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☆★☆【夢】思春期の何でも語るスレ8【恋】☆★☆
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0001Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/12(火) 22:11:42.670
           
       ,,;⊂⊃;,、 。” カッパッパー♪
       (,,,・∀・)/》
      【(つ #)o 巛 しぬこと以外はかすり傷☆
     (( (ノ ヽ)
              
0002Ms.名無しさん
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2021/10/12(火) 23:45:33.050
           
このハゲーー!!ちーがーうーだーろー!

  ノノ ハ ∩           ちがうだろー!
 川*`ω´) ☆パーン
  ⊂彡〆⌒ヽ
     (。・_・。) < コロナで禿げ
0003Ms.名無しさん
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2021/10/12(火) 23:46:52.660
新川優愛

Q. 好きなアーティストは?

A. trf、GLAY、globe、プリンセス・プリンセス、
   the brilliant greenとかの'90年代J-POP! 
   それと、V系もよく聴くよ
0004Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:56:08.610
夏目漱石『明暗』



 医者は探さぐりを入れた後あとで、手術台の上から津田つだを下おろした。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前まえ探さぐった時は、途中に瘢痕はんこんの隆起りゅうきがあったので、ついそこが行いきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日きょう疎通を好くするために、そいつをがりがり掻かき落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
0005Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:56:22.610
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑の裡うちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言うそを吐つく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯を締しめ直して、椅子いすの背に投げ掛けられた袴はかまを取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒なおりっこないんですか」
「そんな事はありません」
0006Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:56:39.040
 医者は活溌かっぱつにまた無雑作むぞうさに津田の言葉を否定した。併あわせて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今いままでのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経たっても肉の上あがりこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思ひとおもいにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開せっかいです。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然てんねんしぜん割さかれた面めんの両側が癒着ゆちゃくして来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
0007Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:56:51.530
津田は黙って点頭うなずいた。彼の傍そばには南側の窓下に据すえられた洋卓テーブルの上に一台の顕微鏡けんびきょうが載っていた。医者と懇意な彼は先刻さっき診察所へ這入はいった時、物珍らしさに、それを覗のぞかせて貰もらったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影とったように鮮あざやかに見える着色の葡萄状ぶどうじょうの細菌であった。
 津田は袴を穿はいてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐ふところに収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇ちゅうちょした。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝みぞを全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
0008Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:57:15.030
 津田は思わず眉まゆを寄せた。
「私わたしのは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据すえた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
0009Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 03:57:32.040
「ええ。診察みた様子で分ります」
 その時看護婦が津田の後あとに廻った患者の名前を室へやの出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
0010Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:57:42.420


 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革つりかわにぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛とうつうがありありと記憶の舞台ぶたいに上のぼった。白いベッドの上に横よこたえられた無残みじめな自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸うなり声が判然はっきり聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾しぼり出だすような恐ろしい力の圧迫と、圧おされた空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇はげしい苦痛とが彼の記憶を襲おそった。
 彼は不愉快になった。急に気を換かえて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
0011Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:57:55.570
 荒川堤あらかわづつみへ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛とうつうについて、彼は全くの盲目漢めくらであった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時なんどきどんな変へんに会わないとも限らない。それどころか、今現げんにどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
0012Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:58:09.530
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後うしろから突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中うちで叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
0013Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:58:20.440
彼は思わず唇くちびるを固く結んで、あたかも自尊心を傷きずつけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣めづかいに対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道レールの上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日にさんち前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
0014Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:58:29.150
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当あて篏はめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後うしろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他ひとから牽制けんせいを受けた覚おぼえがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
0015Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:58:38.230
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰もらおうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅うちの方へ歩いて行った。
0016Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:59:23.760


 角かどを曲って細い小路こうじへ這入はいった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊ほそい手を額の所へ翳かざすようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍そばへ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚びっくりした。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注そそぎかけた。それから心持腰を曲かがめて軽い会釈えしゃくをした。
 半なかば細君の嬌態きょうたいに応じようとした津田は半なかば逡巡しゅんじゅんして立ち留まった。
0017Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:59:35.570
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀すずめよ。雀が御向うの宅うちの二階の庇ひさしに巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
0018Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 03:59:45.990
「洋杖ステッキ」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸こうしどを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後あとに跟ついて沓脱くつぬぎから上あがった。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢ひばちの前に坐すわるか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入しゃぼんいれを手拭てぬぐいに包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂ひとふろ浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫おっくうになるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭てぬぐいを受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
0019Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:00:05.400
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。室へやを出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診みて貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒なおってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、後あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
0020Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:00:16.130
 同じ話題が再び夫婦の間あいだに戻って来たのは晩食ゆうめしが済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵よいの口くちであった。
「厭いやね、切るなんて、怖こわくって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好かっこうの好い眉まゆを心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊きいた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
0021Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:00:26.910
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断ことわっちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭おいや?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩もらした。
0022Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:00:39.030


 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉まゆが一際ひときわ引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌あいきょうのない一重瞼ひとえまぶちであった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子ひとみは漆黒しっこくであった。だから非常によく働らいた。或時は専横せんおうと云ってもいいくらいに表情を恣ほしいままにした。津田は我知らずこの小ちいさい眼から出る光に牽ひきつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳はね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那せつな的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断しゃだんされた。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘うそよ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
0023Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:00:48.970
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中にさんちじゅうに端書はがきを出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止よしにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
0024Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:01:28.030
 津田は自分の受けべき手術についてなお詳くわしい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物できものの膿うみを出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤げざいをかけてまず腸を綺麗きれいに掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口きずぐちへガーゼを詰つめたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰くり上げて明日あしたにしたところで、明後日あさってにしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着むとんじゃくであると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢ながひばちの縁ふちに右の肘ひじを靠もたせて、その中に掛けてある鉄瓶てつびんの葢ふたを眺めた。朱銅しゅどうの葢の下では湯の沸たぎる音が高くした。
0025Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:08:59.890
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川よしかわさんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生ふだんからあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日あしたからすぐ入院しろって云うかも知れない」
0026Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:09:13.090
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
0027Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:09:38.780
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空あいてるもんだから、そこへ入はいる事もできるようになってるんだ」
「綺麗きれい?」
 津田は苦笑した。
「自宅うちよりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。
0028Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:10:48.100


 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢ひばちに倚よりかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
0029Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:11:00.420
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚こびようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃のがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊みくびった自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙って間あいの襖ふすまを開けて次の室へやへ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後うしろから声を掛けた。
0030Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:11:09.540
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
0031Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 04:11:23.360
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配こうばいの急な階子段はしごだんをぎしぎし踏んで二階へ上あがった。
0032Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:11:39.540
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載のせてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折しおりの挿はさんである頁ページを目標めあてにそこから読みにかかった。けれども三四日さんよっか等閑なおざりにしておいた咎とがが祟たたって、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差さした彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻ひるがえして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠りょうえんという気が自おのずから起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日こんにちまでにもう二カ月以上も経たっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物ぐぶつのように細君の前で罵ののしっていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽くすぐった。
0033Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 04:11:49.360
 しかし今彼が自分の前に拡ひろげている書物から吸収しようと力つとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多めったに実際の役に立った例ためしのない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯たくわえておきたかった。他の注意を惹ひく粧飾しょうしょくとしても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気おぼろげながら見えて来た時、彼は彼の己惚おのぼれに訊きいて見た。
「そう旨うまくは行かないものかな」
 彼は黙って煙草たばこを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早あしばやに階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。
0034Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:07:52.380


「おいお延のぶ」
 彼は襖越ふすまごしに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙からかみを開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢ながひばちの傍わきに坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点ついた室へやを覗のぞいた彼の眼にそれが常よりも際立きわだって華麗はなやかに見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出はでやかな模様もようとを等分に見較みくらべた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇ひおうぎ模様の丸帯の端はじを膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
0035Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:08:02.900
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締しめた事がないんですもの」
「それで今度こんだその服装なりで芝居しばやに出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何なんにも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉まゆをぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作しょさは時として変に津田の心を唆そそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側えんがわへ出て厠かわやの戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ふさぐようにして訊きいた。
0036Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:08:12.060
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢ながじゅばんよりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
0037Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:08:23.300
「郵便函ゆうびんばこの中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
 御延は玄関の障子しょうじを開けて沓脱くつぬぎへ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
0038Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:09:03.480
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻さっき飯を食う時に坐った座蒲団ざぶとんが、まだ火鉢ひばちの前に元の通り据すえてある上に胡坐あぐらをかいた。そうしてそこに燦爛さんらんと取り乱された濃い友染模様ゆうぜんもようの色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
0039Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:09:19.090
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着ゆきぎの荒い御召おめしの縞柄しまがらを眺めながら独ひとりごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄みえの強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。
0040Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:09:51.420


「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要いる間際まぎわになって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝ひざの上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空あいちまったんだそうだ。それから塞ふさがってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕つくろいだので、だいぶ臨時費が嵩かさんだから今月は送れないって云うんだ」
0041Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 06:10:20.630
 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢ひばちの向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当あてにしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦れんがの塀へいを一丁も拵こしらえやしまいし」
 津田の言葉に偽いつわりはなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月まいげつ息子むすこ夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出はで好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達わたしたちが要らない贅沢ぜいたくをして、むやみに御金をぱっぱっと遣つかうようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
0042Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:10:40.380
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計くらしを覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯としに変りはないかも知れないが、周囲ぐるりはまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊きくから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
 津田は平生ふだんからお延が自分の父を軽蔑けいべつする事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩もらさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
0043Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:10:58.210
 夫の手前老人に対する批評を憚はばかった細君の話頭わとうは、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語ひとりごとのように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
0044Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:11:19.340
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒らちは開あかないよ」
「でもほかに当あてがなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
0045Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:11:43.820
「そうね」
 その時津田は真まともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
0046Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:12:04.410


「厭いやよ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀よどみもなかった。遠慮と斟酌しんしゃくを通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停とめられた時のような衝撃ショックを受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
0047Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:12:16.850
「そうかい。それじゃ強しいて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬すくって追おい退のけるように遮さえぎった。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計くらしに困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥しりぞけたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄みえに制せられたのだという事がようやく津田の腑ふに落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
0048Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:12:37.950
「そんなに楽な身分のように吹聴ふいちょうしちゃ困るよ。買い被かぶられるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚おぼえなんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
 津田は追窮ついきゅうもしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切とぎらした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別ふんべつも出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
0049Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:12:51.020
「これどうかしましょうか」
 彼女は金きんの入った厚い帯の端はじを手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳かざした。津田にはその意味がちょっと呑のみ込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
0050Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:13:03.030
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段さんだんを、嫁に来たての若い細君が、疾とくの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑さげすむような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
0051Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 06:13:14.650
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑げびた真似まねをさせたくなかった。お延は弁解した。
「時ときが知ってるのよ。あの婢おんなは宅うちにいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書はがきさえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉うれしい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜ほこりを傷きずつけるという意味において彼は躊躇ちゅうちょした。
「まあよく考えて見よう」
 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上あがって行った。
0052Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 09:10:17.110


 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段はしごだんの途中で吉川に出会った。しかし彼は下くだりがけ、向むこうは上のぼりがけだったので、擦すれ違ちがいに叮嚀ていねいな御辞儀おじぎをしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯ひるめしに間もないという頃、彼はそっと吉川の室へやの戸を敲たたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草たばこを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
0053Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 09:10:32.080
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田は固もとより表向の用事で、この室へ始終しじゅう出入しゅつにゅうすべき人ではなかった。跋ばつの悪そうな顔つきをした彼は答えた。
0054Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 09:10:43.650
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後あとにしてくれたまえ。今少し差支さしつかえるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
0055Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:10:53.360
 音のしないように戸を締しめた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返にへんばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
0056Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:11:29.680
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使きゅうじに訊きいた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻さっき御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入でいりの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴つれて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執とった。
0057Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 09:11:39.580
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足後おくれて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋ポッケットから時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅うちへ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅うちまで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜くぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負しょって見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自みずから重んずるといった風の彼の平生の態度を毫ごうも崩くずさずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他ひとに見せたがるのと同じような心理作用の下もとに、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽あくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
0058Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:16:22.900


 厳いかめしい表玄関の戸はいつもの通り締しまっていた。津田はその上半部じょうはんぶに透すかし彫ぼりのように篏はめ込こまれた厚い格子こうしの中を何気なく覗のぞいた。中には大きな花崗石みかげいしの沓脱くつぬぎが静かに横たわっていた。それから天井てんじょうの真中から蒼黒あおぐろい色をした鋳物いものの電灯笠でんとうがさが下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例ためしのない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍そばにある内玄関ないげんかんから案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉こくらの袴はかまを着けて彼の前に膝ひざをついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑のみ込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊きいた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
0059Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:16:34.670
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭いやな顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆たばこぼんも運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
0060Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:16:45.080
 津田の挨拶あいさつに軽い会釈えしゃくをしたなり席に着いた細君はすぐこう訊きいた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅うちへいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下とししたの男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下めしたの男であった。
「まだ嬉うれしいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
0061Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:16:54.440
「ええもう半歳はんとしと少しになります」
「早いものね、ついこの間あいだだと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉うれしいところは通り越しちまったの。嘘うそをおっしゃい」
0062Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:04.510
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊さっぱりとおっしゃいよ」
0063Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:13.160
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定かんじょうです」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
0064Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:28.730
十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯からかった。機嫌きげんの好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談じょうだんとも真面目まじめとも片のつかない或物が閃ひらめく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質たちに出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥こだわった。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘ほじって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢たかぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充みちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間まにかそこへ引ひき摺ずり込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方がたの御年歯おとしを伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊きき方をしておいて、わざとその後あとをおっしゃらないんだから」
0065Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:38.570
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物きんもつよ。あなたがその癖をやめると、もっと人好ひとずきのする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応こたえる痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下みくだしていた。細君は微笑した。
「嘘うそだと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊きいて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
 津田の顔が急に堅くなった。唇くちびるの肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝ひざの上に落したぎり何も答えなかった。
0066Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:47.930
「解ったでしょう、誰だか」
 細君は彼の顔を覗のぞき込むようにして訊きいた。彼は固もとよりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫ごうもなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡うちに何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障さわったら堪忍かんにんしてちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
0067Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:17:57.090
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復かいふくした。
0068Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:18:06.170
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得とくなのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更ふけてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成ろうせいよ。本当に怜悧りこうな方かたね、あんな怜悧な方は滅多めったに見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
0069Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 09:42:48.780
【時事通信】
自民党公約発表。
岸田首相自身が発言を後退させた「令和版所得倍増」や金融所得課税見直しもなし、
分配政策の柱に据えた子育て世帯の住居費・教育費支援も盛り込まず、、
0070Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 10:10:40.830
十二

 その時二人の頭の上に下さがっている電灯がぱっと点ついた。先刻さっき取次に出た書生がそっと室へやの中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸おろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉ガスだんろの色のだんだん濃くなって来るのを、最前さいぜんから注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送もくそうした。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬レモンの一切ひときれを除よけるようにしてその余りを残りなく啜すすった。そうしてそれを相図あいずに、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固もとより単簡たんかんであった。けれども細君の諾否だくひだけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合くりあわせさえつけば」
 彼女はさも無雑作むぞうさな口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
0071Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 10:10:53.720
「じゃ好いじゃありませんか。明日あしたから休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他ひとのために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌きげんのいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉うれしかった。自分の態度なり所作しょさなりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
0072Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 10:11:02.220
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好すいていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打どやされた刹那せつなに受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕ゆたかにもっていた。彼はその自己をわざと押おし蔵かくして細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲なぶられる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚よりかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子いすを離れようとした時、細君は突然口を開ひらいた。
「また子供のように泣いたり唸うなったりしちゃいけませんよ。大きな体なりをして」
0073Ms.名無しさん
垢版 |
2021/10/13(水) 10:11:11.580
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙からかみの開閉あけたてが局部に応こたえて、そのたんびにぴくんぴくんと身体からだ全体が寝床ねどこの上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度こんだは大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅くちはばったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞みまいに来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
0074Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:11:21.200
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯からかうのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠くちごもって躊躇ちゅうちょした。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
0075Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:12:43.720
十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇よいやみの町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦ぎらつく肌合はだあいの七宝しっぽう製の花瓶かびん、その花瓶の滑なめらかな表面に流れる華麗はなやかな模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒あおぐろい地じの中に茶の唐草からくさ模様を浮かした重そうな窓掛、三隅みすみに金箔きんぱくを置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟しげきが、すでに明るい電灯の下もとを去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論この渦うずまく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻さっき彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆いりまめを口に入れた人のように、咀嚼そしゃくしつつ味わった。
0076Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:12:54.140
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中うちで自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露ばくろした人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
0077Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:13:03.010
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯からかうため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来他ひとに調戯う事の好すきな女であった。そうして二人の間柄あいだがらはその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦じらす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒らちを平気で跨またぐかも知れなかった。
0078Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:13:12.340
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負ひいきにし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端ほりばたを沿うて走るその電車の窓硝子まどガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠わだかまる黒い松の木が見えるだけであった。
0079Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:13:21.120
 車内の片隅かたすみに席を取った彼は、窓を透すかしてこのさむざむしい秋の夜よの景色けしきにちょっと眼を注いだ後あと、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕ゆうべはそのままにしておいた金の工面くめんをどうかしなければならない位地いちにあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻さっき事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気を利きかしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干らんかんの下に蹲踞うずくまる乞食こじきを見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套がいとうを着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉ガスだんろの温かい※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおをもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔けんかくは今の彼の眼中にはほとんど入はいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
0080Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:58:58.580
十四

 津田は同じ気分で自分の宅うちの門前まで歩いた。彼が玄関の格子こうしへ手を掛けようとすると、格子のまだ開あかない先に、障子しょうじの方がすうと開あいた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚びっくりしたように、薄化粧うすげしょうを施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先せんを越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利きいた証拠しょうこをも挙あげた。日常瑣末さまつの事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作しょさを、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀ナイフの光のように眺める事があった。小さいながら冴さえているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟とっさの場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊きく気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
0081Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:59:12.380
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢ひばちの前には黒塗の足のついた膳ぜんの上に布巾ふきんを掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据すえてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
 津田が一定の時刻に宅うちへ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢いきおい津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧あいまいなものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
0082Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:59:21.190
「あてて見ましょうか」
「うん」
 今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
0083Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:59:29.900
「よくあたるね」
「たいてい容子ようすで解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜ゆうべ吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾あたしあてるわ」
「そうか。偉いね」
0084Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:59:40.030
 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面くめんをしなければならないという屈託くったくがあった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方ちょうだつかたの胸に浮ばない彼を、なお焦いらつかせた。
0085Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 10:59:49.570
 彼は神田にいる妹いもとの事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹ぼうちょうという名義の下もとに、毎月まいげつの不足を、京都にいる父から填補てんぽして貰もらう事になった一面には、盆暮ぼんくれの賞与で、その何分なんぶんかを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行りこうしなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑いさぎよしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重ておもに書くのが得策だろうとも考えた。父母ふぼに心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢つやを着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜ゆうべお前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上あがって机の前に坐った。
0086Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:00:08.360
十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗ひきだしからラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆ペンや万年筆でだらしなく綴つづられた言文一致の手紙などを、自分の伜せがれから受け取る事は平生ひごろからあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱おいた。手紙を書いてやったところでとうてい効能ききめはあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯やぎひげを生やした細面ほそおもての父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。襖ふすまを開けて、二階の上あがり口ぐちの所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
0087Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:00:23.450
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽こっけいに聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前に粋いきな模様入の半切はんきれを拡ひろげて見た。
0088Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:00:32.460
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
0089Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:00:43.490
 津田は真面目まじめな顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差さした。
「時ときをちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
0090Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:00:53.540
 津田は生返事なまへんじをした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜くぐり戸どが開あいて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草たばこを吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方かみがたの悪口わるくちを云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩もらした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味みが解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手いってに引き受けたような自信に充みちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
0091Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:01:03.450
「御父さんが死んだ後あとで、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月まいげつ正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
 彼が父の機嫌きげんを損そこねないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認したため出したのは、それから約十分後ごであった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後あとで、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙まずい事につくづく愛想あいそを尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要いる期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函とうかんさせた後あと、彼は黙って床の中へ潜もぐり込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」
0092Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 11:24:45.570
【世論工作】「Dappi」だけじゃない。ネトサポやバイト、カルト信者を使った自民党「野党攻撃」 
中国の五毛党と変わらぬ日本の惨状
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634083864/&;tid=1335241739
0093Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:23:17.830
十六

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日きのう宅うちへ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
0094Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:23:26.850
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子こようじを口から吐き出した。それから内隠袋うちがくしを探さぐって莨入たばこいれを取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸マッチを擦すった。あまり気を利きかそうとして急せいたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章あわてて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
 津田は礼を云って室へやを出ようとした。吉川は煙けむりの間から訊きいた。
0095Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:23:35.280
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰くり合あわせをして貰う事にしてあります」
 佐々木は彼の上役うわやくであった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だめだ」
 吉川の言葉はよく彼の気性きしょうを現わしていた。
0096Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:23:45.060
「都合がよければ明日あしたからにしたまえ」
「へえ」
 こう云われた津田は否応いやおうなしに明日から入院しなければならないような心持がした。
 彼の身体からだが半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後うしろから呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
0097Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:23:55.540
 ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香においが急に冒おかした。
「へえ、ありがとう、お蔭かげさまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕ゆうべも岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂うわさをしたがね。岡本も羨うらやましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇ひまになったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
 津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨うらやましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固もとより自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後じせいおくれですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
0098Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:24:21.920
 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶あいさつに窮した。向うの口の重宝ちょうほうなのに比べて、自分の口の不重宝ぶちょうほうさが荷になった。彼は手持無沙汰てもちぶさたの気味で、緩ゆるく消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
 津田はこの子供に対するような、笑談じょうだんとも訓戒とも見分みわけのつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃のがれ出でた。
0099Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:25:34.870
十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、
停留所から賑にぎやかな通りを少し行った所で横へ曲った。
質屋の暖簾のれんだの碁会所ごかいしょの看板だの鳶とびの頭かしらのいそうな格子戸作こうしどづくりだのを左右に見ながら、
彼は彎曲わんきょくした小路こうじの中ほどにある擦硝子張すりガラスばりの扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴ベルが鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。
窓のないその室へやは狭いばかりでなく実際暗かった。
外部そとから急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。
彼は寒そうに長椅子の片隅かたすみへ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。
彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢ひばちの周囲まわりを取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁ふちに片手を翳かざしたまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜なめるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体からだを横にして洋袴ズボンの膝頭ひざがしらを重ねたまま。
0100Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:25:58.200
 電鈴ベルの鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥いちべつの後のちまた申し合せたように静かになってしまった。
みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。
単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚はばかって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
0101Ms.名無しさん
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2021/10/13(水) 13:26:09.200
 この陰気な一群いちぐんの人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華はなやかに彩いろどられたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦すくむようにして閉とじ籠こもっているのである。
 津田は長椅子の肱掛ひじかけに腕を載のせて手を額にあてた。彼は黙祷もくとうを神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
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