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☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ8【恋】☆★☆
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0831Ms.名無しさん
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2021/10/21(木) 16:32:55.340
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼きがねだのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。
それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。
だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片かたをつけて来るんです」
 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促うながした。
0832Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:05.800
百四十一

 旅費を貰もらって、勤向つとめむきの都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。
ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多めったにない誂あつらえ向むきの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取とり外はずすのは愚ぐの極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
 彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然いちもくりょうぜんであった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、
その意味を返照へんしょうする遑いとまがなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。
二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私わたしに云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」
 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
0833Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:15.470
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟たたって来るんです」
 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
 この答えを聴きいた時、夫人の態度が急に嶮けわしくなった。
「そんな生意気なまいきな口応くちごたえをするもんじゃありません。言葉だけで他ひとをやり込こめればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。
あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方かたのくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟ひっきょう清子さんに逃げられちまったんです」
0834Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:28.010
 津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴きかせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。
清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識けんしきに拘かかわるというんでしょう。私から云えば、
そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好よござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄みえじゃありませんか。
よく云ったところで、上うわっ面つらの体裁ていさいじゃありませんか。世間に対する手前と気兼きがねを引いたら後に何が残るんです。
花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同おんなじ事よ」
 津田は呆気あっけに取られた。夫人の小言こごとはまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入いらざるところに我がを立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚おのぼれに生れ変って変なところへ出て来るんです」
0835Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:37.080
 津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品ひんよく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終しじゅう苦くになるんです。
そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私わたくしだって」
「いえ、思っているのと同おんなじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」
 津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質たちじゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳いっとくだぐらいに考えているんです」
「まさか」
0836Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:45.650
「いえ、そうです。そこがまだ私わたしに解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。
だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折って拵こしらえて来たんだから」
「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」
 津田はようやく行く事に覚悟をきめた。
0837Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:42:53.780
百四十二

 しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。
夫人が踵きびすを回めぐらさないうちに、津田は帰った。
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻さっきおっしゃった事は」
「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」
 津田は答えなかった。夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」
0838Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:43:02.590
 夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑のみ込めた。しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確しかとした観念がなかった。
夫人は笑い出した。
「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」
「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。後あとを挙あげて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委ゆだねると同じ事であった。
多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念けねんに制せられた。
「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」
「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、私わたしがお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」
0839Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:43:12.100
 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。
それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛きたえ上げる事が、
すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以ゆえんだと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、
その真底しんそこを探さぐると、とんでもない結論になるかも知れなかった。
彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵こしらえて、相手を苛いじめにかかるのかも分らなかった。
気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲こらす方法を講じているのかも分らなかった。幸さいわいに自分でそこを認めなければならないほどに、
世間からも己おのれからも反省を強しいられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面おくめんなく彼女の口を洩れた。
夫人とお延の間柄を、内面から看破みやぶる機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。
しかし実意の作用に至ると、勢い危惧きぐの念が伴なわざるを得なかった。
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上しあげを御覧ごろうじろって云うじゃありませんか」
 いくら津田が訊きいても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括くくった挨拶あいさつをした後で、教えるように津田に云った。
「あの方かたは少し己惚おのぼれ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部うわべは大変鄭寧ていねいで、
お腹なかの中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧りこうだから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気まんきが多いのよ。
だからそんなものを皆みんな取っちまわなくっちゃ……」
0840Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:43:20.520
 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段はしごだんの中途で足を止とめた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」
 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」
 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」
0841Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 06:43:30.070
 夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」
「何をです」
「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。
今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥おおはじを掻かかなくっちゃならない」
 いったん坐すわった夫人は、間もなくまた立った。
「じゃ私わたしはもうお暇いとまにしますからね」

 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」
 一言ひとことの挨拶あいさつを彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。
0842Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:43:38.820
百四十三

 この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
 堀の宅うちから医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形ていじけいを描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。
彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違すじかいの所でとまった。
何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側がわの窓を見た。すると窓硝子まどガラスを通して映る乗客の中に一人の女がいた。
位地いちの関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。
吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟しげきしたからである。
0843Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 06:43:47.520
 電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影うしろかげをしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
 彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路こうじを右へ折れたり左へ曲ったりして、
一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。けれども電車に会った後あとの彼女の足は急に重くなった。
距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん宅うちへ帰ろうかと思い出した。
0844Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 06:44:02.200
 彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり損そくなった不快を胸に包んでいた。
そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂におわせられた羽痒はがゆさがあった。なまじいそれを嗅かぎつけた不安の色も、
前よりは一層濃く染めつけられただけであった。何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆さかさまに相手から翻弄ほんろうされはしなかったかという疑惑であった。
 お延はそれ以上にまだ敏さとい気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計はかりごとが、
内密にどこかで進行しているらしいとまで癇かんづいた。首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確たしかであった。
吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。
知らないうちに重囲じゅういのうちに自分を見出みいだした孤軍こぐんのような心境が、遠くから彼女を襲って来た。
彼女は周囲あたりを見廻した。しかしそこには夫を除いて依たよりになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。
その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、
ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
 その心理作用が今喰くいとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪のろった。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、
もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐りこうなお延にも考える自由の与えられていないその後あとは容易に出て来なかった。
けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴ともえのように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
0845Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:11.030
 今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
 彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、
さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ行いきの支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴きかなかったので、
いったん宅うちへ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極きわめた彼女は、
ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路こうじの中ほどから取って返した。
そうして柳の木の植うわっている大通りから賑にぎやかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。
0846Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:20.480
百四十四

 お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染しみるような夕暮の靄もやに包まれた後の彼女には、何よりも火鉢ひばちの傍はたが恋しかった。
彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐すわって手を翳かざした。
 しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。
手紙の文句は固もとより簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。
けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。
一度に外から持って帰った気分に火を点つけたその書翰しょかんの前に彼女の心は躍おどった。
0847Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:29.980
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
 それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関かまう余裕さえなかった。彼女は台所から膳ぜんを運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
0848Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:39.660
 彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路こうじの角でとまった。
彼女はなぜだか病院へ行くに堪たえないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅うちであった。
いっそ当初の計画をやめて、叔父おじの所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横よこたわる困難をも想像した。
岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝さらけ出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。
叔父と叔母の前に、自分の眼が利きかなかった自白を綺麗きれいにしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼せまっていないと考えた。
復活の見込が充分立たないのに、酔興すいきょうで自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑けいべつするところであった。
 彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時床とこの上に起き上って、
平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻さっきお秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、
吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗あんに心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、
夕食ゆうめしの時間が来るまで、待ち草臥くたびれたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
0849Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:48.530
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
 看護婦は体なりの小ちさい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。
いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群むれから遠ざけた。津田はつねに疑った。
――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上かたあげを付けているだろうか、または除とっているだろうか。
彼はいつか真面目まじめにこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、
津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
0850Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:44:57.910
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後あとを付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
 津田の口の中にはもう焦こげた麺麭パンがいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。
0851Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:45:06.860
「その代り外ほかのお客さまがいらっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥ふとってるね、あの奥さんは」
 看護婦が悪口わるくちの相槌あいづちを打つ気色けしきを見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗きれいな人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒なおるんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲ひやかし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間まがいいと見えて」
0852Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 06:45:15.920
 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日きのういらしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。
0854Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 10:59:24.740
百四十五

 それは看護婦にとって意外な儲もうけ日びであった。下痢げりの気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、
午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
 彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳ぜんの前に坐すわっていた。
 退屈凌たいくつしのぎに好い相手のできた気になった津田の舌したには締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事を訊きいた。
0855Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 10:59:34.110
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
0856Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 10:59:45.910
 看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊きいた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
 彼女の名前の頭文字はつであった。
「露つゆか」
「いいえ」
「なるほど露つゆじゃあるまいな。じゃ土つちか」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露つゆでもなし、土つちでもないとすると。――ははあ、解わかった。つやだろう。でなければ、常つねか」
0857Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 10:59:55.240
 津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮ついきゅうした。
しまいに彼女の名がつきだと判然わかった時、彼はこの珍らしい名をまだ弄もてあそんだ。
「お月つきさんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命つけた」
 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
0858Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:00:06.160
 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後あとで云った。
「お延のぶさんでしょう」
 彼女は旨うまくあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
 津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
0859Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:00:14.930
 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
 津田の言葉に偽いつわりはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。けれどもそうすれば事の矛盾はなお募つのるばかりであった。
「でも先刻さっき手紙をお寄こしになったのね」
「ああやったよ」
「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」
「うん、少し都合つごうの悪い事があったから」
「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」
0860Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:00:24.590
 津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」
 津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」
 慰藉いしゃのつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉まゆを動かした。無言のまま帯の間へ手を入れて、
そこから先刻の書翰しょかんを取り出した。
「これをもう一遍見てちょうだい」
 津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹はようやく彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹ひくには充分であった。
すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やり損そくなったと思った。
0861Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:00:34.720
「何にも書いてないから、その理由わけを伺うんです」とお延は云った。
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」
「お前はそれを聴ききに来たのかい」
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
 お延はどこまで行っても動かなかった。相手の手剛てごわさを悟さとった時、津田は偶然好い嘘うそを思いついた。
「実は小林が来たんだ」
 小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。
0862Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:00:48.360
百四十六

「小林なんかに逢あうのはお前も厭いやだろうと思ってね。それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ」
 こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず慰藉いしゃの言葉を延ばさなければならなかった。
「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」
「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」
「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据すえられたお延の細い眼を見た時に、周章あわてて後を付け足した。
「また金を強乞せびりに来たんだ。ただそれだけさ」
「じゃあたしが聴きいてなぜ悪いの」
「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」
「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」
「まあそうだ」
0863Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:01:00.010
 今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、微かすかな笑が唇くちびるを洩もれた。
「まあありがたい事」
 津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を択より除のける余裕を失った。
「お前だって、あんな奴やつに会うのは厭いやなんじゃないか」
「いいえ、ちっとも」
「そりゃ嘘うそだ」
「どうして嘘なの」
「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」
「ええ」
「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」
「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」
「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから碌ろくな事は云やしなかろう。いったいどんな事を云ったんだ」
0864Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 11:01:09.090
 お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。
「ここで小林さんは何とおっしゃって」
「何とも云やしないよ」
「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」
「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真まに受けていながら」
「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」
0865Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:01:18.420
 津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。しかしお延の辛防しんぼうは津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい声を出した。
「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな拵こしらえ事をおっしゃるのよ」
「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」
「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」
「ほかの人? ほかの人とは」
0866Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:01:26.960
 お延の眼は床の上に載せてある楓かえでの盆栽ぼんさいに落ちた。
「あれはどなたが持っていらしったんです」
 津田は失敗しくじったと思った。なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。彼が最初それを口にしなかったのは分別ふんべつの結果であった。話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎とがめる彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。
 盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠くちごもった時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」
 津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。そのくらいの事」
0867Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:01:36.080
 お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言よげんがあたった訳になるんだ」
「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」
 津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
0868Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:01:47.590
 お延は答える代りに訊きき返した。
「奥さんは何しにいらしったんです」
 津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」
0869Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:01:57.300
百四十七

 お延は夫より自分の方が急せき込んでいる事に気がついた。この調子で乗のしかかって行ったところで、夫はもう圧おし潰つぶされないという見切みきりをつけた時、彼女は自分の破綻ぼろを出す前に身を翻ひるがえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴きかしてちょうだい。無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」
「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴ねんばらしになるんだから」
「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」
「いいわ、どっちでも」
0870Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:02:08.660
 津田は夫人の齎もたらした温泉行の助言じょごんだけをごく淡泊あっさり話した。お延にお延流の機略きりゃくがある通り、彼には彼相当の懸引かけひきがあるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真卒しんそつで合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向おもてむきそれに対して一言いちごんの非難を挟さしはさむ余地がなかった。
 ただ落ちつかないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透とおして、その奥を覗のぞき込もうとした。津田は飽あくまでもそれを見せまいと覚悟した。極きわめて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。だから二人の天賦てんぷを度外において、ただ二人の位地いち関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味しょうみの曲直を標準にしても、競せり合あわない前に、彼女はすでに勝っていた。津田にはそういう自覚があった。お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当けんとうがついていた。
 戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落いちだんらくつかなければならない道理であった。津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪にくい城はけっしてないという事にも帰着した。気の毒なお延は、否応いやおうなしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。向うに開門を逼せまるよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択えらぶところがなかった。
0871Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:02:21.900
 なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。なぜ凱歌がいかを形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。第二第三の目的をまだ後あとに控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、その後をどうする訳にも行かなかったのである。
 それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。本当に彼女の目指めざすところは、むしろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。それ自身がすでに大きな目的であった。ほとんど方便とも手段とも云われないほど重い意味を彼女の眼先へ突きつけていた。
 彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥こだわらなければならなかった。それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥はるか上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐かれんな彼女を殺そうとしてさえ憚はばからなかった。
 彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退しりぞいた。二口拘泥れば、二足退しりぞいた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増まして行った。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙じゅうりんした。一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔くいなかった。彼女は暗あんにそこへ気がついた。けれどもその意味を悟る事はできなかった。彼女はただそんなはずはないとばかり思いつめた。そうしてついにまた心の平静を失った。
0872Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 11:02:31.840
「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」
 津田はやりきれないという顔をした。
「だからおれは何にもお前を疑うたぐってやしないよ」
「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」
「死ぬなんて大袈裟おおげさな言葉は使わないでもいいやね。第一何にもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云って御覧な。そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手しょてから根のない苦情くじょうじゃ手のつけようがないじゃないか」
「根はあなたのお腹なかの中にあるはずですわ」
「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は要いらないから」
0873Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:32:27.740
百四十八

 津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸めいりょうに推察する事ができた。――夫は彼の留守るすに小林の来た事を苦くにしている。その小林が自分に何を話したかをなお気に病やんでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然はっきり掴つかんでいない。だから鎌かまをかけて自分を釣り出そうとする。
 そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑うたがいもなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術すべを知らなかった。
0874Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:32:39.020
 悩乱のうらんのうちにまだ一分いちぶんの商量しょうりょうを余した利巧りこうな彼女は、夫のかけた鎌を外はずさずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴きいてしまったんです。だから隠したってもう駄目だめよ。あなたもずいぶんひどい方かたね」
 彼女の云いい草ぐさはほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰しんけんざたと何の異ことなるところはなかった。彼女は熱を籠こめた語気で、津田を「ひどい方かた」と呼ばなければならなかった。
0875Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:32:54.190
 反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避たじろぐ気色けしきを見せた。お秀の所で遣やり損そくなった苦にがい経験にも懲こりず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬むくいられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧あいまいであった。津田はその意味を捕捉ほそくするに苦しんだ。肝心かんじんのお延にはなお解らなかった。だから訊きかれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
0876Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:33:03.510
 お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合つごうがついて、病後の身体からだを回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云いい募つのるあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂たもとから手帛ハンケチを出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜すすり上げる声の間から、句をなさずに、途切とぎれ途切れに、毀こわれ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
0877Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:33:14.740
 津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作ほっさが静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持いじして行きたいと思うんです。もしそれを毀損きそんされると……」
 お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目めんぼくなくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍そばで見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
0878Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:33:24.510
 津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
 津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃ひらめいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
0879Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:33:34.170
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉のどから外へ滑すべり出さなかった。彼は云おうか止よそうかと思って迷った。けれども時に一寸いっすんの容赦ようしゃもなかった。反吐へどもどしていればいるほど形勢は危あやうくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪かんはつを容いれずという際きわどい間際まぎわに、旨うまい口実が天から降って来た。
「車夫くるまやが帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
 幸いお延がお秀の後を追おっかけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中ぐうちゅうの功こうを奏した時、津田は再度の胸を撫なで下おろした。
0880Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:34:53.210
百四十九

 遮二無二しゃにむに津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子ひょうしに気が抜けたので、一息ひといきに進むつもりの彼女は進めなくなった。津田はそこを覘ねらった。
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
 お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」
0881Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:35:03.350
「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦くになるはずはないんです。それを肝心かんじんのあなたが……」
 お延は行きつまった。彼女には明暸めいりょうな事実がなかった。したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬ひとすくい掬った。
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑よりかかって安心していたらいいじゃないか」
 お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」
0882Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:35:12.440
「想像がつかない?」
「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも可哀相かわいそうだとも思って下さらないんです」
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
0883Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:35:25.900
 これだけ繰り返した津田はいったん塞つかえた。その後あとで継つぎ足たした文句はむしろ蹣跚まんさんとして揺ゆらめいていた。
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁いんねんがあれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」
 お延の声は緊張のために顫ふるえた。
「あなた。あなた」
 津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑よりかかり所のない女なんですから。あなたに外はずされると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」
0884Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:35:37.930
津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
 お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」
 津田は面喰めんくらった。彼の心は波のように前後へ揺うごき始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚さらけ出だしてしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩たたきつけないはずはあるまいとも考えた。
0885Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:35:49.790
 彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低こうていを描いて彼の心を上下うえしたへ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済すますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止よそうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
 お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協だきょうはできないかね」
0886Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/22(金) 14:38:24.400
百五十

 妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事しんじを説明するには極きわめて穏当であった。
実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚はらにあった事はたしかであった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮こうふんはようやく喰くいとめられた。
感情の潮うしおがまだ上のぼりはしまいかという掛念けねんで、暗あんに頭を悩ませていた津田は助かった。
次の彼には喰いとめた潮うしおの勢いきおいを、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。彼はお延を慰めにかかった。
彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側そとがわにもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者こうしゃも心得ていた。
彼の努力ははたして空むなしくなかった。お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇よみがえった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
0887Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:38:35.410
 こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損そくねた波瀾はらんはようやく収まった。
けれども事前じぜんの夫婦は、もう事後じごの夫婦ではなかった。彼らはいつの間にか吾われ知らず相互の関係を変えていた。
 波瀾の収まると共に、津田は悟った。
0888Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:38:47.000
「畢竟ひっきょう女は慰撫いぶしやすいものである」
 彼は一場いちじょうの風波ふうはが彼に齎もたらしたこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、
苦手にがての感をどこかに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前げんぜんした。
それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚みなされる彼女の機略きりゃくであるか、
あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖かいぼうは彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。
しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他ひとに洩もらした事のない事実に違いなかった。
だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。
簡単に云えば、彼はなるべく己おのれを尊とうとく考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、
いつでも敗者の位地いちに立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心しんから帰服するのではなかった。
0889Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:38:58.190
堂々と愛の擒とりこになるのではなくって、常に騙だまし打うちに会っているのであった。
お延が夫の慢心を挫くじくところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌きらいな津田も、
残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。
この特殊な関係を、一夜いちやの苦説くぜつが逆さかにしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。
彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手うわてを引くように見えて、実は偽りのない下手したでに出たお延という女を見た例ためしがなかった。
弱点を抱だいて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸めいりょうであった。彼はようやく彼女を軽蔑けいべつする事ができた。
同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。
 
0890Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:39:11.410
お延にはまたお延で波瀾後はらんごの変化が起りつつあった。
今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝つく方に心を奪われ過ぎたため、
ついぞ露あらわした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。
夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。
もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、
頭を下げて憐あわれみを乞うような見苦しい真似まねはできないという意地に過ぎなかった。
もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。
のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。
そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊こわすのと同じ結果に陥おちいるのは明暸であった。
不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進まいしんした。それでとうとう破裂した。
0891Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:39:21.300
破裂した後で彼女はようやく悔いた。仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。
彼女は自分の弱点を浚さらけ出すと共に一種の報酬を得た。
今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。
彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。彼は明らかに妥協という字を使った。
その裏に彼女の根限こんかぎり掘り返そうと力つとめた秘密の潜在する事を暗あんに自白した。自白?。彼女はよく自分に念を押して見た。
そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜くやしがると同時に喜こんだ。
彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
0892Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:46:27.530
百五十一

 けれども自然は思ったより頑愚かたくなであった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機はずみからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
 それは昂奮こうふんしたお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾はらんの結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」
「ここを出たらすぐ行こうよ。身体からだのためにもその方が都合がよさそうだから」
「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」
0893Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:46:40.000
 津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」
 気の緩ゆるんだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別ふんべつするうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
「ね、行ってもいいんでしょう」
「そうだね」
「いけないの」
「いけない訳もないがね……」
0894Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:46:49.670
 津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑さいぎの眸ひとみが一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻さっきの波瀾から来た影響は彼にもう憑のり移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫いぶ」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提ひっさげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰もらいたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」
「ああ嬉うれしい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
0895Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:46:58.050
 お延は厭いやな顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅うちはどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな呑気のんきな事を云っちゃ困るよ」
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
0896Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:47:07.710
 お延は続けざまに留守居るすいとして適当な人の名を二三挙あげた。津田は拒こばめるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目だめだよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
 お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
0897Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:47:15.420
 津田は断乎だんこたる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
 藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空あいた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」
0898Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:47:24.770
 この辺で話を切り上げようとした津田は的あてが外はずれた。お延は掴つかんだ袖そでをなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解わかってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然はっきり云ってちょうだいよ」
0899Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:47:33.430
 せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳いいわけを思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰もらうんだからね。他ひとの金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
0900Ms.名無しさん
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2021/10/22(金) 14:47:43.720
 津田はまた行きつまった。そうしてまた危あやうい血路けつろを開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度こんだ遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想かわいそうだよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
 お延は固もとより満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
0901Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 03:38:08.840
百五十二

 後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。
小林に対する友誼ゆうぎを満足させるため、かつはいったん約束した言責げんせきを果すため、
津田はお延の貰もらって来た小切手の中うちから、その幾分を割さいて朝鮮行の贐はなむけとして小林に贈る事にした。
名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。
もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。
小林のような横着おうちゃくな男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅すみからも出るはずはなかった。
のみならず彼女はややともすると、強しいてそれを断行しようとする夫の裏側を覗のぞき込むので、津田はそのたびに少なからず冷々ひやひやした。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
0902Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 03:38:26.760
 こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張いってんばりでそれを相手にする気色けしきを見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸めいりょうになれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
0903Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 03:39:14.010
 津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。
彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧ふるい交際と、その交際から出る懐なつかしい記憶とを挙げた。
懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡ひろげた。
それでも腑ふに落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道じんどうまで云々した。
しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説こうりせつに帰着するので、彼は吾われ知らず自分の拵こしらえた陥穽かんせいに向って進んでいながら気がつかず、
危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下しものようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。
それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴やつさ。
しようのない奴には違ちがいないけれども、あいつがこうなった因おこりをよく考えて見ると、何でもないんだ。
ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。
ところがあいつは愚図ぐずでもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。
不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。
つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
0904Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 03:39:40.070
 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止とどまる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞やけくそになってる人間に逆さからうと何をするか解わからないんだ。
誰とでも喧嘩けんかがしたい、誰と喧嘩をしても自分の得とくになるだけだって、現にここへ来て公言して威張えばってるんだからね、実際始末に了おえないよ。
だから今もしおれがあいつの要求を跳はねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。
復讐かたきうちをやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体せけんていがあり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵かないっこないんだ。解ったかね」
0905Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 04:36:46.720
 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩くずれてしまう。
しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭うなずくよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口あっこうするだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。
まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。
どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰もらうのが上策なんだ。
でないといつどんな目に逢あうか解ったもんじゃない」
0906Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 04:37:19.480
 こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖こわがる因縁いんねんがないじゃありませんか」
 二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。
0907Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 04:37:38.540
それを自分の小遣こづかいとして、任意に自分の嗜慾しよくを満足するという彼女の条件は直ただちに成立した。
その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。
そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
 うそ寒さむの宵よいに、若い夫婦間に起った波瀾はらんの消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。
0908Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 04:37:55.400
百五十三

 津田の辛防しんぼうしなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極しごく好い具合です。出血も口元だけです。内部なかの方は何ともありません」
 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止とまりませんか」
「いや、もうほとんど止まりました」
0909Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 04:39:29.500
 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒なおりました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場いちじょうの問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損そくなったらどうなるんでしょう」
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
0910Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 06:13:17.840
「出るのは明後日みょうごにちぐらいで差支えありません」
 津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、
かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽そこつな遣口やりくちであった。
彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚はらの中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。
彼は訊きかないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋かつやくきんを切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰つめられるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜はすに三分ほど削けずり上げた所があるのです」
 津田はその晩から粥かゆを食い出した。久しく麺麭パンだけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。
趣味として夜寒よさむの粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵よいの冷たさを対照に置く薄粥うすがゆの暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜すする事ができた。
0911Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:14:15.090
療治の必要上、長い事止とめられていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。
さほど苦くにもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体からだの楽になった彼は、寝転ねころんでただ退院の日を待つだけであった。
 その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「宅うちの方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
0912Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:14:28.350
 津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵こしらえてくれた※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍どてらで助かったよ。
綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」
 お延は笑いながら夫を冷嘲ひやかした。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞せじが旨うまくおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」
0913Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:14:42.410
 お延は問題の※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。
津田はその時着物を着換えていた。絞しぼりの模様の入った縮緬ちりめんの兵児帯へこおびをぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作しょさであった。
それほど軽く※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍の中味を見ていた彼の愛嬌あいきょうは、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。
彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質ものが悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」
0914Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:16:40.510
 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動せんどうしていた。
※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)袍どてらは何かの象徴シンボルであるらしく受け取れた。
多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯へこおびの先をこま結びに結んだ。
 やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
 多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
0915Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:47:17.410
百五十四

 目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用いりようの金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ止よした方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお逢あいになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」
 
0916Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:47:32.730
お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談じょうだんに押すと、押したこっちがかえって手古摺てこずらせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面まともに断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目ふまじめな方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例ためしがないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固もとより本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日こんにちまでそれほど感服に値する勇気を拝見した覚おぼえもないようだね」
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
0917Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:47:55.300
津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
 この好い加減な無駄口の前に、お延は微かすかな溜息ためいきを洩もらした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって駄目だめだ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻しりを持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」
0918Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:48:15.960
 苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊きき返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解わからないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴つかむような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
0919Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 06:50:16.090
 津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終しじゅうそう思ってるの、いつか一度このお肚なかの中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ちがいないって」
「いつか一度? だからお前のは妄想もうぞうと同おんなじ事なんだよ」
「いいえ生涯しょうがいのうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵かなわない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻さっきから云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
 真面目まじめなお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄いじくり廻していた鳥の翅つばさが急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
0920Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 06:55:57.030
 彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
 こう云って立ち上がった彼の後あとを送って玄関に出たお延は、帽子ぼうしかけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
 津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
0921Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 08:54:04.060
百五十五

 小林と会見の場所は、東京で一番賑にぎやかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅うちへ誘いに寄って貰もらう不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪たずねてやる面倒を省はぶくため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
 その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談ざだんをしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒つうようを彼に与えるに足りなかった。有体ありていに云えば、彼は小林に対して克明に律義りちぎを守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後おくらせても、放縦ほうしょうな彼の鼻柱を挫くじいてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客しゅかくの位地いちをあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢きょうまんを未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
 
0922Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 08:54:22.290
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見ひやかして、慾よくの皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦じらしてやろうとまで思案した。
 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光あかりの数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光あかりと共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除よけて、四辺あたりを見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
0923Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 08:54:35.570
 もうだいぶ待ち草臥くたびれているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地いちは津田の降りた舗床ペーヴメントと車道を一つ隔へだてた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮さえぎる便利があった。のみならず小林は真面まともにこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談たちばなしをしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停とまった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見よそみをしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩くずさない彼らの体ていが、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目まじめな用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸めいりょうに解わかった。
 二人の後うしろには壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌ようぼうを明かに認める事ができた。蒼白あおじろい血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈かり込まない※(「參+毛」、第3水準1-86-45)々さんさんたる髪の毛と共に、彼の視覚を冒おかした。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵きびすを回めぐらした。そうして二人の立っている舗道ほどうを避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
0924Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 08:57:04.510
 彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣おもむきは見出みいだされなかった。それにもかかわらず彼は到いたる処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋とうぶつやの店先に飾ってあるハイカラな襟飾ネクタイを見た時に、彼はとうとうその家うちの中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
 もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作れんがづくりで窓が高いのと、模様のある玉子色の布きぬに遮さえぎられて、間接に夜よの中へ光線が放射されるので、通とおり際ぎわに見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉ガスだんろを供えた品ひんの好い食堂であった。
0925Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:00:58.540
 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西フランスとかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨うまいのだと友人に教えられたのが原もとで、四五遍食いに来た因縁いんねんを措おくと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
 彼は容赦ようしゃなく扉とびらを押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰てもちぶさたででもあるような風をして、真面目まじめな顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
0926Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:18:06.450
百五十六

 小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐すわっている食卓テーブルの傍そばまで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
 小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
0927Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:22:27.500
 津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
 二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装みなりをした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔へだてて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉ガスストーブの火の色が、白いものの目立つ清楚せいそな室へやの空気に、恰好かっこうな温ぬくもりを与えた。
0928Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:27:54.160
 津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
 二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装みなりをした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔へだてて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉ガスストーブの火の色が、白いものの目立つ清楚せいそな室へやの空気に、恰好かっこうな温ぬくもりを与えた。
0929Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:28:10.090
 津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭かげで無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場バーの光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅うちは。ちょっと綺麗きれいで心持が好いじゃないか」
 小林は気がついたように四辺ぐるりを見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
0930Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:30:06.890
 小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
 ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
 津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装なりをしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確たしかだろう。僕のような田舎いなかものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉ひにくるな」
0931Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:32:30.970
 津田は少し悪い気色きしょくを外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開あいていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
 津田は空そらっ惚とぼける事の得意なこの相手の前に、真面目まじめな返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰くらわしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談じょうだんじゃない」
「本当に笑談じょうだんじゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐りこう過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障さわらず話を傍わきへ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕つらまらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味まずいかい」
「不味かない、旨うまいよ」
0932Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 09:40:55.150
「そりゃ好い案配あんばいだ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵かなわないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品いっぴん料理と同おんなじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
 津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西フランス料理だから旨いの、英吉利イギリス料理だから不味いのって、そんな通つうをふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由わけが解わからなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢ひもじいから旨いのさ。その他に理窟りくつも糸瓜へちまもあるもんかね」
 津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応こたえるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
0933Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 10:10:59.040
百五十七

「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物どんぶつは、あらゆる点で軽蔑けいべつに値あたいしているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草いいぐさがあるんだ。僕の鈍どんは必ずしも天賦てんぷの能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」
 この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんには、わざと酔の力を藉かろうとする欝散うっさんの傾かたむきが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うけがうべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出みいだした。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行ちょうせんいきを送る訳がないからね」
「ありがとう」
「いや嘘うそじゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴きかせたくらいだもの」
0934Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 10:11:12.000
 胡散臭うさんくさいなという眼が小林の眉まゆの下で輝やいた。
「へええ。本当ほんとかい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」
 津田は黙って懐ふところへ手を入れた。小林はその所作しょさを眺めながら、わざとそれを止やめさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗きれいに持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇ちゅうちょした。その代り話頭わとうを前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
 津田は逆さからわなかった。
0935Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 10:34:03.230
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日きょうまでぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧ぜいたくざんまいわがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
 津田は薄笑いをした。小林は真面目まじめであった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較みくらべればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
 津田は心の中うちでその幾分を点頭うなずいた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終しじゅう君に軽蔑けいべつされる、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻さっき云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地いちが変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
0936Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 10:40:06.690
 小林はここまで来て少し昂奮こうふんしたような気色けしきを見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭いやになってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫とんざしてからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑けいべつの結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕こんゆうの好意に対して、僕はまた留別りゅうべつのために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文いちもんなしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走ごちそうになって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西フランス料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場バーの酒も、どっちも無差別に旨うまいくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終しじゅうぐらついてるよ。度胸が坐すわってないよ。厭いやなものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追おっかけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利きくためさ。贅沢ぜいたくをいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
 津田はてんから相手を見縊みくびっていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
0937Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 11:14:32.700
百五十八

 しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴てんてつされながら、前後の勢いきおいですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明そうめいな君を煩わずらわしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟えりを正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻ひがみでも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞なめていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩かのはいにおいてをやだ」
 彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指さすのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
0938Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 11:15:42.890
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言じょごん――だか忠告だか、
または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。
頭では解る、しかし胸では納得なっとくしない、これが現在の君なんだ。
つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳はねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。
人間の境遇もしくは位地いちの懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。
それをもっと判然はっきり云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違ちがいだろうじゃないか。
だからさ、順境にあるものがちょっと面喰めんくらうか、迷児まごつくか、蹴爪けつまずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。
しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝いっちょう事があったとすると、
君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目だめなんだからおかしいや」
0939Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 11:17:02.890
 小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊きかれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声かけごえと共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚はばかりながらここまで来るには相当の修業が要いるんだからね。
いかに痴鈍ちどんな僕といえども、現在の自分に対してはこれで血ちの代しろを払ってるんだ」
 津田は小林の得意が癪しゃくに障さわった。此奴こいつが狗いぬのような毒血を払ってはたして何物を掴つかんでいる? 
こう思った彼はわざと軽蔑けいべつの色を面おもてに現わして訊きいて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
 小林は嬉うれしそうに身体からだを椅子いすの背に靠もたせかけてまた笑い出した。
0940Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 11:18:12.700
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺つぼなんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。
思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
 津田は厭いやな顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑けいべつに対する僕の復讐ふくしゅうがその時始めて実現されるというだけさ」
 津田は言葉を改めた。
0941Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 11:20:35.510
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、
こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙おつに高くとまって平気でいるじゃないか。
つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
 津田は一気に洋盃コップを唇くちびるへあてがって、ぐっと麦酒ビールを飲み干した小林の様子を、少し呆あきれながら眺めた。
0942Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 14:39:58.110
百五十九

 小林は言葉を継つぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。
女伴おんなづれの客のうち、一組の相手は洗指盆フィンガーボールの中へ入れた果物を食った後の手を、袂たもとから出した美くしい手帛ハンケチで拭いていた。
彼の筋向うに席を取って、先刻さっきから時々自分達の方を偸ぬすむようにして見る二十五六の方は、※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)
茶碗コーヒーぢゃわんを手にしながら、男の吹かす煙草たばこの煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、
彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」
 津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
0943Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 14:40:37.320
「おいもう好い加減に止よせよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎つつしんでくれ、こんな所へ来て」
「厭いやに小心だな。おおかた場末の酒場バーとここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢ぶらいかんをこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
0944Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 14:43:45.310
 津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑けいべつしてやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁へとも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅うるさい男だな」
 小林はむっとした津田の顔を覗のぞき込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、
いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻さっきから云うんだ、実地を踏んで鍛きたえ上げない人間は、
木偶でくの坊ぼうと同おんなじ事だって」
「そうだそうだ。世の中で擦すれっ枯からしと酔払いに敵かなうものは一人もないんだ」
0945Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 14:45:34.070
 何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴おんなづれの方を一順いちじゅん見廻した後で、云った。
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
 津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕つらまえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱しかられたね。
君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。
それで僕は君に訊きいたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」
 小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛ハンケチで手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。
残る一人いちにんも給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」
 小林は出て行く女伴の後影うしろかげを見送った。
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」
0946Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 14:47:14.640
 彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西フランス料理と英吉利イギリス料理を食い分ける事ができずに、糞くそと味噌みそをいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。
たかが口腹こうふくの問題だという顔をして高を括くくっている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」
 津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻ひるがえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑けいべつされながら、君より幸福だと主張するごとく、
婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚はばからないのだ。
つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。
しまいには、あれも厭いや、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物くいものだと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、
これから僕が論じようというんだ」
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」
 二人は顔を見合わせて苦笑した。
0947Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 16:09:22.370
百六十

 小林は旨うまく津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際きわどい所へ入り込まなければならなくなった。
「例たとえばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子きよこさんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何なんでもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変淡泊さっぱりしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙おつに気取きどって澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目でたらめをむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後あとを知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
0948Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 16:14:47.150
「実はどうしたんだ」
「実はこの間あいだ君の細君にすっかり話しちまったんだ」
 津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
 小林は相手の調子と顔つきを、噛かんで味わいでもするように、しばらく間まをおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘うそだよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云いつけられたって」
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
0949Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 16:27:03.910
 津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子いすに腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人レデーが驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢ぶらいかんといっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」
 彼は給使きゅうじの女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人怒おこる訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末てんまつはどうしたのかね。僕は詳しい事を聴きかなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構おおかまいだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻さっきから僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ぜいたくならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太じだんだを踏んで口惜くやしがる」
「いつそんな様ざまを僕がした」
0950Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 16:32:39.580
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟たたられている所以ゆえんだね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤ひんせんが富貴ふうきに向って復讐ふくしゅうをやってる因果応報いんがおうほうの理だね」
「そう頭から自分の拵こしらえた型かたで、他ひとを評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
 教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延のぶさんを貰もらったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢ぶらいかんだね。観察の下卑げびて皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野そやなところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑けいべつに値あたいする所以ゆえんなんだ」
「もちろんさ」
0951Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 16:35:42.160
「そらね。そう来るから畢竟ひっきょう口先じゃ駄目だめなんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦すれっ枯からしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動せんどうして無役むえきの負戦まけいくさをさせるんだ」
 津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別せんべつの用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭いやになるだけだから」
 小林は新らしい十円紙幣さつの二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
0954Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 20:23:48.630
百六十一

 小林は受け取ったものを、赤裸あかはだかのまま無雑作むぞうさに背広せびろの隠袋ポケットの中へ投げ込んだ。彼の所作しょさが平淡であったごとく、彼の礼の云いい方かたも横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
 津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰もらってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下みおろすような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬てんしゅんの間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然はっきり云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
0955Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 20:24:45.810
「何を云うんだな禅坊主の寝言ねごと見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻さっきから攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
 小林は眼をぱちぱちさせた後あとでこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌てのひらを見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子きこうしよだ」
0956Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/23(土) 20:31:22.210
 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
 彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
 小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋ポケットを、わざとらしく軽く叩たたいた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送じゅんおくりに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行ぎゃっこうしないよ」
0957Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 20:38:39.740
 津田はほぼ小林の言葉を、意解いかいする事ができた。しかし事解じかいする事はできなかった。したがって半醒半酔はんせいはんすいのような落ちつきのない状態に陥おちいった。そこへ小林の次の挨拶あいさつがどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁きべんを首肯しゅこうするよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩手古摺てこずらされた酒場バーの光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉まゆをひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆さかに解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例たとえばだね、君がこの間僕の留守へ外套がいとうを取りに行って、そのついでに何か妻さいに云ったという事も――」
 津田はこれだけ云って暗あんに相手の様子を窺うかがった。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度そんたくする事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割さくような悪戯いたずらをしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚おぼえはないよ」
0958Ms.名無しさん
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2021/10/23(土) 20:40:34.370
「しかし先刻さっき……」
「先刻は笑談じょうだんさ。君が冷嘲ひやかすから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊きき糺ただして見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中うちで思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍そばに立った。
0959Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 04:30:24.860
百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談たちばなしをしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗あんにこの男を待ち受けていた期待も交まじっていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
 実を云うと、自働車の燭光あかりで照らされた時、彼の眸ひとみの裏うちに映ったこの人の影像イメジは津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際つきあってるのかな」
 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後あとなので、新来者に対する彼の態度も自おのずから明白であった。彼は突然胡散臭うさんくさい人間に挨拶あいさつをされたような顔をした。
 上へ反そっ繰り返った細い鍔つばの、ぐにゃぐにゃした帽子を脱とって手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴ひとなれない野育ちの自尊心とが錯雑さくざつして起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭いやな気持になった。小林は青年に向って云った。
0960Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 04:30:48.820
「おいマントでも取れ」
 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽かっぱをすぽりと脱いで、それを椅子いすの背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介ひきあわせた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨うまく行ったかね」
 これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だめだろう。駄目にきまってるさ、あんな奴やつ。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」
0961Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 04:32:39.670
 小林はたちまちナイフを倒さかさまにして、やけに食卓テーブルを叩たたいた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
 やがて原の前にあった洋盃コップの中に麦酒ビールがなみなみと注つがれた。
 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合つきあいを長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家うちへ持って行って見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。
0962Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 04:34:12.320
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
 青年は傷きずつけられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘うそを云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
 津田はだんだん辛防しんぼうし切れなくなって来た。
0963Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 04:35:57.420
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足ひとあし先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止とめながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚素敵すてきに好いのが描かいてあるんだ。それを買おうという望手のぞみての所へ価値ねだんの相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨うまい機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切ねぎり倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻さっきあすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他ひとに絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲まき上げられてしまうだけだぜ」
 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐ついた。
0964Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:02:54.310
百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派さんかくはとか未来派みらいはとかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴きいた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処いずこにも興味を見出みいだし得なかった彼は、会談の圏外けんがいへ放逐ほうちくされるまでもなく、自分から埒らちを脱ぬけ出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭いやがらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通はんかつうとして、最初から取扱っていた。彼はこの偏見プレジュジスの上へ、乙おつに識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨うらやましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直じきだ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他ひとに恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉フォークで突き差した手を止やめた。
「どうぞお構いなく」
0965Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:03:10.300
 津田が軽く会釈えしゃくを返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心かんじんのお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴やつが世の中にいるんだから厭いやになるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少すこしいろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝けちな事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐すわらなくっちゃ」
0966Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:05:38.410
 仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂たもとから煙草を出して火を点つけた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸ざんがいでもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑のもうとする一本も、三分経たつか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻さっきから云ってるじゃないか」
 小林は右の手で背広せびろの右前を掴つかんで、左の手を隠袋ポケットの中へ入れた。彼は暗闇くらやみで物を探さぐるように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終しじゅう眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景シーンが、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想もうぞうが、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠かすめて過ぎた。
「此奴こいつは懐ふところから短銃ピストルを出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
 芝居じみた一刹那いっせつなが彼の予感を微かすかに揺ゆすぶった時、彼の神経の末梢まっしょうは、眼に見えない風に弄なぶられる細い小枝のように顫動せんどうした。それと共に、妄みだりに自分で拵こしらえたこの一場いちじょうの架空劇をよそ目に見て、その荒誕こうたんを冷笑せせらわらう理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多めったに君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻さっき放ほうり込んだ札さつでも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片かみぎれと違って活きてるから。こうやって、手で障さわって見るとすぐ分るよ。隠袋ポケットの中で、ぴちぴち跳はねてる」
 小林は減らず口を利ききながら、わざと空むなしい手を出した。
0967Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:07:35.070
「おやないぞ。変だな」
 彼は左胸部にある表隠袋おもてかくしへ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮つまみ出したものは皺しわだらけになった薄汚ない手帛ハンケチだけであった。
「何だ手品てづまでも使う気なのか、その手帛で」
 小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目まじめな顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩たたいた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
 彼の洋袴ズボンの隠袋から引き摺ずり出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴こいつを君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳わけゃないやね、少し長いけれども」
 封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
0968Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:09:57.380
百六十四

 ペンで原稿紙へ書きなぐるように認したためられたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。
のみならず宛名あてなは小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴きいた事もない全く未知の人であった。
津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。
けれども冷やかな無関心の傍かたわらに起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。
封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙けいしの上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。
あなたは定めて飽あきっぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。
またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜よるが不用心ぶようじんだから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番るすばんをしてくれ、
小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画えを習いに行くがいい。
0969Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 06:11:07.260
今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家うちの始末は心配するな、転居の金は出してやる。
――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当あてにした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。
ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻しりまで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、
僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。
叔父は僕の事を「宅うちの書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。
こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。
金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿はいていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。
叔父は明日あした金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫おくびにも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
 叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極きわめて冷やかな極めて吝嗇りんしょくな人達です。
0970Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:11:03.600
だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家うちへ帰って飯を食わして貰いました。
兵糧ひょうろうが尽きて焼芋やきいもや馬鈴薯じゃがいもで間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。
叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ていさいばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。
叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎いなかへ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。
訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、
苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持くいぶちでも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、
そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦あてこすりを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎なぞをかけたりします。
0971Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:11:54.440
 こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。
全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻窮きわまりなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟たたってくるんです。
それを他ひとに話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、
なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。
というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐こわくなって来るのです。
土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。
いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮さえぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。
あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。
僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。
物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。
ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管みゃくかんの中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。
僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。
この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷いちるもないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。
そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
 手紙はここで終っていた。
0972Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:37:23.370
百六十五

 その時先刻さっき火を点つけて吸い始めた巻煙草まきたばこの灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙けいしの上に落ちた。津田は竪横たてよこに走る藍色あいいろの枠わくの上に崩くずれ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
 その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目かいもく解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
 しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後うしろをふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日こんにちまでまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極きわめて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
 彼はそこでとまった。そうして※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊ていかいした。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
 彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
0973Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:41:12.890
 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
0974Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:43:52.210
 津田はまた躊躇ちゅうちょした。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸めいりょうにいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍にぶらせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止よそう」
 津田は先刻さっきの絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何なんでもかでも彼を物質上の犠牲者にし終おおせた上で、後あとからざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇おどかしたってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至ないしこの手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
0975Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 09:50:27.750
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋ポケットへしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
 彼はこう云って原の方を見た。
0976Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 10:40:42.670
百六十六

 小林の所作しょさは津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍おどった。憎悪ぞうおの電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体からだを通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑うたがいが閃ひらめいた。
「此奴こいつら二人は共謀ぐるになって先刻さっきからおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談たちばなしをしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後ご三人の間に起った談話の遣取やりとりとが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火しかけはなびのようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布テーブルクロースの上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺すれッ枯からしの拵こしらえ上げた狂言の落所おちだったのか。馬鹿奴ばかめ、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
 彼は傷きずつけられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切まくぎれに一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨うまくどさりと引繰ひっくり返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後あとの彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間まにか狼狽ろうばいの姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
0977Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 10:50:45.860
 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着ほうちゃくした。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇きかつがあった。掴つかみかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々真しんその物の発現であった。作りもの、拵こしらえ事、馴なれ合あいの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後あとから継ついで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣さつへ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥しりぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白あおじろい青年が、ついに紙幣さつの方へ手を出さないとすると、小林の拵こしらえたせっかくの狂言も半分はぶち壊こわしになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋ポケットから出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕つくろうのには便宜べんぎな方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷いちるの望を抱いだいた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
 やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐すわってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
0978Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 10:55:20.640
 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰もらったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理ロジックになるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗あぶらあせに対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財じょうざいだ。拾ったものが功徳くどくを受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
 忌々いまいましい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚おうような彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁ていさいの好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋しゅうろうに見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋ポケットへ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端ほりばたへ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜ほしづきよを仰いだ。
0979Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 12:49:22.270
百六十七

 間まもなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場ステーションへ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合じょうあいのない事夥おびただしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞いとまごいに行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日あしたから旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落しゃれてるな」
0980Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 12:51:10.940
「僕に云わせると、これも余裕の賜物たまものだ。僕は君と違って飽あくまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発けいはつされるよりも、事実その物に戒飭かいしょくされる方が、遥はるかに覿面てきめんで切実でいいだろう」
 これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵よいから持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲りゅういんが下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何いかんに関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄すてなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
 明あくる朝あさは風が吹いた。その風が疎まばらな雨の糸を筋違すじかいに地面の上へ運んで来た。
「厄介やっかいだな」
0981Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 12:54:45.790
 時間通りに起きた津田は、縁鼻えんばなから空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午ひるぐらいから晴れるかも知れないわね」
 お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後おくれると一日徒為むだになるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極とりきめは、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥たんすの抽斗ひきだしから自分の衣裳いしょうを取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
0982Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 12:59:47.410
 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽こっけいだからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜ゆうべ断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅うちにいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
 お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥くるまを駆って宅を出る事ができた。
 周囲の混雑と対照を形成かたちづくる雨の停車場ステーションの佗わびしい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符ちゅうとうきっぷを、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶あいさつをした。
「あいにくなお天気で」
 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
0983Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 14:58:12.570
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
 書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支さしつかえがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
 書生は手に持った果物くだものの籃かごを津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈えしゃくをした書生に、「どうぞ宜よろしく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
0984Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 14:58:44.050
百六十八

 お延の気を利かして外套がいとうの隠袋かくしへ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外そうがいの空模様はだんだん悪くなって来た。先刻さっきまで疎まばらに眺められた雨の糸が急に数を揃そろえて、見渡す限の空間を一度に充みたして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄すさまじく感ぜられた。
 雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮さえぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間すきまなく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒おかした時、彼は荒涼こうりょうなる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較くらべた。身体からだを安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝ついて外部そとへ出なければならない午後の心持を想像しながら、独ひとり肩を竦すくめた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子まどガラスを打つたびに、点滴の珠たまを表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好しじゅうがっこうの男が少し上半身を前へ屈かがめて、向側むこうがわに胡坐あぐらを掻かいている伴侶つれに話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路みちが壊れやしないかね」
0985Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:02:35.280
 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
 これが相手の答であった。相手というのは羅紗らしゃの道行みちゆきを着た六十恰好ろくじゅうがっこうの爺じいさんであった。頭には唐物屋とうぶつやを探さがしても見当りそうもない変な鍔つばなしの帽子を被かぶっていた。煙草入たばこいれだの、唐桟とうざんの小片こぎれだの、古代更紗こだいさらさだの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋ふくろものやへでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣づかいで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達かったつなこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
0986Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:07:23.950
 この挨拶あいさつのうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜ずぬけた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
 中折なかおれに駱駝らくだの外套がいとうを着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡ぬれると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介やっかいだよ。あの軽便へ雨曝あまざらしのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室へやの中へ入れて貰う事にしよう」
0987Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:10:10.910
 二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶かまへ穴が開あいて動いごけなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴やつを山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違ちげえねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他ひとを救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫ふるえちまわあね」
 津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委まかせようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数てすうを省はぶいた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結れんけつして「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
0988Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:20:35.290
百六十九

 汽車が目的の停車場ステーションに着く少し前から、三人によって気遣きづかわれた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収おさまり際ぎわの空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側がわに向って、ずんずん飛んで行った。そうして後あとから後からと、あたかも前に行くものを追おっかけるように、隙間すきまなく詰つめ寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中なかんずく一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配けはいを示した。
 思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻さっき会った二人伴ふたりづれの男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝あまざらしになるのを苦くに病んだほどの大嵩おおがさなものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺じいさんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊きいてみるんだ。だが大体たいてい間違まちがいはないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
 津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
0989Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:23:18.810
「あなたも湯治場とうじばへいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶つれを顧みた。中折なかおれの人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通てんがんつうに苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁かいかつな爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
0990Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:25:59.630
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体からだ一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向あつらえむきだあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋がっさいぶくろとこの大将のあの鞄かばんを差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝こらした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食ちゅうじきを認したためた。時間から云って、平常より一時間以上も後おくれていたその昼食は、膳ぜんを貪むさぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼せまっていた。彼は箸はしを投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場ステーションは、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭つりを受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏はさみを入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻さっきの二人連れと顔を合せた。
0991Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:27:41.390
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
 爺じいさんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝ひざかけを敷く余地を拵こしらえてくれた。
「今日は空すいてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月ふたつきに渉わたって、この線路に集ってくる湯治客とうじきゃくの、どんなに雑沓ざっとうするかをさも面白そうに例の調子で話して聴きかせた後あとで、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴つれてくるのは実際罪だよ。尻しりが大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨すしのように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍そばに腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。
0992Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:47:34.760
百七十

 軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際さいなどに、老人は急に彼を夢の裡うちから叩たたき起した。
「まだ仮橋かりばしのままでやってるんだから、呑気のんきなものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水でみずで押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵ののしった後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構ひとかまえの家を指さして、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家うちも去年波で浚さらわれちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
0993Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/24(日) 15:52:46.950
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応こたえるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着おうちゃくをきめ込みやがって、掛かけかえねえんでさあ」
 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切とぎれ目めには、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
 彼の頭の中は纏まとまらない断片的な映像イメジのために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場ステーションまで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物くだものの籃かごもあった。その葢ふたを開けて、二人の伴侶つれに夫人の贈物を配わかとうかという意志も働いた。その所作しょさから起る手数てかずだの煩わずらわしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山ぎょうさんな挨拶あいさつも鮮あざやかに描き出された。すると爺さんも中折なかおれも急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥たつを排してつかつか這入はいって来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場とうじばの中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
 汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配こうばいの急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆かけるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度いくたびも上あがったり下さがったりした。その山の多くは隙間すきまなく植付けられた蜜柑みかんの色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々るいるいと点綴てんてつしていた。
「あいつは旨うまそうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗きれいだよ」
 比較的嶮けわしい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場ステーションでもないそこに見えるものは、多少の霜しもに彩いろどられた雑木ぞうきだけであった。
「どうしたんだ」
0994Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 15:59:36.600
 爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
 この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折なかおれを見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
 急に予言者らしい口吻こうふんを洩もらした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄ろうする時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家うちを出る時に、水盃みずさかずきは済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶べんけいの立往生たちおうじょうは御免蒙こうむりたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
 爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独ひとり室内に坐すわっている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後うしろにして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
0995Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:03:38.260
 車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後おくれちまったよ、大将、お蔭かげで」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐かいがないだろう」
「全くだ」
 津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場ステーションで、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮ゆうぐれの空気の中に出た。
0996Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:09:42.850
百七十一

 靄もやとも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞せきばくたる夢であった。
自分の四辺しへんにちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横よこたわる大きな闇やみの姿を見較みくらべた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿たどろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面きちょうめんに云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、
いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、
――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那せつなから、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟たたられているのだ。
そうして今ちょうどその夢を追おっかけようとしている途中なのだ。顧かえりみると過去から持ち越したこの一条ひとすじの夢が、これから目的地へ着くと同時に、
からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。
したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。
自分の夢ははたして綺麗に拭ぬぐい去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村かんそんの中に立っているのだろうか。
眼に入いる低い軒、近頃砂利じゃりを敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾かたむきかかった藁屋根わらやね、黄色い幌ほろを下おろした一頭立いっとうだての馬車、
――新とも旧とも片のつけられないこの一塊ひとかたまりの配合を、なおの事夢らしく粧よそおっている肌寒はださむと夜寒よさむと闇暗くらやみ、
――すべて朦朧もうろうたる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、
その夢を抱だいてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。
0997Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:13:46.330
じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟ひっきょう馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
 この感想は一度に来た。半分はんぷんとかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具そなえて、
抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後あとの彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。
一分いっぷんの猶予ゆうよなく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊きいたり、
馬車に乗るか俥くるまにするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌あいきょうさえ、
自由自在に忙がしい短時間の間に操縦そうじゅうして退のけた。
 
0998Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:19:03.950
彼はやがて否応いやおうなしにズックの幌ほろを下おろした馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻さっきの若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
 若い男は津田の目指めざしている宿屋の手代てだいであった。
「ここに旗が立っています」
 彼は首を曲げて御者台ぎょしゃだいの隅すみに挿さし込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套がいとうの襟えりを立てた。
0999Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:20:56.870
「夜中やちゅうはもうだいぶお寒くなりました」
 御者台ぎょしゃだいを背中に背負しょってる手代は、位地いちの関係から少しも風を受けないので、この云いい草ぐさは何となく小賢こざかしく津田の耳に響いた。
 道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目さかいめには小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
 津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝さらして、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強しいて向うから口を利きこうともしなかった。
 すると突然津田の心が揺うごいた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭かげさまで」
「何人なんにんぐらい」
1000Ms.名無しさん
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2021/10/24(日) 16:21:12.460
 何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ふたつきですな、繁昌はんじょうするのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑ひまな時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
 清子の事を訊きく目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞つかえた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後あとで面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚よりかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
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