが、ゴールの前になると、動きが変わる。
武蔵も、試合になると変わるんだろうなと思う。
メッシは地球の人口の半分くらいの観客が見つめる中で、
ゴールを決める。武蔵の場合は、数人が見守る対決の中で、
地球の人口の半分が見つめているような試合ができるということなのだろう。 仙道への入口。
気を体に一周させる。もっとも、ただ一周させるのではない。
気をいくつかの重要なポイントに止める練習もする。
ブルース・リーは、水のように流れる技というが、
流れたままではなく、自分の意志で、ポイント、ポイントで
流れている気を止めるという技も必要ともなるのだろう。
メッシが一流なのは、ゴール前での一瞬に、ける足先に気のポイントを
とめることができるのではなくて、キーパーと鉄の柵との空間配置に対して、
ものすごい勢いで流れていく気の中で、どのポイントで気をとめるか、
そこに向けてボールを流すという感覚なのだろう。
しかし、サッカー選手から武道家になった者は、あまり聞いたことがない。
武術特有の目に見えないゴールの柵が存在するのだろう。
そしてブルース・リーは、それをジークンドーの入口とした。 ブルース・リーはヌンチャクで卓球ができるみたいなのである。
普通にラケットで打ち返すのにも大変なのに、
普通に打ち返している。
なぜ、このような動きができるのだろうか。
ブルース・リーは、常に、パンチを当たればいいやと思って
打っているのではなくて、ここを打つと毎回思って打っていると
考えられる。ボクサーみたいに、顔のどこかに当たればいいやと
思って放っているのではなくて、最初から、ここを打つと点を
定めているのだろう。 大山は言う。
夢の中で突然、今までにない新しい蹴り技を
行っている自分の姿が閃いたのである。
こうして私は、一つ一つと新しい技をあみ出していったのだ。
夢の中の自分の姿が、現実の自分より強いのが大山倍達みたいなのである。 真の名刀は、
静かにさやの中に収まっている。
点穴もしかり。 力は直線を描くが、曲線と円の力は
直線の三倍もある。
武の道においては、点を起とし、
円を終とす。線はこれに付随するものなり。 北斗一子相伝を継承した者とは、
「すべてを学びとった者」である。
彼は、進化する自然の力づよい調和の知識を
学んだのである。一子相伝者の心には、
人類の助けになる行程以外のものを
選ぶなどという気持ちの起きるはずはない。
つまりこれが、一子相伝者の前に横たわっている道なのである
北斗の神の力が命じるままに、相伝者は己の拳に力をためる。 海が、パンチで苦戦していた。
石井に教わったように、なかなか浸透系パンチを打つのは
難しいみたいである。
膝が浸透系膝のように見えた。
ジークンドーでは、足で打つ浸透系の技があると
石井が言っていた。力が突き抜けてはいけない。
動物は地震を予知することができるのは、脳で波動を感じるからである。
脳で震源地を感じて、異常行動が発生する。
相手は、膝で打たれる練習はしているので、
打たれたというよりも、それ以上に脳がプレート・テクトニクス波動(断層の摩擦)を感じたのだろう。
脳が打たれたという波動を感じて、体が金縛りにあった。 多間(たま)場に時が作用し、
カミ合って、玉が神となり、
中央の玉場に参入しますと、
七の生命場と身体と、精神の電流が、
心相を各界場に具現して、
関節の反応を示すなり。
関節が神合うことが、北斗一子相伝者なり。 宮本武蔵は、絵を書く。
剣もやり、そして絵も描く。
武蔵は、キャンパスに物を描くように、
剣を武の空間に描いているのかもしれない。
ブルース・リーは、カメラを通してフイルムに描くように、
自分の武技を描き、そしてそれをメモに描いて、さらに自分が描いた
型を、それに合致するように自分の型を作り上げている。
ウイスキーを樽で熟成させるように、ジークンドーの型を熟成している。
技を地下室で寝かせている感じなのである。
ケンシロウの北斗の場合、その技は、最初から熟成された技であり、
そのまま北斗の技を出すだけで良いのが一子相伝者なのだろう。
ジークンドーの技は、これから熟成していきましょうみたいな感じで、
北斗の場合は、熟成された技を出しましょうという感じがする。
ケンシロウの場合、技を熟成しようという考えがまったくなく、
継承された技を出すだけという感覚である。一子相伝者の技は、
熟成されていない技なのである。技を技としてくりだすだけ。
力量の差は、お互いの気の量だけの戦いこそ、一子相伝者の戦いとなる。
神闘北斗一子相伝。 達人のエピソードはたくさんある。
ところが誰いうとなく、彼は驚くべき武芸の達人であるとのうわさが立った。ひっきょうするに
これまた一種の伝説的想像にすぎず、達人については、依然として霧のように
謎に包まれていた。
達人の場合、その戦っているところを誰も見たことがないのに、
達人を包む霧のようなうわさだけで、誰もが、達人を達人であると
認識しているところがすごい。 何かの試合ですごかったというのではなくて、うわさだけで達人ではないかと
言われている。うわさだけで、敵は金縛りにあっているのである。
そこまで達人は強いのである。ケンシロウの場合は、ケンシロウの武芸を見て、それを知っているから
北斗が町に来たって町のみんなが認識をするのだけど、達人の場合、誰もその技を見たことがないのに、
あの人は武芸の達人であるというわさが立っているのである。風が風鈴の鐘をチリンと揺らすように、
達人は風のように風鈴点穴を打つのだろう。 ある動画の試合を見ていて、
ふと、達人ならこうだろうなと思い書いているところがあります。
空手キックの連続技を見ていて、
達人ならこうだろうなとふと思って書いたりしています。
拳は、空手と呼び、蹴りは、空蹴と名付けるらしい。
空手のキックは、空蹴でなければならない。
達人のエピソードがいっぱいあるのだが、
達人の家に、十数名の武道家が乗り込んでいったらしい。
家の中に上がると、達人は寝ていなかった。
どこにいるのだと部屋を探していると、
突然、家全体が崩れて、十数名の武道家は、まとめて大怪我をしたらしい。
達人は、風のようにその場から立ちさり、小舟に乗って川を流れて行ったらしい。
これには、町中の人が驚いたらしい。
たったひとつのしかけで、家全体が崩れるように達人は準備をしていたことに
感心する。ここまで達人は考えているようである。 おもしろい。
こういうのでいいんだよ。
北斗の拳とかイランから 先生は、達人に言う。
二十年の間、もっぱら私について武術だけを修練したら、
ある程度の秘奥に達することができるかもしれない。
だがそれにはまるまる二十年の時間が絶対に必要だ。
先生は二十年の言葉を何度も達人にくり返した。
達人の先生は、ただ、毎朝、太陽が上らない時刻に達人を叩きおこして
ついて来いという。それでついてゆくと、
約二里ばかり先の大きな松林の裏に到り、
身体を垂直に立て、東方に向って深呼吸する。
達人は、はじめはそれが何のことだか判らなかったが、
後で吐納の術という武術の基本だということを知った。
口に十(宇宙の気がプラス)で、叶(かな)う。
口に十-(宇宙の気がプラス、マイナス)で吐く。 吐納の術のの練習を一日に4、50回やる。
これがおわるとまた二里あまりの道を
歩いて帰宅するのが9時頃で、それから朝飯になる。
この外には時々金魚の世話をしたり、
花園の草木の手入れをしたり、たまには
先生のお伴をして町を散歩する。
先生は興が湧けば詩文を談ずる。
達人は、きっと自分の想像しているような勇壮な武術を 教えてもらえると考えていたら、案に相違して、
先生はただ八つの動作を教えただけであった。
しかもこの八つの動作が、武術でもなく、体操でもない。
しかしあえてその疑問を発せずに、先生の命のままに、
共に短時間、その動作を練習して、おわってみると、
体じゅう汗ぐっしょりである。このようにして習練に励むこと
半年にして、基本を身につけてから、やっと武術の教授が
始まった。 一年半あまり修行しているうちに、
達人の健康は見違えるばかりに強壮になったばかりか、
武術の力も多いに進んできたが、もとより自身では少しも
それはわからない。
達人は劇場で芝居を見物していた。
立見の小屋で、客は満員。文字通り立錐の余地も
なかった。達人のすぐ後ろにいた一人の大男が尿意でも
催したのだろう、人を押し分けて出ようしたらしいが、
何しろぎっしり詰まっているので、
どうすることもできない。彼は達人に声をかけることもしないで、
いきなり両肩をつかんで押しのけにかかった。達人は、ただ
反射的にわずかに肩を揺り動かした。するとその男は
パッと空を飛び、客の群れの外へふっ飛んだ。 武術とは、龍の道である。
天が示す型と武術家との関係。
武術家と天の型には、密接な関係がある。
これを
天人感応と呼ぶ。
武術家の上空には竜が居座って、
武芸の世界を司っている。
気の鍛錬ができると、飛竜が空で舞う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています