>>99
まず義豪と江上の約束組手の写真が残ってる。ついで自由組手だが
義豪は江上以外の複数の高弟の証言や回顧録でも組手が強かったことを言及してる。
変わったところでは極真の大山も義豪は自由組手が強かったことを述べてるし
義豪もたまに大山が道場に挨拶に来ると、自分が教えてる二段の弟子に「キミは二段で
彼(大山)はうちで初段にすらなっていないが、実戦ならキミはとても適わないよ」と述べたりもしてる。
義豪がフルコンをやっていたかどうかは分からないが、大山が松濤館に在籍していたころに
寸止めの組手を手ほどきした可能性はある。その時の印象をもって大山は強いと評したんじゃないかな。

義豪が指導していた夏に講道館の人間が訪ねてきて手合わせを願い出た話があって
義豪はそのときまず門下生の江上を相手にブツけた。そのとき回想録でもやはり柔道家に対しての攻撃は寸止めだった。

義珍に師事した初期の高弟達はだいたいが義豪にも師事してる。

義珍の意向に反して高弟たちが自由組手を独自に模索し寸止めが生まれたのは事実なんだが
よくよく考えるとこの流れは欠点があって、師匠が禁じてるのにそれを無視して追求しちゃったら
普通は破門だわな。でも後ろ盾があれば容認ないし黙認される。師範代であり実子の義豪が率先して
自由組手の創作や整備に参加していたら、息子は破門にしないけど弟子は破門にしますとか出来ないしねえ。

当時の大学の松濤館流空手部の記録を調べると、稽古に自由組手は無いし、昇段昇級の審査項目にも入っていないので
(何故か三段の項目に那覇手の型名とかは入ってるけどw)、おそらく義豪もあくまで稽古としては親父さんの顔を立てて
大っぴらに自由組手はしなかったけど、稽古が終わったのちじゃあ自己責任で始めましょうかって事でやってた可能性が高い。

江上本人の記録でも、相手は義豪かどうかは分からんけど、自由組手の最中に相手の頭上を飛び越した
なんて記録もあるから(これは珍しいことじゃなくて、初期の協会の自由組手では結構あった。おそらく原因は飛び蹴り)、
江上は柔らかい空手を追及する前に、今の協会形式の自由組手をやっていたのはほぼ確実と思われる。